花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

皇居の杜のTVは何回も観たい、そして現実の暮らしは、(++!

2019-08-30 18:19:35 | Weblog

ここのところ、真夜中のTVが面白くって

朝まで起きて、早朝5時から家事にとりかかり、

PM.2時ごろから、昼食をとりながら

TVに、、、またまた貴重な残り少ない人生を
付き合ってます。

家事の内容ですか?

早朝に家じゅうのゴミを集めて
ゴミ箱を空にして、、、ついでにお隣の叔父さんが

ゴミを捨てる時間と重なると

「ついでだから、、、捨てておいてあげますよ~~~」と

一緒にゴミネット籠に入れておく。

月初めの町内会の資源ごみ
ダンボールを分解して
5個づつ重ねて紐をかける。

雨が続いたので草が抜きやすいので、
家の周りから、お隣さんの所まで

歩道なので、誰のものでもない区域が

草があるとゴミだまりになるので引っこ抜く、

我が家は母屋と離れになっている間に

石畳に沿って
草が
田植えのされた水田のように

石のすき間に規則正しく生えるので
雨の続いた時でないと引っこ抜けないのです。

二時間もすると90センチ
四方の大型ごみビニールが

2個3個といっぱいになるから、、、北海道は広い。

ここは、買った当時は「たけの子山」だった。

造成しているが坂の部分の段差は

タケノコの根を残したま盛土造成されているから、

竹が生えてくるのだ、


 
カラスの子が巣から落ちて片方の羽を損傷して

飛べなくて、餌がとれないとき、

我が家の門の前には

とべない子ガラスと

見守る親ガラスの集団が威嚇してきていた。

カラスは頭がいい。

子ガラスにだけ、パンのミミを一本だけ与えると、

親ガラスも、けたたましくなく。

親は無視して、地面をピョンピョン飛び歩くまで、

生命維持の最低の量のパンのミミを一本ちぎって与え続けた。

何日かすると、周りで騒いでいた親は来なくなった。

子供のカラスだけが、餌をやらなければならないという

不思議な、鳴き声で、餌をねだってきた。

門に飛び乗れるようになった時から

もう餌はやらなかった、

しかし、

野生に戻れたのか

我が家の界隈の大きなヒバの木にとまり

子ガラスの時のように
パンのミミをねだって鳴くが

私は、飛べるようになったカラスには
一切構わない。

知らん顔して歩くのだが、

電信柱にとまって、
鳴き声で話しかけてきているように聞こえる。

知らん顔して無視すると

鳴くのを辞めて、長い時間動かずに止まったままであった。

カラスが大嫌いな奥さんが近くに住んでいます。

羽根を怪我して飛べないからと、
言い訳しながら、パンのミミを小さき切った一本を与えていたら
「私、カラスが大嫌いなの、、、餌遣らないでください!!」

珍しく、女優さんのような美しい人なのですが
すごい迫力で本気で怒っていた。

私は、裏の離れの庭の隅に

見えないように、、、小さなパンも耳をちぎってひとかけら置いた。

カラスは、私についてきた。

カラスの姿が、裏の離れのハイマツの下のパンを待つといううちに

我が家の母屋の方にはカラスの姿は見えなくなった。

前の奥さんが、以前、

旦那さんに頼んだのか、

旦那さんが
箒でカラスを追い回したことが有った。
カラスは、仲間を連れてきて
旦那さんの、振り回す箒に向かって
威嚇してくるからすごい。

構わない方が、、、良いですよ、。。。
構うと、仲間連れてきて攻撃してきますよ、、、。

旦那さんは小さな子供を気遣って、

それでも、カラスと格闘していたが、、、

疲れたのか、、、ばかばかしくなったのか

カラスを無視し始めると

カラスは、どこかに行ってしまった。

あの、、、子ガラスだった一羽だけが、

屋根や、電柱のてっぺんで

私の動向をジーと観ているようだ。

早朝の草取りの間中、
物置の屋根や、車庫の屋根に止まって

餌はくれないと解っていながら

子ガラスの時に
餌をもらったときに鳴く甘えた泣き声を出すから

負けそうになる。

しかし、せっかく野生に帰ったのだから、

もう、、、餌は自分で探しなさいと、
カラスには餌はやらない。
カラスだって、甘えが出ると、
厳しい雪のの季節には生き延びることは無理であろう。



ふと、、、今は私の手を離れた子供たちの
幼いころを思い出していた。

子供のころ、、、

次男だからと、
甘えかした育児を反省する時がある。

もう、、、10年以上も里帰りはしないが、、、理由がある。

せっかくの貴重な正月に、
羽田を発ったまま、札幌上空を4時間も旋回して
再び、羽田に到着して以来、

「母さん、、、もう里帰りはしない。
飛行機が怖くなった、、、。」

「母さんの方から、冬を避けて、僕の病院の近くのKKRに来てくれ。」

タクシーで一日観光に案内するから、、、」

それ以来、毎年スーパー早割で

天気予報で雨の少ない季節に富士山を観に
楽しみに出かけることにしている。

息子は、、、医師をすること以外は不器用な方である。

絵も、上手い。
音楽も、バンドリーダーをつとめられる中学時代だった。

文章は、私の100倍は歯切れのよい魅力の表現で
大学の頃は100万人のアクセスがあるほど、

片手間にブログを作っていた。

世間では評価されている大学の分院で

ドクターヘリの飛んでくる救急に

自分は役立っているという充実感で

生き生きとして働いてはいるが、、、

結婚をしないという。

名門と言われる私立医科大学の

スーパに、裕福に育った友人たちの
夏休みの旅行への誘いが、海外旅行だった。
サラリマン勤務医の我が家からは

授業料を払いきらねばと、
親は緊縮財政に本腰で、節約していた時期であった。

「海外旅行の100万円は、出せない。」と

息子が、大学で親友を幅広く作るチャンスに
親は答えられないという、情けない臆病な時代が有った。

7年の大学時代に、

私がそうであったように、、、親が死んでしまったら

医科大学の中退なんて、万に一つもあってはならない。

7年間だけ有効期間で、月謝を保証する保険にも加入した。

今思うと、、、気が小さいと、不必要な保険にも

必死になって加入した自分の臆病風が、哀しく可笑しい。

卒業後、18年も生きていて、

あの時点では、子供が卒業する前の命を考えてしまった。

保険だけでは安心できず、

何にかかるかわからないという事を

今回の息子の骨折で思い知ったことが、、、後から考えると

過剰防衛の悪あがきにも覆えてくるから不思議です。

のど元過ぎると、、、人は相当なピンチ感も散財も、

心のバランスを保つ機能が立ち上がり

それなりに、平和ボケしてくるところがありますね。
 
私は、手っ取り早く仲間に慣れて働きやすい
調剤薬局の立ち上げグループとして

正職員として、働き始めて一年近くなるとき、

運動部に所属していた息子は

解剖学の緊張が終わり、

御遺体さまに「明日も、僕の為に御遺体をもってご指導ください。」

