花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

ため息しか出ない、、、

2018-05-27 03:18:30 | Weblog

いつも、楽しみに家族そろって拝聴する優良番組と

我が家では、孫子含めて3代の共通会話のもとになるTV番組です。

難解なものだけに、、、「なるほど、、、!」という

生徒になり切って観ております。

本日は「日本にはスパイがいっぱいいる!?」という

発言に驚いています。

アメリカ兵が、

ドイツやイタリヤに多いのはそれなりに理解できますが

原子爆弾で本土が木っ端みじんにされた日本が

生まれ変わって、

文化国家として、

経済を中心に

世界から必要とされる国になっているだけに

スパイが居ても、産業スパイぐらいかな?と、、、

平和ボケをしておりました。

私は家から近い高校に通学しました、

小松川高校は「政治に明るい女性生徒」が大勢いましたが

先輩に、山口シズエさんだったかしら?

女性議員が居ました。

美人で最先端の指導力と、女性の認識を変えるだけの実績のある先輩で

大いに啓蒙されました。

マンモス大学の

日本大学に通うようになってからは

ノンポリ、、、という感じで

政治より、まず、自分を仕上げないとならないという

「底抜けの大きな社会の縮図」のような日大に

なじむところから始めました。

男子生徒が、圧倒的に多い理工学部の女子学生として、

ESSの会話クラブに所属して、

外国を意識するという昼休みを過ごしました。

すべては自己責任で、

手探りで、

自分がやるべきことを考えながら

一粒づつ米粒をつぶすがごとく、

教科書をめくりながら

巨大社会にくっつける為の、

専門知識に対応できる知識の糊を作りながら

とれる免許をひとつづつゲットしながら、

なんで免許が居るのか?を

自分なりに多岐にわたって検索するという繰り返しでした。

総合大学の良いところは

教職免許も習得できたという事でした、

 

中学の教職免許の実習からは、

「義務教育の必要な意味」の

根っこが漠然とわかるような講義があったという事でした。

被差別問題に突き当たったり、

日本の歴史を読みふけったり、

島崎藤村の「破壊」を何度も読んで、考えさせられたり

「橋のない川」など、、、

疎開地の村落で出会ったシーンを思い出したり

夏には合宿で、信州の山を歩き回って、

薬草になる植物を探しながら、学問は足下にあると痛感しました。

巨大都市となった「東京」、、、どこにも戦後は見当たらなない。

東京都はあまりにも違う価値観に愕然としたり

田舎暮らしの自然にあこがれながらも、

旧いしきたり手順に、困惑することもあり、

新しい視点に気が付いたり

人生はタイムアップになる前に、

世界遺産になるような、

厳かな歴史は観光旅行で認識だけしておいて

傍観することで、とりあえず常識をもって傾聴。

自分の人生で間に合いそうなことで、

社会に貢献しながら、

あるジャンルには

糊のように、

ペタンとくっついて、生きてゆく場所を作らねばなりませんでした。

生きる居場所ができるまで、こだわりぬくことの必要性を

漠然と、、、日大から学びました。

 

一方、、、個人的な家庭教育を軸に考えると

子供のころから、

イギリス医学を学んだ父の垢ぬけてまぶしいような

雰囲気にあこがれて、一度は医師になろうかと夢見た時期もありました。

戦場での野草の薬効の認識から、薬の欠損を切り抜けた経験談や

戦争は反対でるが、戦場では軍医の居る隊は強かったという

敗戦まじかの攻防戦の激しさ。

医師として、幸せだったとは、、、思えない、、父。

ドクトルジバゴの映画も、

戦争中の、、、医師でありながら、医師の仕事のできなかった

幸福とは言えないドラマであるが、

戦争中も戦後も、日本人は

激しく、厳しく、カリスマ的に生きる人が

珍しくなかった。

同じ医師になっても「戦後と「戦前」では

社会的な立ち位置が違っていたような時代の流れの中で考えると

 戦前の大博士級のイメージから

戦後の労働省の基に置かれた医療界との違いはどうだろうか?

父の背中を見て、医師になること以外に考えられなかったという兄、

日大の医学部に進学した兄は

果たしてこうふくだったのだろうか?

頭脳のジャンルのスポーツクラブのように

絶対の位置に居る教授の基で

床から天井に着くような量の「教本」を読み続ける7年間は

完全に医師の世界の一部になってゆく兄を見ながら

無造作に読みかけの医師法らしい法律の本が伏せてあるのをめくると

小さな字で、、、読む気持ちにはなれない、、、がっくり来るよな

薄い紙でした。

「日大は、先生の方からは指図はしてこない、、、

しかし、、、試験に合格しないと進学はさせない、、、

そして、落第すると

授業料は、決して安くはない落第分の追加を払わねばならない。

私立大学の医学部に進学しても、

生体の宇宙という基礎的な学問に出逢える学生は

ほんの一握りであり、

学問の夢を追うには

親が相当なお金持ちであり、

息子の夢を信じて応援してくれる条件下でないと

私立大学の医学部は誰も彼も、、、

学力があるから、、、というだけでは

卒業してから「医師をする」という事の方が

難しいのではないかと、、、、???

妹で、女性蔑視の日本で、

私大の女医になっても、結婚しているようでは、仲間外れになるのではないかと、、、?

前途多難な条件が待ち受けていると思うと、、、委縮してしまう何かがあった。

戦争で疲れ切った外科医の父が、長生きするはずはないとは、、、

常日頃から、緊張して、その日その時、最大限に頑張って生きてはいた自覚はあるが。。。

大学時代に父が50歳半ばになるころ疲労、過労死で急逝した。

やっぱり、、、7年かかる医学部に進学しなくて正解だった。

途中で挫折するところであったと思うと、、、ひやりとした。

新卒だっただけに、、、

兄は日大の医局では無くて、

がんセンターに研究生のような無給の立場で

教えてもらいながら、帰宅してからは開業業務をこなしながら

「内視鏡の指導医」の認定をいただき、

開業は閉鎖して、千葉県にある「亀田病院の胃カメラ指導医」として

勤務に出て行った。

父の残した戦後の立ち上がりの為の開業は

父の時代の医師たちを過労に追い込み、

40代半ばで倒れて、閉院していった外科医も見た。

開業の時代は、税制が優遇されて推進されていた時代から

逆条件の時代が始まっていた。

健康保険制度は、術後の高価薬の抗生剤なども

使用制限があり、医師の自腹で継続投与を余儀なくされた外科開業の事情であった。

請求事務も、添え書きの思いつかない明治生まれの愚直なまでの医師らしい医師は

融通性も利かない不器用さも手伝って

経済観念のある医師のみが生き残れるという

医学とは矛盾も多い「保険制度の出発」や「諸々の政府の制度の追加」で

税制改革で、「医師をする」医師は、開業をたたんで

勤務医になっていった時代が始まっていた。

一方、、、銀座の真ん中では

お金持ちの「患者さん」数名診察で、開業してゆくという

時代をとらえた、医師以外の頭脳の明晰なタイプの開業医が

雄弁だった時代になっていた。

普通の開業医は

家族はサラリーマン「中の中程度」の

生活レベルがあったように思えるが

戦後だけに、オール貧乏なドサクサ時代だけに

医師の家庭は

社会的には「金持ち」という誤解の多い立場であり

嫉妬も多く、由衛なき被害もあったりした。

医師夫人は孤立する人もかなりいた時代であった。

東京は、勤務医は、

中流サラリーマンとして信用の高い好感度スペシャルで

様々なレジャーの会員として勧誘を受けては

仕事の傍らストレス解消に

一瞬の束の間の素敵に、仕事からのストレスを解消していたりした。

「高級ホテルのスパ」などの会員も

結構いたような時代が

過渡期としてあった。

安全と時間の節約と、患者さんへの義務でがんじがらめの神経を

休め乍ら、煩わしい騒音を避けて、

出逢う人間も、個人情報の守れる環境に

月給の大半を払いながら

精神と、肉体の健康をリセットしに、週末は仕事の為に

必死に泳いだり、ゴルフをしたりする姿が、開業医には珍しい光景ではなかった。

戦後の復活の屋台が並ぶ都心でも

気楽に屋台に陣取るタイプの医師仲間も居たりした。

「贅沢な一族」というイメージで社会からは

子供たちは嫉妬の目で見られたり、

特別扱い的な疎外の「いじめ的な行動」に出逢ったり

「命を相手に戦う医師の内面のストレス解消は大変な費用がかかっていた、」

日大卒の兄貴にとって、スポンサーの父親を失った瞬間から

お金持ちの子弟の集まる条件下で

医局生活を続けることは不可能な時が来ていた。

日大の話から、、、いつの間にか医師の舞台裏の姿の話になってしまいましたね、、、

マスコミから、表面に見える姿と、

その一瞬一瞬に使うエネルギーが、

お相撲さんの優勝争いにも似たすごいエネルギーの放出があることは;

一緒に暮らしている妹には、

お^らというのか?雰囲気といえばよいのか?

