花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

ビートルズの世界

2019-06-29 14:59:46 | Weblog
イマジン、、、、

60歳代の世代は

ビートルズに夢中になったころを

思い出すかもしれない。


今度のサミットが、

目前の「5Gの世界」に

国境も、人種も乗り越えて、情報社会に

人間が人間でいられる、、、べき

バランスの保たれる世界の条件が
「戦略の為の 情報戦争にならない」という事だと
                 おもいませんか?」

核戦争を無くし、差別も亡くし、
共存共栄の、可能性をテーマにして

各国の優れた特殊性を大切に
グローバルな役割分担に
情報を使うと

耐力、知力、研究力、芸術的な要素、製作に優れているなど、、、etc.

日本のお祭りのように、出番を提供して

経済が少数民族にまでロンダリングするような
インターナショナルな絶滅を保護してゆく世の中に

情報社会が、一役果たせると
平和に向けての夢が実現するのではと、、、願います。

物質と、心の宿る人間の違いに

経済効果などを基準に差別すよりも、
希少価値の歴史遺産とか博物的な保存とか

戦争で破壊の方向に行くことは
地球のバランスも崩れて

海のプラスチックのように、
未開国の方が
地球を汚染していないという事を

大切にすることは、
各地域の文化を、視点を変えて評価すると

世界は、地球とともに、空気もきれいで、
炭酸ガスを買ってまで地球の温暖化ガ進むという事に
ブレーキがっかるのではないでしょうか?

動植物のみならず
野生文化の民族は、、、ソートしておいて

別の経済効果がもたらされるように
支え合えれば、、、と。

本質的な価値を知ることだと思いました。

紀元前から今日まで今なお、、、
「三国志はベストセラー」だと思いませんか?
1990年ごろ
私は生薬学や漢方額の勉強の交流団体に
北大の聴講生として、薬剤師会の」先生や
薬科大学の教室の皆さんと
4大中医学院で学術交流の旅に参加したことが有りました。
北京から杭州そして成都、西安と、旅をしました。
バスで舗装されていない道を、砂漠に向かって走ったり

源氏物語の原点のような

杭州の文化に触れて

開発されていないときに
中国を旅して「大地の子!」を感じた事を、

旅の感動としてここに記していきます。

わけもなく、、、私はここで生まれた!
地球の土から産まれた、、、と、

一瞬錯覚に陥った感情を、思い出すのです。

中国と日本は、友達以上だと思います。

一方、私の母の父にあたる爺ちゃんは
27歳の時、アメリカに、船で3ヶ月もかかって渡り
アメリカの農業を学んだり、
進歩した議会政治を勉強したり、
アメリカは、戦前から、
我が家にとっては、、、先生でした。

アメリカは、明治維新以後、
日本人の多くの国民の先生だったと思います。



サミットの真ん中の お席の、阿部首相は、
両方が共存共栄して仲良くしてくれることが

小さな国が「核」という
「破壊兵器」に走るのを防ぐと思います。



家事の合間に、主人の帰宅する時間に、

北大のアカデミーの授業に出るのは、

主婦としても、
家庭のゴールデンタイムを捨てて

講習に通うのですから、

北大の学究に徹した人生の先生の、
究極の一言を期待していなした。

NHKの最後の授業の番組のごとく
そのジャンルの専門に捧げた命の主だから言える言葉、、、

もしかしたら、
ポロッと、授業中に吐露されるかもしれない?

もしかしたら、
75歳になって、
究極の未来に気付かされるかもしれない、、、!

もしかしたら、、、、
家事と洗濯と中の

手探りの手段で、27000円という授業料を払って

1時間30分の探し物に出かけるのです。

「昨日のテーマは

「動物たちの子育て」でした。

動物と人間の違いは、

本能で動くか、理性で動くかの違いもありますが

理性の気が付かないところで、

内分泌という、、、

神の域の情報がもたらす未知の分野の作用のメカニズムを
研究していらっしゃる先生もネットには出ています。

体内の五臓六腑
そして、最も厄介な悩という
自分であって自分でないような、、、。

「内分泌やら、神経やら、伝達物質やら

受容体やら、環境因子からくるレセプターと内分泌の不思議!

きっとそれらを研究していた先生が、

14種も見つかっているというクロコダイルの生態や

オスメスの決まるのさえ、環境因子に左右されるという
内分泌の謎を、究極の

人間の知恵の及ばないひとことを

君らの息子や、孫に聴こえればとという

研究という終わりなき謎の前に
ひれ伏した一言が聴けると思って、

2日間の病院泊まり、仕事で
へとへとになって帰ってくるだろう主人を
迎えもせずに
一人で夕食させることを選んで
夜学に出かけたのですが、、、

がっかりしました、、、。

研究にお疲れだったのでしょうか?



その講義には、専門の内分泌や、
環境因子で変わる実験動物の特性も、

一切、専門の知識に触れることが無くて、

NHKの真夜中のプレミアムの方が
ダイナミックな画像で、
大自然の画像が楽しめるという程度の大衆的な講義でした。

夕飯も食べずに
胸を躍らせて、
教室に飛び込んだのですけどね~~~(--!

哀れな、主婦の、
社会システムから蚊帳の外に居る者の
知的欲望は専門分野からは「却下」された思いがしました。

言うなれば、、、

実に楽しいTV番組の
簡単な画像と言えばよいのでしょうか?

レストランでの、、、

どれを食べよウか!!!

胸ときめかして、
これがいいかな?
こっちがいいよ?

まるで楽しいメニュウーのような、

大学生が
張り切って学際に配ろうと作成したような
楽しい、
興味は満足させる
カラー刷りの
充分3000円の値打ちはある内容のパンフレットは

羅列を楽しませてはくれました。

先生はきっと
日ごろのご研究で疲れていらしたのではと思いますが

例えば、スポンサーになっている「市民公開講座」なら

最高だったと思います。


北大アカデミーと、、、

アカデミーが付く以上、

生きてる限りの、
試行錯誤の悩める時間を下さる様な

ご自分の専門分野の、
解けない不思議な課題や、

大自然の
踏み込めない壁の一つに出逢ったとき

学者のため息交じりの
未来に託す夢を聞きたかった。

ここで、講習会の事はさておいて

何十年も前に

ビートルズが聴かしてくれた

「イマジン」が、思い出されました。

小野ヨーコさんという日本の女性が
ビートルズのメンバーの夫人として居たことが
忘れられない理由の一つでもありますが。

日本が原子爆弾の2発を受けて、

原子爆弾で、人間というみずみずしい天与の心ある生き物が
元素に分解して、勝った方も負けた方も
人間を辞めたような結果になることを

戦争の大きな問題だと思っていただけに、

彼らの若いグループが歌っていたイマジン」を。

私は、英語の歌詞を理
解できるまで
英語の辞書を引いた。

「IT」はやがて、
人間を超える能力を宇宙規模で発揮するだろう。

それを創りだす人間には「心がある」

どんなに科学が発展しても、心は作れないとおもいませんか?

元素をつなぎ合わせて、
完全な人工人間を創るとしても

最後の、元素を、
まるで、、、「パズルの最後のピース」のごとく
はめ入れたとき

人工人間の形骸の中に

人工人間の心が、

その瞬間に生まれるのだろうか!!?


人工知能や、記憶データーから、

「これが愛ですABCDE/」、、、と

心空しい科学の愛の心」が、跳ね返ってくるかもしれない。

言葉にも、歌にもなさじ、、、わが想い
、、、その日そのとき、、、胸から胸に、、」

これは与謝野晶子の作品ですが、

人間のように
無言で心を伝えられるのか?

天与の不思議な生命体は

地球丸ごと、良い環境の中で生まれたものが
地球の生命体として残ってるものが
大半ではなかろうか?

森羅万象すべてがバランス良くて
しかも 
空気が美しい環境が必要なのではなかったのか?

許された天の創造物としか思えないのは

科学の果ての宗教心に近い思いでしょうね。

75歳の私は、、、
もう10年
この世に居られるかどうかわかりません。

この年になると、
国境も、人種も、差別も、万里の長城も、
他国との壁も、
ドイツの壁のように
一時的な人間の、
悪あがきの結果のように思えてきます。

本当の勇気をもって、世界中丸裸になって

心をぶっつけ合い話し合いに応じれば、
格差のある知的人生も、助け合えるはず。


5Gの世界はジャングルの中に、
形のない東京大学のような大学丸ごと

スマホやP.Cに、インストールされたり

必要な操作は

いっぱい、アプリとして出回るでしょう。

優れた感覚の日本人を拉致する時代は
とっくに過ぎてゆくのですから

世界が国境を越えて、
守るべきルールをしっかりと守って、
親子以上
兄弟以上、
夫婦の二人三脚以上に
世界が結束しないと、

今度は、とんでもない独裁者

が情報源を操りだしたら、
世界の秩序は、
マッタ―ホーンが総雪崩のようになった如くなりますから

ノアの箱舟に避難する暇のない、
知的大洪水が起こるでしょう。

幸いに、歴史が築いた地域という、、、国々が
立派なリーダーが居て
、今日まで、
人間が人間であることを守ってきてくれました。

もう、、、

戦争や、武器や、不動産で経済が成り立つ時代が

真っ赤な夕日を投げかけて、
沈んでゆきます。

日本は、唯一、、、「核の恐怖」を、心底知っています。



ピカソのゲルニカも、幼稚園の幼児の絵のように、
瑞々しい、芸術のメッセージがありますが、

原子爆弾は

「命の分解です:

人間が元素になって

影になっているのです。」


核戦争は、、、人間を辞めるのか、、、
地球を別の星にしてしまう。

安倍首相の役割の大きさが解る今度のサミットは

日本人にしか果たせない、、、

人間の人類としての宝物の心が架かていると
思えました。

隣同士にも、低い垣根は必要なのが解ります。

しかし、お互いを尊重するが故の垣根であってほしいと思いながら

わずか、、、あと十年、、、
在るのか?無いのか?の
75歳の婆ちゃんは

日記に、故人のたわごとかもしれないが、、、

若き日に、、、

「イマジン」を訳したときの感動がよみがえってきた
大阪の
サミットです。

時代遅れの、婆ちゃんでも、
日記には思う事が欠けるのですから

stressは貯めなくて済みます。



さて、、、、北大のアカデミーの事に窓りますが

日本は、見えないけれど、
男尊女卑の体質が、家庭全体を覆っつっています。

先進国のように
、女が男を選べないのです。

だから、
好きな男と結婚できた女性は

旦那に似た我が子にぞっこん参って、
命かけて育てるという
幸せな喰われ乍らも、
臨んだ玉虫の厨子の中で観音様に従えます。

しかし、、環境や、貧乏や、組織力で
結婚という個人的な感情で結ばれるべきなのだろうか?

成り行きで結婚状態になって、
相手の男性が、
人間的な育児や、
保護能力や
コミュニケーション能力に

著しく未発達で、
女房になる人間に、
性的な快楽しか求めなかったり

家庭の、雑務の無給量のお手伝いのように扱ったり

社会に向けて、
「女房は自分の持ち物だから」と表現をしたり

子供はお前が産んだんだから、
女房の責任だと突き放して

育児の不安を取り除く相棒の役を放棄するとか、、、

女性の負担が、
時間的にも、
仕事量的にも、
交際する友人も無く
家族パーティも無い、誕生会も無い。
外面紳士に徹していた時、

女性は、、、果たして、、、
主人に似ている我が子に、素直な無垢な母の愛を注げるだろうか?

たぶん、旦那は強いし、言いたいことも言えないし、

旦那に背くと、生活も困るという仕事を持たない女房は

旦那に似ている子供の形骸に対して攻撃の心を向けるのが

もしかしたら、、、世の中の、、、幼児虐待の何パーセントかを
占めているのではないだろうか、?

環境が、恐怖だと、
自己防衛の、
凶暴さの野生に火をつけるような

「内分泌の動きがあるのではないか?」

薬理学的にも

ある種の精神疾患に「ドーパミン」が作用していたり

アセチルコリンのレセプターが動かされたり、、、

ストレスや快楽で、内分泌や、

エンドルフィンの関係があるのは確かなようですよね

健全な出産や育児には


環境がもたらす恐怖を撤去する政治に
世界中が向いて行かないと、
怖い世の中になりそうですよね。

その中でも「戦争!」

特に、「核戦争は、、、
人間という生き物に失望と信頼を失う心の危険があります。」



日本は、国の始まりから、、天皇陛下という歴史とともに
今日もこれからも、
国民とともに存在し続けている歴史が
日本人は、いつなんどき、どんなことが有ろうと、
じぶんは日本人だというアイデンティティに揺るぐものはありません、

心の中に自分が日本人であるという、、、父にも母にも代行の利かない
大きな存在が、どんなときにも、歴史とともに在り続け今日に至っているという
文化そのものが、国民とともに「日本人であるというゆるぎない心があります、。

アイデンテェティのような自己の存在の理由を、、
容認してくれる精神を
支えてくれる伝統の中で、

あの、核戦争の原子爆弾の中で、

木端みじんになりながら

「核戦争の方が、、、原子爆弾の方が間違っている!と!」
心が元素に分解されなかったのは、

天皇陛下が「戦争に負けたとか、、、勝ったとかではなくて、、」

玉音放送で

「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、、、終戦という人間宣言」をされた

人間の究極の、人間であり続けるための、お言葉がラジオから流れ

日本人は、人間であり続けるための、

復活に向かって行けたのだと思います。

原子爆弾は、人間が人間を分解して、元素のしてしまう、、、

亡きがらも、生きた証のすべてが分解された廃墟の地球が残るのです。

この経験の真っただ中で生まれた75歳の婆ちゃん事、、、私は

今回のサミットで、世界が一つになって、人間の素晴らしい心や

人間のオリンピックや、パラリンピックの精神の強さの生きざまが

瑞々しく、インターナショナルの共有の価値ある心として

戦うんなら、、、武器を捨ててほしいと、、、

女性だから、、、武器は要らないと、、そんな世界を夢見ています。

個人の日記帳ですから、迷って入って読んだ北大生が居たら、、、

腹が立ったら、、、迷い込んだ方が間違いだと思って、

言いたいことを書いている婆ちゃんの、戦争が無かったら、、、

8人兄弟だったという、、、悔しい思いもあるのです。
戦争を知らない戦後、、

母は無くした4人の子供たちを偲び
弟を高齢出産に踏み切り挑戦してでも。。。
戦地で失った子供を取り戻すつもりであったと言いていた。

「生まれた弟は、、、取り戻した子供とは違って、、、いた。」
母は言いました。

この子を見て!
戦争を知らない、、、未来の子よ。」

過去からやってきたのではない。
過去は、この子の誕生をもって、供養できたといっていました。

「戦争中に死んだ子供らは心から供養できるようになった。」、、、と。

戦後生まれた弟は

枯れかけた母の心に
太陽のようなエネルギーを
注いでくれた。


母は、一度は捨てていた音楽を始めた。

小学校の音楽の先生に音楽を教えたり、

先生になる生徒が必要とされる音楽を指導したりして
81歳で、会場ぎっしりの、多くの親しい人に送られて
人生を全うしました。

末っ子に、全部任せてあるからと
いつも、孤独ではなかった。
団塊の世代の役割のまただ中で
CTの精緻な画像の開発メンバーとして
日本にCTや、MRIや、らせんCTの開発にかかわり、
国立がんセンターの多くのお仲間とともに
結束して頑張っていたダ時期と重なった母の死は

北海道から、単身帰郷した私に
昔懐かしい人々とも会う機会となりました。
弟とCTの開発を共に頑張っていたお仲間でショウか?
結束するというがんと闘う先生方は、兄弟以上に

母を亡くした弟を支えてくださり、悲しみのはずの葬式が
母の人生の大往生の祝賀会のように明るく、見送れたことが
感謝でした。
北海道に嫁に行ってしまい、里帰りもままならず、
親孝行も、全く、、、手が届かなかったことが

弟という、戦後生まれた新しい生き方の王道を行っているお仲間のおかげで
私は、せめて、台所の片付けだけでも、、、と
弟の頑張りに、感謝したものでした。

主人は外科医としての予約の勤務が優先で、
子供たちと、北海道から、母を偲んでいました。

団塊の世代の役割を立派に背負って
医療分野で、がんセンターの黎明期の体当たりのがん征圧に

立派に業績を残せたのも、無邪気な戦後の快活さが弟を守ったのかもしれません
母は、自分の人生の最後は、末っ子に任せてあるから、心は穣に
ピアノの弟子を育てられているよ、、、亡くなる3日前まで、、、
50人以上のお弟子さんと、充実した日々を過ごしながら、、、はい!さようなら!
弟のおかげで、、、母は、54歳からの第二の人生を、全うしました。

子育て、、、弟子育て、、、戦争のさなか、、
富国強兵時代の多産推奨で、
8人も子供を産んだ明治生まれの
「日本の女性」は、、、すごいですね。
高齢出産の末っ子に、第二の人生を生きる力をもらえた母は
100人以上のお弟子さんに囲まれて、旅立ちました。

きっと、、、北海道から、実の娘が来ていても、
娘以上に若くて美しいお弟子さんに見送られて、
私も、感謝、感謝で、台所で片付けをしながら、
人前には出ないで、母の面影と、楽しく話しながら見送りました。

父の54歳の時のお別れのように、、、涙は出ませんでした。
弟の長女で小学生の姪っ子が
思いっきり元気な大きな声で、
「みなさん!!!静かにしなさい!!!
おばあちやんが、眠れなくて、眼を覚ましますよーーー!!!」

大真面目に走り回る姪っ子たちや甥っ子を叱るので、
皆、、笑いの合唱になりました。

弟が中心で動いてくれる時は、
なぜか、、、どんな時も、、、皆明るかったことが感謝です。

母の子育て、弟子育ては、見事な実績でした。

知性と、終戦から復活した、、、いいえ、、、復活させた父が、
名医だったのかもしれません





40歳過ぎてからの、再びの育児と、

再びの専門だった音楽の道で
子供たちを教えはじめ。
弟子を音楽大学にも進学する手助けになれた
母は、

疎開地という、
親族の居るところで
13年もかかって

4人の子供を喪った戦争の恐怖から立ち直ったようでした。
終戦後の心の立て直しに父がすべてを捨てて、
母の故郷を心の復活場所として選んでくれたことが

医師だった父の究極の治療だったのかもしれませんね?