実はその日で、解剖学の御遺体との学問はあらかた御wリを迎えていたという
緊張感から、、、ふと、、、解放されていた。

深々と頭を下げた後、

部活の、格闘技の道場に行ったのでした。

そして、、、骨折。

店長になったばかりの私は、
骨折なので長期にわたる休暇は、入って一年では無理なので
断腸の思いで、退職して

息子に2か月寄り添って、同居して
主人から頼まれたとうりに、

脳に異常のある手の痺れや、

特殊な状態があったら報告するようにと


 2か月半に渡り、息子と寝食を共にして、

今までと、異常な状態が起きないかと、
見守り報告をする役目を果たした。
あっという間に2か月は過ぎて、

異常なく、学校も、休むことなしに
車いすも体験して、

未来の医師は
患者体験という
他の学生のできない
ラッキーな受け身ではあったが、貴重な授業を体験した。

塞翁が馬であったと、今はゾーとしながらも

苦笑いが出てくる体験を親子で共有できた、、、変な絆である。

次男は子供の頃より

頭でっかちなところがあって、

自分の体力も

、親の財政的援助も無理だろう、、、と思うところに

挑戦するという、、、

未熟な冒険家の所が有った。

親が全力を尽くして、やっと応援団長をつとめられた感は

小学生になった段階で

世間様に生かしてもらえるように、、、

良い仕事が出来るように、

親としては、国家免許を身に付けさせて

大海に泳いでゆくのを見送るしかありません。

北海道から、、、親元から、、、

漕ぎ出していってしまったのですからね。

幸運の女神さまを信じて、息子を預けて、

私は歳をどんどんとって、、、

何も感じない時代に突入してゆき、、、

赤ちゃんが、ママのおっぱいを全力で吸いながら

コテン!、、、と眠ってしまうように

私は、、、全力で生きて行きながら、、、コテンと、、、

長い眠りにつくように、

人生は、天の恵みのおっぱいを全力で吸って、、、コテンと眠るのよね、、、きっと。

思い出ばかりが浮かんでは消える、、、消えては浮かぶ、、、。

母親はいつまでも、わが子と生きているのかもしれない、

大海原で、はるかに離れているのに

息子の船が揺れると、、、私の小さな舟も揺れるから、、、不思議。
 
小学生の時、「オーストラリアへの夏休み体験旅行」にも
一か月という長期のイベントに参加してきている。

留守中の親の、心配な落ち着かない心とは裏腹に

クジャクを追いかけたり、カンガルーと戯れたり
コアラを抱っこしてきたり

貴重な、、サンゴ礁を舟で探検出来たり、

オーストラリアの地図が、日本での地図と比べて

逆さまになっているので、

行き先々で地図をひっくり返して場所を探した経験が

學校に帰ってから役に立ったそうである。

世の中には正しいと思って観ている世界地図でさえ

オーストラリアの店で買った地図は

逆さまなんだよね、、、。

正しいことは、正しくないときもあるんだよ。


 もうすぐ、、、46歳になる息子は

独身のまま、、、結婚の事は考えないという状況で

仕事一本に生きがいを求めて、

人生の、不得手な部分の義務と

仕事とを両立させながら、

つぶやいている。

医師になった本人は、自分の満足はともかく、

「ラッキーな環境に居たという自覚はあるが、
親はたまんなかっただろうね、、、こんな息子をもって、、、。」

僕なりによそ見をせずに頑張ったつもりが、
「医師をすることだけ」、、、「これしか出来ていない46歳の不器用さに

医師に成れていなかったことを考えると、、、
廻りはあまりにも、その道のプロなので、

ついて行けてなかったと思うよ、、、。

教養の時代に
体育部の学生と一年間同居したけれど、

「走っても、飛んでも、投げても、、泳いでも、スキーをやっても

全て、、、段違いなんだよね、、、」

置いてけぼりなのさ、、、孤独なんてものじゃなくて、、、

≪完全に敗北≫を感じたね。」


子育ては、若き、血気にはやっている後輩に任せて

シッカリ働いて、、、税金をはらって、

良い国民であれば、、、母さんは

「君は、、、医師になってよかった!」思いますよ。
「医師しか出来ない、、、という事は。。。医師が出来ているという事!」

イイじゃないの、一つできれば、それで社会に貢献でき☜
感謝を体で表現できているのですからね。」

忙しいのは、、、
臨床家の皆に言えることだから。

46歳の誕生日には、、、良いことが、、、有るといいね!。

今日は君だけが読んでくれればよいように、

日記を書きました。

健康に気を付けて、、、その日が充実してれば好日だよ。
もう、、、結婚の事は考えないで、

「自分流に、仕事から、幸せを感じて生きてくれればと祈っています。」

縁は不思議なものでね、、、

ママは75歳の後期高齢者になりましたが

まだ、シュウカツは始めていません。

毎日、大目に捨てることだけ心がけていますが
80歳までは、、、頑張って、呆けないように

北大のアカデミーで、非日常の一時間30分を体験することで

授業料の納入が
若き理科学者の研究材料費の応援に回ればと

有効に老後の、≒27000円の学会応援参加の自己研鑽という
欲張りな夢を楽しみながら

気が付くと、、、80歳になっていたらいいね。
そのようにして、ここから先は、子離れの時代です。

大自然が素晴らしい北国の山の見える札幌で

羊ケ丘の裾野の坂道の造成地を買ったのは

30代の頃でした。

今でも、、、至近距離を

熊ちゃんが、、、うろうろ、、、鹿ちゃんもきょとん!

夕闇迫ると、目の前の公園の下の坂道から

北キツネがトコトコ、ふさふさ、、、やってくる。

坂の上の大公園の植込みは

クマちゃんが隠れたら困るからかな?

ァ―という間に、、、伐採されて、見通しが良すぎる公園に変身!

東京都の真ん中に、

自然のままの緑地帯があり続けるのは、、、日本の宝であり

明治神宮も、皇居も、日本人の心そのままの文化が

自然と守られてきたという、、、

季節のよい日に

小中学生が、この森に入って自然を知るという

本来の足下にある学問とは、こういったTVの画面に

何気なく放映される、、、すごいレベルの高いことが

ハードルを感じさせないまま

小学生が、身体で、体感しながら自然のバランスの

絶妙な共生を学ぶという

東京はやっぱり、、、教育のてっぺんのレベルが

遊びながら、、、レジャー感覚で

皇居の杜に、、、どんぐりのように

落ちてるから

親子で、参加するだけで、世界平和のなせる

大自然の遺産が語ることは大きいと、、、

私は、24歳まで東京の住民だった。

息子も、文京区の自宅マンションから大学に通ったのに、

皇居の杜は、、、入れるところだとは気が付かなかった。

平成14年、転勤した息子には

東京の実家マンションは不要であり、

被災地復興に回っていくことを祈りながら

社会に全額おもどしして、

東京を離れました。

離れる前に、、、どうして、、、皇居の杜を歩いてこなかったのかと!

