花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

戦後の復興時の同居は17人の大所帯でした。

2012-01-30 02:41:32 | Weblog
外科用の鋏だけが
引き上げの時、
母が握って逃げた財産でした。

南紀の無医村からの復活は
父にとっても、
命がけの
「男の仕事」だったのかもしれません。

アメリカに負けたままでは済まされない!
新しい教育を
皆に身に着けてもらう事で
敗戦を機に、新しい日本にならねば!

55歳で、患者さんの手術を終わり
麻酔が覚めるまで
監視いてから寝るからね、、、

そのまま起きてこなかった父。

しかし、其の時はすでに
私たちは、父のおかげで
東京に復帰できていた。

敗戦で全財産を失った親戚が17人も
居候に来ていた我が家だった。
親戚の子供を学校に出し
一人前にしたとき

彼らは出て行った。

特に「おばちゃん、、」と
母にまつわりついていた女の子は

母を通じて
私のよそ行きや、バックを持っていった。
洋裁学校を卒業した彼女は
兄の同級生の医師と結婚してからは

「砂の器のように」
過去を振り返ることなく
二度と私の前には現れなかった。

飛び立った。
父は見習い看護婦さんを
夜学に通わせ
看護婦の免許を取得させては
大学出の知人の息子と結婚させては
十代の見習い看護婦を
せっせと、夜学に通わせていた。

戦後戦争か復員してきた実弟が
28歳で早稲田の理工学部に入学した。

彼は卒業して先生になっても
我が家に同居していた。

やがて、
学芸大を卒業した女の先生と結婚して
我が家の大広間で式を挙げた。

その後も何年も我が家から
職場に通い、
私が大学に入る頃
中野のマンションに移っていった。

多くの居候さんのおかげ?様で?

私は小松川高校の制服を
たった一着で卒業迄持たした。

卒業時、
手首の所から擦り切れた糸が
なんともおかしかった。

級友は、
「お父さんが医者なのに
なんて、、、ぼろいのや?」

ふざけて、手首のほつれた糸を引っ張った。

親父さんはね
早稲田中学を出ているのよ、
そこの校風はね!
新しい帽子や制服を
泥んこにして
ふんずけて
貫禄つけて着るんだそうよ!

女学生だって
痛んだ制服が、
味があるんよ~~!

皆ゲラゲラ笑った、
「キリンちゃんは貫禄あるの、似合わないよ!」

馬鹿話しながら
セーラー服のリボンを
お互いに結びっっこしたものでした。

*********************

私は28歳のとき
草月流のいけばなの出版社が募集した原稿を
北海道の教室から勧められて
「いけばなは語る」という本に
載せていただいたことがある。

花の世界とはおよそ
無関係に思えるかもしれませんが

敗戦から引き上げて
命からがら
熊野までたどり着いた父母の人生と

上流階級と言われた明治の時代
医師となって
なに不自由なく幸せになるはずの父と
大学のピアノ科を卒業し
ショルツ先生に師事し
ドイツ製のピアノを
アメリカに居た実父に買ってもらい
音楽と「テニスコート」と
リゾートの人生が

戦争で「木っ端微塵になった衝撃」と
「斜陽」と「ゲルニカ」と

3人の子供を亡くした「喪失」と
すさまじいまでの落差の滝に打たれた
母の人生の復活人生を

故郷の森羅万象の大いなる力で
修復して行くさまを
つぶさに見ていた幼少時代でした。

敗戦するまで
気がつかなかった。
優雅で柔に見える振る舞いとは裏腹に
苦境になればなるほど
したたかに立ち上がる。

心に育っていた
見えない大木は、音楽学校でつ
ちかわれたものなのだろうか?

瀕死の心でがんばる蔓が
大木を軸にして蒔きついて
まるで元の大木のように

葉で被いつくしている。
空を燃やして紅葉は絶叫している。
激しい銅ね色である。

「くぐつ」の人生を
花の心に置き換えて文にして
吐き出した作品が思い出されます。

「母の花、私の花」

津波の被害が無ければ
二度と思い出すことも無い本でした。

「いけばなは語る」という

安野さんの絵が表紙でした。
大岡信さんが「選者」でした。

安野さんからいただいたお葉書を
思い出します。

私は、安野さんに
「小磯良平先生の植物画」のお話をしたら

あの本は「私にとっても、、、幻の本」と
おっしゃられました。

薬学のおかげで出会えた「幻の本」
私は、限定版のこの本を
ひそかに持って、幾度となくめくっては
画家の見る目の手厳しい「命の輝き」を
私の心の花と思って、大切にしている一冊である。

今でこそ「華美」な世界のいけばなですが、

敗戦の被害は
津波や放射能の被害と重なるところが大です。

打ちひしがれて
なにをしたら良いか判らない主婦の間に

勅使河原蒼風さんという書家が
銀座の和光のショウウインドウに

砂漠で行き倒れたような、
動物の骨と
壊れたお釜と
流木と、、、廃墟になった心のような
「いけばな」を展示しました。

其の現実を、被害地と重ね合わせ

其の中で立ち上がった姿は

戦死した多くの魂が
結集して表現した
「復興の始まりの空間」のように
私には思えました。
ゲルニカのイメージとも重なりました。
人災の悪魔の戦争を憎みました。

通っていた大学が御茶ノ水だったせいもあり
隣のYWCAで草月のいけばな教室の先生に
花を習いに行くようになりました。

やがて
「いけばなの師範の看板」をいただきました。
看板は一生使うことはありませんでした。
戦後の服部時計店のショウウインドウの
「蒼風さんのいけばな」と共に
胸の中で時折思い出すだけです。