母の故郷の皆の心の受け皿として、
唯一の医療機関として
村人とともに生きた父の転身が大きかったと振り返ります。


戦争が始まる前は、医師として、音楽家として、
自分自身を表現していた
両親でした。

父の市ヶ谷の実家も、
戦争中に無くなりました。

嫁に行く私に持っていってもらうしか
何処に置いたらいいか
ワカラナイという
軍隊手帳。
奉公袋。
千人針の武運長久のたすき。

戦地に行って軍医として戦った時の千人針は
私の時代が終わるとき、
結婚先で姓の変わった心ある他人の判断で
生き残った一人娘の私と共に

一緒に灰にしてもらうつもりです。

私が死んだら、
戦後は終わらせなければなりません。

次の、世界平和に向けて、
日本は
重大な役割を続けてゆく義務があると思います。

世界で2発もの原子爆弾が落ちた破壊を体験して
強い心が
キセキの復活を果たした
世界に比類なき文化のあることが
各自のアイデンティティを支えて
復活に向かわせたと信じています。

父も、父の10歳下の弟にあたる叔父さんも
兄弟二人そろって、
戦争帰りの身体を使い切って。過労死でした、

しかし、昭和天皇陛下、平成天皇陛下の御苦労は
終戦から復活まで、そして、新たなる令和に時代を迎えても

国民とともに生きてくださり、
戦後の慰霊の旅の人生を
国民の心とともに生きてくださり

終戦を示してくださいました。

国民の一人でいらっしゃった

美智子妃殿下が

戦後の若者に、元気をくださいました。

皇太子殿下の恋、、、夢のような青春を示してくださり
ミッチーブームは
お洒落ではつらつとした
女子大生をすっかり元気にしました。

はしゃぎたい心を抑えて、

美智子妃殿下の
品のよい、服装やなさり方をお手本に

すっかり元気が出た青春時代でした。

私が大学に入学して
間もなく、父が早逝しました。
疎開先では、
アメリカに追いつき追い越せの
戦後の新しい教育が出来ないからと、

4人の子供たちの為に

生まれ故郷の故郷の東京の下町の
お寺の跡地に
三度目の開業を、、、
戦争と、疎開と。妻の心の復活の治療生活で
疲れ切った体で

疎開中だった親族一同を
東京に移動させた開業だったのです。

慈恵会医科大学卒業の父の友人や先輩が
近くで開業をしていた事が幸いでした。

医科大学に進学していた長男は
医師としての相棒にはなりませんでしたが

同級生の中に、母校の教授になられた先生や
戦後の新宿で独身のまま開業されていらした先輩や

駅の近くで、医師会の役員をされていた同窓生や

はたまた、、、医専出身で父の技術を取得に来ていた先生やらが
皆で3度目の、無茶な開業を支えてくださったおかげで

東京の、実家のあった市ヶ谷には無理でしたが
下町で、開業医を必要としてくれている戦後の
陣地や、貧しい人たちが、
神様のように、父を慕ってきてくださいました。

父が死んだ日、
家族は突然の事で
皆、涙も出せない、、、ボー然としていましたが

患者さんたちが、
大きな体を震わせて、泣いてくれていました。

下町の患者さんたちは人情に厚くて、

止めたのですが、
「先生が煙になって、天に行くまで見届けたい!」

忙しいさなか、涙も出る暇もない突然の葬儀に

煙になるまで先生を送るという
下町の人情に負けて、

母は、慰霊のバスを頼みました。
私だけが、涙を瀧のように流して
患者さんと一緒の次元で

泣いていました。

沈黙の母は、声なき声の深さかな?。
でも、、、今振り返ると、

学徒出陣で帰還出来た10歳違いの弟を
早稲田大学を卒業するまで
学費応援と、
自宅に家族とともに同居することを10年以上続けて
多いときは17人ぐらいが、
食堂でぶつかり合いました。

ドサクサの生活の中で、
美智子様の美しい清楚な品のようスーツ姿に見とれながら

家は家、私は私!と割り切って、

英会話も頑張り、大学も卒業して、
日本復活の団塊の世代の応援団として

父の居なくなった高校生だった弟が
国立一期校に進学して医師になって
「がん」という病に
早期発見の検診検査研究機関のリーダーになったときは

これで、がんは共存しながら生きて行ける病気にちかづいたことを

興奮する思いで「やったね!」と

遠い北海道に嫁いでいても
電話という便利なもので

がんセンターの黎明期のコロンブスの卵をやってのけた弟の
新聞記事の切り抜きを、宝物のように
姉の私の元気な源として、
戦後の医療部門の団塊の世代の復活の実績を観る思いでした。

畏れ多くも、宮さまや、国会議員の国を背負って、居る方々の
がん検診を任されて、間接的に、国家になくてはならない方々の
がんの早期発見で延命に功労があった事は

父も、生きていたら、東京に戻ってきたことの実感を
喜んだことで逢ったろうとおおうと、、、

彼岸でも、命日でもないのに、東京に出てきては
お墓参りをしたのでした。

父母に、頑張った団塊の世代の一員として
公に役に立つ仕事をしていることを
宝仙寺の弘法様の像の下を通り、お墓に話しかけに行きました。

日本は、終戦後、、、立ち直りましたよ!
植民地でもないし、占領も、されていませんよ、
素晴らしい独自の頑張りが出来る団塊の世代のおかげで

復興しましたよ。
これからは、世界の平和の為に
大きな役割を果たすことでしょう。

父と、、、叔父さん、、、
戦争が無かったら、、、
80歳までは生き抜いてくれたでしょうね。
戦地でがりがりに痩せて帰還した後は
外からは見えなくても、
腎臓や、心臓や、肝臓のくたびれは、、、寿命を縮めたことだろう。

でも、お二人は、仕事に誇りを持っていたから

夢中でしたから、、、
仕事に没頭してましたから
本人は二人とも、
過労だから、
休まなくてはと考える前に

神様が天与の膝で休ませてくれたのでしょうね


手塚漫画が大好きだって一家で漫画を読んでいた。
これは、手塚治虫さんから葉書をもらったり、
ファックスをもらったときに
大切にしていたファックスを写真保存したものです。


54歳で、働きながら
自分が死んだのもわかっていないような

生きてる延長上で、働きながら眠ってしまいました。

女子大の教授だった叔父さんは、学校に本を寄付して
文庫を寄贈して、消えてゆきました。
その中に、手塚漫画があったかどうかは知りませんが

我が家が手塚漫画から受けた影響は
ハンパなものではありませんでした。

結果的に父が頑張って残したものと言えば、、、

父の長男と末っ子である「医師の兄と弟」と、
薬剤師の私と、
年子の薬剤師の兄を育てました。

長男の兄は、息子を医師にして
私立大学であった事と
浪人をしたことで
全財産が消えて施設に居ます。、

薬剤師の兄は娘を
薬剤師と栄養士にして

東大卒業の学者の男性と
薬剤師の実践に強い見事な技術者の後輩と
結婚するという幸運のもとに
奥さんの薬剤師も、目下孫バカというわけです。

「次男の兄は元来が文科系に強い傾向の語学出来る薬剤師ですが
4年間も、ドイツに行っていたせいか、
べ―トベンや、近衛さんの日本に初めて持ってきたという
ムーンライトの楽譜の
イントロの話や、「運命」の出だしの「ジャジャジャジャン!」が
原作の楽譜は「ン、、ジャジャジャジャン」となって
日本式の運命だとか、母とは40通もの航空便を
ドイツから交換するという、
未亡人になっていた母にとって
、弟、次兄、お弟子さんが居てくれたことは
天国の「父のなせるわざ」だと、
私は、笑みがこぼれたモノでした。

私は、父と、母と、兄弟と、結婚してからの、他人の出発から
家族になっていった自分の人生の子育ての総合から考えて、

北海道がマイホームタウンとなるまでには
50年かかったと思います、

ひたすら、孤独に強くならねばと、日々、自分に言い聞かせた50年間でした。
しかし、悔いがありません。

医師をするという、見えないサポーターの役割を
舞台裏でするという事は、感情の起伏の無いままに、
時間がすっ飛んで行きました。

我が家全部の部屋が「医師をする」者の舞台裏になっています。

自分をしている時間がパッチワークのようなつぎはぎであった事が

作品にはなりませんでした。

無給医時代であった事、青医連など、
国家試験ボイコットで
医師になる試験が受けられなかった時代だったこと、

大学生を3人かかえて、娘を嫁に出した主人の家も
戦後の、一億総貧乏人の時代だったこと、
博士号を取得するのに、実験動物が高価で、7年も
家庭に月給が回ってこなかった事、

世間は医師の妻と言うと、「お金持ち」と短絡する人が多く、
期待に背いて、がっかりさせないために、
人の輪の中を避けたこと。
いつしか、孤独に強くなり、山登りが好きになり、
白山など、3000メートルに近い山に
チャレンジしていたことなどが

樹や草花や雑草が、友人交流に代わってしまいました。、
雑草の庭を、面倒を見て、人生の時間が過ぎていました。

次兄も、良く電話をくれますが


呆けもせずに、、、
5Gの時代に備えて四捨五入したら80歳に近いのに

宇宙旅行の実現を夢見ています。

我が家は全員、良く稼ぎ、全額を教育界にまっしぐらに支払って

他にしたいことが無かったのですか?

勉強バカとちがいますか?

良い仕事をしている割には
一日にかつ丼が食べられれば、、、金持ちでショウ!!
すんなり答える人ばかりです。

世に言われる諺に、、、「医者バカ」という人たりですね。

私の外科医の妻になって50年経ちますが
誕生祝のプレゼントも無いので、
最近、、、、生きてるうちに
奥さんにセーターでもプレゼントすることを
してみたらどうなのよ?

買ってきました!
三越の三階で、一万以上したと、、、威張りながら、
結婚後初めての誕生祝のプレゼントです。

嬉しいじゃないですか!
着て見せるから、、、待っててね!
主人も、得意そうに、
何しろ三越で買ったんだからな!
売り場のおばさんが、、、これが最高ですよって、、、
勧めてくれたんだ、、、!

首が入りません

サイズも会いません
主人は、私が結婚した当時の9号を買ってきたのです。

今は!!!15号なのに、、、(涙!!!あほ!)



このような戦争の終戦は
日本人の敗北ではなかった、
戦争そのものが間違った手段の世界の歴史上の
避けがたい、バランスの結果だったと
私は、、、

原子爆弾は間違っていたと心から広島の博物館で思いました。

人間が人間の姿さえまっとうに未来に伝えられないような

地球を哀しいエゴの結果、元素に分解して、森羅万象すべてが

人工の計算された未来の矛盾と地球崩壊に進んでゆくという

心丸ごと破壊してしまい、生き残った人間かいたとしても、

狂気の現実におびえるだろう。

この機会に、原爆の恐ろしさ、
科学の間違った使い方、

武器も、国境も、経済も、人種差別の偏見も

もうすぐ解決される

情報の交流で

得意なところを出し合って、

補いあい、助け合い、戦う前に
共存共栄する方法を考える

皆の地球になれば

オリンピックの金メダルのように

素敵な勝敗が輝き、

人類の究極の発展に向けて、

ミクロのレベルで切磋琢磨できる

世界が認める各ジャンルの指導者が

輝く時代のリーダーを勉め、

勝った者も。負けた者も、

役割の在り続けるシステムが出来たら素晴らしいですよね。

その時には
マッタ^ホーンは「雪崩が起きない山になって、輝くから、、、!」


陛下の玉音放送のもとに、

国民の戦後の復活の、何千倍ものご苦労と
日本国民の象徴として、国民の心の天与の親として
日本人が日本の文化という心を
原子爆弾も、元素にはできなかった、、、
細胞の復活があったと信じています。

私が死んだら、、私の中でも終戦から戦後は終わるのですよね。

未来の孫の時代には

情報を共有してバランスのとれた、差別も、民族も、国境も

排他的な境界線ではなくなって

エチケットを守るためにも、

互いに尊重するが故の、

無くてはならない

小さな垣根になってくれればと祈りながら

戦後に活きた小さな命の一人の婆ちゃんの本音です。




G20サミットをTVで見れる豪華な時間

2019-06-29 00:46:28 | Weblog





「仲良きことは 美しい」

円卓はどんな花より美しい花を 地球に咲かせられる

森羅万象すべてが元気になれるサミットだと信じて

経済は交流の上に成り立つのでしょう。

世界中は、それぞれの国のそれぞれの役割が

美しい花のように
円卓を囲んで

世界各国の

「国民の幸せな、仲良し国の「記念日」になることを

祈って、、、

仲良きことは、美しい地球をはぐくむ




そう信じて、75歳は孫子に。核戦争のない自然を」

送りたい

北朝鮮の




































































































































































































































































































安倍さんに不信任の言葉は似合わないと、お茶の間は感じますよ、

2019-06-27 02:23:50 | Weblog

日本の政治は与党と野党が、TVの国会中継で

お茶の間に、世間を教えてくれますね。

私は、初めの言っておきますが

政治を語れるようなレベルにはありません。

むしろ政治音痴という、政治の流れも外してしまうほど

政治はワカラナイ75歳になろうという

気持ちだけは、いつも現役の真剣さで、

国会中継を、舞台でも観るように、

茶の間で観戦しています。

野党の、この質問に、阿部さんは何と答えるんだろう!!?

必要にして十分すぎるだけの名答で答えているように思えて

なるほど、、、と。

世界中を走り回り、令和への元号に変わるときも、

国会ばかりではなく、宮内庁にも

被災地にも、、、現れるし、、、

いくつ身体があっても足りなくなるような

激務をこなされて

サミットにも参加して役割を勉められる。」

5G の時代を控えて、情報は飛び交う中で

やっぱし、、、走行中の安倍さんを

私は信頼して、

オリンピックも、阿部さんの経済路線で

買い物の集積が国のおもてなしの費用に戻れば最高ですね、

でも戦争だけは避けてくださいね。

自衛隊は頼もしい国防を担当してくださっていることに

お茶の間は充分満足しています。

野党にも、武士魂の政治家さんが居るのはわかります。

今は、一丸となって安倍さんをサポートして

素敵なオリンピックを世界の平和につながるように、

参議院は一丸となって、今は安倍政権と結束する時期では

在りませんか?