私なら、負けてしまうだろうと思える、、、重たい空気に包まれていた、

学力的には国家試験までなら

私にも頑張れると思われたが

医師の国家試験を通過してからの人生は

体力、気力学力。

時代とともに進む医療環境の

ネットワークの仲間にしてもらう事や

親兄弟の価値観の同一化と協力や

金銭的応援、、、ETC.

兄貴を見ていると、医師一年目で

院長の父親を亡くして、

残された50歳の半ばの母親のstatus維持と

弟妹の大学進学が同時に双肩にっかて来たのですから

ボンボンが社会に放り出された状態だったと推察できます。

短大卒の兄嫁には

男の意地もあったと思うのですが

家族一丸となって、「医師の奥様」というstatusを守り

「平和ボケの奥様になっていただきました。」

母は50人以上のピアノの弟子を教える日常を持続し続け、

3人いっぺんに辞めてしまった台所のおばさんたちの

家事万端は、私に回ってきた。

週末は家族全員の洗濯を母から頼まれて、洗濯場に、ひねもす入り、

クリーニングに出すものや

洗うものに取り囲まれて

洗濯機の回るそばで、

「大学祭の英語劇のシナリオを覚えたり、、、」

手洗いするものは

足で踏みながら、英作文を覚えたり、

お鍋の蓋を持ったまま、法学の文を丸暗記したり、、

夏休みは早朝から、教育実習に出かけ乍ら、帰りには

リュックに夕食の材料を背負って来たり、

、、、、、

力がないと、出番がないことを痛感しながら

使用人の半減した我が家の雑用係は

私に白羽の矢が当たったのでした。

次男の兄貴は極めて要領が良かったのです。

外国系の医薬品の会社に勤めながら、

英語やドイツ語がネエイティブになるまで

会社の仕事に並立して覚えてしまい、

通訳試験に合格して

外国に行ってしまいました。

てんやわんやの、、、父のなくなった後の激戦時代が過ぎるころ

相当のことには驚かなくなってなっていました。

兄も弟も医師として、

「医療への夢に忠実に借金経済をとってゆきました。」

何よりも、医療を第一に、時代に沿って、日進月歩の医学の世界に

全収入を

「医師をする」ことにかけて、精進する二人の姿を見ながら

「真似のできる技ではなかった、、、と。」過去を振り返るのです。

太い胃カメラは、どんどん細くなり

先端が回転するものや

先端で胃の組織を採取できるものや、

日進月歩の発展に、兄の胃カメラ室は

剣道の道場の木刀設置場所のような、

毎年、、、バージョンアップされた型の胃カメラが増えていった。

オリンパスの製品が多かったのを覚えています。

パソコンの端末はオルガンほどもある巨大な?もので。。。

開業は、、、儲かるどころではない、

バンカブルな医療機械の会社の客という時代でした。

一本、、、安いもので150万円前後の値段です、

大学卒業の男性の月給が12000円の時代です。

銀行が開業医の大蔵省でした。

普通の世間の風評では、医師が二人、薬剤師が二人の家庭には

「お金が儲かると、、、考えがちでしょう?」

弟は、がんセンターの黎明期に「夢を現実にと、、、」

全力で、がん撲滅に向かって、

CTってなんですか?、、、の時代を、

CTを知らない人が居ないと言える今日まで

がんの早期発見の検診、研究に世界レベルの実績を残しました。

開業医の兄が居ることは、あたかもお金が回ってくるのではと、、、思うのが世間ですよね。

しかし、はじめは無給で研修に入ったときは

2年目で、貯金がなくなり、一般の病院の医師募集の求人を考えなければ、、、

兄の開業の医療施設で留守番になって働かなば、家族を養えないというピンチに遭遇したらしい、

もう、、、限界だという、、、そのとき、

市川先生が、弟の仕事ぶりを認めてくださり、スタッフとして有給になりました、

兄は、兄弟には他人いじょうに金銭には厳しく、

弟の無給時代には一切の応援金は出さなかったのですが、

実家の長男だけが相続をする時代の流れに反して

弟にも何らかの遺産があったのと勘違いするのが、、、

世間という評論家の思惑でした。

兄も悪ふざけがsyギルと思うほど、弟には厳しかったのを不思議に思うのです、

「私は弟の借家住まいの自宅にお邪魔して、質素な生活に絶句でした。」

兄に、「姉のゴルフ三昧、お稽古三昧、グル目三昧、、、旅行三昧、、、

プレタポルテのドレッサーの金銭使用を半分にして、、、弟にまわせないのでしょうか?」

、、、と、、恐る恐る尋ねたところ、

開業は、お金を世間に回すような使い方をしないと、、、ね。

稼いだお金は「医療機械、設備投資、学会、研修、すべての品質向上や

仲間の生活水準に合わせないと、地域への役割は多岐にわたって、

開業しないと理解できない出費が「患者さんの心を安心に導くのだよ。

「それを見て、、、ショウウインドウのように、役割が果たせる時期だから、

本人は、、、無意識でセレブのように気取っているが、

150人の日々の外来患者さんは、

奥さんの派手な金銭感覚で、セレブの華やかさがあるから、

心理的に、

流行っている病院に自分も通っているという、、、心の循環があるんだよ。」

つまり、、、無駄な贅沢費用ではなくて、

アグレッシブな元気な通院と回復に、ムードメーカの、、、

立派な仕事になっているのだと、、、、兄は言った、

キツネに騙された心持を品がrも、、、

たしかに、、、世間やマスコミは、、、

象は薄い内輪のような生き物だと、、、得意になって話す、

一部を取り上げて、

上から目線で

話題性にある方向にと

聴衆を振り回してしまう。

兄としては、、、苦肉の策なのだろう、、、・

市川先生は、困窮のぎりぎりにいる弟に、

ぎりぎりのタイミングで、

「正職員として、

がんセンターの夢を追うことのできる医師、、、として

推薦してくださったのでしょうね、、、きっと!」

未来のがんの早期発見に向かて!」

月給をもらえる立場になれるまでの、評価をくださったのでした。

 

兄も、戦争を挟んで激動の時代を生きた父の早逝後

母を守り切って、がんセンターで認可された

内視鏡の指導医の腕一本で、千葉の亀田病院に勤務医として出発しました。

母からは、「開業の時代が難しい社旗情勢となり、実家は閉院をしました。

あなたも、寂しいでしょう、、、実家がなくなってしまっても、

兄を、ウランではいけません。母親のピアノ主室の継続が出来たのも

孤独に耐えて、開業を維持しながら、学問を続けた兄の努力に、私は感謝しているのです。」

実家は売られてゆきました。父の死後、未完成の弟妹を仕上げ、母を守り

自分の妻を

「平和ボケの世界に維持することで、開業の集客力を維持し続けた華やかさ演出は

デパートのショウウインドウのように、維持費は莫大だったのですね。」

実家は売られてゆきました。100円の相続の分け前もありませんでした。

弟は、売られたのも、後から知ったという「寂しさの中でした。」

売られてしまった実家を一緒に見に行こう。。。と

あんまり熱心に言うものですから、弟の車の

後部座席に乗って、降りないまま、実家を観ました。

門から玄関まで植えられていた母の大好きだった木々はなくなり

自動販売機が並んでいました。

真っ白だったビルの壁は

模様タイルで返信していました。。。

何十年も前に、駅と我が家の間ぐらいにあった

「AK病院」という立派な医療施設が

先生が亡くなると、すぐに更地になり、、、

何が出来るのかと思っていたら、、、

モ^テルになりました。

哀しい思い出と、家族はあきらめたのでしょうか?