その後、札幌に住むようになり
かなり、、、
自己の主張にテーマを置いた
花を習い始めましたが、

「いけばなは語る」という
さりげない投稿原稿の本を見ているうち

自然の植生の中に「平和」と
したたかな「光の奪い合う様」を見つけた。

いつしか
小さな「野の花」や
登山の時
登るにつれて
フィルムを蒔き戻してゆくかのように

咲き誇る裾野の花が
蕾に帰ってゆく様や

さんかよう、、、の
あまりに清楚な花に
思わず顔を寄せてしまい、
花を散らしてしまったショックに

花の美しさを切なく涙した思い出や、
信州の上田先生の主催した薬草探索登山に参加して
せせらぎの傍に
赤いツバメが輪になっているような
「燕尾センノウ」の花に出会ったときの
感動は、忘れられない「花への恋」でした。

いつしか、剣山も花バサミも
物置の中でさび付いてしまった。

「命」野美しさに気がついて
命の「一瞬に」感動して、
母の音楽の世界が
瞬間の出来事だけに
母の花は音楽だったと思えるのです。

一瞬の花に出会うためにも
復活を鶴きっかけは
何だって良いのです。

復活を促すものは
足下にあると、、、おもいませんか?!

マー君! 最高の笑顔

2012-01-30 02:20:33 | Weblog

ハンカチ王子とマー君が

野球界の親戚の子供のように思えるのは、

きっと、私だけではありません。

スーパースターの
ダルビッシュ投手が
アメリカに行くことになり

拍手しながらも
寂しいなー、、、!

そう思っていた矢先!

マー君の「最高の笑顔」が報道されて

元気を取り戻しました。

斉藤投手と、
また、一味違うマー君は

みんなの元気の素です。

お幸せに!

斉藤君も4年遅れで
素敵な結婚の笑顔がスクープされるのかな?

彼女の顔を想像してしまいます。

孫が申します。

「婆はどっちのフアンなの?」


医家に生まれて 医家に嫁いで、思うこと

2012-01-25 02:21:18 | Weblog

戦争をはさんで
父は、一人の帰還した医師の人生が待っていた。

私が物心ついた時は
東京に生まれ、
かぶき門のあるお屋敷の坊ちゃまが
着のみ着のままの戦争からの帰還の
引き上げ者として

熊野の奥の七か村無医村の
診療所の医師として
村の人達から
神様のように
慕われ、、、尊敬され、、頼りにされていた。

東京の真ん中に在る
慈恵会医科大学を卒業して
外科の医局で博士論文を書き上げた頃

父は、京城帝国大学への移動命令がきたそうである。
ほぼ、出来上がり、後は清書だけという論文を
大学に残し
占領軍の支配する「仁川」に転勤になった、

当時の新聞の切抜きには
「髭のM博士の手術、、、」というような

日本の医療を褒め称える新聞記事が
かなりの回数において、
在日の日本人向けに日本語で
報道されていた。

あの、、、沢山の切抜きには
若くて凛とした「髭を生やした父」が掲載されていた。

日本から駐留している
政府の高官や大将の方々と
一緒に撮った写真など、
当時の占領地に居た日本人の交流が見えてくる、

外科の医局に所属して「泌尿器」に
研究課題を見つけてしまい、
博士号は仁川の大学で発行されていると
母から聞いている。

寒い、言葉はわからない、
病院の正面にある公衆電話から
病院から何日も、何日も帰ってこない夫に
電話をしても、

仕事中ということで
門前払いであったという、、、女性の位置。

戦争が激しくなった昭和18年、19年、
父は院長をしていた病院を出て、
戦線の軍医として、出陣。

全滅に近い敗戦色が濃くなった頃、
帰国の許可が下りた。

3人の子供は、戦地に於いて
救い抱くことは出来なかった。

瀕死の子供が呼吸困難になったとき
一瞬、生き残っている長男も道ずれに
死のうと思ったそうであった、

しかし、、、8歳の賢すぎる長男は
母を支え、貴重品だけ母に持ってもらい

日本本土から迎えに来た祖父に
母を支えてもらい
韓宇連絡線に乗り込んだそうです。

「護衛船が発砲することがあるので
窓は閉めるように」と命令があったそうです。

8歳の長男は
それでも。こっそりと海を見ていたらしいのです。
「護衛船など一隻も無かった。」

最後の連絡線だった。

今思うと、政治家の早川さんや
父方の祖父が
中央の政治情勢や軍事状況にも明るく、
歴史に残っている大将や
中佐の方と知人であり
日本の情勢を連絡されて
町民を守る最高責任者の地位にいてくれた。
おかげで、祖父は
単身、韓国の緊迫した状況の中に
娘夫婦と孫を迎えにこれたのだそうです。

御爺ちゃんというのは
明治生まれで、
師範学校卒業後
若干28歳で
船で3ヶ月もかかって
サンフランシスコに渡り

ロス界隈や、
あたりの砂漠を
農地に変えてゆくという
日本からの
開拓団の指導に渡米していたことがある、
爺ちゃんの兄は
サンフランシスコに骨をうずめ
お墓は分骨されて
高野山に登ったそうである。