私は、森永ミルクで育った年齢なので

国が栄養不足にならないためには

世界でも有名な森永の奥様と

オリンピックに出られれば

国際親善にもなる素敵なご夫婦だと思いますよ、

参議院も、国民の代表ですから

慎重に、。

頑張ってくれた安倍さんだと、

お茶の間の、婆ちゃんは思います。

不信任案は、今の時期、取り下げた方が

国の為だと思ったりしています。

結束するときには結束しないと、

発達途上の国のインテリでない層の国民も来日すると考えると

まだまだ、、スター性のある安倍さんは、十分お若いのではないでしょうか?

戦争が、地球丸ごと、貧乏にしてしまう核爆発を知っている日本に

世界の国が集まるチャンスに、

お顔の知れていない野党の方が政権を握るよりも、

オバマ大統領も、一緒に広島で慰霊の供養をして下さったとき、

世界に報道されたのは安倍さんですから、

世界の国々でも、知名度はあると思います。

オリンピックの時には、

広島に立ち寄る各国の方々は

きっと、オバマさんと安倍さんの慰霊の姿を思い出してくださるでしょう。

核戦争が、命と、地球の命も、木っ端みじんにしてしまうことも

参加国の人々は、共感をもってくれる機会を生かすべきでしょうと、、、

不信任案は、大きな大きなイベントに、出ていた安倍首相に

似合わないと、思いました。

これは、公開していない個人の日記ブログですから

迷って立ち寄ってくださった方には

こんな、、、75歳の婆ちゃんも、、、まだ、、、

生きていて、

戦後を生きた、苦労を、戦争が起きたせいだと思っていることから、

世界中に平和の使者になって、阿部さんに、

日本の役割を、果たしてもらいたいと、期待しています。

野党は正々堂々と、言いたいことを言えば、

参議院選は、選ばれる人は選ばれるし、

与党を蹴落とす作戦より

野党なりの、「イデオロギー」を

茶の間の、婆ちゃんたちに

解るように、優しく、政見放送に自分をかけた方が、

安倍さんの足を引っ張る作戦より、

男らしい戦いぶりだと、思いますけどね~~~



ちなみに
平成17年度の、良く知っている国の消費税をネットで調べてみると

軽減税率が的確で、

質素に必要な事だけして生きている人は

消費税の高いものを避けて通れる政治配慮があるのに気が付きます。

例を上げると

イギリスの消費税がかかってないものを挙げると

食料品 新聞  書籍 公共交通 医薬品

これらは必要品でしょう?

イギリスらしい 民あっての国と考えているのでしょうね。

ちなみにハンガリーは27パーセントと高率ですが

福祉や

国民の生活に沿って、

国が考えて使っているようですよ。

江戸時代の倹約令ではないですが、

着物の知恵が、

サイズごとの買い替えをしなくてよいデザインですよね。

洗いはりも、

染め直しも出来ますし、

化繊のプリントで、大量のゴミになる様な衣類は無くて

木綿という新陳代謝の産物の汗を逃がし臭いを逃がす生地や

晒などで、老人の衣類生活は清潔に保たれていましたよね。


秀吉は金襴緞子を使っていたかもしれませんが

公害として海に行き着く化繊ゴミにはならない生地が主流でした。

お洒落も使い捨てではなかったですよね。

木綿は後進国の得意とする分野ですよね。

日本の技術製品と交換輸入すれば

後進国の援助にもなりますよね。

医師の家庭は、外から見ると、お金がいっぱいあるように思うでしょう?

確かに普通サラリーマンよりは高額な給料かもしれません。

医療に贅沢な種族ですから、

我が家の長男だった兄は、

父の診療所を○○継いだわけですから、

大名開業のようなもののはずですよね。

がんセンターの先生を、尊敬して

胃カメラというのでしょうか?

開業の方は医師を留守番に雇って

研修に明け暮れて、胃カメラの指導医を許されて、

自宅には、毎年改良されてゆく胃カメラが

剣道の道場の木刀かけのような状態で

医療機械倒れしていました。

自分で苦労して、開業の土地を買った先代の苦労は知らないわけですから

医療そのものの環境を贅沢に改良するのに余念がなくて

母が無くなるころには、アメリカ帰りの名医の多い巨大病院の

胃カメラの指導医として、開業を閉鎖してしまいました。

開業の閉鎖は、開業するより物入りなのだと、改めてわかりました。






汗や汚れは落ちるし漂白できるし滅菌にもいいから

こうした素材は軽減税率に該当させれば、

プラスチック問題はすごい勢いで解決しませんか?

消費税上げ☜手も、軍事にさえ使わなければ

日本は世界平和に多くのアイデアを提供できる国家として

平和への貢献が出来ると思いませんか?

消費税を何に使うかによって、

国内の見えない浪費家を、目覚めさせて、

国家の充実につながれば、良いと思っています。


ハンガリー クロアチア スエ―デン デンマーク

ノールウエーなど、

北方は季節の厳しさもありますので

国の工夫が解ると思いますので、

安倍さんには、使い道の、軽減税率の期待があります。

消費税の事も、福祉の充実とか、

個別にずるい人の価値になる社会ではなくて

一生懸命着実に生きている者の生きがいを奪うような消費税の使い方は

しないことを信じます。

信任していますから、、、戦争には巻き込まれないでくださいね。

目下北海道の地震被害の修理を、

少しずつ実行しながら、

老人になると、業者が

現金払いでないと引き受けてくれないところが多くて、

少しずつ、長いスパンで、考えている最中ですが、

消費税の使い方と、

住居の消耗品化をせめて、3代住める立て方にすると、

若い人たちは沢山子供を育てる余裕が出てきませんか?

不動産屋さんが儲かっているという事は

必要に迫られて家を建てる若者が、

教育費を恐れて、子供の数を一人か2人にするのがせいぜいです。

教育費を無料にするか、

子育てを増やすのは、保育園でも、保母さんの数だけでも

無いのかもしれません。

子供を世に送り出した後は

受験戦争

受験産業、

学問に目覚めるより

受験テクニックのプロの手で

純粋の「何故?そうなるの?」という研究の卵の心より

どの問題が出るのか?

合格を目指して、受験合格システムに乗っている附属幼稚園から

合法的な分割寄付とも思える高い授業料が

育児期には、夫婦共働きの生活になる。

子供を産まないで、

自己実現に勤しみ、

家は借りマンションの業か2DK,

お墓は高野山に持って行けば何とかなる、、、という

東京には、人間の自然の生活のできない自己実現組であふれていると思えます。

30歳まで、東京の団地は無料、30歳になって、プロになれないときは

都から去って、子供10人の子育て人生に

人間の原点の幸せがつかめるような、ゾーンを国が作ってゆけば

女性は、再び家庭に帰るかもしれません。

瀬戸内海の、煮干しを作っている島の暮らしは

学問にも、受験にも、住宅ローンにも関係ない世界であるらしい。

TVに毒されていたらごめんなさい!

消費税を、生きてゆけない人の援助に回すのではなくて、

生きてゆく手段の多様性のゾーンをつくることが有れば、良いですね。

クロアチアは、河原の屋根に似ていますが、色が統一されているのが美しく

観光客を読んでいますよね、

白川郷は世界遺産ですが、

200年後の世界遺産になる、、、日本の仕事で生きれるゾーンをつくり、

軍艦島のように、時が追い越してゆかない産業と生きがいとが重なって、

仕事が贅沢と感じる街に未来を託せば、金銭的には貧乏でも、

唯一無二の技術を発揮する生きてる時間が

黄金の暇つぶしになる様なゾーンが

未来の日本として残るかもしれません。

消費税で、女性サッカー専門幼稚園を創るとか、

金銭のかかる方向の生き方ではない

充実人生の、英才教育幼稚園に、消費税を使うとか、

未来は40億円の、契約金になって、

幼稚園の運転資金は卒業生が稼いでくるという

インターナショナルな視点で

懸けた資金は育てた子供が

鼻息で、学校に寄付すれば、

永遠に民間外交と、充実人生と、

欲しくも選に漏れた天才教育組は

子育てに生きがいを感じながら、

無料で天才予備幼稚園に行けるようにすれば

お金がロンダリングして

貧富の差ではなくて

修行と、天分の差が出来るから、

夢破れても、観客席で、応援団になれるでしょう。

経済ばかり追い求めても、

使う能力が無ければ

単なる守銭奴になってしまいます。

我が家では、主人も、医療機械や設備の良いところで

多くの患者さんに医師として、還元できるという

医療に環境の贅沢をしているから、

地方の医師の足りないゾーンの医師の5分の一の給料ですが

一日に、500円のかつ丼が食べれれば、

金持ちだよ、、、と、

他の物は贅沢はしていません。

学会で、ボストンやアメリカや、ドイツには、

必死な思いで忙しい中、お仲間についてゆこうと、

貯金も、株も売ってしまっても、参加しますが、

パリも、ロンドンも、シンガポールも、

世界一周の豪華客船も知りません。

思いっきり贅沢なものに、

消費税をかけて、
真摯に生きる者の仕事に贅沢な設備などは

軽減税率を割り当てると、

世界のレベルから、秀でた製品につながり、

懸けたお金は輸出されて、

金銭はロンダリングするのとちがうかな~~~!

お茶の間で、経験のない薬剤師の婆ちゃんが

誠意だけで、理論を展開すると、

勝手な言い分になってしまったかもしれませんね。

これから、北大アカデミーの
「動物たちの子育て」という

面白そうな講義を聞きに行ってきます。

一時間半で3000円とバス代だけですから

こんな幸せな老後もあるんです。

地震の後片付けはそのままにして、

ダンボールをまたいで、まず、幸せな時間をストックして

戴いた知恵を応用して、被害の精神疾患にかからないように

良い時間を織り交ぜて、長いスパンで、修復しますね、

行ってきま~~~す!(^^☜

蛇足かもしれないけど、、、枝野さんって野党だけれど

魅力を感じています。

人の足を引っ張るという、手段ではなくて、

勉強している人だと思います。

安倍さんの不信任を、この方なら、取り消して、

理論武装で、良い参議員選挙の応援演説で

与党も、頑張って国民の認識が上がるように、

世界がスマホ管理下にある今日の

日本の活路を、国民にも教えてくださいと

思うような、、、75歳の婆ちゃんの、ボケ防止日記でした





5Gの時代が、日本の体質を変えるだろうか?

2019-06-25 04:15:19 | Weblog

日本という国は、300年もの間、、、鎖国が成り立っていたという、

いわば天然の要塞である海に囲まれていましたよね。

その、、、海を飛び越える情報が目前にやってきています。

男尊女卑の外側からは見えない、、、

歴史的な身分制度は

いったいどのような体質が、

かたくなに日本を支配してきているのだろうか。?

日本国内の問題に見えて、

実は世界の見えないシステムが

会社の組織図のように、

女性は受付や、秘書や、キーパンチャー、、、etc,

根本的な問題に

かかわることが出来ないシステムが

組まれているような気がしてならない。

女性ピアニストも、バレーリーナも、モデルも

姿かたちでは、男性が真似のできない優雅さもある。

世襲制にも似た効果で、

親がその道のプロであったり

才能を育てる人脈や組織に通じているため

英才教育の道が見えることも

大きな要因であるとは思うが、

スポーツ選手など、知力、体力、経済力 人格、ともに優れている。

卵の時代から、違うという事を感じながら

楽しませてもらう方の人生は、幸福ですが

客席の人生は、多くの謎を感じながら

人生は終わってしまう、、、

         


男性は、歌舞伎の女形の芸術をもって、
女性も及ばない次元の魅力を感じさせるのは

男性ばかりの「芸術」のチームだからではないでしょうか?
素材の中に天然の女性を入れないことで
人工的な、全く別の
男性側から認識する女性の美を強調しながら
舞台という、スポットを当てた空間に

音、色、光、男性という骨太のオーラーの素材
あらゆるジャンルのプロの総合力で

時間を支配してゆく。

何百年の歴史の磨きが必要な、作業と、形而上の感覚の出会いが
天然には無い、人工の的な、計算されつくした心理状態の上に

客となって、舞台を見上げるにも、自前の修行が必要という

不思議な、客席が主役になれるように導く技があると思います。

男と女、、、研究者は、やはり、、、男性であるのが、日本なのかもしれません。

女性は臨床家なのかもしれません。

しかし、女性には、男性にない天与のひらめきがあるのです。

結婚によって、そのひらめきは泥田になって

見事な稲を育てる方向の、名脇役となってゆくのでしょう。

一握りの女性を、2歳ぐらいから

研究者として育てれば、

すっかり遅れてしまった「生命科学の研究」や

内分泌の研究に、女性という天然の味方が、身体の内側から

研究の行方を導いてくれるひらめきが育てられると思うのです。

男性は、優れていても、

どうしても、何かが足りないと思うほど

形のない部分で、ひらめきや、説明不可能な部分で
女性の持っている天与の部分が無いために

闘いという、勝ち残りの世界を作ってしまうのではなかろうか。

大きな根本の部分で、

エネルギー戦に持ち込むと、

勝負になってしまうから、

日本の未来は、計算機で決められてしまうのではなかろうか?


優れた建築は素材の選び方で初めに

追従の許さないトータルな存在感を大切にしていると思うのです。

ヨーロッパの国々の建物や町並みは

歴史を背負って今なおあり続ける建築素材で出来ていたり

100年のスパンで、
世代ごとに
家を建てる徒労に
人生が終わる日本の女性の人生は

「家内」とは、、、よく言ったものだと思います。
「嫁に行く」、、、苗字も男性側を名乗ることになる。

私の場合は、男3人、女性の私が一人、

8人兄弟のうち4人が、戦後を生きることになった。

敗戦の日本を、立ち上がらせる団塊の世代の果たした役目はすごかった。
女性は、黙々と「家内」の役割に徹して

男性の給料の中でやりくりし、
子供を産み、育て、孫の世話をドタバタとしているうちに
後期高齢者になっている自分に気が付くという生活が

日本の中流の下~中の、スタンダードな家庭模様だと思うのです。

日曜日の難解なTVを、なぜか終わりまで、神妙に見ました。

2019-06-24 09:50:31 | Weblog

なんとなくチャンネルが「ノーベル文学賞の回顧録の番組を映し出しました。」

野球かスポーツ鹿見ない主人に、

ストップ、!!をかけました。

「若き日に、衝撃的な事件であったが、何のことかは理解できないまま、
文学も、演劇も、命を懸けている人がいることだけは、わかりました、

明治からの歴史の中で、政治の思想家たちのやり取りは

私にとってはあまりにも不勉強な部分の連続で

法的式や連立式をまぜこぜに考えて、、、融けちゃったという

理系の説きかたでは、、、歯が立ちません。

小学校の時、「雪国:を読んで、

トンネルの向こうには、千と千尋の世界のように

男と女の世界があって、雪も下駄も着物も駒子も

島村の中の男の世界には日本の独特の愛の世界を

読み解きながら、読書の後は、

8歳上の長男に
「面白い本だから読んでみて!・」と勧めました。

網はパラパラとめくって、、、
「何々、、???長いトンネルを抜けると雪国だった、、、?」

当たり前じゃないか、表日本から、裏日本に向けるトンネルだよ、!

そんなこともわからんのか?
日本地図を持ってきて、ここらあたりかな???

兄きは物理も、数学もスーパーマンぐらい出来るが

国語はまるっきし駄目である。

まして、「川端康成」とか、「鍵」を描いた作家の話や

三島由紀夫の作品に関しても、題名すらわからない始末であった。

しかしあの頃、幼かった私にも

三島由紀夫という作家は特殊なひらめき人間に思えていた。

大人になって、深い心がわからないと理解できないと思って

追求できる知識もないまま、

新聞での騒ぎに、疑問点だらけのまま、、、

自然とわかる日が来るまで、凍結していた。

それほど難解な事件であった、

機能の放送を観ていて、、、、なるほど、、、そういう事だったなかと

改めて、文豪たちの立ち位置が

華厳の滝の、最先端につま先が,

やっと、、、立っていたことが漠然とわかった

番組でした。

時代より先んじても、遅れても、

世界の中の日本の文化は、危うい命に守られながら

伝承されてきたのだと、、、ほんの少しわかりましたが

肝心なことは、、、ワカラナイママ、、、

雪国は詩情あふれる胸から胸に
大人の愛を描いた、一瞬の芸術だと思っています。

雪が一瞬の情熱で溶けて
弐度目は無い瞬間の天与の世界を、幼い少女にも

美しく、激しく伝えられる川端文学は

私は大好きです。

その点、谷崎文学は、難解で、途中で、読むのを辞めました。

少女にわかった雪国の恋の話は、

実に。。。大人にならないと解らない深い深い文学だったのですね。

私のような、、、お粗末な視聴者には
もったいないような、、、茶の間離れしたTV番組でしたね。

ああ~~~~人生不可解なㇼ!


