花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

椿と山茶花

2020-10-30 06:29:33 | Weblog

椿三十郎、、、と言う「三船敏郎」主演の映画を視ていた若き日

          美しい椿の花を、

                                             小川水路いっぱいに、

                                                         紅い椿の花冠丸ごとチョンギッテ、、、

             椿の花の帯が、、、

          すごい迫力にしているシーンが有りました。

 

     黒澤明さんという方は

 

        シナリオも、ご自分の自筆による絵画で

          見事なリアリティで映画の画面が語る

                 奥深い洞察が、作品の素のように

        椿の花、、、

             彼にとっては「花絵の具」で描いた忘れられない画面として、

         

          おりにつけて、、、椿を視るごとに、、、

                        思い出すのです。

 

             スゴイ、、映画監督さんでしたよね、、、

             常人ではない、、、

           絵心が、、、

          椿の花冠のありったけを、

        絵の具にも似て、画面構成の命の川に使うなんて、、、

            椿の花は、日本侍の、潔さの心を観客に伝えてくる。

        

          椿の花の花冠丸ごとが

                 水面を埋め尽くしてどんどん流れてゆく!

        、、、

                     考えようによっては、、、残酷な!!!

    悪ガキが、、、あんなことをしでかしたら、、、

           母親の私は、、、黙ってはいなかったでしょう、、、!

 

         黒澤さんが、、、椿の川紅の画面に描くと、

              

               散る時は、花冠丸ごと、、、ぽとりと落ちて、、、

                   あの映画のような地面を

                          南紀の疎開先の

                              

                           バカでっかい敷地の椿の庭が

                     ころりと落ちた、、、椿の花冠で

                        絨毯になっていたことが

                幼い私の記憶の中に、甦ってきた。

   

       椿は少女の恋の花のように、、、紅い!

           でも、、、

                 花びらが、舞いながら散ることはしない。

            あでやかに咲いて,、、ポトリと、、、惜しげもなく、、、

               花冠ごと地面に落ちる。

     黒沢監督は、椿の花冠の地面の絨毯を視て

        踏んで歩く気にはならなかったのではないだろうか???

 

         

              踏まれてゆくには

       命が地面の上で、、燃えている。、

            恋のように

                   燃え続けている若き赤に

                川に流して、花筏のように

                  少女の恋の行方は

          水に流れて、、、大きな川まで運ばれて

              、、、まばらな記憶のようになりながら

       海へ、空へと、、、飛翔したら、

            花の終わりはいつしか夕焼雲のようになって

                  明日は朝がやってくるという、

                        余韻の画面に、

              私は自分流に勝手に思う事にした。

 

             

    椿は咲く直前が美しい、、、

           椿の蕾を視ていると

                あっけらかんの落花の潔さは想像できない。

 

          

        

                

                   エキゾチックでありながら日本の花よ!

               彼女の名誉の為に

               

               ポトリとは人気が落ちることはしない。

 

              

                    花冠がいつの間にか

                 見事な椿油に代わっていた。

 

                 

                 椿の咲ききった満開のあとも、

                   彼女は

           

              椿の花は、、私的には、

          ダイナミックな少女のエネルギーを感じる花から、

            石うすで曳けば、見事な椿油になるだろうと

              ひと手間かかるが、皆がイイね~~と言うような椿の花

          

         予期できなかった北海道の生活が

              北海道にしかない大自然の恵みの魅力に向かわせた。

           北大の生薬学は、理学部系統に代わりつつあり、

             ふぐ毒のテトロドトキシンに、、

          毒の基準があった平成の初めのころ、

            「沖縄などの海の底から集めたホヤ」に、

               毒のある種類があるというので

            「ふぐ毒の基準」にとって代わるのではないかと、、、

              「ホヤ」に夢中の大先生が、、、

                     民間の大会社から

             教室のドンになられていた。

 

           私は、、、「ホヤ」には興味が持てなくて、

         北大の薬用植物の、栽培のノウハウを学ぼうと、

               ホヤの、「ドン」の御許しを得て、

        薬用植物園の助手さんに、、、暇さえあれば

                   植物談義を聴かせてもらいに出かけていた。

      Y先生は、身分は当時は助手でいらっしゃいましたが

          

       実際の野良仕事で手をかけて育て、研究者の対象とする

                   基準薬草を手掛けているだけに

        現場で、植物と寝食を共にしないと、、、絶対に解らないような

         貴重な一言が、、、ポトリ、、、ポトリと、、、雑談の中に入るのでした。

 

        「聴講生の,れきっとした、学生課に登録されている、から

         教えてあげるよ、、、」と言って

 

        「これはね、、、ヒマラヤに行ったときの、

              ここからは、、、植物は無い!と言う、、、

                   境目にあった「コケだよ!」

 

          「おばさんは、、、当帰芍薬散って知ってるよね!?

             当帰って、植物さわったことある?」

 

          一応、、、日大の薬学部には、木村雄四郎先生や

                            滝戸先生

                     山内先生らが

          学生の為に、漢方薬に使う植物や

            動物、鉱物に至るまで、植物園や標本室に力を注がれていて

                研究心熱心な学生はいつでも見れるようになっていた。

          ただ、、、学名や科名、全て、、、

           ラテン語を強制的に暗記させられたのだけは

                逃げ出したくなった。

                    覚えないと、、、チンプンカンプンなのだから。

            椿と言えばいいものを、、、カメリア、、、○○。。。、、、

 

         富山医科薬科の、難波先生とは親友だったみたいで、、、

              北海道に住むようになってから、

                 難波先生の中心になった「薬膳」の集いなどが

                    四川飯店でも行われ、、、

                  初めてそこでは、、、

                   真っ黒い鶏の料理をいただいた。

                烏骨鶏と言うらしく、薬用の鳥だと聞きました。

               美味しかったですよ!!!

                     「世界を変えた薬用植物」と言う

            世界の視点が頭を占領して

            主人の単身赴任中なら、

           

           

               チェルシー薬用植物園まで行ってきました。

              1400年ごろからの原種のみを株分けで保存している

             努力の植物園でした。

 

           ロンドンからフランスに飛んで

               パリ大学の薬草園で、

                   マンドラゴラの

                 トマトのような青い実が生ったのを視てきました。

            パリ大学!!!

                 もあっさんの、、、ノーベル賞をとった実験室が

               現状保存されていて、、、

               ノーベル賞の賞状を額から出して、

                 当時の使われた印刷技術や紙質まで

                説明してくれました。

                参加者には、手で触らせてくれましたが、、、

                    私は、、、畏れ多いので、、、

               控えて、視るだけにしました。

 

               医薬史の会に、、機会が与えられたら

                  発表できるかもしれないと、

               病院のゼミにも参加できましたので、

                 カラー刷りの病院の歴史を保存したミュージアムの本を

                 館長さんは、フランスの方でしたが

                    signをしながら、、、

               参加者に美しい歴史観の保存品リストの本を下さいました。

              学者さんの中に交じって、主張するのなら、

                 どこかの大学の研究室に所属して、

                ドンの許可を得て、教室の連名で発表するという

                学会の、エチケットが、

            天然に身についている環境に育ってしまったので 

            発表することの、、、手順やルール、方式など考えていると

         宝の持ち腐れも無きにしも非ずですが、、、

             日本は、、、何といっても男社会の

               バンカブルな社会構造で、、何かをするのには

              大学院や研究所や、製薬会社の所属の一員でないと

             個人の発表は、ルール違反に近いものがある様な空気が有りました。

               

              私は、仕事を辞めて、家庭に戻り

                   ひたすら家庭を守っていたという

                  座布団の上に、、、座りなおしたのでありました。 

   

            北大の聴講生だけは、、、好きな時に植物園に顔を出しながら

           何とか、鉢植えだけは、枯らさないノウハウだけは取得できました。

       助手と言う社会的な地位は

               植物臨床現場のオーソリティは、

           どこの大学も、、、実はつながっているんですね、、!

 

           学者の世界って、、、研究を持ち寄って、

             発表し合って、、、

           新しい知見を共有して、「学会になっているんですね!」

               例えば、植物園の先生との会話ですが、

           「当帰」はご婦人の更年期障害などにも使いますよね。

             薬剤師なら、国家試験に出るから、、、知ってますよ。

           成分の構造式だって、、、、知らないと、

                    仕事にも、、、差し障ります。

      、肩ひじ張らずに、はっきりと応答した。

          「じゃ、、、北海当帰と、日本当帰の違いは?」

         Y先生は、、、「薬剤師なんて、、、そんなことも、、気が付かない?」

          思いっきり、、、現場の実力の差を確認せざるを得なかった。

 

         Y 先生は、北海道の東西南北山歩きされて

 

            日本海側と太平洋側の山の中の野生の当帰を採集して回ったという。

         「茎の色が違うんじゃナ!、、、」「一発に解るんじゃな!、、」、

           「試験管使って、、、試薬使って、、、成分調べんでもさ、、」、

            女性視たら、日本人の女性か?、アフリカの女性か?

                             一発にわかるんと一緒じゃよ!」 

                

          こんな調子で、私は漢方調剤処方箋が来たら、

                植物園に通う事で、

                     基礎の部分を再履修することにした。

          

             

               植物の実践に強い、

                実際の植物の癖を学べたことはラッキーであった、

               平成初期の頃の、ラストチャンスだったと思いました。

              Y、先生の後をくっついて、

             富士の裾野の「樹海の薬草の探索」にも

             昭和大学の植物園のリードで参加をさせていただき

                 プロのリードのおかげで、

                   何とか、、、生きて帰りました。

           

           「チャーターしたバスガイド」が、樹海に皆を降ろした後、

           反対側の出口でバスは待っていると放送したものだから、

            私はリュックごとバスに置いて、

          ナップザックに軍手や、タオルだけをもって降りたのでした。

          「青木ヶ原は、、、さすがに、、、さすがでした。」

           こんなに長く、、、

           のっぱらに居るわけはないと思って

              昼のおにぎりも、バスに置いてきてしまっていた。

           、昼ごはんが無いのは、、、私だけです。

           緊張して、

         木の根っこの上や、地が洞窟をもぐったり、登ったりして

           片足がズブッともぐったり、、、ヒヤリハットの探索は

           腹ペコで、、、

          「しまった!!、、、リュックを持ってくればよかった!」

            腹が、、、グー、、、となった。

 

           皆はうまそうに、、、握り飯に大きな口を開けている、、、。

 

           農学部の先生が、、、

                「あれ?昼食置いてきたの?」

          「バスに帰ってから、、、座席で戴くつもりでしたので、、、:」

           「良かったら、、、多く持ってきたので、おひとついかがですか?」

          「恐縮です、、、それでは、お言葉に、、、あま、、、」言いかけると、

 

          Yせんせいが、、、「ちょっと待った!」とやってきた。

 

           我が教室の聴講生だから、、、

           Y先生が、弁当を分けてくれるのかと

           楽観していたら、、、

 

           「ご厚意だけ受け取らせていただいて感謝します。、、、握り飯は

          分けないでください、、、彼女は、これからも山岳探索に行くので、、、

           身にしみて、、、自分の行動が甘すぎるという事を、学習に来ている      

           野外実習中なので、、、

               思いっきり、腹を空かせて

            体験で覚える時期ですから、、、よろしくご協力を!、、、」

 

          「え~~~?そんなのないでしょう、、、

              せっかく分けてくださるんですから、、、 

                バスに戻ったら、、、お返しも出来ますし、、、」

 

             「皆と一緒に食べたい!」と言ったら、、、

          「だめだ!、次の実習に誘って要らないというのなら、、、

          もらって食べてもいいよ!」

 

           Y先生は、こんなひどい意地悪だとは思わなかった!

 

           遠くに歩いて行ったすきに、、、農学部の先生が、、、

 

           「行っちゃったよ、、、この次からは、山野には

            自分以外は、大勢いても、頼れないと、わかればいいよ。」

           「おにぎり食べとかないと、、、

                 昼からの数時間、、、身体持たないよ、」

 

          「そうですね、、、戴きます、、、」

            お腹がすいて、、後で、、、おっ説教を聴く方がまだましだと、、

            苦い笑いしながら、、、戴きました。

 

            誰かが、、、面白半分に、、、

            「おにぎ、、、喰ってたよ!(^^!」

           でっかい声で言ったものだから、、、

 

            Y先生は、今度は、くださった方に、、、

             「やったらダメ!と、,、、言ったでしょうが!、

           体験させないと、、、わからんでしょう、、、このタイプは!」

 

            言ってくれますよね、、、

                 子供扱いして、、、、。

            ともかく、、、この時、、、

            握り飯を食べたおかげで、

                訓練はごあさんでした。

              次の実習の登山を兼ねた植物採集に

                 再び、、、知らなかッタ、、、では済まされない

              「野外探索会の常識」の訓練を受ける羽目になったのです。

             

           「対馬の原種植物の探索会に誘っていただいたのです。」

  Y先生は「対馬の山は、、、わずかに、、、500メートルの高さだ。

         早朝出て、日帰りだ。

               博多集合だ!」

            つっけんどうな言い方ではあったが、、、

           韓国の国際生薬学学会に参加して、済州島の山に

           大学時代の恩師のT先生が「生薬学会の会長」さんとして

          国際学会に未来の教授の卵の先生方大勢と参加する会が

          薬剤師会の会報や、パルマシアと言う、、、

                   何やら研究者の雑誌に出ていた。

            北大図書館で、「シェークスピア薬品考」を読んでいるとき

           知人が、国際学会の記事を教えてくれた。

          

            

            はるか昔の卒業生ですが、

             薬剤師会の会員と言う立場で

              韓国との交流が出来る

             「高麗ニンジンの国の、、、国際学会にさんかできませんか?」

          かっての大学の恩師にお伺いを立てました。

 

            「薬剤師会員なら参加できるよ。、、、

          今や日大の学生が参加している時代だからね!」

 

            そして学会はともかく、学会後の済州島の生薬探索会に

           一度は行ってみたかった島めぐりと、日の出峰の登頂をしました。

 

        その時、、、なんと、、、

                済州島からは対馬が見えたのでした。

 

         

           確かに、、、対馬は、、、歴史的にも

           日本と韓国の交流の島でありますから、

              一度は行ってみたかった。

 

           幸運なことに

                 Y先生が、

                   「原種植物の探索」に誘ってくださったのです。

      「椿の原種」をみたいと思った。

          グラフ雑誌などで、

              椿の実を石うすで曳き乍ら           

         椿油をつくる女性たちの、

                文化にも触れたいと思い参加した。

         そして、、、またもや、、

           山野に気楽な私は甘さが残っていたのだった。

             運動靴で参加したのでした。

         Y先生は、、、

        「 やっぱし、、、運動靴か、、、?