後悔しています。

息子は、、、いつか、いつの日か、、、

東京に帰ることが有れば、、、

皇居の杜を一緒に歩いて、

大都会東京都のど真ん中の杜を、、、歩いてみたいと思っています。

絶滅危惧種の動物や植物や、

北海道の「ぎんれいそう」によく似た

日光に見放されても、白く逞しく美しく咲いている

あの花を見つけに行きたいと思っています。

昭和10年から20年の間に生まれた私たち兄弟姉妹は

尤も戦後を感じる時代に生きた親の教育を受けて育ちました。

復興と、負ける者か、、と勝気が先立ち

自分流に生き延びた時代の教育は

ややもすると、勝ち負け、、、権力、、、勝気が生き延びる気力だった時代だけに

謙虚に「学ぶ」心が待てなくて、自己流のハチャメチャな声のでっかい奴らがイニシアチブをとっていた。

75歳になって、社会に影響なくなった段階で

意見を聞いてもらえるという人も多いと思える戦後の復活の社会を振り返っています。

北海道の学力一番の高校で、ある意味で大海を知らなかった息子は

自己主張も強く、言いたいことも言う方なので、

年上の姉さんの様に

温かく受け止めてくれて、

包んでくれて、

頭が良いのか悪いのか今一解らない???面白い発想の息子の視点を

一味加えて、一般に解る説明に出来るように、

当たり前の会話を楽しむことを気付く方向へ導いてくれる家庭を創って下さる女性を待っています。

大学に残っている臨床医は、社会には貢献していますが、

常識的な幸せを感じるセンサーが未開発なので、

家庭では普通のジャージでリラックスできる家庭を創ってくれる「主婦」が人生の目的の女性を待っています。

縁結びの神様にお願いして、明日が解らない後期高齢者の余生を、、、神様にお願いして

子離れの31年9月吉日とメモっておきます。

私は、いつの日かこの世との卒業の日の為に

ブログを観て下さった人に、私の笑顔の写真を掲載する日を約束します。


第二の人生

2019-08-22 06:35:01 | Weblog
100歳まで生きる時代になった今日

第二の人生は何歳から始めても良いと思うようになりました。

私にとって昭和19年から22年ごろまでは

南紀の山の、、、そのまた山奥の
毎日が登山中とも言えそうな
自然が先生で、厳しくもあり、優しくもあり、先生であり親同様でした。

台風になると、雨戸に十字に板を打ち付けないと、
瓦の屋根の飛んでしまう嵐のすさまじさに、自然の力を見て育ちました。

会社もない、大型店もない、村中丸ごと、、、その日ぐらしの多い中で

特別に恵まれた地元の豪族が、祭りも、いろいろなイベントも決めていた。

13歳でこの地を出て、父の故郷の東京へ転校した。

小学校6年生は、田舎も東京も、大した差はなかった。

受け持ちの担任が「秋田の出身」であったせいか、

転校生の私の都会的なところと田舎っぺーなところを気にいっててくださり

学校生活は、スムースに東京に入れたのでした。

先生の存在が、架け橋となり、秋田訛りと和歌山訛りが飛び交う教室には

ややもするといじめが起こるはずの転校生に

クラス委員という評価がついて、

私的には、見知らぬ環境で、
クラスのメンバーの

学生だけにわかる上下関係もわからないままに

汗だくの6年生のクラス委員でした。

中学は校門の真ん前にある図書館が目当てで

区域外の中学に行きました。

私はもう、、、転校生ではありませんでした。

心の中では2回目の転校生のつもりで、

勉強がプロテクターになるように
常に上位に居るという慎重な目立たない
虐めからの警戒網は解除リラックスはありませんでした。

中学校では陸上部に入って

毎朝7時から校庭を走りました。

強そうな、どこかルールに緩やかそうな先生でした。

放課後からは「高跳びです」

背面飛びで120センチを目標に飛んでいた時期が

一番楽しかったのを、、、記憶しています。

先輩の
「田辺さんといったかな~~~田畑さんだったかな・・・・?忘れちゃったけど。。。

美しい人でした。

3年生の受験時代に入ってからは

図書館で本を探しながらも、、、
勉強しなくっちゃ、、、と、焦るときもありました。

お父さんが慶応大学を卒業されていて

戦後の復活の為の東京の土地をたくさん買って
再開発の国の事業を請け負う会社だと、
中学生の本人は
まだ子供なので、上から見下ろすような謙虚ではあるが
アピールしたいという、アグレッシブな気性で、つっかっかて来たことが
私には、、、むしろ友情を覚えたのでした。

「僕のお父さんは世界を視野に入れて勤めているんだ」と
誇らしげに言っていました。

「君のお父さんは医者だってね?
君は医者は偉いと思ってるんだろう、?
お父さんには
病気の人が
皆。。。頭。。。下げてくるからな、、、、」

私は、返事のしようがなくて黙っていた。、

「医者は偉いって思ってるんだろう?」

もう一度繰り返して、私の目と正面から見つめ合った。
でっかい目玉を黒く光らせて、
男なのに、、、まつ毛がやたら濃くって、長くって、、、
可愛い顔をしていた。

、、、、、沈黙する私、、、、

「世の中は広いんだぜ、、、銀行の頭取とか、

日本の経済を動かしている人間が

戦後の傷ついた日本の医者なのさ、、、」

親の受け売りなのか?
この子の意見なのか?

一理あるシャープな意見だけれど、返事を返す気にはならなかった。

医者は「銃後の守り」だから、戦場ではお父さんが居ることで

その隊の兵隊さんは、
後方に憂いなく、前進したと、

戦争中の話を、父から聴いたことが有った。



偉いとか、、、偉くないとか、、、考えたことはなかった。
私は、戦後の昭和25年ぐらいからの父の姿しか知らない。

七か村が無医村の熊野の山奥で
東京から、外科医が来たというので、
毎日毎日、患者さんであふれかえり、子供と遊べない親であるのが医者だと思って育った。

或る夏休みの日に、
川に連れてってくれる約束で、兄と弟と私の4人が、楽しみにしていた。
小学校6年の兄は「西瓜割りを川原であするんだと、張り切っていた。
二番目の兄貴は箱眼鏡で鮎を覗き乍ら、菱で付くんだと張り切っていた。
用事だった弟は、
やたらに走り回って、
なんか楽しいことが起きるのだと感じているのだろう。

父と母が麦わら帽子で現れて、子供たちが、最高のウキウキ気分で
坂道を川に向かってありてゆく途中だった、、、!!!
「先生~~~~せんせい~~~。。。!!!!」
息を切らせて、追いかけてくる「おっさんが居た。」

一生忘れることが出来ない
、、、、父は患者さんに呼び戻されたのだった。
日曜日の、この家族の最高の時間が始まるはずの今!
父は診療所に帰って行ってしまったのだった。

「偉いと思っているだろう?、、」、と、聞かれても、
私は外野のヤジにも匹敵しない、、、頓珍漢な言葉に思えた。

父に遊んでもらいたかった、、、
よその子たちは
運動会でも、
学芸会でも、
夏休みの川原でも
お父さんの腕にぶら下がってはしゃいでいた。

たった一回の、
八月の私の誕生日の
川原での西瓜割りのイベントにも
お父さんは患者さんに、、、
連れ戻された。
川原でも、待っていたのに、、、
お父さんはとうとう来てはくれなかった。

何処に居ても、人間が居る限り、、、
必要とされるお父さんは
泣きべそをかきながらも、、、
私の中では仕方がないと聞き分けていた。

物ごころつかない2歳の頃から、

いわれなき「嫉妬」の
ゆがんだ虐めの
谷間に位置していた、、、
私の人生の配牌だった。

2歳の時、囲炉裏の傍で、使用人の膝に居たのに
囲炉裏に落ちて、右手が団子になって
指がくっつていた私だった。

小学校では
「手が変だと、、、
ゆわれなきちょっかいに悩まされた。」

幼いころから、毎日右手の治療にあたってくれる、
私のかかりつけ医師が父だったことも大きかった。
私にとって、神様の次に尊敬していただけである。

村の皆が尊敬しているからではない、、、
右手の火傷の治療中だったこともあり
一日のうち、必ず、
私の手を、
骨伸ばしのマッサージと
骨を成長させるために
肉の部分を切開するので、
マーキュロのガーゼ交換が毎日必要だった。
だから、
緊張のまなざしで、
タルクという粉で真っ白になりながら
切り離した指を毎日マッサージしながら
成長に添って
骨を成長させたら、
きちんとした指になるからと、
外科医の父は真剣なまなざしで
患者さんでもある私とは、、、毎日背強いては居たのだった。

患者さんと父の関係は、
暗黙のうちにわかっては居たが
坂道まで追いかけてきた患者さんには

私は大きい声で、叫んだ!
「今日は、お父さんを連れて行ちゃダメ!!!、、
誕生日の西瓜割りするんだから!!!」
患者さんとしての父との時間ではない、、、
唯一の父と娘の時間でもあり

家族という独占できる時間なのに、、
、私は、
患者さんに連れてゆかれる父の後ろ姿を見ながら
泣きそうになったのを、、、
今でも覚えている。

お父さんが帰ってしまう後ろ姿に向かって
「まってるからね~~~!!!」
何回も何回も叫んで
泣きそうになっていた幼いころが
走馬灯のように浮かんでは消え、、消えては浮かんだ。

やがて、、、気が付いたが
世間の親たちは

医師の娘は、自分の父親が患者さんたちの
病気と健康に

深くかかわる職業だから、
娘の立場の考えを
あれこれと知りたくなるのかもしれません。


「父親が医師で、医師は偉いと思っているだろう?」
もう一度、、、その子は言った。
黙っている私の答えを
無理やりにでも聞きたいという構えであった。

頓珍漢な蚊帳の外から
医師の家庭を勝手につくりあげている
「おかめの質問」には、、、
答えようがなかったというのが本音であった。

その子はアチーブではライバルであった。
成績もいつも、私の上位に居た。

本当の勉強という意味では
その少年の方がジュンスであった。

いびり防止のプロテクターのつもりで
読書の勢いで、ついでに宿題も済ませていた私は
生きてゆくのに必要だから
真剣に順位を競っている男の子には
目障りな
いい加減な女性に
見えたのは解る様な気がした。

予習復習するぐらいでは
目立つメンバーになるのは、
だんだんむつかしくなって来た。

クラスメートも頑張りだしたので、
今までのようなペースでは
上位10番以内に常駐というためには、

予習も復習の他にも

何かが必要になってきた。

いじめっ子たちが遠巻きして、
勉強のできる子には近づいてこないという
勉強を道具にしている根性では
伸び率がゼロに近いという
限界の闘いが切って落とされた。


「成績上位だと、不良やいじめっ子が近づかない」という
精神戦での先手必勝は、効果があった。
「お堀」は攻撃の手から守ってくれた。

受験が始まる中学2年の3学期あたりからは
難攻不落と思えた石垣も
堀も、
浅くなる気配に追いかけられて居た。
「社会」という、、、
「第3の大きな支配者」が
現れたことが解る年代に突入した。

男の子の繰り返す執拗な質問と、
経済が社会を動かしているから、
医師はもちろん
理工系の技術で生きてる父親たちは

経済を握っている官僚の自分の父親が
羊飼いの親分だとしたら
お前らの親は羊だというのだった。

羊飼いの親分は、
高く売れそうな成長株の羊は餌をくれるが
役に立ちそうもない羊は
早々と、売ってしまうか、喰ってしまうんだと
口を斜めに引き上げて、、、教えてくれた。

医者は、もちろん、
多くの技術系のサラリーマンも、職人も、
僕の父さんの関わっている
経済社会の経済分野所属の者から見ると

社会のツールでしかないんだよね、、、、」

私は、、、答えようがなかった。

「医師は、医師をすることだけあれば、
その仕事を天職だと思えるから.]


