花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

植物のサバイバル

2019-05-31 11:14:37 | Weblog

動かない

目立たない

相手に触れずに 光をさえぎる枝を伸ばす。

根っこは走る、、、どこまでも

鳥さんに、おいしい果物を食べてもらって

鳥の運ぶ種は距離を問わない、

タンポポの綿毛は

落下傘部隊のように、植物同士のセクトを超えて着地する

植物の知恵って、、、すごいと思いますよね
目に見えることで感心するのは、まだまだいっぱいあります。

色ですよね!
虫たちを呼び寄せる妖艶な花の色!
清純な色!
反射して光で存在を知らせる色と花びらの表面!

神が活きよ!と言ってあらん限りの知恵を授けた「箴言」を
植物は実行する。

この優しくて美しくて、強くて謙虚で、ズーズー強い生命体は

じっと動かないふりをして、止まったためしはない。

風邪を利用して、落ち葉を運ばせ、冬を超えると

春一番を呼び寄せて、
冬の汚れた落ち葉をカタズケる。
生きる設計のたしかさよ、。



大学時代に「生薬学の先生が、塩の結晶で出来たレンズを教えてくれた。」

植物の細胞レベルを超えて、分子レベルの機器分析のレンズであった。

夏休みの宿題は

100種類以上の、薬草を採取してきて

標本にして提出するという、、、

大学時代のひと夏が、山中宿泊という技が身に着く宿題であった。
植物の学名は亜科に至るまで
ラテン語で暗記させられた。

、、、勉強は自分で進んでするものであることは常識だが、、、

植物をラテン語で丸暗記しないと単位がとれない生薬学は
受験勉強の再来の合格のための作業だった。

「馬鹿野郎!、、、こんなの、、カタカナで書ければいいだろう!、、、」

反抗していた男子学生も、

覚えるまで単位をくれない頑固さに屈服して

屋上で念仏のように

ロザテェー、、、バリエタす、、、もう嫌だ―~~~!
わめきながら覚えていたのが、、、何ともおかしくよみがえり

独り言のように笑いがこみ上げてくる。

ラテン語が何で必要なのか、、、

ずーと後のなってから、感謝で理解できたのは、
チェルシー薬用植物園に実習参加したとき
西暦1400年ぐらいからの植物が

他科と交配することなく、歴史的に株分け保存されていたという

ラテン語の標識を見て歩いたとき、

無理やり叩き込まれたラテン語の標識が

歴史を超えて、目の前にあることを認識できたときでした。

卒後、、、何十年も経ってからの医薬史の
国際交流イベントに参加できた時の、驚くべき感動でした。

その足で、フランスのパリ大学の薬草園に行ったときにも

マンドラゴラの、青いトマトのような実を着けた植物に出逢ったとき

思わずシャッターを押しながら、

ラテン語のおかげで、フランスのパリ大学の植物園が

忘れられない面白い植物に感動でき☜

本でしか見れなかった植物の万国共通の標識のおかげで

日大で叩き込まれたラテン語が

後日、感動の植物園探索の時間をくれたという経験を

我が日記にはしっかりと、、、記しておきます。

徹底的に植物を楽しむのなら、ラテン語は武器になるという事でした。

子育てが終わってから、

生薬学会の会長さんをしていた恩師のフィールド実習に

薬剤師会の会員という所属で参加した。

入笠山、や信州一帯の山での実習だった。
韓国の女性教授の先生も複数参加しておられ、

日本との国際交流を、感謝して、多くの韓国の学生も参加していた。

朝鮮ニンジンは、日光が当たらないように黒いテントで覆われたところで

ニンジン独特の、手のひらのような葉をひらつかせていた。

もともとは、延喜式によると、韓国から入ってきたニンジンの種を

信州で栽培に成功して以来、

日本で育てた朝鮮ニンジンが一級品として

韓国に渡り、

蒸してから日光に干した「紅参」として

日本に戻ってきていることなどが

学会後のゼミで聴くことが出来たりして、、、、。

へ~~~と思うほど

植物は国際交流の民間版として
大使の役割を果たしていたのだと、、、再認識させられた事を思い出す。

今、、、

漢方処方を採用している大学では

生薬学が正式な単位として、カリキュラムに入りつつあるとか、、、

すでに、単位取得に義務があるとか、、、聞くこともあったが、

正直言って、生薬を学ばないで

漢方処方を、理解するのは困難であるとおもいます。

ツムラのエキス剤で

漢方処方は医師の手によって医療界に珍重されるようになっていますが、

それも、、、昭和のヒットな事ではあると思いますが、

コーヒーを「カフェインざおと考えて、粉薬として、効果だけを考えるのと

馨、香り、臭い、香ばしさ、苦み、甘味、、、

五巻のリフレッシュを伴いながらの

成分の雑多な生薬が、

各臓器でプロドラッグとして、体内動態する経路を

薬理的に突き止められれば

お茶の世界の精神作用に及ぼすファクターのように

生薬の湯液の及ぼす有効成分と言われている成分以外の物質の役割が
解ってきて、薬学から、生薬学が消役してしまうことが残念でなりません。

電子顕微鏡も設備として大学にも入る時代になったのですから

医学部の生薬学とは

一味違った、実学を伴った

薬理学的な臓器への有効成分と、触媒的に成分を有効にしてゆく雑物質を

クリやランスだけではなくて、

各臓器のスライス解剖片をチュウシツして

化学変化や、変化しないで、プロドラックとしての

何らかの効果を見つければ、

臨床の医師のの視点とは異なった

漢方処方の、生の湯液の、作用の違いが

薬学的には面白う純粋に興味の対象としての

実権がやがては機械力やITと奏効して

漢方処方の「日本版生湯液バイオ加工」みたいな新製品が

老人ホームのサプリメントのように

愛好者がお茶間隔で「イカリ草エキス間隔で常用して」

五タイ山散策中に出逢った「そんしばく先生」のように

120歳までも、それ以上までも、、、

生存できる日が来るかもしれませんね。

日本人が描いたと思っていた「医心方」などの原本が

西安の山の洞穴に隠されていたなんて、、、

現地で説明されて、半信半疑で帰ってきました。

植物にうつつを抜かせたのも、
私立の薬学部に進学した息子の
授業料を稼ぎ出そうと、

主婦から、会社員として、正職員復帰したことがきっかけでした。
化学は日進月歩だから、やがては時代についてゆけない年齢になる、

その時には年寄りになった薬剤師は職場が無くなる。

機械力や化学力の分野と違う自然物の漢方処方は

臨床でも、病気の重い時期と治癒に向かう時期と

治癒しても不安でぶり帰りそうな時期や

くしゃみのような、病気ではないが

小青竜湯のように特効薬と言えるほど

効果のある漢方処方だってあるから、

最先端の臨床医の治療と、健康状態の間の

すき間を埋める役割が、嗜好品以上に必要だと感じている。
植物は、、、神様の創った傑作員だと思います。

大學は卒業していなくても
薬草の実学なら
学者さんも舌を巻くという
ゲンチアナを北海道に根づかせた爺ちゃんが
北海道の山の中の薬草園で銅像になっていた。

感動した大学の先生が
爺ちゃんの生薬日記を
立派な布の本にして図書館に置いてあった。

一部分けてほしいと言ったら、、、
一万円だというので、

決して高額貰っているわけではない月給で
買い求めた。

その本を紹介してくれた北大の助手さんは
実学の実力で、多くの大学教授の論文のもとになる植物を

標準植物として採用される実力で栽培していた。

チエルシー植物園で撮影した、アルバムを見せると

「大黄」の起源植物の写真を見つけて

「このスライドをくれや1」というので、

こうした貴重なスライドは

価値の解る人にあげてもよいと思い

私は、ヒマラヤ登山でも、植物の境目の苔を採取してきたという

実力でのし上がった、、、その助手さんにスライドを差し上げた。

お礼にと、レモングラスのドライにした一束をくれた。

植物を仲介に、解る人と話すことの時間は

アッツという間に過ぎていった。

あの時の助手さんは、絶滅危惧種の「ムラサキ」、、つまり
紫根の植物であるが、

自分の担当のゾーンに群生させていた。

世の中には

学歴ウンヌンではなくて

舌を巻く実学の大家というのが

北海道には、、、あちこちに居るから、

北国は、どんなに科学が進んでも

アナログの世界は大切にするべきだと、、、痛感した。
表面の小技ではなくて、

自然ごと、天気気候風土植物丸ごと同化した現場の力を持っている

学歴ウンヌンではない、、、泥だらけの知識の塊のじっちゃんが居る。

NHKの朝ドラの、酪農家のじっちゃんのように。
北海道には、発見して、認識するのには

教授クラスの机上の学門がベースにないと

その、、、含蓄ある、、、つぶやきを、、、聞き逃し

じっちゃんの世界の宝の知識の光に気が付かないものだ。

北海道でなければ見いだせなかっただろう低温の世界。!