           500メートル位と言ったから、、、丘ぐらいだと思ったか?」 

           「この分だと、高山の探索会には連れてゆけそうにないな?」

            謎の言葉で始まった探索会は、

           鳥居をくぐると、すぐに、、、なんのことを言っていたのか

           理解が出来た。

           岩また岩のミニチュアロッククライミングであった!

            鎖場のロッククライムであった。

           運動靴では足の裏が痛くて、、、ひどい目に遭ったのでした。

 

               山の難易度は、、、高さではないと、思い知ったのでした。

 

                     Y先生の現場指導のおかげで、

              対馬で出会った野生の椿の一枝が

                挿し木でついて、、、

               30年ぶりで、、、蕾をもとました。

   

        

           このままの勢いで、、咲いてくれたら、、また写真を撮っておきますね。

       

                 三十年前の、聴講生との「おばさん」など

          覚えているわけないかな~と思って、

            先生らしい、薬草山の、生き生きした植物にだけ

                椿の報告をしてきました。

    対馬の野草の原種らしい、、、

            椿の一枝が、、、

                30年ぶりに咲きそうですって!、、、ね

 

 

           

 

            登山のノウハウを学んだのは

          その後参加した、、、白山登山でした。

            生薬学会の先生方は

                韓国の大学とは

                    学術交換麻学会なども開催されていました。

 

その後、

上田先生の信州の学会に参加を出来ました。

            入傘山で出会った、、、柳欄の見事な山の装い、、、

       滝戸先生がおっしゃいました。

        ランの花とは思わないでね、、、

             ヤナギランはアカバナ科だからね、、、

 

               登山を楽しんでいた私は

      学会後の探索会になると、、、元気が出た。、、

学会には韓国の大学の教授が何人か参加しておられて、

女性教授でいらっしゃったのが、、、

日本の大学とは、、、違うと思ったものでした。

聴講生、薬剤師会会員と言う参加のパスポートで、

男社会の組織を見学できたことは、

ラッキーだった。

         政治と、、、学会ね~~~

               答えが出ないほど、、、いろいろの要素が有って、

   やっぱり、、、学会は政治が届かない

              民会外交をしているという実感が有りました。

  学問が国境を超えているというのは、、、

         芸術や、、、オペラや

             何だかよくわかりませんが、、、

   奥の深い外交を無意識に果していらっしゃる、、、

         学会組織の外野からの私は

                 自分との間には

 

 分厚いガラス越しの世界のように受け止めましたね、、、。

 

学士、、、薬剤師会員、生薬学会会員、、医薬史学会会員、、、と言う

参加権のある会員と言う立場を使って、断れない参加者としての

国際学会にくっついて行ってみましたが

 

政治と学会は、、、語れない、、、

学会は、生きる道が重なっている者同士が

      友のように歓喜で行う外交の深さを

                 垣間見た思いがしました。

家庭に戻った私は、、、

全部の会員を辞めて、、、「○○さんの奥さん」と言う

名無しの権兵衛で

  76歳の冬に向かって生きています。

    息子よ、、、孫よ、、、

              

 

     寒菊の,、まとうは、、、己が光のみ! 

 

一つで好い、、、これが出来ます!、、、任せてください!と、

            いえる力を持ってください。

婆ちゃんが、、、居なくなった時代にも、、、この一行だけは覚えておいてね。


冬を生きる

2020-10-28 06:57:15 | Weblog

楽しいことも、、、一杯あったに違いない。

50年前、ひょんなことから、

札幌に住むことになった。

11月に結婚式をあげて 

私の知人は、顔見知りになったばかりの

主人と、、その父親。

東京から、出席してくれたのは母だけ。

そして、結婚のきっかけとなった、、、後輩の薬剤師ご夫妻。

後は、主人を受け入れてくださっていた、、、大きな医局。

北海道に住むという事は、

主人になる人の影を生きる

季節なら、、、冬を生きる、、、

日本でいうならば、、、一番厳しい冬を生きるという事でした。

北海道生まれではない、、、

北海道に来たのも、、、初めて。

言葉も、習慣も、考え方も、、、南紀の串本で産まれ

空襲の中を、南紀の山奥の疎開地にと、

   栄養失調の生まれたばかりの赤子は運ばれていった。

たどり着いたときは、、、一粒の米も無かった、、、と。

母は言っていた。

 

終戦一年前の事であった。

あたりは数件しか農家が見当たらなかったらしい、、、が

南紀の川に沿って、集落が七か所、、、牟婁群に東西、、、など

区切られた集落が点在していた。

戦争で出兵した医療人は、疎開先には居なかった。

学校の先生も、校長先生は疎開をしてきた先生でした。

近くの大きな銀杏の木の生えたお寺の和尚さんが先生でした。

御習字は、高野山に「競書会」と言うところが有って

一年に何度か、祖父に手を引かれて、高野山に行きました。

女性が登ってはならないという坂が有って

終戦後は、そのようなしきたりは無くなったようですが、

坊さんは皆,毛筆の字が お上手なので、行くだけで、啓蒙されました。

今はお亡くなりになってしまいましたが

宝亀院と言う一千年以上は前に建立したのではと思われるような

国宝になっているお寺に宿泊しました。

 

あちこち経年変化を余儀なくされたお寺は、

規則では修復は面倒な手続きが要るとかで、歴史を重ねた木材が

風雨にさらされて、何とも表現しがたい山中の古寺の景色でした。

世界遺産になる前の,、、霊気に満ちた高野山は

風雪のままの、建物は客間は無くて、水道も有りませんでした。

手の切れるような冷たい水は

宿泊者の朝の御勤めには、目覚まし時計以上でした。

顔を洗っても、手がしびれました。

それでも、お坊さん方は、墨染の衣で、寒い本堂に座り

長い長い、、、お経を唱え、朝の御勤めをしていました。

     世界遺産になる前に、何度か高野山に行けたことはラッキーでした。

高野山の冬は、子供の私にとっては、,、、

          かじかむぐらいの寒さだった。

宮本さんと言うお坊さんは

小坊主さんの時から、母を知っていると、、、おっしゃいました。

「私が小坊主の時、、、貴方のお母さんに逢ったのですよ。」

母が高野山に行っていたことは知ってはいたが、

宮本さんと言うお坊さんに、覚えていただけるような

印象を、母が与えられるような原因を知りたかった。

「大勢の人が、高野山にやってくると思うのですが、、、

母の事を、覚えていてくださったというのは、何か特徴でもありましたか?」

私の知らない母を、教えてもらいたかったのです。

「あなたのお母さんは、多くのお見えになられる方々とは

     全く、、、違っていました。」

「今,あなたが座っていられる、虎の墨絵の前に、貴方のお母さんも座られていました。」

住職との会話を、小坊主の私は控えていましたと言っただけですが、、、

人生そのものの、大きな影響を受けた一瞬でしたともいった。

それ以上の事は言いませんでしたが、

達筆な字で、半紙の字を書かれて、お名前も書いてくださり

私に持たして下さいました。

        今はもう、、亡くなられて、お孫さんの時代になっているでしょうね?!

弟が母の遺言のとうりに、、、父の逝った時と同じところに行きたいと

弟が、冬の中、、、1人で、母の位牌を抱いて、高野山に登ってくれました。

その時にはまだお元気の様子だったのではと思っています。

次の歳の春には

北海道から、主人にもついてきてもらい、

母とのお別れに行きました。

主人は宗派が違うというので、ためらっていましたが、

冬も終わって、春がやってきた時

一緒に、高野山の宿坊として表示されている、

観光業者の手配で、観光盛んになった時代の寺に宿泊しました。

その時は、宿坊から、宝亀院を訪ねました。

それから、何年かたって、次男が医科大学にやっと、、、合格できた時

年子の次兄夫婦と、姪っ子と、再び宝亀院に泊まりました。

朝の食事が、高野山の「護摩豆腐」を戴く事が出来ました。

本当に、美味しくて、高野山の水で造るから、、、こんなに美味しいのかと、、、

今も、、、豆腐を食べに、、、もう一度行ってみたいと、、、願っています。

旧い、、、確かに、、、国宝にはなるでしょう、、、

建立された当時のままの、

     時代をしのばせる古さは

           胸に来る素朴な自然と一体の

                不要不急の物は一切ありませんでした。

コロナの閉じ籠りの毎日ですが、、、

           高野山を思い出しながら、

                お寺の坊様の暮らしを考えるとき

天と地と、、、天知る、、、地知る、、、、人間と言う者たちよ、、、!

多くの仏像が、「甘い!、、、修行しなおしなさい!」

禅のこん棒で、、、頭をたたかれた思いだった。

       世界遺産になる前の1990年頃の高野山に

               主人を案内できたのは、

                   外科医だった父の居る高野山に

                      母が、私たち夫婦を

         無理やり案内して行ったような、、、主人からすると

                 考えても居ない成り行きで

                    高野山に行けたと、感慨深げでした。

            結婚したばかりの札幌には、

               正月が来る前に、小さな新婚のAPは家事に逢いました。

      冬の始まりに、、、焼け出されて、、、大学院生との結婚生活は

     命からがら、、、階下の若夫婦の喧嘩のとばっちりの、プロパンガス爆発でした。

               主人のそぼが急逝して、私だけが東京に行ってた留守宅でした。

            当時、大きな医局の大学生は、深夜まで、あっちこっちに出張でした。

           その日は。当番では無かったが、急に、夕張への出張を頼まれて

          自宅のAPには帰宅せず、、、夕張に宿泊していました。

              東京で、母や、親類が用意してくれた

              結婚の時の着物も、衣類も、タールで、真っ黒になっていました。

         黑いビニール袋の20枚では足りなくて、捨てるのには大変でした。

            冬の間は、留萌の合同宿舎の共同台所、共同トイレ、、、しかも、、、

                 真冬のマイナス20度の時も、暖房もない🚻、

               あの一か月は、シベリヤの翼竜から帰還できた叔父さんの

                 笑い話に話す、、、トイレの様子を思い出し、、、

                   我が身になると、笑い話どころではありませんでした。

              せっかくの、男の子だったのに、、、

                  冬の暮らしを知らない、、、未熟な若い母親は

                 母親であることを、天の力で、却下されてしまいました。

               追い打つように、、、留萌小学校が焼けて

                 宿舎の庭にも火の粉が飛んできました。

                 yasika シングルエイトで、留萌の火事を記録したのですが

               ワンマンだった主人は、学校関係者に切り取って、渡しました。

       あんたが持っていても、単なるカジノ映像だが、

            留萌小学校にとったら、歴史になるから、

                学校関係者に、切り取って、渡してきたと言った。

              北海道には寒い冬がやってくる。

      それから4年間、、、北の冬を一か月ごと、ローテションするのだった。

   結婚と同時に3か月ごとに、留萌への1か月研修医の生活が始まった。

            息子が生まれ、一歳の時は、

           あたたかな余市の、病院住宅に行くことになった。

病院住宅に空き家が出来て、やっと一軒家に住むことになった。

 洗濯機が無いので、タライにおむつを入れて、湯を沸かし

            毎日干すのであるが、、、、三か月ごとの、一か月なので

      洗濯はタライに入れて、しばし原始の夫人たちの苦労を味わいながら

             テレビのない生活が、自然に目向けさせてくれた。

 

           余市の冬は、留萌の冬を経験した者にとっては

            あたたかな、穏やかな冬であった。

           ストーブだけは有るので、お湯がいつも湧いていて、

            洗濯も、快適な木立住宅であった。

           2~3年のうちに博士号を取得して東京に帰る約束が、

            世間知らずの、主人の思い込みであって、

            実際は7年かかって、、、やっと

         「感動脈のバイパスに関する動物実感が博士論文として、

               北大から、博士号が授与された。」

           臨床外科に携わる、心臓や、循環器にかかわる手術をする医師としては

      実際の手術や、診療に追われて、論文を書く暇が無かったという事が

           7年も、かかってしまったという訳だそうです、、、

                主人の言い訳かもしれません。

                   事の真偽は解りませんし、、

                  、別の世界の出来事だ㋐から、

             こうして、、、我が家に入って母と暮らし

                東京に帰るはずの外科医の計画は

                  世間知らずの、、、たわごとであった、わかったのは

                二人目の男の子が生まれた時だった。

              母からは「30歳代で東京に帰還しないと、、、

             お父さんのように、無理がたたって長生きできないよ!。」

         母からは、、、30歳代で,、東京に帰らないと、、帰れなくなるよ!、、、

             いつしか電話攻勢も無くなって、種じっは40歳を過ぎてから

              助手として、大学に帰って行った。

 

