花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

豊かさを感じる番組が元気を下さるのですよ。

2018-07-25 16:07:28 | Weblog

主婦の仕事は終わりがない、、、

暑い夏の日差しは、、、布団を干して

洗濯物を干して

夕方まで、TVを見ることが多い。

コマーシャルタイムの長い「相棒」は

観終わるころには、ボタンのとれたシャツが出来上がる。

コマシャルタイムのない「NHK]は

相棒の直前一時間が、痴呆防止のリハビリ―で

学生時代に還って、思い出しながら、

「地学」や「化学」「物理」を拝聴する。

大学時代の夏休みを返上して、

教職実習で化学や物理の講義に奔走して

薬学単位の他に100単位以上の取得に汗だくになっていた。

自分の知識が理工学部に偏ってしまうと、

大学院まで行ってスペシャリストになる道しかなくなると

短絡しがちな不安もあった。

すでに、父が早逝した今は、社会からニーズのある自分になって。

この、男性社会を、

独身でどうのように、、、乗りり切るか?!

自分なりに、理論武装をしていました。

心は決して、、、豊かではありませんでした。

杉並区の中学の科学の時間、

パスカルの気圧の講義をするのに、

父の遺品であった「500ミリリットルの注射器と

薬学で使う分銅を使って、

生徒に順々に

分銅を「注射器のピストンにくっつけたボール紙」に

乗せてもらった。

赤く染めた注射器の中の水が

分銅によって動きながらも

パスカルの原理を

視覚から見てもらえたことが自己満足であった。

 

試験は、ほとんどの生徒が正解で、

授業は、教科書を説明するより

道具をそろえてあげて、

「自分でやってみて、何かに気が付くまで遊ばせる方法が

無理なく、知らずに、、、

教えられるのではなくて、考えるカラスになると思っていた。

自分で発見する感動が、

試験も正解に導くと思った経験である。

 

祖父も、母も、おじさん夫婦も先生であった。

先生、、、って何なんだ?

「すぐに、、、ダメの方向の説教になる、、、?」

知っておくこと、教職をとって免許を取るまでに

祖父や、母や、おじさん夫婦の言葉が理解できて、

私も、、、話に入れるだろうと、、、甘く考えていた。

教職実習を終了するころまでに、

教案を、毎回提出して、

実習の担当教官に見せて、

この通り授業をしてもよいという許可のハンコをいただくシステムだった。

「実験に関しては、劇薬や強い「酸」や「アルカリ」や

爆発するもの、火が付くものでない限り、OK の認め印を下さった。

*************

つまり、学校での授業には

「講義を許されるもの」「実験も許されない実験」がある。

****************

祖父も、母も、おじさん夫婦も、、、

理屈っぽくて、堅苦しくて、ルールが何にもまして先行するのは

もしかしたら、職員室のルールをまず守ってから

物事の本題に入り、講義の目的を果たさねばならないという

自分が自分自身で在ることの前に、

「教案」を掻くという、、、ちょっと待った!が、

いつも行動する目に有ったという人生だったのかもしれません。

皆、、、常識があって、いわゆる正しいこと、正しくないことに分類される。

スタンダードな無難な価値観も、、、おっしゃることは筋がとおり

ご無理ご最もで、

「清く正しく美しく、勧善懲悪黄門様」でした。

全ての物事の孝導を起こす前には(**

つまり、、、、正しいこと(^^、、、

正しくないこと(--!に、、、、、大きく分類されたのです。

 

「頭(づ)が高い、、、下りおろう、、!」の一言で

 

こっそり買ってきたミニスカートは、正しくないという分類に入りました。

説教されて取り上げられた、

ポリで創られていた、、、

ナンチャッテ森英恵さんのイミテーションものの

チョウチョと花のワンピースを

バイトしたお金で買ってきて、ウキウキしていたのに、、、。

大学祭のダンスタイムに着てゆこうとしていた時、

同じ日大生だった兄貴が

「生地が安っぽいから、義姉に選びなおしてもらえ!

代金は僕が払ってやるから、、、」

ストップをかけられた。

同じ日大と言っても、

兄きは医学部であり、

患者さんの手前もあって、本物志向はわかる気がする、、、が、、、

学生の私には、介入されたくない思いが先に立った。

安かろうが、、、生地がシルクでなくて、ポリであろうと

大学祭の一瞬が、

周りの色の保護色になれば良いのだから、

派手なワンピースだけに、

青春の一コマの一瞬の華でいいではないか?

「品が無い。」と、母や、おじさん夫婦の援軍を連れてこられて

母にそのワンピースは取り上げられてしまった。

先生と呼ばれる集団の中で、

私じゃないヨネ、、、、と、、、言いたくなる鏡に映ったお嬢様。

母好みの床上30センチ、

プリンセスラインのワンピースが届けられた。

妃殿下なら、、、お召しになってもお似合いだと

心から、母のセンスの高さは認めていますが、、、

こちとら、、、

日大理工学部の学際ですからね、、、

もっとハジケテ!もっと派手派手な華があって、

ジルバとか、ルンバとか、ツイストとか、クイックとか、

キューバルンバとか、、、大騒ぎしたいのですから、、、。

 

ワルツで大輪の花のように会場を回りながら踊る服を持ってこられても

浮いてしまうと、、、思った。

自由に使えるお小遣いはくれない、、、。

アルバイトのお金は、使ってしまった。

学校祭には体育の時間に着るトレパンと、

黒いTシャツに

500円のハワイのレイのような仮装衣装の小道具で

とりあえず、ツイストなど、

かぶさったり、かぶせられたリするほど

壱メートルの男女間の立ち位置が

ハジケテ、盛り上がっていたっけ!

これも、青春の若さであったと

衣装はトレパンでも、

心はリッチな、軽いノリの楽しいひと時で有った。

ストレスを開放して、体を思いっきり動かせるトレパンは

最高に動きやすくて、すっきりしていて、

私には「自分の時間」をすごさせてくれました。

豊かな心で、

自分発で

青春のひと時を発散させてくれた自由な校風。

志賀高原の近くにも

丸太をふんだんに使った山荘が有った。

スキーの季節には、

お茶大の友人も誘って山荘のクリスマスに参加した。

お茶大の友人ばかりが、、、モテモテで

ESSの同僚からは

「君の友達って、、、最高だよ!まぶしいよ!」

友達は、自分より、、、

背が低くて、地味で、眼鏡をかけていて

ビヤダル系の

キュート系を同行することが大切だと

そのとき、つくづく、、、思った。

山荘や、

キャンパスを使わせてくれた

日大に感謝しています。

学門は求める生徒には門戸が開かれていたし、、、

 

創業130年の間には

戦争もあり、日本全体の貧困もあり

 

入学したとき、

「日大は社会の縮図だと思えた、、、」

あの日のことを

私は、、、忘れない。

いろいろな学生が居て、たくさんの施設が使えて、

先生は「日本のエース」の国際人で

勉強するも、、、しないも、、、自由であったが

進級試験に合格しないと、

落第生をたっぷり抱えられる教室が有った。

肩ひじ張らずに、自分の求める教育が与えられた、、、日大。

頑張る人、、遊んでばかりの人、、、天才とバカボン。

包容力のある社会の縮図のように、

自分なりに頑張れば、、、居場所が有った。

これからも、「日大卒」のスキルがあれば、

心が豊かに、人生が送れそうです。

 

 

 


故郷は、北海道に早変わりしていた、、、光陰矢の如し

2018-07-17 09:22:41 | Weblog

実家が売られてしまった寂しさは

もうないけれど、、、

東京や、息子の住んでいる町の

借家や、売り家、、、マンションに、、、土地、

日本中のユートピアを探して

検索するのが、、、老後の、、、趣味になってしまった。

若き時代には「手に届かなかったリゾート、、、別荘地が、、、300万円。

古い家なら150万円の山林の中の家もある。

着く50年前後、、、

別荘地は、「おじいさん」と「おばあさん」の

滅びゆく村になっているのかもしれません。

風化して自然消滅しそうな

陸の孤島の売り家もある。。。

私たちの許された時間は10年あればよい方であるが、

一度は、、、生きねばという、、、仕事を忘れ

生かされて、浮遊できる山間の別荘を夢見た時代もありました、

しかし、、、戦争で焼夷弾に焼かれた東京から

自然の神様の居た和歌山県の熊野の奥に疎開した。

防空壕で生まれた私は祖父母のルーツの和歌山に

13歳まで住んでいた、

豊かな心をいただき、豊かな自然で遊ばせていただいた。

南紀の川も洪水で橋が流されたり

民家が流されてゆくのを見た。

電気もなかった、

円い形のヒノキの風呂が大好きだった。

洗い場は太い竹を並べた独特の感覚が足に伝わってきた。

ランプに灯油を入れて、フードを持ち上げマッチで点火すると

石油くさいにおいがして、風呂場はボート明るくなり、

風呂桶の下には砂山が盛ってあった。

井戸から水をくみ上げて、風呂場に運ぶのは

父の健康法にかなった筋トレであった。

2歳半のとき、右手にやけどをした私は

父と一緒に風呂に入り、湯の中で、右手のマッサージをしてもらった。

「、、、のう。。。」ため息とも、悲しみともつかぬ父の声が

今も聞こえることがある。

疎開地という古い古民家の点在する集落は、

「東京から名医が来た」と、にわかに人口が増え始めた。

医療機関のある近くへと、引っ越してくるものや、

転校してくる病気がちの生徒や、

にわかに、2000人を超える、疎開地となったのが、

50年後の今日、またもとの300人ぐらいの村落に戻ったのは

戦争が終わったと、、、疎開地が雄弁に語っているように思えました。

この、、、わずか13年間で

お金があろうとなかろうと、人のモノはほしがらないという

豊かな心を自然からいただきました。

父は必要とされていた,

「七か村,唯一のなんでも診てくれる医師」として

神様のように拝まれていました。

父母の居るところでは、大切にされる[医者の子供]たちは

父母のいないところでは「よそ者」の蚊帳の外に出されていた。

正月の、村の餅つきのとき、

弟と、私が父母より早く餅つき会場に行きました。

ワクワクして、弟の手を引いて、会場に着きました。

30人ぐらいのオジサンやおばさんが、

大きな臼に御餅だねを入れて、ぺったん、、、ぺったん、、

子供たちも、ねじり鉢巻きで奇声を上げて盛り上がっていました。

私も、弟も、うれしくなって、子供たちの中に入ろうとしました。

しかし、、、そこは、、、複雑な成り行きで、

いつもは優しいはずのおばあちゃんが、

自宅の西洋館の地下室を開放しての会場であり

しかも、村の婦人会のリーダーでもあり

弟と私は「おばあちゃんの家で餅つきをする会」と、

すっかり思い間違いをしていた。

父母もきっと、思い間違いをしていたのではないだろうか?

「おとさんと、おかさんが来てから、

あんたらは、一緒にここにおいで、

ここは、、、村の餅つきやさかの、、、

???????????????????????

お客さんは餅がつきあがってからおいで、、、。」

私と弟は、しょんぼりして、父母が来るまで、

餅つく会場の入り口の近くの

壁にもたれて、父母を待ちました。

しばらくして、父母がやってきました。

手のひらを返したように、特等席に父母と一緒に座り、

子供たちも、仲間に入れてくれて、

婆ちゃんがニコニコしながら父母にサービスするのを見ながら、

子供ながらに多くのことを感じる餅つき大会だった。

集落と、よそ者、

そして、唯一の医師の家庭。

このとき、小さかった弟が言ったことを

今でも、、、忘れることができません。

「お姉ちゃん、、、僕自身に、すごい力がないから、

お父ちゃんや、お母ちゃんが居ないと、仲間になれないんだよネ。」

「お姉ちゃん、僕も医者になって、村の皆に呼ばれる人になるからね。」

このとき、私たち兄弟は

自分自身、、、本人に力がないと、どうなるか!