その後、転々として、今はマンションになったようです。

自分の実家も人手に渡り、、帰る所もなくなりました。

弟が、自分の自宅に呼んでくれましたが、

弟らしい学者の家で、こじんまりとした、子供との2世帯住宅で

質実剛健の無駄のない、庶民の性格の暖かな普通の一軒家でした。

学者として、国立がんセンターで、医師としての夢を追って

早期発見のがんの撲滅に向かって生きた弟は

質素な家の前で輝いて見えました。

実家が相談もなく、知らないまま人手に渡っていたと

嘆く弟の、時間貧乏は、寂しさがいきなり降ってきたようなありさまでした。

「いいじゃないの、、、子供と孫の、こじんまりした二世帯住宅はローン付きだって、、、最高だよ。」

「実家の患者さんに占領された大きな待合室は、

自分のものと勘違いはしても、維持する役目だけじゃないの?」

その点、、、ローンが残っても、二代目が払える小さな木の家は

まさに、隅から隅まで、、、家族の物でしょう、、、

維持だけしなくちゃならない建物が、

ただ同様で売られたからって、壊し代金が要らなかっただけでも

良しとせねばね、、、。

「弟よ、、、君自身が、、、がんセンターの黎明期に、

夢に生きて実現とした実績が

世界中に実家があったような気がします。」

父の時代は手遅れになりがちだった悪性腫瘍の外科手術も

団塊の世代の頑張りで、がんと共存しながら勤務する時代になりました、

姉の私は、皆の夢を実現化してくれた「弟の生きざまそのものが実家」だから

「お姉ちゃんは、、、寂しくないからね!」

兄弟、、、戦争の生き残りの4人が

父母を囲んで会いたくなったら、、、オリオン座で会おうね、、、」

日大を卒業した兄、そして、日大の薬学科を卒業した私、

千葉大の医学部を卒業した弟、

そうそう、、、もう一人要領のいい某薬学大学を卒業して

外国で4年も暮らしていた兄の子供は

東大の大学院を卒業して、東大生と結婚して;

長男の入学したかった東大を子供の代で実現させました。

実家は、、、子供の時代に東大生を出せたという事が「実家」になっているでしょう。

よーーく考えてみようよ、、、

巨大なビルであろうと、、、中間の病院であろうと、、、

小さな庭の家であろうと、、、

銀行からローンを借り建てて、、、自分のものと思っているだけで、、、

固定資産税や、相続税、、、維持費にリホーム、修繕代金、、、壊し台と、、、

結局は、死んでゆくとき持ってゆけない粗大ゴミだよね。

主が住んでいる間だけが、満開の香しい香り付きの実家であっても

主が居なくなった、、、コンクリートの240坪の東京の土地は維持はできません。

まわりまわって、、、国の物なんですよね。

生きているうちは家も生きている。

主が死んでしまった家は、、、不動産屋さんの商品でしかなくなりますよね。

大事にしたいのは、人はどう生きたか、、、という事かもしれませんね。

同じ、母のお腹から生まれたとは思えないほど、それぞれが違う我ら4兄弟!

74歳になろうとする私には、、、兄弟に感謝です。

遠く離れていたけれど、、、皆が実家だと思えるから。

生きてきたことを振り返ると、「実家」というのは、家ではなくて

「消えることのない感謝」かもしれません。

私が死んだとき、私の実家はなくなるという、、、形而上の空間でしょうね。。。

日大の一学生だった私が、日大も心の中の実家だから、

マスコミが、あまり、、、ぼろくそに言ってほしくないというのが本音です。

日大の、オリンピックのメダルの数も、実績は絵空事では成り立たない時代の日本を

世界にアピールして、戦後のへ垂れた日本国民に「渇から喝へ導いて、やる気をくれた水泳陣」

今日の日本が世界に認められる根幹のスポーツ界を

私はやっぱり、、、「感謝」しかありません。

もちろん日体大の体操人や、パシュートのスケート兄弟も、日本を背負ってきています。

世代交代の時期のこうした、かっての実績を花束で見送れない日本人のせちがらさが

武士の情けの大岡裁きが「できないものかと、、、」

深い事情は分かりませんが、、、日大生は数が多いので、、、

愛校心の数も星空のように瞬いていますので、

無数の小さな光を塗りつぶすと、闇夜は寂しすぎます。

過去の実績は、時代時代に更新して着くことでしょうけれど、、、

花束をもって、未来に引き継ぐ日本になってほしいですね。

勝つこと以外に生きる道がなかった、

戦後の復活のやる気を支えた、

日大スポーツ人への、、、その時代を切り抜けたやり方が

変わらねばならない時代に入ったという事でしょうか?

とにかく、、、日本という「日本」を、

商業ペースでTVのワイドショウで

くそみそにいうのだけは、、、聞きたくないから。。。

TVは目下消しています。

早く、一件落着!、、、大岡裁きを期待しています。

人工知能で、裁かないでと、、、。

 

大学時代の忘れられない思い出は

数種の仕事の「ながら族」のベテランになってゆきました。

どこの大学も、明日は我が身と考えて、学生の生き残りを大切にして、

汝の隣人を愛せよ、、、と願うだけの茶の間です。

 

 

 

 


アメフト、、、の、、、アクシデントに憂う茶の間から

2018-05-22 11:41:23 | Weblog

 

平成元年のころ

大学生になった息子が

アメフトに入部したから

防具の購入の、、、お金頂だい!

早生まれで、現役で北海道の私立大学に進学しました。

運動部は

むしろ少ない理系の大学で

スポーツ系の部活があったことは

父兄としては喜ぶべき青春の発散口のある大学でした。

私の父は慈恵会医科大学で「ラグビー部」の部員でした。

五郎丸さんさんの登場で

半世紀遅れて、、、

「ラグビー???ネ。」

理解することの入り口まで来ました。

父が笑み満々の顔で

青春時代のタックルの

勇ましい姿を説明してくれているのでしょうが、、、

タックルには、、

武士道にも通じる男のポリシーのようなものがあって、

したたかな根性が居ることが、

最近になって、わかるようになりました。

息子のアメフトに至っては

アメフトクラブがあったからこそ、

部活の仲間と青春したいからこそ

大学の授業にもついていったような、、、

本人にしかわからない青春の思い出になっているようです、

防具からは、学ぶことも多くて

筋肉の足りない分や

骨の強さが足りない分は

怪我をする前に、

防具が体を守ってくれることがすごいですよね。

息子の防具を見ているうちに。。。

わたくしも、

雪下ろしのとき、サポーターやヘルメットを着けるようになったのは

我ながら、、、一生勉強とおもうきっかけにもなりました。

日大卒の私にとって、

今回のアメリカンフットボールの出来事は残念でなりません。

後ろから走って行って、タックルしても、

脊柱が損傷されない防具を考えて、

制度が変わっても打ち所が悪いと脊髄を損傷するような

隙のある防具は改良して、背中の脊柱に沿って、

化学物質の衝撃吸収対になる縦の防御をさらに強靭にして、

今回のようなことがあっても、

失点になるだけという、強い強いクッション防具で

寸止めしなくても、すっ飛んでも怪我をしない工夫はないでしょうかね?

一人の選手、一人の監督、、、

焦点を狭く充てると、

アメフトそのものの人気が落ちてしまうのではないかと

心配しています。

マスコミも、日大日大、、、日大と、、、

繰り返すよりも、

若き選手が、この一瞬で、アメフト人生が、苦痛にならないように

周りで改革せねばならないのは、、、防具ではないでしょうか?