               もう一度、、、のんきに人生をゆっくり歩けるのなら、

               主人には振り回されないようにしないと、、、と

                思うこの頃です、

 

               世間に疎かったのは、、、私の方だったと思います、

              寒い冬を、、、も一度思い出して、、、

        コロナで閉じこもっているが、、、札幌の冬のまともな寒さを

            今は、、、、これなら。。。戦える!、、、頑張れる!と。

          現役の薬剤師として、総合病院に勤務中であったのに、

              しかも、父母の苦労を知ってい乍ら、、、

                母の苦労の軌跡を知ってい乍ら

                 初代の外科医が、一人前になる間には

                     家庭を振り返るどころではナイノヲ聞いていながら

 

          友人も、学校も遠い、親戚も姉妹も会えない、、、

         他人の縄張りに、、、外科医を迎えに、、、見知らぬまま、

            付き合ったことも無い若き外科医の卵と結婚するなんて、、、

              、、、

 

        母の場合も、祖父が捨て身で、戦地まで迎えに来てくれたから、

          特別の帰国を許されたけど、、、

            私には、、、迎えに来てくれる父は天国に行ってしまっている。

         人は、、、愛する者に、、、自分が、、、どんなにつらかったかを

          理解してほしいと思うのかもしれない。

         母は、戦地の近くの若き日の事を、

           娘の私に理解してもらいたかったのかもしれません。

         さんざん苦労をした挙句に、

           戦争と言う大きな障害が有ったからとはいえ、、、

         開業も軌道に乗り、、、これからという時、伴侶を無くして

           さすがの母も、、、娘だけには、、、

          心底、孤独を理解してほしかったのかもしれません。

         苦労の結果、東京の開業を一緒にやれる日の為にも

       私と言う娘が、、、、

          いつまでも、娘として、寄り添う女性の友であることが

            母の城であることだったのかもしれません。

        

            まさか、、、このまま、、、北海道で、人生を終わる娘だとは

           考えなかったのかもしれません。

          母は、近所の、方々に、、、娘夫婦が還ってくる日の為にと、、、

           いつも、夢を語っていたと聞きました。

           北海道には来ることは、、、、勤務を辞めて、貧困に耐えれば出来た。

         しかし、、、

          東京に再び帰ることは、、、難しかった。

              

          友も、卒業した学校のクラス会も、、、親戚も、、、

          今は、、、顔も思い出せない、。。。 

             老人になるという事は

             長い長い冬を、、、楽しみながら、、、

           1人で生きることかもしれません。

        1人で生きるから、、、主人や子供たち孫たちとも、、、

            生きてこられたのかもしれません。

     

南紀で産まれ、小学校から大学まで、、、

   のうのうと、、、東京の気候の中で育った私は、、、びっくりした。

寿町の崖の上の、海に面した宿舎であった。

  TVはNHKも映らない、、、雨降り画面であった。

    アンテナが無いので、、、針金で出来た鍋敷きを

日本海に向かって、斜めに傾いでいる物干しにしばりつけた。

画面はシャバシャバの雨降りの中に、、、何やら動いているという映像。

しかし、、声ははいる。とぎれとぎれで、、、何か言っている。

6畳ぐらいの広さの一部屋で北東の薄いガラス窓には

   雪の結晶の氷のレースがカーテンのように視界をふさいでいる。

ガラスが、触ると割れそうなほど、、、窓がしなっている。

 

頼れる人は自分自身だけ!、、、これが本当の冬だと思った。

外科内科の看板を降ろすのは、、、父の死を受容するようで

 母には、一緒に戦争を生き抜いて、3人の子供は失ったとはいえ、、

無事に戦地から帰還して、

   疎開地にたどり着き

        一粒の米から、

            14年無医村で戦後を村人と共に生き

               来るべき時が来た子供らの進学で

                 鮭が故郷に遡上して

                  卵を守るかのような、、、東京の故郷に

                      開業して、、、長男が

                  内科医としてデヴューしたと思った矢先、、、

             前日は、患者さんの手術をしていたのに

         明け方には、、、大往生、、、54歳の2月だった。

      母には配偶者の人生が終わった事を受容できないと思った。

           

   東京で、、、本当の冬を味わった。

 両親の疲労に気が付いていたのは長男の内科医だけだった。

    早朝、、、5時前に、4人の兄弟は長男に起こされた。

        囁くような、、、静かな声だった。

     「お前ら、、、皆、、、起きなさい、、、」

    朝日が昇る前だった。

         父の手はあったかかった。

            兄が心臓マッサージを始めた。

               父の手を握っていたままの私には、

                  ひんやりとしてゆく父の手の

                    つるつると、、氷の表面のごとく

        冷気がまして、硬直してゆく父の手を、放すことはできなかった。

            兄は、、

               

                 母を起こさなかったのは何故?、、、

          母は体はこの世に有っても、

           妻としての母は、父と一緒にこの世を旅立ったのだろう。

         長男が冷たくなってゆく父の

            心臓マッサージを辞めた。

               

      「後の事は、、僕が背負う、、、安心して旅立って行ってほしい、、、」

       兄弟は、誰も泣かなかった。

         翌々日からは本当の冬が始まった。

          多くの患者さんが、突然の「かかりつけ医」の

            急な逝去が信じられないのか、煙になるまでついてゆくと言い出して

    バスを手配して、最後の患者さんのお別れの中で、

            父の煙は空高く消えていった。

           

              煙を視た時から、、、涙があふれて、、、止まらなくなった。

 

            大学の部活の仲間の皆さんが来てくれていました。

          北海道からは、高校時代の同級生も、

                      急遽駆けつけてくれました。

      こんなに友達が居るのに、、、

              涙が止まらなくて、、、止まらなくて、、、

 

     この場で、父への悲しみは、泣きつくしたのを思い出しながら、、、

       もう一滴の涙も出ないという、悲しみとともに、

             すぐに立ち上がらなければ、、、

                      母は未亡人、

 

                まだ新米の内科医の兄には

                  150人/一日の、来院患者さんは

                    一人では難しい。

             弟は高校生、、、これから医師になるという学生だった。

                

     我が家には、、、戦後、、、初めての本格的な冬がやってきた。

        戦争で、自分の建てた総合病院を無くし、

                 

            疎開地で、激務の14年、、

                

             そして、念願の生まれ故郷に回遊できたのに

                戦争引揚者や、学徒出陣んで帰還できた実弟や

                   多くの居候を家族丸ごと抱え込み

                 それぞれ生きてゆくための学校に進学させた父。

   我が子が未完成なうちに、、、過労死してしまった。

          54歳は、、、これから、、、

             新たなる日本への貢献が出来る年代でしょう!

             戦争が無かったら、、、どんなに平和な人生だったことだろうか?

    厳しい冬が来る、、、

    北海道の冬は、札幌でも、寒い日は、マイナス15度ぐらいにはなる。

         しかし、、、私にとって父の逝った昭和40年代の冬は寒い冬だった。

       主人とは付き合いも無く、、、外科医と、現役の病院薬剤師という

           仕事上の出会いであったけれど、

             外科医であった父の姿が、いつも重なり

              私にとっての主人とは、

         54歳で、やり残してしまった社会への健康面での貢献を

         一日でも長く、「医師をすることで、父のぶんも、貢献してほしい。」

            

       「医師をすることへの、サポ――ト」には

               父が生き続けることでもある様な、

                     サポートの責任を感じている。

        医師は、病気と言うブラックホールのような

        マイナスエネルギーを、

          プラスに転換してゆく、、

           、集中力と、緊張と

              学力、と体力と臨床経験が要る

               

         客商売に見えて、、、病気との戦陣であるから、

            見えないウイルスと闘い続けている続けている戦場が職場である。

       

              

      私も76歳になった。

       主人より一日でも長生きして、、、

            医師をすることしか頭になかった人生は

                  一日前まで、現役でいてほしい。

         

      本当の冬は、一杯の温かいおかゆが有れば幸せかもしれない。

 

        生きていることを、、、大切に思う後期高齢者の

              婆ちゃんの、、、思い出の、、、日記でした。

       

            大好きな、、、言葉、、、

         冬来たりなば、、、春,、、遠からじ、、、

         Heaven and hell is in your heart.

                              

     余分な事かもしれませんが

 アメリカの富豪が、coronaにかかっても、すぐに治癒したからって

  コロナなんか、、、とおまく見ないでいることが

 我が家の目下のテーマです。

    アメリカの偉い人は、、、最高の治療を受けたと推察されます。

    私が推測するのは、難しいので、

    信頼されるサイトの専門家の記述で、

    多くの意見が重なっているところを

   年の為、、、離れて暮らしている兄弟に

    知らせておきますね。

       

         たぶん

   レムでシビル

   デキサメサゾン

   VIPのみ、、、使用できる研究段階の

   患者の体内たんぱく質に極めて似せた「抗体」の投与?

   コロナに良いとされる治療全て、、、

   そして、元気なうちから、酸素吸入、、、

   あらゆるビタミンや、ミネラル、出来得る治療は全部実行したと、、、思いませんか???

   余病を抑えるアスピリンや消炎酵素、、、

   お金が有れば、、、出来ないことも、、、やってのけたという

   かの国の、、、一例報告で、、、

   自分だって、74才だ、、、、coronaは、恐くないと、、、舐めない事です。

   かの国のVIPと同じ治療を受けることは、、、

   限られた、、、大金持ちだけが出来たと、推察いたします。

  、

   運よく、日本は島国だから、、、水際で踏ん張っているだけであると

   推察されます。

   外国からの旅行者を充分に検査して、発病期間を待機していただくことは

   引き続き、、、3月明けまでは特に、インフルエンザと重なりますよね。

   病院の隔離病棟を確保して、coronaに慣れて、軽く考えないように

   若い知事さんの賢明な経済対策と、コロナ対策を、感謝します。        

         とりあえず、親戚兄弟に連絡します。

               


札幌の冬はそこまでやってきた、、、

2020-10-24 19:04:18 | Weblog

庭の楓が紅葉した。ヤマモミジの枯葉が我が家を取り巻いている朝。

50年前にはコップほどの太さだったお隣さんのヤマモミジ、、、

西北の角の、、、我が家は枯葉の吹き溜まりになる。

雪のなれば、雪の吹き溜まりになる。

北東の枝垂れモミジが、紅葉始めた。

真っ赤になって、、、そのアカの美しさは

翌日は雪の上で、大地は燃える紅葉を雪の白さの上にアートする。

冬の到来は、天と地の、激しい赤の出会いが瞬時に消えて

           あたりは白い世界になる。

      冬の到来は、劇的な赤の消失から始まる、、、我が家の庭の、、、

白い世界の始まりが、、、、もう、、、そこまで、、、来ています。

   さ、、、、さ、、、さむいね~~~、、、鏡の中の

          見知らぬお婆さんに、、、、話しかけている。

コロナ、閉じこもりの、、、秋の終わりの、、、ワンショット。

             帯広の公演の紅葉です。


お弁当を持って行ってね!

2020-10-21 04:39:54 | Weblog

、coronaの報道が起きるまで、

弁当を作った記憶は、思い出せないほどの日々の中、

今は早朝に、ほかほかのご飯を炊いて、

弁当を作る、

メインに心がけていることは

出来るだけ、、、素材になる野菜や肉には、人工的な技術で形を変えてしまわないことです。

我が家の弁当は、、、テーマは「美味しい」とか「見た目はきれい」とか、「料理の神髄」ではなくて

                   材料の変化が一目でわかる弁当です。

                       人工的に料理の腕の入った食材は、食品会社のパックそのまま使います。

                  

 

          サラダも、キュウリ,、シバ漬け、 カットリンゴのリンゴのほっぺ漬け、、

                   肉は北海道産のこま切れ肉のオリーブオイル炒め、、

                      たまご は、半熟、

                      または白魚のお湯で塩出ししたものに

                                  滅菌水で薄めて、めんみで味付ける。

                        ウスアジ梅干し、、、2パ^セント塩

                                のり、、、

                           優雅な愛情弁当ではありません。

           おやつとして、頭を使うと糖分が消費するので、

                     

                        森永の通のこだわりプリンを同席させる。

 

                はっきり言ってしまえば、、、人生は登山だから、

                  山頂で食べるおにぎりの美味さが有れば良いと思っている。

                  素材がそのまま解る弁当にすることを心がけている。

                   焼き肉を入れた上には薄く切ったキュウリのピクルスで防腐する。

                     卵と白魚のスクランブルは、

                        寿司酢入れて炊いた酢飯の間に挟んで入れて、、、防腐を兼ねる。

                  免疫のつく乳製品として、チーズの種類を

                               ローテンションしながらセットする。

             つまり、、、職場と言う山頂で食べれる「塩分の使わないおにぎり」に相当するものが

                                     我が家のテーマです。

 

                      なぜ????て、、、?

                  理由は簡単です。

                     外食するのが面倒だと、、昼の時間もマイペースで有効に!

                      外食は、、、特別に必要なコミュニケーションディナ~以外は

                             弁当で済ませてね!