低温科学の先生の
文庫本に
目から鱗の北国ならではの認識を覚えたのは

振り返ると昨日のような気もしてくる。



その根っこにあった事は

高校時代に、教えられた山の裾から頂上までに

四季が詰まっていたとい体験だった。


學校の山の寮の有った蓼科山に登って

岩だらけの山頂から、360度ぐるり見渡し

どの山を歩くか、学友たちと話し合った。

富士山と対決したという、、、八ヶ岳は

くっきりと空の海の橋杭岩のように
、渡れそうな景色であった。

思い出の中の登山は

蓼科山は高校時代も、

洋服屋の久保さんや

先生になった由紀子ちゃんや、

早稲田大学に行ったのに

美容師さんになった竹さんたちと登った。

あの時リーダーだった菅井さんは

山の案内がプロ級に思えた。


谷川岳にも登山するほどの
山の好きな先輩だった。

「山と渓谷」に投稿した写真が掲載されて

雑誌を片手にニコニコしていたこともあった。

写真部、化学部、美術部に
出入りしていたこともあって

山は十数人の同窓生で登ることになった。

久保さんはペンタックスを愛用していた。


三つ峠を皮切りに

大井川に添って北上しながら山を越え

岡を超え、夜叉神峠に出て、南アルプス連峰にたどり着いた。

さいころキャラメルのような雹に遭ったり

リュックを頭にのせて

岩の間に身をひそめたり、

リーダーの指示に従って

青息吐息の「薬草探索」を兼ねた登山を楽しんだ。

≪花筏≫という、、、実に

葉っぱのど真ん中に

3つの花が咲いている薬草を採取したっけ!!!。

その後    何十年もして、



生薬学会の会長を、つとめられた恩師が

健康雑誌にカラーグラフを交えて

花筏の記事を載せていた。

ロマンのある薬草だった。


薬学部には生薬学の授業が盛んな頃在学していた。

牧野博士と東京大学時代に植物の研究をされたという

木村雄四郎先生が和漢薬の授業をされていた。

一句一語聞き漏らすまいと

ノートをとりながら、

植物の持つ薬剤効果のある部分を絵に描いて

その植物を探しては
プレパラートをつくるのに夢中だった。

木村先生は名著が多い先生で、

いまだに、
和漢薬の本などをめくっては

山野草と突き合わせて、新しい感動があるから、

植物の世界は「友」でもある。

本には書かれていませんが

大学生の頃の授業で

黒板に書かれた

「植物の形態の見分け方のノート」は

いまだに重宝な知識の泉になっている。

命が100年は無いだろうと思うと、

庭には、

グラスウールの空き箱をベッドにして

赤い花のイチゴなどが、

魅力をふりまいている。



私がこの世とさようならしたときに、

庭を片付けやすいように

地植えはしないで、いつでもひと箱づつ

興味のある人が、持って行ってくれるといいと思っています。


去年まで、地植えしていた「北海当帰」や

名寄の園長先生が学会の時、

サンプルに使ったセンキュウなどは

我が家の庭に根付いていましたが

去年のうちに、根っこから引き抜いて

マニュアルに沿って陰干ししました。

途中、息子の要る本州に出かけている間に、

主人が、枯れてしまったのと勘違いして、

根っこを土に埋め戻してしまっていました。


結局、、、、生薬サンプルとして、、、

保存するには、及ばなくて、

庭からは、学術用の植物は消えてゆきました。


何かの世話をすること、、、そのことが

精神的に集中でき☜楽しくもあり

植物の集うお店に通うような感覚で、

毎日、愛する植物たちの友人に
ドリンクに相当する水や栄養を撒きに行きます。


花を愛でるわけでもなく、

庭の調和を楽しむでもなく、

一見すると、雑草の箱入り、鉢入りの

魅力のない庭に見えます。


私だけが、楽しんでいるという

植物の庭で、

植物同士の静かなる戦いを、、、長いスパンで観察しながら

オウギの塊根に攻めてゆく
ムスカリの
数多のちびっこ球根の兵隊に
応戦しながら葉も茎もからしてゆく「オウギ!」

死滅ぎりぎりで、オウギを単独のバケツに移し
ムスカリの球根は
グラスウールの箱に植えなおした。

たった2日で
オウギは元気を取り戻し
あたらしい葉を出し張りが戻った。

球根と塊根の壮絶の闘いでした。


ほ~ておけなくて、

剪定することで、光の譲り合いのある

雑草の庭を、一人で楽しんでいます。


幼いころ




疎開中に、父が作っていた薬草園の、、、

箱庭版のイメージですが、

いつの間にか、当帰芍薬散の

シャクヤクが、数本残るぐらいが

華やかさを感じるだけです。






">

今回の北海道の地震の時

部屋の中は、小物や雑貨が落ちてきて

足の踏み場もなくなった。

長いスパンで、一日一平方片付け作戦で、

鈍感にならないと

ストレスで病気になると感じたから、

主人の部屋だけ、

早急に、元に戻し、

いまだに、物が床に転がっている。

お互いに、、、またいで過ごしている。

捨ててしまうには、いまいち、買い直しが面倒である。




雪は美しく、厳しく、優しく、

寒さから、、、厳寒の寒さから、、、

零度に守ってくれる。
雪は寒さから、守ってくれたのだった。

零度なら、何とかなる。

冬は4時間外で雪かきをしていることも
苦痛ではなくなったが、、、

人生の、自分の持ち時間の4分の一を

除雪で失うのは、、、もったいない人生であったと思う。

ふと気が付くと、

後期高齢者の主人が、

今も、医師として、患者さんに慕われて、

手作りの、イクラや漬物や、木彫りの自転車を
貰って帰ってくる。

断るのは医療にも良くないから
、受け取ってありがとうという

心の治療にもなるからと、

小物を持って帰ってくる時、
ふと、、、この頃、、、

生きていた自分を振り返り、

山に例えれば、

山の背コースを登り切ったときの

白山の登頂成功の時の気分です。

ひたすら、登ってきましたが、、

山は厳しく、険しく、、、美しかった。


「蓼科山から見渡した雲海と、、、八ヶ岳の姿が思い出されます。」

富士山と喧嘩しなくて、、、よかった !

富士山の五合目より上には植物は見当たらない、

落石を注意しながら、無味乾燥な砕石の上を歩くような気分だが。

ここは天下の富士山である。

医師をすることだけに的を絞ったから
生き残った主人の決断。


北海道の医師は、少ないので、雑務に従事させては
医師の無駄遣いになるという感覚でよいのでしょうか?