御爺ちゃんは帰国してから
和歌山県の熊野の奥の古座川の上流に
白い大きな洋館を建てて、
いつも背広で、胸の奥から
銀の懐中時計で、時間を見ていた。

私は、小学校にアガル頃
「何がほしいかね?お祝いは?」
そう聞かれた。
「御爺ちゃんの銀時計がほしい。」
と、飛び上がって答えたら、、、

「私が死んだらな!きっと遣るからな!」
、、、、、、、
あの時計は、誰が持っていってしまったのだろうか?
きっと、天国でも時間を知りたい爺ちゃんのために
誰かが、しっかりと、手に握らせて
見送ったのかもしれませんね。

校長先生をしていたときには
白い手袋をはめて
毎日朝の朝礼で
「朕、、おもに、、、」と読んでいたそうです、
其の頃、生徒だった母は、
モダンな性格で、アメリカの風を感じていた、
新宮高校に進み
佐藤春夫さんの
妹さんと同級になり

兄さんの春雄さんからも
影響を受けたと言っていた。

其のときの同級生の友人が
パリの画学生と結婚し、モダンを振りまいて
旧友を刺激していたと言っていた、

明治40年代生まれの母の時代に
すでに、岸恵子さんのような
インタナショナルな女性が
いたということですよね。

晩年私は、東京の大学に進んだとき、
モダンだった「パリの画学生」の夫人の家に
下宿したのでした。

戦争からの復興は
人工の津波被害からの復興にも似て

新しい日本を
温故知新の精神で復活復興!

アメリカの配下にならないように
追いつき追い越せの学問漬け。

東大以外は目指さない!
特攻隊のような鞭が学生を走らせた、

東大に破れた学生は
たくましく
日本復興の技術者や
建築、労働、炭鉱、、、、いろいろな分野で
国際的に成長していった。

女性も、アメリカ兵の腕に
ぶら下がって渡米した苦境の時代から
実力で、女性の地位を示していった。

デモが日常茶飯事となり
樺美智子さんが東大生の女性として
死をもって、女性の意思を表現した。

あれから60年以上過ぎました。
思い立ったら、、、また、、、
思い出を書きましょう、、、ね、

孫子の時代に、、、幸せが守られますように
祈りながら、、、。

晩年ショルツ先生にピアノをならっていた
国立音楽大学の一期生として
東京に行って、モダンガールのように
テニスと音楽に夢中になって、
若き青年医師の父と知り合う
大正時代の

男と女のロマンスの中でも
あの時代に、恋愛と
女に自立を果たしていた母を

男と女の対等な青春として描きたいものです。
対等であったから
結婚するまでは、、、、二人は主役。
戦争が無かったら、、、二人は「夢追う人」
壊滅になった日本が復興してゆく
不屈の精神が、女性の中にしっかりと
暖められていたのですね。

日本中の、青年男子の健康人が
戦火という津波で、、、死んでいった時代です。

やがて、日本から女性の時代が芽吹くのです。

なでしこジャパンは、、、戦後にもいたのですね!。

息子の縁談

2012-01-23 11:00:08 | Weblog

この世の中は大きな宇宙に包まれて
多くの光と、
惑星や衛星や恒星の
見えない引力のバランスの中で
多くの人類が
地球の表面に
それぞれの居場所を争っている。

大きいようで、
小さい地球

大きいようで
小さな人類、

しかし
人類の持っている欲は
がん細胞のように果てしない発展。

東京の空をヘリコプターで飛ぶと
子供のころは海だった浦安も
ゴミで埋め立てた夢の島も
海ほたるも
大東京の高層ビルの大津波に
海のほうが飲み込まれそうである。

竜のオトシゴのような日本
富士山の雪を頂き
心の清らかさを重ね合わせるように
山信仰で、煩悩と戦った歴史の中で
富士山はいつしか日本全土の
国民の大好きな山になっていた。

小学生から70歳の爺婆まで登る山。
信仰の歴史の中で
狛犬のかわいい顔が良い。

小学校から大学卒業をして
東京大学に勤務していた25歳まで
私は「東京人」だった。

父は市谷富久で生まれ
牛込小学校では
時の陛下のお出ましを
学校代表でお出迎えする生徒に
兄弟で選ばれたという話を

折に触れては聞いて育った。
東京大震災にも被害を受けた父の生家。

第二次大戦のあとは
やみ市場や

アメリカ兵相手のパンパン(風俗営業女性)が
路地のあちこちのネオンの下で
おいで、、、おいで、、と
哀しい時代の東京も見た。

新小岩、小岩。あたりの線路の北側は
「パレス」と呼ばれていた集合住宅が
おんぼろ校舎のように建っていた、

ある日「大火」が起こり
焼けてしまった跡地には
新しい町が出来た。

東京オリンピックの
ブルーインパルスの輪を
50代で未亡人だった母と見上げていた。

世田谷には「三井牧場」があって
乳牛が、呑気そうに草を食んでいた。

40年ぶりに「江戸川」を歩いた。
帝釈天の松は、
相変わらず見事なドラゴンのごとく
空を飛んで、
一瞬のうちに
時空をひっと飛びして思い出は今とつながる。

裏の道路を横切って
江戸川の
矢切の渡しに出た。

整備された公園と
昔のままの渡し場と
100円という渡し賃と

蒼い美しい水の中の空と
船に揺られながら
水の一滴になって
川を渡った。

帝釈天前のバス停から
小岩駅に出た、

駅の券売り場の広場には
栃若時代の熱気をそのままに
栃錦の像がある。

しばし見ていて
ホームに出ると
東京駅に向かって電車が通りすぎた。

両国博物館を経て
文京区のシビックビルに登った。
「スカイツリー」見える展望台には
彼と彼女のカップルが
まぶしく笑う。

結婚という回り舞台。
予期したことの無い雪の留萌からの
天与の縁!