札幌は雨のち晴れ

2019-06-23 14:30:16 | Weblog

天気模様に翻弄されて、珍しく昼間からTVを観てると

カラスと話が出来るようになるかもしれないと

率直に子供のような、興味に忠実な研究者と

知る人ぞ知る昔の寄席の人気者真似でおなじみだった

江戸や猫八さんの子孫の物まね上手が

カラスの研究でドキングして、

カラスの生態に物申す番組に

偶然出会った。

私はカラスが嫌いではない。

カラスも私を避けてはいない。

2年ほど前、怪我をして、跳べないカラスが、

門の前に墜落していた。

動けなかった。

私は、抱き上げることもせず、

犬や猫の来ないところに

カラスを移動して、

カラスの親からも、兄弟からも、見守られる位置に移した。

ブロック塀の内側だった。

子ガラスなので、人間の怖さを知らず、腹が減ると鳴くのであった。

人間が餌づけをすると、野生に戻れなくなるから、

ギャギャと寄ってくる親鳥も、兄弟鳥も含めて、

パンの耳を、親指の爪先大にカットして、

子ガラスと、その周り2メーター四方に

円陣の様に食パンの耳を置いた。

2日ぐらいは親ガラスも来ていたが、

3日ぐらいからは

兄弟ガラスが一羽寄ってくるだけになった。

餌は増やすと野性を失うので、

ようやく足りるだけのパンの耳で、眼を合わさないように

いつ餌を置いたかわからないように

跳べない子ガラスの前と

2メーター離れた場所に置いていた。

いつしか、子ガラスは、

ブロックの塀の上に止まれるようになった。

それでも、兄弟のカラスは、寄り添うようにやってくる。

とうとう、子ガラスは、電線の上に止まれるようになった。

パンの耳は量を増やさないように、マーガリンを塗ってみた。

それからという日々には、

ドアを開けると、真ん前の電線の上で、

声を出さずに、止まって。私がする行動を、

さりげない仕草まで観ているのだ。

そっぽを向いて、

少しずつ餌を置く位置を、

親鳥らがたむろしている、

大きな樹木のある裏庭へと、移動してみた。

子ガラスから見えない場所へと、

パンの耳を置く場所を離していった。

すぐ目前の大きなヒバの樹に尾やガラスの巣がある、

子ガラスも兄弟カラスも、ドアの前の電線で、待っている日が続いた。

もう、隣の屋根まで飛べるようになった。

そろそろ、パンの耳はやめにして、
自分でえさを取らさなければ、

良かれと思ったことが、

カラスを、

餌も取れない能無しにしてしまうかもしれない。

その日から、パンの耳を置くのをやめにした。

それでも、毎朝、ドアの前の電線に兄弟と一緒に2羽のカラスが止まっていた。

無視,、、無視、、、可愛そうだけど、野生のエルダの様に

「野生に戻って、自分で餌を探しなさい!」

心を鬼にして、無視し続けること1週間。

買い物袋を持って歩く私についてくるのです。

それでも無視!、、、

あれから1年以上、無視して、一回り大きくなったカラスは

ドアを開けても、真ん前の電線には止まっていない。

しかし、、、大きくなったカラスが

隣の屋根のてっぺんから、ジーとこちら観ているので、

「カー」と鳴きまねすると、つかず離れず、周りを飛び回る。

野生に戻ったカラスの赤ちゃんは、、、あのカラスかな?

それとも、こちらの屋根から、私を観ているあのカラスかな?

少なくとも、私は、カラスに襲われることはない。

カラスは、ホウキで追っ払ったりすると、

逆に攻撃してくるので閉口している近所の若い衆に

「無視して通るのもいいし、笠をさして通るのもいいし

両手を挙げて通るのもいいと思うよ。

ホウキ振り回すと、仲間呼んで来て、攻撃のポーズで

威嚇して低空飛行してくるよ、、、」と言ったら、

「カラスが嫌い」なのだという。

確かに、、、

もう少し良い声で鳴いてくれたら、

鳩のポジションはカラスが握っていたかもしれません。

鋭く、頭が良くて、警戒心つよくて、仲間との連絡を取り合うカラス。

私はカラスが嫌いではないが、

一線おいて、野生の誇りを持っている限り

多少の敬意とともに、友達になれたら、、、と、

カラスが人間の気持ちを察知する能力があるという感じがする。

私の心に、直接心の電波を飛ばしてくるような

不思議な存在感を伝えてくる。

私の気持ちをカラスの方に誘導する事を

錯角でないとしたら、、、

カラスは凄いと思うのである。


今日の番組を見ながら、猫八さんのルーツは

貴重な学門レベルの物まねを生業にしているのだと知りました。

これからも、多くの動物の会話謎が解明できればすごいことですね。


札幌の南、早朝に雷と豪雨!

2019-06-22 08:49:01 | Weblog

雷の音で目が覚めることもあるんですよね。

どこのチャンネルも、

雷のことも豪雨のことも放送していない。

ここは札幌の南の方。

一体空の雲に 何が起きたというのでしょう!!

窓ガラスが、音叉のように共鳴して震えています。

出勤にはまだ早い時間だけれど、

このまま土砂降りで雷の音の中を

どういう手段で駅まで行けばいいのか?

誰だって考え込むような

ヒステリー雷雲だった。

9時になろうとしている今。

「何か?あったんですか?、、、と言わんばかりの空。

雨も雷もありませんが、

またまた、、、気が向くとやってきそうな天気です。

一年ぶりで、大道公園の花フエスタに行こうかなと、

昨日は、楽しみにしていたのに、

今日の大通り公園は、水びたしなのでしょうか?

ローカル局に、TVで放送があるといいのですが、、、

出かけようか?、、、家に居ようか、、、

雨模様の空のご機嫌によって決めましょう。

またまた雨と雷がやってきました。
晴耕雨読というわけで、仕事にならないので

久しぶりの

「今日の治療薬の最終ページの索引を、一つ一つ確認しながら

普段はとれない時間の過ごし方が、

久々の自分の時間になりました。

朝病院に出勤した主人は夜は、

大学時代の研究班のコンパがあるとかで、

荷物を置きに来て、着替えて、

またまた、、、雨の中を出かけてゆきました。

外科という科は、

一人では手術も、術後処理も、

術後の観察も出来ないという

瞬間で状況も変わる可能性のある命を前に

チームの結束で、乗り切っていることが

家内にも、なんとなく伝わってくるものがあるので

主人のペースを第一に

雑事や家事に巻き込まないという
切り離した家庭運営をしてきました。

重症の、患者さんも受け入れてきた。

真夜中の手術も、

看護師さんが真夜中の夜勤体制にあるからこそ

医師の主人も、

仕事が続けられた最前線の頃の絆がすごい。

家庭的には、

家族の集いに時間を割くことは無理だった。

子育の時期は3年生を過ぎてから、

原爆記念塔の平和の像の前に

これは、見せておく義務があると思って
私一人で、息子たちを広島に連れて行ったことを

ふと思い出す。

帰りは九州を回って、阿蘇山頂に行って、すり鉢のようなカルデラと

外輪山を車で観光旅行したことが有った。



帰りに実家の婆ちゃんに
孫を逢わせるために東京に立ち寄ったことが有りました。

明治時代の医師の夫人というのは、
現在の医師の家庭の夫人とは
かけ離れた雰囲気があり、

娘と言えども、母に合わせるために、
洋服を、ほんの少し気取っておしゃれをさせて

東京っ子に負けないような雰囲気の演出も、親孝行の一部でした。

次男は、窮屈だからと言って、
どうしても、スーツを、
着てくれなくて、かえって子供らしくて
お婆ちゃんは、かわいがってくれました。

孤軍奮闘の子供を連れての旅が、
おとなになってから、

オバマ大統領が来日されて
広島に来られた時、
息子達から、広島の話も出ました



人工的な原子爆弾と、

大自然の火山の猛威を阿蘇残で感じたことだろう。

豪雨も、雷も、噴火も、大自然の災害は未然に防ぐことは

難しい面もある。

しかし、核戦争や、核爆弾を未然に防ぐことは可能である、

もうすぐサミットが開かれる。

核戦争だけは避けなければ、
地球丸ごと、汚染地帯の、住めない星になってしまう。

地球の健康は素晴らしい。

八村選手が

快挙を果たし

日本人初の「NBA」一巡目指名を受けて

アメリカンドリームを太平洋を越えて果たした。

日本の富山県とアメリカのゴンザガ大学と、キャピタルワン、アリーナ―と

極めつけの、「ウイザーズ」の指名は。四億円という巨額契約金とか!、

すごいですね、、、、

スコット、ブルックス監督さんと、HCACTIMURA9のユニホームは

あ~~~~という間に地球を7周り半して、

日本国内でフィーバーしています。

素晴らしい体格!
優秀な英語力会話!
にこやかな笑顔
なんたって、日本とアフリカとアメリカを
一瞬で結び付けた
プロバスケットのドラフト会議一巡目指名選手の誕生だ!!!
少年たちの夢が、、、またまた、、、バスケットを通して国外へ!!!

日本は民間の間では

国際間に素晴らしい
混血の
優秀な選手が活躍しているのが

嬉しいですね。
しかも、、、お母さんが日本人で
ゴンザガ大学に行く前は
富山の育ちですから、
教えた先生は、八村選手からの電話を受けながら

喜びを共有してなのでしょうね、、、泣いていましたものね。



素晴らしい週末のニュースと
雷と、
サミットと

情報の渦の中で
ぼんやりとしてしまうのは

反応しきれない神経のオーバーヒートで

機能がストップモーションなのかも???

こんな時はとりあえず、、、2時間爆睡します
リセットしなおして

頭をまとめてから、、、又ね!



コロンブスの卵

2019-06-21 07:33:03 | Weblog

スマホの時代に

コロンブスの卵、、、と入力したら

どんな記事が出てくるだろうか?

クリストファー コロンブスは、アメリカ大陸を発見した。

そして、世界の辞典には

「コロンブスの卵」という諺が掲載されている今日である。

コロンブスが居なかったら、
アメリカ大陸は永遠に発見されなかっただろうか?

いつの世も、妬み嫉み、、、、

いじわるは人間の証のように

アメリカ大陸なんて、、、

誰でも発見できる!と言った。

コロンブスはやり返した。

「この卵を、、、立ててみろ!」

意地悪い嫉妬の連中は、

卵ぐらい立てられる!

皆の衆が卵を立てることに挑戦したが、、、

簡単そうに見える卵は

なかなか立ってはくれなかった。


つまり、、、なんのことは無い、

立たせればOKなのだから

コロンブスは、卵の殻を割って立てたのだった。


誰でもできそうな事

簡単に見えそうな事

卵の殻を割っても良いから立たせればOK なのだ!

自分にも出来たさ、、!

卵のおけつの殻が割れて平らになって、卵は立った。

実際、人がなしたことを

後から、評論するのは誰にでも出来る。

初めに卵を割って

立てたコロンブスの実績は、確かな現実となって

アメリカ大陸の発見の歴史の一ページ目に

貴重な歴史として、足跡を残すという、

真実の時間のなした事の大切さを

万人が認めたとき、歴史は真実の足跡を残すだろう。

「コロンブスの卵」という

聖書を一行で読んだような明確な、、、何かが伝わってくる。

歴史は嫉妬も権力も、政治も、、etc.

現実とは違う記録となって

真実のような顔をして残ってゆくことが多いのだと、

つくづく思った。

子供の頃の無垢な時代の

敗戦で変わってゆく日本の意識の現象が

子供心に、

素直なまっすぐな感情で、

敗戦から立ち上がり始めた日本を見た。

閉鎖されていたような自治体の治外法権のような

既得権で動いていた村落にも

アメリカ兵は、バターたチョコレートを届けてきた。

學校には「コッペパン」なるものが配られて、

ピーナツバターを塗ってもらうのに並んだ。

明治20年代に生まれた私の祖父は

東京の師範学校を卒業して、長い間留学していたので、

校長先生と、町長さんや村長さんを頼まれて

復活のリーダー役を果たしていたようだった。

晩年は叙勲を受けて、

皇居で天皇様に拝謁がかなったと、

めったに笑わない顔を

恵比須様のように、横横の皺をよせて、

孫たちにも、話してくれた、

天皇様は、

皇居という東京の真ん中のお城にいらっしゃるのだよ!

祖父の時代の人は、

皇居に行って、陛下とお会いできることが、

これ以上ない名誉であることを自覚し、

一族皆のお祝い事でもあった。

戦中であろうが、終戦後であろうが、

復興期になっていようが、

御爺ちゃんは、

今上天皇様ほど偉い方は居ないと言っていた、

ド田舎に住んでいた割には

電蓄も、世界の国のレコードも、

三つ揃えの背広姿も、御爺ちゃんと言えば

背広から取り出して時間を見る、銀の懐中時計は
夏目漱石のようにハイカラだった。

「おじいちゃんが死んだら、その時計くれる?」

毎回、御爺ちゃんに念を押していた私だった。
「おう、、、!きっと遣るから、おじいさんだと思って

誰にもやらずに大切にするんだぞ!、、、ハ、ハ、ハッ、、、。

後日爺ちゃんが死んだとき、
私は留萌の海辺で、私の名を呼ぶ真っ赤な夕日を見た。

「留萌の海は日本一美しい夕日が沈んだ、、、。」

「私は、、、御爺ちゃんが死んだ、、、と、主人に行った。」

それから数時間後に、母から爺ちゃんが死んだと、、、電報が来た。

爺ちゃんは4時に起きて、鶏に餌を創ることを教えてくれた。

校長先生と、

村長さんと、町長さんと、

鶏を200羽も飼っていることが

爺ちゃんの、表から見える仕事だった。

私は、三つ揃えの背広を着る前の

野良着のじいちゃんと、鶏のエサを創るのが楽しみでした。

ぬかと、

なんば(とうきびの事)と

ギシギシという雑草と、

雑魚の粉砕した粉と

農協に出せない不揃いの小松菜など

次節によって変わる野菜を刻んで混ぜるのである。

仕上げの貝殻は光る砂をかけるように

全体に混ぜてゆく。

大きな鳥小屋の上には

カスミ網が貼ってあって、

猛禽類が鶏やヒヨコを襲うので

バリケードとして

時には、ハヤブサが紛れてきて

私は、御爺ちゃんに頼んで、

餌をやって、飼いならしたいと言った。

「ハヤブサは誇り高い鳥だから、人間がくれたエサは食わないよ。」

爺ちゃんは、野生に戻すと言った。

私は、どうしても、餌をやりたいと、無理を言って、

地下室の大きな籠にハヤブサを入れて、

餌を食べさそうと、一日中にらみ合った。

カエルや、興梠や、青虫まで、いろいろ試したが、

絶対に食べようとはしないのである。

サツマイモを蒸かして、団子にして与えても、見向きもしないで

ハンガーストライキを続けるのだった。

2日、、、3日、、、水だけは飲んでるようだ、

とうとう、、、5日過ぎたころ、、、

爺ちゃんがやってきて、言いました。

「人間のエサを食べないだろう?、、、野生の鳥は、人にはなつかないよ。」

とうとう、、、逃がすことになった。

蓋を開けると、まっしぐらに山に向かって飛んで行ってしまった。

寂しかったが、その毅然としたハヤブサの姿は

気品に満ちていて、野鳥の美しさに気付いたのでした。

爺ちゃん、、、御爺ちゃん、、、囲碁が大好きで、

父と対決したくて、

良く碁盤の前で唸っていましたね。

9目黒石を置いても、父に勝てなくて、、、

患者さんが来るたびに中座している日曜日にも

母が「いい加減にしてください」と

怒り出すまで。夕食を傍らに、碁盤をにらんでいましたね。

この爺ちゃんが、、、



なんで?コロンブスの卵?