思いっきり、、、

恥をかく人生が待っていることに気が付いたのでした。

 

昭和30年になろうとするころ

村人は良い人たちばかりであったが、

戦後のインタナシヨナルな教育を目指さねば、

アメリカの占領軍の居る日本を守るのは

息子たちの時代だから、、、

新しい教育を受けさせなければならない。

父の父、、つまり、、、御爺ちゃんは

宮内庁に勤めていた。

当時

父は宮内庁の人々が患者さんとして来られる「慈恵会病院」から

戦争の激しかった大陸に

総合病院の院長として、鉄砲や、弾丸や刀傷の治療を

現地の、医師に指導する役目を仰せつかっていた。

現地の大学に相当する大学病院の医局には

西洋医学の外科の医局に相当する教育機関がかけていたらしい。

提供された総合病院の院長という立場で

父の国への銃後のご奉公が

「現地の医師への西洋医学の教授」であったようだ。

日の丸の旗の交差する病院で

提灯袖のような、コックさんのような

不思議な白衣を着用した日赤の看護婦さんが並んでいた写真は

父の後を継いだ兄の院長室にも保存されていた。

実家が売られてゆくとき、その写真だけは歴史を語るので欲しいと申し出たが

成り行きはよくわからないが、

痴呆と診断された夫人の安全の為に

夫人を施設に移し、

自宅は転勤する施設の母体となっている病院に一任して片付けたと言った。

父から譲り受けた医療施設で、法人にしていなかったこともあり

きっと、、、税金が95パーセントだったのだろう。

230坪の東京都の土地が、5000万円だったなんて、、、

信じるのは、兄弟を信じるからであって、

施設入寮雑費で、兄弟に分ける分は無いと言われた、

一円のお金も取り分はなかったが、

父が真ん中で写っていた「あの写真」だけは

探してもらえないだろうか、、、と

パニックになっていた兄に申し出たが、

結果は、、、どこに行ってしまったかはわからないという事だった。

兄には内科医になっている息子が居るから、、、

もしかして、そちらで保存してくれていれば、

貴重な戦時中の医師の服装や、日赤の看護婦さんの

占領地での服装が映っている

医療現場の外科の様子が分かる写真だったのにと、、、

残念で仕方がない。

 

終戦に向かって、野戦病院での診療所の指導や、

敗戦色濃くなった昭和19年代に入ると

軍のトラックで野戦病院に従軍することもあったそうです。

医師たちも、武器を背負っての訓練に参加したそうです。

戦場でも、現地人のお産に立ち会ったり

耳が痛くて、悲鳴を上げる子に、

懐中電灯で、耳の中に入り込んだ虫を外に誘導したり、

足の切断、手の切断、止血、顔が割れて骸骨の露出した兵隊。

野戦病院では、キリストに出逢ったと言っていました。

父は、野口博士の話をしてくれながら

右手がやけどで使えなくても

医師になって、アフリカで研究生活をしたことを話してくれながら

「お父さんが、必ず、右手をもとどうり、治して見せるからね、」

毎晩「タルク」という城委粉で、小さな指をマッサージしてくれました。

毎晩、、、ちいさな指の成長に合わせて、

指の骨が曲がらないようにと、肉を切開して、

ラケットのような添え木に指を固定して

黄色い消毒液のガーゼを毎日交換するという

普通なら、ありえない根気のいる患者を抱えていtのでした。

節目節目に七回の手術をして、全快したのは17歳になったときでした。

戦場で命の瀬戸際で戦ったお父さんの患者になれたことを

感謝しています。

一切の金銭は無くても仕方がありませんが、

あの、、、白黒の、、、日の丸の旗がが交差した真ん中に居た

父の写真は、、、欲しかった、、、と。

嫁にいってしまった私が持ってる理由はなくとも

父親であると同時に、

私の右手を、、、とうとう治してくれた恩人でもあるのです、

54歳で、過労死してしまったことが、残念です。

その後の母の人生を兄が支えてくれたのですから

頑張ってくれたと思いますが、

奥さんが痴呆になってしまっては、

仕方がありませんね。

私は、独自に日本の医療の歴史に興味を持っていましたので

漢方学や、荒木先生の方術親和会の講習会は

植物の薬効と日照時間や、東西南北の畑によっても

薬効が左右されたという記録が有った。

例えば、、、桑白皮。

植生からくる薬効などを知りたいと思い

数年の間、会に通いました。

その後、北大の三橋教授の生薬学の本に出合って

ツムラのエキス剤漢方薬になった日本の漢方薬の成り立ちが

知りたくなって、北大の生薬学の聴講生になりました。

その時は、すでに生薬学教室は三橋先生はおやめになった後でした。

三橋先生の植物園の世話を一手に引き受けられていた助手の先生に

学門というよりは、薬草の栽培の仕方を教わりました。

現場に強い助手さんは

絶滅寸前の「ムラサキ」などを、医療大学の薬草園の山中に

群生して、よみがえらせていた現場の凄腕の先生でした。

ヒマラヤの登山の時の話がユニークでした。

例えば、ここから先は植物が無いという境界線で

コケ類の最終をして、乾燥させて標本にしていたり、

植物園の世話を現場でされていた助手さんだけに

当帰という植物を探して

裏日本と表日本を採取して回った結果

茎の赤いものと、緑のモノのが

地域によって植生が特徴あると、説明してくださった。

貴重なデーターは御茶ノ水女子大学の先生をなさっていた

佐竹先生が、興味を示されていた。

佐竹先生は「世界蘭の大会」のようなイベントにも

中枢でご活躍しておられたようで

たまたま、、後楽園の欄の大会に友人と観覧に行ってた時、

パンフレットでお名前に気が付き、

幅広く植物とかかわられる先生方の

大学では生徒には見せないご活躍のあることを知りました。

後日、名寄の方の登山に参加したとき、

北海道のアイヌ民族の末裔という男の人も参加されており

佐竹先生は「イケマ」tぴう植物について、

コイケマと「イケマ」はどこで区別しているのかな、、、などと

気軽に、話されながら、薬草の採取をして歩きました。

佐竹さん生は、食物に関するお茶などにも深い興味を示されている一方

マチュピチュのまだ観光が盛んになってない頃、

岩山に張り付いて丸太の橋を渡りながら

マチュピチュのてっぺんまで

薬草探索されたスライドを、地方会でみんなに見せてくださいました。

もう一度、、、ゆくのだけれど、、、どうかな?

現地の人が案内してくれるから、今回は楽だと思うので

一つ調べたい薬草を見つけているんだと、

眼が輝いていらっしゃいました。

あれから、先生は、、、また、マチュピチュにいらっしゃったのでしょうか?

薬草探索をしていると、

いろんな大学の、先生方の世界へのアプローチの発表があって

人生が、、、時間が足りないと痛感する思いに突き当たります。

少子化、、、子供を産まなくなった女性、、、、

子供を育てることと、両立しない世界が見えてきます。

少子化の原因は保育園が足りないのでもなければ

諸々の設備の姓ではないような気gしてくるのでした。

聴講生の時は、助手さんの企画で

お仲間の探索会に参加させて戴きました。

富士山の植物探索に青木ヶ原に行きました。

海の底に居るような湿気のあるコケの森を探索しました、

それから、5合目までの植物の観察をしながら

土砂降りの中を下山して、浅間神社の狛犬の下で眠りました。

医療と言っても、薬学に進学したので、

患者さんとは触れ合うことなく

薬草から、治療への基礎的なことに興味が向かいました、

当時。生薬学会の会長をされていた日大の滝戸先生も

北大の生薬学の先生方と研究の交流をされており、

北大の聴講生という身分が証明されていたので、

韓国の合同学会などにも参加させていただき

済州島の植物探索会に参加できました。

そこからは津島が見えました。

帰国してから、対馬に登山を兼ねて、植物の探索に行きました。

山中で、ちょっと変わったサンショウの木や

椿の原種を見つけ、種をいただいて帰ってきました。

その種は、眼を出して、鉢植えにして、夏だけ外に出しています。

一階だけ、一重の花を一つだけ咲かせました。

椿も故郷の津島が恋しかろうと、、、思うと、

私が死んだら、この椿はどうなるのでしょうか?

******************

後日、偶然の縁から、東京大学のS先生にお誘いを受けて、

医薬史学会の参加に薬剤師会のメンバーとして参加させていただいたとき

イギリス、フランスの旧い時代から

今日まで健在の病院のシンポジュームに参加しました。

会では、スライドを使って、何百年も続いてきた病院の発展を

歴史資料として、見せてくれるゼミを開いてくださいました。

そのあと、病院の歴史館に案内してくださり、

紙質の良いフランス語で書かれた「病院の歴史」の一冊をくださいました。

表紙の扉には、歴史観の館長をしている方のサインもくださいました。

その建物には戦時中の医療を油彩で書かれた絵がかなりありました。

画廊になっており、その中の一枚に

野戦病院で働く医師のわきに

キリストが、空中に現れた絵がありました。

戦場という

「究極のすさまじい環境の中で、

傷病兵の治療に当たる医師のそばのキリスト!出現の絵画、、、」

これは宗教でもなく、

万民の

万策尽きた状態の時に見る「神」が

キリストのように見えたのかもしれません。

戦争という罪は

キリストを打ち抜いた十字架の楔のように

罪の深い状況だったのではないでしょうか。

傷病兵も、治療に当たる医師も

キリストのように

人間の罪の究極の地獄に居たのではなかろうか、

遠くイギリスやフランスの病院の画廊で

幼いころ父から聞いた「野戦病院でキリストを見た」という

戦場の究極状態での、いっぱいの水を下さったのは

やはり、、、キリストだったのだろうか。

父の話にこうした具体的な画廊で出会えるまでには

多くの学門の先生に出逢いながら、ここにこれたことを

深く感じるものがありました。

イギリスにおいては

(医薬史が、エーザイから、まとまった翻訳本が出ていますが、)

その原書が地下の本屋さんで売っており、

ここに来た人だけに販売していて各国には発送していないというので

4キロもある原書を、トランクに入れて、帰国しました。

ウエルカム医史博物館の中では、初期のCTも展示されていました。

札幌にも今世紀に入ってから、大きな病院が建ちました。

創生期の医師たちは、国境を越えて、大きなビジョンをもって居たようですが

日本の医療には政治や地域が深くかかわりながら

地元発の病院から徐々に徐々に

行きつ戻りつ世界の医療に足並みそろえてゆく経路をたどるのかもしれません。

ヨーロッパのある病院の発祥は

行き倒れの貧しい病人を、

修道女が教会で世話をし始めたのが始まりという500年も前の病院の中に入らせていただきました。

「俺はやった!」「俺が、、、俺が、、、」という歴史は残っていなくて

歴代の院長の時代にどのような医療がされていたかという資料と医療機械。

世界からの留学してきた医師の資料。

その時の時代の王様とのかかわりの資料。

株式会社の経営する今日の病院の条件とはかなり違う医療状況だったようです。

イギリス医学を学んだ父の言葉を思い出しながら、

教会の4庭に建っていた精神病院の祈りの姿に出逢い、

日本の病院は、医療の世界が世代ごとにフォーマットされて、

特殊な疾患で苦しんだ人々も

医療とは別に、

政治のかかわりで、

時代の考えのもとに処遇されてしまった一面があり

正しい歴史が残ってゆくのはむつかしい国だと思いました。

疎開が終わるころには、

医師の子供たちは

やはり、、、医療関係者として生きてゆくことが

先代の残した見えない精神的なあり方という財産を失わないで

人々にとって必要な仕事がこなせるのではないかと思いました。

医療技術の他に、

医療にたち触るものは

白衣の心で患者さんに接することが

先代からの深いメッセージだと思うのですよね。

自分個人の見解や体験を大切にしすぎると

大きなことを見落としてしまうという、、、人間は心が絡んだ疾患も多いという。

患者さんが先生だと、、、父はよくつぶやいておりました。

ダビンチというロボット手術で

前立腺疾患が、予後が良くて

ある種のジャンルでは、

人間の医師とロボットの共同医療の時代になりましたが、

父や兄や弟、甥や従妹、、、三代以上続いている医師と

一代医者として、

戦後の貧乏の時代から

北海道という新天地の医師になった人の考えは

大きく違うところがあると思いました。

北海道では医師が社会的な地位が、本州より評価されているという事です。

本人も、周りが接する接し方で

自分を認識してゆくわけですから

かなり、、、「精神面でカリスマ性が強く、エリート意識も潜在していて、、、」

手っ取り早く言いますと、

付き合うのに神経が細かいものを要求されるので、

兄きのような2代目も、

主人のような初代も、

一緒の暮らしてゆくには

肩が凝ります。

人からモノを習うのも下手で、

言い方を間違えると、

いつの間にか、こちらが講義を受けねばならなくなります、

病院以外でも、指導者のスタンスで居るので、

本人も苦しいでしょうね、、、

ドクターが本来の医師であることを忘れて、

ジャンルを超えて、如才なく半値で語り合うことができたのは

父と弟だけでした。

兄と夫はいつでも医師であるので

本音の言葉で語り合うことはむつかしいと思いました。

             つづく

 

 

 

 

父の実家のあった東京の市ヶ谷に戻ろうと

父母は、知人に、開業できる施設を依頼した。

そして、、、知人が父の代わりに探してきた施設は

旧い大きな池のる、、、お寺の跡地でしたl

しかも、、、天井川とまではいかなくても、

江戸川とすれすれの集落で

ドブが運河のように流れて、

水害の時の側溝のごとく

存在を誇示しながら

蚊が、、、ぶんぶんと」、、、偉そうに

飛び回っていた、

人の血で、どす黒い腹を太らせて、

腕にトマッテくる、、、戦争の傷跡のまだ残っている

下町だった。

住めば都になっていった、

                      つづく

 

 父と散歩に行った

近所のお寺の松の木の広場。

ここでは、、、今、海外にも人気の盆栽市がしばしば開かれていました。

実家が人手に渡ってしまったけれど、

近所に思い出のお寺があることは

父が、今でも私と一緒に居てくれるってことでしょう(^^!