                          電車の混む時間は、月給半分かかってもいいから

                           窓を開けて、換気の良いタクシーで

                                  駅は避けること、、、

                            

          来年春までは、、、後悔しなくていいように、、、

                    コロナとセットに成ったら怖いから、、、

                               余病を引き起こさない配慮で

                       腐らない物、菌のつかない工夫、

                               素材の変化が解る料理方法

                      材料の表面積を少なくする味付けの工夫

                       酢,酒かす、 梅干し、佃煮の語ることを応用した弁当で

                         食べることで,、、

                           口内殺菌を促す弁当を工夫しています。

                 お弁当箱は、市販の真空パックのできる大きめのもので500円ぐらい

                    保冷材の薄いのを、キッチンペーパーでくるみ、

                      ビニール袋で包んだものを弁当をする時包む時に同封します。

                         弁当箱は、回収すると、

        キッチンハイターに漬け置きしてから,お湯で洗って、完全乾燥させます。

             包んだハンカチは次亜塩素酸に漬けてから洗濯して、完全乾燥します。

                          3枚ぐらいスペア―のハンカチがあると

                             、無理なく乾いたものを使えます。

 

                           目下、、、病院に勤めて居る以上、、、

                           女房の落ち度で

                     先生方に、御迷惑がかかる様な事になっては

                         私も、医療の仕事人なので

                           全力で、気を付ける毎日です。

 

                             家内のせいで、、、医療を邪魔することだけは

                              避けねばならないと、

                            弁当作りは、、、決して、、、愛妻弁当ではありません。

 

                             押しつけ弁当を、主人に持って行ってもらっています。

 

                           コロナ!一日も早く❕!、、、収束してほしいものですね。

                          

                      病院のスタッフの医療体制が崩れないように

                       家庭も、油断をせずに 配慮をしばらく続けましょう、、、

                      一番いいのは、、、梅干しのおにぎりですが、、、

                        我が家の場合、、、それだと、、、主人は外食すると、、、思います。

                        外食する日が、必ずまた来るように、、、

                       病院についたときに、万一コロナが、口中に入ったとしても

                         胃酸の中では、、、いちころなのはず!

                          外出から帰ったら、60度以上の御茶を飲むか、、、お湯をのむと良い。

                       机やテーブルはアルコールの滅菌用の不折布で拭いた後、

                         しばらく、滅菌完了するまで、急いで、からぶきしないことですよね。

                        見えない敵に囲まれても、正しく怖がると、、、適当な緊張感で済むはず。

                       76歳の私は、、、一番大事なのは、、、自分!!!

                          インフルエンザの予防注射してきましたよ。。。!

                           27号の針でしてくれたのかもしれません。

                             全然痛くなかったから、、、ね。

                           孫たちよ、、、婆ちゃんはしばらく姿を現さないのは

                              君らが卒業するまで

                                 絶対に、生きているように。。。頑張っているんだよ!!

                                 

                 


弟からの電話。

2020-10-18 06:21:27 | Weblog

コロナの閉じこもりで

     生活時計も、針が止まっている様な、、、閉じこもりの毎日が続く中、、、

弟から電話をもらった。

     父母に愛されて可愛がられた幼少のころから、

         戦後の、、、ややもすると、、、暗い世相の中

                  弟たちの年代は、「団塊の世代」と呼ばれて

                     戦後の日本の復活を背負ってきた年代である。

戦争を知らない新世代の誕生に、父母は再び、希望を持って

        立ち上がっていきました。、、、この子の為にも。。と。

戦前には市ヶ谷のお屋敷に生まれた父も、

関東大震災や、富国強兵の時代に青年期を迎え、

○○庁勤務だった実父の「国に役立つ人間に成る為の教育と、家訓」の中で

明治生まれの父の時代は、現在のように、自由な主張は通らなかったようですね。

「東京大学に入学」して、学者家の緻密な学問で御国の為になれるか?

外科医になって、次々と続く戦場で、戦陣外科医として、何でも対応できる技術で生きるか?

厳しすぎる家の希望に、長男の父は従うしかなかったようです。

本当は、地球規模の森羅万象すべてに興味が有った父は

本人は、、、農学部に行きたかったと、私が高校生学生の時に

大學の学部について話してくれたことがありました。

医学部に行くなら、獣医さんの方が興味が有ったらしいです。

坊ちゃん育ちの父にとって、ピンからキリまでの職業の患者さんを診察するのは

自信が無かったようです。

動物なら、そのまま、観察しながら、素直に、状態から学べばいいとも言っていた。

人間の医師は、小児科なら、、、母親とのコミュニケーションに神経を使うし、

内科なら、精神と内科的疾患の関係も勉強するだろうから、、、

人間の複雑さと付き合うのは苦手らしい事を言っていました。

外科医と言うのは、、、昔、、、床屋さんだったのだよ、、、とも言った。

床屋のパレは、瀉血や、外科的処置を

          学問の域にまで達せさせた。

                 外科は、技術から医学へと発展したそうです。

父の実父と言う人は剣道なども5段で、

             日本の忠儀の心の

                 武士のような人だったのかもしれませんね。

ビジョンに生きて、東大を目指すか!?

           技術を磨いて、国の役に立つ人間に成るか!

現在の子供なら、、、聞いてないふりをするかもしれない,、、無理難題を

当然のように,、、言ってくれるじゃない、、、て感じがしますよね(^^!

 最終的に父は

                         

東大には挑んだが、、、あえなく、、、減益は破れ、

浪人は石頭の実父(爺ちゃん)には許されず。

当時は運よく、英語とドイツ語の達者な父は、2年への専門課程入学を許されて

外科医になった。

       そして、日本の占領地であった大陸への道が開けてしまい、、、

            時代の成り行きから、、、

               世界大戦に巻き込まれて

                  従軍しました。

終戦まじかに、日本の寄せ書きのある日の丸の旗と  

               軍隊手帳と、

                   千人針の「武運長久」と刺繍された晒布のたすきと

                       母が生前

                、、、これは男の子に渡すより、

                   他家に行くだろう、、、女の子に持たせた方が良いと考えたのかもしれません。

          母は外国の地で、3人の子供を亡くしているので、、、戦争の事は思い出したくないのでしょうね。 

           歴史の物として私に預けたものはそれだけでした。

後日母が亡くなった後、母の住まいを訪ねた時は、

窓が壊され、グランドピアノは持ち出された後でした。

3台あったピアノの家は、廃墟のように荒らされて、

   今、着替えたばかりのような、母のロングスカートと、上着が,

        入口の玄関にたたまれていました。

               総和20年代に。疎開地で購入した

             brather???こんな会社だったかな?。。。

           黒いヘッドに金文字で書いた足踏みミシンが

               実は、、、私は、、、それが欲しかった。

                   何とも言えない、、、お淑やかさと、モダンと

                       静かに、、、アグレッシブな日本女性の

                           ミシンを踏む姿に希望が持てたから、、、。

                   しかし、、、疎開地で活躍して、村人の人気を博した、、、あの!

                          2Fに逢った、、、ミシンは無くなっていた。

                  独り住まいの、ピアノ教師の家は

                 葬式の後、初七日に再度訪問したときには

                   廃墟になっていた。

                  49日の日三度目の訪問の時は

                     懐かしい2階の母の住宅はブルトーザーのタイヤの跡がついていた。

               父が自慢していた愛用の柿右衛門の赤絵の皿が

                   土だけになった、、、幻の母の家の庭に、、、割れて刺さっていた。

                              

                     庭の 鯉の居た池の傍に、、、母が大切に育てていた鉢植えの植物が

                          粉々になった鉢の傍で元気に生きていた。

                           空港で買ったお菓子の袋に入れて、

                   

            古い箪笥の、引き出しは、鍵が開けられて、

               空の引き出しが、引きだされたまま、、、

                         空になっていました。

                           ドアも、窓も壊れていたから、

                             守りたいものは、、、一つも無かったのかもしれないと

           はやく運び出さないと,、、天国に召されてしまうと、、、焦ったかのような???

   お父さんが若くなて戻ってくるのだからと、、、楽しみにしていた時期は過ぎていた。

母の意向からであったとはいえ、、、北海道の外科医と結婚して

実家に入ってくれる約束だった。。。。。主人ともども、母と暮らすはずだった。

           しかし、外科医が一人前になるのは40歳前後であった。

             主人が40歳前後の頃、

               外科医としてピークの年代に差し掛かり、

                 医療環境の整った大病院のスタッフを辞めて

                    妻の家の開業を共に発展させるという約束は

                       幼さがさせた口約束のように

                      夢物語の、愛情の世界は、、、あえなく挫折した。

                       北大が必要としてくれる限り

                               学ぶものが多くあったように 

                              妻と言うより、この頃は、、、家庭を振り返る暇のない主の姿が

                           長男の兄貴分のような、、、学生のような、下宿人のような、、、

                          一歩間違えて考えるなら、、、家庭が捨てられているのに

                          家族とすれ違いで帰ってきて、

                             朝には寝床から出勤してゆくので、、、帰ってきていたのだろうと、、、。

、                呼び戻されて、民間病院から臨床力や、何やら,、韓やらで、、、戻ることになったと

                  本人は言っていたが、、、妻のカンでピーンと来たことは、、、

                     当分、、、、家庭は、息子ともども、、、母子家庭のつもりで頑張らねば

                      姿は有れども、、、主人も父親も、すれ違い人生になるという感が働いた。

                  大学に戻ったとたんに、、、家庭には,こころあらざれば、、、主人が居ても、、、別の社会。

                    子供たちにとったら、、、父は居るはずなのに、、、居ないのと一緒のすれ違い。

                    男が一度、、、男道を選んだら、家庭は江戸屋敷と一緒!。

                     私は、母の葬式には、、、1人、、、とぼとぼと、、、弟に感謝の参列をしに

                       各駅停車の日本海廻りで、、、

                     母の大好きだった「藤田画伯」の生まれ故郷で下車して

                    もう、、、すでに、、、私の身体に、、半分同居し始めた母と

                      秋田で下車した、

                    ゆっくりと、新潟から、東京に向かった。

                       弟の勤務していた、がんセンター黎明期の立ち上げの先生がたが

                      お寺の庭にテントを用意して、手伝ってくださっているのは、

                      弟の仕事仲間らしかった、

                     60人ほどの、先輩や後輩や、

                      弟の高校時代に良く遊びに来ていた友人まで、

                      母の葬式が、、、弟に引き合わせた友人や、先生や、先輩、、、親類は

                      まるで、、、お祭りのように陽気な明るい雰囲気でした。

                      弟の娘が、、、大きな声を張り上げて!!!

                      「みなさん!!!静かにしなさい!!!、、、おばあちゃまが起きてしまうでしょう!!」

                         

                   皆静かに、、、笑いだしてしまった。

                  お婆ちゃんは、孫たちにとっても、、、永遠の人なのですね!。

                    母のピアノのァ弟子さんたちで埋まっている境内を

                   娘時代に出逢ったお弟子さんが、女の子を二人連れてきていました。

                  

                          

       

                  

     北海道に来るのは、、、容易だったが、

                  東京に戻るのは、

 

                     難しく

        

              里帰りもままならず、、、

                  

                    

               父が亡くなる直前の、元気な姿を、

                     私がペトリと言うカメラで撮った写真が宝物だった母!

                            生きることに振り回されながら、

                                70歳過ぎてからの母とは

                       会うことも無かった。

                  

                         

                80歳過ぎて、母の入院を知らせてくれたのは

                        弟でした。

                     

                      

入院2日目にも、、、

   「お姉ちゃん、、、早く来ないと、、、死に目に会えないよ!、、、」

弟は、何回も、電話をくれました。

             母の友人たち

                       ↑この可愛い真ん中のおさげが身の女性が母です。

                         私は、、、ベランダに出て、

                   母に別れを、空に向かって無言で伝えました。

                     母から、無言の応答が有りました。

          

「お母さん、、、

私の身体を半分かしてあげるから、、、

これからはいつも一緒だからね!」

          

母のアルバムを何度もめくり、、、

                こころ、、、は

                       東京の母の病院のベットの傍で

                         お母さんの、一生を、

                    遺書代わりに送られてきたアルバムを視ていました。

                       母の声が聞こえるようです。

   

                 弟の為にも、日記帳に残しておきたいと思いました。

     

 

戦後、南紀の疎開地で、誕生した弟は、同世代の、戦争を知らない世代として!