誰の支配も受けないし、羊飼いの道具ではないし、
偉いとか、偉くないとかの世界ではないし、、、
お寺の坊さんのように、
見える形のものを
見えない宗教で守っているというのでもないし、

病人は医師にしか原因はわからないから、

外からは見えない努力を
患者さんは当たり前だと思って受け取るわけだから

大きい病気も、軽い病気も、
お父さんは全力で病気と寄り添って
患者さんの自分自身の中にある治癒の力を
ありったけの経験と学問を使って
引き出したとき
お父さんは、、、

医師になって、良かったと思うと言ってましたよ。

神様から報酬を受けるという仕事だと思うわよ、、、

偉いとか、偉くないとか、、、
儲かるとか、
儲からないとかの世界ではなくて、、、
医療の世界に生きた人間が周りに居たから、、、
この患者さんが治癒につながったと思えるとき

医師も、看護師さんも、
リハビリ―担当の理学療法師さんも
コメデイカルのチームが一丸となって
病人に寄り添うわけだから、
皆、自分の専門的な努力が報われて
患者さんが治癒したときには

天職だと、再認識して、
この仕事を選んでよかったと、思えるのではないでしょうか?

「お父さんは、、、医者になってよかった、、、」と
思えるんだよ、、、と

言っていたことが有りました。


心の中で、浮かんできた情景を
説明できたわけではないが、
考えは地球七周り半を高速で廻った。

答えようがない挑戦的な質問を前にして
「無言のまま、
横を向いて、
父の世界に入り込んで
なにが何でも、
父を肯定して,

私の中では、どんな人よりも、大切な存在であった。

言い訳がましく
娘だからと言って
外野の私が話せば、
父の内面にある医師の魂を汚すことにもなろう。


必要以上に頑張っていたのを、、、
哀しき転校生魂だと振り返るのでした。

落ち着かない中学3年生だったことを思い出します。

アチーブで800点越えしたときは

少し遊ぶことにしたり、部活に行って

しばし受験を忘れて遊んだりした
日活の映画館が近くにあって

裕次郎さんの映画を何本か観に行きました。
「おいらはドラマー、、、」と歌っていた映画の
ドサクサの家の中に
がらくたに交じって映っていた壁の額絵が
あまり素晴らしいので、
映画は、
俳優や女優も
大きな役を果たしていることはもちろんだけれど

背景が、したたかに面白いと気が付いてからは

社会勉強は、
映画の背景から学んだ事が多かった中学時代でした。

忘れることのできない、貧しさの中の
天与の贈り物だった
「知恵遅れの妙齢の女性」の描く戦後の町の片隅。

例えば、、、戦後の貧しい女性

「音羽信子の≪ドブ≫」という
知恵遅れの女性が一人で生きてゆく日常。
戦後の世界を生きる女性の日常の映画からは

生涯忘れられない、、、
日本の自主性のある哀しき、、、
在ってはならない貧しさを感じて
映画館の中で、、、涙が止まらなかった。

知恵遅れのその女性が、
ドブのある町で
身体を売って生活している、
、、
稼いだ日の晴れやかな屈託のない顔が、、、
今思うと「名演技」だった。
大声で、嬉しそうに、、、

ドブの在る道に沿って歌いながら

手を振りながら、、、帰ってゆく姿に

戦争の罪を叫びたいという、、、
哀しすぎる「社会の病気」を観ていました。

知恵遅れの女性。
戦後の一億皆貧困のバラックの町。

ドブの在る道に、、、夕日は閼伽。

ドブが臭ってくるような社会の病の映画の中で
知恵遅れという神様の贈り物の中で
唯一神が与えてくれた恵みであるはずの

「女」という繊細な宝物を

男の欲望の道具として金に換えて行き
知恵遅れがゆえに、哀しさが解る由もない。

音羽信子は、
正常の知恵者なら不浄のお金を哀しむだろう。

自分の稼ぎと認識して
ドブのそばを、手を大きく横横に動かして、歌を歌って

最高の無知な笑顔で、帰ってゆく、、、。

戦後の日本の社会には
「偉いも、、、偉くない、、、秩序もないのだった。」

私たち中学生が、頑張って復興させないと、

終戦が本当の敗戦になってしまうと思った映画だった。

日本国内で、上下をウンヌンしていると

サザエの貝の中の出来事のように、

世界の焼き網の上で、蓋つきの鍋のごとく
貝の丸ごとが餌になってしまう。

目覚めよ、、、終戦は敗戦にしてはならない。

今朝も早く皇室アルバムをTVで拝見して

平成時代の天皇様と、
我らが国民と皇室に橋を架けてくださった
若きプリンセスの「美智子様」が
歳を重ねられれば、慈愛に満ちて

一緒に年をとって行けることが

安心なひと時でもあり。

完ぺきな生涯の晩年のお姿の中に

日本には、、、やっぱり、、、
神様が居るのだと思います。

こんなにも、完ぺきに
終戦から、
日本人が
日本人であることの誇りを守れたのも、

民間と皇室を橋渡ししてくださり、

国民とともに生きてくださったという

万人には
「国のお母様が居てくれるという無意識の安心感の中で
日本人の女性の役割を
育児から、始まって、、、
国民に理解させてくださった
日本の始まりからあった「誇り」を
母親たちにわからせてくれた気がしています。

神々しいお姿だと思いました。
戦後の日本の復活期で
日本で一番難しい女性の役割があったとしたら、

美智子様のお立場だったのではないでしょうか。

天皇様の愛があったから、

天皇様に愛されるような
素晴らしい女性だったから

戦後のドサクサの中で日本女性は迷うことなく、
女性たちのモラルが守られたのかもしれません。

美智子様の育児を通して、
眩しいような女性の立ち振る舞いに
何回見とれたかもしれません、、、。

女性のお帽子が、なんて素敵なんだろうと思えたのも

日本の最高の女性が、
しっとりと、
最高の
愛ある美しさの動きの中に
神々しい世界から飛んできて
美智子様の御髪にとまった
神様の小鳥のように
神様からの花びらのように

存在の美しさのメロディ―のように伝わってくる
「微笑みの花織」のお帽子だと、、、

見とれました。

やっぱり、、、
昭和平成の激動の復活期を見守ってくださった
平成天皇様と
平成皇后さまのお姿が
TVで拝見できるだけでも、

御一緒に生きてくださったのだと、、、
あたたかな気持ちになります。

令和になって、歴史を振り返るとき
平成天皇様のお顔とそっくりな天皇様が即位され

日本の文化は、長い時間の歴史の賜物であり
世界中の国家にも
自国の歴史の賜物の文化があるので

国境を越えた文化交流が
未来永劫
地球が続く限り

ITがどんなに進化しても
及ぶはずのない価値であることを
日本人であるという
心に差し込む、、、一筋の光でああると思っています。

日本人が日本人を感じるときは、
日本の長い長い歴史が
不思議な、、、不思議な、、、
歴史始まって以来の時間の継続の中に
天皇様という存在が日本の文化であって、
日本の文化があるという事は

