花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

心より、、ゆっくり療養されることを祈ります。

2020-08-28 19:23:24 | Weblog

突然の辞任会見をTVで拝聴しながらも、

    お疲れのご様子が、国民には、伝わってきました。

        お生まれの環境そのものが、

              ノーベル平和賞の佐藤首相

                  終戦の難しい軍とアメリカと政治の三角ゾーンんで

                      終戦の難しい時期に政治家でいらっしゃった

                         ご先祖の血筋を引いていられて、

                            世界中を飛び回って

                              日本の為に働かれていたことが

                                   ご病気で

                                      やむなく辞任となられたようですが

           健康が復活されれば、

                 一議員として、

                       体験からのご指導もいただけると思いますので

                            健康回復に専念していただき

                               多くの経験を

                                  伝えてくださることを

                                     祈っています。

     お疲れ様でしたと、、感謝しか有りません。

                  これからの世の中がどうなるのか、、、

                      一人一人が、、、頑張りますから、、、

                                健康回復を祈っています。

                               ご自愛くださいと、、、

                       自分の気持を、、、              

                                日記に書いておきます。

 

             

                 


生きてる手ごたえ

2020-08-26 02:35:02 | Weblog

 

                    

                                      直射日光を嫌う花ですよね、、、

                                

                        

 

         日本頑張れ!!、、、持久力を発揮!

                  

          

               命の旅を教えてくださった、、、国の母

                        

                   


子供心の系統樹

2020-08-25 03:51:39 | Weblog

日本は島国だという、、、

         私は、、、日本人の系図は、

                      学問的にも、眼には見えない部分で

              系統樹とおんなじような

                        面白さがあると思うのですよね。

 

                父は慈恵会医科大学を卒業しています。

              私が、右手に大やけどをしたおかげで、

                            毎日夕刻になると、

                                父の右手のマッサージを受けることが出来ました。

                「父親」を、医師として出会うきっかけになった

                              「大やけど、、、」

               父は「野口英世」の話をしてくれたり、

                      慈恵会医科大学を創立した高木先生が

                          軍艦一隻と言う、、、

                             閉ざされた状況で働く乗組員を、、、

 

                            実に

                同じ状況が続くというとことに、、、軍艦の試験管をそうぞうしたのでしょうか?

                森鴎外と、高木先生、、、医学者のドラマは専門家の間では有名なドラマです。

                 「脚気はビタミンが原因であると突き止められたいきさつ」を

                   夕刻のマッサージの時に

                 千夜一夜物語のように話してくれました。

 

          閉ざされた島国、、、

            閉ざされた軍艦、、、

                   閉ざされた集落、、、

                        閉ざされた状況を作った封建制度の風土。

 

     日本は、地続きの大陸とは異なって、、、

                   「天皇陛下のいらっしゃる、、、日の出国!」

                 武力で位を得た他国の王様とは、全く異質の

                  歴史そのものの、、、時代の象徴の皇室と

                親からも、学校からも教えられた。

                    その歴史的な存在を、政治も、軍も、末永く継承してゆく事を

                    歴史が導いている様な、、、判断が出来ない、、、時間の芸術以上の

                  何かを感じながら、、、私は、、、日本人であることを心の居場所にしてきた。

                  母は日本にクラシックの譜面を紹介された宮さまとも、

                   立場は違っても、クラシック音楽によって、同席したと聞いている。                                                

                            

                                              、母の卒業した女学校の思い出の地、新宮に連れて行ってもらった。

              母の旧姓と、、同じ名字の親戚が、あっちこちに有って

                、祖父がアメリカに行った後、

                 親戚の家で育った母の、

                  友人以上、兄弟未満の知人の家を泊まり歩いた。

 

                パルプ会社を経営していた、、、母の親戚、

                  大きな病院を経営していた母の従妹の嫁ぎ先

               佐藤春夫さんの妹さんと同級生だった母の、文学活動の、、、思い出の地。

                 音楽への活動仲間、、、

                    NHKのディレクターをしていた息子さんと、詩人仲間を

                       生き甲斐にしていた、、、パリ帰りの未亡人が

                         新宮女学校時代の、、、女学生の間で

                     あこがれの、フアッショナブルな学生だったことや

                  彼女が、画家と結婚して、、、夢のパリに行った事、、、

                    帰国したときの、、、素敵な羽根のついた帽子の話、、、

                           岸 恵子さんを想像しながら、、、聞いていた。

                      女学校時代の思い出の地を巡りながら、、、

                    長瀞の舟に乗った。

                      同行したおばさんは、、、花屋さんを経営していた。

                     母と私は、、、しばらく、、、花屋さんに宿泊した。

                      子供だった私に、花屋の叔母さんは言った。

                 「お母さんは、、、モダンガール???。。。だった。」

                     明治生まれの母が、袖なしの水着で友と海岸でいる写真!

                    ハンチングをかぶって、テニスラケットを抱えている、、、

                     胡坐をかいているのが、、、何とも素敵な写真。

                 おばさんは、、、花屋を切り盛りしながらも、、、

                     東京に出て行ったお母さんと、

               しばしば連絡を取り合っていた青春時代の母の事を

                   今も姉妹だと思っていると言った。

                     この写真は、、、司馬遼太郎さんの

                       街道を行だったかな?本にも出ていますが

                 疎開の時の小学校の遠足で、毎年行った思い出の地です、

            新宮はここから、古座に出て,、、汽車に乗ってゆくのですよネ、。。。楽しかった!

                   新宮はざお目の都でもありましたが、、、

                  古事記の主人公の神様を祭ってある「本宮 神社」が、、、長い階段の上に有りました。  

             紀州の殿さまも、やんごとなき方の本宮詣でに何度もおいでになったと、、、聞いた。     

                 西洋の文化と違うのは

                 いつの世にも、国民とともに、

                 畏れ多くも、血統が幾久しく引き継がれてこられた

                        天皇陛下

                   日本の象徴として、

                現在も今、国民とともに生きてくださっています。

                北海道に住むようになっても、

                    北の果てにまで、、、平成天皇と美智子皇后の

                         若き頃、御出でになった記念碑を見つけて

                此処は、、、日本なのだ!、、、孤独と緊張から解放された記憶が有りました。

                    

                    早朝のTVでいつも、楽しみに拝見していた皇居のお話し。

            このことは、陛下の学者でいらっしゃる私生活から

              日本の世界的な学者さんたちとの交流や、

                世界の学者さんたちとの、交流などから、TVは放送してくれました。

                    お茶の間で、ミスの向こうの方の日常がTVで観れる時代なんですよね!

                 スマホも、親戚も、友人も居ない北海道で、

                         孤独でなかったのは、、、日本は、、、日本だから!。

              日本の天皇家の純粋な世代交代の継続は

                 世界の宝物でもあるはずです。このような文化の国はほかには有りませんもの!、

              大いなる歴史とともに在り続けている日本の文化の要素を守られてきたのは

                  皇室が続いてきたことが、

                     多くの文化が継承されて来たことだと私は父母から聴いて育った。

                 華やかな一面、、、平成天皇だった陛下の

                            孤独なお立場に

                              美智子様が、

                           「命の旅」を共に歩まれた。

                          美智子様の「命の旅」の単行本を読みながら

                         北海道に住んでいても、いつも、東京近くに有りました。

                    祖父は月刊誌の昭和天皇の特別号を大切にしていたのを思い出します。

 

                        昭和天皇陛下の、生涯を、父母は、

                    感謝しか、、、表現のすべはないとも言っていた。

                    それほど、、、ご苦労な時代を、国民とともに歩いてくださった。

                

                  戦争が起きたことは、、時代の流れのなかでの、、、成り行きじゃったそうな、、、。

 

                  原子爆弾と言う、、、地球破壊兵器が使われた、、、

                   終戦の玉音放送は

                           日本国籍の男女子供、

                          総勢が国土決戦の玉砕を覚悟の国民の耳に

                                  響いてきたと、

                                  祖父は言っていました。

                    昭和天皇陛下は、、、

                       核戦争の未来をストップさせてくださった。

                       日本の玉砕を救ってくださったと。

                      いいえ、、人間が人間で無くなる様な

                      ルール違反の核戦争を、、、終わらしてくださった。

                     二度と、、、核戦争は起こしてはなりません。

                     耐えがたきを耐えて、、、世界の未来を破滅させる核戦争を終わらしてくださった。

                    日本は、戦後を生き抜いて、復興してきたのです。

                             学校で習う教科書には

                  軍部の勇み足が、、、ウンヌン、、、

                       時代を読み切れなかったのかもしれません。

                   戦争中は赤ん坊だった私は、、、こうして

                76歳になって、、、今を生きていられるのが、、、感謝しか、、、ありません。

              昭和生まれは、、、どんな時も、、、「不要不急」の毎日を過ごしてきました。

                     振り返ると、、、人間も、、、時代とともに変化し続けていますよね、、、。

               江戸時代まで、、、刀を差して、丁髷を湯って、、、腹切をしていた日本!

                この遺伝子が、どんどん形を変えて、、、

                    コロナのように増えて行って、、、

                       

                系統樹の枝分かれの分岐には、、、意思が働いているとは思えない。

                  反抗期の少年のように、、、分岐をしなかった欲張り動物に見える、、、カモノハシ。

                             「カモノハシ」は、、、

                       

                            遺伝子に意思があるのだろうか?