20歳以上もお父さんより年上になった私が

いつか、お父さんの世界に逝った日に

わからないかもしれませんね。

若いお父さんい出逢って

眩しいかもしれませんね、

故郷は、、、消えてないのです。

10代のころ

錦鯉を縁日で買ってきては

診療の合間に、、、池を見に来ていた父。

「ドクトルジバゴ」は

医師になっても。戦争で医師をすることが出来なかった。

産めや増やせの富国強兵政策、そして戦争、、、

大国の存在の認識が

攻撃が、最大の守りに思えた時代が、、、たしかにあった。

生き残りの3人と、戦後生まれた弟の4人兄弟姉妹。

実家が売られてしまった、、、というより、、、

あの時代は「長男に全権があった為、ほかの兄弟は蚊帳の外でした、」

父と母の時代は、、、終わったと感じたのでしょうね、、、きっと、

東京でのまとまった260坪と鉄筋の建物は

今でも、GOOGLE地図で残っている。

父母の植えた玄関までの常緑樹の木々は

自動販売機に代わってしまっていた。

あの部屋の2階の30畳のリビングには

父の好きだった、宮様たちとともに楽しんだという

ビリヤードの象牙の球と、

戦後、偉業を引き継いだ兄が購入した台が、グリーンの色で

白い球が素敵に輝いていた。

女主が痴呆になるという事は

毎日の掃除さえ、一部屋4万の業者を頼んでいたというから

維持できなかったのだと推察できる。

それにしても、、、、どこの誰が、、、買ったのだろうか、、、

北海道に外科医を迎えに、結婚して、家を守るつもりが

北大の講師の任命を受けたとき

主人は、、、故郷の家には来てもらえないと、、、悟った。

主人も、「母の葬儀にも、、、、参列しなかった。」

ひたすら、北海道の住民として、

母の葬儀の日も

諸七日も、

四十九日も、

百日も

弟が主体になって、

行ってくれた、

一人で、、、東京と札幌を

何往復もしながら、、、四十九日の母の家は

母屋の隣にあった木造だったからか、、、

ブルがナラシタ凸凹の空き地になっていた。

父の錦鯉の池のあたりに

父が自慢していた

皆で囲んだ

正月の「柿右衛門の赤絵の大皿が」、、、

土に突き刺さっていた。

時代の流れ、、、

我慢していた涙があふれてきた。

誰も見ていない母の空き地は、

大切にしていた「貯金の木」世も呼ばれる肉厚植物が

散乱していた、

私は、空港手に入れた紙袋に

母の、、、植物を入れて、

そのままUーターンして札幌に帰ってきた。

一人一人の兄弟が、個々の力が有ったことが、裏目に出てしまったのだろう。

私たち兄弟は、全員が国家免許を持っていた。

最終的には、自分さえしっかりしていれば

遺産相続は必要なかった。

母も、明治生まれなのに、国立音楽大学のピアノ科を卒業していた。

なくなる3日前まで、減益だった。

頼ってくれない母の、

父の時代に築いた母のstatusを守らねばならなかった長男は、

一見、、、財産に見える実家を母親含めて引き継いだ。

兄弟は、皆、それぞれの力で自立していった。

長男は、、、眼に見える東京の260坪を引き継いだから

母を世話することは、当たり前だと、だれもが思ってしまった。

次男三男のお嫁さんも、自分たちの実家のことで忙しかった。

母が亡くなったとき、日ごろから、兄に頼まれて、

母の健康管理や、親戚筋の法事に関することは

弟が、兄の依頼ですべてをしてくれていた。

私は、義姉であっても、、、北海道に行ったきりでは

蚊帳の外のメンバーだった。

それでも、弟は、必ず私を姉として接してくれたので、

母の葬儀にも、出席することが出来ました。

母という、、、要が居なくなるという事は、、、

各人自立した兄弟の絆が有ろうとなかろうと、、、

結婚という、他人が付いているという事は、

実家がひつようなくなるということなのでしょうか?

イギリスは古城の管理費で破産しそうになった貴族が居るとか、、、。

260坪の鉄筋の建物は60年も経過すると、

壊し代金で結局収入は5000万円だったとかで

「税金を差し引くと、兄弟の取り分はありません。」

病院の経理を担当していた職員が何十年も務めた退職金を請求して、

兄夫婦は千葉の介護施設に入居してしまった。

兄の息子は、親の後を継ぐのなら、医者になりたくないと、、、

かなりの間、医者の世界のカーストのような

先輩の強さに反抗して

若さのむつかしい時期を10日ほど一緒に過ごしたが、

洞察力の抜きんでた若者で、医療界のルールや習慣や価値観に

従順に従う事の出来るまでには

もっともっと、、、

世間の大変さを知らなければ無理だろうと思えるような

努力をする前の段階での反抗期に、おばさんとして出会ったきりである。

私は、半ばストライキを起こしている甥っ子を映画に誘った。

「千と千尋の神隠し」という漫画映画であった。

そして、、、映画のあと、共通の話題を持った彼と話したっけ、、、!

「親が医者に成れ」、、、命令されて医学部に来たのではないんだよ。

すでに、、、医学部に来てしまったのは君だから、、、

ストライキを起こしていると、、、映画の「顔なし」や

 

クッサィ、、洗っても、、洗っても、、、汚れだらけで

そこらじゅう、、、汚水だらけになる「汚いお化け男」になるよ、、、

そんな話をしながら、、、札幌の夜景を見に

藻岩山のてっぺんに連れて行きました。

宝石の海のように、、、

一人一人のともす灯りが、、、

札幌を創っているんだよ。

この中で、、、医者のともす光を探せるかい?

もっともっと、いろいろな職業の人が、

思い思いの灯を輝かせているんだよ。

、、、、、、

彼は、、、黙って光の海を見ていた。

「探せないような、、、小さな一つの灯が、、、君のパパだヨ。」

パパは、本当は弱いんだよ、、、

息子が医者になってくれて

すぐ近くで灯を掲げてくれないと、

息子の光を探すことができないんだよ。

こうして、、、山のてっぺんから灯を見ていると、、、

親父の力に屈して医者にならなくても、、、

他の職業に転部してもいいんだよ。

でも、、、せっかく医学部に入っているんだから、、、

わざわざ、、、親に逆らって、、、

隣の隣の、、、そのまた隣の灯りを灯しに行くのも

、、、、、

山のてっぺんから見ていると、、、

なんでもいいから、、、お前さんも、、

そろそろ、、、

ひと隅を照らす灯を、、、つけたら?

気楽に言ったのです。

翌朝、、、ラーメンを食べに二人で行きました。

「おばさん!一回ぐらいは、、、僕におごらしてくれヨ、」

彼は「顔なしからの出発」を決めたようであった。

やっと、、、親父を超えられたから、、、

外野の私はそれっきり、、、彼とは出会っていない。

息子は、親の後を継がなかったから、、、

95パーセントの税金を支払って

親父の意地が、全部、、、売り払ってしまったのかもしれません。

息子を、、、永遠の独り立ちの男として認めたから

退路を断って、、、最後の親の心が

こうした形になったのかもしれません。

兄きから、初めで最後の、自筆の走り書きのある

「小さな、、箱が」届きました。

息子が世話になった、有難う、、、

医師国家試験の合格発表の新聞の

我が子の名前に印をつけて

ゴディバのチョコレートが入っていました。

息子の結婚式には、、、私も主人も呼ばれませんでした。

 

叔母さんごときに、学生時代とはいえ

アドバイスされた我が身が恥ずかしかったのかもしれません。

ボンボンではありましたが、

医師になるような一本筋の通った意地もあったのでしょうね。

甥っ子は、、、やっと大人になったのだった。

 

今度は、、、わが息子の、、、お嫁さん探しです。

医師になるのが目的で、医師が天職の次男ですが、

43歳まで、自宅もなし、車もなし、財産なしの

大学職員なので、

息子を認めてくださり、

家族の一員として、仕事第一の

マイペースの医師を、

懲りずに旦那と認めてくださり、

子育ても、ご自分の母親に教わりながら

息子をあてにしないで、、、

あてにするのは月給だけという

自立した依存心のない女性でないと、、、

医師の妻は「孤独で、寂しいかもしれません。」

ただ、、、生まれた子供たちにとっては

父親として、父親らしいPTA活動はできなくても

社会への貢献を認めてもらえることが多いので、

本人さえ甘やかさないように、しっかり自立させる育児をすれば

母親が、ほとんどのことを代行をしやすいという事です。

ママ友も、先生も、親切に仲間に入れてくれますよ。

進学させるぐらいは、稼いでくれますから

趣味の一つや二つは持てますし、

寂しいことばかりではありません。

きっと、、、息子の近くに居るのかもしれませんが、

ERに居る時間貧乏の上に「見える財産の無い中年に差し掛かり、、、」

若すぎる夢多い女性には、、、電信柱に見えるかもしれませんが

キャリアウーマン目指して30歳半ばになって

子供を産み育てたいと、進路変更した大人の女性であれば

旦那さんに頼るような、依存心は無いはずですから

共存共栄のしっかり夫婦になれるとおもっています。

税務署は

勤務医の必要経費には控除を認めることは、ありません、

医師になって、5年間ぐらい、朝一番の振り子特急新幹線で

勤務地に向かい、夕方には大学の仕事や、会合と

通勤費にかなりの金額がかかったときも、

控除はありません。

アルバイトがあっても、

医師になるよりも、医師を続けるための自己学習に

宵越しのお金を持たないので

実家には、10年経過して、古本になった医学書や

ハイパーDVDの付いた教科書のような本が

山と積み上げられて居ても、税金の控除にはなりません。

つまり、、、物品に例えては、恐れ多いことですが

医師という「医師をする男性」は「ランニングコスト」のかかる

高級なマンションのような、、、気がします。

女性の方に「経済的な自立が必要」な時期もあります。

親が、生きているうちに孫を観たいと、願っているのですが、、、

ドクターヘリの飛ぶ大学病院の医師は

かっこいいとは思うのですが、、、

結婚相手の男性としては

どうなのでしょうかね。

実家が近くて、、、姉妹もとかくに住んでいて

自立しているお母さんが、日曜日にはお出かけに誘ってくれて、、、

「亭主は元気で留守が良い」。。

自分の時間を生きる女性であれば

医師というのは、、知的財産家と言えそうですよ。

そのような女性が、相手を探し出すのは35歳ぐらいでしょう?

43歳の息子とは、きっとうまくゆけると、思いますよ。

本人が縁があれば、、、きっと、二人はお似合いですよ。

家事育児、お手伝いをあてにはできない、、、職業ですよね。

「結婚したら、、、すぐに家を買うよ、、、ローンも信用があるし、、、。」

嫁さんの都合のよいところに家は買うと思うよ、、、と言いながら、、、

医師の43歳は30歳の会社員の男性より、、、社会に触れていないかもしれません。

話していると、、、学生時代と変わらないフレッシュさです。

歳は若いのに(35歳まで)義姉さん女房のように

息子の一部の社会音痴を見守って下さり、

フォロウしてくださる方がいましたら、

最高ですね。

 

 

 

東京を振り返ってくれることはなくなった。

息子は「伊豆」に住み続けるでしょうね。

温泉に、水族館に、富士山を観に

何度も息子と土日の小旅行を親子3人で行きました、

結婚相手が天から逢わしていただけたら 

土日は、小旅行に、ゆけますよ、

 

 


やっぱりフランスが優勝!

2018-07-16 09:33:11 | Weblog

長かった梅雨の間に

サッカーの奥の深さを

目の当たりに見れたことは

多くの選手に感謝です。

決勝前のイヴェントも

どんなタイプの国民も、

どんな文化国家の国民も

一緒に楽しめる

クラシックから、

パーカッションまで

楽しめました。

心から、元気をいただきました。


ベルギー追加の2点でイングランドに勝利!!

2018-07-15 01:02:44 | Weblog

 

ベルギーはとうとう決勝進出だね!

イングランドは、最後は疲れが出てきていたね、、、

さすがに、レベルの高い連日のサッカーで

観ているほうも、、、イングランドの疲れが分かるほどに、、、

良く戦いましたね。

ベルギーの追加のシュートは

うまくいきすぎと思いましたよ。

キーパーの手足届かないアングルを狙ってきたような

ナイスシュートでしたね。。

       おやすみなさい、、、グーグー

 


おばあちゃんと孫のひと時(孫になって、、、婆ちゃんは孫であるよ、、m(^^!m

2018-07-14 16:31:40 | Weblog

 

僕のおばあちゃんは、日本大学の理工学部を卒業しています。

「日本大学はね、単科大学とは、、、また、、、別の「総合大学」だよ、、、。

総合大学は、多くの目的を持った多くの生徒が入学してきますからね。

勧善懲悪、、、

良いものは良い

悪いものは悪い、、、

どちらかを選ぶことができないほどの、

深く検討して

結論が出せないほど、

たくさんの意見や、

考え方や、

答えに迫る方法が

学部の数だけ、

とりあえずありますよね。

生徒の数も,、、多い。

55年以上前に

婆ちゃんは「理工学部薬学科」に入学した。

東京でも歴史の古い方に入る都立高校から

附属の入学が終了した頃の入試試験を受験した。

日大に進学する女性は、同年代には2人しかおませんでした。

府立女学校として、開講して以来

女性生徒だけだった時代から、

男子生徒も入学してくる喜ばしい時代に

 

婆ちゃんは、、、セーラー服の高校生だった、

天井川の荒川の土手の下の校舎は古くて

毎朝廊下にワックスをかける登板がアッタそうだ。

当時の都立高校は

敗戦からやっと立ち直った東京の街で

私立の高校にはとても、、、と、

普通の社会人や、

サラリーマン家庭や、

町工場の社長や

ラーメン屋さんや

洋服屋さん、

材木店の息子、

お父さんは高校で進学を辞めてしまったが

お姉さんは私立大学を卒業してるとか、、、

おじいちゃんの代から畳屋さんしてるとか、、

いろいろな女生徒や男子生徒の集まっている高校でした」

その、、、庶民的で、屈託のない職人さんの娘や息子さんは

婆ちゃんの目には

「自分より、ずーとしっかりしていて、

考え方が具体的に現実的で、

地に足のついていない夢ばかり追っていた婆ちゃんとは

対照的に、生きる力が満ち溢れていたクラスメートには

婆ちゃんは、医者の娘で、

これからも、ずーと

食べてゆくのに困らないから

両親というスポンサーの基で、親のお人形のように

良妻賢母の道に向かって

常識程度の教養を身に着ければ

これまた、、、お医者さんと結婚して

私たちとは違う、、、コバンザメ人生を生きればよいわけで

相手にしていたら

こっちが社会の落ちこぼれになっちゃうから、、、と

はっきりとモノを言ってくれるクラスだったので、道を誤らずに謙虚になれたと

高校時代の同級生の人間としての豊かさをもらったと、、、婆ちゃんは言っていた。

暖かな友情で、楽しいレジャーの時だけ誘われたそうです、

婆ちゃんは、登山も、水泳も、ボート漕ぎも

神田の古本屋巡りも、お茶会や習字の展示会や

バレーの発表会や、ピアノの発表会なども

他のクラスの中学時代からの友人に誘われたそうです。

、、、つまり、

若い時代にありがちな

本音で悩みを打ち明けてくれるような友人は

とうとう、、、できなかったと言っていました。

その中でも「Y ちゃん」とは

部活が「化学部で写真部」で、ハイポなどの薬品の購入が縁で

一緒に上野の美術館や、動物園、ブリジストン美術館など

メンタルな面も交流できる友人になっていったそうですよ。

彼女は、義兄さんが東大生で、お姉さんが私大の工学部で

男尊女卑の義兄さんの仕打ちに、とさかに来ていたそうです。

婆ちゃんの境遇と似ていましたが

婆ちゃんの義兄さんは

両国高校の10番以内に常駐している

自称、、、スーパーカーと思っていたのに

東大合格を果たせなかった、国語音痴の弱点がありましたそうな。

「僕は東大に敗北した。

父の診療所も、

全て財産は長男の自分が継ぐから

さっさと嫁に行け!