南紀の山奥の後醍醐天皇の時代に出来た村落の

ドンの家庭で生まれた。

代々、村落の知恵袋として

、村を納めていた家系の次男だった。

この地に生まれたのは
明治20年代の事でした。

山又、山の、山奥の南紀の里から、

現在の筑波大学の前身である「師範学校」を卒業したあと、

アメリカに渡って、

カリフォルニア州の砂漠に、

樹木を植えることから始めたそうである。

日本人の生真面目さが、カリフォルニアの砂漠に

緑地帯を完成させたと思うのです。

現地人に「コロンブスの卵」だと

砂漠の水の供給を工夫する工程には、

眼を見張る驚きを隠せない工夫に満ちたものだったとか。

地道な客土、

地道な植林、

開拓の工夫は、正に大発見の連続だったそうです。

勤勉すぎる日本人は

警戒されながらも、

アメリカ大陸に居場所を創っていったそうです。

日本人町が生まれていったそうです。


第二次世界大戦で、アメリカの兵隊として、戦い

アメリカ人になった同郷の者も居たそうですが

祖父は、日本の、原点である南紀の故郷に帰ってきました。

串本に生活の基盤を置いていたようですが、

南紀の山の奥の、村落に、電気が無いことを嘆き、

アメリカでの体験や知恵を評価されて

頼まれ町長や、頼まれ村長で

立候補者が祖父一人という、

学問とはあまり関係のない村落に

ダムを建設するという

大きな村人たちの合意のもとに、

国会議員さんや、県庁の土木建築や、

道路などに関する

政治家や、公務員、弁護士さんや学校関係者、

いつの間にか、農協の方々からも、

頼られる存在になっていました。

娘の婿さん(私の父)が、北京の大学病院に

当時は外科の医局が無かったらしいと聞いていますが

子供でしたので、祖父も父も、子供にわかりやすく

戦争と戦後の激動の家庭の動きを話してくれました。

父は、銃創や切断された手足の手術方法など、

大学病院に外科の医局が無いために、西洋医学の指導者として

日本の国から、戦地の近くの病院で、

外国人、日本人、兵隊、将校、政治家、内閣と、

目まぐるしく変わる戦場の医療班の責任者として

現地人医師の指導をしながら

いつしか戦争に巻き込まれていきました。

武運長久、、、千人針の刺繍のたすきと、

日章旗、、日赤の看護婦さんらと

野戦病院の勤務が始まった終戦の前年。

戦場の近くに居たのだそうでした。

昭和19年8月、戦場は各地とも激戦区になり

新聞の報道とは裏腹に、

あちこちで、日本兵の部隊は

掃討作戦で全滅の兆しが見え始めた頃、

祖父は、単身で、戦場の近くでメスを振るっている娘婿に

「着のみ着のまま、なにも持たずに、、、国外に、出るように

日本からの退去の認可を持って、

父を迎えに大陸に行ったそうです。

韓宇連絡船は、もはや護衛の船もない中を、

日本にたどり着いたとき、

祖父が目下

仕事のベースキャンプだった

串本から

山の村々へ

焼夷弾の降ってくる中を

防空壕に入りながら、ひたすら、

疎開地に向かったそうです。

疎開地での生活は、物資も資源も日常品も不足する中で。

敗戦の日まで、

祖父は白い手袋に

教育勅語を

朝礼で読んでいたそうです。

真珠湾攻撃で、

多くのハワイ在住だった日本人の移住者も

アメリカ兵として、戦ったり

犠牲になったことに、

黙とうをささげていたと、

母が言っていました。

山本五十六という、日本から渡米して、

ハーバード大学に留学していたという大将が

国力も、

エネルギーも、

あまりにも違いすぎる日本は

戦争が長引けば、

敗戦は、確実だと、

親しい人に話していたとか?

今となっては、真偽はわかりかねますが、

世界の中の日本を把握できていたインテリジェンスの高い

国際人も居たのに、

日本は、戦争に、巻き込まれていったのはなぜなのか?

私ごときに解るわけはありませんが、

祖父は、疎開地に電気が無いような事では

これからの情報戦争に、なすすべもないと、

ダム建設の計画が、国からの命令なのか?

村落の、近代化への目覚めなのか?

ともかく、何軒かの家は、

村落まとめて、川の底に沈むことになるが、

ダムの建設は、勧められてゆきました。

アメリカに敗戦した日本は、

追いつき追い越せ。。。と

情報の必要な時代に、

電気が通ってないことは、生き残りが

かかってくると

私が小学校3年生ぐらいのときでした。

ダムの工事が始まり、労働者の団体が

村落の飯場に集まってきました。」

                  つづく


父の日が過ぎてから、眠れなかった、

2019-06-17 03:47:05 | Weblog
昨日は父の日であった。

息子達の父の為に、付き合う家族。

孫たちの都合に合わせ、先週の日曜日に

父の日会食で、回転すしやにて、
皆で父の日の感謝を表敬したが、

、本当の父の日は

札幌の天気も雨が降ったり止んだり、、、風も強い。

日曜日は、ゆっくりとTVも観たいし、「笑点」もあるし、

この年になると、

夫婦の間には父の日も母の日もない年齢になった。



お互いが空気のように、
勝手に動きながらも

仏壇の父母を思い

それなりに、時間が過ぎてゆく。

夕方、息子夫婦がちょこんとやってきて

「お父さんに、コーヒー」と
母さんの疎開していたという
紀州の梅の味を持ってきたよ。

「国産、紀州 南高梅アソート」と
四国で創られている「ゆずドリンク」である。

高校生と中学生の育ち盛りの息子たちは

試験の最中とかで、
息子夫婦は久々の買い物に行ったようである。

ささやかな思いやりに、、、主人ははニコニコしていた。

私は、この雨をチャンスとばかりに

庭の草取りと、蜂も虫も来ないうちにと

昇り藤の種がびっしりついた花穂の部分をきりながら、

花の派手さの陰で
目立たぬように種をつけている雑草を
抜きながら

全身運動を兼ねての家の手入れが

目で見える、触れば解るという品物ではないが

存在がなくたって、

父の日のプレゼントのつもりである。

なかなか帰ってこないので、

さすがに気になったのか、
庭に出てきた主人は、

90センチ四方の透明ごみ袋に

びっしりと詰められた雑草には
全く、気が付かない様子で、

「シャクヤクの花、、、綺麗だね!」

確かに、、、ゴミも女房も、空気であり

深紅の上品で艶やかなな芍薬は

まさに、万人の目を奪うだろう。

40代に主人が単身赴任して、

函館の国立病院の勤務に2年間勤務していたころである。

朝昼夜と三回分の弁当を冷蔵庫に創り於いて

水を得た魚のように

社会参加の正職員勤務だった。
40代後半まで医局の生活をしていた主人は
本当に楽しそうに頑張っていたが、
外科の医局は人数も多い。
各人が世界を舞台に
インターナショナルな巨人である。

そこで医局長のお仕事を担当させていただいていたわけですから

社会の、大学院大学に居るような、
日々新しい知識が入って来たことでしょう。
完全に、自宅は、主人不在。

充実していると、
健康状態に気が付かないままに
オーバーワークするものなので

おかめ八目で
歳周りから言っても
主人の年齢は縁の下になる。
家内から言わせると
同じ北大を卒業して、
チームの呼吸が合わないと手術は一人では出来ない。
スタッフが信じられる北大卒に囲まれて

人様の命を前に
難しいOPEに臨むのだから
相棒になるスタッフとのチームが
いかに大事かは

ど、、、ど、、土俵外の私にも解る。
父が開業していた経験者なので

優秀なスタッフに来てもらえるには
お金では解決できない「絆」が必要である。

私が2歳の時、
大やけどをしたとき
京都大学の教授でいらっしゃった先生が

はるばる汽車に乗って、指導に来てくださった。
4歳、6歳と、、、
子供であるため、骨の成長をさせ乍ら、
皮膚を何回も切開して、縫合を繰り返しながら

成長に合わせて、手の形をつくりながら

組織や機能の回復手術を繰り返すのだった。
風呂上がりに「タルク」という粉で

父は毎日、毎日、、、「のう、、、」とつぶやきながら、
私の手を、指が伸びる方向にマッサージするのでした。

2歳と言えば、まだ、意識が固定していない。
母の所に居たお手伝いさんが

小さなお店を持った男性から「お嫁さん」に欲しいと
母を通して、申し込まれた。、、、

母は、あの時、なんで、、、結婚を勧めるようなことを
言ってしまったのかと、、、後悔していた、

疎開地では戦陣外科を体験してきた40代の父は
村々の最重要なスタッフの一人として

父が村で受け入れられているからこそ、
母も、子供たちも、悠々と、、、
のびのびできていたのだという事が
後日、大学で「教職課程」を取得するときに
日本の大きな問題として、残っている
歴史的な出来事だったことが
20歳過ぎるころ、私は理解できるようになったのである。

疎開で、七か所の村が無医村で
B29も飛んでこないところに
唯一の医師として入り

大歓迎をされて、



戦後の貧困時代にも、
作物や、川魚や、山で採れたと松茸やクリ、ヤマモモの実が
我が家の居間には光り輝いていたのを思い出します。

父は休む暇もなかった、
どこの家も、親子で運動会や学芸会に来ていても、
父は仕事だった、

村の娘さんを看護婦さんがわりに雇用して、
夜は、村から30分も三輪バタコの自家用車に乗って
准看護婦の学校に行けるようにして、

知事さんからの免許を取得させていた、

もう少しで、准看護婦さんになれる娘さんに
母は、言われた通り
結婚話の中継ぎを話のついでにしたのだった。

良かれと思ってしたことであったが
娘さんは、父のもとで見習い看護婦をしながら
准看護婦になろうとする自分自身が
挫折させられると、、、誤解したのだった。

後日、そういう解雇の為の縁談ではなかったことがわかり
父も母も。その娘さんが准看護婦さんになって
街の病院に勤められるまで

めんどうを見続けて、
心には、なんのわだかまりも残らなかったが、

私の右手は7回の形成手術を受けて
一番とばっちりを受け止めたのでした。
しかし、父の、村唯一の外科医で、
戦争前は総合病院の院長さんで、
日赤の看護師さんらと、戦地では
ボロボロになるまでご奉仕した経験の持ち主だったから、

娘の右手の大やけどは、戦場の悲惨さを思えば
厄おとしぐらいに思えたのかもしれません。

ひたすら、医師として出来ることだけを
体当たりで、娘に医療を施してくれた父でした。

たった、、、一回、右手を▽布でつって

ちっと一緒に「那智の瀧参り」をしました、
父は、華厳の滝の大ファンでしたが

「那智の瀧は力をもらえるような気がする。」と言っていたのを思い出します。


歴史的にも、動かしがたい風習のある村で
疎開をするという事は、

村は「村のしきたり道理」の婚姻で

村の唯一の診療所の奥さんだからと言って
「婚姻をお世話することで、解雇と勘違いされるような、、、」

結婚お世話という行為で、
過剰な愛情が、
村で育った娘さんに理解されなかった。」

自分の夫が、村人の大切にしてくれる医師だからと言って

奥さんには、
プライベートな村の結婚に
関与する権利はないという、、、、誤解が、

ちょうど、、、
ひざに乗せて、あやしていた娘の私が

抱っこされて囲炉裏の傍で
居眠りしていたという
タイミングの悪さだった。

解雇の為の縁談と思ったのだろう、、、
膝の上の私の手を放して、
そのまま立ち上がり
母の前を去ろうとしたという。

そのとき、
囲炉裏の対面に居た母は
「ミーちゃん、、、早く早く!!!抱き上げて、、、」
振り返って戻ってきた娘さんは、
我に返って、私を抱き上げたときには
私の右手は団子のなっていたというのです。

お手伝いに任せて、
言いつけてばかりいる癖が

「あなたの手を焼いてしまった、、、ごめんね。」

母は繰りことのように、
ため息交じりに言っていたっけ。

「あの時、、、女中に戻ってきて、囲炉裏から
抱き上げなさい」と、、、

命令している暇があったら

何で、
目の前で、

火をつかんでいる我が子を

自分で抱き上げなかったのかと、、、悔いても悔いきれない!」

母は折に触れては、私に言った。

「それは、、、私が言うのなら話は分かるけど、、、
私が、そんなこと思ってないのだから、、、
いつも、いつも、おんなじこと言うのやめてよ。
治ったんだから、、良いじゃない、」




17歳になって、警察病院の大森先生が
「Zカット」という形成術の手術を日本で初めてされており
最後の仕上げに、成長した骨に何度も形成を施して
皮膚の厚みが出来て、、、全体にヒキツレテイタ薬指と小指と
手のひらへの移植手術の境目に

まるでゴム紐になったような手術をしてくださいました。

包帯をとるとき、、、優しい笑顔でおっしゃいました。

「よく、、長い間、何回もの手術に頑張ったね!、、、完成だよ。」
本当に、私には優しい優しい先生でした。

でも、スタッフの人も、秘書さんも、看護婦さんも、

「怖い先生なのよ、、、!」と言っていました。

右手の火傷のおかげで、私は普通なら、おめもじかなわないような

大先生や教授とお友達のようになれたことは

怪我の光明でした。
京都大学の、近藤教授の先生には
疎開地を去る前に、

「お婆ちゃんのお墓も、そのまたお婆ちゃんのお墓も

大きな銀杏の樹のあるお寺にあるんよ、、、」

と、おはなししました。
「この次来たときは、診療所に泊まるから
そこに連れて行ってくれるかい?、、、そんなに大きな銀杏なのかい?」

先生は、優しいまなざしで、約束を守ってくださいました。

私の手の生体移植をするためには、
診療所に泊まりながらの手術と傷の手当てが要るという
滞在の期間を利用して、

お寺の銀杏の樹の下の、27歳で学校の先生をしていたという
母の母に当たるおばあちゃんのお墓に
お参りをしてくださいました。

私は若かったら、、、「とうちゃこ」に
手紙を書いて、南紀の山奥の、銀杏の樹のお寺に行って
観てきて下さい、、、と

NHKを困らせるような、自転車の旅をお願いした科もしれません。


子供心には、、、ヨセミテ渓谷のメタセコイヤの樹よりも
大きかったような記憶があるんです。


近藤先生が何度か来てくださったあと、
私は京都大学に受診の機会が出来て、
いつしか京都の町を、母と歩き回りながら、

日本の文化と触れ合う機会が多くなり、

火傷のおかげさまで、
私的には、ラッキーな出会いがいっぱいでした。

小学校4年生になったとき、

まっすぐは伸びないが
マルクカーブした指が5本とも切り離され、
野球のグローブのようなカーブの右手が戻ってきました。

火傷で出来た肉塊のような肉の団子は、指の内側から切り離され

移植した皮膚が、知らん顔して、私が指ですよ、、、と
威張っているようで、、、やったー!と思いました。

私は、和歌山県下の学校対抗、弁論大会に応募しました。

テーマは「私の右手」でした。

今なら、父の頑張ってくれた深い愛情とか、
母の、勇み足の縁談介入とか、

ありえないような、、、
京都大学の外科の教授の先生との出会い!
テーマが客観的な視点で構築できるのですが、

なんせ、、、小学生です、

自分が頑張った事ばかり書いたような記憶があります。

おまけに、

帰ってきた右手を、

真珠貝に例えてしまったりして、
、、


真珠の貝は、常に泣く、、、
人こそ知らない、、、海の底で、、、

真珠の貝は常に泣く。

真珠の珠は、、、涙の化粧なのです、

観てください、、私の右手は

真珠貝のように甦り輝いているのです、、、!!!

とか、、何とか、、、言っちゃって、どうだ!!どうだ!!!