植物は、人生の、悲喜こもごもの日常を

いろいろな葉っぱの姿で風に揺れながら

語ってくれる、

山や、植物がそのまま保存されている地球であれば

地球の歴史学者ともとれる、
植物たちが伝えてくる在りようが話す言葉が


心から、、、愛しく

涙で見上げられる年齢になったことを、

孤独というのかもしれないが、、、、
植物は友達だと思っている。

小さな庭で

小さな植物に

ペットボトルで飲み物を配りながら、

友達に囲まれた日々が、

いとおしく、、、思い出されるこの頃です。、、




大学時代にやりたかった、生命科学の続を

かなり気楽に楽しみながら



形骸を楽しむというよりは


一人の世界で、、、遊んでいる。

杏子っこの本に

遊びをせんとや、、、生まれけん

戯れせんとや    生まれけん、、、

遊ぶ子供の、、、、という文を思い出しながら、

75歳は幼児帰りで

こどものように、

一人遊びが楽しい時代の始まりです。






































































































































































薬学の中では極めて「アナログの世界の授業だった。」

植物は、、、歴史の中で医療を支えてきた。

高分子の化学物質や、バイオや、生化学の遺伝子のらせん構造の授業と

植物を学ぶ面白さは、生徒の間でも大きく方向が分かれた時代でもあった。




無味乾燥な試験管やビーカーの実験室に囲まれた日常に

潤いがあるフィールドの実習課題であったことが思い出される。

山を見る、岩を見る、植物と出会う

季節を感じる、

裾野とてっぺんの地層に

何億年単位の生きてきた地球の顔のしわを見る、


真夏の頂上の雪渓を歩きながら、

岩と、雪と、崖のような頂上が

遠目には

なんと神々しく見えるのかと

驚いたりもした。

富士山だけは、、、登らなければよかったと、、、、「

美しすぎる富士山の

砕石のような5合目以上を

恨めしく思いながら登った。

石だらけになる手前には

「トリカブトの群生があった。」

富士山よ、、、永遠の私の信じる富士山よ、、、

知らない方が、あこがれたまま、、、永遠の美の神だった、

今では富士山は私の心の中では、、、マスラオ、、、!


生薬の恩師が、

採集した100種の山の薬草をめくりながら、

満足そうに笑った、

千葉県の薬草園の授業の後、

研究に使うと言えば

研究中の「オウギの苗を下さった。」



上下を感じさせないご指導には

学問をされる方の

豊かな面が、純粋の興味に向かうという

産まれる前からの贅沢なまっすぐ差を感じながら

生徒はお手本として、巻き込まれながら、

植物を純粋な気持ちで学びました。




登山の面白さを教えてくださった生薬学は

機器分析の発展や多くの合成や

分析や、化学の発展が時代をとらえていったのかどうか?

高分子化学や合成化学、バイオや、遺伝子工学と

薬学の授業は

時代とともに薬物動態や

票的治療などの

遺伝子組み換えや、免疫学を視野に置いた創薬へとかわってきたようです。

私立の薬学大学では臨床薬剤師として即戦力になる様な

実習も入ってきて、血中濃度などの業務には欠かせない

臨床の授業も入ってきてるようですね。

孫が、、、薬学に興味を示しているのですが、、、

これからの時代を考えると、

苦労が多い割には、

一般から

「薬をかき混ぜているのが薬剤師だ」と思われるのも

報われない一面もあります。

「好きな道に進めばいいよ、、、」

人生は、好きな事なら頑張れるからね、、、

孫には、気楽な答えをしては見たものの。。。

学生時代の生薬学の恩師から

小石川植物園の

見目麗しい植物画の絵ハガキをいただき

あれから、、、何十年もたっているのに、

壁に額絵として飾ってあります。

先生は

東京大学で博士号取得された後

日大の教授として私たちをご指導してくださいましたが

入笠山で、上田先生の主催された日韓合同の学会に参加したとき

山の寮の近くの水辺で

燕尾センノウという

激しく燃えるようなオレンジの

ナデシコ科の花を見つけ、

名前を教えてくださいました。



^、

思いでは尽きることはありません。

この続きは、、、又、、、

学友よ!お元気で



2019-05-30 23:10:37 | Weblog

心って、、、いったい、、、何なのか!

75歳になった今、こいのぼりのてっぺんで

吹き流している魚もどきのフルカラーの存在で

全てが吹き抜けていくのではと、、、思ったりしていた、

人の心は孤独には耐えられない

人の心は優しさに涙する

人のこころは、愛されたい

人の心は、、、認められたい

人の心は 仲間に入りたい

人の心は、時代が追い越してゆく

上手に年をとって

天地に生かされてきたことに気が付くとき

大木も 大きな樹も

したたかな下枝を伸ばして

自分だけが活きてゆく。

隣り合った木々は

光を奪い合う葉を広げ

闘いは、人間の知恵を超えている。

根の張り方も戦場である

尊敬する恩師が

生薬学会の会長を勉められていたころ

学会で募集していた登山に参加したものだった。

登り始めの満開の花は

つぼみとなり

小さな芽となり

山頂近くでは岩だけが

わずかに苔を抱きしめて、

碧は消える。

登山は、、、心を解放してくれる。

社会的な立場のある先生方も、参加者も

山の前には、立場の上下は無くなる。

敬語もなくなり、絶景に見とれて頷き合う。

人の心は不思議である。


閉じ込められた社会では

上下を争い

ライバルを蹴落とし、

力にも、美貌にも、金銭にも 

もちろん地位にも、人気にも

時には嫉妬が絡んだりする。


もし、大都会のビルの上が

山の植物に覆われていたら、、、

側面が蔦に覆われていたら、

コンクリートのジャングルの中を

ITと車と、スマホと

つけまつげの人工美人の中で

ギンギラギンに活きようとすると、

産まれる前からの

初期設定が実力に含まれてくる。

競争社会の厳しさは

才能も、金も。サポーターも、親力も必要になる。

一杯のかけそばでは 医師は育てられない。

時代について行けなくても

当たり前のことかもしれない。

人の心は、寛容にはなれない。

浪人したり、

所属部隊が無いことが

心をむしばむ場合だってある。

隣がプール付きの洋館で

自分のうちが借り家だったとしたら

人間は同格なのに

肩を並べる気にはならない。

矛盾を感じるかもしれません



僅差でオリンピックに出られなかった選手は

孤独にならないで、

自分を責めないで

ぎりぎりまで戦えた自分をほめてあげてほしい。

そして、誰よりも、

オリンピックを楽しめる実力があることを自覚して

外側から

応援席で頑張ってほしい。

オリンピックに出場できることは

普通の人間には

考えない心だから、

会場の券が手に入っただけで

心は舞い上がるだろう!

しかし、、、頑張ってきて、

出れなかった選手の心の事を思うとき、

チャレンジしたことが、、、心の宝と気が付いて

競技場を照らす「心の光」に

なれるもおだろうか?

会場を盛り上げる

心のエネルギーになってほしい。


心が空っぽになるまで、

大声を出して、、、

叫んで、、、応援してほしい。

選抜に敗れた心は、

会場で空っぽになるまで

選手の応援で満たしてほしい。

挑戦した心だからこそ

選手に大きな応援の心を送れるはず

、、、華やかなオリンピックの陰の

自分でも気が付かない、、、

出場選手の仲間になれなかった

心の、、、エポック、、、

ブラックホールにならないように、

ありったけの力で応援して、切り替えてほしい。

日本の選手団を勝ちに導くのは

ぎりぎりで選抜に漏れた選手の

心の強さを謳歌できる応援力だと思った。


金メダルの陰で、

出場ぎりぎりで応援席に回った心が

心から、選手を応援できたとしたら、

切り替えることのできる心が

人生の生き方のオリンピックであると思った。

金メダルに輝く「心」の持ち主だと敬意。



75歳になって、、、私は、観客席を見渡すだろう。

心、、、心、、、私は広辞苑を引いてみた。


令和元年の国賓をお迎えのNHKのTVに国民も参加

2019-05-27 10:15:03 | Weblog

一千年以上の歴史のある皇室の

国賓をお迎えする式典を

お茶の間で拝見できるという、、、令和元年!

大変な世紀の瞬間を

拝見させていただいております。

NHKに感謝!