これからの僕は、金も、土地も、親父の社会も

全部継いでゆくから、、、お前は邪魔!」と。

考え方が、東大受験前と180度変わりましたとさ。

東大の医学部に合格したつもりの人生設計を立てていた兄貴にすれば、

両国高校の一けた順位に常駐していた自分には

「東大不合格の文字の入った辞書」の存在すら信じていなかったのだろうと、、、

婆ちゃんは、、、ククク、、、と、笑って言ってたよ、

「兄さんは自分の得意な科目を誇り、自分の優れた物理的な考えを誇り、

歴史などは年代を歌で暗記して、日本の大将

の名前をすべからくそらんじて

鎌倉幕府などは

「頼朝は、、、いちいち国を支配する、、、」という

自作の覚え方をしていた義兄さんだったそうです。

「婆ちゃんなら、、、なんて?覚え方をするの?」

婆ちゃんはね、、、

「頼朝は  いい国創ろうと思案するる。」

そう答えてから、

僕の方を見て、、、ククク、、、と笑った。

「支配する、、、か!」

たしかに、、、、そんな考えのやつを

東大に入学させたら、弱者は奴隷にされてしまうから

どこかの問題で、、、

きちんと選り分けられて不合格になったのでしょう、、、か?。」

婆ちゃんは、義兄さんに、、、ご無理後最も、、、と

かなりのことを受け入れざる位置に居たことを

前提条件にして

独り立ちできる力を「大学で学び」

さっさと、、、独立したいと思いながらも、

世間の怖さも順番も、わかるだけに

逆らうのは、具体的な人権蹂躙で

支配欲を具体化してきた時に

逆らわずに、、、家を出ようと、、、考えて、

夢を追わず、恋もしない、堪忍のまたくぐりで

戦わないやつと思われても、

兄弟の権利の重なることは

全て放棄して、、、

女性が大学に行くことだけを許可してもらうように

家の中では、男兄弟が受験の条件の特権を駆使しても、

雑用や、皆の洗濯ものや、夕食の材料の買い出しや

夜食係を、当たり前のように引き受けて、

偉そうに訓示を垂れる兄貴には、逆らわずに

何とか、、、日本大学の卒業まではこぎつけたそうでした。

昭和30年代の、まだまだ残る、、、男尊女卑の壁は厳しいものがありました。

山口さんといったかな?

こんなすごい男尊女卑の残る時代に

女性の代議士になって、

戦後の女性社会の男尊女卑に

真っ向から物申す生き方をした同窓生が居たという事が

ややもすれば、、、くじけそうになる若き日の試練を

乗り越えさせてくれたのは、

先輩の通った道が、婆ちゃんの苦労を何倍もしたような

艱難辛苦を乗り越えていった事実が身近にあったという事だったそうです、

日本は、世界でも、女性の進出はむつかしい国です。

力がむき出しの女性は

木っ端みじんにされてしまいます、

婆ちゃんは言うのですよ。

女性は、頭のてっぺんから、

足のつま先まで

出世の闘いに使う覚悟がないときは

社会でオキュペイションするのは

考えないことだね、、、と、、、ぽっつり言いました、

女性は、子供を産めるという天与の恵みがあるのだから、

男性と、真っ向から戦って、本来は男性がするような仕事に進出しなくても

応援団になれると思わないかい?」

上手に、しなやかに、男性の3倍の語学力を持ち

専門分野では仲間に認められるように実力を磨き

どの派閥にも属さず、

母校の卒業生としての矩を超えず、

恩師には尊敬と感謝を忘れず、

教えることをせず、学びに徹して

理解力を深めて、

個人の為だけのスタンドプレーは禁じ手と認識して

いつも所属のチームの「バンドの上手なバッター」として

「チームの進塁」に役割を徹していれば

長生きをすることで、

女性も、、、まんざらではない立場だったと、、、気が付くのだよ。」

その点、高校の親友だったYちゃんは

婆ちゃんよりも、ずっと近代人の女性だったよね。

真っ向から抵抗したファイトウーマンでした。

彼女の姉さんという女性を紹介されて

猪苗代にスキーに行ったりもしました、

もっともっと、、、仲良しになってゆきました。

一緒に小松川高校の山荘のある蓼科山の合宿に参加して

蓼科の夏を遊んだ思い出は

小松川高校を大好きになった大きな体験だったね~~~と

タケさん、、、岡ちゃん、、ぼくちゃん

なつかしいよお~~~~生きてるかい???

ばあちゃんは

「高校を愛する、、、母校愛は、高校のイベントに参加する事から始まった。」

と言ったよ。(^^

皆でいけば怖くない!、、、蓼科山や夜叉神の山中も

高校の同窓メート10人以上で、

テントに泊まり、山荘に泊まり、山小屋に泊まり

高校時代が、、、婆ちゃんには、、、

たしかにあったよ、、、と、言っていた。

イベントに参加するまでは

 

お客様扱いされて、、、

蚊帳の外に居たことがもどかしかったと

おばあちゃんは、

夏休みの高校のイベントに参加するまでは

真の友達が出来ない孤独さを、、、勉強することで忘れようとしたとしたと、言った。

仕方がない

親が医者だと、

自分たちと同じ苦労をできない者として

「心底スクラムを組む友人としてはは選んでくれない」とぼやいていました。

クラス委員にはなれても、友人にはなれない孤独は

声をかけてくれるのを、待っているからだと、、言いました。

友情も、絆も、自分でグループのイベントに参加しながら

いつの間にか、、、居場所や役割の分担を通しながら

フト、、、気が付くと、「友情や、絆が」共有されているものだよ。」

誰かの役に立てる、「特技の実力」「忍耐力」「筋力」、、、など

余暇の時間をコミュニケーションに使う事だね。

ボランティァ7活動だっていいよね。

学力だけに絞らないことだね。

「オレオレ、、言わないことだね。自分以外のモノを含めた自分を愛することだよね。」

大学も、将来やりたいことの基礎を学べる大学を、学部で選ぶことだよね。

東大、九大、阪大、京大、、、東北大、、北大、、、大学で順番つけないで

私立であっても、未来に自分のやりたい分野の優れている学部に進めば

自分を見つける旅でもある「人生」が

時代とともに、わかってくるかもしれないね。

大学の名前が金屏風になってくれる時代は、もうすぐ終わるかもしれないよ。

有名大学を目指して頑張ると、大学に入学できた達成感が目的になってしまっては

そこからが、自分の人生をつくりあげなくちゃならないのに、

ゴールが大学になってしまっては、

自尊心と、驕りと、オレオレが育ってしまうよ。

そしたら、、、

習うという、、、謙虚さが消えて、

自己流になるから、壁に突き当たるよ。

今はわからないと思うけど、、、習うことを習う事だね!

婆ちゃんは、謎めいたことを言いながら、

眠そうな顔になっていった。

「何ができる人間か」という事で、

「居場所」が出来て行くという時代が来ていると思うよ。

、、、つまり、、、

「生涯教育、生涯勉強の時代がきたということかね~~~?」

婆ちゃんは、自分の生きている時代は

日大を卒業していることで、クリヤーしてしまったけれど、

君らの平成が終了するころからの時代が、、、今一つ読めなくて

孫には、、、アドバイスできる何物も。。。持ってないので

ウナギ、、、おごってあげるよ!

体力だけしっかりつけておきなさい!

健康であれば、、、何とかなるのが、、、男の世界じゃないのかえ?

君のように、ますぐな、まじめさがあれば

後は体力があれば、、、

40歳までは、どこの会社も歓迎してくれるよ。

問題は、、、40歳までに

会社に引き留められる時代について行っている技術とか、

3か国語のトィック持ってるとか、、、

人脈が豊富で、スポンサーがついてるとか、、、

アフリエイトだって追従を許さないプロ系のサイトを運営すれば

サイドビジネスとアルバイトを兼ねるよね。

婆ちゃんは、、、薬剤師をしていたから、、、P.Cには常識があるようだ。

 

花も実も、実力も、権力も、皆ある人はいないよ、、、

お金は、、、やや万能かもしれないが、

金融業界は素人の過程で育った者には

難攻不落の城に攻め込むのと一緒で、

お金を追いかける人生だけは

ありえない!!!

お金が必要なだけ、、、あればいいものだから

仕事が認められれば、、、お金はほどほどについてくるものが

社会のバランスというものではなかろうかね~~~。

婆ちゃんは、眠くなったから、、、寝るからね、、、

明日、ウナギ食べに行こうね、、、

僕は、婆ちゃんが寝てしまうのを見ていた。


人間ドックはうけていますか?

2018-07-12 21:53:55 | Weblog

正直言って、、、受けねば、、、受けねば、、、と

しばしば思うのですが、

70歳を過ぎてからは、、、一回も受けていません。

子育てに責任のある時は、、、人間ドックを受けるのも仕事のうち!と。

健康維持に気合が入っていました。

人生の責任が集中して肩にかかってくる

43歳ぐらいからは

毎年、、、必ず受けていましたね。

息子たちが2人とも「私立大学」

しかも、、、

次男の方は北海道の高校から、東京に進出。

7年間だけ授業料を保証するという保険に入って、

さらに、頻繁に健康診断に病院に行ってましたね。

息子が医学部の高学年に差し掛かるころ、

主人の両親が病気になったり、

北海道と東京を行ったり来たりしながら、

国立がんセンターで

かなり、、、精度の高い人間ドッグを受けました。

CT検査、大腸がん検査、マンモグラフィ

極めつけの斬新な「ペットCT]を検査していただきました。

MRI も検査していただきました。

人生の、責任の重かった45~60歳ごろまでは

人間ドックが、心の支えと、

「よし!大丈夫だ!がんばるぞ~~」

力と自信とやる気と、、、

無理を承知で頑張れました。

 40歳から 50歳は、、働き盛りで、健康を損なうとやがて来る世代交代、、納得の成果がいまいちになるかも?

今でも思い出すのは、、、

たまたま

ニューオータニで、

長男夫婦のイベントで招かれて

会食していた時でした。

内科医の兄が、、、

「しばらく見ないうちに、変な体型になったな?。。。

、、、待てよ!

腕も、上半身も前に会ったときと変わっていないのに

腹部だけ大きい、、、それも、、、不自然だ!」

いきなり、

「たった今から、がんセンターに電話をして予約するから、

すぐに検診を受けるように!兄と思うな!内科医の命令だ!」

すごい口調で、

脅迫するように言うのです。

そこで、見つかったのが

「卵巣嚢腫でした。」

当時、

築地のがんセンターで、

CTの開発に夢中だった弟が

検診を担当してくれました。

「お姉ちゃん!医者の奥さんとして、、、はずかしくないのか?!!!

赤ちゃんの頭のような卵巣嚢腫が出来ている。」

弟先生は、

CTで撮ったスクリーンに映った特大の

卵巣嚢腫を見せてくれながら

その場から、

手術の予約を、外科医の主人に電話をしてくれました。

家庭でハ主人に、、、腹が重たいのよ、、、と

何度か言ったが、

「家では自分は医者じゃないから、

病院に行って診てもらえ、、、」

取り合うどころか、

「子宮筋腫があったとしても、縮小する年齢だから

かかりつけ医で見てもらってくればいいよ」

、、、、なるほど、、、

ネットで検索しても、

深刻になる症状ではなく、、、、自覚症状もなく、

中年太りかと思っていた。

医者の職業に徹して、家ではゴミも捨てない主人へのストレスはあったかもしれません。

、、、この人は、、、家では下宿人か?、、、と

時々気合が抜けることもあった。

ストレスは、、、よくない。

何もし無くても良いから、、、一緒に生きているチームであり

つまらなく見える家事が、バランスを保っている分銅だってこと

少しはわかってほしかったり、、、

親戚が遊びに来ても、

私だけ留守番だったり、

明治の男の文化遺産を丸ごと持っている育ちは

女房を家に閉じ込めるあの手この手の

老獪さで、自分は医師の仕事に専念する、

自分をコントロールして、

ベストな状態で、病院の仕事に臨むこと以外考えつかないのか、、、この旦那は!