                       地球環境が

                        、、人類の科学に犯されない自然が

                                       守ったのだろうか?

                          

                     時代は待ってくれません。

                   敵が居るとすれば、、、それは時間だと思った。

                放射能の中で、人類は、、また

                      、別の遺伝子の変化がおきているかもしれない。

                       科学には不得手のような?????

                                   政治家の舵取りは

                          「喧々諤々、、、お茶の間劇場」の国会TV画面ですが

                       阿部首相のお疲れの御顔が心配です。

                         今は与党も野党も、、、

                              日本の医療人に

                        厳しすぎた政治の舵取りが、、、

                                医療崩壊を起こしそうになっています。

 

              大きな意味で

                    医療界の束石になるべく

                                 協力イベントなどを通して

                     医師個人の収入は、絶妙な不思議な成り行きで、

 

                          民間や政治家には見えない部分の緻密な部分を

                            ごくごく自然に、、、学会費などを通して

                                           医療人が維持し続けるという

                         不思議な出費の多さであった。

                     「医師をすることの難しさは、、、業界にだけ常識のノルマの多さが

                            外からは、華やかに見えるという、、、

                         日進月歩の医学の進歩が無かったら、、、コロナとも、天然痘とも戦えない。

                      医師をするという事の大変さは、、、裏を預かる者から見ると。

                        形の見えないことほど、お金も、労力も、時間もかかり、、、

                            医師をするという事は、、、氷山の一角が政治家からは見えるだけで

                           水面下で支える、、、本人の努力は超人的な、、、

                                医師をすることしか見えないと言っても過言ではない

                                    本気の人生の継続で、、、

                              家庭は全くの外野に近いサポートしか、、、見えない。。専門分野。

                        家内は、、、難しく考えると、、、自分が「案山子に」思えてきます。

                        

                    個人の財産で、マスクや防御服も買えないという

                     収入は有っても、税金は三分の一以上、、、

                        医療組織の継続には、医療人が

                           余裕のある者ほど、限界までの出費で維持されている不思議。

                    親戚縁者親兄弟、、、医師の家庭が困ったって、、、

                               知らせることも出来ない。

                     相手が困ったときは、、、医師をしていく以上、ベストは尽くして

                     へとへとになるまで、、、相談にのる、

          

                    一生働く医療軍人のような戦場の緊張の中に居ます。

                      時価と言う見えない手段で縛られている労働条件は

                       何とかなるという職種ではない。

                           パンデミックに成ったら、、、医療崩壊は起きてしまうだろう。

                     医療費を自費で払うなんてありえないという、、、日本の患者さんの意識の中で

                       医師はへとへとになって「医師をしている、、、。」

                        家内と言う、、、妻と言う、、、職場だから

                       家庭の仕事は、、、家内であるから、、、

                        結婚以来、、主人が、ごみを捨てに行く姿は見たことが無い。

                       雪かきも女性の仕事である。

                         

                     秋から正月までに掻く雪も、城壁並みに、、、76歳の私一人の作品です。

                   「医師をすること」そのものをサポートするのは政治の医療組織はどうあるべきかを

                   認識できる、、、プロの立場が解る政治家にしか出来ません。

                    家内の私は、、、

                       患者さんの皮膚に触る診察の手に、、、スコップは持たせられないという、、、

                      私なりの意識からの、ささやかなサポートしか出来ない。

                     

                    

                  医療崩壊を、、、どうやったら、、、回避できるのだろうか?

                      第3次のコロナの波が、、、コワイ!

                   政治家の御苦労も、TVを通じて伝わってきます。

                       日本の首相を

                   こんなに疲れた御顔にする政治家の集団とは

                 要素が多すぎて、私には理解を超えたものが有ります。

             

                   学問的な考えをベースに

                     政治家の発言が現実社会に動くのであるとするならば

                    

                   コロナの連日の数字の、PCR検査の地域を一定にして

                     陽性の誤差のない間違いないと思われる感染者の

                              ウイルスゲノムが

                                   リアルタイムで解析できる、、、

                            例えば薬品会社の

                     ウイルスゲノムの研究棟とタイアップして

                       ウイルスゲノムを解析する

                                                                      スピードのある機械を拝借して解析する!

                    コノ機械は10億円はしそうですね!

 

               ウイルスは人から人へと感染しながら変異してゆくのは

                 子供のころ、、、医師であった父が話してくれていた、、、

                          系統樹と

                        おんなじことではなかろうか?

                     

            ウイルスが感染しながら変異してゆく事は、

                  周辺のアミノ酸まで解析できる今日なのだから!!

                          感染の繰り返しで

                 変異してゆくウイルスを追跡してゆくのですよ!!

                 

 

      TVやコメンテーターの知識の寄せ集めの推測が

                 個人的見解として、何気なく

                      インテリの眩しさで

                          素朴な市民は

                    「ン、、、だ!、、、ン、、ダ!

                      憧れの美人アナが、、、言ってるダ!

                        おらたちも、、、コロナと共存共栄?ロングランだ!」

 

              茶の間の76歳の私の中の主婦は、

                        頷きながらTVに飼いならされています。

 

            数字のデーターも正しいとは思うが、解決にはならないと思うのですよね!

                   幼い日の父の声、!

                  いつも、知恵袋になってくれた、、、弟,、、や次男、、、の声が

                        耳の奥から響いてくる!

                           自分で考えろ!!!神経を研ぎ澄ませ!!

                 

                       胡坐をかいていては、、、呆けて、、、

                         最後は人間に飼われてゆく人間に成るぞ!」

                    「母さん!、、頭を使え!、、、!

                  楽をするな!、、、頭を使って、、、体力を使って!

                  自分を遊ばせるな!!

                    

                     東京の婆ちゃんは、、、80歳過ぎても

                       ピアノの弟子を50人も指導していた

                  

                

                          

            

                                                                      

                   

                         

                 右手を火傷していた私は、、、小学生の時も、

                     医者の家の子ども、、、と言う、、、

                                疎外感と

                       試験が一番という、、、

                           「子供時代の鎧」を身に付けていたが

                       右手の 大やけどは、、、隠せないハンデだった。

                   「 右手にシャモジが、、、ついてるぞ~~~」、、、

                  男の子が履いてる草鞋をぶっつけてきた。

                   ほっぺたに当たった、、、そのわらじを、

                     私は、力いっぱい藪の中に投げてやった。

                     「バカヤロウ~~~」

                     その子は、草履が見つからなくて、、、わめいていた。

                       

                   「 バカヤロウ===は、、、どっちだよ~~~!」

                 右手のシャモジは、ハンデではあったが、、、私は父を信じていたから

                   負けなかった。

                     6年生に成ったら、、、東京に転校するからね!!!

                   大柄だった私は、ちょっと見は中学3年生以上に見えると、、、親戚からは

                    「いいモノ食べてるんでしょう!!!」と

                          「お父さんのおかげだね!。。」

                     嫉妬とも、、、羨望とも、、、意地悪ともとれる

                      はた目には、親友やライバルに見える、、、一見、、、友達は出来たが、

                   私の心は、けっこう、、、人を信じて、自分をまかせるには

                     あまりにも、、、奇想天外な疎外や、いじめが有った記憶がある。

                         私は孤独に強かった、、、父だけですべてが満たされていた。

                      

                      「 子供の世界は残酷だから、、、負けたら負けだよ、、、」

            

                        

                          

                そんなこんなの、、、疎開と言う、、、「父親以外は招かざるおまけ??」の

              田舎生活から、東京の小学校6年に転校した。

                      疎開地を出発する父を、村人は、、、泣きながら送り出してくれた。        

                

                父は市ヶ谷のお屋敷町、、、徳川のお局様ゆかりの神社のある町で

                近所には、与謝野夫妻や、歌舞伎俳優や、祖父の借家には

                      文士もすんでいたという、、、生粋の江戸の住民であるから、

                   疎開地からの転校生なのに、、、親の光で、

                        言葉のアクセン以外は東京人として

                    私はここが居場所だと、

                          強い自意識で、、、

                              主観的には東京人のお帰りだ!。

                

                

 

                  明治20年代の生まれの祖父が、

                     筑波大学の前身の師範学校を卒業して

                   20代で、、、フロリダに渡米して

                      新しい世界を知る心が羨ましいほど、、、強く思えた。

 

                  和歌山の、山村のド田舎から、、、新宮高校に進み

                   佐藤春夫さん家族らと親交を深め、、、東京にたどり着いた

                      母の強さも、、、羨ましかった。

                    外に飛び出す遺伝子が受け継がれていたようだね?。

             受け継がれてゆく遺伝子は

                世代が代わる毎に、、、確かに、、、原形はあるが、、、

                   天然のシャープさが無くなって、、、時代に飼いならされてゆくように感じる。

                星の世界、、、黴菌の世界、、、ウイルスの世界、、、

                 

                       系統樹のレポートを書いていた事が思い出される。

                  電子顕微鏡や、ITの時代が来て、、、

                       23番目の遺伝子の変容がダウン症だというレベルから、

                     遺伝子のゲノムの

                       構成アミノ酸にこだわる分類レベルを越して

                   今や、、、生命論そのものが、、、物体から、、、イオンレベルの、、、

                      時代である。

 