男の子を育てていると、

根っこが「オスの本能」を、

どこかに隠し持っているスポーツマンが

一瞬の過ちを犯しても、

怪我をしない衝撃を吸収する高分子の弾力のある

後方を守る防具が改良されれば

雨降って地固まるという方向に行ってほしいものですね。

元来が、大学対抗はまだ、、、社会人ではないのだから

生徒の未来を、育て上げることの方が、

母親としては、工夫すべき余地があるのではないかと

今回の出来事は、

残念でなりません。

今回の日大の会報には

船越さんが、元気にページを明るくして居ました。

日大は、生徒数が多いので、

時代時代に、何やかやとマスコミを騒がしていますが、

大学時代は「自主自立」、、、

先生は生徒の顔も知らない場合も珍しくないという

自己責任の大学でした。

世間の縮図のような、学問というより

世の中を現場で支えている組織が評価されるように

皆、自分のやれることをして、

全体として、世間に通じる大人になることのむつかしさ

当たり前という事の、、、大変な水面下の努力。

頑張っても、頑張っても、蚊帳の外になるような団体が

日本にはまだまだ多くて、

音楽や、スポーツ、芸術、語学、ボランティア、

皆の嫌がる分野に特技を持つなど、、、

清水さんがオリンピックで金メダルを取ったとき、

日大のスポーツ界への貢献の大きさは国際的なスケールだと思いましたよ。

今回は、パシュートをメンタル面においても楽しみました。

アメリカンフットボールも、

もともとが、。。。前から来い!後ろから来い!

象さんのように、強い、、強い防具を作って、

ルールの大切さを、さらにさらに、

武士道の根性のように、、、アメフトのプライドのかけて守る生徒の養成、

しかし、、、まず、、、防具は工夫の余地があるのとちがいますか?

ゲームを良く知らない私ですが、

私なりに、日大の底抜けに大きなスケールを享受してきたので

大学と言えども、社会の縮図のように、

自分自身にかかっている学生時代を振り返りながら、

この、、、問題の生徒の未来を、考えると

マスコミの怖さも感じる、、、おばあちゃんです。

文字道理,、、老婆心ながら、、、、

男の子を育てた母親の気持ちも、、、思いやっています。

 

 

 

 


主観的視点の(^^! 誕生日 **)

2018-05-09 02:24:03 | Weblog

君は君
我は我
旅は道連れ、、、
世は情け
弥次喜多道中で
人生の旅ができれば
目的地は平均寿命+アルファ
欲張ったって、、、、タイムアップ!

見下したり、
指図したり
差別したり
排除したり
駒扱いしたり

そういうことをしない地球の

当たり前の

人間関係であれば
世界は
てんでんこに見えても、、、つながり


その結婚は大成功と思うのですが、

      そのためには、、、自分に似合った、どっこいどっこいでいいと思うから

                  人は、価値観を感ずるところに、ありったけのエネルギーを注ぐから

    職業や、学校で、人の評価をしないことが、、、いいのではないですか?????

同様に、後進国に対しても接し方で同盟国の兄弟が
どんどん増えて行き、
日本は世界中に存在するという
平和の世界のメッセンジャーになってください。
NHK 、、、それは夜が面白い

學校の難関順に順番をつけてしまっては、、、身もふたもない、、、見落としができるのが人間社会でございます。

これは、私の想像する、結婚のもたらす交差しない、、、交差できないレールのような

女性のおきざれにされた、日本の中流の中の

サラリーマン医師の家庭の時間貧乏、戦後の貧乏を背景に

すべてを無視して、医者になれた以上、医療環境だけは妥協したくないという

日本は、、、なんたって、、、敗戦をフウテイにした、、、平和ボケ最中の中年~?

老人は戦前から戦中,、、そして戦後の闇市、担ぎ屋、屋台、ホームレス時代のテント村など等

戦争のもたらした「貧乏人」があふれる中で、目指せ東大、目指せ7帝大

目指せ早慶戦、、、

学校関係者が価値付けをした価値観で、復興の手始めは「受験戦争」

勉強ができるが賢くない青白きインテリが五月の空を浮遊してたり

何を言われても

マイペースを守ることが生き残ると信じている
学生運動に夢中な学生や

世の中批判ばかりしながら酒浸り、、、
これからが「日本の進化を試される時だと

団塊の世代が立ち上がり

貧乏人は麦?カレー?。。。おかゆでは無かったよね!

池田首相が高度成長を叫んでいたっけ、、、

オリンピックが東京で開催されたあたりから

島国日本は世界を感じる国民が増えてきて

広島カーブが真っ赤なユニホームで市民丸ごと立ち上がった、

敗戦国日本は、初めて武士道の通用しないジーパンのアメリカが

なんで?????強かったのかを

學校でも生徒同士が意見を出し合い

島の外の文化を取り入れていった時代に

ツイストや、ジャズや、シャンソン、カンッォ^ネ、、、ボブディラン、、、ビートルズ

演歌に浪花節、三波春夫、三橋美智也 笠木シズコ 津軽三味線に、、、京劇

銀座や新宿は「ちらし寿司」をばらまいたような文化。

銀座4丁目の服部時計店は、カップルの待ち合わせ、

勅使河原蒼風さんが、、、銀座のど真ん中に

動物のシャレコウベと「割れたカマ」砂の上の時の止まった瞬間のような

生け花????創作??、、それとも「現代詩」?

戦後の日本に、古流や池坊や小原流や実生流や嵯峨御流でもない、、、不思議な

中国の仙人境にある奇岩連なる世界のような

絵画でもない習字でもない不思議な造形生け花を始められて

敗戦のあとの、しおれた主婦たちを、

傷ついた心から、、、出口へと導いたことは確かであると、、、私は認識した。

戦前戦後を通してクラシックは根強いフアンに守られて

ポピュラーとクラシックの橋渡しをされているように庶民的な性格の

髭のコンダクターの「山本直純」さんが


学生たちにも圧倒的な人気があった。             /
/
コマーシャルにも「大きいことはいいことだ~~~~(^^ / 」
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クラシックの音楽家とは思えないほど、、、庶民の目線で
音楽を好きになるまで導いてくださった、

お父さんは芸術大学の教授でお母様も国立音楽大学の音楽家でいらっしゃるし
美智子様の「ねむの木の子守歌」は音楽家族のどなたかが、庶民の感性のように
庶民の間に浸透した作曲をされたことが
週刊誌で読んだ気がします。

戦後の高度成長期には、島国だった日本の文化も
すっかり海外へ、、、海外へと、出てゆく若者が増えて
マナーの悪さをウンヌンされる時代を超えて、
インタナショナルな人格者が、躊躇していた国内閉じこもり族を
開放して、ちゃんぽんな文化国家の国境なき日活映画のアイドルスターも登場した。

東映はちょんまげ映画が多く、
東宝映画は、文化的なストーリーも楽しめる作品が記憶に残っている。

日大に進学してからは、
飯田橋にあった「100円映画館」に上映される洋画が面白くて
毎週通っていた。

家に25分で帰れる日大は人生の青春時代の貴重な時間を有効に使えた。

生徒数も多いので、先生は生徒の名前を

覚えていないこともめづらしくありません。

出席をとらない授業もありますので

自由になる時間も多くありました。

洋画を見ているうちに「英語が聞き取れるようになった。」
英語の時間は映画館の方に居たような、、、時もあった。

戦後、アメリカを受け入れて
追い付き追い越せの勤勉な団塊の世代の弟たちが
日本を、今日まで復活させてくれたと感謝している。

この世代の人々が老人になった今、
若者よ、、、この偉大なる復活を成し遂げた団塊の世代の人たちに

しっかり追い付き追い越し
平和ボケしている歩きスマホ族を巻き込んで

戦後は、、、ある意味ではこれからと思って
グロ^バルな視点に立って、

世界の平和が、

地球のバランスを保つことは自明の理とも思われる

≪原爆投下≫の驚愕する破壊力。

地球丸ごと、、、放射能汚染地区になり、、、どうします?

世界から、化学兵器を無くすことは

人間が人間であるための、、、条件でしょう!