結婚は一瞬にして
タラバガニの手足を全部切り取る。

甲羅だけになって
家庭を守り
子供を育て
孤独な仕事場の人生が始まる。

「縁」は
天の命令のように
結婚という形で
女性の人生を閉じ込める。

子育てが終わり
相方が70歳を過ぎるころ、

私は「私を生きてゆかねば」と、
父母の産んでくれた私を探す。

高野山に逝った父母は
霊気となって
伝えてくる。

あなたの相方が
人生をまっとうするまで、
あなたの「仕事を続けなさい」と、、、。

あなたは相方の影なのだから
それが結婚という
二人三脚なのだから。
閉じ込められて
孤独な作業の中で
「愛」を探し続け、
何かを信じて環境を守り、スタンバイ。

子供は育ち
孫が出来、、、1,2,3、、、、
この愛くるしい3人に

「愛」とは個々にあったのか、、、!
そう思いつつも
ネット裏の観客席から応援するが
息子の家庭には一切の干渉はしない事を守る。

ここでもタラバガニの足は無い。

EBM
科学が先
愛があっては仕事にならない医師と
「天が命令した縁」に従った。

そして、次男は、、、また医師になった。

医師になったということは
個人の時間が無いという宣言にも似て
体力の限界まで勤務の病院に魂を置く。

空っぽの疲れ切った体だけが帰ってくる。
家庭においては、お客様。

それでも父の時代は「金銭」が
家事手伝いの分身を雇って、
婦人は休む暇もあった。

現在の医師は
医療人とはジャンルの違う
文系の事務方や
経営担当の会社が使う社員であるような?兵隊?

多くの、一見無駄な環境の中から
閃くような超人の技のごとく
働ける名医が支えられていた。

現在は、家内が
ヒマラヤに登りたい登山者の
ロバとなって荷を運ぶ。
シェルパとなって
最短経路の荷運びを先導する。

ひたすら、仕事のことだけ考える医師。

息子は38才になった。
卒業のころ
縁談があった。
「研修医時代は
結婚の余裕も、体力も、時間も無かった。」

30歳ごろ、遠縁の親類から
才色兼備の大学院生を紹介された。

母は息子に話さなかった。

33歳、私の大学時代の友人から
お嬢さんを紹介された。

其のときも、息子には話さなかった。

「忙しい、、、結婚どころじゃない、、、」
息子の口癖である。

35歳、、、主人の知人が
28歳の女性を紹介してくれた。

このときも、、、
息子には話せなかった。

そして今年、息子は38歳になった。
「結婚する気はあるの?」
聞いてみた。

「42歳になったら
其のときに出てきた人と
天命だと思って結婚するよ、」


医師になっても
医師をすることは、もっと難しい。

水に映った息子の影のように
一つではあるが、一心同体ではあるが

出会うことの無い実態の中で
水に映った影となって一つの役を
二人で担う妻になってくれる人がいたら!。

息子が人間であり続けるための
愛を映す鏡となって

仕事という愛無き五泰山に
閉じ込められた「孫悟空」を
釈迦様のお供をするたびから

つかの間人間界に引き戻し
受胎して
二人の遺伝子を
未来に運ぶ船として

自分流に子育て、家庭をテーマに
孤独をものともしないで
人生を走りきってくれる
相方が、、、現れてくれるかもしれない。

わずかな希望を
「息子の運のよさ」にかけます。

だから今回も、
しっかりとして美しい

息子にはもったいないと思う
お嬢さんの写真を送ってくれた
大学時代の友人に感謝します。

日曜日

彼女のプロfヒールを、、、
話す前に
「忙しくて結婚どこじゃない」という
疲れ切った寝ぼけた声。

相手様には、良しなにと、、、

息子に知らせないで、
送り返してしまいました。

早く孫の顔を見たいと思うのですが、

天与の縁でも授からないと
職場の状況から判断すると
忙しすぎるのです。

医師が足りないのですから
仕方ありません。

結婚は夢のまた夢かもしれません

写真を送ってくださった友人へ、

心より感謝します。
時間をやりくりできない
38歳の医師の職場。、

お母さんは、
君自身が授かった縁を
大切にしたいから、

良い縁にめぐりあえますように
祈っています。

故郷には帰らないと言って出て行った次男。
東京は無機質なウサギ小屋の人生が
多くの家庭婦人を閉じ込めてしまうから

結婚の条件としては
岩場に蒔かれる種になるのでしょうか?

赤ちゃんの個人情報は誰のもの?