                       原子爆弾と同時に、、、水素爆弾も出来ていた。

                      1億度の温度を、中性子の衝突を、内側と内部からサンドイッチさせて

                     原子爆弾のサンドイッチから、、、1億度を作り、、、

                  地球破壊、、、人類破壊、、、万物、、、元素化、、、生命の元素化が

                    今の時代を生きる人類の科学者の創りだした

                                        、、、破壊の悪魔の科学。

                 この、、、人間の微細な、初めのピースは

                     コロナのような。原子核のような、、、

                            

                     微細分子が創る、

                               不安定安定電子の物質だったかもしれない。

 

                         ウイルスも、人間も、動物も、森羅万象すべて、、、

                    ぶつかりながら、変身しながら、、、万物が生まれ、、、

                      今なお、、、引き合っている、、、力が安定している物を

                        物質と呼んでいるだけで、、、

                      外界の条件で変わる!人は死ぬ。

                          老人は、熱中症で、、、命さえ落とす。

                          老人の体内の均衡は、外界の温度や湿度でさえ亡びる。

                   これ以上、、、地球環境を悪くする、、、温暖化に

                             コロナの発生だって、かかわってないとは、、、証明できない。

 

                                  人間の認識の中で、、、

                         プラスに思える働きの偶然を,、、「神」と言うなら

                          マイナスに働く偶然を「悪魔」と呼んでいるのかもしれないし、、、

    

                          コロナの変化と、人間の基本が同じ遺伝子行動の螺旋なのに、、、

                           接触した人間関係で、、、どんどん変わる私。

                   コロナだって、人間に感染するたびに変化し続ける。

                   

                        

 

                     この原理を、corona撲滅の薬品づくりにおうようできないものだろうか?

                  コロナのレセプターに、もっと魅力的な物質をレセプトさせてしまう!

                人間の身体で増えたコロナの細胞が、、、独立できない、、、はがれられないという、、

                   機能マヒに追い込む。!!! 

                    

                

                    ピアノコンサートの手伝いと、、、

                        母の母校のクラスメートの来るまでの送迎が

                            無理なくできる、、、

                               中小の総合病院に落ち着いたのに

                         母は、、、2~3年したら東京に戻り

                      我が家の父の掲げた、、外科の看板を守ると言ってくれた医師を

                     迎えて、東京に還ってきてほしいと言った。

               

                  ピアニストは「蛮族に近い」

                            自分の感性がすべての者より優先させる。

                        

              戦争の激しく起きた時代に生きた、、

                           、母の持つ、、、ブラックホールが、、、哀れに思えた。

               右手の火傷の痛みは、、、両親にとって、、、

                              親そのものが虐められた状態だったのだと、、、

                           そのリスクを跳ね返すためには、、、

                     心が負けてはおしまいだから

               娘を傀儡にしてでも、、、自分らしい納得が必用だったのかもしれません。

 

                この世に、、、自己愛以外の愛があるとするならば、、、

                    父が、、、「患者さんに向けた命がけの医療行為」は

                           もしかしたら、、、

                     自己愛の陵駕された状態だったのかもしれません。

                         自分を愛するのは安く、、、

                          他を愛するのは

                              神の御加護が要るかもしれない。

               コロナは、、、人間の始まりの、、、小さなピースを視せている様な

                                 「系統樹」の、

                      眼には見えない一部なのかもしれない???」

                       

                          

    社会全体のウイルスの広がりを予測するなら、

       PCR検査で陽性間違いないとなった感染者のゲノムを

               リアルタイムで解析して

 

               それぞれのタイプのコロナが誕生するから

                  過去からの歴史上研究分野や

                    疫学分野に残されているかこのデーターと合わせて

                      ウイルスゲノム変異実績系統樹のような分類をして

                            社会全体の広がり予測を、、、

                            一地域からのゲノム変化から

                                ウイルス系統樹を作れば、

                                 多様性から、、、これから感染するだろうパターンが

                         予測できるのではなかろうか???

               お茶の間で、TVの美しい美人の教授が

                             感染人数から、

                                 予測しようと努力されているのがわかるだけに

                                  此処は、、、

                                       現場の医師、

                               疫学者、、、と遺伝学者。。。そして、感染症研究所

                    最新のゲノム分析可能の10億円以上する機械を持っている製薬会社と

                                   感染症学者で

                        ウイルスゲノム日本式系統樹を作成してくれたら

                                一地域の発病から、

                          リアルタイムの遺伝子ゲノムの

                             周辺のアミノ酸の変異体が次々と、、、

                            科学知識で溶けるのではないだろうか????

                                 茶の間の75歳の婆ちゃんでは

                                       思いつくことを書くことしか出来ないが、、、

 

                    マスコミの、、、貴重で正しい数字のデーターは

                   行動の規制にはなるとは思いますが

                 第3波を緻密に予測するのには

                   あまりにも、、、粗雑なコメントだと思ってしまいます。

                    

                

             小学校に入るまでに、、、父は私の大やけどの指の骨が、

                       ひきつられた火傷の皮膚に引っ張られて

                                 骨の成長が妨げられることにより、

                 成長が止まってしまわないようにと、毎日のマーサーじと

                  引き連れた皮膚の切開と、展伸板のような

                    シャモジ型板に指を伸ばして固定させて

                     手の骨が引き連れた皮膚の為に曲がってしまうのを防いでくれた。

                       来るべき日の形成手術の為にも

                             毎日、夕刻にマッサージをしてくれました。

                               父は成長と

                                 皮膚と骨の成長度の違いを

                                     10年単位で慎重に医学していた。

                   。

             

                      定期的にひきつった皮膚を切開して、黄色いがーぜで覆いながら、

      のう、、、、つらいかもしれないが、、、必ず、、、もとの手に戻して

      お母さんからピアノを習える手にできるからね!

                私の成長と、右手の成長が一致するように、、、

                         心も、ついでに成長させてくれた。

        《父のマサージしながらの「千夜一夜、、、科学の、お話し》は

                    父親から、娘への、大いなる遺産となっています。

              「シャモジのような平たい板に指を固定しながら、成長に合わせて右手の骨格を守ってくれました。」

                         真珠貝が、異物が入り、、、痛い、、、苦しい、、、

                     毎日、体内から液を出して、、、見事な「真珠の珠」にかえましたが

                        父から送られた真珠だと思っています。

                                出血の伴う右手とは、、、裏腹に

                    私は父が毎日マーサーじしながら話すことが、楽しみでなりませんでした。

                  

                      ある日の事、、、「系統樹って知ってるかい?」、、、と

                                  父は目をきらりとさせて言いました。

              

                               「知らない、、、」と、、答えると

                      その日から。マッサージの度に、面白い動物の進化を話してくれました。

 

                               原始時代のもっと前から、、、

                                三葉虫の時代から、、、

                                     始祖鳥の話や

                                      まるで、、樹木が枝分かれするように、

                                一つの生き物からいろいろな動物になった話でした。

                            人間は猿だったと思いますか?

                              ゴリラだったと思いますか?

                                始祖鳥だったかもしれない。

                         きっと魚だったと思わないかい?

                   

、、、

          私の右手のマッサージの時間は、

              疎開地である  、、、、、、、、、、、 山の奥の

                      親子の話とは思えない

                            リッチな時間を、、、父からもらいました。

父は戦場に居ましたから、

多くの感染症の中で、、、

設備も衣類も、食べ物も少ない所で

                多くの患者さんと接してきた苦労の多かった医師でした。

          

                      コロナに関しては、、、美人の教授さんのほかに

                           疫学をなさっている研究者を

                              ゲストに招かれると

                               パンデミックの解析が

                              ネイチュアーレベルで飛び出すのではないでしょうか?

               

                    系統樹も研究者の続いた家系に入れて貰わないと

                      研究は、、、お金がかかりますからね、、、

                       昭和生まれの、、、婆ちゃんには

                       キューリ夫人がまぶしい太陽でしたね。

                            火傷の右手も治り、

                  母のピアノコンサートに連弾で出していただいたときの

                       父の嬉しそうな顔が、、、忘れられません。

                      

                      コロナに負けるな!!!共存できる道を探そう!

 

           

                                 

                       


時間が、、、無かった、

2020-08-21 01:16:29 | Weblog

 

           日本の始まりのような、神宮が、 

                         和歌山県に、有った。

               

              

 

                                                                                                                             海を観て育ち、、、クジラを食べていた、

                                                                                                   海の王様ですよね、、、クジラはね。

                   クジラたちは、ネット社会のように通信しながら、

                                   北極まで泳いでゆきました。

          人間が海を愛する者同士としてクジラを愛すれば

                     高度な感性で、友達に成れたと、思えるような哺乳類ですよね?

 

                 王者のようなクジラを、、、

                   小さな人間が捕鯨するのですから、びっくりですよね

 

       人間とは、、、一体、、、?、、、どんな?「いきもの」なのでしょうか?