地球をシロアリのように食い散らかす核戦争は廃絶してください。

地球の空気の美味いことは無意識の幸せです。

空気の美味さを守る唯一の手段であることを
日本は体感した世界の中の唯一の国です。

多くの料理番雲の楽しい作品も

水と空気がすべての「味」を左右します。


原子爆弾のもたらした

「地球を丸ごと廃墟にする核戦争を廃止してゆく使命に気が付いてください。」

雨降って地固まるがごとく、

日本の広島、長崎で起きた、、、核戦争が

みずみずしい肉体も心も、自然も科学の建物も

一瞬にして

物質以下の、、、ミクロ以下の、、、元素にしてしまうという

人間も動物も建物も、、、消えて

半減期2000年の、、、汚れまくった地球にしてしまうことを

伝えていってください、

世界の平和が、、、地球の命であることが

広島と長崎の原子爆弾が

沈黙の中で、ズシーンと、、、伝えていることを、

認識できる世界に、、、すべきです。


世界中の教育レベルが、それを理解できるまで

教育に貢献してください。

目先の小さな幸せを追うあまりに

平和ボケになってしまうことが、

核戦争を防ぐ知恵を

世界中の後進国や、未開の国や、

核の力はは両刃の剣であることを発信して

地球丸ごと、核の汚染になる前に

世界が一丸となって、共同のルールで

核の管理に対する共同の同盟をして

知恵を出し合って、地球の命を守ってください、

もしも、、、北朝鮮も、韓国も、東南アジアも

インドも、中国も、、、

いつの日か、恵みは地球の元気から来ていたと気が付く日の為にも

後戻りできない「核戦争」だけは、避けなければならない。

新たなる「誕生」、

「、誕生日」とは、、、

何か?


地球を親と思って

国境のない核管理の為に

知恵を出し合い協力できる兄弟のように

武力を頼らない、会談で、穏やかに

戦争を終結してほしいものです、


************************************、



戦前、戦中に生まれた主人も、私も、誕生日を祝ってもらったという経験がないまま育った。

長男だけが、親戚、いとこ、友人、らを交えた「食事会」であった記憶がある。

母がピアノを生業とする職業婦人だったこともあり

「手」を顔
???と思えるほど

大切にするあまり、

ピアノで得る収入は

台所の世話をしてくれるお手伝いに支払う給料となっていた。

「とっ子さん、、、という名の住み込みさんのおばさんを中心に、

中卒で家事行儀見習いという、、、

あつ子という名の

めんこい子、

パートで、70過ぎのおばあさんというように

家事育児代行に住み込んでいた方々に

100パーセント近く支払っていたのだと思います。


アメリカから戦後帰ってきたおばあちゃんと呼んでいた実父の兄の嫁さんに

「あなたの母さんは、、、

おむつも洗ったことのない

しょうもない家事音痴だから、

いくら使用人は家族同様と言っても

母親と同じ育児はできないから、

囲炉裏にやぐらを作らせてきたから、

娘がやけどしないように

この、、、やぐらを囲炉裏にセットして、固定しなさい、、、」

うるさく、言ったのだそうです、


母は、自分の家のことは自分で考えますから、、、と

美観を損なうからと、

やぐらを返してしまったそうです、

その直後、

よせばいいのに、、、人様の世話なんか、、、、と。


免許の持ってなかった見習い看護婦に

縁談を世話したというのでした。


辞めさせられるのと勘違いした彼女の怒りは

母の大切な娘にはけ口を求め、

子守を兼任していた彼女の膝から

大切な2歳の娘は、!!!、、

囲炉裏に真っ逆さまで落ちて、

右手が団子にくっつくまで、

抱き上げられることはなかったのでした、


手のひらに3本の指がくっつき

戦いは17歳になるまで、延々と続きました。

骨の成長に合わせて

7回の手術を余儀なくされました。

お母さん医言いたいのです。

頭で考えないで、年長者の経験を参考に

人の流れに感情を入れないで

行動のパターンを、情報から推測して

いろいろな、場合に備えて、やってみてほしかったと、、、

右手を見ながら、これは防げた事故だったと思うと

残念でなりません。

温故知新、、、

年寄りの経験からくる言葉を

医学書より経験が大切な臨床の現場の経験例として聴くという

謙虚な賢さが母には育っていなかった。

外科医の妻となっても、

音楽大学を卒業していた母は

頭で物事を組み立ててしまうことが通例だった。

考えがトンデいて

比類なき感性とひらめきがあっただけに、

「我」が強くて

他人には和しても動じないというような

我が道を行く強さがあって、

今回は、、、長所が裏目に出てしまい

五体満足で生まれても、女性としての生き方を

大きく変えて、

男同様に生きるためのスキルに向かうという

厳格な毎日になりました。


娘はピアノが弾ける手になるまで

17年の歳月をかけて、手術と入院、通院で

医術に支配されて、医師のいう事を信じて、

聞かねばならないと、

学業や運動につまずくことも、、、やむを得ない幼年時代でした、

疎開中とはいっても、

理不尽な成り行きを、腹立たしく思うこともありました、

無心で「自分に課された運命」

だと思って従った、


しかし、

やけどのおかげで、

學校では習えない多くの体験に恵まれて、

尊敬できる先生方や、

看護婦さんや、

スタッフの人々に出会えました、、

京都大学病院に、入院手術の時は

まだ学校に上がる前でした。

ぎーぎーと音の出る渡り廊下を、

新聞を抱えて走ったり

入院しているほかの部屋の患者さんに

牛乳を配ったり、

全身状態が病気でないのはじっとしているわけが、ありませんでした。

多くの患者さんとも知り合いになり

病院では重症の患者さんが偉い人のようになるので

大将ぢょ、とか、少佐だよ、、とか伍長だとか、

患者さんの位があったのが、今でも思い出されます。


少女の右手が

「ピアノが弾けるまでに回復した17歳」

外科の芸術性のあるテクニックに

心底、、、感動した。

外科医は、、、アーティストと認識した。

人差し指と親指以外は、手のひらにくっついて

肉ボールをつかんでいるような

再起不能と思われるような、、、癒着だった。


自分の手が、見事に復活したことが、、、不思議だった。


外科医の動く作品だったからであった、

戦前戦後の、どさくさの時代は、

足や手のない兵隊さんが白い服を着て

町のあちこちに立っている日本の、哀しい時代に

やけどで驚くのは家族と親戚だけで、

戦後の復活は大河の一滴の出来事のように

何事もなかったかのごとく、

私自身の問題に過ぎなかった。

        *********************
        *********************

戦前戦後の東京は

焼夷弾の壊した日常から、

オール貧乏人が、

日本人の誇りにかけて

立ち上がった復興への時代に突入していった。

主人の家庭も、

4人の兄弟姉妹を大学卒業させるのは

無理からぬものがあったのだろう、、、

「初恋に敗れた苦しさを語る国家試験クラス丸ごとボイコット時代の

医師免許を持たない医学部卒業生という、、

、哀れな主人の学生時代である。

ホームレスに限りなく近い、、、

一方、、、初恋の相手は

芸術家として成功をなしたい、

自己のアイデンチティ?と

戦っているだろうと思われる

自立した女性であったようだ、

戦後の厳しい日本の国内事情の中で

芸術家として、

彼女もしっかり活きねばならないのに、

家もない、

返済しなければならない奨学金が

家賃の60倍もたまっていて、

車も免許すらない

おまけに、、、

国家試験を受けなかった医師の卵と結婚することは

主人が一人前になるまでは

食べてゆけない状況にあるという

借金経済が待っているということですよね。

工房のオーナーになりたい夢のある女性には

無理というものよね。、

夫になる人の為に

ひたすら支えるという

都合のよい女性として???

意図してなくとも、、、そうするしかない結婚に

躊躇して、、自分の夢の実現に

まっしぐらなのは、、、芸大出てる人なら

当たり前の、、、成り行きだと、私は思っていた。



初恋の相手の女性は

自己実現を捨ててまで、苦労するために

生まれてきたのではないからね!

初恋の夢は夢!

自分しか見えない?。。。恋の病から目覚めないと

現実に生きてゆくことを考えて

自分の居場所を作らねば、

ルンペンと一緒でしょう。


卒業と同時に仕送りもなくなって、

主人にしてみれば、

流されそうな、、、予期せぬ波に 翻弄されて

活きねばと、、そばにあった藁か、小枝を

反射神経だけでつかんだ?