こんないらいらが病気を呼ぶのも

40歳から50歳中ごろの、、、更年期のいらいらである。

こんな時には、

人間ドックに行って

「あなたが一番!」と扱ってくれる検診は、精神的にも自信を取り戻す。

人間ドッグのおかげで、

自分への関心も高まり、

自意識も取り戻せて、

早期発見で、入院しても、、、退院できるのは

絶望的に手遅れになる前に

アドバイスをしてくれた兄弟や家族のおかげでした。

大きな卵巣脳腫は

弟先生が、CTを撮った後、

「ムチンだから、手術すれば治癒するからと、説明してくれました。」

蜂の巣のように、部屋が分かれていて、ムチンが入っているんだよ、

卵巣嚢腫の外側に近いところに、硬さの違う細胞群が出来始めているから、

万一、、、「がん細胞になる前がん物質」が、、、

卵巣嚢腫が敗れて

脾臓に飛んでしまったりすることもないとは言い切れないから、

今から、ヒコーキで北海道に帰り、

明日の早朝から、手術を受けられるように、

義兄さん(主人の事)の病院に手術予約を入れておいたから、、、!

「お姉ちゃんは、、、賢いようで、、、いて、、、信じられない馬鹿なところがある!」

弟は「医師の家内としては自己管理失格だと言って、、、あきれていた。」

皆さん、、、こうならないように、

一年に一度は、、、ドッグを受けて、

15センチも、お腹を切らなくても済む健康人生を手に入れてください。

自己管理は人任せでは、、、手遅れ寸前になります。

自覚症状が、、、無い!!、、、このことが、ドッグの必要性を感じました。

 

婦人科の先生が、「すぐにOPEしましょう!」と、、、

もう一度CTを撮影して

診断は

「卵巣の切除」「ムチン質の卵巣嚢腫」という事でした。

手術中は漠然と意識があり、

大きな脳腫が腹から摘出されるのが解りました。

 

一か月後、

15センチの「腹の縦割りの傷」もふさがり、

大学病院の薬局に薬剤師として復帰しました。

大学の先輩の薬剤師さんは優しくしてくださり

生薬学の得意な先輩薬剤師が

ヤマブシタケ、、、というキノコを、毎日煎じてくださり、

それが効いたのかどうかは証拠はありませんが、、、

予後は、極めて快調で、

勤務を休むこともなくて、

それ以後は」再発もしていません。

私の父は、明治生まれの外科医でしたが

内科からの手術の指示ではありますが、

来た患者さんの多くは

「手遅れのがん」であり、

もっと早く見つかれば、

、、、、、、、、、

術後の生存率が上がるのにと、、、ボヤいていたのは

まだ、、、

後にがん検診と研究で闘う弟が少年の頃でした。

「早期に発見できれば、患者さんが苦しまずに治療できる!」

、、、、、教授のお許しがあったとはいえ

まだまだ、、、これからどうなるかわからない未開拓の分野の

「がんに焦点を合わした医療の、国立がんセンターに、

医療と、治療と研究の夢をもって医局を飛び出すのは

よっぽど、何か実現したい夢があったのだろう。

「手遅れにならないクランケを外科に行かせたい、、。」

千葉大学の外科の医局時代に、

弟がつぶやいていたことでした。

外科の教授のお許しもあり、

弟は外科の医局を出て、

国立がんセンターに無給医ではあるが、、、

研修と研究に燃えていました。

最後には、生活が成り立たなくなる直前で

スタッフに登用されて、夢が現実となる厳しい人生登山の登山口に立てました。

同じ千葉大学の卒業生でいらっしゃり、

外科医の父も、日本に、がんセンターの構想が新聞に出るたびに

医師として、理想的な医療というか、

臨床と、研究の両輪が回る研究病院が出来る!!と

穏やかな、無口な父が、眼を輝かせていました。

市川平三郎先生が、弟を見込んでくださったことは

一期一会の、出会いが、今日の「CT検査の普及への第一歩でした。」

日本にも、検診検査の段階で病気を早期発見する夢のセンターが発足したのでした。

二重造影という、、、快挙の立体レントゲン写真で

多くのがん患者さんの生存率を伸ばしたという実績は、

「CTの分野の医療への導入開発を、弟に託してくれたそうです。」

日本にはCTは普及しておらず、

「CTを知らない医師も居ました。」

「がんセンターで、研究のためCTを撮らせてください」と各科に申し込んでも、

後回しになり、、、めんどくさいという、翌日回しになったり

診療時間が終わってからになったり、、、

コロンブスの卵を立てるまでは、不屈の粘りで

初期のデーターを作成収集の第一歩から、

今日の「人間ドッグ」の

民間までの普及の矢は放たれたようです。

戦後の、壊滅状態の日本を

世界の文化国家にしてくれた

戦争を知らない世代の

ダイナミックな夢の実現に命を懸ける

ガイヤの夜明け、、、が

医療の世界にも、、、あったのですね。

戦陣の苦労の礎の上に、国立がんセンターは

さらなる未来の医療の最先端を走って

病院も摩天楼のように築地にそびえることでしょうが、、、

当初は、小さなビルの中で、

寝ないで格闘した「団塊の世代の戦争からの復興の、追い付き追い越せ、、、」の

信じられないほどの、頑張りがあったことを、

柳田邦夫さんは単行本に残しています。

歴史は、温故知新の謙虚さで、さらなる精緻に向かっていきますが

私は、、、弟はコロンブスの卵を立てたと、、、遠くに居ても

万感の思いで。家族一同の幸せを祈っている。

医師の家族は、、、風評被害の台風の目の中で

孤独に強くなる。

孤独は、客観的な視点で、自分抜きの社会現象に興味が湧く。

未病こそ医療の上品の技であると思う。

若き女性へのピンクリボンの検診・

働き盛りの受験生をっかえたお父さん!

人間ドッグで健康を守り、日本が守られますように、、、

このころは、CTの機械そのものの不備な映像画面を

検診の目が必要とする

「医師の目が求めている精度の高い画像に改良する」という

土台の為に、

医師と東芝の技術陣が、

仕事の延長戦で廊下に寝泊まりする日々が続いたことが

がん検診研究の黎明期の単行本の読み物になって出版されて、

「がん」になったら「死ぬ」という連鎖の絶望に

世論も「早期発見」という言葉が飛び交うようになりました。

市川先生の二重造影画面は劇的ながんの発見につながりました、、、が

時代は「CTの立体の、輪切り写真」へと

「夢は限りなく実現に向かい始めました。

当時としては斬新なレントゲン写真で

胃がんなどが、

市川先生の二重造影写真で発見率が極端に伸びました。

まだ初期のうちに立体的にに映し出されていました。

そして、築地に「国立がんセンター」という

今までの医師の世界には

実現しにくかった

理想的ながんと向き合う

研究と臨床との施設が出来たのでした。

研究、、、臨床、、、機械の開発、、、インターナショナルな視点の

医師だけの病院というよりは、

あらゆるジャンルの高度なプロのスキルを持った頭脳が円卓を囲んで

不治の病に闘いを挑む時代に突入していました。

*****************************************

その頃は、兄も、「今で言うなれば『人間ドック』」を

未病とまではいかなくても、

早期発見で「治癒できるがん」があるはずだと、、、燃えていました。

 

がんセンターの「胃カメラ」を勉強しに通うようになりました。

内科医の兄は、自分の診療所を改造して、

胃カメラの改良される度に買い替えて、

道場の木刀置き場のような胃カメラ室でした。

患者さんの為にも、胃カメラ以外に

早期に胃がんや十二指腸の異常を診断できる

回転するレントゲンを設置しました。

鉛の壁を分厚く改造し、何百万もする回転レントゲンを設置し、

技師さんをお願いし、開業は採算は全く合いませんが、

内科医のポリシイというのか、、、市川先生を尊敬していました。

治るうちに早期発見して外科に紹介すれば患者さんは助かる!、、、」

頭の中は、手遅れにならない手術。

胃カメラは当時はオリンパスの製品が圧倒的に、兄の手元にありました。

初期のものは、太くて飲み込むのにキシロカインなど微妙に調整が大変なようでした。

だんだん細くなり、先が回転するようになりました。

やがて、胃カメラで見つけたがんと思えるポリープを

生研出来る機会に発展して、

兄は、採算そっちのけで、開業と研究とレジデントの生活で

胃カメラの指導医の認定を国立がんセンターの

崎田先生の担当ご指導の下に通い続けていたようでした、

コンピューターもVM21からあっという間にウィンドウ10まで

周辺機器の為にも買い替えのヴァージョンウップの時代です、

弟がヘリカルCTの立体画像に取り掛かるころ、

開業は医療機器の買い替えで

採算は合わない閉院が続き

勤務医志向の医師が目立ち始めました。

医療に贅沢な知的な満足を得られるのなら

一日にかつ丼食べれれば、贅沢はいらない、、、兄きは言った。

開業を閉院して、

千葉の巨大病院の勤務医として出発して行きました。

亀田病院の先代は

父の卒業した医科大学の知人でもありました。

世間は、、、医師はお金儲けを目的に生きているという

家族には、辛辣に言葉に出して、来ますが、、、

内情は医療以外の時間を使っているようでは

日進月歩の医学の進歩について行かれないのが

本音ではあるまいか?

勤務医の医師夫人は、自分が薬剤師の免許を持っていて

正職員で働いていても、関係なく一人である、

教授の一言で単身赴任も出張も、時間外勤務も当たり前である。

働き方改革がウンヌン、、、されても、、、

正月元旦に緊急手術はやってくる、

こうした、、、先生方はドッグを毎年体験している。

しかし、結婚しているのに、マルチの仕事を任される主婦兼薬剤師は

夜中に洗濯、早朝弁当、日曜の、主人の自宅待機で休みがない。

結局、、、人間ドッグにはよほどの気合を入れないと

後回しになってしまう。

たまたま医師の家庭の孤軍奮闘援軍なしのさなか

主人は職場の強制でドッグをこまめに受けていても

過労で入院。

踏んだり蹴ったりのハプニングも、

最小限のダメージで切り抜けられたのは

主人の毎年の検診が、食事制限や

リハビリ―に通うことが

今日の

まだまだ患者さんが来てくださり

頼ってくださる

医師として現役の

医療人生を支え続けてきた、

自分もドッグ検診で

何度か啓蒙されて

医師として働いている今日、

 

患者さんが家族のため、

愛する人のため、地域のため国のため

少しでも

「長生きしてほしいと願わない医師はいないはずです。」

喜寿を越しても、患者さんから

「先生でなくっちゃ!」と、

若き頃からの患者さんが頼ってくれている。

私の実家は、、、売られてゆき、、、

一円の相続分もありませんでした。

ヴァージョンアップの医療機械を買い続け、

パソコン端末を買い替え、、、

23人の従業員の家族の

閉院の為の、、、

退職金を支払い、

後片付けをしたら、

何も残らなかったそうです、

父が残した診療所は

、最先端に挑む息子たちによって

世間に還元されてゆきました。

日進月歩の医学会で、レベルを保つというエネルギーは

命を相手の職業だけに

学門を続ける受験生の居る家族と似ています。

先代の残したものをエネルギーとして開業を続けていても

壁に突き当たったようです。

実家だった父の診療所は、売られてゆきました。

立派に役割を果たした最先端の医師を生み出す胎盤だったのです。

胃カメラの兄の検診力、

がんセンターの弟の検診研究の人生を

遠くから、その貢献度に敬意を払っています。

二人が、多くの患者さんのため、

日本の医療をとおして、

検診研究の分野で時代を牽引できた「夢の実現」に向かって

闘いに生きれた兄弟を、遠い北海道から

エールを送り続けた、、、

自分は何もできなかった、、、

姉であり、、、

妹でした。

外科医の主人の課程を守ることに関しては

便利屋の腕は、他人に負けるとは思えない

鶏のような人生が続いている。、

鶏の目から見える

「人間ドッグの普及」までの、

一つの実話です。

日本の大切な指導者や、

政治家、

経済分野の時代を牽引する人々

世界の都市を設計して立ててゆく人など

極めて社会に与える影響も大きい。

人間ドッグを受けるという事は

日本を守ることにもなります。

家族の長、

若き母親

受験生、、、

全ての人の価値は

まず、、、健康からだと思っています。

   弟が若き父親を、母親を、早期発見で

   延命効果を果たせたとしたら、

その行動、実績、社会貢献が、、、私の実家だと思っています。

帰える所がなくても、、心は、オリオン座の正座のような家族を観ています。

寂しくなったら、、、オリオン座に兄弟が瞬いています。

 

**********************************

当時、国立がんセンターは、白い小さなビルでした。

そこに無給の研修医として、一年以上勉強に行っていました。

やがてスタッフとして、「がんと闘う医師」の仲間として、

今日の「人間ドッグ」の時代の鏑矢を放ったのでした。

CTって何ですか?、、、という時代から、

3次元の立体の人体の写真が撮れる今日、

世界の要人と言われるような、責任ある立場の方々が

明日の仕事の為に、こぞって検診を受ける時代がやってきています。

人間ドッグは、

今や「世界の要人」と言われる政治家や、

なくてはならない仕事の責任者や

時代をけん引している大人物の健康を守るためには

必須の検査機関だと思うのですよね。

私は70歳を過ぎて「必要な立場の卒業生」。

時分だけの責任を果たせばよい時代に入りましたから

人間ドッグには、、、行かなくなりました。

がんセンターの発展に人生をかけて

多くの要人の健康を守るための「検診研究センター」で

所長を務めながら、定年まで、私たち家族の、

世間の責任ある立場の人

そして、東南アジア王族の検診。

私が、

国立がんセンターで

「人間ドッグ」、、、?というのでしょうか?