            例えば、、、人の心って、、、不思議ですよね。

                   関わりたくないという「ココロ」。

               南紀の山奥の 小学校に通っている頃

                     小走りに急いでいる私に、声をかけてくれました。

                               彼はクラスの優等生でしたが

                     お父さんは戦死して、、、母親だけで家庭を支えていました。

 

               私が、立ち止まって、、、同級生に

               「川に行くんやよ、、、」と、返事をしようと思ったとたんに

                     母親が、彼をしかりつけました。

                 「お医者さんの家の子に≪関わったらあかん≫と言うたやろう!、」

            「何か問題起こしたら、村から追い出されるんやで!」

                         母親は、ぺこぺこと頭を下げながら、、、

                    同級生は「またね、、、、学校でね、、、」と言って

                   母親の「厳しすぎるしつけ」にも、逆らわずに

                              手を振りながら、すれ違っていった。

             お母さんと言う人は。

                 ペコペコとお辞儀をしながら、

                      子供たちを促して、何度も振り返りながら、、、すれ違っていった、

                  

                  子供心に、、、冷や水をかけられたような、、、孤独な

                  疎外感を感じながら、、、幾度となくこうした場面が有ったのを

                    思い出していた。

                 

                父が、村にはなくてはならない人として、

                    村の診療所を預けられるのは、、、感謝ですが、、、

                 

                 「お前は父さんのおかげで、、、得ばかりしている!!!]、、、、」

                 いわれなき嫉妬の刃が向いてきたこともある。

                   人は、、、自分の先入観で相手を判断して

                          我の心が治まる様な方向の扱いをするという事かもしれません。

 

         17歳には父や、父を助けてくださった京都大学の教授の近藤先生や

          警察病院の大森先生、多くの先生の施術によって、7回の形成外科手術は

           見事に私の、、、団子になっていた右手が復活した。

          完治したから、、、胸を張って生きる日々に感謝しながら、

             医師が「医師をするという行動」の難しさを体感しながら

               7回の手術によって甦った私にとって

              「医師が医師をすることの為には、心から、謹んで働ける」という

            医学の魔法のような手術の恩恵に浴してきた。

                  振り返れば、、、

              私は、2歳半の時に、右手に大やけどを負った。

        母が、適齢期になった診療所のお手伝いさんに

                「 小さいけれど、お店を持っている青年」を紹介したのだった。

       いろりの対面で、私を膝にのせて、子守をしながら

               母から突然切り出された縁談話を聞かされた彼女は、

                      後から聞いた話によると、、、

             「解雇されるのだと勘違いした」と言ったそうである。

              私はそのとばっちりを受けて、彼女の膝の上から、

                         囲炉裏に落ちてしまい。

                        彼女は、私を拾い上げなかったという

                 雇用者と、使用人の心のすれ違いの間に

               「 職場を追われると勘違いしたお手伝いさんの心」が

             2歳半の幼子の右手を焼いてしまったのだった。

                 ショックで、ひざに居る幼女の事を一瞬わすれたのか?

                    悪意は有ったのか、無かったのか?、、、

                    そちらに関しては父母は問う事は無かった。

                小さな、、、一跨ぎすればよい、、

                     「いろりに中に落ちた我が子」を、、、

   、               なんで、、母自信が目の前のいろりから、自分が抱き上げなかったのかと、、、

                       お手伝いの女性に、、、

                 「早く、抱き上げなさい!!!」と、命令ばかりしていたのか?

                     自分自身の愚かさに、腹が立つ、、、と晩年ぼやいていました。

              

             縁談なんて、、、人様より目線の高いことをするときには

                父を交えて、、、お手伝いのご両親にも来ていただいて、

                      お客さんへの料理を前に、、、 

                     

                「実は、、、娘さんに、「お嫁に欲しい」という青年の親から、

                 心を聞いてほしいと頼まれたのですが、、、」

                       相手に人生の未来がかかっていることだという重さを自覚して

                  礼儀を逸するような、、、軽口の縁談話では、、、

                     こうした事故が起こることが予測されたはずである。

 

   音楽大学を卒業して、主観の強い母は、

                   自分流の縁談の紹介が、

                      どれほど、、、当人にとったら、、、

                              受け止め難い話題だったかを、

                                  予測は出来なかったのだろう。

父は、事故の後も、私の手を真剣に治療してくれながら

                半面、、、、当事者のお手伝いを解雇することは無かった、

 

        診療所の仕事が引けたあと、

                 准看の免許がとれる学校に通わせて、

                   看護師として、どこの診療所でも働けるようにした。

                      それから、彼女の気持ちを大切に、

                    村の診療所から飛び立ってもらったと、言っていた。

 

母には言ったそうである、、、、

「はた目には、周りの人が尊敬して、従ってくれるように見えるだろうが、、、、

         皆、自分の命の行方をつかまれている様な錯覚に陥って

              医師が、自分の命を人質にしている様な、、、漠然とした尊敬に似たような

                敬意を示すかもしれないが、

                   病人は病気は自分で治癒の方向に向かって行くものなのだよ。

                医師は、病人の中の「治る力を出来るだけ引っ張り出し、、、よりそっている。」

              病気を治しているのは患者さん自身の持てる「治る力なんだよ。」

          治る力を引き出せる医師になるためには「医師をすることに、、、謙虚にならないと、、、」

         家族皆が謙虚にならないと、、、患者さんの中に住んでいる「治る力」は引き出せないんだよ。

    周りの家族は、、、大切にされることがあったら、、、君たちの後ろには

          自分の命を預けている、命を左右できる医師がみえてしまうという、、、

             医師の力を勘違いしている人が多いことを知って、

              決して、、、上から目線で話してはいけないよ。

                戦争で、日本は全員が貧乏になっているから、

              診療所の医師の家族は、、、得ばかりしている家族と、、、勘違いしている時代の背景が

            子供と言う、、、弱い立場の人間にとばっちりが行くからね、、、

               いわゆる、、、自分の力でないのに、、、いい気になれる立場の行動はとらないという

              等身大の実力以外の事をすると、、、

                 「貧乏な時代背景を認識していないという事だからね。」

                縁談などと、、、人の人生を周するような事は

                 一人で話すものではないよ。

                     彼女は、、、奥様は、、、自分が医師と結婚しているからって

                    偉そうに、、、自分を見下した、、、と。

                   嫉妬と怒りで、一瞬娘を抱いていることが空白になり

                   娘がいろりに落ちたことも、、、われを忘れた侮辱の中で

             娘が、、、 泣き出すまで、、、気が付かなかったのかもしれないよ。

                    4歳5歳の子供でも、、、医師でも、看護婦でも、、、女中さんでも

                     ばあやでも、、、プライドの大きさは同じなんだよ、、、

                病気の治療にかかわっても良いが、、、

                         医師の家内になった立場では

                         自分の友人や、知人親戚に、個人的な話題を話すのは

                           やぶさかではないが、、、

                 診療所に関係のある勤務している人や、お手伝いや、ばあや、、、使用人には

                   彼女たちの仕事への心の延長で、奥さんに仕えて見せてるだけだと

                    彼女たちのプロ根性を尊重しない事は、「いい気になっている奥さんだと、、、」

                  反感をかう事もあるという事を学んだよね。     

         寡黙な父の、、、一言、、、二言、、、の

                   「医師の家庭も謙虚でなければ、、、人の指導は反感をかうだけだよ、、、」

             そういわれたという母の言葉を、私なりに、奨学生に解るように説明するなら

                   以上のように、、、思えるのです。     

             

小学生になったころ、村の戦争未亡人が

     逞しく生きてゆく姿に、私は、学校では教えてもらえない社会を観ていた。

          村人に、慕われたのは、、、父の「医師をする」と言う

                情人では真似のできない努力の火の玉の情熱であったと

                      76歳になってから,、、気がついた私は

                         婆ちゃんになっても、、、右手を治してくれた父や

                           多くの先生方には感謝しています。」

私が一生、、、自分の時間を割いて応援しているのは、

           医師になった人が、「医師をすることの大変さ」を

                 少しでも、家庭内から、時間を継ぎ足すことで

                      医療に専念できるなら、

                       「 医師の持てる力を、社会に還元できる」と信じられるから

                          頑張れるのだと思います。

           

         、、、、ふと、、われに返ると、、、私は、、、どこにいるのだろうと、、、

         、、、、家族以外に、、、全く、、、付き合う機会のなかった近所や町内会の

        、、、、 北海道の暮らしの50年間に、、、

                     人生の本当に必要なのは、、、

                          「時間」だったかもしれない。    

 

 


明日からの、秋を迎える準備

2020-08-16 16:49:40 | Weblog

この3日間のお盆休みに、どれだけの若者が

故郷への帰還を我慢できたか、、、

2週間後の月末に、、、どれだけ「コロナ感染者が増えたか」で

お盆の動向や、家族との交流に、

どれだけの、感染予防知識が有ったかが、、、推測されると思うのですよね。

家庭に帰ってくると、外での緊張感がとけるために、

どうしても、2メートル離れるとか、

そっぽ向いて話せるとか、

めんこい孫や、

      甥っ子や、

         姪っ子を、

             抱っこしないで、、、がまんできたかどうか?

                       

                その結果は8月30日ごろから数字が教えてくれるでしょうね。

                         これはコロナではありません、、、

                        万華鏡です、、、念のために記述しておきます。

                    

                         コロナは、人間の身体を使って増えるわけだから、

                                ヅーヅーシイ奴です。

 

 

                        こんなウイルスをのさばらせてはなりません。

                    休み終わって、出勤する相棒には、、、

                                                  又、お盆前のように

                弁当を押し付けて、、、外食を控えるように進言します。

                   来年の3月に成れば、、、情勢は変化してくれると,、

                     良いのですが、、、祈るばかりです。

                         

 

            栄養バランスを考えて、抵抗力をつける献立にしています。

       食器の洗桶には、キッチンハイターを100倍に薄めて垂らした水に漬け置いて

                心持ち殺菌の時間をおいて、

                     雑菌も滅菌するようにします。

                  機能が失われたであろうコロナが居ても怖くない!