日本人は日本人以外の何ものでも無くて、
領土とか、支配とかを超えた

時間空間だけが証明できる
文化となって見えない習慣に

共有する誇りが日本の象徴だと思うのですよね。

75歳になった、婆ちゃんの私にとって、

皇室アルバムを拝見した日は

日記帳の、ブログも、長くなってしまいます。

美智子様のことは、、、国のお母様であると思います。

平成天皇様に愛された女性が、、、
戦後の日本で美しく育っていたという不思議が

やっぱり、、、
日本には神様がいらっしゃると、思います。

日本の存続は
「女性の総合力が大きく国を左右する」と思いました。

私は、もう、、、なんの役にも立ちませんが

美しくて、聡明で、愛情が豊かで、健康な女性が

日本の行く末を握っているのではないかしらね、、、と
思いたくなります。

これは、、
親友や個人的な友人とのブログですから、
間違ってクリックしたウオッチャーの迷子がいらしたら、

75歳の婆ちゃんの、
かってな思いを書いている日記であることを
あらかじめ、、、断っておきます。

人が、、、どうあれ、、、なんと思おうと、、、

美智子様は日本のおかあさまです。

平成の天皇様の

心の窓を開けることのできた女性は

戦後の日本女性たち全員に

「私だって、、、!」と
全力で美しく生きることを啓蒙してくださったと信じています。

美しいという事は

若さとか、美貌とか、教養とか、なによりも愛情豊かな感性とか

いろいろ言えるかもしれませんが、、、

生きてこられたすべての時間を
その日そのときの最高の時間で、
今日につながっているという

ありのままの美しさの、、、
究極のレベルの感動が、
その時代時代の日本を象徴していると思います。

お健やかに、、、
万人の祈りは神に通じます。



政治と軍隊と、皇室が最もむつかしい時代の明治維新の激動が

300年の鎖国のあとの開国と、世界との文化交流と
武士の魂や、
軍部のアスリートの金メダル以上の一本気と、

神風特攻隊の精神のある日本人と

戦後は誰が悪いのでもなく
、時代のプレートが大地震を起こしたようにも思いたい日本。

鎖国から覚めたときには
世界のプレトーが大きく動いた時期であったと理解しています。

話は、どこかにそれてしまいましたが

皇室がある限り、
日本人の実家があるのと同じです。


*********************************************
お話は、元に戻りますが、

中学時代は


受験時代を知り始めた初めでした。

父は男女区別なく「大学教育を受けるべき」と、
思ってくれていましたが、

女医になって、大学の研究室に残るといいよ、、、と。
研究の面白さを話してくれたりしていました。

病気の人を診る医師は大変だよ。
でも、
人体の宇宙や、
病気の秘密に迫ってゆくのは
充実感があるはずだよ。

お父さんも、
若いころは

らい病とか、、、
差別を受けている病気
は実は原因が解るのではないかと
研究に夢中になった時期もあるんだよ、、、
父はいつも私の見方だった。

うつるというのも変だと思うし、、、。

父は弟には
将来医師になって
日本の国に尽くしてもらいたいと思っているのが
はた目にも解ったような場面が多々ありました。


優秀な双葉より芳しの弟は、父母の期待の星だった。

2年も浪人して受からない東大は避けて通ろう、、、と

弟は高校も、大好きなテニスが出来る高校を選び、

戦争を知らない豊かな心が、ひときわ好感度が高くて

友達も多く、

仲間たちとも、

まるで眩しいように接してもらえているのを

私は、、、人徳だな~~~と、
思わず微笑んでしまう良い関係を保つ弟だった。

母も、長男も、男の子のような価値観の娘を見ながら
主張が強い子だと、、、間違っていた。

戦後の日本を復興するグループに入れてもらえるか?
子供を産んで、家事雑用に生涯鶏のように過ごすか?!

中学校の勉強が決めると言っても過言ではないと
私的には、生きねばと思う事が

勉強に手を向けない多感な中学生時代をすごっしていた。

中学三年の3学期に

教育大学附属とお茶大の付属高校への願書をいただきました。

私的には、学問を一生続けるのなら

「大学受験を今から考えているなら、
家族と相談しなさい」と言われました。

中学時代の私は、東京という
新しい環境に受け入れてもらうには
手っ取り早く成績を上位に持って行くことだと判断していた。

成績自体には、決められた問題の枠のある出題だから
勉強さえすれば範囲があるというのはチャンスだよ。
誰でも上位になれるチャンスがあるのが中学だよと

父が教えてくれていた。

お爺ちゃんが長い間西海岸に住んでいた関係もあり
金門橋の話や、
油絵を見ながら、
ロスの話などを聴きながら育ちました。
祖父の住まいは
玄関の上がベランダになっている洋館建てでした。

アメリカには祖父や祖母を通して
親しいものを感じていたせいか、

当時、はやり始めていた

「英語の歌を丸暗記して、楽しんでいた。」
英語は中学生の中でも
、聞き取りは解る方で、
修学旅行に行ったとき、
外人さんに話しかけられた英語教師が

私を呼んでくれたことが有った。

アチーブテストでは、たぶん、
、英語と国語が、
仲間の中学生に差をつける武器になっていたと思っている。

ちょうどそのとき、

長男が
2年続けて東京大学を受からず、

桜散る、、、

学者の道はあきらめて、父と一緒に家族を背負って

開業の跡取りの目的に

人生の航路を北北西に舵取りを切ったところでした。

東京大学合格と信じ切っていたころの兄貴は
夜になると
「お父さん、お母さん、おやすみなさい。」

きちんと、挨拶に現れて、夢に向かって地震にあふれているようだった。
「お兄ちゃんが、東京大学に通うようになれば、
我が家は、丸の内の線の中で育った生活にもどれるんだ。

世界の発展に遅れないように
日本の復興に
インターナショナルな
リーダーとして頑張ることが出来るんだ、、、。

兄きの希望に燃えた幼すぎる東大受験の動機が
今でも、、、ニクメナイ。

東大受験に備えて、
切らなくても、、、散らせるよ、、、と言われた虫垂炎も、
受験日に再発しないようにとOPEに踏み切るほど
入学する気、、、満々だった。

父の父のあたる、、、
いわゆる祖父が
宮内庁に勤務する
剣道5段の豪快な
気品と気位と備えたダイナミックな気質だったこともあり、

東大を卒業して国家の為に役立つ人間になるか、
外科医になって、富国強兵時代の軍隊の銃後の病院で
銃創や刀傷、爆傷、、、etc,陸軍中野学校の近くに住居の有った時代である。

農学部に行って、北海道に行って
大農場をもって、厩と一緒に自然と一体に暮らしたいという
若き日の父の夢は
祖父の勧めで、外科医となり、イギリス医学を学び

戦争だらけだった時代の外科医は、戦地の総合病院で

銃後の御奉公として、軍医として、従軍し
昭和19年春、、、
戦場の野戦病院に行くべきトラックが、、、やってこなかったという

日本は各戦場で、、、
玉砕の時期に、、、
軍医は無用のsignだったのだろうか?

日本から戦地まで祖父は娘夫婦を迎えに来た、
そして、、、九死に一生を得た父は、
日本に帰り、疎開地で、神がかりともいえる
多くの戦争帰りの患者さんや、
敗戦で貧乏のぞん底になっている村人の
七か村唯一の医師として、
その後

私とは19年の親子の時代が終わるまで
ありったけの愛を、生き残ったすべての人に捧げる人生でした。
父が亡くなった後は
医療機械の他には
何もありませんでした。

長男がきっと、、、学生時代から、、、
シュウカツ???よろしく、

未来のお嫁さんと付き合うためにも

質屋さんにもちこんでしまったのでしょうか?

私立医大に通うようになった兄貴は人間が変わったように
自己中になりました。

「いいか!お前たちのトイレットペーパーまで買うために
 お兄ちゃんの人生は医師をすることになるんだ。
人の身体に注射するなんて、恐ろしいことをする仕事だ、、、!
お兄ちゃんが。医師をすることを断れば、
家族も、居候も、従業員も、その者たちの家族も、喰えなくなるんだぞ!」

「親父が、、、こんなもの、、、残すから、、、
母と、お前らを背負って、
ロバのような荷物を運ぶ人生になりそうだ、、、!」
この家に閉じ込められた、、、と
わけもなく、
周りの弟妹に恩がけるようなことを言いながら

「自分ファーストの長男」に
どんどん変化して浮きました。

短大卒業の女性を連れてきて、

「お姉さま」と呼べ!」
「この方は我が家の床の間にお座りいただく。」
この方に逆らったり、批判したときは、
お前の生活費も、あらゆる費用は打ち切るからな。」

54歳で父が早逝したときには、私ら兄弟を集めて、

メンメント、、、
自分の悲劇の立場を話して聞かせて、
財産は放棄して、印鑑をつけと、

全員から「遺産相続放棄の書類を提出させた、」

「この家はこれからの苦労の代償に、お兄ちゃんの私物であることがわかったな!」

短大卒のTVの美容外科のコマーシャルに出ているような、
どこか???ポメラニアンのような、床の間の住人が
遺産相続の放棄の印鑑を、集めて回った。
無表情な、作業をしている顔で、
書類を配ってきたのが、、、時間が止まり始めた時であった。

この方とは、、、喧嘩もしないし、話もしないし、
兄きが他人になり始めた時を

存在だけで感じさせてくれた。

いよいよ、、、専制君主の誕生でした。

貧すれば呑欲、、、?