2012-01-21 13:20:28 | Weblog

   最近のTVでショックを受けたのは

   アメリカで、第三者の卵子を受けて
   受胎して、
   50歳の女性が

   自分のお腹で、ご主人の子どもを育て出産。

   TVで公開して、放送されたことです。

   帝王切開で出産され、母体も試練を超えて、
   極形の心臓疾患を患った
   かわいそうな命の誕生でした。

   逐一、記録写真を撮り
   医学の発展や進歩や治療に
   貢献している小さな命。

   学会関係者
   もしくは、、、
   同じ疾患を持つお子さんの
   親の会や

   この痛ましい病との戦場を知る必要が
   差し迫った人々に

   お金を払って、出向いてもらって、
   会場までやって来た人に
   この痛ましい映像は
   必要かもしれませんが、

   不特定多数のTVという
   茶の間に見せる映像としては

   赤ちゃんが、、、
   かわいそう過ぎると
   ワタクシ的には、、、涙が出ました。

   医学はEBMの世界なのはわかっています。
   愛情を優先させてしまったら、

   小さな体に「メスを入れること」さえ
   ためらってしまいます。

   私の思いは「医学や科学の発展」の
   厳しさを欠く感情論かもしれません。

   しかし、、、、

   この赤ちゃんが20歳を過ぎて
   この「心臓の手術が命を与えたと!」
   結果を出した時点で
   一般公開されても、

   それは意味があったと言えるのではなおでしょうか?

   しかし、命のありようでは
   まだ、TVの公開段階ではないのではないかと、

   赤ちゃんが、
   笑っているのに
   私は
   「胸が締め付けられる思いでした。」

   ERのテレビ映像のように
   製作なら楽しめる。
   劇映画とか、
   アニメのショックシーンなら
   「これは嘘」「嘘だから面白い」

   しかし、、、
   何も解らない赤ちゃんが
   大人たちの一存によって

   茶の間に
   「苦しみのリアルな表情」を
   さらされるのは
   心より、
   赤ちゃんがかわいそうと思う。

   小さくたって、、、人権もあるし
   小さくたって、、、国籍もあるし
   小さくたって、、、男の顔
   小さくたって、、、個人情報は尊重すべき。
   小さくたって、、、ちんちんは赤ちゃんの個人の秘密。

   幼い赤ちゃんが
   医学の力、
   多くのサポート
   手術のスポンサーの結集した力が

   結果を出した「意味」が痛感された段階で

   放映しても
   茶の間の、幸せな人々は
   放映が遅かったとは
   決して言わないと思いますけど。。。

   このままでは、
   この赤ちゃんが
   20歳になった日のことを
   想定しないでいるような

   個人情報が守られているという
   「思いやり」が、、、感じられません。」

   吐き出して、吐き出して
   日本の皆と共有する事で
   育児の元気がもらえるのかもしれませんが、、、。

   女性には
   お尻はひとつしかありません。

   2つも、3つも、、、多くに椅子に
   同時に腰掛けられるほど
   器用な女性は少ないはずです。

   子供を育てるということは、
   20歳をめどに

   個人情報も大切に

   生まれてきた意味、意義、
   親子で共有した日々が
   自分たちだけの共有の思い出財産。

   大公開されてないことが、、、
   個性であり、個人であり、人権であると
   私は思うのです。

   「思いやりを忘れた政治は、、哀しい、、、」

   天と共に、、、、星と共に、、、
   自然と共に、、、

   もしも医学がこの赤ちゃんを救えたら、
   そして、、、40歳、、、50歳、、、迄の
   命を守れたら

   日本の心臓外科医は誉れですよね、、、。

   だから、、、
   しっかりと記録を残すのは大切と思いますが、、

   私は母親であり、3人の孫の祖母だから

   テレビで「ちんちん」を
   公開できる神経は

   「思いやりが無い」としか思えませんでした。

   ダビテ像は、ちんちんが無いと
   存在は薄かったかも知れませんが

   あかちゃん!この方は彫刻ではありません。

   「男なの、、、」「りっばに未来に遺伝子を運べるのよ!」

   命の表現は
   言葉でもよかったのでは?ないですか?

   がんばって、、、生きてください。

   あなたの命は神様と運命と

   「思いやり」と欲張らない心と

   、、、母、、、父、、、

   心臓外科医と、医療スタッフと、
   医療に対する真摯な政治が
   見守ってくださるのでしょうか?

   この、さらけ出された個人情報が
   赤ちゃん自らの医療費となってを助けるなら、、、
   仕方の無い戦争だと思いますが。

   自分にも理由が解らないが、、、
   哀しすぎる映像に
   祈りしかない

   もう少し、、、
   赤ちゃんの未来の気持ちになって

   人間の「エゴ」に
   欲が負けないようにしないと、、、

   肉体の健康と同時に
   成長したとき

   精神の自尊心を傷つけないように
   守ってあげたいと、、、

   老婆心ながら、、、祈りながら、、、
   番組をみていました。
   


正月の風邪ひき家族

2012-01-10 04:22:42 | Weblog

  正月だけが連休なのに
  結婚以来、
  北海道神宮にお参りするという習慣があり
  厳寒の中を43年、毎年参拝に行った。

  振り返ると
  2人でおまいりした時は1969年であった。
  銀座ワシントンで買った学生時代から愛用の
  牛革のプーッをはいて、
  リンクの上を歩く思いで、
  滑ったり、転んだりしながら歩いた。