「団塊の世代」と呼ばれ、日本の希望を現実の復興として、実現した世代であった。

 

自分も後期年齢者の歳になって、弟の為にも、

    写真だけをまとめてみたいと思いました。

           

   母の実父の作次郎爺ちゃんです、町長さんや、疎開中は山奥の村長さんや校長先生や、

     南紀の山間の、戦後の電気のない村落にダムの建設にも貢献できた立場に居ました。

晩年は叙勲を受けたこともあり、東京にて生涯を閉じました。

明治20年代の生まれで、筑波大学の前身である師範学校を卒業して、28歳でアメリカに留学しました。

アメリカの長きにわたる生活は帰国してから、頼まれ町長を引き受けて、役場の隣の診療所に

戦後、疎開することで、13年間にわたる、無医村の七か村の住人の医療に従事した父は

君(弟)が生まれて学童期に入ると、戦後の日本の復活は、アメリカの教育を受けることで

アメリカに追いつき追い越し、平和な日本を復活させる新しい世代の息子たちの為に

東京に帰る,、、鮭が故郷に帰り、、、卵を産んで息絶えるように、東京で産まれた父は

最後の力を振り絞って、生まれ故郷の故郷、、、東京にたどり着けたのでした。

  

                            

13年間の疎開の村を去る日に、、、父の患者さんたちが、見送りに来てくれました。

無医村だったこともあり、外科医のはずの父は、村の出産にも関わり、老人の臨終に立ち会い、全ての村人の種痘を引き受け

学校医として、学童の検診に行き、、、診療代金は、、、ウナギや、野菜,、、クリ、、ヤマモモ。。。イチジク。。。桃、、、ミカン

何でも蔵人の誠意の代金を受け取っていた。

村人の、涙で送る姿。老婆が、、、地べたに座り込んで泣く姿、、、従軍して、戦陣外科で鍛えられた父の働きは

疎開先に集まった人々の健康を、孤軍奮闘しながら、守り抜いた14年間だった。

この時、弟の君は小学校3年だった。「お姉ちゃん、、、医者って、、、僕は大人になったら医者に成るからね!」

お姉ちゃんは、、、この時に、父の背中を視て、、、男の子は、医者を目指すんだと感じた。

父は、背中で、息子たちに、、、大切な何かを、、、伝えて、、、54歳で、、、過労死で、最後の瞬間まで手術をしていた。

戦争とは、、、何だったのか、、、明治生まれで、山村から、東京の大学を卒業して、50歳で未亡人になった母の表情から

強く生きる女性だっただけに、、、戦争が始まった時代、、、戦争中、、、戦後と

巨星の表情に、時代が反映されているように、、、お姉ちゃんの私は感じるので

母の表情に、、、戦前戦後の≪緊迫した、孤独な戦いの表情を、、、読み取れたら、、、

              私が幼くて、認識できない日本の女性の表情が、、

                       写真を通して、、、時代を語っているのではと思います。

  

                                

この学童たちの「大根畑の中に

                年子の兄が居ます。

                    父が従軍中に誕生した世代の、、、戦後の疎開先の学校の授業風景です。

疎開の人々が、村に入ってくる前は、山村の家もまばらな村でした。そこから「弁護士になった、、、村の羨望のエリートです。」

母が、息子達を山村で導くときに、弟に、井ノ口先生と言う。弁護士になった村の青年の話をしていました。

弟は学校の作文の時間に「井ノ口君」と言う母に聞いた偉人伝を、自分たちの世代に置き換えて、

弁護士と言う、、、子供には聞きなれないテーマで、和歌山県下の作文弁論の優勝カップをゲットしてきました。

村では、、、作文弁論、、、僕、私の主張、、、がブームになりました。

やがて、県下の作文弁論大会が始まり、弟は県下で優勝してきました。

新聞にも、観光紀州の雑誌にも、小学生の作文が掲載されて

弟の作品の主人公の「弁護士先生」がはるばる,、、蒸気機関車に乗って…バスに乗って。

疎開先の作文小学生だった弟に、、、!!!会いに来てくれました。

感動の一瞬を、、、小学生の私が、、、おもちゃのような{ヤシカのカメラ}でパチリ!!

貴重な、お姉ちゃんの作品です。昭和30年近いころ、

       大人たちは、戦後の復活のエースとなり年代の団塊の世代の少年少女に

                背中で導く心の影響を意識しないで示していた時代だった。

            

             疎開地の昭和24年ごろの、疎開先の小学校一年生です。

疎開地を出発!!、、、東京へ帰還する父。

東京での新規開業は、慈恵会医科大学時代の学友や、

先輩の助けが有ったからこそ実現できた

父の命をかけた、、、戦後の息子たちに、日本の復活を託した

命がけの、、、復活!日本は、、、教育だ!新しい教育を子供たちへ!

晩年の新規開業でした。

戦争さえなければ、、、

父も親戚も、友人も、、、」

最大の被害者は、女性たちの家庭が、流浪の旅を繰り返したという事です。

54歳で燃え尽きた父が、戦後の復活の日本を、、、末っ子に託して早逝した、、、、が

               弟は父の背中を視て、社会に貢献できた報道が、

                  孤独な北海道の姉にも、新聞、JAMA-アメリカ雑誌、

                    医学部進学の息子の教科書、、、などを通して

                  父の頑張りは、弟が引き継いで、日本の復活の医学分野に貢献できた様子が伝わってきて

                       北海道に閉じこもっていても、、、孤独ではなくなった。

  

            これは弟が国立がんセンターに勤務しているとき

義兄弟の主人とは仲良しです。

                    

                              戦後の復活期にCTスキャンの画像診断の発展に尽くしたという

                                  新聞記事だったので、

                                  大切に保存したものです。

      叔父さんの背中にくっついて、、、放射線に興味を持った、、、次男に

                  画像診断の「ピットホールを指導してくれた、、、叔父さんになった、、、弟」 

               

                       

                               

                          

                              

                         

                           

医者の卵を抱えて、、、地位は有ってもサラリーマンの医師の家にとったら

医師が一人前になるのは40歳ごろ、、、私も共働きの薬剤師に復帰した。

 

                   その後、一か月後には、大学病院の薬剤科の薬剤師として勤務に就きました。

                 何か月か経過した後、心やすらかに過ごすためにも

               その後、弟の勤務しているがんセンターで、

                  「検診のフルコース」を受けました。

                         ペットを受けるときは、、、

                     アロハー派のメㇿデ―(^^   ♪~ ♬♫、、、   の流れる

                            快適空間で、検診を受けれたことを、

                               思い出します。

                 がんは見つかりませんでした、

                  ダチョウの卵のような、、、卵巣嚢腫を手術してから、、、十数年、、

                           一切のがんは無い!心の平和!

                   検診の大切さは、、、自分を知るというメリット。

 

                   「叔父さんの診断の力は,、、神の域だよ、、、」と言う。

                   晩年の弟は、束の間の政権交代劇で、学門の良く分かっていない政治家の介入で

                    学問一途に世界に認められた国立がんセンターに

                         政治家と権力のメスが振るわれた。

                           政権が束の間だっただけに、、、弟たちの世代だけの被害で

                          今は又、、小クリルに帰還したようですね。

                 

                       弟の世代は、政治のクレバスに入ってしまい

                         弟たちの、黎明期のがんセンターを背負ってきた

                           だんかいの世代の名医は

                            国立がんセンター50周年記念のHPには

                              出ていらっしゃらなくて、、、

                             患者さん置き去りのまま、、、愛知県からの先生方に

                                 変わってしまい

                             弟の名前を言っても、、、

                          がんセンターには、黎明期の貢献者のスタッフは、、もういなかった。

                           「若い研修医のような年頃の白衣のスタッフが、、、

                          「聞いたことのある名前の先生だな?!」

                  一生懸命、、、探してくれましたが、

                           弟は、、、もう、、、がんセンターには居ませんでした。         

               

                         

                        

                         日大の同級生のあなた、、、新橋の新興クリニックに行くときは

                             近くに、イタリヤワインのお店が有ったから

                               今もその店やっているかどうか?

                                   気になっている同郷性が

                                       北海道に居るってこと、、、思い出してね!

                         

                        

                        私の主人とは、、、義兄弟で、二人とも現役の医師をしています。

                  

                    

                                      夫婦となると

                                    旦那には、、、文句の一つも出るから、、、

                                救われない、、、私の、、、ダメなところかもしれません。

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

               

                              

新橋の駅から、歩いて行ける検診センターで

          定年後は一般患者さんの検診をしていると聞きましたが、

             がんセンターの検診検査室長の時は

                     国立一期校の教授の先生も

                         

                        

                          

                 

 

                       

 

                            

                           

 

                              

                             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 


北海道の空気の美味さ

2020-10-16 10:11:40 | Weblog

やっと、、、秋日和

紅葉の中

布団干す

本当の贅沢って、、、

今年も最後の御布団干し、、、と

ベランダに、空を視乍ら

秋を感じる、、、この一瞬!

       

北海道は、、、明日が突然、、、冬が落ちてくるかもしれない。

そう思いながらも、、、今日も日、、、秋日和!

午前中なら、、、布団干しできそうだ、、、

ベランダから、羊ケ丘の紅葉し始めた秋を惜しみながら

突然、真っ赤に山が燃える!

そして、、、ある日、、、

この世は魔法にかかったように

   白一色となる。

これが、、、魔法でなければ、、、

     なんといえば良いのだろう

           

世の中は、毎日新しいニュースで、、、わいわい、、がやがや、、、

でも、、、自然ほど、、、

ある日突然、、、真っ白な世界になっている様な事は無い!!

経済だって戻ってくる!

コロナだって、、、収束する日は来る!

日本人はゴムゴムの木!

小さくなれる!

大きく伸びれる!

しゃがむのは、、、ジャンプするため!

若者の、、、苦境は、、、老人も同じ命の蝋燭に風が吹き付ける。

小さく丸まって、、、ベランダに布団を干しながら

山の紅葉が見えれば

幸せだと思える。

納豆も、、、お豆腐も、利尻で買った昆布もある。

北海道という、、、厳寒の季節のある土地に

         コメがそだつのか?と思った昭和の時代!

戦後は「シナ米」なる、、、美味しいとは言えない米が出回っていた。

昭和ア40年代には「タイの米」が人気になり

ドライカレーなど作った記憶がよみがえる。

今は、、、頑張って、これこそホントの贅沢だと、

「夢ぴりか」を、2キロ買って帰る時

76歳の婆ちゃんの幸せは、、、

北大の農学部への敬意に代わる。

厳寒の土地に、、、よくぞ、、、こんなにも、、、美味しい

米を作ったと、、、感謝で食べるとき

北海道も50年経つと、、、我が町になっていることを

私的には、、、感じている。

       この写真は

サロマの方に転勤になった息子夫婦のもとに通ったころ

昭和時代の皇太子と美智子妃殿下が、御出でになったときの

記念碑を視て、、、感動しました。

          ここは、、、日本なのだ、、、と。

東京の、、、御隣さんですよ、、、北海道は!

大切な、、、日本列島の

    タツノオトシゴのような形をした日本列島の

        夫婦が、、むしろ夫の方の「タツノオトシゴのオスが」

                 体内で、球がを孵化させるという、、、育児の神様の形をした日本!

日本列島の頭の部分にあたるのが、、、北海道ですよね、、、

           「核のごみ置き場」にすることは

             再利用の別の元素にできることが

                 安全性を保障された科学と、地質と、

                     延々と続く半減期の長い元素が出す放射能の処理が確立されないと

            にポオンお武器ともいえる「頭」をやられてしまうのでは困ります。

学者さんの意見を聞き、世界のレベルを知り、、、

     多くの国が撤退している現状と照らし合わせて、

              未来に於いて、

                取り返しのつかない汚染地域にならないように

                    学術的にも、地質学的にも世界との円陣を組んだ調査のもとに

                      安全基準が成り立たないうちに、

                         先走ると

                           かって、、、ハバロスㇰに

                            軍艦と言う鉄の粗大ごみが、、、ある国を困らせた如く

                      科学の発展はもっとコジンマリシタ設備で

                         重水素を使って、、、原子量を変えられる装置なども

                           開発途上の安全性ではあるにしろ

                               研究が進んでいるという論文が有った。 

                       そうなると、、、

                        速中性子をぶっつけて、、、ほかの元素に変換するという

                              巨大な地下装置は要らなくなる日が来るかもしれない。

                     早まって、北海道に、早々と、、、核のゴミの有効元素に変換装置をする地下装置など

                         設置した後で、コンパクトな建物の中で

                            新しい金属に生まれ変わった再利用が出来る日が来たとしたら、、、

                         あせる、、、乞食は何とか、、、と言う諺のように

                           せっかくの日本の空気の美味しい北海道の宝を、、、無くす恐れもある、

                       確かに、、、科学の発展は

                         神であり,、、悪魔である。

                       全てがプラスに働くとき、、、人は神と信じ

                       原子爆弾や、水素爆弾のごとく

                               地球を壊しかねないマイナスに働くときは悪魔となる、

                       核のゴミも、、、神であり悪魔であると、、、思いませんか?

                    私は自分で、、、自分に問いかける。

                             あらゆる学者。あらゆる技術者、あらゆる医療関係者

                               懸命に総まとめして、

               普遍の地球の恵みを受け続けることが出来る、、、本質的な経済効果を割り出すことの大切さを

                            人類のレベル、動植物のレベルを超えて

                               地球の健康保持に向かう時代に入ったのかもしれませんね!。

                            

核のゴミ置き場にするのは、、、ヨーク、、、ヨーク、、、考えて

議論に議論、、、学術の力が、北海道の未来にかかわっている、、、

いつまでも、、、夢ぴりか、、、コメが美味い

北海道の、、、本当の、知恵の集積の米の美味さの感謝を

当たり前だと、、、思う日が来ないように、、、

日本の食糧庫を、作った先人たちの苦労

プラスの科学を、、、核と言う、、、ややもすると

第二、第四象限のグラフを描く計画は

世界一級の学者の知恵でも

自然は読み切らないと思う。

     昭和新山のようなことが起きれば、、、

北海道の核の山が現れかねない、、、若い地形の北海道であるから、

地質学者は、、、自然学者は、、、どこまで、円の周辺のドットから

縁の中心を語れるかと言う

学者の謙虚さに、、、

北海道の未来は賢い政治家が、、、

出てくるかどうかで、、、若者は育てられてゆく。

北海道君を、、、金の絨毯の上を歩かせないで欲しいと思う。

北海道は、、、神様に愛された、、、不思議な、、、

日本の心も、食料も、、

、科学に翻弄されていない若い街ですから

         

            これはドイツの、、、ソーセージやさんです

50年住んで、、、私は、、、気が付くと

かってに、、、愛情が芽生えていた。

北海道の未来は、、、孫子と同様に、、、愛おしい。


今年最後の布団干し

2020-10-16 10:11:40 | Weblog

やっと、、、秋日和

紅葉の中

布団干す

本当の贅沢って、、、

今年も最後の御布団干し、、、と

ベランダに、空を視乍ら

秋を感じる、、、この一瞬!