まず、
居候の皆さんに退去願い、
職員には退職金を支払って辞めてもらい、

兄の時代の職員が新規に募集された。

理工学部薬学科在学中の私にとって
父が死んでしまった以上、
財産放棄をすることで、
卒業までの経費をゲットする道だけが提示された。

卒業旅行の時、
「学生時代の経費は出すが、卒業旅行費まで出すとは言ってない。」
兄きは、卒業旅行は、自分がアルバイトをしたお金で行け、、、と言った。

父が亡くなった葬儀の時も、大学の仲間が40人以上
葬式に来てくれたのに、

「お前の友人は全員が学生だから、会葬の方々にお渡しするお礼は
割愛させていただく代わりに、一人一人にお礼の言葉とともに
おかえり頂くことにしたから。」、、と

全て割愛の兄貴には、異論も出そうだったのをこらえていた。

その後、めでたく卒業して、
国家試験にも合格でき☜

私自身は、大学を出て、大学病院に勤務中なのに

あちこちの縁談にOKを出しては、
憂鬱になるほど、、、
お見合い持ち込んできたのでした。

いろいろと、
腹を立てるのは損だと自分を抑えていたが

日本は男性社会であるという、
問答無用の女性差別がありました。

思い起こせば、、、4年前

私が持って帰ってきた「名門の高校の願書」は

兄きが、目の前で破いてしまいました。

何で?破くの?

「お前は高校に行ったら毎朝東京横断する電車賃を使う気なのか?

我が家は居候家族二家族と従業員とお兄ちゃんは私立医大に行ってるんだ。

都立高校なら120円で行けるんだぞ!」

18歳になったら、
お前のめんどうは自分で稼いで、自分で大学に行け!

すごいケンマクで、、、

私がもらった書類をピリピリに破いてしまいました。

その日から、
家では兄貴の意見は聞き流すようにして

適当に、頭の受容体をオフにして、

刺激しないようにして暮らすようにしたのを記憶しています。

こんな性格の人に東大に入られたら、、、
大変だったと思ったりしながら

ホッとする反面、、一方では

大学の皆が持っているからと言って
自家用車で通学したり、

女性にプレゼントをしたり

私の東京都横断の電車賃がウンヌンというスケールではない
自分自身に架かる出費には何食わぬ顔で耐える兄貴。

学生なのに、日産の縦ライトの紳士用のセダンを買ってきた。

父が、これ以上小遣は出せないと言ったときには、

貴重な物を質屋に持って行くという強硬手段だった。

大理石の風格ある時計も、
栢木の碁盤も、
いつの間にか額の中の絵まで無くなって
洋額の中に、
日本画の秀逸な魅力のある「正兆」の絵を
額にサイズが合うように
降りたたんで、入れ替えてあったりした。

絹の布に描かれた正兆の絵は、

さすがに大家の右腕を努めていた画家のだけあって
日本画なのに、水と光が絶妙な味を出していた。

私は、急いでサイズの合わない額から出して
軸にしようと専門家にゆだねたところ、

額に入れて置いたら、
折り目が少しはめだたなくなるかもしれないが
このまま軸にしても、、、痛ましさが先に立ちますと言われ

大きな額に居れて50年たったが
檻傷はくっきりと黒く跡となり、

ため息ばかりが出る。
いよいよ、
質屋に持って行くものも亡くなったときである。



戦場に行った経験のある父は
「軍医」であっても、銃を持って軍事訓練には参加したことを話していたことが有った。

疎開していた熊野の奥には
マタギと呼ばれていたイノシシなどを数を減らして
作物を守っている、世襲制の野生動物管理を任された一族が居た。
父の患者さんのなかにも居て
野生動物の狩りのノウハウの話をしてくれる、、、男の人がいて

村が毎年行ていた

「空気銃の的あてコンクール」などに

指導者として
兄と一緒に出掛けていたことが有った。

こずかい制限を受けた兄は
「新しい空気銃で、又、的あて協議に出ようよ、、、」

東京では。そのようなコンクールはあるのかと??
いぶかっていたが、

父は喜んで、サラリーマンの月給が1万円ぐらいの時に
15万もする空気銃を買って、磨いていた。

「何処が主催するのかね?」
父は兄のとっさの言葉を

真に受けていた。


3日後、、、、空気銃は我が家から消えた。

兄が、、、お金に変えてしまったのだった。
兄は恋をしていたのだった。

つま先立ちをしても、

戦前の我が家なら何とか出来たかもしれないが

終戦疎開、、、復活、、、と
大病院の院長、から、軍医、疎開、田舎暮らし
東京に復活して5年の新規開業の

居候をいっぱい抱えた我が家では

とても、とても、、、来てはもらえない、、、

そのときのお相手は、美しい女医さんでしたが。

我が家に見えられたとき、
あまりに多くの居候が居ることを知って

それっきり、現れなくなりました。

失恋病で、
「お前たちのような、未来にまたがる見える借金に、彼女はあきれたのだと、、、」

親父がこんな、、、居候だらけの家を残すからだ、、、!

しばらくは、家族のせいにしていました。
熱病に架かり死ぬか生きるかの
重体になりました。

兄きは人が変わったようになりました。


居候の大学教授の叔父さんの
強い縁があったのでしょうね、

私には歯が立たないような

美容外科の宣伝に出てくるような

美貌のワンコちゃんを抱いた女性に似た、

お勉強とは関係のないような、、
短大の未来のお嫁さんとの同居が始まった

私は高校3年生でした。部屋は
未来の婚約者の為に開けることになり、

ある日、、、帰宅したら
私の部屋の中の物が

ごっそりなくなっていました。

兄に問いただすと、

「お前の物は邪魔になったから、

セドリックのトランクに入るだけのものは入れて
古道具屋に売ってしまったから、、、」

何の悪げもなく、、、すらすらと言っていた。

キャラメルの景品をのカードを貯めて買った
「カバヤ文庫の一揃いは、、、何年かかって集めたと思っているんだろう!」
「砂漠の魔王の総天然色刷りの大判の絵本一式は、疎開時代から集めたモノなのに。。。」

「装丁の素敵だった、、、大地、
            嵐が丘
            、、、、

影も形も無くなっていた。

兄きの「恋の病の治療だと思うとすべてを受容したが、、、」

いよいよ、、、妹という、、、女性であって、オンナにはなりえない、、、
妹という邪魔な金食い虫の居場所がなくなるのを感じながらも、、、

生きるために、世間から、うとまれないためにも、

大學だけは生きてゆく必要な教養と技術であるから
それまでは、ご無理後最もの、テンポラリーな感情に目をつぶって

卒業してから、考えようと思いながら;

時が来たら、、、

家を出ようと決心した受験時代でした。

兄は戦場近くの外国で

3人の兄弟を喪ったときには10歳ぐらいであるはずだから

自覚のある喪失感のトラウマがあるはずだと思う。

初恋の女医さんは戦場で近くで死んだ妹が生きていたら
同じような年ごろである。

喪失感の「ダブルパンチであろう。」

10歳の少年の戦争体験や空襲や原子バクダンの投下のショックは

したたかな心のブラックホールとなって
どこかに、、狂気の喪失感が様々な形で現れるのは
廻りが寄り添うしかない。

戦後のブラックホールを埋めるのは

身近なものが理解して
長い間に、幸福の絶頂期も来るだろうから
その時期に
心を強くすることを
家族が考えなければ
先が見えなかった。

植木等のスーダラ節が
こうした人を救ってくれたのかもしれません。

出来そうな所に、人が集まってきたという

ちゃっかりな性格の者だけが

人を踏み台にして、戦後のバブルへと向かっていける場合もあると思うのでした。

********************************

街には、裕次郎さんの、切ない男の歌声と、
植木等のスーダラ節と、
ポールアンカの曲が流れていました。
母は毎日朝から
クラシックの音楽を弾いていました。

混沌とした青春の真っただ中で

私は、今でも、、、もう一度会いたいと思っている
同級生のぼくちゃんと、
山登りをしたり、ボートになったり
小さなアルバイトでもらったお金で
歌声喫茶に行ったりして、、、、

いわきの、、、おろしよ、、、吹くなら、、、吹けよ、、、

おおーーシーハイル、、、と

新宿の灯で歌った思い出が甦るのでした。

高校時代に、洋服屋のぼくちゃんとは、

幼い幼い男女の意識のない世界で

健康なボーイフレンドって、、、あの頃のあの人だったんだって!