「検診」を受ける窓口は「日本人」の窓口でした。

海外向けの外人専用の窓口もあって

国際的に「人間ドッグ」と言えばいいのでしょうか?

CTや、胃カメラや、大腸鏡、MRI、そして「ペットCT」の

検診の患者さんがびっしりと座っていました。

がんセンター黎明期の「がんと闘う弟たち」

人間ドッグの時代の生みの親は

コロンブスの卵のように、

どんなに時代が進んで、がんセンターの先生方が世代交代しようとも、

戦後の「団塊の世代」の弟たちの時代の先駆者は

コロンブス、、、と同様に、

永遠に、検診検査の「人間ドッグの時代を創った世代」として

心ある志の高いがんセンターの歴史として語り継がれ、

今日の「がんと同居の勤務時代」になったのは

あの、、、市川先生の二重造影、、東芝のCT,MRI...ペットCT

へリカルCT,,胃カメラ、、、、と黎明期を生きた戦後のファイターたちの

早期発見、早期治療の魂が、

基礎医学者の作り上げた治療薬や方法を

駆使できる時代を創ったと思えるのです。

出発点から50年、、、人間ドックの各地での発展を認識しながら

70歳になり、、、74歳になりました。

弟の人生がすぐ隣で感じれた人生は、、、姉としてラッキーであったと思いました。

CTの検査をさせてもらうのに、CTという機械の改良から初めて、

東芝技術の人々と、

医師が見たいと思うがんの映像が映る画面を

工夫するところから始まったのを

知っている若きがんセンターの医師が、果たして,、、今はいるだろうか?

廊下で夜明かしして、研究に研究を重ね、

家庭には帰れなかった弟を知っているのは、家族だけだろうね。

世界中を飛び回って、講演していた弟が

定年のとき、政治の与党が野党になり、民主党が政権をとって、

50年のがんの早期発見の時代にまで到達できて、

がんの基礎の研究者の薬も、デリバリーの方法も、

患者さんの延命効果に役立つ時代が来たようですね。

民主党の時代に定年をまじかに迎え、

独立法人となったとかで、、、

多くの資料が処分されてしまったことは残念であったと思いました。

人間ドッグは、世界と共存共栄してゆくためにも、

社会では時代を牽引している指導者には、国家費用で強制してでも

若き生命を守るピンクリボンの制度などあるようですよ。

3人の子供を残して死んでしまう乳がんなど、

早期発見で助けたいと思うのは、皆の心でしょうね。

私はがんセンターで「50代のころ」

マンモグラフィの検診のある「人間ドッグを受けました。」

超音波と合わせて検診しました。

腫瘤を形成しない分散型の乳がんがあると

マンモグラフィには、はっきりと映らないこともあるそうで、

がんセンターの検診検査の所長をしていた弟が説明してくれました。

人間ドッグは「がん」だけではなくて、

いろいろな病気も早期発見できると思います。

40歳代から50歳の「人生のピークの多忙な時代こそ!」

全員が受けて、健康を守り、世代交代の責任を果たし

日本の繁栄の基であるともいえる

サポーターの時代を、健康で乗り切りたいと思いました。

今日、「人間ドッグ」と「リゾートホテルが合体したような

世界の要人や、多くの社員の人生を背負った社長さんや、

世界経済の中心にいるような、VIP専用の

「人間ドッグ「と休暇と「フィットネス」などの

最高レベルの「人間ドッグ」診療があるようですね。

たまの旅行もKKRの

一泊10000円まではしない

定宿に泊まる我が家としては、

TV番組や、ネットで見て、知っているだけですが、

必要な人には、、、、必要な施設で健康管理に人生をかけているのでしょうか?

弟よ!

君の人生を遠くから見れただけでも、、、感謝してるよ。

あの時の、赤ちゃんの頭ほどあった卵巣腫瘍の切除の思いでは、、、

検診や人間ドッグに行かなかった私の命を

私に代わって守ってくれたがんセンターの検診研究所の、、、弟。、

食事中に体型が変だと言って、、、がんセンターの弟に

電話をしてくれた内科医の兄と、

手術に立ち会ってくれた外科医の夫と

手術をしてくださった「婦人科の副院長先生」

急きょベットを確保してくださった病院。

人間ドッグの門をくぐれば、、、74歳まで、

自動扉が開くように

健康が守られた、、、本当は、ドジで、めんどくさがり屋で、

医者の妻として、自覚の足りなかった私の

心からの、、、40代から50代までの、若き人々へ

人間ドッグへの「受けてよかったという体験談」を通して

ご自愛いただきたいという、、、思いをお伝えします。

 

 

 

 


豪雨被害は総合開発設計で根治解決はできないのだろうか?

2018-07-12 18:18:22 | Weblog

 

来る日も来る日も、豪雨の記事の新聞と

TVの豪雨のもたらした河川の反乱と、

堤防ケッカイの逆流河川の猛威の画面で

恐怖の日本全土を感じて、怖いものがあります。

倉敷と言えば歴史も深く、びっくりしています。

かって静岡の狩野川台風の大被害が思い出されますが、

あれから、

側溝が創られて、

川があふれる水位の時でも、

側溝に水を流すことによって

大災害になるのを防いでいるようです。

2年ほど前に行ったときには

堤防がすっかり修理されて

スーパー堤防とはいかないかもしれませんが

修理されていました。

それでも、つい最近の大雨では

世界遺産で有名になっている韮山で

家屋への浸水がまだあり、

通りへのがけ崩れもあり、

いつも、故郷の和歌山や、

息子の住んでいる静岡のことも気になりながら、、、

天井側になるような団地や集落では

中国の西安のぐるりと取り巻いた塀のような

防水壁をつくり、豪雨の時は

いくつかの、集落への門を閉じてしまえば

集落から塀の外への排水で村人は助かるのではなかろうか?

万里の長城はもしかしたら防水の為の堤防の役も果たしていたのかな?

もう。。。こうした被害の起こらない日本にするために

地耐力を測り土台を高くして、半分は土中に深く埋めて

水が来ても、動かない土台の作り方を工夫することも

これからは必要かもしれません。

多くの被害の家々の様子を知って

明日はどこに豪雨が来るのかと、、、おびえてしまいます。

万里の長城を創った秦の始皇帝は、

日本も、「万里の堤防」で

家族の幸せを守るように

伝えてくれているのかもしれません。

お子様方もこれからの日本を支えてゆく人材なのに

あまりにも短い人生に、、、悔しくなります。

水を制する者は日本を制する政治家と思いますが、

それには、社会と一丸となって

国も、自治体も住民も、アイデアを出し合って

 

技術の提供や、設計のノウハウや

地殻や地学や危険管理学や、材料学や

森林管理学など、一丸となって、河川の氾濫を

無関係な地域に誘導して、海に流す工夫が居ると思いました。

2014年、後楽園の近くの本屋で立ち読みをしていた時の記事を思い出します。

宇宙の人工衛星の操作で、「ケムトレイル」という

飛行機雲を創れるとか、、、黒い表紙の本に書いてありました。

宇宙爆発を気圧の要所で起こして、気象ゼンセンの方向を変えるとか、、、

SFまがいの本でした。

突拍子もないことばかり書いてあるので

買わずに、立ち読みして、別の本を買ってきました。

今日の治療薬という本です。

薬剤師になったころの初心を忘れないためにも、

毎年買っています。

今でもパソコンを開けると

調剤しませんか?と

広告が入りますが、、、さすがに、、、

74歳になると、自宅学習で、

人様に質問されたときに

薬剤師として、責任ある回答をする義務が

一生涯あると思って

でたらめを答えないために、新薬が出るたびに

今日の治療薬を買っています。

今年はクリーム色の柔らかな色の表紙ですが

中はどうしてどうして、、、努力の結晶の新薬にマークがついて

使い方、適応症、禁忌なことや、知るべき新薬が登場しています。

知識の堤防紙しれません。

豪雨被災地の被害は、ショックです。

明日は我が身にならないように、

情報を大切にして、

救助隊の皆さんの命を懸けての救助行動に

言葉も出ないで、、、TVの画面に向かって

無事を祈っているばかりです。

静岡に、、、息子の自宅があったらと思いつつも、

水害、地震、など、など、考えながら、

忙しさに追いまくられて、

43歳の息子はAP暮らしです。

30年のローンで買っても、

途中で水害にあってしまうと、、、ローンだけ残ってしまいます。

不動産は、持ち家であれ、借り家であれ、、、

死ぬときは、持って行かれないという

日本の国の物ですよね、、、。

死ぬときは、、、売られてゆくのか、、、?

孫子の代で立て直して、、、30年ローンが課されて

定年のころ、修理や、リホームで退職金を使い果たして

家族の心の幸せをゲットするのが日本の通例ですよね、

固定資産税や、塗り替え、修理、リホームなどを考えると

借りた方が、気が楽かもしれません。

災害のない日本に、何とか頑張ってにじり寄ってゆかないと、

幸せのマイホームが

借金の根源になって、、どうしてようかわからない

苦労な人生になってしまいます。

政治は、被災、災害対策省という

災害を未然に防いだり、

防災マップを地耐力別に色分け配布したり、

河川マップで、天井河川敷地図を造り

建築条件を厳しく条件づけて、国民を借金地獄から未然に救済するとか、

災害に出逢ってしまった時の予算を別に出せるようにするとか、

危険災害、被災地対策省設置することで、

未然に防げることが多くなり、

国の財政の防衛にもなって、

災害から国民を守れる日ごろからの政治が

、、、きっと成果をあげる日が

来ると、思いませんか?

どこに居ても、、、

いつ何時、、、

地震や津波

嵐に豪雨、

火山の爆発、、、

日本の平和は、、、どこにあるのだろうか?

今まで生きてきたことが、、、

神様が守ってくれたとしか言いようがありません。

これからは、日本国民の知恵と心を一つにして

安心して子供の産みたくなる、、、育てやすい国づくりを

基本から、向こう、、、300年のスパンで

安全対策から始めるように

危険災害対策予防省庁を、、、作り

世代交代時に

地域の集落の既得権のある危険地域の国営化をして

安全な高台を交換に開拓するようにあてて

総合安全対策土手づくりから始めてほしいですね。

今回の災害は、、、本当に、

地域と中央国家のコラボレーションの大切さを

目の当たりにさせる災害だと思いました。

国よ!日本の国よ!

由美かおるの若き日の映画だったかな?

「日本沈没」、、、再び思い出して、、、

政治音痴の婆ちゃんが、、、日本の政治に一工夫を提案したいと

狂の日記は、、、ほとんど、、、胸のもやもやを吐き出しました。

 

 

 


5時30分!!!ロシア延長で同点のシュート!!、、延長、、同点、、、PK戦

2018-07-08 05:32:20 | Weblog

su,,su,,すごい!、、、面白い試合だよ!!!

お父さん!起きなさいよ!、、、主すごい一瞬だよ!

!!5時40分、、、PK戦だよ、、、

お父さんタラ!!!

おきんなさい!

、、、、、、、、、、、、、、、、、起きてきた旦那!

2対2じゃんか?

延長の上 こうなってんのよ!

世紀のPK戦見ておこうよ!!

、、、、、ン、、、眼覚めてきたよ。

大丈夫7、、、

ちゃんと見るからさ!!

ロシアもクロアチアも、、、

PK戦頑張れ!!!

どっちも、勝て!!!

ロシア、、、、ぎりぎりを狙ってシュートを外した!

クロアチアに風が吹いた、

勝利への風が吹いた!

クロアチア決勝へ進出だね!

すごかったね、、、寝転んでシュートしたり、

ロングシュートだったりl

キーパーがダメ―ジ、、、心配のうちに立ち上がり、、、

3時間がすっ飛んだ面白い試合だったね。。。!

お父さん!起こしてごめんね!

もう寝ていいよ,、、昼まで         

m(^^m

 

 

 

 


光の中の35歳

2018-07-08 02:57:06 | Weblog

真夜中の3時です。

宇多田ヒカルと芥川作家のインタビュー番組を見ていたおかげで、

3時になるまで、43歳の息子が、大学時代に、集めていた歌手が、どんな人かわかりました。

彼女は、こびない

彼女の詩も歌も、、、メロディーも

声のトーンも

「孤独」というよりは

全ての人に、、、「あの人は私なのよ、、、」と

同化させる何かがあるね、。。。

白いギターを抱いて「新宿の女」を

無表情で歌っていた藤圭子さんから、、、生まれた別人?