               見えない敵に、好き勝手させないためにも、ハイター殺菌してから、

                     水洗い流しをするようにしている。

 

 

            コメを炊くときには寿司酢を入れて、利尻昆布とともに炊き上げる、

                弁当のコメは。4時に起きて早朝炊くようにして、

                  必ず、「梅干しの2パーセント塩」を使う。

                梅干しのクエン酸が、高温の夏には、いいかもね。

                           すし飯にしておくと

                       余計な雑菌に対してのバリケードのなると考えています。

 

               卵焼きには、食用酒とめんみや、つゆ物を少々入れて、

                         スクランブルにして、

                  仕上げに余熱で、ホウレンソウの若葉を入れて、

                  白魚を、余熱で卵にキャッチさせると、、、出来上がりです、

                    シーザサラダ用のドレッシングで薄く被膜して

 

                  基本は、食べなれたもので、

                  お腹が満たされれば…外食はめんどくさくなるはず!!

 

               「コロナの感染で、皆に迷惑かけたくない」という緊張感が、

                                気持が後押しししてくれます。

 

                 買ってきた物は水道で丸ごと洗います。

                        知恵袋は、、、弟と、息子の案を、自分なりに、やりやすく      

                                手っ取り早く考えた方法ですよね。

                                              

           食パンも、ビニールごと洗います。

              これは長男の薬剤師の教えに従っています。

                   全て、、、電子レンジで熱戦を加えて、

                     出来上がった弁当のパッケージはハンカチで包み

               ビニールに入れて、空気を遮断します。

                     出来上がった包みには

                  保冷剤をセットにして包みます。

 

             之だけ注意しても、、、恐怖は有ります。

                    、、、ゆっくり休ませろ~~~~!

             人間を、殺せば、、、コロナよ、、、、お前たちも滅ぶんだぞよ!

 

           言葉が解る相手なら、、、そう言ってやりたい!

                 納得するまで注意して、、、天命のとうりと

                   無事に職務を果たせることを…信じよう、、、!!!

         日曜美には、、、主人が自分で造る野菜サラダです。

                    使い捨て手袋をして、、、楽しそうに創っています。

        沸騰したやかんの湯を、、、細い鶴首のコーヒー用湯を注ぐステンレスのポットに移し

         好みの、ブルマン真空パックの「ミディアムファイングラインド≪中細挽き≫」を

          カリタロートに入れて、真ん中から外側に螺旋を描いて熱湯を注ぎ

                    台所は、主人がホストとなる。

                     すべて熱が入った材料と、

              キュウリや野菜は、酢水に15分浸して、盛り付けている。

                  ハムは、パッケージの4枚入りを朝食時に使い切る。

       

                                

 

       ただし、、、片付けは、、、3年の修行が要るからね、、、と。

                      片付けは、、、主人にはチャンスを与えない。

                 主婦の片づけは、、合理的で滅菌的で素早い。

                    、普段家事をしない男性には

                 時間がかかりすぎると、、、思うのですよ。

                精神的な,、、朝食サラダを、、、ライフワークにして

                 心で遊ぶのは、楽しくないと続かないと思うから、、、

                 材料の下洗いも、調達も、しっかりと、、、

               コロナが入り込めないように

              前日に買って、水洗いして、キッチンナプキン紙で包んで

                  食パンの入っていた空袋を洗って乾燥した袋に

                      空気が入るように軽く包んで

                   レタスとトマトと、セットの材料を仕舞ってから

                     早朝、洗い物が一つも無い状態にして

                  キッチンを、日曜日の朝は

                       主人にバトンタッチして、

                      出来上がって声がかかるまで

                   TVの番組に。。。主婦も、癒されています。

 

               閉じこもりのコロナ対策として、、、男性も、家庭内に

          主役になれる居場所が、ストレス解放になるのではと思っています。

            主婦も助かり、、、主人も、主役の居場所が必要だと、、、

                                          

              キッチンのお客様を迎えることにしたのが発端です。

             私たちは、今日が一番若い日、、、明日は解らない。

               医師の主人にとっては、

                「医師をする」、、、という事だけを見つめて

                大学を卒業したときから、持てる時間を、仕事つぎ込んだ

                戦後の、、、モーレツ社員の時代の生まれでもある。

               戦後、世の中が安定した頃の、、、平成生まれ夫婦には

                  想像もできないような、時代に生まれてしまっている。

                   国を愛するから、、、皆、、、アメリカに追いつき追い越せと

                   休日も、連休も返上で、働くことしか考えない世代だった。

                  そして、、、

                  人生の夕暮れが来て、、、新型コロナのパンデミックに。。。ピリピリしている。

                 コロナだけは、、、寄せ付けないと誓い、、、

                           ベストを尽くすことを日々心がけています。

                      

                 コロナ予防対策のアドバイスは、、、弟や息子達の

                     電話によるアドバイスを、。私なりに

                     実行できるものをセレクトして実行しています。

                     医療機関で、優先的に検査せねば、伝染の化膿性のある患者さんが

                     行列をなして、順番予約をとって居る以上

                      コロナにかからないようにすることが、

                       大切だと、、、自分に言い聞かせながら、

                        根気よく、頑張りたいと思っています。t

                        


お盆最終の日も、、、TVで過ごす令和2年

2020-08-16 03:31:47 | Weblog

3日間のお盆休みは、、、TVで過ぎてゆく。

史上最大の作戦、、、、往年の名優から、総出演で、懐かしい映画だった。

 

天然で、スッピンに近くて、、、それなのに、、、素敵な女優さんが

ありのままの、原爆体験で、心身ともに大きな傷跡を抱えた被爆者の今を訪ねる番組を観ていた。

言葉が出ません、、、、日本は、核戦争の悪魔を、世界に伝え続けるでしょう。

科学の怖さを感じますね。

これからは、ITの時代に入ってゆくでしょうから、科学に滅ぼされたくないですね、

お盆最終日を前になのに、、、、ストップモーションの、、、我が家でした。

焦らず、、、コロナが治まるまで、、、TVがニュースも伝えてくれます。

皆、、ここ一番が正念場だから、、、

 

                   


お盆を、、、迎えた

2020-08-13 07:10:10 | Weblog

弟よ、、、

君は,、、可愛かった、、、(^^(^^(^^(^^(^^(^^

戦後、疎開地に到着できて、戦乱の日々がようやく、、、落ち着き始めた頃、

母は、、、高齢出産に挑戦した。

       戦後、、、、

          戦争を知らない「希望の子」が誕生した。

「医者の家に、、、男の子がうまれたぞーーーー!!!」

疎開の村には、復活のシンボルの「団塊の世代」の誕生の

            聖火を持った戦後からの復活の世代の誕生だった。

この子たちが大きくなるころには

         「生まれてきてよかった!」と言ってくれる世の中にしなくちゃなあ~~~!!」

村の人々は、「鯉」「ウナギ」「鮎」、、、サツマイモに、、、なすびに、、、何やらかんやらと、

思い思いの喜びをもって、父の周りに集まってきた。

「この子を見てくれ!!、日本は復活する!」

 日ごろ、無口で、要点しか話さない父が、饒舌だった。

寸暇が有れば、弟の所にやってきた。

     若い時は「髭の医者」と別名で呼ばれたほど

胸にかかるほど、髭を生やしていた父の写真は、どこかに片付けてしまった。

弟に、、、頬摺り寄せたい父は、、、髭を毎日剃りはじめ

                      若返っていった。

いつも、どこかに、、、うつうつとした曇り空のようだった我が家に

              根こそぎの、、、別の空気が流れ始めた。

母も、笑顔を、、頻繁に見せるようになった。

「チャンコロちゃ~~~ん💛、、、」母の笑顔は観たことのない、、、明るい笑顔になった。

とうとう、、、戦後が始まった。

        日本人は復活に向かって立ち上がった。

傷痍軍人が、松葉杖をすてて、、、仕事の修行を始めた。

自転車屋さんに、子供の三輪車が並び始めた、、、。

想像できないでしょうね、、、現代人は、、、

              「心のブラックホールがあった事を、、、」

立ち上がり始めたのです。村全体が、、、。

                 

復興の兆しの見え始めた村には、

                母の父にあたる祖父が

                    校長先生と、町長さんを頼まれました。

                       学校の先生は、偉そうな本当の資格のある先生が来た。

                  本物の先生もやってきた。

空手の強い本物の体育の先生も赴任してきた。

音楽の先生だけは、美人で、若くて、、、オルガン上手で、優しい先生が残った。

 

私が小学校に入ったころは、

父母の花畑の花をアレンジして、音楽の先生に届けたものでした。

 