今は懐かしく青春の時間ととともに止まっています。

兄の深刻なブラックホールの心のマイナスは
私にはなかった。

僕ちゃんも。あっけらかんの明るい健康な曇りの一点もない健康な学生でした。

一緒に、社会科の課題に取り組んで

靖国神社に行って、戦争の事を教科書以上に体感して、

戦争の怖さを、

一緒に、地面の下から受け止めた感性の豊かな時代でした。

高校生の時には、

私立医大の兄貴が居て、

遊びに来る学生のゴージャスな車を見ながら

世の中には、我が家とは段違いのお金持ちの居る学校があるんだと

びっくりしながら、自分は自分、

プリ根性の商魂の必要な商売は出来ない性格だから

必要なだけ稼げる女性になって、

世の中から必要にされる女性にならなければと

自分の中の依存性のお化けである「女」を目覚めさせないように、

依存心が育たないように、、、

出来るだけ、身の丈以上のものに出逢ったら

「借金と一緒になるよ、、、あんなものを欲しがったら、、、」

自問自答しながら、、、

兄貴の周りの当時の年代には豪華なに見える世界を避けて、

結婚しなくても、生きて行ける女性を目的にしたとき、

一切の贅沢品は
スルー出来る自分に育て上げました。

*****************

私立医科大学生が家族から出ると、

廻りは
「日照りの田んぼ」とおんなじになるんだな~と思いながら

居候のおばさんが、近所の人に、

私立医科大学はびっくりするようなお金がかかるんだと、

止せばいいのに、、、
言って歩くから、、、

私は、初めて、年上の人に、注意しました。

「叔母さんが払うわけではないのだから、、、お父さんが払っているのだから

お父さんには、それだけ払う価値を感じる未来があるから払うんだから

近所に言いまわるのはやめてほしいんやけれどね、、、

「理解されないよ、近所の人は、、、
未来の人脈づくりの投資だなんて、、解るわけがないんだから、、、」、

「そんなに払って大学に行くのが、、、
あほボンボンや、、、ていわれるのが、、、ええのんか?」

叔母さんは、、、
「ホンでも、、、もったいなさすぎる、、、」というから

私立大学は、
将来は臨床医のプロを育てるんや、
人間のレベルを知る必要もあるんよ。

全部実地で接することが出来る機会には。
少々お金かかっても、
金持ち集団の考えや、感性や、心の弱いところや

金が物言って「強すぎるところ」知っておくのも

医者になってから役に立つというもんやろう!???

学生証書が或るうちは、
大学というバックが災難から守ってくれるんやよ。

世間出てから、
こんなあほな浪費してたら、災難に遭うんよ。

学生やカラ、、、
親がそれだけすねかじられてんのやから出来る時期ってあるんよ。

叔母ちゃんから言わせると、

大学の同級生やカラ、海苔巻きでもつくって、果物でも出せばいいと思うやろう?

「魚せい」から、「青森のマグロの刺身」出して、誕生祝すると

友人の舌が、
お兄ちゃんを友達やとおもうてくれるんや、
叔母ちゃんの高菜の握り飯を出したら、

アウトやで!!!

医者になる学生の舌のレベルはね、

手作りの高菜のおにぎりは、、、阿寒!!のやで!。

医者になってからの友人って、たからもんやで!

廻りも、協力しないと、、、

お兄ちゃんはともかく、

同級生は一流ホテルの食事に家族で言ってる人ばかりやで、、、

近所に同情を求めても、、、

お兄ちゃんの言った学校はな、

お金持ちしか入られん學校やから。

入れてもろうた方が相手に合わしてゆかないと、

仲間から置いてけぼりになるんよ!

叔母ちゃんはびっくりするの解るけど、

病院の息子さんや、どえらい会社の社長さんや

政治家さんの御子息で、これが当たり前の世界の人やで


「これ以上言って歩くと、親に言うからね、」

***********************

私は内心、、、

叔母ちゃんは生活を節約していたのだと,、、

同情はしながらも、

兄が知ったら、大変だと思った。
男の生き残りというのは

東大に入るか、お金が使える男になるかの

戦後の格差世界の物語です。

「居候の、あんたたちが出て言ったらいいだろう、、、」と

言いかねない兄貴のバカボンは

生まれながらの、、

「その場の大将でなければ、いやだ!」の性格をしていた。

居候がごちゃごちゃいれば居るだけ、、、、

国立でも、私立でもいいやん、、、跡取りつくらんと

居候のおばちゃんの家族だけでも、

ドレメが一人、

看護学校が一人

中学生に小学生

父は給料を払って、生活費に学資、それに、、、息子の浪人代金に

その結果が、

医科大学の私立版、、、。

私立の医科大学は、臨床医を育てるだけあって

お金のない家族には卒業しても、未来の留学金や学問の道が開けない。

親父さんは、、、、持つかな、、、?
早死にするのと違うかな?

ストレスはきついものがあるはずやカラ、、、

私の大学卒業までは、、、持ってほしいな~~~と、

卒業したら、弟の学資は私が持ってがんばって卒業まで親に恩返しするわ。

家族があるのに、、、ないような、、、受験時代でした。

戦後の進学は、アメリカの植民地にならないためにも、

国民の学門レベルを上げて、日本が日本であり続けるための

戦後の復活の、、、目指せ東大の時期があったのです。

今から考えると、、、せちがらい狭量な価値観に
学生たちが追いやられていた時代でした。

         つづく

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++****************************

ここまでは一見すると

戦後のよくある兄妹の小競り合いを、妹がうっぷん晴らしの文にストレスを吐き出していると思うでしょう?!

意に反して、私がお伝えしたいのは

昭和10年前後の、戦争が起き始めた富国強兵の国策によって育てられた男たちの

いびつな価値観の洗脳まがいの刷り込み教育で

本来の、小心で、神経質で、物理か何かの研究室で事故と格闘するタイプの兄が

家族と居候と、従業員の家族の生計を、維持しなければならないという

若者のビジョンと引き換えに

相続した東京の240坪の開業設備が

あいつは、、、親の財産を独り占めにして、

弟妹や親を面倒見た観たというけれど、、、

武器をごっそり引き継いでの大名開業だから、、、

やって当たり前だ!、、という世界を背負って生きなければならないという

医学部を卒業したばかりの医師と、

民間の理解のない物質の数字との解釈の間で、

もともとは、物理学者がお似合いの

狭くて深くてシャープな、ナイーブで臆病で神経質で、

何の分野でも、自分が主役でないと生きられない学者気質が、

東大に不合格と同時に

廻りに役に立つ人になって、

金が無ければ首が無いのと同じという

日進月歩の医学の世界で

臨床部門のエースの私立医科大学に進学したのですから、

お金が在るものが腕お磨けるという、経験の世界に突入したのですから、

親父さんとの開業と違って、

恐怖の一人開業を

未熟という恐怖と闘いながら

開業の跡取りを受けて立ったのですから、、、

父の友人の力に頼り、

医師会の心ある先生のサポートに頼り

一人開業のつらさを身にし見込むまで、体験したという

兄が主役の思い出話です。

兄は近付くと、、、、
妹にとっては殺生石のような光線に
希望を木っ端みじんに打ち砕かれますので、
遠方から兄弟愛ともいえるのかどうか。。。

存在を感じさせないで見守るしかない人でした。

理解できてるつもりで、理解できないのが、

三島由紀夫さんや、華厳の滝の上の東大生や、

                        つづく

戦後の東京大学は
現在の韓国の学歴社会のような

学歴社会の名門として、
東大に入学することが、、、金メダルのような時代だったのかもしれません。

戦後の日本復活のパワーは、

果たして、学問への目覚めだったのだろうか?