  寒さで、足の指が痒くなり
  やがて、ほてった感じになり、痛くなったのを
  今も痛烈に覚えている。

  翌年の為に、
  靴屋に持っていって、
  靴底を、分厚い滑らないものに修理をして

  今も、愛用している

  やがて、ぷくぷくにほっぺたの落っこちそうな
  長男を抱いて、厳寒の道を歩いた。
  このころから、
  神社の帰り道の屋台で、だるまを買う習慣がついた。

  無給医時代の、育児中の達磨には
  なかなか目玉が入らなかった。

  当時は保育所も少なく、苦労が多かった。
  HBCラジオ局で
  「ママと赤ちゃん」の番組のオーデションがあり
  運良く、仕事に就くことが出来た。

  育児中のママの質問を編集し、
  答えを、あちこちの病院の産婦人科の先生に
  お答えいただくという、

  孤独な子育てママさんへの
  子育て支援の、医学番組であった。

  時には、デレクターさんと
  10キロ近いデンスケを持って
  札幌から様似町まで子供の手を引き
  様似日赤まで産婦人科の先生に答えをいただきに
  出張取材にも行ったりした。

  当時、、4人か5人の実子をきちんと子育てされながら
  しかも、現役の臨床医をされていた女医の先生が

  難解な質問に、優しく判るように答えてくださり
  感動したことがありました。

  多くの子供を産み育て、医学と合わせて
  お母さん方に、育児の指導をするとき
  僕は、夫でありながら、
  妻の事を尊敬しているのですよ、、、と

  ご主人の医師先生も
  番組の収録に協力してくださり
  ご配慮いただいた結果、

  あのときの放送は
  臨場感のある、すばらしいものになったのを
  今でも思い出すのです。

  女医先生の中には
  実に「巨人」がいらっしゃるのですよね。

  たった2人の息子たちの
  アップアップの育児をしながら、

  せめて、世の中に役立つ人に
  なってほしいと考えていました。

  主人も、今年はもう3人の孫をぞろぞろ連れて、
  ご機嫌なお宮参りをしました。

  しかし、、、帰ってから風邪を引きました。
  せっかくの正月の連休も、

  寝たきりで、グスグス言っている夫を見ながら、

  あんなに、股引は2枚はきなさいと言ったのに
  雑踏の名kでもスタイルを気にして、
  薄着で、神宮のモリに言ったのですよ。

  これからは、
  頑固な老人の「頭の若さと体のギャップ」を
  育老するような、支援番組があればいいのにと
  思いながら、

  毎年「ハワイの正月なのよ!」と
  知らせてくる知人の正月を思いながら、

  風邪をもらって来ても
  また来年、
  お参りに行けることが、家内安全!

  数多ある日本の神様の中でも
  北海道神宮は
  43回結婚以来の皆勤賞のいただけそうな
  ご利益を期待しています。

  何事の、、、おわしますかは、、、しらねども
  日々、つつがなく来れたことを感謝したく
  厳寒の参道を、、、はなすすり歩く妻。

  

札幌の雪

2012-01-07 23:09:12 | Weblog

  毎日毎日、、、僕らは、、、鉄板の、、、
  上で焼かれて、、、タイヤキ君。

  携帯ラジオをポケットに
  毎日、、、毎日、、、雪かきで
  新聞読む元気もありません。

  雪に追われて、、、屋根の上!

  初めに買ったミサワホームは
  昭和49年建築の建売でした。

  利息は9パーセントの時代です。
  
  本州育ちで
  小学校から大学まで東京の私です。

  北海道の雪が、これほどとは知りませんでした。

  ミサワホームの社長さんは
  大学の同窓でした。

  理工学部の建築家の生徒たちが噂していました。
  ミサワはパネル工法で、
  工場で作ったパネルを組み立てるから

  バランス感覚鋭いよな~

 、、、、?

  ともかく、建築業者として
  北海道でなじみがある名前だった。

  同窓の贔屓もあった。

  建売を買った、

  実は、、、このころ、
  ミサワホームは、栗林ミサワと言って
  北海道の札幌に進出してきて
  間もない時期だったらしい。

  温度差の激しく違う為
  内装のタイルが、畳ぐらい
  どサーと!!!、、、剥がれ落ちてきた。

  本州では、タイルの裏のバッテンテープを
  つけたままで、所々接着しているだけで
  こんなことは起きないと
  修理に来た大工さんはぼやきながら、
  ピンクのタイルに変えていった、

  ピンクは、冬でも暖かそうでしょう、
  水色なんて、、、寒いよね!

  あまり深く考えないで、ばら色にした。

  その後、トイレがおかしくなった、

  今度は、庭の真ん中で土管が終わっていて
  ひな壇の上の土地から、下の土地に流れ込んだ。

  お隣さんはカンカンに怒って
  結局、お気の毒に、我が家とミサワが折半で
  塀を建てて、誤った。

  其の次の年、
  本州育ちの私は、びっくりした!。

  窓のカーテンを開けても
  光が差してこない!!!!

  何?、、、これ?