       

北海道は、、、明日が突然、、、冬が落ちてくるかもしれない。

そう思いながらも、、、今日も日、、、秋日和!

午前中なら、、、布団干しできそうだ、、、

ベランダから、羊ケ丘の高揚し始めた秋を惜しみながら

突然、真っ赤に山が燃える!

そして、、、ある日、、、

この世は魔法にかかったように

   白一色となる。

これが、、、魔法でなければ、、、

     なんといえば良いのだろう

           

世の中は、毎日新しいニュースで、、、わいわい、、がやがや、、、

でも、、、自然ほど、、、

ある日突然、、、真っ白な世界になっている様な事は無い!!

経済だって戻ってくる!

コロナだって、、、収束する日は来る!

日本人はゴムゴムの木!

小さくなれる!

大きく伸びれる!

しゃがむのは、、、ジャンプするため!

若者の、、、苦境は、、、老人も同じ命の蝋燭に風が吹き付ける。

小さく丸まって、、、ベランダに布団を干しながら

山の紅葉が見えれば

幸せだと思える。

納豆も、、、お豆腐も、利尻で買った昆布もある。

 

北海道という、、、コメがそだつのか?と思った昭和の時代!

 

今は、、、頑張って、これこそホントの贅沢だと、

夢ぴりかを、2キロ買って帰る時、、、主人の弁当はこの米で作る。

76歳の婆ちゃんの幸せは、、、

北大の農学部への敬意に代わる。

厳寒の土地に、、、よくぞ、、、こんなにも、、、美味しい

米を作ったと、、、感謝で食べるとき

北海道も50年経つと、、、、よそ者だった私も、

いつのまにか、、、マーケットの店員さんも

ガソリンスタンドも

郵便局も

共に生きた50年は

安心して住める知り合いの顔が行き交い

名前は覚えられないが、

挨拶は交わす穏やかな日々が、、、我が町になっていることを

私的には、、、感じている。

この写真は、息子の転勤で、サロマ湖に通っていた日々

北の孤独な旅先で

昭和の皇太子と妃殿下が、

北の果てにお目見えして、記念碑に出逢ったとき

「ここは!!!、、、日本なんだ!!」と

急に、、、心が安らぎ、、、緊張がほぐれて

化石を探し始めたことがあった。

北海道は、、、東京の御隣さんなのだと、、、うれしかった。

 

       

東京の、、、御隣さんですよ、、、北海道は!

核のゴミ置き場にするのは、、、

        ヨーク、、、ヨーク、、、考えて

議論に議論、、、学術の力が、北海道の未来にかかわっている、、、

いつまでも、、、夢ぴりか、、、コメが美味い

北海道の、、、本当の、知恵の集積の

            米の美味さの感謝を

               空気の美味い感謝を!

          当たり前だと、、、思う日が来ないように、、、

        日本の食糧庫を、作った先人たちの苦労

       息子が十勝に居た時

           十勝平野の奥深い農業に出逢った。

          何気なく、、、美味い!と食べてる長芋も

         あんなに、、、口あたりが良くて、、、まっすぐな芋に

        どんな工夫がされているか、、、多くの人は知らないかもね!

      京都が老舗の街なら

           北海道は若い学術派の農学部と

              根性の塊の現地の現場を生きようと頑張る農家とで

           放射能で、、、汚されたくないと願う未来の

             食料の老舗の味を作付出来る土地の確保は

               天然の神社と心がけて、、、

                平野と言う、、、神社の杜に匹敵する「空気」を

            守り続けた時、、、ジャガイモ、、、豆、、、イモ類

                 トウモロコシ(とうきび)と呼ぶ、、、

              絶賛したくなる、、、味の農作物は

            空気の美味さと、、、一体感を感じる。

       東京の下町には昭和30年前後は

              こんなに美味い野菜は並んでいなかった、

                北海道に来てからは

              ジャガイモとの出会いは、、、

             峠の店で、串刺しのジャガイモを

                立ち喰いしたとき、、、眼から鱗だった!

          「美味い、、、これは、、、ジャガイモのはず?

             東京に帰りたくって

               メチャ高い一軒家やマンションを買うにしても

             北海道との、、、まるで、、為替差益のような

                 不動産の差額は

             東京からは来れる、、、が、、、

               年々値上がりする東京に戻ることは

                難しかったこともあるが

            北海道の、科学と農学と、空気の美味い台地の産物に

                胃袋をつかまれてしまった。

             そして、、、川に遡上する鮭、

                    海産物、、、

                      多くは東京の高級料亭にも

                         運ばれてゆくのかもしれない、、、ネ。

            

                孫と小樽に行ったとき

            以下の足で、、、カニを釣った思い出の海岸です。

           ここで、、、孫子の時代の宝物を

            北海道全体を、、、このまま美味い空気のまま

            空気を財産だと、、、気が付いてほしい、、、日本の政治家さん!

 

         プラスの科学を、、、核と言う、、、ややもすると

                  第二、第四象限のグラフを描く計画は

              世界一級の学者の知恵でも

                  自然は読み切らないと思う。

     昭和新山のようなことが起きれば、、、

           北海道の核の山が現れかねない、、、若い地形の北海道であるから、

          地質学者は、、、自然学者は、、、どこまで、

               円の周辺のドットから

               円の指している球体の本命の科学のの中心を

                 語れるかと言う

                   学者の謙虚さに、、、

                北海道の未来は賢い政治家が、、、

象さんの科学を、、、団扇のようなもの!

            エンタシスのようなもの

              ホースのようなもの

                大蛇のようなもの!

                  それ一つに真実は有っても

     政治家が、学者の言い分を一体化できる学術団体の円卓を用意して

      議論を繰り返し、、、学者の真実を合体し

               象さんの現実をつくりあげる巨視眼を創る人選を知らなければ

               福島で起きたような

                核の顛末は、、、北海道にもやってくる!

           お茶の間の76歳の婆ちゃんは、、、日記に書いておきます。

        学者さんは、、、erai ,,,

          狭い分野のオーソリティ、、、

              ノーベルの発見を、、、軍事に使うと、、、

            地球は猿の軍団になる。

               破壊された地球を、、、地球と気が付かない!

            大地からはみ出した、、、自由の女神!

               ここは地球だったのか!!! 

 

                 

 

北海道君を、、、「金の絨毯」の上を歩かせないで欲しいと思う。

悪代官が小判を集めるのは、、、水戸黄門のTV映画だけにしてほしい。

 

北海道は、、、神様に愛された、、、不思議な、、、

日本の心も、食料も、、

、科学に翻弄されていない若い街ですから

         

            これはドイツの、、、ソーセージやさんです

50年住んで、、、私は、、、気が付くと

かってに、、、愛情が芽生えていた。

北海道の未来は、、、孫子と同様に、、、愛おしい。

          これは、76歳の、50年間の北海道の近代化を見つめて

         私の生きた時代を振り返る、、、日記です。

          


札幌は土砂降り、、、そして朝、晴れた空

2020-10-13 04:48:16 | Weblog

もうすぐ、、、北海道には霜がやってきます。

そして、衣替えが済んだ頃、紅葉もピークになり

北風が叫び声をあげながら、林の中を吹き抜けると

落葉の絨毯が敷き詰められて、

束の間の色彩の風景は、、、

          

   ある日、、、魔法にかかったように、、、

               ここはどこ?

                 白一色の世界。

                    私は雪を掻く。

                      毎日毎日、、、雪を掻く、、、。

 

冬、、、親戚も、、、友人も、、、知人も、、、家に閉じこもる。

               

コロナで閉じこもってるのか?

   寒くて閉じこもっているのか?

       北海道に50年住んでいると

            家に閉じこもる時間が、、、、当たり前になる。

弁当のご飯だけは、早朝に焚く、、、

   ゆで卵、、、北あかり(ジャガイモ)をチーンして

             後は、、ゆで卵、、、カンズメもっていってもらうかな~~~

               梅干しは2パーセント塩。

                  キムチも入れるかな?

                    江戸紫も、わさび漬けも、、、入れちゃうかな?

    コロナが収束するまでは、、、押しつけ弁当を作るのが

                      私の朝の始まりです。

       あ、、洗濯機が読んでいる。

        スイッチ一つで仕事してくれて 、、、干すだけ!

            主人が出かけたら、、、一休み。

               主婦の一日は、、、、もと道理にして、、、終わる。


スマホ、、、も,、、普及しそうな主婦のコロナカンズメの日常

2020-10-11 08:31:31 | Weblog

政治も、学者さんの世界も、、、主婦から見ると、、、雲の上のお話ですが

要するに人間の住む地球を、

ゴリラや、オランウータン、チンパージのように

自然のままでは、腕力の強い者、

          声の大きい者、

            知恵の回るもの、が優先になると

                餌にありつけない者が出てくるから、

そうなると、集団の暴動で餌の奪い合いになるから、

窮鼠猫を噛む社会では、安眠できない。

そこで,、、、火を使い始めた人間が、中心になって

全部の者に、暴動を起こさないだけの「食べ物をいきわたらせようとした。」

主婦の考える、、、「政治とは?」、、、やっぱし、、、台所の米のアリやナシや?。

米と、学者はどのような関係か?

台所から言わせると、自分達には関係ないが、、、

            雲の上の難しい仕事をする人。

     ひと昔前のお母さん方の井戸端会議では

ノーベル賞は、、、、、「洗濯機」を発明した人にあげます。

お医者さんなら、、、ゆきつけの近所の先生に

学校の先生なら、受け持ちの、生徒から最も人気のある先生に、、、

政治家なら、自分の街を住みやすくしてくれる人に、、、

ミシュランの選出には、、、近所のお蕎麦屋さんに、、、軍配があがる。

オラが大将が、、、一番大切だった。

 

こんな社会だったはずが、

電話が出来て、TVが出来て 

携帯電話となって

スマホになって、、、

どこの家にもパソコンンと、タブレットが有って

 

情報戦争の時代がやってきました。

 

今までの価値観は、、、でんぐり返ることになりました。

菅首相は、さらに、、、さらに、、、デジタル化を政策に掲げています。

私のように台所のパソコンなら、コメが炊き上がる間

   洗濯機が回っている間、

      煮物が鍋の蓋を持ち上げるまでの間、、、

        パッチワークのような、、、つぎはぎの時間が

               キーをたたく時間として確保される。

 

何で???スマホを持たないか?、、、

息子からも「母さんの顔見ながら、話せるんだから、、、スマホ持てよ、、、」と言う。

昭和の戦争中に生まれた世代は、

    そこまで完全なるコミュニケーションだと

       かえって、気疲れする者が多いのではないかと、、、思うのです。

 

                 例えば、、、

TVの、おデブさんが、下着をつけると、

           ミスユニバースにも出れそうなスリムになる。

宣伝は繰り返し繰り返し、、、押し付けてくる。

画面のペースに乗ってしまうと

     、今すぐ、、、30分以内なら、、、

           断然お得!、損得、有った方が良い、

スマホなら、、、反応したら購入決定。

本当に、、、必要なのか?

       生地はどんな糸で造られているのか?

      スリムになっても、

           締め付けると長時間の着装は無理ではないか?

                自分で考えないで、動いてしまう怖さがある。

洗脳されて、TVの言うまま、

宝石と称する装飾品に夢中になっているおばさんもいる。

ガラケーで十分すぎる76歳の婆ちゃんの、、、私は

毎月が2000円と3000円の間の電話代。

パソコンは7000円

新聞は4000円前後、

雑誌類は2000円

黒電話が5000円まで、

TV代金がNHK、、、

いくら払ってるか?気にかけたことは無い。

76歳の老人でも、

    情報代金だけで20000円払っています。

この上、便利すぎるスマホを持つと

気が付かないで過ぎていた美食通販の世界や

簡単に取れるチケット類の誘惑に、、、

      負ける自信はある。

不便な手続きがあるからこそ、、、、TVで好いという事になる。

息子は、「かあさんなら、スマホ持ったら生活かわるとおもうんだけどな~~~!」

「お兄ちゃんとも、孫とも、皆で話せるんだよ、、、」という。

ありがとう、、、若い時なら、加わりたいと思うけど、

この年になると、、、1人で結構楽しんでるよ。

 

使い方のマニュアルも、アプリを使って、ダウンロードすると

本を持ち歩くことも無いと、結構使いこなし始めている。

主人にとったら、仕事上必要なものだけに

必用最小限のことしか使わないという。。。がんこな強さが有り

これなら、、、ガラケーでも間に合うのではと思える。

維持費が安くなり、、、スマホの良い機種が手ごろな値段で買えるようになり

ギガと言うより、、、T P E(テラ ペタ エクサ、、、)

そのあたり迄、定額に成ったら、、、いいね(^^

スマホで遊ぶことを考えるかもしれませんよ。

 

            

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヤンキーズ、、、ホームランに屈服

2020-10-10 12:00:32 | Weblog

スゴイ緊張感あったね!!!

ホームランは、、、問答無用の結果が出るよね!!!

レイズは 雄たけびをあげてる選手の大写しが

       海を越えて、世界で観ているのも

           観客席がガラガラなのも、、、

               コロナの攻撃も

                   ホームランで前進あるのみ!!!