観てよ観てよ、戻ってきた右手、、、

ずいぶんと、うれしさのあまり
言いたい放題の作文をつくって、

弁論大会で,
フィーバーした記憶が思い出されます。

今なら、、、恥ずかしくって、、、

良くも悪くも、、、あんなに自分の事ばかり、
一人で耐えた結果が、、、真珠のような手になった!、、、なんて。

お母さんは苦笑していたっけ。


この陰には「父が居てくれたおかげ」であることが
今の私なら、、、そちらをテーマに書いて、
大人に読ませる作文を書きますね、

お父さん、、、ありがとう、、、私の、、、お父さん。

お父さんの姿を生け花で絵のようにあらわしてみましたよ。

社会のなかにも、お父さんのような
私の成長の手本になってくださっている

一方通行ですが、
多くの指導を受けたように思える
遠くそびえる山のような人が思い出されます。

名寄の薬草園と言えば、「本間先生!」

私は、本間先生が丹精込めて書かれた
「北の薬用植物という本を

座右の銘のように

いつも身近において、ページをめくっている。

本が汚れるので、

まるまる一冊コピーして、自分用の、友達だと思って

しょっちゅうページをめくっている。

表紙には、おかしの箱の厚紙を使い、
厚めのビニールテープでしなやかに曲線に曲がるように
ぐるぐると巻き付けた表紙をつけた。

薬草を触っている手で、本をめくっても、
ウエットティシュで汚れはとれる。
原本は、愛蔵本といっよにしまってしまい、
目下探すのは困難。

植物の本で、博物館のように

まるで辞典のように

学術的な、知識の増える本はあふれている。

愛とは無関係な本がほとんどであるが、

本間先生の本は一味違う、

手塩にかけた植物たちの育児日記のように

母親が、子供の事を観るような視点で

子供の友人に至るまで深く観察しているが如く、

植物への

「いわゆる、、、深い造詣と言えばようのだろうか?」

魅力にあふれた本である。

東京と薬用植物園に行ったときは

「この植物知っていますか?」というような

絵本のような、

メルヘンタッチの本をいただいたことが有ったが、

学識の本とは一味異なる視点であった。

雨の中で、雑草を引っこ抜きながら

この手の雑草も、本間先生は、同様の目で愛していたのかもしれません。

退官後、ヒノキという製薬会社の薬草園で

宿泊学会があったとき、

私は、柴田さんの漢方の本で使われている薬草を

頻度によって、漢方処方の構成している生薬の薬用植物を

統計して分類して早朝の学会発表の時に

参加者の先生方にお配りしました。

そのとき、本間先生もいらっしゃっていて

早朝学会の席にいらっしゃいました。

合宿が終わるころ、

名寄の薬草園での見学会にと
案内状をくださいました。

薬剤師会の会員の参加権で、

名寄のサンバレーの学会に参加した帰り
本間先生の勤務されている薬草園に見学に行きました。

そのとき、

「シャクヤクは一重の花が原種だよ。」とおっしゃられて

一株、研究用にとくださいました。

又、企画の大きさから

標準品として使えない大きな半夏を、タコ糸でつないで

「こんなに大きな半夏も、収穫されることが有るんだよ。」

植物を愛でる目は、わが子を観るようなまなざしでした。

雨の中で、雑草を駆除しながら

おじいさんだった本間先生と、

主人の「笑点を見ながら、腹抱えて笑っている主人」と

同じように見えるから、、、不思議な父の日でした。

私の父は、54歳で、あまりにも早く、、、突然消えてしまいました。

今の私よりも。20歳も若いのでしよ。

毎日患者さんに誠心誠意対応して、

大きな手術の執刀をした後でした。
「患者さんが、麻酔から覚めたら戻るから、、、」と

仮眠しながら、

自分でも、、、死んだことに気が付いていないのではないかと、、、

今でも思うのですが、、、

寝顔のまま、私が大学の在学中に、、、眠り続けてしまった。

人生には。父の日があるという事は良いことです。

私が活きてる限り、父が忘れされれてしまう事は無いからです。


ありがとう、、、お父さん!

小学校の時は、右手を▽布で肩から固定したため
左ぎっちょでしたが、
今では、なんでも右手で出来るんですよ。

外科医には「愛」は邪魔で

切った貼ったの世界だと、思っている人も多いでしょうね。

父を身近に「外科医の先生」としての
厳しい一面と接してきた私にとって

振り返ると、

慈恵会医科大学の教えが
「病気を診るよりも、病人を丸ごと診なさい。」という学校だったんだよ。

父が、後日、東京に帰還して
私の兄や弟が
医者になりたい、、、と言い出した時に

何度か聞いたセンテンスですが、

父は右手が使えない私を励ましたりはしなかったが

そのことによって閉じこもってしまうような
劣等感を持つようなことが無いように

人の値打ちという事を

折に触れて話してくれました。

野口博士の事を聞かせてくれたのは

小学校に入学した頃だったと思います。

父にとっても、娘という、長い付き合いの患者さんが居たことは

親子の「絆」他に、 
治癒に向かう共同戦線を戦った人間同士の「絆」が

兄も、弟も医師になったという道へ導いて行く
「真摯な治療へ向かう医師の背中」を見せたのかもしれないと、、、」

外科医の繊細さ、 優しさ、怖さ、厳しさ、、、、私は接することで

内側から外科医の一面を知りました。

パレは、床屋さんだったんだよ、
昔の外科医は、、、つまり床屋さんは
瀉血もしたんだよ、

床屋のぐるぐる回っている看板の

赤色は動脈
青色は静脈だよ。

決して身分は高くなかったパレは

学問の域にまで、高めて

外科学という学問の始まりを世の中に示してから

「外科医」が産まれたんだよ、

子供のころ、右手をマッサージしながら、
私が、成長するにしたがって、

目線を合わせながら外科医への接し方、
先生と共同作業なんだよと、、、

言い続けた父の言葉が、忘れられません。

「お父さんは医師として、誰一人患者さんを助けることは出来ないんだよ。」
「病気と闘う本人が、自分のやる気で、体の中から見えない兵隊を
病気に向かわせて、勝つのだよ、、、、お父さんたち医師はね、、、
戦う患者さんに全力で作戦と、武器と気力を送って、一緒に戦う仲間なんだよ。」

父の言葉を思い出すたびに、

先生方のメスが「強い味方」に思えて
痛みはなかった。

私は泣いたことが無かった。
痛みは、、、恐怖や、戦う気力が無い時に感じる者なのかもしれません。

あの、、、長い年月の手術の繰り返しの中で
7回にもなる入院の思い出の中に
「痛みが思い出されない。」

お父さんあなたの可愛がっていた、、、疎開地で生まれた弟は

貴方とそっくりな顔になりました。


弟の顔を、TVやネットで観るたびに
お父さんが一緒に生きてくれた人生だったと思います。

私の結婚は

54歳で、これから外科医として、
世間様に奉仕の円熟期に差し掛かったとき
戦争で見えない部分に無理があったのか?
私が、右手の火傷で
苦労をかけすぎたのか?
市ヶ谷のお屋敷の坊ちゃんだったというから
根っこが、雑草のように強くなかったのか?

震災や、戦争で、何度も東京の生活で恐怖にあったという事が
生涯を通して、「物」ではなくて「精神」の中に
生きてる証を求めたのか?

疎開先の、7か村の唯一の診療所の医師という
年中無休で、全科に渡って診療せざるを得ないstressだったのか?

あのまま、、、村で尊敬されて、
京都大学の先生の指導の下に

医者を続けるには、学問の補給路のない苦しさがあったのか?

アメリカやヨーロッパの植民地にこそなってはいなかったが
5か国と結んだ不平等条約のもとに

「おらが村さえ良ければいいさ、、、とサザエの貝のように
自分だけ守るための、蓋をして
村に閉じこもることが

世界からの情報から漏れて、
子供たちは、サザエの貝の丸ごとのつぼ焼きにされては
たまらないと、、、東京人の父は、
戦後の教育を受けさせないと
日本丸ごと、つぼ焼きにされると焦っていたのかもしれません。

弟が、がんセンターの定年まじかに、
がんにかかった患者さんの血液の研究と
健康な人間の血液の
比較研究をしていた時、

2番じゃダメなのですか?

名文句を残した、
美人国会議員の節約対象になったのでしょうか?
研究費が突然、独立法人という名のもとに

自給自足の、方向性が示される社会の動きがあり、

完成まじかの論文が挫折してしまったという
政権交代の激動の時代に退職しました。

小さなビルから、始まった「国立がんセンター」。

東京に開業という形で帰ってきた父は、
臨床と、研究と、開発と、、、かってなかったような

これからの日本、世界に向かって一歩も引けを取らない
「国立がんセンター」が出来る!!」
無口で、穏やかな父の顔に、
唇が震えているほど、言いたいことが言えないもどかしさで

まだ、まだ、低学年の、私と、弟に行ったことが有った。

8歳年上の兄は、ちょうど医科大学を卒業したばかりであった。

当時、崎田先生と、言う言葉が、兄が口を開けば出てきた先生の名ですが

私は、、、最先端の事をなさっている先生なんだなーとしかわかりませんでした。

兄は、父の開業を手伝いながら
国立がんセンターに研修に通うようになりました、

何年か後に、指導医の認定を取得してから、

父の亡き後、「医療事情は大きく変わる、、、」

次々と、開発される胃カメラを、毎年買い替えながら、
患者さんの為に、早期発見が唯一の方法だと
当時は、がんと闘う事に、夢中でした。
三井物産に勤めた従妹の初任給が14000円ぐらいの時ですから、
一本150万円以上する「オリンパスの内視鏡」を、
毎年改良されてゆく度に買い替えるのですから
兄が作った内視鏡室は
道場の木刀かけのように、

太い内視鏡は、上に上にと押しやられ、

肩の高さの所には、頭部が回転して細くなった内視鏡があった。
そして、次には、胃の中の粘膜を引っ掻いて採取できるものに変わり、、、

そのころ、私は、未来において、我が家で医師として、
父の亡き後の、外科の看板を守ってくれるという
実家が東京にある為、いずれは帰るという北大医学部の外科医と

家の都合で、結婚することになりました。

総合病院の薬剤師として、勤務中だった私には
30歳までは、経験を重ね、熟練の技術を身に付けてから
結婚するか、自分で貯金したお金で

大学院に行くか、夢がいっぱいでした。
「なんで、、、今結婚しなければならないのか、、、」

開業を続けてゆくのには、
医師のスタッフを増やして、時代の要求に答え乍ら、
日進月歩の進化を遂げる医療界についてゆくために、

博士号を、取得したら、
開業医の実家の
「マスオさん」になってくれるという

父の生まれ変わりのような外科医が
北大で修行中と

本人と母との話し合いで、
私は、北海道に、未来の我が家の副院長を迎えるという
生きるための結婚に踏み切ったのでした。

結果は、、、国のお金で医師になった医師が
一個人の開業の為の医師になることは、

ありえないのです。

ミイラ取りの私が、、、ミイラになって
人生の半分を、雪かき、

残りの半分は、
54歳で、この世を去った父のやり残した診療を

主人となった外科医が、外科医をすることの為に
医師以外の一切の仕事や雑用を引き受けることで、

この、、、一見、、、我が家に都合のよく見えた縁談は

医学の神が裁いたのです。
私は、自分自身が優柔不断な、人任せの親孝行を
絵に描いた餅を食べてしまったのですから。

主人の友人は北大に入学してから
同級生と結婚していた、

主人も、学生時代に
彼女を見つけて、

北海道の、地元にしっかりと根を張った家の娘さんと

結婚できていたら、

北海道を家族丸ごとで楽しめたと思いますよ。

二人とも東京っ子ですから、

北海道の、感動するような名所も知らないし

私の運転で帯広から襟裳岬にドライブするぐらいで

浜に降りて、昆布を拾い集めるところにも
行ったことが無い。

晩年になって、トロピックスという
旅行のツワーで、知床に行きました。

その後、サロマ湖や、阿寒湖の旅館の
鶴雅に宿泊しました。

さすがに、木彫りの素晴らしい作品が目を楽しませてくれました。

若い時に来れていたら、主人の人生は
北国の恵みを、

享けられたと、思いました。

生涯、北海道に住むと解っていたら、

もっと、北国の良さを知るためにも

道内旅行に明け暮れていたかもしれません。

もう、、、土曜日ですね

2019-06-16 01:51:47 | Weblog

札幌の地震があってから、、、あと3ヶ月で何と、、、かれこれ1年。

ゆっくり、急がず、長いスパンで、修復してゆこうと思いながら

あちこちの、、、ヘアークラックが在りまして


ゆっくり補修しましよう、、、と

とりあえず、、、3日計画で

1日目は天気予報で20度を超す青天の朝4時起きて

3畳の付設したサンルームもどきの屋根に

シーラーを塗りました。

中2日置いて、

素人向けに売られている油性ペンキの茶色を

上から塗装をかけました。

ただし、先端30センチはぐるりとも、塗り残しました。

それから一週間たって、

ペンキが乾いてから、

屋根の真ん中に寝そべって

塗り残しの、、、ぐるり30センチを

おもむろに、塗りました。

屋根から落ちるのだけは、、、ごめんなさいだから!

この年で、一階の屋根とはいえ

2,7メーターはある所から落下すると
、、、骨折するかもしれません。


ペンキやさんなら1時間で終わらせるところ
10日かかって、

何とか、完成しました。

後は、、

50年たったトタンの車庫の屋根は

10年前にトタン事取り換えました。

しかし、後期高齢者にもうすぐなる私は

免許の返納と、

車庫を撤去することも考えているから、

当座1~2年使えることを考えると、

この屋根も、

あちこち穴が目立つ。

台所用の金属テープで穴を防ぎ

その上から、ペンキを塗る予定です。

昭和50年前後のミサワホームは

北海道ミサワという

会社が建てたミサワランドの一角の

建売住宅である。

バブル景気のピークで

一生、、、持ち家が持てないような不安が後押しになって

たまたま案内された建売を

買ってしまった。

我が家の門の真ん前も、その横の家も、斜め後ろも

全てミサワホームである。

購入してから、トラブル続きで

今回の地震の後、

真横の家は売りに出され、

土地代金で買い手がつき、

ミサワの家は解体撤去された。

解体するのを見続けていましたが

パネルは頑丈で、

解体はもったいないと思うくらい。

しかし、トイレとか、

家の機能が壊れてしまい、

売りに出したと言っていた、

角地に見えて、道路沿いに市の持ち分の土地があり

角地の優位な建蔽率は無い。

購入当時は、隣からの申し入れで

30センチほど境界線より、我が家の敷地を手前にひいて

当方が言われるままに塀を建てることを承諾した。

120万もするので、びっくりしたが、

若かったこともあり、利率9パーセントの

ミサワの提携ローンを借り。20年ローンとした。

ボーナス期2回23万円の支払いと、毎月10万弱のローン支払いが来た、

無給医の生活では生活できなくなり、民間の病院に固定したので

初めてのマイホームらしい23坪の、変な形の屋根が

世相に無知な、私たちの、ストラグルのスタートが始まった。

境界線の両方にまたがっていた下水用のマンホールは

塀を建てる工事の時

隣の敷地の移されて、

そのマンホールに

当方の下水がつながってゆくという

造成地の市に提出されている測量図とは

かなり違った、まっすぐには行かない境界の塀が

隣の申し出のままにつくりあげた。

今回、隣が売却され、

購入して仲介に入った不動産屋さんが

新たに測量をして、いろいろ言いてくるが、、、

50年も経ってしまっている塀を、

どうせよというのか、、、大きさの違う測量の束石を

いくつも埋めては掘り返して、境界を動かしていた50年前。

10歳以上も年上のお隣さんの言うままに

自宅の庭側に境界を何十センチか引いて

お隣さんのご満足のゆくままに

当方で塀を建てることに同意した。

50年たって、

お隣さん側に移動されてしまった

下水のマンホールが
隣の敷地に入ってしまっており、困惑している。

当時は、ミサワのパネルが良くても、

組み立てや、内装や、配管が、

パテントを持った専門家が

監視するために短時間回ってくるだけで

土木、建築や大工さんが、

地道な工法で家を完成させていなかった、

地耐力や建蔽率などの基本の部分や、

市の境界石を、

建てた家の建蔽率に関係するのだろう、、きっと。

家の坪数が広すぎたりすると、

建ぺい律に合わせて、

道路側まで動かしてしまうという、専門家の来ていない時間、


せちがらい東京で育った私には

理解できないルーズさであった。
しかも、後から入れた束石は
一回りサイズが大きくて、

ぐるりに面取りがある、

測量の正確さの印として使うのには

面取りは不正確になる恐れもあろう。


まともに住めたのは3年間だけで、

毎月修理が入るので、

つかれはてて、
区切りの良いところで

大手の社宅とし貸しました。

しかし、屋根の作りが雪を計算にしなかったのか、

暖気の冬には

スガ漏れ☜ポタポタ水滴が落下。

本州の東京より北に住むのは初めてげあり、

入居者も静岡の人であり

冬の寒い北海道で、不安が募り、

屋根を修理してほしいというのだった。

結局、家賃の二年分の値段で

トタン屋根の全面張り替えて、
ストッパーの小屋根を撤去してもらったら、

小屋根の糊しろみたいな襟には

30センチぐらいのねじくぎが十数本刺さったままで

小屋根は撤去してくれた。

借家人は、度重なるメンテナンスに

浸から果てて出て行ってしまいました。

家なんて、貸しても、あれこれ言ってくるので

貸すのはやめました
空き家になってから囲碁の40年間は

本家を広く使うための、物置代わりに重宝している、



又、便利な空間として使っているが

水道も、何十年も使っていない、

契約するには、

配管をやり直さないと無理である。

トイレも、過渡期の電気便座が未使用のままだ。

何より不思議なのが、

水洗トイレなのに、、、トラップというのだろうか?