父は、村人に借りた何ヘクタール?かの畑を、

          村の住人に花と薬草と野菜を栽培する畑に耕してもらい、

                        村には、雇用促進にもなったと思えた。

アメリカに住んでいた人に頼んで、グラジョウラスなどの花の球根を送ってもらい

父の花畑は、大輪の洋花や、薬草で、ちょっとしたものだった。

ジギタリスなどの、利尿や、心臓の薬になる、、、ジギタリスプルプレアは

                     ヨーロッパの原産の見事な赤紫の花だった。

戦後で薬品がなかなか手に入らない時代に、

「戦地で、戦陣外科体験した父の、何もない所で、、、どうやって、患者さんを助けられるか、、、?」

この体験は、最後には、戦場で、キリストに逢えたと言っていたから、、、

苦境での医療には神様に頼むしかないという状況を体験したのだろう。

 

カエルと言えども,、、心筋は、身体から切り離しても、、、勝手に動くリズムを持っていることに

カエルには、、、申し訳ないが、、、

しばらくこのカニュウレに凝ってしまって、動く心臓に、カニュウレに薬品を投与して

心臓に作用する薬の実験に、真剣になった事がある。

そのまま、、、薬理研究室に所属して、、、卒業後は

薬理の担当教授の推薦で、

東京大学の、医学部薬理研究室に勤めるという、

           流れるままの人生を歩き始めた。

其処では、いろいろと、、、動物のお世話にもなり

お盆には、自分的にも、心から、慰霊祭に頭を垂れた。

 

魚を釣って、、、ぶつ切りにして、、、食べるのとは、、、また、違った

命の貢献に、心から、慰霊祭をもって、

         一歩間違うと、、、

エゴイストになりそうな心を戒めながら、

薬剤師の国家試験にと進んで行った記憶がよみがえってきた。

人間は、、、南極では、、、食糧難に遭遇したとき

愛する相棒の犬を食料とせねばならない、、、と、聞いた。

私には、、、出来そうもない。

カエルだって犬だって、、、命の重さは同じだとは思うが人間の主観的な挑戦は 

      、動植物の犠牲の上に成り立っている。

自分のなかにも、、、

小さな小鬼が住んでいる、、、

しかし、、、悪魔が住んで居る研究者もいる。

      、、、原子爆弾は科学の使い方を

                人間あっての、

                   地球あっての、

                     研究に戻さないと、、未来は無いと世界中に示した出来事だった。

           原子爆弾と、核爆発をサンドイッチにした水素爆弾の破壊兵器は、、、

           核融合という億温度の世界の化学のはずである、

               科学の総称の中に入れてほしくない。

 

                人間の中の悪魔を育ててしまうと、、、

              核融合の巨大な力を兵器に使う事になる。

             水素爆弾が、第二次世界大戦の時に、

                     すでにできていたから恐怖である。

 

            もう、、、戦争からの復活で、

          戦争を知らない時代の「団塊の世代」が

           やっと、世界が一つになる、、、

             パソコンや、スマホを使って

        平和教育を呼びかけることのできる手段を持った時代まで来たのですから、、、

                 人間の中の「悪魔」を

                 恐竜に育てないでください。」

 

                恐竜は、背中に支点が要ります。

                  背中の支点の命令系統に

                  核を使った戦争をしないと誓ってください。

 

           確りと、、、ブレーキをかける教育が出来るかどうかは、、、地球のスケールでの

                    破壊戦争となることは確実でしょうね。

 

 

 

            コロナ戦争の集約までの、国民の自発の協力と、

                     地球全体を観れる感性と、

            大切なことを、キャッチできて、軽率に正しいと思えることを実行する前に

            緻密な専門知識の応用で、「専門性のある、、、謙虚さで、、、」

              命の前の、あらゆる方向の、、、「敵」を制御してゆくという

               専門家が円陣を組み、円の中心の、点に見えて、、、も

               とてつもない多面体の要素について

             知恵を出し合って、、、コロナの収束に

                  国民を導くのは、、、

            専門知識と、政治や一部の権力が支え合わないと、、、

            マスコミが数字で作り上げた「

       理論的、数値的、未来経済の在り方に「正しい方向」だからと。

          御茶の間の、ノンキな、推測に、マスコミの風を送り続けると、

                閉じこもった日々の反動が、

                    感情的ににダッシュすると、、         、

                   我も我もと、、、検査に走り

                  処理しきれない医寮環境の中で、

                疲れ切った医師の身体も

                     限界になるでしょうし、

                    スタッフも

                  保健所同様に、、パンクするでしょうね。

         もう、、、医療は、、、崩壊すると思うのです。

                Real time PCR

                             この検査は感度がよくなっているのでしょうか?

           例えば過去の歴史に戻ってインフルエンザのウイルスの測定時に比較すると

           COVID-19のウイルスは、鼻と咽頭とのウイルスの量は100分の一

                      粘膜に至っては千分の一、、、と書いてある文献も検索されますが

                      疑陽性が多いのはこうしたことが原因だとすると

          検査で正確な値を出すには、コロナウイルスの増やし方が問題になってくるのでしょうか?

 

そうなると、、、専門の訓練を受けてから検査に臨む技師さんが必用になってくるでしょうね。

 

では、、、韓国が行っている「LAMP法」ではどうなのでしょうか?

PCR法の1000倍以上も感度良好と聴きますがCOVID-19には使えないのでしょうかね?

ノロウイルスの時は、活躍が報じられていたと思いますよね。

 

構造的に、新型コロナウイルスは

   スパイたんぱく質、

   エンベロープたんぱく質

   インテグラルメンブレンたんぱく質  

   ヌクレオカプシドたんぱく質N

   などの表示とともに

   検索すると、構造式も、原始顕微鏡の写真も出てきますよね、

        遺伝子は螺旋形の構造をしているのは、大学時代に生化学で学びましたが

        リン酸化が、橋を作り、、、当時、、、クラスメートと、夢中になって

        二重らせんなのか、一重らせんなのかで、

       もしかしたら、、、エンベロープの脂質の二重幕の構造も、

           薬品投与で、構造を変えて、ワクチン造るとか、、、

      新型コロナを変形させてから、人間の細胞にくっつき、離れる機能があるなしで

インフルエンザの薬が効くか効かないかの分岐点が構造に在る以上

      たんぱく質を別のアミノ酸で置き換えるとか、、、

ガンマーナイフで切るとか、、、

      コロナの事を考えていると、

           劇画の中の悪いヒロインに思えてくるのですよね。

 

、、、今日から、、、お盆の間は、、、コロナの事は考えないようにしますが、、、

本当に、、、悔しいですよね。

      小さな、、、見えない奴に、、、ひっかきまわされて、、、疲れ切っています。…、

             こうなったら、、、コロナに感染することを前提にして、

          これから、、、何度繰り返されても対応できるように

              医療体制を整えて。

                設備も、検査機械も、、、車並みに 、

                    医療機関で使える設備を常備してはいかがなものなのでしょううね??

 

                頭脳は大食いな怪物だけに、

            医師から集めた税金は医療関係に還元しないと、

                医療スタッフが少ない日本、

                 検査も十分に手の回らない

                    医療社会を作っている政治のバランスの在り方を

                     真剣に考えないと、、、

                       これからの科学社会には

             コロナのようなパンデミックは、何回でも起こる可能性が考えられます。

 

                  アメリカの医師はプールが庭に有ったりします。

                      政治家は、、、自分の命が国を左右する以上

                           医師が、リラックスのくつろぎの時間にも、

                     細菌や、ウイルスで、汚染された髪からつま先まで

                            本人が仕事の延長として、義務だと自覚しないように、、、

                         休み時間間隔でプールで泳ぎながら、

                             ウイルス、野菌を滅菌水で泳ぎ落して

                             家族から拡がる感染を予防する効果でも、汚れを落とし、

                     24時間働いても、仮眠だけで働き続ける筋肉を鍛え、

                    休暇のつもりの中で、、、

                       心身ともに。。。寿命いっぱいまで

                        医療に従事させる作戦かもしれませんよね!

 

                       医師を養成するには巨額がかかるから、

                               お金持ちと間違う設備の中で休んでる間隔で

                    ドクターそのものをリフレッシュしていただく作戦ではなかろうか?

 

            医師の寿命いっぱいまで働ける環境は、

                医師が金持ちに見えるだけで、、、実は医師をするための環境は

                   世代を超えて使えるわけですから、、、ね。

                 豊かな精神で、清潔が、ウイルスレベルで保てる環境に

                   政治家が、気が付いているだけではなかろうか?

 

               私の父のように54歳で過労死する医師のいる日本は

                   経営に心血すり減らす、、、税金攻めで、、、

                    貧富の差を無くすという意味が

                     金銭的、見かけ的、、、政治の支配下に位置している

                  ことで、専門的な見えない財産が、、保健所を通すシステムの為

                    改良の余地があるように思えたり、、、

                  お茶の間で、、、医師の「医師をする時間を最大限にする環境に投資した方が、

                  日本は健康面で世界一富んだ国と言えるのではないでしようかね~~~?