  大雪である、

  一日かかって雪を掻くことを知りました、

  やっと光が入り
  のほほんと、、、何日かたちました。

  屋根から、
  一間の丈の「ソファー椅子」大の
  巨大な雪の凍結した氷の岩が落ちてきました。

  其のときは
  ゴムの大きな鉢植えと、
  息子の使っていた
  勉強の机を、
  窓に並べていました。

  落下した氷が
  ベランダサイズより60センチぐらい幅の
  広いガラスのはいっているサッシ窓を割り
  内側の木製の窓の
  真ん中の渡し木をへし折って、

  なんと!
  机を、反対側の壁まで
  すっ飛ばして
  雪も、氷の巨大な固まりも
  部屋の中に入ってきた。

  良くぞ、死ななかったものだと
  振り返るとぞーとする。

  犬小屋を作ってもらった
  近所の大工さんに、

  応急処置で、

  とりあえず、内側の窓枠を
  適当な木材で打ち付けてもらい、
  板で雪の入るのをスットプさせて
  其の夜は、外のサッシは

  壊れたままで
  ガラスの破片だけ、
  丁寧に取り除いた。

  当時のミサワホームの
  外回りの親切な社員さんは
  大工さんではなくて、

  誠意だけが、説得力のあるという
  事の重大さがピンと来ないタイプの人であった。

  捻じ曲がったサッシを
  コンコンと、丁寧に、根気強く
  伸ばして、細工して、
  まったく、普通のガラスを、
  はめて修理したのでした。

  あんまり器用なので、でこぼこの残る傷は
  誠意に免じて、今もそのまま、
  開閉が途中で出来なくなるが、
  それ以上言っても、
  会社までは声が届かないと思って黙認している。
  
  当然、窓の半分は、買ったままの
  おしゃれな凹凸のあるガラスです、

  半分は、普通のガラスです。
  もう一度入ってきては命が危ういので
  バリケード作ってきました。

  丈夫な1間半の長さの
  分厚い板3枚を打ち付けた三角錐状の柵を
  窓の前に並べていった。

  次に起きたのは、
  
  スガモレです。

  建物の片側半分が一階なので、
  屋根が裏口の上にある設計になっている。、

  低いほうの屋根が角度が勾配があまり無くて
  ほとんど平らに近い。
  雪が落ちない。

  しかし、
  それだけでは、
  こんなにスガモレはしないはず!?

  外回りの社員は、
  どこの家も北海道は漏れると言う。

  納得が行かないので、
  屋根の上の、裏口の真上の
  90センチの三角錐状の
  「雪止め子屋根」を取っ払って
  雪を落としたいと、申し出てみた、

  いいですよ!
  誠意だけが説得力の係りの社員は
  子屋根を取っ払った。

  板金加工していないのですよ!

  三角錐に組み立てた木枠にとたんを貼り
  糊代のようなトタンの襟を付け、

  五寸釘のねじれたような釘で、、、
  なんと!そのまま打ち付けてしまい、
  本体の屋根には三角家の沿って
  釘穴があるのですよ!

  いくつもね!

  あきれてしまい絶句。

  我が家で考えて、
  防水シートのゴムを買ってきて

  130万で
  屋根をめくって、下側に入れてもらい
  屋根を直したのですが、

  高い方の屋根のテッペンから一枚の長い長尺トタンを
  低いほうの屋根から
  60センチほど高い丈で切りとってしまって
  修理したのには、絶句した。!!!