朝から、TVを離れないで観ていました。

平成の両陛下が

若くなって生まれ変わられたような

お顔のそっくりな天皇陛下の

静かな中の きびきびとした若さが

富士山のようです。


国際経験の豊かな両陛下は

大切な外交を堂々と受けられてにこやかな中にも

日本の品位と

歴史の中からはぐくまれた

令和の始まりの年にふさわしい国家行事に

アメリカの大統領ご夫妻を迎えられるという

天皇皇后両陛下の外交を

国民もお茶の間に

威儀を正して、TVを拝見していました。

歴代のアメリカ大統領の訪問に対して

日本の皇室の外交は

世界でも唯一無二のポテンシャルエネルギーの

確かな継承されて今日まで

1000年以上の歴史の文化のたしかさは

美しく、品位があり、静かな動的な動きには

一瞬の芸術の一瞬の感動の連続であるともいえる

静かで動的な俊敏の研ぎ澄まされた瞬間の時間を

おおらかな、それでいて緊張感のある交流は

お茶の間まで伝わってきました。


アメリカと日本、

地球の美と、

地球の健康と、

地球の調和と

健全な地球あってこそ生かされてゆく人類も、動植物も

生命科学の幅ある解釈の生命群も、すべからく

生かされてゆく地球環境が

基本に有ってこそだと思える人生の晩年です。


未来の地球の平和を支える

世界の国々が武器を捨てて円卓に集い

知恵を出し合って、華となる

オリンピックのような闘いで

経済が各国を巡回すれば

素敵な人間関係が

共有環境の地球の美しさに

永遠の平和が約束されるかもしれない。

その時にはITや原子力や化学兵器は

伝説になっているかもしれません。

平和への歴史を創ってゆくノアの箱舟には

ジャックと豆の木の

怪物は乗れない。

みずみずしく

人間の心は

アナログであり続けていてほしい。

いつの日か

生まれ変われて、地球に戻ってきたときに

心のふるさとの地球に

富士山が待っていてほしいから。


兄弟のように、

経済面も、アメリカと

支え合って行けることを願っています。


これからの若い世代への

戦後の復興を果たして消えてゆかねばならない

昭和戦前生まれの、、、婆の祈りです。


地球丸ごと平和と、豊かさを求めて、

必要にして十分な

足ることを基準として、

飽食の魔法に振り回されないで

平和に向けて、

良き外交を感謝しながら、

年齢を感じさせないアメリカ大統領の

若さに

敬服して、

画面を見つめ続けた、、、午前中でした。



個人的な公開していない日記のブログですが

お茶の間同士の感動や、

喜びは、

友人や知人、

家族と共有していますので、

アメリカ大統領の

国賓としての

日本のお迎えを、

お茶の間で、感動して、画面を見ております。

ニコニコ顔の両国のトップ政治家のお二人が

無心でゴルフを楽しまれる姿は素敵ですね。

若かりし頃のゴルフ選手の人気者だった

青木選手が

プレゼントされたというゴルフクラブの一本に

プロが選んだ強さと、しなりと、硬さが

絶妙だったのでしょうか?

TVのアナウンサーが、思わず饒舌になっていました。



炎天下ゴルフをなさるのですから

その若さとエネルギーに

そして、

夫人のお若いチャーミングさに

びっくりしながら、私も、

お迎えの60人の小学生に交じっているような

臨場感と、親しさを感じたのは

不思議なくらい、おおらかな空気だったからかもしれません。


阿部首相と、奥様の

自然態の交流が、国民も知らず知らずのうちに

TV画面を通して心がご一緒に楽しめる雰囲気だったから

緊張感がおおらかに包まれて

大統領を、現実の雲の上の人という事を忘れて

身近な大きな人として、

心からお迎えしているのですね(^^

外交のTVは

素晴らしい時間です。

NHKさん、、、ありがとう!!!




個人のひっそりとした日記ブログだから

大切な一日を

記憶にとどめておきたいと、

畏れ多くも、

今日のような

雲の上のイベントを記しておきます、

生きているうちにこうしたイベントを

身近にTVで拝見できて、若返りました。

長生きは、、、するものですね!!(^^

75歳の婆ちゃんでした。



5月の真夏日25日~

2019-05-25 12:17:15 | Weblog

学生時代の夏を覚えていますか?

東京に住んでいた24歳まで

夏の暑さが怖かった。

今のように、保冷材もないし、扇風機と団扇の時代でした。

我が家は終戦後、東京の江戸川の近くの下町に

外科、内科の町医者として、

戦後の再出発の改行をしたのでした。

あたりは「ドブが多くて

蚊もブンブン、

豚ちゃんの素焼きの蚊取り線香の香炉が

あちこちの家の縁側で

煙を白く吐くながら

それでも蚊はブンブンとんでいました。

家業が患者さん第一の開業医院だけに、

当時としては「高価なエアコン」や「自家用車」が

何をさておいてもあちこちに整備して

私の高校の制服などは、2着目の洗い替えを請求しても

「一着あれば、休みに選択すればいいでしょう!」
却下されて染みました。

もちろん、、、エアコンのある部屋は

私には無関係な待遇でした

          つづく

                                     

初心者の写真、、、クリックする毎日です

2019-05-21 23:42:49 | Weblog

スカイツリーを見ています。

白い巨塔というイメージではないように感じます。

野球選手の引退に「雑草の心」というのは

永遠だと感じるのですが、、、

やったね!  スカイツリー!

目の回りそうな高いタワーに

野球のような、心を感じますね___(^^

スポーツマンのさわやかさが、空に高く伸び続けているような

魅力は、、、さわやかですね~~~~~

若者が謳歌しているさわやかなタワーに見えますよ。

2019-05-20 01:57:02 | Weblog

   友

あなたは きっと

死んだら 木になるでしょう

あなたの言葉は 小さな葉になって

風に揺れ

輝くさざ波となりましょう



あ、、、、ぁ

風が光っている

降り注ぐ葉ずれの音、、、、、

コートの襟を立て

肩を丸めて目を閉じれば

無限の打ち明け話が、、、、、聞こえてくる



あなたの木は

枝を低く垂れたまま

翔和の問いを投げかけながら

天に向かってゆく


昭和55年(1980年)一月二十日

北海道新聞に掲載された、、、私が投稿した詩は

無限の打ち明け話が 足を引き止める

永遠の問いを投げかけながら天に向かっている、、、となっています。

あれから、、、五〇年経ちました。

なんとなく、弐行だけ、

心の中の年取るままに

つづってみると

弐行だけ、心が求める言葉のままに

書き換えました。

二五歳の時だったのですね、、、詩を書いたりしていた私は、、、

今日は、母の誕生日なんです。




令和元年の母の日は、孫からのプレゼント

2019-05-14 05:25:35 | Weblog

20年近く前

長男の嫁さんが

カーネーションの花の紙箱入りを

配達してくれたことが思い出されます。

北海道は歴史も100年ぐらいですし

最後の戦争の西南戦争の後も

函館戦争があったり、

決して

新政府に反旗を翻す人たちではなかったかもしれないが

西郷さんに

連れて行ってもらえなかった武士たちが、

武士道においても、

武士らしい「死に場所」を求めて、

「時代に殉死する」しか、

道が無かったのでは?あるまいか?