         医療にも、ホームランワクチンで、coronaを相手にして

                 逆転!

                   収束に向かいたいところですが、、、

               とりあえず、、、76歳の高年齢は

             はた迷惑になることを懸念して、

                 とりあえず、インフルエンザの

                   予防注射を受けてきました。

                

                      コロナとダブルに来られたら

                決勝戦見れないものね!

          コロナ、coronaで、、、観客席の応援エールが聞こえないのが

                野球選手の気持を左右するのでしょうね、、、

               主婦は健康で、家庭を応援できるうちがね、、、!

          TVが有れば、、、カンズメ生活も、、、頑張れそうですよ。          


マー君、、、日本では、観客席で応援してるのに、、、

2020-10-09 11:55:24 | Weblog

甲子園時代から、

斎藤君のハンカチ王子の垢ぬけた、、、完成された紳士ぶりと

 

天然の野生の、「猛獣のような強い目力」の

          マー君の

あの試合が、、、忘れられない。

マー君が「のむら監督」に出会って、

本人の持つ野生の強さで、

          野村監督には

 「教えたことはありません、、、」と言わしめるほど

監督の目に素材の持つパワーを見抜かれて、、、

         いい意味で

あれこれ指導されないで、、、多くの体験を肥やしにしながら

とうとう、、、世界の舞台に行ったマー君を

もう、、、マー君と呼ぶのは失礼だから、、、

        ぼけ老人のたわごとと、、、マー君と呼ばしてもらいますね。

 

いつも、出場する試合に合わせて、

         手仕事しながら

              マーケットのビニール畳んだり、、、

                  靴下のかかとを強化の継ぎ物をしたり

          手を止められて、やってもやらなくても大差ない仕事に

            切り替えて、、、マー君の出場するTVを見ている。

  コロナのせいで、観客の、熱狂的な応援がないし。。。

         野球選手の精神力も、窮境に立たされているのかもしれない。         

       

           

           コロナではありません。、、、万華鏡の写真です。

           ぱかちょんデジタルでの写真です、、が、、、緊張をほぐして、、、

 

         コロナの影響は、、、スポーツ界にも、

           フアンにも、、、強烈な影響を与えてきますよね。

              こうした、、、ことも、、、

                コロナがなければ、、、状況は

                    変わっていたかもしれません。

 

多くの応援と、多くの、、、観客の声に慣れていたこともあるのだろうか?

          コロナで、、、ガラガラの空席の試合は、、、

           観ているものも、、、寂しい。

そんなこんなで、、、

       ここ一番で、いつも切り抜けていたのに、、、

             今回は、、、ホームランを、、、許してしまい、、、

           ランナーが勢いよくホームベースを踏むのを見て、、、

          マー君の、、、投げ方が変わって、

             大きく構えなくなったせいもあるのかな?

 

          今回は契約が終わるので、、、

          今までの緊張が抜けてきたのかな?

アメリカが2軍をディストラしたり、、

                 、野球界にも

                 コロナの大嵐が吹いているだけに、、、

          マウンドを途中で降りて、、、降板した後も

                     追加点のダメ押しをされて、、、

       本来なら、、、、人気の最高潮の時に、

コロナが、観客を奪ったことは

     熱烈の応援力が

        やる気に火をつけていないという部分も

大きかったのかもしれないと、、、

          コロナが憎くなるが

 

         こればっかりは、、、

 

           「コロナの勝手でしょう!、、、」

 

少し、、、、、、気力、頑張りが続いた選手は、

                 契約は日本に切り替えて

                  コロナが収まるころまで、後輩の指導係とか、、、

何か方向転換をしてでも、、、

     貴重な野生の部分の目の力を

 観客の目には見えないけれど、、、

 見えない闘志の力が目に表れているはずの

                   マー君は、、、

      

            日本の野球が面白かった要素です。

 

日本のお茶の間の76歳のばあちゃんでも、、、

    甲子園の試合は、その選手の生涯の活躍を、、、

        三振を奪ったと喜び、、、

           打たれたといっては、、、へこみ

             投げ方がポーズが違ったといっては

               なぜなんだろう???と

                  旦那のネクタイが変わっても

                     気も付かないのに

          TVの、、、投げるポーズが

                    頭の上に力こぶのように貯めなくなった、、とか

               なんにしても、、、

        これで、しばらくは、、、マー君のことはそーとしておいて、、、

             野球も、北海道のFightersの応援に切り替えて

                ティッシュペーパーをいっぱい買ってきました。

      野球って、、、まるで、、、

              息子たちが出ているかのような

                     不思議な応援をさせられますよね。 

       年をとっているのを、、、忘れて、、、

           偉大な選手に向かって、、、マー君、、、マー君って

                 喜んだり、べそをかいたりしている

                    しっかりせんか!!、、、76歳だぞよ!

       明日生きてるかも、、、わからない年になって、、、

                    マー君が打たれたからって、、、

             元気出せ、、、私よ!

              


トランプ大統領、、、coronaに感染❕!世界はびっくり!!!

2020-10-07 04:49:03 | Weblog

どんなスーパーマンも   

      スーパーウーマンも

             ウイルスは

                無差別に

                  口から、、、眼から、、、鼻から、、、    

    人間の予期しない、、、粘膜から、、、

                 吐く息から、、、

                    くしゃみから

                       大声の唾液から、、、

                           コロナウイルスは

           肺の中にゴールインして

                人間の体内の血液には酸素交換が必要です!!!

 

       アビガンがあるからって、、、安心できません、、、

          副作用も強い薬です。

             トランプ大統領は

                 3日で、ホワイトハウスにうつられました。

 

          これか選挙運動など、お仕事がてんこ盛りでいらっしゃるでしょうから

          本当は、、、仕事の事を忘れられて、休息できる病院が

                   一番休まると思いますが、

          一国の、しかも、、、大統領となられると

          一般民衆の常識は通用しない世界なのでしょうね、、、。

    アメリカと言う大国のトップマンと、トップウーマンが

            コロナに感染したという事は、

               第三次コロナが、、、正月ごろからあるかもしれませんね。

   アメリカの医学は世界のトップクラスなので

           トランプ大統領は、回復されることを

                       信じています。

       これは個人的な日記なので、、、世界のアメリカの

              大統領が,、、トップㇾディが

                コロナ感染は、歴史的な事なので

                  日記にも、、、書いておきます。

  一日も速く回復されることを、お祈りしています。

                

            

           コロナではなくて、、、これは、、、万華鏡です。

       本当のコロナは、、、コワイですよね

               

          日本にも国賓としていらっしゃった

                 歴史に残る方の 罹患は

                     やはり、、、マスクの役割は

     大きかったのかもしれませんね。

          世界中は、、、マスクをするように

                   啓蒙されています。  


百恵ちゃんの伝説のコンサートをTVで拝見

2020-10-04 13:46:14 | Weblog

我が家の長男坊が若い時に、、、

「百恵ちゃんは、生き方教えられるような

一本通っているよね、、」、と、良くほめていました。

そのころ、、、「そこの車!!!、、プレイバック!」、、と

やんちゃな歌を歌っていたので、、、戦後の女性は元気良すぎョ、、、と

聞き流していた。

昨日は、孫があの頃の息子の年ごろになり、、、ふとTVで流れる百恵ちゃんに

当時を思い出して、、、見続けていた。

きんきらきんふれやースカートに

でっかい、、、髪飾り、、、どう見ても、はねっかえりの青春している女の子!

一曲、、、一曲と、、、歌が続いてゆくうちに、、、

他の演歌歌手と違って、、その年代の、未熟な女の子になり切っている!

歌とともに、、、その女の子は青春の様々な感情を持て余しながら成長してゆく。

いつの間にか、我が子のように、、、女の子を育てるときのプロセスを感じながら

手仕事を辞めて、、、画面を真剣に視るようになった。

「私の分身の女性たち、、、」と言うようなセリフが入ったとき

百恵ちゃんと言う歌手は、歌っているというより、、、

「少女の成長する難しい年齢を、少女になり切って詩っている、、、!」

私は、歌謡曲とばかり思っていたので、、息子たちに、生返事をしていた。

「初めて、、、『伝説のコンサート』を終わりまで、、、手仕事を止めて視た。」

ロックンロールのあたりから、、、彼女が演じている少女から

恋に目覚めて、プレイバック、、、切ない気持ちの大人になってゆく。

そして本当の恋に目覚めて、女になってゆく「大輪の花の開花のように、、、」

そして、愛を知る、、、男と女の愛に変わり、、、最後にマイクを置いた手、、、

彼女が、どうして,、アンナに、、、人気が有ったのか!!!、、、

76歳になって、初めて分かったような気がした。

男の子しか産まなかった私は、、、女の子を育ててみたかった、、、!と思う。

百恵ちゃんは、miuratomokazu さんと出逢って、

         女の人生の,,,,,大輪の花を魅せてくれた。

           

長い間、、、自分の人生そのもので、「詩」を足跡で伝えてきた生き方に

息子が、、、

     「百恵ちゃんは、、、すごいよ!」っと

                                   尊敬に近い言い方をしていた時!

 

私が、、、理科系に偏った母親でなかったら、、

 

、あの時、、、百恵ちゃんの詩を歌う姿を、、、息子と一緒に

                視ていたと思うのです。

76歳になって、、、私の子育ては、、、

飛んでゆく矢のような男の子に

愛も、恋も、女の子の魅力も、、、話すことなく、、、

偉そうに、、育児をしたと、うぬぼれていた自分に気が付き、、、

男の子も、女の子も、育ててこそ

                         一人前の母親に成れるのかもしれないと思いながら、、、

女の子を育ててみたかったと、、、

                                百恵ちゃんのコンサートを視てから

つくづく、、、思いながら、

            今頃、百恵ちゃんのになファンになりました。

以前に

息子さんが、、、お母さんの詩をTVで歌うのを聴きましたが

三浦友和さんと、百恵さんの良い所ばかり似た、、、静かで強い

                          魅力のある、、、

                         お母さんやお父さんのように、、、

                        心の詩を感じる弐代目ですね。

稀有なる表現力を、紅葉するモミジのように

                大人になりながら、、、「女」、、、の人生を選んだ。

それは決して「おんな」でも「オンナ」でも「貴妃」でもない、、、女、、、

母になってゆく

      静かで,烈しい情熱を

            真綿でくるんで外からは見えない炎のような「赤」

 

百恵さんが、

今回のコンサートで、

私の幻の娘と思う事になりそうです。

17歳の難しい年齢に、百恵さんのロックを聴きながら、、、

娘を育てながら、、、こんな女の子に出逢ってみたいと、、思いました。

息子が若い時に教えてくれた百恵さん、、

「少女が嫁ぐまでの、、、仮想体験をさせてくれたコンサートに、、、乾杯!」

女の人生の詩、、、ありがとう!

                

咲くも桜…散るも桜。。。花びらが流れてゆく、、、

水面の見えない、、、花びらの川、、、

                良かったよ!、、、コンサート!


コロナは同居の余地があるが、、、プルトニウムやウランやセシウムは、、、死の灰産出!

2020-10-04 00:35:04 | Weblog

高濃度放射線廃棄物を北海道に、、、持ってくるという事は

果たして、村長さんが考えるように、村の収益になるのだろうか?

世界の国々は廃棄物の受け入れから撤退しているという事は

なにか理由を考えるべきだと思うのです。

処理をするために、

     プルトニウムや燃え残りのウランを処理するのに

使用済みの核燃料から取り出す処理、、、

       そして群分離することで半減期を短く工夫する

            核変換技術中に考えられる「死の灰の溶液群」

高レベル放射線を持つ元素は、JPARCで処理することが時間的に可能なのだろうか?

ウランレベルの放射能にすることだって、

              数万年かかりそうな気がしてくる

周期表とにらめっこしても、、、76歳の老人の脳ミソには

               Kr、Cs、St、とアクチノイドと

核分裂生成物FPなど、しか思い当たらないが、

昭和42年卒業の時に取得した

     放射化学の単位取得の学生向き授業の旧い知識だけでも、、、

群分離した後でさえ、数百年は放射線を出し続けるわけであるよね????

これって、、、知ってたら怖くない?

ちなみに、文献によると

使用済み核燃料を再処理して放射性廃棄物とすると

この中に、、、実に放射性同位元素が

          約、、、千種類含まれているというのが

目下、科学者の間では、文献が出回ってから久しい。

私は50年以上前に実に二十代の時、

          勤務先で、ヨウ素の同位元素を使って

動物の体内に薬品を送り込むことで、

          薬が体内でどのように運ばれていくかを

ヨウ素の同位元素の出す放射線をシンチグラムで測り、

               薬の体内動態を追跡したとき

小さなペットボトルのキャップぐらいの大きさの

                   ステンレスのカンに

                       ヨウ素の同位元素を入れていた、

実験が終わった後のカンの処理が規約が有って

放射線の扱いは、、、、こんなに微量でも、、、

大変だとつくづく思ったことがあった。

 

ヨウ素と違って、、、放射性廃棄物の中のパラジウム107

                   ジルコニウム93

コレラの元素の放射線の半減期はメチャ、、、長い!!!