売れるとか売れないとか考えなくても、、

、自分が時分でいられる「媚びなくても生きている、、、ありのまま。」

母と娘、、、表と裏

藤圭子さんはいつも「孤独を歌っていた。」

宇多田ヒカルさんは

人間の孤独を神様が光で包んだ。

孤独は「真実」だよ、、、輝いているよ、、、孤独。

光の中で、孤独はまぶしくて見えない。

人は、、、一人で生まれて。。一人で死ぬ、、、それは違う!

人は母の胎内で愛の海に浮かんでいた。

人は母の愛の海から出て行った。

もっと,、、もっと、、、大きな愛を探して

手探りで歩き

目をつぶって愛を探し

愛が形なのか、ぬくもりなのか、、、慰めなのか、、孤独の特効薬なのか?

探しあぐねて、「お母さん、、、」

私の中の「お母さん」

お母さんが振り返り、、、振り返り、、、私を導いてゆく、、、

どこ絵行くの、、、?

お母さん

お母さん、、、

私の中のあなたが、もう一人の私。

お母さん、、、私はあなたの一部分が、

空に放たれた光だったのね、、、

勝手に私の中で言葉が走って、、、、、こんな詩が生まれました。

*************************************

さあ3時です!

サッカーの観戦の時間です。

私だけが起きています。

私だけが、、、この家の主です、

赤と黒が戦っています。

忙しく、目まぐるしく時は刻まれて

雨も風も、私にはどうすることもできない憂鬱を忘れて、

私は茶の間に世界の熱気を受け入れています。

現実です。

TVという虚数は実数なのです。、、、母と娘が一体であるように。

この、、、ぬくもりだけは真実。

私の初恋は「母」

それいらい「初恋は知らない」

それ以来、、、なぜか、、、違う愛を、、、愛と考えて

私が居なくっちゃ、、、気負って生きている。

皆、、愛を探してさまよっているから、

自分を愛して「自分を探して」、、、消えそうな自分に意味を持たして問いかけるから

鏡の前の自分を見るから、、、

私を必要とする人を探すのは,、、もうやめて、

私が死んだら、、、海に灰を撒いて光の中に流してね。

 

 


光陰矢の如し、、、

2018-07-07 11:10:05 | Weblog

ワクワク待っていた「ワールドカップも

とうとう終盤戦になって、世界のサッカーの中でも

イングランド ロシア クロアチア スエ―デン の 勝ち残り国と

サッカーの元祖  フランスの激突の決勝戦が控えている。

へとへとの肉体年齢で、夜中に足がつることもあったが、

今回のワールドカップは、

イッキツウカンドラドラのロンと言えるほど

完全観戦の「一手」目指して。

家事というピンズ―ハイをどんどん捨てた、

ニコニコで上がり❕(^^y

字牌 絵牌の観戦の真夜中の「らんらんと光った瞳」の婆ちゃんは

50歳若返っていました。やっと、、、

毎日の徹夜で、、、眠りながらの家事をこなしている。

 

島国の日本は、根っこに侍魂があって、、、

私は「侍はかっこいい」と、、、

心から思う「時代劇映画の最盛期」に

十代を過ごして着た。

「親子鷹」、、、

欣也ちゃんのきりりとした少年姿がむねきゅんだった。

旗本退屈男の市川歌右衛門は、あでやかな着流しで

悪者をバッタバッタとやっつけて「、、、パ、、、パ、、」

セリフにも個性の時代であった。

勧善懲悪のストーリーは

富士の山を背に、侍の笑顔で、、、映画は「終わり」だった。

女子大も、短大も、親は行かせたかったのだろうけど

スポーツの日大に進学した。

多摩川まで、長嶋選手の練習を観戦に行ったりもした、

サッカー狂のボーイフレンドが居て

クラスメートを誘ってくれた若い時代。

サッカーの試合は、

やっぱり「ヒーロの釜本さんを応援に行っていた。」

大学に入って、

「サッカーの釜本さん」の試合を観覧するようになっても

日本のサッカーは「ヒーローの釜本さん」で、

サッカーを良く知らない女学生の間でも、盛り上がっていた。

、、、、あれから、、、50年

 

サッカー人口も増え、

サッカーの本当の面白さは

息子が小学校に通うようになって、

体育の、指導教官が

「少年サッカーチーム」を作ったことに

大きな「目覚めがありました。」

息子はとうとう、、、補欠で終わりましたが、、、

サッカー少年団を結成した先生は、、、

当時は郷ひろみ系の若さとパンチのある体育の先生でした。

そして、息子たちが社会人になるころには

校長先生になっていらっしゃいました。

発足当時は、、、父兄は応援団でした。

チームの子供たちを、愛車のアコードで

札幌中の小学校のグラウンドに送り届けるのが、

手始めの父兄の応援でした。

応援団として

参加するようになって、

技術はうまいが、パスの下手な子供や、

集団の陣形がひらめかない、個人プレーの子、

足技がうまいんだけれど、、

ボールを独り占めする子、、、

教官の笛が鳴ってもマイペースの子、、、

父兄として、出来たばかりのサッカーチームの応援で

息子と観戦しながら、、、

サッカーをだんだん好きになってゆきました。

息子は大学に入ってから

「アメリカンフットボール部」に入りました。

今は、大学にはなくなってしまった部ですが、

防具が、体を守る、、、

ちょっと怖い戦いで、

比べているわけではありませんが、、、

男の世界のようで

接点を持つまでには至らないまま、、、息子は卒業して就職しました。

***********************************************

サッカーは、

ボール一つで知力体力技精神の強さを競うので

私はサッカーが好きです。

サッカーは、

メンバーの全員が

「主役」になった、

しかも全員で勝ちに行く!

主婦のように、ゴールキーパーの技ありが楽しい。

それぞれの選手に、命がけのサポーターが、

顔を日の丸に染めて、叫んでいる、

 

世界の「サッカーフアン」は、、、もっとすごい!!!

TVを見ていても、

熱気が応援席から伝わってくる。

日本は、

ワールドカップのベテランの

本田選手が

年齢を超えて、

次の時代につなげるレジェンドのシュートで

日本の限界の力を出し切って戦ったが、、、

相手国のゴールキーパーは、、、すごい守り力です。

残念なシュートではあったが、

国際レベルともなると、、、

侍魂も、、、まっすぐでは

いまいち、破れなかった、

しかし、体当たりのシュートも

優勝候補の国の力には及ばなかった。

あの、本田さんでも、、ゴールを阻まれてしまった。

尋常の作戦では、、、通用しないワールドカップ!

でも、

後輩をけん引する流れをつくったと思う。

 

おそらく、全員の選手は

「自分たちの限界を出し切ったと思いました。」

最後の試合で

2対2の剣ヶ峰で、

「3点を取りに行った侍魂が、、、」

世界のトップレベルのゴールキーパーに阻まれった時

 

侍魂の一刀両断は

世界のサッカーは防げるレベルにあるということだから

これからのサッカーは「一匹狼が通じるような個人の殻をもった選手」が

さらに、

「全員で勝ちに行くという、、、矛盾した発想」のもとで、

全体を見ながら、

全員が陣形をつくりながら、

相手のチームに空間を誘いながら、

その空間に、大迫選手などが走り、、、パスで、、、シュートへと

相手のスキをつくらせる誘いのパスの研究が、シュートのメンバーのパスを受ける陣形の

パターンが、、いかに多く持てるかという

戦略が、ぎりぎりの力の勝敗を決まるような気がしてきている。

パスの送り手であり受け手であり

監督魂を持ちながら選手であり、

技術のマキシムの披露できる「体力」が必要と思ってしまった。

アナウンサーもサッカー専属アナでないと、

面白くない時代が来ましたね!

 

乾選手、、、泣いていましたね。

皆、、、勝たせたかった、、、

先制2点の今回の劇的なドラマのサッカーの試合は

後輩に一冊のサッカー聖書を残していったような気がします。

70歳半ばでこんな感動的なシーンに

真夜中に、エクサイトしたことを、忘れられないだろう、、、、有難う、、、日本!


おかえりなさい日本選手!心は準決勝,今!!フランスがウルグァイを破り、ベスト4へ

2018-07-06 12:31:54 | Weblog

きっと、日本に着いてから、、、選手の皆さんは、、、どーと疲れが吹き出すでしょうね、、、!

本田さんにとっての最後のワールドカップになると、TVでおっしゃっていましたが、

選手人生とはまた違った立場で、ワールドカップに貢献する人生があると思いますよね。

ピークの時の本田さんのシュートを、何度か見ているだけに、

ワールドカップの相手の強さが、ゴールキーパーの勘所にも表れていて、

計算できない「試合の流れをつくる、、、情熱の嵐が川の水を逆流させるような、、、」

加速度まで計算されているような逆転劇は、

日本の名刀のような輝きのある動きの対戦だから

負けたとはいえ、、、

生きてるうちに、こんな面白い試合を見せてもらえて、、、

私はラキーナ、、、おばあちゃんです、

次は世代交代で、

ハンパでない選手が、半端でない世界の選手と対戦してゆくでしょうね、、、。

 

今日は、12時過ぎて、、、真夜中にベスト4が決まりますよね。

 

***********************************

夜中の11時からは

     フランス   対   ウルグアイ

 

今!!!、、、フランスがベスト4へ  

2点入った段階で、フランスは安定感をもって、ウルグァイを突破!

19歳の、若者よ!、、、後世畏るべし、、、(^^

1個98円の、サッカー感染の夜食の

エースコックの「どっさり野菜」に

北海道産の「食用ふのり」を入れて、岩のりを撒いて

熱湯を注ぎ、、、体をあっためて、、、

う、、ウ、,、うまい、、、体がアッタマッテ、、、

興奮冷めやらずのまま、、、3時の試合を待っている。

     7月7日 サッカー観戦の七夕は

     主人を巻き込んで、、、、

ベスト4を見極めんと、、、夜更かししている

 

 

 

ちなみに『ニジニ―ノブゴロド』って、、、知ってますか?

*******************************

真夜中3時からは

ブラジル  対   ベルギー

 

スエ―デン  対  イングランド

ロシア    対  クロアチア

 

ベスト4の、、、怪物の試合が見たくて、、、今から昼寝します。

準決勝は11日~12日

決勝は16日

しっかりとカレンダーに書きましたよ。

 

どこの国が優勝するのかというより、、、

ちょっとした試合の流れで

激流のようなパスの奪い合いが見えたり、

ありえない、、、ディフェンスの強さに驚いたり

超技ありのゴールキーパーの防衛だったり、

チャンスを誘って、討手返しをするようなプレーとか、

戦国時代そこなけの、陣形の動きとか、、、

全体の流れが、一瞬途切れる空間に

パスの美味いヘッドシュートが見られたりとか、、、

人間技と思えないシーンに、茶の間で「歓声」を挙げてる、、、真夜中の。。。ばあさん!!

絵にならない滑稽な自画像を想像すると、、、真夜中でよかった!!!

誰にも、観られていない、、、エクサイト! 

サッカーの決勝が終わったら、、、虚脱感が来るかも。

北海道新聞のcollarページを切り抜いてファイルにしたら

圧巻の迫力の分厚い写真集が出来つつあります。

完全に、、、年を忘れています。

私は18歳の時に戻って、

ワクワクしています。

 

 

 

 

 


そろそろ家事を、、しなくっちゃ!

2018-07-05 14:42:28 | Weblog

真夜中中の真夜中まで

イギリス3点、、、コロンビア3点、、、

すごい戦いでしたね。

PK戦が始まって、、、眠れるわけがないでしょう!!!!!

でも、シュートを決めたイギリスの勝利の瞬間は、、、

朝まで眠れなくなってしまった。

ベストエイト進出のイングランド、、、

世界の強豪のサッカーは延長戦の果ての、、、シュート!

人生もこうした試合が、、、お茶の間で見られるようになった今!

今!でしょう、、、寝てられないでしょう!

すごいね、、、世界は巨人だらけですね。

 

 


スイス対ベルギー戦、、、

2018-07-04 00:59:39 | Weblog

今日は早朝から仕事が続き

8時過ぎには、一休み。

二時ごろに、やっと食事をすませた。

外は湿気の多い梅雨もどきの雨。

雨がひどくならないうちに、、、

4時過ぎに

マーケットに買い物に行った。

お肉のコーナーでは、パートの女性社員の

札(40パーセント)貼りが始まっている。

「今日は割引きが、、、早いですね(^^y、」

「雨で、お客さんが少ないと思うので、売り切ってしまうには

早めに値下げしないと、残ってしまうからって、、、」

食品業界は時間勝負で、お天気次第なので、大変な

商売だと思いながらも、

いつも買う「北海道産の豚小間の代わりに、ロースを買った。

急いで下ごしらえすると、、、自覚することなく「爆睡」!

目編めると

「スイス」対『スエ―デン』の試合が始まったばかりだった。

。。。。。。。

またまた、、、TVの時間である。

ディフェンスの強いスエ―デンに

さすがのスイスもスエ―デンのゴールにシュートしても

見事に防御されて、、、同点のシュートが決まらない。

ゴールキーパーも、見事に跳ね返す、胸に抱え込む、

ジャンプで球をゴールの上にそらせる、、、。

スイスは惜敗というところでしょうか?