今のように、、、スマホやマスコミで

情報が末端まで行き届いていたら

北海道の文化は、一回りちがってみえていたかもしれません。

嫁さんは、新しい時代のコンダクターの指揮棒に従順である。

母の日、、、、息子夫婦と嫁さん、、、

母親役は、北海道の習慣がわからないので、

全面において、受容して、

こういう習慣なのだと認識してゆく。

2キロと離れていないところに住んでいるのですから

「母の日のカーネーションは送ってくれるより、

孫を誘って、親子孫と、嫁さんと

合同の母の日にして、回転ずしにでも行きましょう」

私は、初めの一回で、

「花の紙箱入りの母の日の感謝より、食事が良い」と

軌道を変えてしまいました。

「庭には一斉に花が咲き始める北国の5月に
サッポロの郊外は万華鏡のような美しさです。」

カーネーションは

町の中心のマンション暮らしのご家庭には素敵ですが

ここ、、、羊ケ丘の近くには

5月は花が一斉に咲き、

プラスチックの鉢植えの入った紙箱入りのカーネーションは

隅に追いやられてしまいます。

大輪の、遺伝子操作をしたいろいろの色の

カーネ~ションの切り花を

アーティストが花束にしたものを

デパートで勧めてくれますが

「母の日」という

割烹着の雰囲気が無くて、

私には似合わない。

岸恵子さんとか、翔んでる素敵な母親に似合いそうな花束である。

花より孫子との会食がいいと思った。

それから、20年近くたって

今年も、孫子と爺ちゃん婆ちゃんの

回転ずし母の日が続きました。

「今年からは、母の日は卒業しますよ。」

来年からは、孫たち中心で母の日を盛り上げてね。

婆ちゃんになるからね。

息子にも、「母の日は卒業ですよ」

またまた、、、軌道修正をしてしまった。



来年の母の日は、

故郷が、、、実家が無くなったけれど

お寺には、父母のお墓が残っているので、

上京して、

父母に再び会いに行く、、、自分の為の母の日をと。

冷たい心ではないけれど、

時間が大切な後期高齢者の朝の為に。
私は私の母に会いに行く日にしなければ、、、と、思う。



回転寿司会食の後、

「笑点」に間に合うように、

息子たち孫たちが

自宅門前まで、車で送ってくれました。

降りるとき、

嫁さんが言いました。

「これは、、、孫たちが、選んでくれたものなので、

母の日のプレゼントです、」

小瓶に入ったオイルに着けた桜の花が

ゆったりと、、、上下しながら

花の舞を見せてくれる、、、オイル芸術品でもある。

手の中に握れて、思わず、ありがとう!と受け取った。

孫たちが、ウインドウを開けて、手のひらを合わせて

「心のハグ」の母の日となった。

息子は無口に見守っている。

次男からはメールが来た。

「母の日だね!」忘れては居ない。

ボロボロに働いた、、、グローブのようになった手を見つめて

2人から、8人家族になった50年を振り返ると

やっぱり、、、、母をすることは

母になることの前に、肝に銘じて天に誓わないと、

家族は作れないと思いました。

母、、、自分をさておいて、、、母をする。

「令和」元年の母の日であった。


10連休明けのサッポロの郊外

2019-05-12 06:37:09 | Weblog
昭和44年

ふとしたことで6月の札幌に

仕事でやってきました。

大学に入学したとき、

学校サイドから

クラス幹事に指名された成り行きが

まんべんなく、

クラスのメンバーと話す機会があった。

小学校から大学

まで御茶ノ水の駿河台から30分の自宅は

下町にあった。


オリンピックを境に

下町も、整理整頓され、

戦後の産物のように立ち並んでいた住宅は

ビルになっていった。

戦後20年前後の

昭和42年ごろ

そのころ大学の卒業まじかにあった私にとって

自分で時間を作りやすい環境の

最後の華の時間でもあった。

戦後の貧しさから立ち直りつつあった東京は

将来「独身でキャリアウーマンを目指すグループ」で

お茶の水界隈の喫茶店、、、例えば「丘」

ミロ、ジローのケーキ喫茶、、などなど

卒後の進路を語り合ったものだった。

高校時代からの独身を誓い合った友人も

どこからともなく連絡があり

猪苗代のスキー場のロング休日を楽しんだ。



その時のメンバーは生涯独身を通し

60歳代のころは

世界のあちこちから、はがきが届いた。


あるものは、昭和40年代の箪笥のようなパソコンに

人生の伴侶に代わって恋をして、

スパコンを使う技師になった。

大学は某工大卒業。


彼女の兄さんは東大生だった。

すべてに上から目線の兄を

男の姿だと思うと

パソコンと暮らすほうが楽しいと言っていたのを思い出す。


ある友人は、10人家族の末っ子に生まれ、

生家は下町の旧家で、

おまけに兄弟姉妹は歯科医や先生や、

、東大卒のエリートサラリーマンで

女子大でのお嬢様と結婚していた。


ごちゃごちゃと姪っ子や甥っ子に囲まれて

旦那さんに仕えなければならない義姉たちを見ていると

貴重な人生の時間を、

幼児の世話や、

舅や、姑の用事で

時間泥棒のような勝手な生き物の中で、

ハチの巣になっているようで、

結婚はしないと言っていた。

当の本人は、ぶんぶん飛びながら

人生の花の蜜の味で

幸せなのかもしれないが、

それは、、、錯覚に思えてしまうと、、、考え込んでいた。


彼女は、独身を通して、

医科大学の教授待遇のポストで

海外勤務に奔走しながら

研究者になった。

大学院の夜学の教職課程で一緒に机を並べた同級生は

誰が見ても、「超美人」だった。

しかし卒業後、、、同窓会で会ったときは

名門の私立医科大学の、基礎系科目の助教授に就任していた。

薬理学の部活で一緒に過ごしたとき

らせん構造のDNAに興味を持ち、

リン酸化をテーマに

遺伝子の変化や、塩基を付加する実験などに

夢中だった記憶がある。

美人の彼女には、男子学生がいつも恋をしては失恋していた。

教育実習には「おんなじ中学校を選んで、理科を担当した。」

当時の指導教官の先生方は

私たち3人の実習を指導してくれながら

3人とも、個性的なので、思うとおりに実習を進めるように

全部、任せてくださったことを

感謝で思い出すのです。

美人で、優秀で、独身を通したキャリアウーマン、の彼女。

クラスでの大輪の花だった。

もう一人の独身グループの友人だった女性は

私のことなど、

忘れているはずの60歳のころ

オーストラリアに別荘を購入したので

老後、

一緒に海外の休日を暮さないかとの知らせに微笑みが出た。

学生時代は、自分以外の女性は結婚して

未来の日本を背負う後継者を育ててほしいと思うけど

私は、、、自分のあたわった時間を全部

自分のための人生に使いたいと、、、いつもの口癖だった。

また、一緒に薬剤師国家試験を合格したもう一人のユニークな彼女は

「独身主義」がクラスの男性の間にも浸透していた。

集団の男女の交際には参加するが

特定のボーイフレンドは作らなかった。

美人で、快活で、ボーイッシュなスラックス姿は

実験の白衣がよく似合った。

卒業後も、こじんまりとした、ビルの中で

マイペースで仕事と趣味に生きれる調剤に従事していた。

独身主義だったこともあり、女性の友人が多かった。

ところが、37歳になって、

結婚することになりました

。。。。。意外な知らせが舞い込んだ。

しばらく彼女と電話で話をした。

37歳になったら、

子供を産まなくてもよい年だから

男性に対して、

鉄壁の気迫でそっけなく用件だけという

元来のポーズが、消えて、自然態に戻ったころ、

バツイチの歯医者さんが、

決まった時間に薬を取りに来るようになり、

「結婚の失敗話」などを話す愚痴りに、

うっかり耳を貸してしまったそうである。

「子供ができる前に離婚できたのだから、かすり傷だ」と、

愚痴を聞いているうちに



「はい!傷薬!と、

ドラッグで買ったメンソレの軟膏をあげたと言った。


愚痴止めのつもりで、

人生のかすり傷の客に渡した軟膏が

「子供を産まない結婚」もあるのではと、、、

結婚対象にされるようになってしまい、

毎日やってくる歯医者さんと結婚してみることになったそうである。


その後、彼女はビルの中の薬局からは居なくなった。

連休になるころ、いろいろな旅行先から
いろいろなはがきが来るのが楽しみだった。

あれから、、、何年たったのだろう、、、?

東海地震があったころから、、、

はがきが来なくなった。

旅行するお金があったら

寄付することにしたという、、。

旅行先の葉書が来なくなって、

私も後期高齢者に、あと3か月。

今年は年賀状も来なくなった。

独身を謳歌した理工学部のクラスメートたちは

どんな老後を楽しんでいるのだろうか?

基本的に、「世紀の恋の花が咲いた昭和時代」の

テニスの恋、以来

独身主義は、心の中で、ほとんど卒業していた私にとって

いずれは、結婚して、子供を育ててみたいと

考えは柔軟になっていたが、

30歳までには、一人前の薬剤師としての自分育てを決心していた、

成り行き上、神様は、私に結婚する道を与えた、

「結婚を通して、神様は私に何を教えてくれるのですか?」

成り行きに任せて、私は24歳で結婚した。

愛とか恋とか思いやりとか、一切なかった

医師として、医師をするための、、、助っ人探しの外科医と

父の早すぎる逝去のため、

父の残した患者さんたちを引き受けてくれる外科医が
独身主義だった私の前に現れた。

自分を仕上げている余裕はないと、

父の消えた実家の開業事情が迫ってきた。

自分の人生を貫く独身主義は

家族の強烈な意見の結果、

結婚に進路変更のハンドルが切られた。

独身グループから落ちこぼれてしまった若き日。



毛婚生活も50年経過。

孤独な育児の続いた、、、女の一生だと思いながら

75歳になる私は、

家事の合間に

某大学の夜間の講義で、老化と痴ほうを防ぐつもりの

頭の体操に通っている。

研究者の講義主は

研究のヒントをしゃべってしまわないように

気を付けているのかどうか?