、、、、、、というかんじだったのだろうか?

私事ですが、病院薬剤師として正職員で勤務していました。

大学で代表幹事を任命されて

、何事も経験と割り切って

クラスメートの雑務も、こなしているうちに

北海道からやってきた、、、

おかっぱの女子学生と友達になった。

彼女は北海道の裕福な家庭の末っ子だった。

一方、

私は、大学時代に父に早逝されて、

家庭教師や、英会話を使って

神社の観光客に

案内したり、

パンフレットの説明をするアルバイトなどに

忙しくしていた。

自分の社会勉強のために、

大学生という身分は、

便利だった。

ジャンルの異なる職域や

卒業後はチャンスがないと思える社会に

アルバイトの身分で参加することが

容易に実現した、

忙しい合間を縫って、

一度だけ、彼女と登山したことがあった。



在学中に

外科医の父が、

早逝して

その後は、彼女とは行動を共にしていなかった。

薬科大学は、単位が取れないと進級できない仕組みになっていた。

半面、単位さえ取れれば、いろいろな免許も取れた。

総合大学だったこともあり

文理学部で法学を受講して、

大学院で「教育心理学や。青年心理、倫理学や教職も受講できた。」

父を喪っていた私は、

自立するためのスキルを身につけねばと考えて

中学や高校の教職免許をゲットした。

就職に便利な「衛星管理者」とか、英検とか

生け花、茶道、日舞、ダンスと、

就職してからの交流手段になりうる芸事も

昼休みや早朝、休日を使って取得した。

私のことを「友達」と言ってくれる彼女が

我が家に私を訪ねてきても、いつも留守だったそうで、

母が相談にのってくれていたことを聞いたのは

彼女が結婚式をあげるために

深夜便で千歳に着いた私を迎えに来た車の中でした。

光陰 矢のごとく、、、時は過ぎて

4年ぶりの再会でした

彼女は「恋」のために進級試験を欠席してしまってからは

学年が違ってしまったからでした。

大学のクラスの幹事をしていた私は、雑役係の上

地方から入学してきた学生の質問に丁寧に答えていた関係上

長野、北海道の北見、旭川、九州、千葉県、静岡、秋田、、などの

新入生時代の話し相手に選んでくれていた時期がありました。

小学校から大学まで、地元の東京で過ごした私は

地方から来た学生の

ホームシック時代の話し相手になる立場の

大学側からの入学時指名の便利屋?の幹事に

声をかけ安かったのであろうと推測しましたが、

学生中に、多くの経験をするつもりで、

全力で応答するように心がけていました。

その中の一人である学生が、

北海道から入学してきた美人のオカッパスタイルの彼女でした。

彼女は途中で学年が変わったため

幹事をしていた「なんでも相談受付係」時代の私を

思い出してくれて、

結婚式の挨拶を頼んでくれたものと思いました。

話しかけられたときは

「友人」をしていましたが、
父を亡くしてからの私は、
自立することの戦場にいましたので、

時間貧乏でした。

学生結婚をした兄貴は、

医師になる前から兄嫁と実家で暮らしながら

廊下ですれ違うたびに、、、

「早く出て行け!」と、、、パワハラが得意でした。

妹への、、、兄弟愛の裏返しかもしれないが、

大黒柱となった兄は、兄弟全員にすべての財産放棄の手続きを強要して

名実ともに父の開業の跡目相続を実行した。

家族への過剰責任と、学生結婚の肩身の狭さから

兄嫁への見栄がそうさせたのだと思いながらも、

兄嫁の差し出す財産放棄の書類に印鑑を印鑑を押すようにと

迫られたときは、

兄弟は他人の始まりだと、、、実感しながら

無表情で印鑑を押した記憶が、寂しくもあり、人間の欲を知った時でもあった。

8歳も年上の兄は、社会的に法律以上の知恵者であり、完敗でした。

「お前にはもう父親が居ないことがわかっているな?」

「○○会館にお前の見合い写真を出しておいたから、、、」

チャーミングスクールの花嫁コースをも押し込んでおいたから、、、」
「医事関係雑誌に薬剤師の花嫁募集が出ていたから、応募したから、、、とか

挙句の果てには、「医師妹、医師に嫁がせるなり」とか、、、

パワハラは、、、エスカレートしていった。

同級生に相談すると、、、僕と結婚しようよ、、、などと

明るくギャグで答えてくれて、

パワハラは、通じる人と通じない人がいることを

兄貴に知らしめるか!ということになった。

当時、、、がんセンターの指導を戴けた兄貴は

自己満足の独裁者のように家庭でふるまっていた。

こんな、毎日続くパワハラがうっとうしくて、

兄貴が歩いてくると、Uーターンして、逃げた。

大学に通学するのは、結構、、息が詰まりそうで

早く家を出ようと、自立に向かって、

まっしぐらにスキルアップの毎日の修行でした。、

やがて卒業して、薬理の教授に進められて

教授の紹介で結婚退職をする技官の交代職員として

東大の医学部の職員として、公務員になった。

しかし、、、3か月もたたない間に、

寿退職するはずの職員が破談になったから

私のほうに辞めてほしいと、本人から、頼まれてしまった。

東京大学勤務、薬剤師、、30歳をとっくに過ぎてプライドだけが高い彼女が

兄貴のパワハラと重なって

生き残りの戦いをする気分になれず、

基礎研究は、技官の30歳を過ぎた姿は、、、この先輩のようになるのか、、、?

漠然と考えながら

「いいですよ、いきなりやめるのは、規則違反ですから、教授に退職願を出しておいてから

今やっている実験が一段落して、データーの提出が終わったら、

臨床薬剤師を養成する研究生として、

薬事を担当している病院薬剤師として移動しますから、、、」

私の答えが気にいたのか、、、出っ歯気味の彼女の口元が

歯茎丸出しの不用心な大笑いになって、
「ありがとう、、先生なら、22才だもの、、、どこでも就職あるわよね!」

35歳ともなると、新しいところに行きたくないのよね、ありがとう、、、」

それから、半年たって、腎臓のナトリウムとカリウムの分布濃度のデーターも、
カルシュウームの筋肉内のミクロのデーターも一段落して、

10か月後、大学病院の調剤室、製剤室の無休研修生として、

再就職の一歩を踏み出した。

わずか、一か月後には

正職員として、臨床薬剤師として再出発ができました。

薬剤師免許を取得しておいて、、、よかった!

東京大学では、「衛生検査技師」の国家免許のほうが
役にっていた仕事だった、

ともかく、、、国家免許はどれ一つ取得しておいても

生きては行ける貴重な力を持っていることを実感した、

転職で臨床薬剤師としての大学病院での就業が

人生のピンチに役立つ調剤の力になりました。

結婚後も、息子たちの私立大学進学の時期に

調剤現場に復帰できたのも、

若き日の臨床薬剤師への転職を果たしたという
「やればできる!、、という、、、経験からでした。」

若さと、免許があれば、生きて行けることを、実感として

父母への感謝として、受け止めています。



一方、、、、

主人の研修時代は

「自分の居場所が、」未定で、

あちこちに指示されるままに

研修に飛び回っていたらしい。

実家の親元の近くに勤務するとしたら、

欠員のある東京の開業医の外科のポストかもしれないと、

卒業直後の無一文の無給医以下の

青医連運動の

、国家試験ボイコットがクラス全体の動きだった以上


同級生の仲間を失いたくなくて、

自分も国家試験を受けなかったとのことである。

食べて行けなくても、

医師免許無い医学部卒業の一年間を

どうやって食つなぐかという、、、

食事にも困る無給医時代でもあったらしい、、

同郷の、勤務薬剤師だから

無一文ではなさそうだ、、

、実家は親の代からの開業で安定していたが

外科医だった父親を亡くして

空席がある、

兄貴は内科医で開業続行中で

亡くなった父の同窓生や友人が

手助けしているから、即時即決で外科医募集はない、


自分の居場所のわからない、、、目下所属なしの

未来の外科医が

私の頭上を飛び越えて、

母に条件を申し込んだのでした、
母は、博士号を取得したら、
我が家に入って外科の看板を守るという
医師の卵に、
大切な娘を嫁によることを条件に
父が若くなって帰ってくるのよ、、、
2^3年、北海道で暮らすのは、、、きっと良いわよ、