曲がりく練った臭気止めの為にあるはずの「

水を停滞させておく管の部分が無くて



まっすぐな落下式のトイレを設置している


隣が壊してしまって更地になったには良いが

本来無関係な「我が家に、、、何やかやと

約束する書類に判をくれと言ってくるのでまいっている。」


測量を依頼されている若者が、

仕事熱心な、資格を許されている専門家なので

まじ目な感じの良い青年なので

自宅の食堂にあがってもらって

話を聞いてあげては居るが

境界や、隣の敷地に移動してしまっている一個しかない下水のマンホールなど

未来のトラブルを抱えたまま

あたらしい家を建てる前に、

もともとあった境界線の真下に

両方の家が対等な使用権があるように

市の方で、不動産屋さんにきちんと話し合ってほしいものです。

購入当時から、境界線の移動や

下水の土管の埋めなおしや、

業者が何回も境界の束石を動かすので、

どれが本当の束石なのか

解らないくらい、あちこち入っていて、

ずさんにセメントで

古くからあった境界石を塗装目隠ししてしまっている。

今回、更地になっているうちに

隣同士で

声の大きい方の言い分が通る書類の交換で

孫子の代まで、トラブルの原因を持ち越さないようにしてほしい。

造成した団地の一角の建売を買った物の、

あまりの改修工事の続くうるささに負けて

隣の言うままに塀を設置して、

喧嘩にならないうちに、

斜め後ろに、大変なローンを抱えて

新築の家に移り住んだ。

何十年も、隣の離れは物置として使っているが

家を買い損じると、大変な負債を抱えたままに

固定資産税だけ払うというリスクがある、

金銭的なことは、頑張って、家内も両方で努めることで

切り抜けたが、、、

明らかに、更地になった今、

いわれなき塀の設置など、

言い分を、聞く必要があったのかと思うような

業者と、市の専門家同士の良い仕事をしてくだされば

2軒目の家に移らなくても済んだのではないかと思うのです。

水道も、契約していなくて、使っていなかったのですが

使用していると言って、40か月分以上の料金をまとめて支払いました。

実際は一滴も水道は使ってン氏のです

その後、内勤の専門家の市の職員が来て、検査の結果、

住居人以外の責任になる、市の水道局の責任個所の

漏水が、何十年も続いていたために

庭の水がたまったままだったことを突き止めてくれましたが、

支払った40か月分の水道料金は、

昔の事として、戻って吐きませんでした。

長く水道を使う事を危惧して契約していなかったため

隣の地続きの本家から、ホースで水を撒いたり

巨大ゴミ箱に雨水を貯めたりして、

庭だけは諜報に楽しんでいます。

今回の地震で、

ミサワホームの弱点だったところは、メンテナンスして、

パネルの頑丈なのを生かして、

サイデングを、

免許保持者に本人直に、

工事現場に付きりの監督するという契約のもとに

無事に、立派に

施工して、

見違えるほど、

リホームの高価が現れて

新築のような外観にだけはなりました。、

次は、、、

工事用の、生活からはみ出した貯金がたまれば、

旅行も、レジャーも、買い物も控えて

まず、念願の

水道を設置しなおして

冬でも凍らない防寒をした使える配管にしたいと思っています。

ミサワは天候の暖かな静岡あたりでは

知らない業者は居ないという

素敵な家を建立している評価のある設計です。

本社のパネルは

南極探検の夢のあるビジョンのもとに

五区間の地に建物を建てたという

夢のある業者であることは確かです、

昭和50年ころ、北海道にはまだ、入ってきたばかりの

パネル工法だったという記憶があります。



北海道ミサワは

本州の気候に適した設計に忠実に

台所から風呂場に、水道鉄管が

部屋の中を裸で天井下を走っています。

その管を

スポンジ製のクリーム色や銀色カバーで巻いてあります。

冬の北海道では、買い物から帰ると、凍ってしまいます。
それ以来
借家として、貸し出しても、

大家さんが隣に居るという事は、

毎日、トラブルを起こしては

大家が解決しなくてはなりませんでした。

それ以来、、大型の使用済みの家具や

肩もみ機械や、本州に行った息子の学習机や

真綿の入った布団など、本なども保管している、

今回は、、、地震の被害に遭いましたが、

負けては居られません。

少しずつ、内部のリホームをすることで、

地震の破損も修理して、

何十年かぶりに、

使える家として、取り戻したいと計画しています。

地震の被害からの立ち直りの決心が

どうしてようかわからなかった家を、

復活させるべく、、、、

孫子に変なものを残さないように

「シュウカツ」の意味でも、

機動部分のてこ入れリフォームを

長いスパンで、

楽しんで完成させたいとおもっています。

病院勉めは、普通の企業のように

退職金が在りません。

30000人も足りないと報道された

北海道新聞の記事を読みながら、

医術というのは、

歳をとればとるほど、経験が積み上がり

患者さんの予約も入るし

主人が現役で就業しているので、

一か所づつ、修理しながら、復活を

出来るまで、頑張ると言ってくれています。

ありえないと思っていた

「北海道の地震被害」が

頑張ること、

ピンチをチャンスに変える努力で

喪失感を無くして、心がやられないように

75歳にして、

せっかく買った、高いローン利率の

使い損ねた新築時代をもう一度

チャランジする余生の仕事をくれたのでした。

ただし、、、長い。無理のないリホームを

一部屋づつ、

5年スパンで勧めないと

老後の生きる充実を無くして、、、家が残っても

どちらが大切かは、良く良く、、考えなければなりません。

復活を、その都度、、、喜びに近い感情を味わいながら

創る楽しみを、

老後の課題にしたいと思います、

これは、明日ボケても
何をしようとしていたのか

思い出せるように、

ブログに書いておきます。



、言うことで、

やらねばならない自分の課題として

自分を頑張らせる作戦として、

不動産の強敵をクリヤーで来たらと思うのです。

5年は、、、かかりそう、、、

私80歳で、、、念願の、畳のある日本間に

自分の部屋が持てるかもしれませんね。



北海道の平成30年の9月の地震は
びっくりしました、」

離れのモルタル落下で

モルタル撤去とサイディングで

臨時出費が200万以上かかってしまったが、

来年こそ

電気も、水道も配線、配管のやり直しが必須な矢先

ヘアークラックのようなところは。

あらかじめ、冬の結露で

傷が大きくなるのだけは予防の意味でも

修理が必須ですが、

優先順位は、まず、

主人の健康品や食料。

記念日やイベントの代わりに

孫子おや3代で、

「回転すしや」に行こうと決めてある。

母の日もカーネーションは要らないからと

孫子と回転寿司やに行った。

「明日の父の日」も、

ネクタイも、おしゃれな手帳もいらないから、

上手いラーメン食いに行こうや!と、

主人は息子に話していた。

孫子から、ラーメンの贈り物って最高の父の日でしょう!!!

核家族や別居の増えた時代だけに

家庭感覚の優先する

肩ひじ張らない食事会が

我が家では何年も続いている。

食事会の後は、「笑点」に間に合うように

自宅まで車で送ってもらって、、、

「じゃ~~~またね!」

この次は、孫の誕生日に会食をする。

友達や、嫁さん側の親類のお誘いがあった時には

義理の親の記念日には

誘いはそちら優先で

次の日曜日や、、、次の次の日の祭日とかにする。

時間も奪わない、余計なこともしない。

振り返れば、イベントの度に

子供の行きつけや、孫の父兄の人気の店とか

店を選ぶのは、孫子に任せて同行する、

孫が高校に入学してからは

会食で時間を奪わないように気を使い

孫子が行ける日に設定する。

「君子の交わり淡き事会食の如し「^^!!???」




何かのイベントに合わせて、会食するという家族は

胃袋の主張がある限り

断絶の世代にはならないというメリットがあります。

いつの世も、胃袋はすべての者の鎹であると思う。
TVを観ていると、

スタッフ、ゲストが、

何やら食べるシーンが多くなった。

昔、、、

大橋巨泉さんと、相撲は大鵬、野球は巨人、卵焼き。


今は、野球は大谷、栗山監督!!


「何やってんのよ!!、、、どうして、ホームラン4本行かないのよ!!」

言ったとか言わないとか、、、親子よりも絆がある様な

何とも,、、おかしい!愉快な!、、、ほんと でも 嘘でも、、、楽しい。

「絆」、、、胃袋以外の絆のむつかしさをふと思いながら、

大谷選手を育てた栗山さんって、

きっと、、、

すごい心の

持主なんだろう~~~な!

人を育てること、

素材を選んでくる打ち込み方、、、

そして、「べー―ブルースの再来

のような夢のある大谷選手。

戦争のない平和が生み出す時代の寵児。

平和であるという事は

人間を作物に例えるのなら、

もっとも肥えた土壌の畑でのみ

世界に通用する作物のように、

人間も育てられるという環境なのでしょうか??

体格と言い
性格と言い
技術と言い

野球に対する情熱と言い
人試合で4本のヒット!

その中でも、 ホームランもさることながら

最後のヒットはすごいと思った。

あんなに低い、カーブのかかった球を

大谷選手はバットでとらえた!!!

人は酔うものは愛せる。

大谷選手は、、、とんでもない球も愛してヒットにできる。

昼間も見た!
真夜中の4時ごろも、

起きて、、、もう一度見た!!!

レッドソックスに、、、大谷選手在り!

久しく、興奮して、野球にかじりついた日が無かっただけに

昨日は、、、寝不足になって、

今日は、、、昼頃に、頭も精神も作動し始めた。

なんの話を書くつもりだったのか???

まだまだ、、、大谷フィーバーが今も残っているのだろう。

長生きすることは楽しい興奮もありますね。

和製べ―ブルースに飛翔してゆく、

未来の夢が実現しそうな

見事な最後のヒットでしたね。


















これからPM.6時30分よりエンベロープの講義を聞きにルンルン!

2019-06-13 16:17:42 | Weblog
皆知ってる

風疹や、日本脳炎や

インフルエンザや

狂犬病の

遺伝子、、、、RNA
       DNA


お馴染みなんだけど

ウイルスだから、いまいち、、、死亡する病気の薬を考えてる先生の
講義だよん!(^^

外科医のワンマンマイペースの

穏やかすぎる主張の強いだんなのおかげで

家事に閉じ込められているのですが、、、

時々、、、掃除せんたく、買い物で

気が狂いそうになるほど、、、退屈です。

講義を聴いていると、

登山したときのように、

楽しいです。。

学生じゃないから、、、試験無いし、、、、(^^

興味あるとこだけ聞いて後は

パソコンで検索すると、

家庭に閉じ込められた感が一瞬登山感覚になって

又、、、面白くない掃除洗濯に無意識に戻れます。

頭の中は、、、特効薬ができないかな~~~なんて

考えながら、、、、お鍋上まで焦がしてしまったり、、、


    行ってきま~~~す



之学問の世界の私虫   (^^

令和元年 そして、、、昭和平成は「感謝」

2019-06-13 00:15:17 | Weblog

上皇ご夫妻が天皇陵を参拝

6月12日の夕刊に掲載されていた見出しには

退位を報告   と、

太い字で印字してありました。


上皇ご夫妻が 京都市東山区の泉涌寺を訪れ、

退位の報告の為 孝明天皇陵を参拝した。

記事はもっと 詳しく報道されていますが

上皇様となられ、ご夫妻は公務や伝統行事で

お休みになれない日々が続いているのですね。

昭和、平成、を生かされてきた私たちにとって

人災とは申せ、戦争は天災よりも

心が、立ち直れなかった時代が思い出されます。

国民の御一人として、

美智子様が、皇太子殿下の御心を

世紀の恋とテニスの恋、、、戦後の復活は

日本は、植民地にならない、又、世界のいかなる国も

日本の存在は、日本にしかない文化の継承と

天皇陛下が、

いつの世も、

千年以上、

民とともにいらっしゃったという

日本人の心は、どんな時も、日本であったという

過去が現在に続き、未来に希望の光となって

戦後の慰霊の旅をして下された事で、

大事に世界大戦は、

原子爆弾で人間を元素にしてしまうという

神の域に足を踏み入れた戦争に対して、

人間が人間ではなくなる、元素へ分解してしまう

問答無用の地球への支配は、

動植物のみならず、地球そのものを

核戦争が壊してしまう未来が見えるだけに

2発も「原子爆弾の被爆を受けた日本が

立ち直れたのは、

平成の両陛下の、

国民と皇室の共通の思いを

両陛下の慰霊の旅は、畏れ多い事でした。

退位のマジカな月に

札幌三越で、両陛下の慰霊の旅や外交のご公務の

写真展を、主人と一緒に観に行きました。

あの展覧会の中で

万歳岬に慰霊の鎮魂のお辞儀をされていた両陛下の

後姿に、思わず、こみあげてくるものがございました。

敵の捕虜になるくらいなら

女性は高潔な魂のまま

海に身を投げていったという事は

昭和生まれの者なら、サイパンへの慰霊は、

涙とともに絶句する出来事でした。

日本人は天皇陛下とともに

歴史を振り返るとき、

言葉にも、詩にも、文にも表現できない

日本人にしかわからないだろう、、、

国の母の美智子様とともに

光に導かれて、両陛下の後姿のお写真の後ろにならんで

慰霊の涙がこぼれました。

原子爆弾を2個も落とされた日本は

昭和天皇の玉音放送で、戦争を終わらしてくれました。

ラジオから流れる玉音放送に

国民は皆、頭を垂れて、戦争が終わった事に感謝しました。

皇室の慰霊の旅の毎に

立ち上がる勇気をいただき、

光の方へと歩き出したのでした。

日本は、上皇様ご夫妻に

80歳過ぎても公務をされたお姿に

平成時代は、過ぎても、私は、忘れられないと思うのです。

戦後のどさくさの中で、
お手本になって下された美智子様の事は
天から光の滝が降り注いでくれるような
戦後のまっすぐな

女性のお手本でした。

いつの時代になっても「感謝」の心でいっぱいです。

忘れません。いつまでも。

民間人にはとても、真似のできない激務をこなされ、

感謝です、

これからは、ご健康を第一にされまして

ゆっくりと ご養生されることが 国民の願いです。

平成天皇陛下が

手術をされて、間もなく東北の被災地のご訪問をされたとき

ハラハラ、ドキドキしながらTVを拝見していました。

あのころは、弟も国立がんセンターの

検診検査研究の現役間ただなかで

陛下のお体を心配しながら、

ご公務の多さにびっくりしていました。

これは私的な日記ですが、

平成の皇室に

感謝、そして、国民の一人として

令和の時代に、  感謝します




兄からこんな手紙をもらいました。

40年も前に

神様は天皇陛下のお体を守れるように、

基礎の基礎の基礎の研究で

主人は博士号を取得していたのを知りました。

手術された前後は、論文の問い合わせや

論文のコピーを、引用された思い出があります。

あちこちから、質問もありました。


40年後に、実際に手術を出来る医師が現れて、

医学の世界も、歴史同様に、学門が受け継がれていって

引用されながら、発展してゆくことを知りました。

人間は、、、一人では、、、一部しかできませんが、

歴史と時間と、代がつで居てゆくことで

神業のような、外科医が産まれるのですね。

真夜中で、、、寝ぼけの文になっていますが

明後日までには、きちんと推敲した分に書き換えます。

今夜は、、、とりあえず、、、睡魔がすごくって、、、ドターってなります。

平成の陛下の激務の公務とご病気を回復されて心より

お慶びした日が昨日のようです。




75歳で、3回目の町内会班長さんが回ってきました。

2019-06-08 09:48:23 | Weblog
私の住んでいるところは

クラーク先生が北大生に見送られて

ボーイズ ビ アンビシャス

有名な言葉を残して、お別れした所から

そんなに遠くはありません。


50年前に、宅地開発される前は

細い竹の群生するタケノコ山でした。


本州の東北方面からでしょうか、、、

何人かの方が、開拓を遂行され

このあたりは、大きな地主さんが

開拓の権利のもとに

人生の成功者としての

リーダーシップをとられるという
外目からは
そのように理解して

郷に添って、
住民としての義務だけは
きちんと責任を持って果たしてきた50年間でした。
思い出せないほどの

目まぐるしい速さで時間が過ぎていた。

失った時間を振り返る暇もなかった。

植物が友達です。


地の利が不利な雪国で、

大学の友人とも、会えないところに住みましたから。

でも、、、不思議と、わきまえているのです。

医師の職業の夫が、今も現役で

若い時からの患者さんに、

先生でなくっちゃと、、、頼られているのに出会うとき、、、

その裏で、だれかが

医師をすることの時間だけに専念できるように

裏を勉めて

、感謝もされない空気とならねば、

一人ぼっちの実験室の延長のような気持ちを

今でも持ち続けながら

マイペースで、独りぼっちに近い主婦というベースを外れずに

医師をする人へのエネルギーと、雑用の代理という「時間」を
捧げることで、

自分自身を 忘れていました。

医師の相手は「病人」という

マイナスエネルギーの

状態です。

医師という

病気の患者さんの心のブラックホールに

流し続ける知識と医療技術の光は

流し続ける川のように、

自宅に帰ってくる時は

風呂、食事、爆睡で復活してゆきます。




お茶の間の私は

24歳で、

ほんの2~~~3年で

東京の実家の開業の外科に勤めてくれる約束で

旅気分で結婚に踏み切った50年前!!!!!