                  患者さんに慕われ、頼りにされた父が、過労死するのは

                       医師の。医師をすることのシステムを

                        もっと簡素化して、

                         余計な作業に追い回されないような

                          未来において、、、理解してくれる政治家が現れると

 

                       がんセンターで起きた、独立法人化と、元に戻る短期間で、

                    日本のがん医療に、早期発見に、又、CTなどの開発に

                    全くの初期からかかわってきた医師が居なくなり、、、

                    愛知県の医師に変わってしまっていて、、、

                    50年の基礎的な歴史が

                     誠治が作った歴史になってしまうときに、

                    医療には、その歴史に携わった医師の業績は

                   誰も相続できない、、、その業績を示した医師の一代限りの作品のようなものでしょうから、、、

                   歴史をたどって、、、医学の神髄に触れることだってあるわけですから、

                   医歯薬歴史は、病気の治癒の為にも、、、偉業をなした医師の歴史は

                  政治介入で、時の権力と置き換えてしまっては

                  医学の神髄に触れる足場が崩されるようなものだと思うのです。

                  かって、日本では、、、CTって何ですか?と

                  MRI って何ですか?、、と

                  ペットって、、、PETですよね、、、

                  偶然にも、、、予期しない、早期がんが発見できたという人にも出会いました。

               政治の介入が、たった1年で、50年の、ほかの医師には代役のできない

               早期がんの発見の歴史に人生をかけた経験の歴史ごと、

              貴重な医学の伝承が出来ないまま、、、がんセンターは

                創生期の時代の先生の姿が見えなくなりました。

                50周年には、東北から来たという、、、見知らぬ先生が

                ホームページの中心にいらっしゃいました。

                誠治が介入した病院には、患者さんの知っていた、先生が

                 突然いらっしゃらなくなるから、、、

                  困るのは、、、経過を知っていてくださる病院であったという

                   歴史とともに、在るという、、、国際的なレベルを維持してゆく

                  医学の医師の先生がたが、、時の権力を握った仙石さんによって

                 患者さんの宝物の、心の、拠り所の、、、医師が居なくなって

                患者は、、、心から、、、医学と臨床の専門家の先生方の場に

                 権力も、政治も、、、介入することは、、、緻密でなさすぎる行動なので、

                 その欠損は、共に居た患者さんの心に、

                  政治の在り方を、もっと専門家との円卓を囲んで、在籍していなくても

                  多くの患者さんが、命を預けた医師こそ大切なのだと、、、思うのです。

                 コロナの問題も、政治が医師と言う専門家の集団が出来ない分野を

                 サポートすれば、、、医療崩壊は防げるのではないでしょうか?

                 組織作りに、民間からノーベル賞が出たことを大切にすれば、

                 素晴らしい知恵が、組織の作り方で、手順を追っているうちに

                 間に合わなくなることを、避けるのが、、、真の政治の力の発揮のしどころだと

                茶の間の、、、婆ちゃんは、日記に書いておきます。

                  

                 

 

               

改良の余地はあるとおも居ました。

 

                  医療人の接遇環境を、医療環境ととらえて、

                       勝気に考えないで

                     災害の時にびくともしない土手づくりの予算を

              医療環境に使うべきであると、

            パンデミックの仲間入りをしないのは

              海と言う、、、プールがあるからかもしれませんよね。

                お盆の産みで、、、私は、、心で父に会いに行く。

 

 

 

 

人間の中に眠っている、、、

        自分でも気が付かない勝気な行動ではなかろうか?

謙虚な心で、^

人間の業、、、て,,,,やつかもしれませんね。

お盆が来ると、、、父はあんなに、、、

大勢の人に囲まれた人生だったのに、、、

       54歳との若さで、、、過労死でした。

父が死んだときには、、、医寮だけが有ったのだと、、、

                    何も残していませんでした。

、、、自分の死期まで解る、、、

           可哀想な、、、

             仕事だけの、

               自分の時間が持てないという、

                     周りの思いやりや、応援の必須な

                         時間貧乏だったのですね。」

                                        私たち家族も、、、寡黙な父の表情から、

          専門的な知識の医療スタッフを増やすことの、気が付かなかった。

 

    それほど、、、父の時代は。。。日本に医師は少なかった。

                 

                      国家免許の番号から推測すると、、、たぶん、、、

                         5万人前後だったのでは無いだろうか?

         この写真は、父が大切にしていたアルバムに在った者を、、、転写しました。

                 日時は転写の日付けですが、、、どの先生も、、、もう、、、ご存命ではないと思います

 

                    東京に帰還した記念に

                    父の親友だったクラスメートが

                   開いてくださった会だったと記憶しています。

 

                      こうして、疎開地から生まれ故郷に還ったが

                    市ヶ谷の実家は、全く変貌を遂げたコンクリートの近代都市となっており、

                近所だった、文人通りは、巨大ホテルの国際的な役割を担う都会になっていた。

                       戦争を挟んで、天国と地獄を見た父母にとって

                         下町での新規開業や、

                            医療保険制度は

                              小回りの利かない

                                 私たち子供が

                                   田舎で育ったこともあり

                                  役立たずに囲まれた父に

                                 診療ト経営と、事務と、医師会など

                                医師にしか出来ない仕事の多かった時代の

                                   悲劇が起きたのかもしれませんね。

                          

             激務に告ぐ激務の毎日だったことだけは、、、             

                

                

                     軍隊に従軍した父にとっては

                       これしきの事、、、と、

                     一人で頑張っていたのかもしれません。

                       戦場に居たことを思えば、

                  当たり前の毎日だったかもしれません。

                      私たち子供や、家族が、「気付く」ことの大切さに

                          気が付くのが遅かったのかもしれません。

 

                     

 

           お盆になると、もう少し、生きていてくれたら、

               初孫の顔を観れたのにと、、、

                   お盆になると、、、お父さんの来し方の努力を思い浮かべては

                旧い写真が甦ってくるのですよね。              

 

          父が、東京に帰還する前に、、、一緒に行った「那智の瀧」は

                           私の、、宝物になった写真です。 

                    弟は成人して、国立がんセンターで

                  がんの診断、 がんの早期発見、CTや、ヘリカルCTの発展に

                  貢献しました。

                   弟の中には、、、父が生き続けているのだと、、、

                   お盆になると、父が弟を抱いて、月夜の夜、

                    子供たちと影踏みをした、、、南紀の夏を思い出すのです。

                

                   

 

 


お盆の思い出 その3

2020-08-11 12:47:37 | Weblog

人は、、、死んだら、、、どこへゆくの?

           小さな、黑い板のような、金色の文字には

                絵のような、字のような、不思議な模様が書いてあった。

                               幼かった私は、睦段の前で手を合わせ

                                       いつまでも動かない母に、かまってほしかった。

                 

 

         「ねえ~~人は、、、死んだらどこに行くの?」

その時には、、、、母は言葉に詰まって、、、答えてはくれなかった。

            その日の夕食後

              月も星も、童話の世界の扉のように

                 「ウサギさんも待っているよ、、、遊びにおいで、、、」

                                   別の世界が輝いていた。

 

                

母は、しばらく黙ったまま、、、夏の星空に吸い込まれていた。

「ほら、、、あそこに、、三つ、、、星が光っている。

    星は、瞬きながら、お話をするのよ、、、死んだお兄ちゃんもお姉ちゃんも、、、

                          星に行ったのよ。

                      

それから、30年の月日が流れ、

         父が亡くなり、、、

             北海道からやってきた大学の後輩が

                          北大の外科医と結婚することになり

            ヒコーキ代も、ホテルも、全て用意したから、当日は友人代表で

                         挨拶をしてほしいと、、、頼まれた。

         

     一年間だけ教養時代が一緒だったその友人は

                      はるばる北海道から東京の私立大学まで

                              親がサポートしてくれるだけあって、

      大学生活は、優雅な学生時代を満喫していた。

                     翌年になって、私は御茶ノ水の薬学科に移動した。

                        いよいよ専門科目が始まる、、、。

                           それから、国家試験を受けて 

                               学友たちとは別れた切り出逢った。

  24歳になって、やっと、

            心身ともに、居所となっていた職場で

                      北海道に行くための、薬を

                              残業して、作り置きしていた。

     仕事が終わったのは夜の10時を回っていた。

                   急いで帰宅して、旅の支度をして

                            真夜中のオーロラ便に乗るために

                               あたふたとしていた時、

                   幼馴染の「お兄ちゃん」と呼んでいた父母の友人の息子さんが

                     「真夜中の飛行場は、暇をもて余すだろう、、、話し相手に

                          車で送って行ってやるよ、、、」

                 仕事とはいえ、滑り込みセーフで、北海道行きオーロラ便に間に合った。

                「お土産買ってくるからね~~~」

                     それっきり、、、優しかった「お兄ちゃん」と呼んでいた

                       父母の友人の息子さんとは

                               会う事は無かった。、、、

                        今は、、、心の中で、、、、優しかったお兄さんの星は

                   お盆になると夜空で、呼びかけてくれるように輝いている。

         北海道に嫁いだ翌年の夏、

                   留萌の海岸に、真っ赤な夕日が沈み始めた。

                        「お爺ちゃんだ!、、、」

                      アパートに帰って、実家に電話をかけた。

                          誰も、、、出なかった。

                      入れ替わりのように、、、陽が沈んだ夜中になって

                   御爺ちゃんが逝った事を記した「電報」が届いた。

           お爺ちゃんは、死なないひとだと思っていたから、、、衝撃が強烈だった。

                        