私のことは、母が決定したのでした、

主人とは、、、付き合うこともしないまま
条件結婚に踏み込みました。

父の早逝がもたらした

「ブラックホールのような見えないエネルギーの欠損は

娘という、、、弱い立場の者の上に落下したのでした。

塞翁が馬、、、ということも
同時進行しました。

捨てる神、、、拾う神、、、

天地のバランスは神様がされているようですね。




私の右手の植皮の色に気が付いた主人は

「ちょっと見せて、、」、と言った

「やけどをして、植皮したのよ、、、:

私の言葉には耳を貸さず、

「すごいね、、、Zカットだ!」
「皮膚が引き連れていない、見事な曲線だ!」

「何という見事な手術なのだ、。」

私自身には、まったく興味がないのは、このとき始まった。


「京都大学の教授が、父の手術場までいらしてくださり、

父を指導しながら執刀してくださり、

その後の骨の成長に合わせて、

皮膚が引きつれないように、

皮は切開したまま滅菌しながら肉を成長させて

しゃもじのような板で固定して、

指と指先が曲がらないように、

たま糸のような太い糸で固定する

指の爪と肉の境目に穴をあけて指を固定する、

近藤鋭矢先生のご指導に従って

父は毎日タルクで、、マッサージをしてくれました、

成長の節目ごとに手術しながら、17歳の時

警察病院の怪物先生だった名医の

大森先生に出逢えたのでした。

指の成長で引きつれた皮膚が

薬指や

小指が曲がるのを

かろうじて防いでいた。

ひきつれた足りない皮膚を

ゼットzのようにカットすることで

ひきつれた皮膚が、見事に修正されたのです。



「斬新な手術の術式だね!!!」



「手術で完治した重度のやけどの実際の症例は初めて見たよ。


ゼットカットのすごい成功例だね。

ここまで、指と、肉との成長を、感染させないで

17歳まで守り通したお父さんは

親の執念だね」

********************************

「親の執念ではなくて、



父は

戦場の軍医の体験者だから

生きて帰った傷痍軍人が

お金を集めて回るのを

義足を作らせ仕事を世話して

、働くことが、傷も、心の傷も

癒えて、完治することだと、

根気よく、、促していたのを思い出す。

説明していたのを聴いていた私には

今回の右手という「効き腕の障害は

傷痍軍人の足と同じになっては

娘が自立できないと思ったのかもしれません。


指も曲がったままでは

仕事ができないから、

自分で動かせるようになるまでは

医師として、

できる限りのことをしてくれたのだと思います。

戦場で多くの兵隊さんが死んでいったときも

医師は部隊に医師が居なくなると

兵隊さんの意気が低まるというので

命が助かって生きて帰れた以上

自分ができる目の前のことに

ベストを尽くす人に思えました、



親子の愛とか、親の執念とか

そのような次元では無いと。

私には伝わってくる厳しい何かがありました。


むしろ、愛とか、、、親の執念というような次元では

ゼットカットに出会う前に

皮膚と骨の成長を、学者のような根気で

医師としての頑張りが挫折していると思うほど

私は父の毎日の医療を受けながら

刀鍛冶の「向こう槌」を打つような、

幽体分離して、もう一人の私が

父の医療と呼吸を合わしている感じで

17歳まで、父の渾身の医療を受けられたラッキーな娘でした。

父は本当の、、、医師だったと思っています。


主人とは、初対面の時、北大の医学部の学校祭の展示物だっ

解剖学の展示物や、医学部の展示全体の見学に行きました。

これから医師になろうとする主人にとって

人生の洪水に流されそうになっている無給時代のインターン時代

国家試験ボイコットの大河の中でおぼれそうなとき

藁が流れてきたのと同じで

私の右手の手術跡に未来の自分が名医になっている姿を重ねて

自分が医師を続けてゆくに必要な何かを備えていた医師の娘で

経済的には自立している薬剤師が

とりあえず、医師を続けるのに必要な「アイテム」に見えたのではなかろうか?

人生の相棒が居ることは神様の引き合わせであるから

存在そのものを感謝して、

医師を続けること、「医師をすること」、、、という

医師になるよりも難題と思える大事業に

私の時間を継ぎ足して、雑用を引き受けてあげれば

医師を天職と思っている男性は

私の何倍も、社会に役立ってくれるから

手伝ってみるかな、、、と思って、

縁があったのですね

母とも、わたくしとも。。。

      

誕生日はいつも

「仕事仲間と盛り上がっている」という日でもあった。

コメディカルさんが中心の、

かくし芸や、仮装なども、実に盛り上がっている写真が残っている、



開業の時は4人だった外科のスタッフは

今では20人を超す。

「名医のいる病院として、マスコミにも紹介される」

外科が4人しかいなかったときなどの我が家には、主が不在だった、

小学校の息子たちが書いた作文を、

今も、捨てられずに持っている。

、、、、僕の家には、お父さんが居ないみたいな毎日だ、、、

でも、、お父さんは居るのだ、

姿は見えないが、僕たちを守ってくれているのだ、

お父さんは「神様」なのだ、、、

、、、、

週末に帰ってきては、爆睡して、子供たちとすれ違う30代の外科医。

働き方云々の次元ではなかった、、、、

救急車がサイレンをひねもす鳴らして、

患者さんが来る病院で

外科医が4人しかいなかったのだから、

やるしかなかったのだろう。

そして、、、

限界まで、外科の腕を振るって生きる自分が好きだったのだろう。


スタッフが、「家族以上の仲間」だったのだろう、、、。


医家に育った私は

「私の父と重ねると、一緒だと思った。」


母が父の誕生日に、職場から帰ってこない寂しさに、

遠慮しながらも


父が院長をしていた総合病院の前の

公衆電話から電話したら、

「これから手術があるから、今日は帰れないから、、、」とだけ、

忙しそうだったと。

公衆電話ボックスを出て、

背負った長男をあやしながら

自宅に帰ってくると、

小さな窓から、山が遠くに見えて、

夜なのに灯りがついていて、、、

子供が寝静まった後も

いつまでも、

山の灯りを見つめて夜明かししたと話してくれたことが懐かしい、



外科医と結婚させたかった母の思いやりの言葉だったのかもしれません。


私は、ワンクッション離れて、

人生登山の家庭生活だけの相棒に徹している、


「夫が居ると思っては、一生腹が立つからね、

自分で店を開いていて、

常連さんのお客さんと思えばいいから、、ね、」

母は、、、

「でも、、、お父さんには感謝しているのよ、」、、と、言っていた。


とうとう、、、、私は、主人の誕生日には「何もしなかった。」

主人も私には、、

、贈り物をしてくれるというような、、、

絵に描いたような男女の愛は無いようだ。





結婚当初、高校時代からの初恋を引きずっていて、、、

医師になったばかりの時、

勤務先まで、来てくれたと思ったら、、、



恋のピエロになっていた。


私自身、、札幌の友人夫妻に

札幌の案内を頼んだから

一日だけ、、、付き合ってあげてね、、、と、

北海道ツワーを、とってあるから、、、、それは無理よと断ってあったが



私の母に、、、結果としてたどり着いたとき

私は傍観者のように、成り行きを見ていた。


まさか、、、本当に結婚する相手になるとは

初対面の時はよそうもしなかった。


主人になる人だとは考えてもいなかったのでした。


    