戦場と言われる大学研究職員の実験から

最先端の事は講義には触れないようだ。

学生時代

のめりこんでいたテーマの顛末が講義で話されるとき、

脳神経に刺激を受ける。

「面白い、、、」と。

リラックスしながら、頭の体操にはよい時間だ。」

周りを見当たすと、

老若男女、、、講義主の教室員や学生も交じっている。」

家事ばかりやっていると、

終わりなき煩雑な単振動にめまいがしてくる。

働き方は主婦にこそ、大切な課題であると私は思う。


帰ってきても、仕事のことしか話さない主人とは

相槌だけの対話の人生であるから、

頭脳は「受け身の話題を整理しているだけだった。」

その点!!

夜の大学での講義は「非日常を演出してくれる。」

夜の講義は、1か月に2回だけ。
しかも、1時間30分だけ、

束の間の結婚前の自由な頭に戻れる、、

事情が許せば、駿河台を離れないで

大学院に通い

自分のなっとくできる自分を完成したかった。

結婚は、一拍休み!



子供を産まなくなった日本女性は、

女性が悪いのでも、社会が悪いのでもないのかもしれない。

限られた時間の人生の、時間泥棒に合わない航路を

北北西に進路をとっているだけかもしれません。




連休前に、息子に会いに行ってきました。

45歳を目の前に、

ありがたいことに、、、いろいろお話を持ってきてくださるそうですが

「45歳になっても、僕は家も、車もありません。
目下、仕事にやりがいのある毎日なので、

奥さんになる人は、、、奥さんになるという生き方が

人生の目的だという女性でないと、

人の命を左右する1分1秒が大切な職場なので

家庭に責任を持つという伴侶にはなれません、、、と

初めに、仕事第一主義を言ってしまうことにすらしいのです。

45歳になる医師なら、家も、車も、財産も

目に見えるような「子育ての巣」がないと、

アイドル性のない年を考えないと、、、

成立するわけはないと、、、話をいただいても、

親は動きようがありません。

でも、連休は混むからと、

親子会食でもしながら、家庭をするのもよいことだからと、

息子のところに行ってきました。

今の45歳の仕事漬けの医師って、、、若いですね!!!

実年齢はともかく、

運ばれてきた患者さんが、助かって

自分の腕が役立ったと実感できるとき

生きがいを感じるという、、、単細胞のような若さである。

結婚の事を考えていても、

実際に目下、家があっても管理する時間が無いという。

車での束の間の居眠りが

睡眠不足の疲れをいやすそうで、

車はタクシーで間に合っているとのこと。

家庭が憩いの場であり、車が運転でき☜、

地元の皆さんに、自然体で受け入れられる性格で、

子供を育てるのが夢である女性、、、、

つまり、、、、平和な心が満たされた時代の健康な女性なら

女性を生きることが、最も豊かな心であると思いました。

私たちの生きた時代は、

戦争未亡人が多かった。

子供を産んでも、女性は路頭に迷う時代だった。

心の貧乏が、勉強や、技術や、独立した社会性に向かわせた時代だった。

戦後の、貧困が、自立の精神を産んだような時代だった。

令和の時代は、、、、美智子様のような

自立なさりながらも、男性に寄り添って、一枚の衣のごとく

絹のような裏を努められる女性で

女性の輝く場所では

リバーシブルの輝きで

男性を圧倒する女性のしなやかさを感じさせて、

豊かな環境で育たれた女性の素晴らしい完成された生き方を

お手本のように示してくださった

昭和から平成の日本の復活の時代だったと

大切に心に刻みました。

このような時代の次に令和となりました。

昭和生まれの、どこか心の豊かさにかけていた

母親のもとで、手探りで生まれ故郷の本州に仕事を求めて

独身で頑張っている息子に、幸あれと。


この絵は、疎開地から父の生まれ故郷に帰れたとき

兄弟で父の顔を見ながら、

団らんの時に、サーと描いたものです。

右の絵が私の作品。
左の絵は年子の兄の絵です。



母を見つめながら、描いた私の絵と、父の顔を描いている母の絵です。

同じ父の絵なのに、

母から見た父の絵はまるで、、、優しい影のように揺らいでいます。



この絵は両方とも母の絵です。

今、目の前に居る、、、父を描いている母と、

母のアルバムに有った若き母を思い出して、

夢の中で描いた私のイメージする「ピアニストの母」です。



実際のモデルになってくれた父母は、この写真の人です。

楽しかったことばかり思い出しますが、

父は、若き日に

沼頭の御用邸の近くの医療施設で、外科医をしていました。

雨の日の、長靴と、笠と、

大きなソテツの木の生えている生垣のある家が

父母と長男が暮らした家です。

静岡で、北海道生まれの息子が暮らすとき

本人も、周りも、よそ者と、思うかもしれませんが、

親子2代で静岡で医師の仕事に従事している不思議な縁です。

祖父は、剣道5段で、宮内庁に勤務していたので、

沼津御用邸の事は、小さい時から、話に聞いておりました。

静岡に行くたびに、海の馨りのする公園になっている庭を歩きに行きます。

息子には、

祖父も、

父も

母も

住んでいたことのある静岡だとは話していませんが
時を超えて、地元の住民に知人が居ない私にとって

息子の気に入っている静岡で、幸せを見つけるサポートは

皆目、、、手に負えません。

弟が、しばしば、静岡の休日を楽しんでいて

交際も広いと思いますが、

気安く物事を相談できる子供時代とは異なりますので、

やがて、息子とも、ごく自然に、出逢える日が来るといいと思っています。

弟は、団塊の世代として、戦後の復活に

医学の分野で、がんと闘う早期発見や診断で

昭和から平成時代のがんセンターの黎明期に貢献できた年代です。




今は退官したので迷惑は掛からないと思うので

お話しできますが、


このゑは、カレンダーのようですが、

ポロの絵描きさんが描いた絵の印刷物です。

我らが結束して生きた、戦後の復活の時代の

4人の兄弟のように思えて、大切にしていると、言っていました。

私も、写真を引き伸ばして、自宅の母のピアノの上に額に入れて飾りました。

静岡で暮らした昭和の初めは、父母の幸せな時代であったと

昭和11年生まれの兄が、回顧しています。

第一線から定年した弟ですから、

もう、、迷惑がかかる時代が過ぎたので、

医師の叔父さんは、医師になった息子にとっては

大きな存在だったと言えるほど、

影響を受けた人でした。

休日には甥っ子の指導をしてくれる叔父さんは

仕事の話になると、、、最高の笑顔になる。


息子は、、、放射線医になることを選んだのも

おじさんの影響が大きかったと思われます。

叔父さんは、、、「神の域の名医だ、、、」と

学生時代は、叔父さんの書いた肝胆膵など、本を机に置いて

頑張っていた姿が思い出されます。

学部では、叔父さんの本が授業で使われたこともあったそうです。



、連休も、仕事漬けの医師に

働き方改革の命令が下ったとかで、

連休は「オンコール」で出勤と当直が当たって

さらに、、、忙しくなったとか>>>>?



何でなの???、、、と、聞いたらば、

「若手に、働き方改革の時間を守ったら、

中堅の腕利きの年代の医師と、副院長や、科長に

当直が回ってきたから、、、

10連休が無くなったから、、、今年も札幌には帰らないから、

秋になったら、母さんのほうで、また来てくれ、、、」


病院という職場は、

腕の未熟な医師が

休みの急患を担当するのは

プレッシャーが多すぎるのだろう?