そこで、世界の廃棄物処理場では

           これらを含め、7種類前後の元素に

            重陽子をぶつける巨大な装置を使っていた時代が有り、、、

今なお使っているところもあるはずだと、

              婆ちゃんは思うのですよ。

興味のある人はIMPACTと入力して検索するのも、

           核融合炉の開発とか、、、ITERとか、、、

どんどん調べて

   、北海道に採算が合うかどうか、、、

         真剣に町長さんと議論するといいと思う

 

この問題ばかりは、、、

       住民が賛成したからとか、、、多数決でとか、、、

手を挙げた多数決で決めないで、、

               後手になると、、、

北海道が 大切な物を守れないという事態も起きかねない。

 

科学は日進月歩であるから、、、

          ITER計画など

国際熱核融合実験炉計画など、進んできているから

6年前ですでに、、、元素変換で

セシウム55からプラセオジウム59

セシウム137からユーロビウムへと

ストロン千ウム38からモリブデンを、、、

カルシウムからチタンを

タングステンからPTへと

世界は転んでも、、、タダでは起きない研究を進めているようだが、、、

北海道に誘致するなら、、、

コレラの研究が「安全性を確立してから」でないと

北海道は、日本の食糧庫を失うわけだから

 

角をためて牛を殺すことになる。

 

誘致時期が早すぎると

     安全性が、目下確立していなくて、、、

             世界が撤退しているときに、、、

「白金作れますで、、、儲かりまっせ、、、」と勧められても

北海道そのものは日本の太陽ほど、

          素晴らしい自然のエネルギーがあるから

取り換える時期を考えないとね、、、。

 

元素を変換してゆく科学技術の論文も出ている。

これは、、、未来には夢持てるし

           

実際に、低エネルギーで可能な新元素変換も

   パラジウム多層膜を使用して重水素を透過させて

     重水素から原子核の陽子や中性子を貰って

新しい元素を創るという実験も成功している論文もある。

北海道よ!!!時期が早すぎると、、、

 

ハバロスクの鉄の軍艦巨大ゴミのように時代遅れのゴミが出るかもよね。

そうなると、、、

待てば海路の日和あり、、、という事は、、、ゼロではないと

                76歳の婆ちゃんは考えている、、

       

、下手な考え休むに似たり、、、などと、、、

     笑ってるあなた!、、若いんだから、、、

          自分で調べて、民間に教えてくださいよね!。

 

今までの元素変換は

       加速器原子炉で

           中性子をぶっつけて変換していたから

高エネルギーの変換装置だけで、、、科学が進んだ後は

              ハバロスクのかっての、、、鉄の軍艦のゴミのように

                     日本の地中の中の巨大な設備廃棄物として

     夢の島、、、日本になってしまったら、、、

        黒電を受け入れと、スマホ受け入れ位の違いが出るから

             時代の読み違いだよね!!

 

 

私は薬剤師なので、放射化学は学生時代に単位をとって、

後は、薬物動態の実験で、安全と言われる範囲のヨウ素131を、、、だったかな?

何しろ、、、50年前の知識だからね!、、、使ったことがあるだけですが

ほんのちょっとの同位元素を使用するだけでも

レム計算とか、、、うんざりするほど、、、文献を読むことになっていた時代です。

 

日大の理工学部はESSクラブなども、薬学科が2人で、後は男子学生ばっかり!!!

建築課や、電気科や、、、土木科、、機械科、、、工学部と合同ですから

アッチコッチに「知恵袋が居て、、、助かりました。」

 

教職で、各科合同講義なので、

     あっちこっちの本も、論文も

       説明してもらいやすかったという、、、現場に強い大学の4年間でした。

ちなみに、、、大学祭では、、、理工学部合同の英語劇で

      超美人の主役の後輩の、、、お母さん役をやらしてもらって、

                     スタッフと仲良くなれたことも、

こうした、、、男っぽい知識を戴けたというのが、、、あって、

私は、有効で無害な、、、知識の放射線を浴びて、4年間で目から鱗でした。

もうかりまっせ!、、、ごみから、、、レアメタルできまっせ!、、、

プラチナだって、、作れ末世、、、(@@!

    ちょっと待った!!!、、、リスクの大きいことを知ってほしい!!!

高濃度放射線廃棄物は、、、受け入れが、、、早すぎると、

                 地獄を見るかもしれないが

      希望がゼロと言うのではなくて、、、

リニヤックだって、、、病院で、、、

医師の息子が授業で使わしていただいていた時期があるから

安全性が進んできているだけに、、、、北海道誘致は

    待った方が良くないかな?

「放射線廃棄物の決定的な解決策」が、、、

            目下ないはずですから!!!

放射性廃棄物の無害化は、、、

         最も金がかかる価値のある研究ですから、、、

進行中の研究中に、希望だけは見出して、、、

鉄の軍艦揃えると、、、ホントのゴミになるかもしれませんよね。

これって、、、三菱重工業レベルの、、

    、すっごい、、、「死の灰排水」の

               処理が出来ないと、、、コワイよね!

元素変換が確立して、現在のように、、、半減期が数万年と言う元素から

半減期の短い元素に変換できる研究の安全性が確立してから、、

     、誘致してもおそくないのでは???

例えば、、、目下

危険なプルトニウムを再利用することが実際理屈とは違って

経済的には採算が合わなくて、、、世界は撤退しているという記事がある。

処理中の廃液には死の灰が入っているため

     ガラスと混ぜて、固化することで

            放射能を閉じ込めるという方法が主流らしいが

それまでのプロセスに至るまでの貯蔵期間中は

          

   コロナも正体不明で怖いが、、、

      廃棄物の処理工程の貯蔵期間中の1000種類の

   目に見えない放射物質の出す、、、有害な放射線は

           コロナよりも正体不明で、、、量も不明で、、、

               安全性が確立していない「公害物質」ですよね!!!

空気が汚れてしまうかもね、、、

ぜんそくにならねば良いけれどね。。。

北海道病。。。ぜんそくに、、、がん。。。なんて、、、いやだよね!

私は76歳の、、、

時代遅れの高校の科学の教師の免許は持っていますが

令和の日大生は、、、私の100倍賢いから、、、

詳しいこと聴くなら、、、地元北大の先生とか、、、

     現場の事ならなら日大の大学の先生に聞いたら、、、教えてくれるかもね?

北海道の知事さん、、、若くても、、、知識を広め、、、

居住者と話し合い、、、

儲かりまっせ、、、が本当なら、、、

世界は場所の提供から撤退はしないはずですよね。

     政治音痴の私ですが、、、おそまつ乍ら、、、

昭和42年、日大理工学部卒までに、駿河台で習った放射化学の

記憶を思い出しながらの日記を書くことで、、、、

       50年住んだ北海道、、、、知人は居ないけど,、、

          空気の美味さ、大自然、、、人のおおらかさ、、、(騙されないで!)

       いかに北海道を、、、私なりに、、、愛していたのかと、、、

    76歳になって、、、愛の告白です!~~~💛

知事さん、、、北海道の未来に希望の光を!

            日本の冷蔵庫の牛乳は安心して飲みたい!!!

誘致するなら、、、「安全性が世界会議で確立する廃棄物処理法が出来てから」でも

    時代から遅れた、、、施設ごみは出ないと思いますが、、、

     Vm21のパソコンを40歳の時60万円で買ったら。。。翌々年に

   5万円の廃棄物になりました。フロッピーがシングル盤ほど大きいのが

        2年で、切手ほどになりましたものね、、、

         O~~~~怖い、。。。科学ゴミの主体不明の放射線類!

            知恵袋の息子と弟ですが、        

              

 

              北海道の事では相談していませんが

             放射線の事やリニヤックの事を聴くと

      私の頭が〇×▽xxx@@@になるまでしゃべってくれますが、、、

           いまいち専門的で、、、理解不能なので、

             私の大学卒業までの知識の範囲で

                 北海道を愛する日記といたします。

              

             

 

研究は日進月歩だから、、安全性が確立すれば

   高濃度放射性廃棄物の処理の有効利用が

           経済的にプラスに回る日が来るかもしれないと

               希望だけは持ち続ける、、、婆ちゃんです。

          

       正体解らんものって、、、coronaもそやけど、、、

       放射性物質も、、、趙怖いよネ、、、 

 


一日一本の恒例の雪囲いをはじめました。

2020-10-02 19:30:07 | Weblog

今年、、庭で私とお話しした花友達の写真を観乍ら

来年も、、、咲いてよね、、、と

   

雪虫の見え始めた季節に入り、、、

             枝をまとめて、

                雪折れしないように

                       一日一本、、、始めました。

地面が凍るとガードの竹が刺さらなくなるので、

                    温かいうちに

                         竹をさしてしまいます。

 

紅葉する、赤枝垂れモミジや、青枝垂れは、、、

                     紅葉が終わった日

           散り始めると、最後の雪囲いになって、、、冬が来ます。

 

50年近く、、、私の恒例の雪を迎える支度です。

 

         そして、、、膨大な雪はもうすぐやってきます。

   

      

圧縮して、、、雪の塀にしてしまいますが、

 

一日3~4時間雪と付き合って、、、

         除雪のめったに来ないドーロまで

              車が泊まれるように、スペースを作ります。

 

私の人生では、、、薬剤師の免許も、

     中学校や、高校の理科や物理の教員免許も

         検査技師や、、、衛生管理の免許なども

           子育て時代の授業料のほかは、、、あまり、、、

                         使わない人生でした。

単身赴任中は正職員の薬剤師をしていましたが、、、

     主人離れていると、、、

         これ幸いに、、、自分の仕事仲間との

               海外学会や、、、生薬野外探索会で

                   白山登山に参加したり

     対馬の原種の植物を探しにいたっり、、、

              三大中医学院の生薬親善学会ゼミで、中国に行ったり、、、

   自分でも、、、あきれるぐらい、、、

     主婦から解き放たれると、、、仕事関係に夢中になりました。

   男性が、、、仕事、、、仕事に欠ける人生が、、、

何パーセントかは理解できるような気がしました。

    忙しく働いても、、、出費の方が多いくらい、、、

   水を得た魚のように、、、薬剤師の関係の、、学会参加で

     韓国の、済州島の、、日の出峯などの植物探索などにも参加しました。

主人が、、、単身赴任で帰ってきたその月に、、、

           私は家庭人に戻りました。

子供なら、、、ほおておけますが、、、

主人は、、、やはり、、、垢まみれのYシャツや

              弁当を造り置いて、、、チーンしてね!、、と

そういう訳にはいかない医師なので、、、

       名残欲しいけれど、、、薬剤師の世界とは、、、5年でお別れしました。

今年も又、、、雪を掻きながら、、、

      子育て支援、、、で、、、果たして???

        女性は家庭の子育てママになってくれる時代なのかな?

我が心に潜んでいる、、、飛龍のような、、、家庭から飛び出したかっ心が

現代の女性は、、、抑えられるのかしらね?

   眉の太い、、世界を又に冒険しているTVの女性も

        同業の旦那さんと結婚なさって、、、

           素敵なやんちゃの女の子を育ててほしいと思っています。

  私だって、、、こころでは

            美しい魅力ある女性で居たかったのですが、、、

          

               生きるという事は、、、サバイバル戦争なので、、、

                  こんな婆ちゃんになりましたが、、、

 

                     不思議な大きな力に守られた

                        ヒヤリハットの、、、人生を

            今は振り返りながら、、

          

 

人生には姿の見えない、、、怪獣が要るから、、、

        救急セットを手時価に於いて、、、

           後は、、、神様を信じて、、、おおらかに、、、ね!

                   、何かに向かって、、、感謝しています。

              。

         

       

             コロナの緊張と闘いながら、、、

                子供が独立してくれていることが、、、

                  振り返れば、、、

          私の大きな仕事だったのかもしれません。

          

 

  いつも、庭の花が友達です。

       来年も、、、咲いてくれれば、、、又元気をもらって

               日記を書きながら、、、

                  家を守って、、、最後の三日間までは

                      家で、草花と暮らすのが

                         目標です。

             

     小さな鉢植えだったり、野草だったㇼ、、、

          小鳥が運んできた木の実から

                 芽生えた知らない植物など、、、

           

            

                花が咲くと、、、見つめてしまうから

                   花は、、、きっと、、、友達なんですよね。

       結婚子育て、、、女性は子供を産んだとたん

                   母親も生まれてしまうから、、、

                    元の自分一人の純粋人間には戻れない。

          母親の道を手探りで、、、登山する。

             花も、蝶も、虫も、、、

                飛べないライチョウのようなてっぺんの鳥の世界にも

              いろいろな女性が投影されて、、、

           昇り始めた母親街道は、、、振り返れば、、、

             小中学校、、、高校、、、大学より

                 学ぶことが多かった。

           家の中に居ての仕事なのに、、、

              子育ての時代は、

               伝書鳩より、情報を運んでくる子供たちに

            母親の力以上の馬鹿時からを、、、引っ張り出さしてくれるから

      悲鳴をかみしめながら、、

                ヒヤリハットの成長をさせられた来し方であった(^^! 

             

 

         人生も、、、紅葉の、、、夕暮れ時になって

        生まれた空に、、、かえっておいでよう~~~!

   呼びかけられながらも、、、

       医師以外のすべてに、、、不器用な主人より先に

          父母の所に帰ることは

           とても、、観ていられないから、、、

         一日でも、、、主人よりは長く生きねばと、、、思う。

 これは、、、愛でも、、、恋でもない、、、

   コロナの流行している今日、、、外食より、、、弁当が安心できる妻のエゴから

    弁当を、、、脚付けているのと同じ心境です。

         主人の方が残ってしまったら、、、家内の敗北だと思っている。

      これでも,、、鼻の時代が有ったのですよね。。。私にも。

            

               冬が落ちてきそうな、、、10月の、、日記でした。