白い巨塔という

山崎さんの

とんでもないTVが放映され始め

博士号をとりました、、、ハイさようなら、、、と

医局を出て、妻の開業の実家に行くことなど

医師という国家免許の重さからは

個人的な都合で動けないものだと

だんだんわかってきました。

あれから、、、50年経ちました、

実家は23人の従業員に退職金を支払って

閉院しましたが、

約束を果たせなかった私たち夫婦は

閉院式にも出席しないまま

母の葬式には、、、、私が一人参加しました。

国立がんセンターのスタッフだった弟がすべてをしてくれました。

閉院した兄は、内科医ですが、今も現役で

81歳で英検1級が受かったと言ってました。

閉院は時代の流れから考えても

東京の高層ビルのゾーンになった真ん中で

個人開業の時代は過ぎていっただけかもしれません、

100円の遺産も、形見も一切、もらえなかった、、、

約束破りになってしまったのは

時代の流れに逆らえない天災に近いものだったと、、、

今は、世間知らずの24歳の若かった時代を

苦笑しながら思い出しています。

お金にも、遺産にも、形見にも、縁がありませんでしたが

北海道の、おいしい空気と、

あまり発展しない、、、落ち着いた時間と、

不動産の値上がりなどにも関係の少ないおっとりした郊外は

50年の歳月を、不思議な優しさで、包んでくれました。

東京に帰る準備ばかりしていた30年前ごろを

振り返りながら、

すっかり、、、道産子に育った長男と孫たちの

一拍、、、ヘルマーターの、、、全音符のメロディのような

おおらかで、のんきで、せちがらさに縁のないオーラーに

都会のネズミのような私は、

ただただ、、、見守っているのですが、

受験戦争だけは、世の中からなくなってほしいと思っています。

おっとりと、大自然の中で育ってきた男の子たちは

ビルのコンクリートジャングルの東京で育った組織人には無い

別の魅力があり、、、ありのままが美味しい

手を加えてサラダにしない方が美味しい、、、北あかり!!!

アスパラガス、巨大シイタケ、、、

かぶりつくままに食べた方が美味しいでしょうと

答えが返ってくる。、、、ある種の  素敵な魅力がある。

時間が緩やかに流れてゆく市の郊外は

いつの間にか

息子や孫のホームタウンとなっており、

町内会の班長さんも何回か、しているうちに

顔見知りの人たちも

挨拶を交わす人たちも

サンダルで遊びに来るお隣さんも

皆、、、皆。。。おじいさんとおばあさんになりました。

回覧板も、お決まりの内容の物の他に

小学校の便りや、

札幌大学の講演会や、大学祭のお知らせや、

水源地という、北大の研究ゾーンを兼ねている池の近くの

鳥たちの様子が、回覧されてきます。

たぶん、、どこかで見かけている鳥たちだと思います。

見かけた鳥の情報ですが、

鳥の好きな、

ブログに迷い込んできてくださったウオッチャーの方に

町内の皆はご存知ですので、、、

日記帳には欠かせない情報のありがたさです。

公園の管理事務所の叔父さんたちの、

学者さんもびっくりの

観察記録を、回覧板から、、一部分、紹介しますね。

以下に記してみました、

6月に見られるそうです、(^^

マガモ アカゲラ センダイムシクイ カイツブリ ハシボソカラス

コサメビタキ キジバト ハシブトガラス キビタキ ツツ鳥

ハシブトガラ  オオルリ ハリオアマツバメ シジュウカラ

キセキレイ トビ ヒヨドリ カワラヒワ カワセミ  鶯

アオジ コゲラ ヤブサメ オオアカゲラ オオムシクイ



こんなに、、、身近な林の中に、、、トリガいるんですね~~~~!!!

観に行くときは、野草はとらない、

鳥は脅かさない、

ゴミは持ち帰る、

クマが出るときがありますので、

しっかりと、クマ対策も考えて、

公園事務所に許可を得て、散策すると、

迷ったときには、スムースに、

入り口に誘導される情報が

たぶん、

何らかの手段で備えられているのではと、、、おもいませんか?

とにかく、、、鳥を追いかけて、、、迷子だけにはならないでね。

基本的には、、、公開していない個人の日記のようなブログの記事ですから。

責任は一切とれるという位地にも、無くて、

私自身教えてもらうような実力しかありません。

秋にはアカショウビンを観て楽しかった思い出があります。
 
こんなにも

大自然の贈り物が多い育ちの我が子や、孫が

パソコンや、

スマホの検索力が

プロ並みの都会の子に

組織の社会をどう生かされてゆくのかは

受験とか、パソコン力とか

ハードルが高いと、、、危惧しています。

大学受験に「昆虫記から、クワガタの生態など出れば、、、」

勉強しなくても、合格できそうな、子供たちです、、、よ!




価値観が、東京育ちの物よりも

大自然の恵みに対して

敏感で、空気のおいしさに感謝している。




50年前の開拓した爺ちゃんが

時々遊びに来られました。

一方、、、

50年たっても個人商店が一つという

発展しないという事は

不便なことも、多々あるのだった。

爺ちゃんのニコニコ顔が思い出されます。

暇つぶしの開拓苦労話をしに

「俺らの土地を買って家を建てたあんたらに

此処が住宅になるまでを、、、話したくてな~~~!」

手のごつごつと、

グローブのように大きい

80歳過ぎたじいちゃんでした。

あの頃の開拓に成功した先住民に近い方々は

畑を寄付されて、公園になっていたㇼ

札幌市などの肝いりで

老人ホームを設置されたり

緩やかな円熟を見せ乍ら、、、静かに発展しているのか、、、?

維持されているのか、、、

小学校も、中学校も、廃校にならずに健在です。

そのころの町内会は、

川に近い空き地で、やぐらを組んで

盆踊りを、ちぐはぐに踊りながらも

住宅団地への芽生えのような、

なんでも容認の手探りで

郷に従って、自分の一回目の

班長さんをしたことが思い出されます。



町内会費を集めるというのが、最大の仕事でした。

一年分を、何回かに分けて、集金するのですが、

これが、、、なかなかのお仕事でした。


言われたことだけすると、

何年も、町内会の仕事はまわってきません。

開拓時代の、

ご苦労の有った人たちの

やり方という地方自治体の既得権も残っているところなので

宅地造成されたころの住人は

郷に従って、緩やかに、お手伝いをするという年月が流れて

今年は、、、75歳で班長が回ってきました。


自分の班に居住する方々の

札幌市の発行する雑誌と、

開拓されて間もなくできた札幌大学や

小学校、中学校の

コマかなイベント情報が回覧されますが、

近頃は、予期せぬアクシデントに備えられているのでしょうね、、、

あたり触らぬような、

イベントの恒例化した内容になっています。

にっこりと、若さの魅力で

ずばりという。

「私だって、、、昔は若かったのよ、、、!(笑い)」

「解ってます、解ってます、、、班長は続けていただきますが

総務部長は、若い人が≪引き受けますから!!」

役員名簿から、若い人に名前を変えてもらいました。

シュウカツというのは

モノをカタズケることばかりに、、、目が行くが

これはという!!!張りきった若者が居れば

集会の最中でも、

交代のチャンスはあるのだった。

知事さんが若い人が就任したサッポロは

廻りで、、、大切にサポートしながら

育って行ってもらえれば



北海道の若さは、、、時代に取り残されなくて

輝けるかは

廻りのベテランのサポートと、

温故知新の精神で

北海道のエースになっていただきたいと
期待しています。

町内会も、老人が増えました。

何とか、、、良い案は無いですかしらね、、、

やる気があっても、身体が緩慢になって後回しにしているうちに

うやむやになってしまうことが多いかもしれないし、

町内会の役割は、、、会費を集めることに
責任を感じながら、

年金の入った6月中旬過ぎにでも
第一回集金に回ることが、役員さんから指示されています・

今年の班長さんが終わったら、10年はまわってこないから

勤務できるところがあれば、
薬剤師の免許を、しっかりと使わねばと思っています。


地震で出来た「ヘアクラック」からの

水のしみいるのを、とりあえず、冬にそなえて

修理しています。

ミサワで建てた家のモルタルが
北国の建築のように

ネットで、下地と野間に空間を開けていないという

本州の作りだったため、

巨大な塊ごと落下しました。

全部、モルタルを落として、廃棄して、

その下に木枠を打ち付けてもらって

サイディングしましたら、

子供たちの多いこのあたりから、

サッカーのボールを蹴る音が帰ってきて、

元気をもらっています。

200万以上もかけてサイディングをしたので

キケンが無くなりほっとなったところですが、
目下水道も、電気も、フル点検の敷治しを予定していますが、

予算の関係上、大型物置として、

家としての修復を待っている状態です。

後は、長いスパンで元に戻す気持ちでいないと

精神をやられてしまうのが、、、コワイ。


被災の時の、絞り込みは

急を要しないことは、長いスパンで

出費のストレスを回避することに

絞って、、、急がない、、

、守れるところは

自分の日課でこなしてゆく。

子供のころ、長いアメリカ帰りのお婆ちゃんに

ドゥ  イット  ユアセルフ!

そういって、、なんでも自分でやらされた戦後教育だった。

郊外に住居を構えてきた以上

アナログに徹して生きねば、、、

天災には、、、誰も勝てない。


心 その3 花火

2019-06-07 03:02:09 | Weblog

初心者の写真という

プロもびっくりの芸術写真  この方が

花火の写真を展示しているブログが

素敵です。

花火の奥深さは、、、このサイトにアクセスをお勧めします。



花火、、、、芥川賞をおとりになったのは「火花」

似ていて、、、、全く対照点にある

「花火を見上げる受け身」と「アクティブなスタンスの火花」

さて、、、さて、、、

「花鳥風月の「花火を回想する、、、心」

ここでは茶の間の75歳のばあやンが回想する花火の思いでです。


疎開地の南紀の山奥の、そのまた山奥で

戦後の団塊の世代が

小学校に入るころ

、、、、昭和23年~25年ごろ

私は小学校一年生になって

學校で友達という集団の中に居た。

戦後の空に、B29の,、、、、ゴン~ゴン~ゴンと飛んでくる音も

あまり、気にならなくなったころ、

山奥の、10件に満たなかった村落に

にわかに疎開者で3000人以上の人の集まった。

小さな神社には、

ミョウレイノ若集が古典的な天狗の衣装で

先祖伝来の舞を練習する姿が見られるようになった。

村の祭りの大々的な復活が始まった。

提灯を数え切れないほど掲げた竹の行列が

揺れ始めた夕方、

突然!!!大きな音がした。

私が、初めて聞いた「花火」の音でした。

きょとんとして、フリーズしている幼い私に

大人たちが、

「花火だよ!、、、打ち上げ花火だよ!お祭りが始まったんだよ!」

ワシントン大学を出て郵便局で切手を売っているというので

子供たちの中では

有名な叔父さんが、笑いながら、皆に何かを配り始めた。

「ペンペン草の茎」のように細い竹の先に、

真っ黒な泥のようなものがカチカチに乾いて

綿棒のお化けの黒色パターンのようなものだった。

一年坊主たちは「これはなんやの~~?」

叔父さんは口元を「アルカイックの唇」のように

キューと引き上げて、言った!!

「線香花火やで!!」

え??「閃光花火やって!」「1000個花火やってか?」

子供たちは配られた花火に興味深々で、
叔父さんがマッチで火をつけてくれる順番を競い合った。

「しゃがんで!しゃがんで!、、、振り回さんようにして観るんやで!」

雀の巣をつついたような、ピーチクパーチクで

叔父さんの声は聞こえないのですが、

それなりに、線香花火の小さな火が一斉に花火を飛ばして、

変化しながら、最後は火の球になって

ポトンと落ちてしまったとき、

子供たちの反応は様々で

忘れられないひと時でした。

花火、、、、私の記憶の中で

線香花火の、、、次々と変化して、、、

小さな火の玉が、ポトンと落ちる瞬間が

忘れられないのです。

味があって、、、ドラマがあって、、、、

私の中では、花火の芥川賞が、、、最適なのです。

受け身なのに、心が動いて、

自分の幼い心のドラマを

短い閃光の変化の中に

文字では書けないドラマを描き続けた花火でした。 



これは、幼い時代の思い出の「心」ですが


ちょっぴり寂しい、、、心の中の、、、青い花のように

大切な、、、小さな、、、私だけに語り掛けてくれる

火の物語でした。



初心者さんの花火のサイトは

圧巻な見事さがあり

お勧めします。

    花火って、、、すごく美しい!







心、、、その2

2019-06-06 07:49:31 | Weblog
令和の時代に

平成の天皇陛下と

お顔がそっくりの、
天皇陛下が、

植樹をなさっているお姿に

平成時代から引き継がれた「令和」の時代に

すんなりと心がなじんでゆかれました。

「日本の文化の伝来の歴史を、時の経過の永遠に続く巻物に

日本独特の文字で記された文化の伝来から今日まで

天皇陛下の過ごされた元号が
その時代の文化を、表現されて、新しく生まれた時代へと

続いてきた文化の伝えてくる「恵み」「知恵」「技術」「,、、無限大」

希望の見える光の見える

永遠のアナログな人類の発生が感じられて、置いてけぼりにならないのです。

陛下は長い長い地球が続く限り、、、日本の民とともにいらっしゃる

歴史そのもののような気がします。



イギリスのエリザベス女王陛下と、日本の皇室は

明治生まれの祖祖父、も両親も、そして私も

日本とヨーロッパの、素敵な文化の「泉」であり続けてきました。

きっと、、、トランプさんは

皇室の国賓として招かれ、、、

エリザベス女王陛下の、オン前を御歩きになられたとき

女王陛下は、威厳と優しさに満ちて

素晴らしい微笑でいらっしゃったように受け止めました。

茶の間は、幸せな抱擁に、心が温まりました。

ご訪問は、世界中が仲良しになってくれる事っと
期待しました、

国が、マナーを超えて、仲良しなのは

世界平和の大きな希望になります。

世界の国には

それぞれ、長くて深い歴史がありますから

何が大切なのかは、、、国が仲良くなるという事に

一番のマナがあると思うのです。

いつの日か、最も歴史的な時間の旅をされた幸運に

心から、優しくなれる晩年が来ると、

私は、75歳になって、、感じることです。

自分の生きてきた時代が、、、

遠い太古より、、、生かされてきた瞬間だったっと

皇室や、エリザベス女王陛下のお姿が

TVで、茶の間で拝見できる良き時代に生きている今が!!!

「心の時代」の時間軸の、

x=+

y=+ 

心の目覚める思いがするのです。

文化は、、、続いている。

スマホの世界の、
ポリマリゼイションを
ガンマーナイフではちょん切れないが、
伝統と、文化の継承が

心という、瑞々しい生態に宿ることを
思い出させてくれる限り

デジタルなITに支配される
、、、心の砂漠への道を
チョンギッテくれるように思える瞬間がある。

、甦る心が、、、たしかにあるのですよ!!

歴史って、、、時間て、、、存在そのものですね!
 
南北戦争の時代に

人民の人民による人民の為に、、、と