働き方改革を、

四角四面に病院医師に当てはめると、

腕の良い先生が、

当直ということになり、

オンコールに待機することが、

患者さんの為になることはわかるだけに、

連休の里帰りは無理であった。



その結果、私の連休は、

布団干し、

庭の手入れ、

保存食つくり。


主人は、

新入職員の歓迎会や、勉強会や、医師会の会合や、、、

連休中は、、、

コンパ爺さんであった。



札幌の町は、、、

タクシーが暇で、

マイカーでサッポロ圏外への行楽で、

町はどこもかしこも閑散としていた。



連休の初日だけは、主人と二人で

札幌のデパートで開催されていた、

平成時代を象徴する

平成の時代を象徴された

「天皇皇后」両陛下の写真展示会を身に行きました。



大きなパネルの美しいカラー写真の平成時代を

美智子皇后は美しく、天皇陛下に寄り添われて

国民とともに生きてくださった

全身全霊の祈りの場面には、

主人も、私も、

足が止まってしまいました。


バンザイ岬の両陛下の後ろ姿のお写真の前で

主人も、私も、しばし動けなくなって

一緒に祈りをささげてきました。

こみあげてくる気持ちが、

抑えきれない一粒の涙になりました。



戦争を終わらせてくれた両陛下の祈りに

国民とともに歩いてくださった戦後が

終わったと、、、

感謝で、

美智子様の

国民と皇室の間の

虹の懸け橋となって輝いてくださった

思い出のパネル写真の数々が

平和への道とつながってきた平成時代を

写真展で、私たちも心で渡ってきました。



新しい「令和」に時代を象徴される

天皇陛下の、幼い時の

人間味あふれた

ご家庭のご様子に、

親しみを感じました。

「令和」時代に生きる孫子の時代も

どうか、、、どうか、、、

戦争のない時代でありますように

祈りとともに、

平成時代の戦争のない時代のアルバムを

出口で、

しっかりと買い求めてきました。

私は、、、

幸せな時代を生かされてきました。


令和元年。

10連休は、緩やかなお気持ちで過ごされることを祈りながら

ベランダに布団を干す、

幸せな75歳です。



桜満開の札幌の5月初めでした



初心者の写真、、、クリックする毎日です

2019-05-09 00:06:38 | Weblog

富士山を写真にするなんて、、、

初心者が出来る技ではありませんよね、

素晴らしい作品に見とれている私です。

、素敵ですね、、、富士山!



富士山と一緒に移っている小さな私です。

北国は青年期の火山国ですが

洞爺湖のほとりの

ホテルの廊下から見渡せる山の誕生は圧巻です、

昭和新山から、洞爺湖まで、山の誕生物語の風景です。

富士山の優美で雄大で芸術的なシルエットとは

又別ですが、、、

「初心者の写真」、この方がもし、、、

撮影されたなら、素晴らしい作品になるでしょう、、、きっと。

私が、バカチョンカメラで撮影した洞爺湖ですが

画面に収まり切れない圧巻の「山の誕生」

昭和新山から羊蹄山、、、洞爺湖、、、成長する地球でした

戦後の大学受験生の挫折

2019-05-08 06:44:20 | Weblog

戦後の復活に向かっての若者たちの登竜門は

なんたって、、、目指せ東大!でした。

旧制の東京府の時代にできた公立高校は

日比谷、新宿、両国、戸山 、、、、まるで東大予備軍の学校でした。


大学受験の顛末は

合格すれば官軍

不合格は賊軍?

中学に進学すると

「受験」の強風が竜巻きさえ起こしかねない勢いで
生徒たちを巻き込んでゆきました。


男子学生たちは、
共通テストの「アチーブ800点越え」を目指して
東大に近道の高校を目指して、

まるで、東大合格が、敗戦からの日本を背負えるか如く
「東大合格が目的」「目指せ東大」「東大以外は目に入らない??」

女性の私から言わせると、
男性は生きるためのライバルが強すぎる。
混乱した戦後の社会では
国立大学もリーダーとしては絶対の強さはあるが

国立と言えば、なにやかやと、
箸のこけたのまで取締の規則ずくめで、
戦乱の後のめちゃくちゃ社会の立て直しは
規則より、機転で合法的に目的に向かう社会派の
私立大学の働きは
研究と臨床の両輪があるように

左近の桜に相当すると、私はごく普通に考えていた。

愛でたく両国高校を突破して、10番前後に鎮座した兄上は

当時、80~100人は東大に進学していた実績から、

10番を堅持すれば「東大は合格できる」と

点数獲得人生にまっしぐらの、、、兄貴だった。

頼朝は、、いちいち国を支配する!、、、兄の年代暗記の唱である。

頼朝は、、、いい国創ると武士の世に、、、私はこちらの覚え方でした。

東大に入学できると信じていた兄は

「三四郎池を観に行こう、、、夢二の絵を見に行こう、、、時計台を、、、」

日曜日になると、東大散歩をしながら

銀杏並木に感動しながら、

「銀杏の木は「亜科」という、、、紛らわしいものが無くて良い!」

「銀杏の実の銀杏は、茶わん蒸しにするとおいしいよね!」

答えになっていない会話をしながら

兄と妹は東大の広い敷地を抜けて、上野公園や

ハスの花咲く不忍池まで上野界隈から、歩き続けた。

慈恵会病院の医師だった時代
父は大陸の大学に西洋医学の指導と銃後の御奉公の時代有った。

大切な幼少時代、兄は自由な国語を学ぶチャンスを逸していた。

日本語の持つ詫びや寂び、、

千年単位の時間で熟成された短歌や和歌など深くは理解していない。

古池や蛙とび込む水の音、、、静けさの岩に染み入るセミの声も

作者の意図した情景は、、、丸暗記という気配があった。

物理化学は得意で、一橋大学を突破した親友が

しばしば兄に教えてもらっていた。

穏やかで、常識的で、英語や国語の深い意味を察知する友人であった。

その友人が、、、

「ちーちゃんは、僕らのグループではダントツに頭が良いが、、、
融通が利かないので、、、、東大受験に絞り込むのはどうだろう?
他も受けたらいいと思うよ。」

私には、思ったことをニコニコという学生だった。
「根拠はあるの?」

「、、、ん、、根拠とまではいかないが、
東京大学を近視眼的に見てるよね。
受験というのは、研究ではないのだから、
人間的なバランスが試されると思うよ。」

世界史なんか、、、選択するのは不利だよね。
しかも、電話帳みたいな厚い本を選んで、年代も地図も丸暗記!」

「東大って、、、知識を試すより、
何故戦争が起こったのか?
キッカケはどういう事件が原因か?

それが原因になった世界の国々の利害関係はどうか?
日本という国の世界の中の座標はどのあたりか?

自分的に、知識の総括をしないと、
東大は、知識を試すほど問題はシンプルでないと思うんだよ。」

だから、僕なら「日本史」と「社会」を選ぶと、言っていた。



兄には、、「桜散る」の電報が来ました。

私立医科大学に進学した兄は、目的を失ってしまったのか?

人間そのものが変わってしまいました。
東大に入学したら、学問一筋に、頑張って、
日本の戦後に復興の貢献を通り越して
世界に追いつき追い抜く夢に活きたかった。

お金のことを考えないで活きれたら、
学問は足下に有った。、、、などと、、、ぼやきながら

「良いか!お前たち!(弟妹に向かって、眼を吊り上げた!)」
兄の言いたいことを要約すると、兄の世界観もぼんやり見える。

東大にしんがくできたら、ドンはスイスあたりの世界の頭脳が支配者だが

僕は「金が要る人生に行かざるを得ない。」

「金が無いのは頭が無いのと同じ扱いを受ける社会の海を泳ぎ切らねばならない。」

「親父の残した開業の医療施設は僕が継ぐ。」
「お前たちも、公立は無理だろうから、僕が学資を稼ぐから、
相続の放棄をする反を押してくれ、、、」



兄は、立場上、東大に合格していれば、
親も、兄弟も捨てて、学問をとるという選択肢には
異論がないと思っていたみたいである。

戦後のドサクサ時代の東大合格と不合格とでは
廻りの理解度が異なっていたのでした。

            つづく(^^!