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 


梅雨がなかった北海道なのに、、、

2018-07-02 01:28:37 | Weblog

 

ここのところ、札幌は湿気の多い梅雨の季節が続いています、

ストーブはたかなくなりましたので、洗濯物が乾きません。

苦肉の策で、天井から30センチのところに

碁盤の目のように、透明のビニールを張り巡らして

洗濯物を、平面に並べて、フアンをかけっぱなしにして、

除湿をしながら、何とか平常の気温感覚で過ごしています。

日曜日も、外出したい気分にならない7月のお天気に、閉口していますが

サッカーの中継や、アクティブに動く若者の野球を観戦しながら

若さを、気力を保てていますが、

お天気が気ままなので、

空の上で、人工衛星が、

お天気をつくれる時代になったのかもしれないと

フト、、、思いたくなるほど、人工知能に誘導される時代になりました。

TVは深夜が面白いし、

世界が舞台の番組では

背景の方が面白いし、

雨の日は部屋の中で、英語で書かれた仏教の本をめくりながら、

70歳過ぎても

いっこうに、、、熟成しない未熟のままの自分に

漢字で書かれた仏陀の言葉は、ズシーンと重すぎて、

英文の方が映画を見ているように

客席で、感動しながら、受け止められてゆく。

真夜中に、NHKの番組で

ミャンマーの獄中生活のあと女医になって

反政府側の囚人が解き放たれた後の

孤高の人生観の放送を見ていた、

仏陀の教えの瞑想のおかげで、

拘束された中での自由な自立の日々を

読書を通して実現したらしく

若き女医の自立した答弁に、

圧倒されてしまった。

70歳を超えた自分は、

聖書もページが外れるほど繰り返し読んでいるし、

カオリックも、新約聖書も、サンダースも、仏陀も、

小説のような気持ちで、リクライニングの椅子の

睡眠導入になってしまっている。

知識としては、十戒も般若心経も、、、そらんじていえるが

意味は解っていないし、

大学で薬学を学ぶ傍ら教職の中学高校の単位を取得するとき

倫理も、哲学も心理学も世もふけった。

提出したレポートには

ドフトエフスキーの「罪と罰」についての

読書感想のレベルのことを書いて提出した記憶がある。

しかし、ミャンマーの政治犯なのだろうか?

刑期を終えてから女医になって、特殊な患者さんの為に

無料診療を続けている彼女に答弁をTVで見ながら

私より、100歳ほど年上の

熟してゆく仙人志願の孤高の人のように思えていた、

一人で生まれ、一人で死んでゆく人間は

つかの間の時間の人生という空間で

あるのかないのか?

自分探しをする人や、

一秒に地球七周り半する速さのごとく

頭の中で宇宙を飛び回る人もいる

人間は万物の霊長と信じて、人間主体の思考をめぐらし

行き着くところは「欲」と「権力」「お金」「自己顕示」の迷走世界にさまよったり、、、

自然から学ぶことが多いはずなのに、、、破壊して、、、呼吸をしないゾーンをつくる。

科学の呼吸と電磁波の血管で、血液の代わりに情報を流してゆく。

自然や宇宙の視点から見ると、地球という小さな星のうぬぼれた生き物の

人間群が、、、もしかしたら「がん細胞」に見えるかもしれませんね。

女性は強くなった?

女性は母性を退化させた?

神の思し召しの通り

餌に選ばれたものは、信仰をまっとうできるだろうか?

餌を食べる側の人になれたものが、リーダーになってゆくという通例。

この、、、複雑に見えて、簡単な、「自立」という一言が

彼女の国では、、、時代に早すぎた聡明さなのだろううか?

スーチンさんとも、買って行動を共にしたという女医さんの

孤高なまでの「自立」への道が

仏陀によって導かれたという。

日本にも「寺は多い」

父の実家のあった市ヶ谷や四谷あたりは寺だらけな地域である。

実家のお寺は真言仏教の、歴史の古いお寺であり、

境内には弘法大師の旅姿の托鉢していらっしゃるような像がある。

日本は、仏教がいっぱいの国であると気が付くが、、、

ソクラテスやプラトンと混同するような

哲学としてとらえている学生が結構多いと思う。

そして、、、私のように、単振動の文系の科目のとらえ方の物は

神様から、入門を待ったがかけられたように

科学で解決しようと理工学部の思考に活路を見出してゆく。

VM21のパソコンは60万円もした。

アップル社の「どでかいフロッピー」のゲームを

息子たちは指先で操作しながら

頭でっかちな近代人に同化していった。

医学部の一年生の夏休みに

母子のひと時を過ごしたくて、

白山の登山口で待ち合わせた。

ぺちゃんこのナップザックを肩にかけたむすこが

真夏の空に雪帽子をかぶった白山を眺め、、、私に言った、

「母さん、、、正気なのか・。?。。。

頂上は雪があるじゃないか?、、、本気で登る気なのか?

、、、降りて来なきゃならないんだぞ!!、、、

僕は降りる!登る前に、、、降りた、、

母さん、、、金沢に出ようよ、兼六園でゆったり過ごそうよ、、、

てっぺん観ているだけで、、、僕は満腹だ!、、、兼六園の松の前で明日待ってる!」

貴重な束の間の夏休みに、一生分の母と息子の絆を結ぼうと計画した登山も

登山口で別れた、

日大の学生時代の恩師と当時助手さんだった先生が

金沢大学の先生たちと、

国際学会のあとの企画としての登山だけに

Everest登頂成功の先生が登山設計をされた馬の背コースの

手ごたえのある計画だっただけに、

私は北海道から、参加した。

この山は。韓国の人たちにとっても、信仰の深い山で

国際親善にも、大きな役割を果たしている山であった。

信仰、、、山信仰、、、という心もある。

私は白山登山を終えて、金沢に出て、兼六園で息子と再会した。

「忍者屋敷、人形の館、、、、武家屋敷の通り、、、面白かったよ。」

夢中で話す息子と、輪島に向かった。

海岸沿いのバスを乗り継いで

能登半島の旅をしながら、

まさに、、、解りやすい今どきの大学生の息子のバス中寝顔は

宗教も、自立も、哲学からも程遠い

まっさらの「学生という新人類」の感があった。

あれから二五年近く過ぎたとは、、、とても思えない、

我が道を黙々とマイペースで歩いて行った、、、あの時の息子は

いま、静岡の基幹病院でERのオンコールの責任者として

救急患者さんの生死の境の診療を担当しながら

43歳になったいま、

そろそろ結婚を真剣に考えなくては、、、孫子に会えないまま人生はゴールしてしまう。

医師、次男、音楽、絵画、柔道、人並みに常識も豊富。文を書くのは秀逸の才能もある。

しかし、、、ペーパードライバーである。

救急患者担当の責任ある医師となってからは、

真夜中の出勤や、疲労困憊していても出勤がある若き日が続き、

車の運転は、危険が伴うというので、タクシーに切り替えたという。

タクシーだと、束の間の居眠り時間を購入できるので

激務もこなせているという。

デートでマイカーに彼女を誘う事すらなく、、、恋はむつかしい医療業務の中で

仕事が充実しているだけに

大人になり切れない若者の頭脳のまま

43歳のシングルの息子の将来が案じられてくるから、

母親というのは、仏門には程遠い信仰心である。

真夜中のミャンマーの、自立した女医さんの

たしかな人生観を拝聴しながら、

一見平和な日本の社会の中で、

世界の国々との相関関係の惑星のように

絶妙な経済引力、技術引力、文化引力、、、などなどの、、

数々の思想や哲学という放射能の中で、

人工知能がバランスをとりながら

惑星のように

移動しながら、

時間が場所によって速さが変わる地球上で、

間違いなく年を取ってゆく自分の「自立を手探りしてしまう番組」であった。


メッシ、、、最後のシュート,,そしてベルギー戦

2018-07-01 00:57:56 | Weblog

すごい試合だね!

4点のフランスに3点まで挽回

一瞬のシュートが、、、もし入っていたら、、、ゴールしていたらと、、、

お茶の間での臨場感のある試合に、、、興奮して眠れませんね、、、

すごい試合ですね、、、

おや・おや?

スタジオに、釜本さんが登場してきました。

とにかく、サッカーは、神の子メッシも、フランスに敬意を払われながら、勝てなかった。

でも、フランスと、アルゼンチンの今夜の試合は、

多くのサッカーフアンの心に残るだろうと、、、思うよ、、、

ほんと、、、半端じゃない面白い試合で、良い試合でしたね。

 たった今、ベルギー戦が終わり、、、ボートしていました、

最後のチャンスのフリーキックが

ベルギーにとっては

究極の「ピンチの後のチャンス」という、、、作戦だったかもしれない。

本田選手のロングシュートは

ベルギーに研究されつくしていたかもしれないガードの的中でしたね。

大迫選手の半端でないことを、宣伝しすぎたことも

本田さん大迫さんの中継ぎシュートを読まれてしまうことになるから

日本側から世界に選手の情報を撒いてしまったことも、

強すぎる相手には、致命傷になるのかもしれない。

マスコミは、選手と一体となって

選手情報も作戦のうちというぐらい、、、

日本がしたたかに、全てのジャンルで一体にならないと

選手情報が研究されて、ミスを誘われたり

おいしすぎるフリーキックや、コーナーキックまで

相手は作戦の一部だったのではないかと、、、

疑いたくなるほど、

ピンチのあとのチャンスをつかむのがすごいと思った。

世界の壁の厚さというか、、、、

シュートも野球ボールのように

回転がかかり、キーパーの直前で落ちるとか、、、曲がるとか、、、

新手のシュートを編み出さないと、

キーパーの勘の良さは

日本の誇る本田選手のシュートでも

とられれしまうんだと、、、ショックでした、

まっすぐなロングシュートは

ワールドカップでなかったら、キーパーは

猫が雀を空中でとらえるような

動物的な勘は見られないほど

両方のキーパーがすごかったですね1

川島さんは、、、ウルトラ技を見せてくれて

面白い試合でした。

でも、、、最後の時間の

おいしいチャンスは、、、ベルギーが

したたかに、、、撒いた

肉を切らせて、骨を切りに来たと、、、考えるのは

深読みすぎるだろうか?

地続きのヨーロッパの歴史の中で生き残ってゆく作戦は

海という完ぺきに近かった日本の島国では

情報を不用心に垂れ流すマスコミも、

もっと、もっと、世界の壁を知る必要があると思いました。

6人交代、、、半端でない大迫、、、

むしろ、大迫選手などは、、、隠し玉にしておいて、、、

本田さん、、大迫さんの取次ぎシュートを

マークさせないほうが、、、作戦を読まれないのではなかったのかなあ、、、

日本の着物は「裏の生地で決まる」、、、みたいな、

本番で脱いだ羽織で、腕がばれるのはいいが

大迫さんを相手から見えるライトで照らしてしまったのは

彼の中継ぎの上手さを、配置の段階で相手に読まれてしまうという

手の内を「日本のマスコミが、早く披露しすぎた」、、、と。

強すぎる相手には、情報を撒いてはいけないと思った。

裏の裏の裏を読まれて、、、おいしいエサを撒く前に

日本側から、ゲットするように誘ってきて、

ピンチの後のチャンスが目的で動いているのではないかと思えるほど

配置のリレーが、陣形になっているので

偶然とは思えない、分厚い壁を感じた。

ワールドカップは、戦国時代の

「黒田勘兵衛」をコーチとして加わってもらわないと

したたかすぎると思った。

まっすぐな、研ぎ澄まされた、まさにスポーツマンの究極の精神も

磨かれた技も、情報の処理係が、一枚上手の作戦で

ロングシュートのゴールに行き着く微妙な時間を

ベルギーは攻撃の陣形に変えていたという秒争いはすごいと思った。

本田さんのシュートはゴールキーパーに任せて

攻撃態勢に陣形を移動させる、、、ピンチの後のチャンス。

ピンチはチャンスであるという動きは

外側の人間が瞬時にわかるのは無理だと思った。

奇蹟に見えるこの動きは

一覧のダンスのように

練習されていたと思える選手の特性が分析されてしまっていたように思えた

 

サッカーを知らない70を過ぎたばあちゃんが

第二次世界大戦で敗北した日本が

アメリカに、軍艦の位置までレーダーで把握されていたことや

雲の後ろに空軍を待機させて、日本の軍艦が誘い出されたことなど、

世界の情報のたしかさに、ぎょっとなるのは

いまさら、、、始まったことではありませんが

大迫選手を、、、隠し玉にして、活躍しやすくするのも

作戦だったように思えるのですが、、、、

茶の間の、お粗末なサッカーの知識の婆ちゃんは、

世界の壁の厚さに、、、ぞーとしています。

日本は、、、本当に、、、よく戦ったし、、、

美しい、スポーツ選手の、、、まっすぐな戦いだったし、、、

これ以上は、、、心の美しさがストップをかけるほど

ベルギーの船が浮かんでいる海の底は見通せない怖さがありました。

世界は、、、すごいね。

胸を張って、帰国してください、

ここまでこれた日本のスポーツ精神が、

次の時代に大きな何かを伝えてくれる試合でしたね。

私は、サッカーが好きなだけで、面白いと思いながら

毎日、サッカーに明け暮れていましたが、

今からは、主婦の仕事をまじめにこなさないと、、、

洗濯ものだけでも、、、山になっています。

楽しかったよ、、、日本のサッカーチームに

70歳代の「青春」をいただきました。