    浜辺の夕日の、、、真っ赤な残光の中で、激しく生きた祖父の厳しくも、凛とした慈愛の笑顔が

                   お盆になると、思い出されるのです。 

   戦後の疎開で、にわかに人口が膨らんだ村は、

                アメリカ帰りの知識の豊富な祖父を町長として迎えた。

                   東京の名医さんが、、、無医村にやってくる。

                                 13年以上の滅私奉公の医師人生で、

                                      父が、大きくなった息子たちの教育の為に

                                                   この村を離れる日

              どこの家も、空っぽになった。

              何処の家からも、、、父を見送りにと、、、人が出てきた。

          通りは人で埋まった、。。。。。父は振り返りながら、、、別れた日の事が

       お盆になると、、、まるで。。。父が生きているかのように。。。懐かしく、和歌山を思い出すのです;

              


お盆の思い出、、、その2

2020-08-11 01:23:13 | Weblog

もうすぐお盆ですね、、、、

父母もいなくなり、兄弟も70歳を過ぎて、

スマホからの残暑見舞いの交流となって、

真夏の東京のお墓参りは

         久しくいく機会が有りませんでした。

それでも、、、我が家のエースの弟が

           戦後に「希望の子」

            新しい日本に向かって復興の祈りのもとに誕生した。

      父母の心は、弟の誕生によって、再び立ち上がれた事は

                       周囲も希望が出てきました。

廃墟のような日本が、復興してゆく

           団塊の世代の弟が、

               兄弟、親戚、甥っ子,、、姪っこ、、、

                    すべてに信頼されていて、

                        世代交代するまで

                            真夏の暑さを避けて

                                    法事世話役を

                                      してくれました。

北海道に、、、ちょっと立ち寄った縁がもとで

          明日は,、、帰ろう、、、東京へ、、、

                そんな思いのまま、、、

                   一度東京を離れると、

                       再び帰るのは至難の業のごとく、、、

                 里帰りもままならないまま、、、、

                        お盆になると

                          父母の笑顔が浮かんできます。

                  

              コロナのか感染を防ぐ意味でも

                      里帰りは、多くの人は控えていると思います。

私も、今年は何処にも外出は控えていますので

          懐かしい、、、父と母の、、、若かりし頃の写真と、

                  疎開先で誕生した、

                      我が家の想い出のアルバムから

                           離れ離れの子供たちと

                                 懐かしさを共有したいと思います。

            

 

 

          

 

 

 

 

 


お盆の思い出

2020-08-08 02:32:56 | Weblog

昭和25年の頃の

     お盆の思い出が、甦ってきます、

疎開先の南紀の山億の夏は

     草が、生い茂る川への道を 

蛍を観ようと、、、夕暮れる空の星の出現を見上げながら

地上の命の光のような 蛍に逢いたくて

   せせらぎも優しい音の小さな流れの傍に

 時めく思い出を置いたまま、、、疎開先から東京に向かったのは

13歳のときでした。

お盆には、戦争で亡くした家族の御霊を迎えようと

竹をそのまま立てて、カットしたてっぺんの方に

松の薪を円形に回して縄できっちりと、、、美的に縛って

   見上げるような「竹の松明が、、、家々の門の前に立てられていた。

一番星が出るころから、、、あっちの家、、、こっちの家の、、、松明に火がともされた。

空の彼方から、、、英霊となった息子達が、お盆には帰ってくると

叔母さんたちは本当に信じていたようだった。

我が家でも、、、、戦地の近くで、、、消えてしまった3人の子供たちが

松明を見つけて帰ってくるようにと

生き残った私たちを促して、、松明の良く見える縁側に

野菜類や、果物を並べて、家族でお盆のお迎えをしたものでした。

今生きていたら、、、100歳を超えている父母の事を思い浮かべる真夏の夜ですね、、、。

私は、、、ひょんなことから、、、北海道に住んで50年をとっくに過ぎました。

戦地で、母の御なかに住み着いた私は

   実は、戦地で亡くなった姉への未練が絶ちきれない母が

          姉を、、、もう一度、、、取り戻すのだと

                  もう一度,、、産みなおすのだと、

                         精神は決して豊かな状態ではなかったようです。

         日本がこんな形で、木っ端みじんになる終戦が来るとは

                             考えなかったのでしょうね、、、

                  私が臨月になって生まれそうな夏に、

      祖父が、戦地まで単身やってきて、、、有無を言わさず、、、

                 着の身着のままの娘家族を、

                         最後の連絡船に乗せて、日本に連れて帰ったそうです。

 腕のよう外科医だった父が、戦場で死ぬのも御奉公だけれど

           娘婿には、戦後の日本の復興に外科医は必要な日本本土で

                  生きて、、、御奉公してほしいと、、、説得したと、、、

                父は、舅に従ったと言っていた。

東京の実家はすでに無くなっており、、、どこがどこやらわからない破壊された街が続く中を、

祖父が「頼まれ町長をしていた、母の故郷の南紀の山奥へと、、、」

七か村、無医村と言う、、、医師としては激務の待っている町立診療所の医師として

お盆の高火の揚がる迎え火の中を、多くの英霊とともに、、、日本にたどり着いたそうです。

串本の祖父の実家に立ち寄って空襲を受けたそうです。

大きな防空壕は、ぎっしりと人が避難して、、、

生死の境の洞穴だったそうです。

焼夷弾の落ちる中を、、、間㎜気の山奥へと進み、

集落のいくつか集まった町立の診療所についたとき、

一粒のコメも無かった、、、着の身着のままだったそうです。 

翌日、、、精米所に言った母は

「お金は、、、後で払います。お米を少しください、、、」

もじもじと、、、小声で頼んだそうです。

精米所の、、、西前さんとか名乗った叔父さんは

    眉毛を糠で真っ白にした御爺さんかと見間違うような叔父さんだったそうですが

「ようがす、、、お医者さんを連れてきてくれたんだ!!!

      遠慮はいらない、、、この俵ごと、、、差し上げますよ!」

精米機のベルトが回る騒音の中で、ひときわく聞こえる大きな声で、、、

    米俵をくれたそうです。

母は、、、米俵の傍にうずくまってしまい、、、初めて、、、涙がボロボロと流れたそうです。

                    

戦地でも、泣かなかった。

   3人目の子供を戦地で亡くしたときにも、、、涙が出なかったそうである。

連絡船の前で、けっこにゅびわと引き換えに乗船出来た時も、、、喉だけがカラカラだったと言っていた。

日本に帰還できて、、、防空壕の中では

栄養失調で産まれた私を抱いて、、、泣き声の力も無く眠り続ける赤子を

無感動に視ていたという。

それが、、、町立の診療所の住宅に、、、着の身着のままの居場所を得て

精米所で、、、今夜の米を、、手に入れなくてはと、、、緊張していた時

いきなり、、、俵ごとくれた、、、西前さんと言う叔父さんの前で

へなへなと座り込み、、、涙がとめどなく流れ続けたそうであった。

戦争の現場から、、、日本に帰還できた母の気持は

               涙になって現実の命のぬくもりを実感したのかもしれませんね、、、?

その夏の御盆の松明の中を、、、父と子供たちを伴って、

         蛍の光る竹藪の裏を流れるせせらぎに行って、

                    命の光、、、小さな蛍の言葉のように

     闇の中を照らす、、、命を、、、

                 言葉にも歌にも文にも出来ない感動で

                         東京生まれの父と

                             子供なのに寡黙な兄と、

                                   いつまでも、、、観ていたそうです。

南紀のお盆はそれから、、、13回も体験して、私たち家族は

                 息子たちの戦後教育の為に

                        鮭が、、、故郷の川に還ってゆくように

                           戦後の復興の為の

                              新しい教育の流れの川に

                                 父は、戦後の日本を担う教育の川へと

          卒業した高校のある、、、東京へと、、、

                最後の命を振り絞って、

                      生まれ故郷の東京に還ってきたのは

                            私が13歳のときでした。

 戦争で、、、家も、実家も、、、自分の病院も全部なくして

                戦後は、アメリカの教育に追いつき追い越さなば、、、

                      日本は小さな島国である。

                父は命も、戦後働いたお金も、、、

                      すべて、子供たちが新しい世の中に貢献できるようにと

                       教育にかけてくれました。

             兄弟4人は、父の最後の頑張りの、、、国の復興を託しての教育に

                    女性の私が、、、男のような性格だったために

                      男性並みの教育費の負担を父に懸けたのかもしれません。

                  私立の大学の在学中に、、、父は54歳で、、、過労死してしまいました。

             戦後、、、希望の新生児として我が家に生まれた弟は、、、高校生でした。

 

父の初盆には、、、東京の開業していた醫院の庭で、、、松の小枝で出来た松明を

ささやかに灯して、、、家族は、、父の早すぎるお盆を、、、無言で迎えて

線香花火のような、、、あっけない大黒柱だった父の命を忍びました。

                    

               父の思い出のアルバムを開いて

                  早稲田高校の時代の記念写真らしい同級生と映っているもの

        疎開時代の祖父のいつものトレードマークの三つ揃えの写真

                    

   母の国立時代の教養の時らしい写真を、、、

         コロナの中、感染していない私だから、、、探し出して、

           離れ離れの兄弟に、気が付いてもらえたら、、、

                  まだまだ、、、頑張れそうですよ。

   医療家族に育った以上、、、コロナとは、、、最大限の注意力でたたくことに

                           努力は惜しみませんが

                 コロナは勝手に動くので、、、

                        3蜜を避けて、、、不要不急の一切を控えるしかありません。

夏休み明けの、、、若者の間のコロナが、、、どうか、、、第3波につながらないように、、、

          祈るしかありません。