生きてゆくという事は柔軟性が大切かもしれませんね

2019-05-07 05:38:10 | Weblog

わずか75年の命を生かされた経験では

物申す何ものも、何事もなく

戦争中に生まれたという

その後の心の貧困にならないための

物質欲と、

自分にこだわる勝気な戦いだけは

避けながら、、、避けながら、、、

選ぶことを極力しないで

最後に残った、

人がやりたがらない仕事を担当することで

男3人、女性一人、戦争の生き残りと

疎開地で生まれた「戦争を知らない希望の子」を

母にとったら、巨大な喪失感のPTSDを

疎開地で乗り越えたのだろうと

75歳になった私は、しみじみと振り返り

今頃になって、

「心のエネルギー」が「リカバリー」によって

復活するか、どうか?、、、

父の捨て身の判断だったと思うときがあります。

東京の丸の内線の真ん中で

ごくごく自然に

明治維新の文化の切り替わりを体感しながら

慈恵会医科大学で医学を学んだ父が

口癖のように、おりにふれて言っていたことは

「病気を診るという事は病人丸ごと

環境や、人間関係丸ごと診るという事を心がけ乍ら

厄介なのは、

格差社会と

戦争のもたらす心の欠損が

依存体質や、

殻に閉じこもってしまう事や

柔軟性に欠けることが

無意識に心の障害となって

本人の循環系から病気に発展することが多いことに気が付くのだよ。」

心が満たされないと、心の中の自我の爆発的なエネルギーが

とんでもない行動に出たり

上下関係のある職場のルールが

自分の前に立ちはだかる障害物に思えたりして

心が満たされているときにはありえない

他人のせいにしてしまい

常識を逸脱するという、、、はけ口をみつけてしまう、、、。

病気で来院しても、原因の解らない訴えで、あちこち痛がったり、、、

戦後の貧困家族の中には

家庭内のしわ寄せが、病人をつくってしまったり、、、

娘の行基の原因が母親の孝導に有ったりと、、、

「お父さんはね、、、医学というよりは、、、

患者さんが先生であったことを、

物語のように話してくれました。

戦前は「お坊ちゃま」として育っていたであろう、、、父。

慈恵会病院の本院で博士論文の出来上がった年に

富国強兵時代の政策で

外科医は戦場に行くことで

御国への御奉公に勤めることになりました。

外国の地で、男の子2人、女の子一人、

流産が一人、、、

ボロボロになって、戦後の日本の

疎開地に、七つの村で

唯一の外科医として

日夜、、、、いつ眠るのかという激務をこなしながら、

戦地での勤務を思えば、

今は、夢ではないかと、

と中に目が覚めた、、、と言っていた。

大陸からの連絡船の最後の便は、

窓が完全に閉められて、

外が見えない海を渡って帰還できたと言っていた。


小学校6年の時
私は両親とともに

東京の下町の

お寺の跡地に母と兄弟で帰ってきました。

父は疎開地に残り、新規開業の為の準備をしていたそうです。

父の故郷は市ヶ谷の文人道りの近くで、

早稲田中学に通っていたそうです。

弟の叔父さんは早稲田中学を出て、

戦後、学徒出陣から、生き残って帰還したあと、

28歳で早稲田の理工学部に進学して

学生時代に出逢った学芸大学を卒業した先生と結婚しました。

明治時代に生まれた祖父は現在の筑波大学の前身の

師範学校を卒業して

27歳でアメリカに留学して

晩年は校長先生やら、町長さんやら、

三つ揃えの姿しか覚えてないほど

戦後の復興の社会参加で飛び回っていました。

父が東京の家族と合流できたのは、

御爺ちゃんやお祖母ちゃんが

開業資金を貸してくれたことが大きかったと

晩年は、毎月、祖父に生活の感謝金を渡す名目で

健康管理に行っていました。

東京に父母が合流できたとき、

私たち兄弟は中学生でした。

兄から見た父、

母から見た父

私から見た父

思い思いに畳に円陣の家族は

喜びで、絵を描きました。


同じモデルであるはずなのに、、、

兄弟という同じ環境で育っていても

父母は別人のように表現されています。 
<人は、見る人の次元で表現されるから

本当の父母を知っているには、、、

各人の「心の造詣の深さ如何によるものであって」

あの人は、、、

こういう人である、、、という形は無くて

千差万別であることを

このときに思ったのでした。



まして、

自分が思う自分は、

自分を見ている人の数だけあるという事だと、

形亡き父母の姿は

永遠に私の心の中に住んでいるのです。


そうなると、、、写真が映し出す「形」というのは

光によって違いますが

人間の心の器を正確な陰影で映し出していることだけは確かです。

人って、、、いったい???、、、何を持って、、、「人」なのか?

このえを描くことで、

私は一生涯、、、化粧をしない自分で生きてきました。

美容院に行って、パーマをかけたのも、

3回ぐらいです。

伸びてくるままの髪型で、

長すぎるときは、

おさげにして、鏡を見ながらバッサリと

自分の勘に頼って

長さを決めました。

文字道理、、、髪は私の友達でした。

友達は、、、髪、、、だけだったかもしれません。

社会に順応した、ルールで生きてきたので、

親友というのは、

相手が私を親友扱いしてくれる人が

親友だろうと、、、

心の扉は開けていたのではないかと、、、

小さな垣根を張り巡らしていて

垣根の内側から話に応じていた他人のような自分が

笑顔で、過ごしてきたような気がするのです。










皇居に祝賀で集まった人波をTVで拝見

2019-05-05 01:27:29 | Weblog

サッポロは、今日の日を喜びの夏日で迎えました。

24度という、5月の気温とは思えない夏日でした。

令和時代が始まった今日、天皇陛下のお目見えする皇居には

人、人人、、、の祝賀の波が、TVで拝見することが出来ました。

世界の中の日本を、

平和にお導き下さる文化を

祈りながら、

世界中の国から、戦争が無くなることを祈りながら

日本の富士山の水が、平和の証の名水になればいいですね。

このブログに、

「初心者の写真」というサイトが

来てくださっていますが、

今回も、

富士山とお茶畠の日本の美が拝見できます。

この美しい国に、

穏やかな快活な、

天皇陛下が即位されて、

心から、お祝い申し上げます。

皇室の儀式をTVで拝見しながら

日本には、伝承されてゆく文化が

日本人の心そのもののように

世界にも知っていただきたい宝物だと思います。

天地地球、太陽、光、生命という大きな枠で

地球丸ごと、平和に導いてくださる

「水」という、

世界共通の命のもとを思うとき

平民庶民とともに

在り続けていただきたいと願いながら

希望の光と、

湧いてくる力を下さるのは

何千年もの「時間」という

不思議なもので、熟成されて在り続けたという

皇室の文化だと思っています。

高齢者のわたくしの、

私的な、未公開のブログですが

日記のように、

今日の本音を書き綴っています。

これからの、老境を平和の中で生かされてゆきますように

祈ります。


令和の時代が始まりました

2019-05-02 02:55:05 | Weblog

謹んで令和の始まりのTVを拝見しながら

平成天皇が、令和の時代には、上皇となられ

国民を見守ってくださりながら


あたらしい元号の「令和」に
引き継がれました。

天皇陛下になられた今日という日に

菊の紋章の花びらのすべてに

独立した美しさが集まって、一輪の花となる美しさを

TVを拝見しながら 感じておりました。

平成時代を国民とともに いつも寄り添って下さり

明日への勇気と希望と

光の方へと導いてくださった天皇陛下が

再び若くなって、

令和の天皇陛下に引き継が得てゆく今日という日に

孫たちに、

羽田空港で買った菊の御門の入った最中を

食べてもらう事にしました。

やがて、、、孫たちが成人して

令和になった5月1日に

祖父母から渡された「菊の御紋の入った最中」を

思い出してくれるでしょう。

日本の文化は

皇室によって

伝承されて来たことの重大なことが

令和の時代に引き継がれたことは

お目出度い感謝の気持ちで

TVに見入った5月1日でした