  スガ漏れで、釘穴だらけの屋根のトタンを
  交換したので、
  本来は無料で直してくれるはずであると思っていた、

  どっこい!!!、、、130万円もかかたのでした。
  
  つぎはぎだらけの屋根になり

  購買当時の味のあるこげ茶の
  一枚で下の屋根まで覆っていた
  ミサワの独特のシンプルな美的なラインが
  三枚剥ぎのぶつ切りつぎはぎ屋根となった、

  こんなデザインでは、転売も、二束三文の価値しかない。

  ミサワは、モンドリアンのような
  シンプルな美しさが気に入って買ったはずなのに

  次から次へと、、、床が抜けたり

  畳がへこむので、めくってみたら

  きちんと床うちが出来ていなくて
  古い材木を使っていたり、、、

  きりが無いので其のままにして、

  ストレスが高じて体調が思わしくなくなり
  考えないようにしたいと思った。

  結局、4年後には、隣に
  新しく借金して
  雪下ろしをしなくても済むように
  平らな屋根で
  簡易鉄筋の、気泡コンクリートの家を
  建て直しました。

  近所で、もとの家を貸してほしいというので
  貸しました。

  そのために、屋根をもう一度直して
  貸しましたが、

  あれこれ、、直せと!!!
  人に貸すことのわずらわしさと
  隣近所と、たなこの除雪問題のトラブルが
  隣に住む我が家の責任になったり、

  リホームのため、収入にはならず
  結局、主人の「書庫」として
  物置になっています。

  5年しか住まず、、、
  9パーセントのローンを払いきったのは
   去年の中ごろですが

  庭には、途中でちょん切れた土管を
  掘り返して撤去しないで
  新たに土管で引きなおした下水管は

  庭木の根がつまりつかえません。

  家を買ったばかりに
  大変な、、、除雪と、税金と抱えることも
  あるのですね。

  ミサワホームに話して、
  きちんと住める家にしたら、
  息子が帰ってくるのですが、、、

  相談したら、
  栗林ミサワではない、別のミサワホームから
  立派な「リホームの設計図が届いた、」

  1500万円のリホーム代金の見積もりが届いた。

  ローンが終わったばかりで
  とても、、、払える金額ではない。

  リホームはあきらめた。

  下水と水道が不良品であるため

  住めない家ではあるが、、、
  初めて買った家と言う愛着と

  空き家のまま、書庫になって
  昔の家の懐かしさもあり

  毎年、低い方の屋根に上がって
  4時間かかって、
  洋館のように、スコップで四角く切った
  固めの雪を
  屋根からすべり落として除雪している。

  33歳ごろ買った家
  大学を飛び出し、民間病院に勤めてくれて、
  月給は23万円でした。
  支払いは毎月9万円と
  23万円のボーナス払いが2回ありました。

  再び大学に呼び戻されると
  給料は極端に下がるので、
  今しか、借りられないと思って
  思い切って買った家でした。
  4年弱住みました。

  その後、近所の人の、新築の完成するまでの
  短期的に、頼まれて貸したりしていましたが、

  家を貸すという事は
  リホーム二3倍の出費がかかることを
  知りました。

  9パーセントの利息を払いながら
  ボーナス払いも年2回払いながら
  貸家になっても、

  水道はどこが漏れているのか不明のまま

  使ってないのに13年分の基本料を一括で
  水道局に請求され支払いましたが、

  水道局の方が、7^8人どやどやと
  調べてくれても、漏水箇所はわからないまま

  元栓を締めて、

  水道なしの状態が何年も続いています。

  夏は、たらいとバケツで
  雨水を受けて庭に水をまいていますが

  天下のミサワホームも
  北海道進出のころの家は
  形ばかりで
  雪国を知らない、温度差から

  買った客は、リスクを回避するのは
  難しい時代があったのですよ。

  70歳を過ぎた今は
  時が来るまで除雪を続け、、、

  壊して、更地にして、
  次の時代に渡すまで

  住めない家に
  固定資産税を払い続けるのは、、、

  なんとなく、、、家、、、て感じがする
  シンプルな、
  主張の無い、、、
  いい空間を、作ってるんですよね、、、

  ミサワホームが、、、
   ゲテゲテと、、、華美デザインだったら

  買わなかっただろうから

  雪かきも、屋根の雪下ろしも
  しないで住むから

  たっぷりとした冬の時間
  詩を書いたり
  絵を描いたり
  買い物に行ったり

  人生は変わっていたかもしれない。

  除雪の無い
  主婦の守りやすい家を

  被災地には建ててあげてください。

  現代のミサワホームは
  きっと、機能も
  見えないところも

  主婦の動線の延長が家となって

  そこに住むことで
  文化を創る時間を生み出す工夫をした、
  思いやりのある、
  プロ根性で、

  40年前の失敗を
  被災地の建て直し復活に
  ぜひ、役立ててください。

  今のミサワが、保存されている貴社の
  メンテナンスのありようを見たとき、

  雪や除雪を無視した屋根のリホームの

  めちゃくちゃな、総合設計の美観の無さに
  もしかしたら

  恥ずかしくなるかもしれませんね、

  明日も、上の屋根から落ちてくる雪が

  つぎはぎにリホームした下屋根の継ぎ目から
  スガモリするのを防ぐため
  雪下ろしする日曜日です。

  これから建てる被災地の復興には

  除雪と、下水と、床板と、水道と
  屋根の勾配、板金、トタンの質を
  しっかりとして、そろったデザインの
  美的なことが値段であると思いました。

  室内を走る水道管が、
  目障りです。
  40年前は、これがミサワの建売だったのですよね。

  除雪の無い家!
  考えてください!
  特許取れますよ!   
   きっと!

  

  

箱根駅伝 マラソンのドラマ

2012-01-03 15:31:29 | Weblog

父の代から
正月といえば
箱根駅伝!

霊峰富士の麗しき姿を背に走る学生たち選手!

胸がキュンとなる
ひたすらな走り

倒れても、たすきは届いた!
感激です。

今井選手卒業をさかいに
どうしちゃったの?

順天堂大学がTV画面から消えていましたが、、、!!!!!

復活!!!!!
今年は7位を走って、返り咲きました。

伝統とは、、、よく言ったものですね。
ミラクルな復活です。

三つ巴で中央大学を抜いたゴール近くのシーンは

駅伝の「ドラマ」でした。

やっぱり、順天堂は戻ってきました。

それにつけても
「東洋大学!」

君らは、、、すごい!

正月の気合をいただきました。

日本の未来は万歳!!!!!!

富士山が見てる
日本の根性。

あけましておめでとうございます。
心から、、、あけまして、おめでとう!

2012年  明けましておめでとうございます!

2012-01-02 20:57:36 | Weblog

     とうとう、、、あけました!

2012年は正月元旦、北海道神宮にお参りしました。

今年のために「厄払い」も
特別に申し込んで、
お払いをしていただきました。

何事もない、粛々と
心の絆を手繰り寄せ
精神を支えあって

日本復興が
スピードアップされますように!

心身健康で
働きすぎになりませんように!
健康第一に考える余裕を

神様がくださいますように!

未来の地球が
自然と科学が共存できますように!

孫と一緒に
祈りをささげてきました。