外科医の夫を54歳で亡くしたばかりの母が

血管のバイパス手術で博士論文を仕上げて、

臨床の実地でも、バイパス手術を先輩医師らと執刀していた主人が

父母の病院にいてくれたなら、、、

父は助かったかもしれなかったと、、、

思ってしまったのかもしれません。


不安定な気がしたのかもしれません。






たぶん、、、初恋を一生引きづっているだろう、、、






「中国に行ったら、、、

無名作家の

白磁に目覚めて、


彼女は

スポンサーになるような

、作品の愛好者として

主人を大切にしてくれていた、

手書きの墨絵のような文字で

自作の個展への招待はがきが届き、

主人に行くように勧めても

仕事と重なり、主人はいつも仕事をとっていた。


忙しい主人に代わって、、、

私は、主人の依頼に沿うように、

作品を買っては

ため息をついていた。

色だった。

きっと主人も

恋のピエロはやめにしたいが、、、

引くに引けない、男のプライドが、


タコ糸が風にもつれたようになって、

自分の心をほどけないという

戦後の日本の全員が貧困の時代の

唯一の受験地獄の逃げ場の「初恋」

わかるような気もするが、


買う力でアイデンティティに

しがみついてる紅顔の少年が、、

恋する少年の一途の幼いアピールの心が、

成長しないまま60歳まで続いた。


彼は還暦になって
人生の旅の相棒として

二人で日光旅行に行ってきた。





     ママ、、、目が覚めたよ、、、彼は言った、



別に、、、いつまでも引きずっていても

相手も、自分の道を究めようと進みながら、

無力感と、

アイデンテティと

格闘している女性だから、



医師としての「それ」と

格闘している「己が道への夢旅」の

ライバル女性は

忘れることはいらないでしょう。


むしろ、作品を買うという出費を

孫子に回してくれれば良いよ

結婚続行の条件交渉をしたのでした。


生きる力でしょうから、、

負けず嫌いの男のアドレナリンの

促進剤でしょうね。


ニョウボウというよりは
人生の旅ともで
二人の間の子供も育てた、、、と、、言うよりは

共通の愛の対象が鎹となって

外から見ると、妻の座に鎮座している

ラキーナ医師夫人に見えるでしょうね。

集とが姑に渡したアメリカ帰りのお土産の指輪を

結婚のダイヤの指輪の代わりに

私にくれようとしたから、

「その指輪は、あなたのお母さんとお父さんの人生のしるしだから、

母が形見になるように、あなたにくれたものだから、

タイピンに直して、あなた自身の宝にしたら良い品ですね。」

私は、、、その指輪をさすことを断った;


蚊帳の外ではないが、

人様の命をまえに仕事する医師を

家内だからって、独占できるなんて、、、考えたこともないから。

主人が初恋を引きずっているのは、、、主人の勝手でしょうね。


とりあえず、、、

主人の人生シナリオどうり

私は、我がことでありながら、

傍観者という、、、プロの傍観者の応援席で

仕事人間に徹することで、

不思議な夫婦は成り立って来た、

今日も誕生日は、、私はキーボードをたたいて

主人への感謝を込めて、

過去から今までを、、、一人で振り返っていた。





主人の誕生日は孫の代で始まった。

そして、、、今日という日、、、本当の誕生日の日、、、

私は、楽しい深夜テレビの

「イタリヤの郷土料理の食事会に参加しながら、誕生日を感謝している、」



自己中にならない老人を、

元気に人生全うしていただくには



脳の動きを自発的にさせる場を作ることが必要です。、

楽しく遊んで、手ごろな散財が

アドレナリンも出てボケも少なくなると思うのですよね。


男は「出番がある」ことが、、、ボケ防止。

出番があることが、、、

ボケさせないことだと思うのです。

私のボケ防止対策は

深夜放送のNHKを楽しむことです。

、今夜のイタリヤの心の料理番組は感動でした。

香川さんのナレーションの深夜番組

NHKのイタリアの心の料理を画面からいただき乍ら

主人に感謝と、

来年も

誕生日は「お仲間と!」と、楽しく情報交換してください。

一人にならないでと祈りながら

スパーくリングワインを開けて、飲んでいます。

香川さんは、、、

さすがに

東京大学卒のエリートだけあって、

ナレーションが、心に響くので、

最後に、字幕を見ながら、、、

ナレーターは誰なんだろうと、、、注意していたら、、、

浜木綿子さんの育てた、

香川さんだったので

浜木綿子さんのことが、、、

さすがに、、、すごいお母さんだと思ってしまった、

歌舞伎で観る中車さんは、

かちんこちんした感じが、

それなりに味のある芸ですが、、、

モズ、、、とか言う

「奇怪な社会の闇の役もするという、、、芸の幅はすごいですね」

イタリヤという国に、行ってみたくなりました」。

今日のナレーターの心の深さが、

故郷の味を守り続けて、材料まで栽培するという、、、

心の料理の、

何とも言えない、、、ナレーションが

ハーブの香りも、スパイスも、さりながら

大自然の海の香りも、、、伝わってくる、、、

イタリアのその場に自分もいるような、、、

隣で、教えてくれているような、、、

臨場感がありました、




、海の色、空気、風、、、、

栽培しているハーブや野菜の香り付きで

ミシュラン三ツ星の夢に到達した男の顔が

若き日の厳しい顔から、、、

優しく円熟した皿の上の料理のように

初めての、、、

良い味出した男の生き様を魅せていただきました、

  

NHKの深夜番組に!!!楽しかった、、、と。

スパークリングワインで、、、乾杯!











sakura 桜 札幌の桜並木

2018-05-02 01:35:37 | Weblog

我が家から15分くらい歩くと、桜並木があります

今年も、さくら見物に行ってきました。

気温が高めの札幌の桜並木は 花が満開でした、

北海道の桜は、木尾㎜が低い年は

5月1日は七分咲きの桜の木が多くて

ゆっくりと、連休が終わるころ、

葉が緑の屏風となり

桜咲き、桜散る   本州の桜と風情が違っていたのが通年だった、

今年の桜「花が咲きました!」

葉は出ておりません!

まさに、、、本州の桜並木のように

空にばらまかれた花の世界です。

50年近く、、、桜を楽しむことのできた札幌の南の並木道で

ここに来る途中の「月寒川」のホタルブロックの両岸が

京都の哲学の道のように

桜並木であったなら、もっと素敵なプレリュードで、

多くの人が、桜の季節に来るかもしれないのに、、、

冬の雪捨て場になる川辺りには、白いガードレールが続いています。

突き当りの「水源地には熊の出没も、、、

まれにあります。

桜の季節には



ふと、、、弘前や、震災前に廻った東北の川岸の桜、

学生時代に友人たちとはしゃいだ、上野公園や

よそ行きを着て廻った皇居の桜、お堀の桜、、、

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伊豆半島の桜

高野山の氷の花のような、、、透き通りたる白い桜、、、山桜かな!

吉野には上千本まで、歩きながら、、、

帰らじと、、、かねて思えど、、、弓矢の字の後を指でたどり

桜は散るも見事と、、、

川面を花びらで埋め尽くした南紀の山桜に

魂を奪われた、、、幼かった少女時代。


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私も、、、いつまで生きていられるかわからない時代に入りました。

もうすぐ74歳になります。

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北海道に住んで、、、50年近くなリンスが

一度も「ホームパーティ」も

客人を招くこともなく、

それでも

訪ねてきてくださった方は

普段着のまま、

思い出話に時を過ごし

近くの羊ケ丘や、藻岩山や、



オリンピック公園のある真駒内に連れ出してしまう、

お泊りは「定山渓温泉」へお送りする。

兄弟親戚の場合は

昔、、、子供が使っていた

セミダブルの勉強部屋に泊まっていただくだけ。

定年前は学会活動で北海道の各地や

札幌に、、、ひょこんと「弟が現れた。」

スマートなホテルを予約しているのに

朝まで、思い出話に予期を過ごしたり、、、

ホテルはもったいないが、、、我が家で過ごすこともあった、

みんな定年して、からは、法事でしか会えなくなった。

友人の訪問には

翌朝は、サンダルをそろえて置いて

あたりを散歩していただくだけで

北海道は、、、いいとこですね~~~と

満足してお帰りになる。

おもてなしは



あたりの景色の中の花の饗宴ムードがひきうけてくれる、

主役は自然のリラックスムードに

全権依存して、、、私は蚊帳の外にいるようにしている。

北海道の自然は、、、本物だと、、、つくづく感じる晩年ですね。