オリンピックに参加することの意義の大きさを
インタナショナルな功績として
受け止めることができますが

金メダルはそこから先は個人の問題にもなってくると思うのです。

しかし、わずかの差で
「オリンピックに出られなかったアスリートのことを考えてしまいます。」

日にちやコンディッションが違っていれば

。。。。。出来たのではないか?

。。。。。イイヤ!やっぱり自分にはあれが限界だ、、、

。。。。。自分にもっと家庭的にもゆとりがあったなら

いろいろと、自問自答しながらも、あきらめることがむつかしいのではないか?

人生の目的を絞り込んで、
その目的だけに生きることの
心のバランスのとり方が

組織的な配慮は要らないのだろうか?

東大を落ちたって、現在は選択肢がいっぱいあります。

しかし、昭和10年前後の戦前の育児様式が

富国強兵政策ですから、

為せば成る!

為せぬは,為さぬなり!と、、、ピンたが飛んでくる時代に育っていました。

一握りのインテリがいても、

日本にはクラシックの譜面さえない時代ですから

東京大学の問題自体が「難解であることが優秀な生徒を選ぶことにつながる」

数学だって、チャート式や岩切がスラスラと回答を導けて
大学への数学を解くことが合格への道だとか、、、

むちゃくちゃに偏った人間になりながら、

それでも不合格、、、、。


重症なのは、選抜されなかった時の変わり身ができなかったようである。

目的をなくしてしまうのであるから、、、

すべてに苦虫をかみつぶしたような、

劣等感だけが心の主になって鎮座してゆくのでした。

                           続く

昭和10年前後の時代は
明治の時代を走り切った親がザンギリ頭をたたいても
理解できない激動の時代を生きた親が白髪となり

明治20年代に生まれて、毎年新しくなる時代の激動期に育った子供が
「この日本をなんとかせねば、、、鎖国が長すぎた!。」
気が付くものは海外へ目を向け始めた
明治の終わりには西海岸にも
ハワイにも
日本人が移住しているから、、、すごい。
大正時代昭和を生きた者たちが誕生している。
鹿鳴館、モダンガール、ハイカラさん、自転車とブーツ
私の母のアルバムは兄が持っていたが、

東京大学をあきらめてからは
絶対の位置に居た母を客観的に見えるようになった兄は
「昭和10年の頃、父が静岡の病院に勤務していて
シュロの樹のある庭で、遊んだあの頃は、
「お前たちがうまれるまえのことだ。
父母は自分だけが宝物のようにかわいがってくれた。
この写真は、自分だけが知っている父母だから、
預かる。」

それ以来、私は父母のアルバムを観ていないが
母はつばの広い帽子をかぶり
大学の友人と、海岸で水着で笑っている写真は貴重な写真だと思った。

平成時代の過行くころ、兄は、兄弟に突然の封書を送ってきた。
    内容の要約を述べることで
    当時の長男と、母親の人間の絆が
    家を守るというような、文化である事が解る。
親にとってみれば、
長男が、老後を支えるのが文化として当たり前であったようですね。

ただし、、、我が家の場合ですが、、、ね。
母が50代で未亡人になって以来、
開業の時代が過行く手話38年頃の激動の復活日本の中で、
父のぬくもりの残る母屋を守ってくれてありがとう、、、というような
母が亡くなる前に兄に宛てた手紙のコピーだった。



きものを脱いで洋服へと、
女性の意識改革が目覚ましい時代に
明治生まれの母は
国立音楽大学の第一期生として
ピアノに魂を翻弄された時代であったようですね。


兄の持っていたアルバムには
山本直純さんのお母さんと同室の大学時代を過ごしている写真が
かなりありました。

国立音楽大学の文化祭なのでしょうか?

丸髷や、かの子姿の同室の母と彼女の
大学祭らしい舞台の発表劇なのでしょうか?

シーンは、江戸時代の物語のようです。
あの写真は長男に譲られましたが、

兄と姉の二人の世界に行ってしまった人生は
実家も売ってしまって、、、父母の者は
かっての居候の方々が、
持って行ってくれたものもあるはずですよね。

一人で開業の後を引き受けるほど
兄は心が強くなかった。

外科医を連れて帰るはずの私は
ミイラ取りがミイラになってしまった。

北海道に50年、、、、忠ならんとすれば考ならず、、、
田舎芝居の名場面を歌舞くわけではありませんが、、、

主人は、激動の戦前前後を

生きるか死ぬかの苦労の中で、
自分ファーストでなければ、医師をすることは出来ないと、

自分の仕事だけに絞り込んで、
50年過ぎた時には、

全てが過ぎ去っていたという
メビウスの輪の表と裏で、、、なぜか?
子供だけが育っていた。

医師をするという事の大変さを、
すれすれの近くて遠い位置から見てきましたが、

山崎豊子の「白い巨塔」に関しては

外側から見れば、、、その通りかもしれませんが

医学の中でも、外科医は微妙な位置に居ると思いました。

手術室で、、、亡くなる人もいれば、、
成功例ばかりではないことも周知のことです。

クレーマーによって生きている方もいる時代に

外科医の仕事は一人では出来ない。
しっかりしたピラミッドを技術の関係からも

出来上がってしまうのは、
外側から見ている外科医と
家庭内から見ている外科医ではかなりの差があるという

言葉にも、文にも書けない繊細な部分に
山崎豊子は気が付いていないと思いながら、

命を預けられる側の医師の立場智しては
治って当たり前、、、という

絶えず金メダルを志すアスリートのように
四方八方、研究しながら繊細で、臆病なときもあり

命という「金メダル」に向かって、
一人では出来ないチーム創りが

おもしろおかしく、、、飯の種として誇張して書かれているのが
TVに放映されると、

外科医の内面が、プロレスラーのように

観衆から面白いドラマになっているという、、、

医学も、医術もしらないで、
命の境目で、
メスを振るった経験のない山崎さんが
取材取材の、、、わかったつもりの医学を書くから

読者にとったら、、、
大きな意味での嘘を楽しめたのだと思います。
ともかく、、、
実家のピンチを助けるつもりの「仕事結婚は終わりました。」
実家は売られてしまったのですから。

弟が一番寂しいと思っています。

日本国民の一人として
団塊の世代の一人として
戦後の復活のテーマだった、、、追い付き追い越せ!

国立がんセンターで
日本の医療にはCTやMRIやPETという診断の宝刀のなかった時に

画像の性質が、、、素人においての美しい画像ではなくて、
医師が、診断に必要な画像が映し出されるアイテムにと
生涯の大きなテーマを、東芝の技師の皆と、

一心不乱に駆け抜けた医学の分野での戦後の復興を
みごとにやってのけた「団塊の世代の一人として」

個人的に、自分自身の家庭や親の事を振り返ると、

長男は、私物として、土地ごと売ってしまったという事が

知らされたのは、何年も経ってからだと思います。

「お姉ちゃん、、、僕は寂しい、、、
あそこには母が
今も笑って迎えてくれているのに
母の大切にしていた門の所の常緑樹の並木は
自動販売機の行列になっていた。」

「行ったかい?、、、実家が売られてから?」
「見に行っていない。その方が、、、いつまでも実家があるから。」

「一度、見に行こうよ、、、、僕が運転して連れてゆくから、、、」

「私は、弟と一緒に、弟の運転する車で、実家の門の前で

車を一分間、停車してもらいました。」

玄関までのアプローチの常緑樹は無くなって
無味乾燥した空気の流れる中に
自動販売機が両サイドにびっしりとおかれて、

玄関には入れないような
3メートルはありそうな
鉄の扉が、、、公園の時間外の入り口のように
がっちりと、私たち兄弟を
門前で跳ね返した。

「弟よ、、、」
「君は人生を、社会に貢献できたのだから、、、寂しがらないでほしい、」
「日本中に、実家があるくらい、、、北海道という遠いところでも
君の生きてることが、、、実家のぬくもりだったよ。」

里帰りも出来なかった。

子供を産んで育てただけの姉と
実家を維持するには、
精神的に疲れ果てた兄貴だったのかもしれない。

一人で、孤立して、
医師をするという孤独は
耐えがたきものが有ったかもしれないよね。

社会でインターナショナル的に受け入れられた弟が

我が、、、弟、、、という
姉が遠く離れた札幌郊外で、、、一人ほほえみながら

弟には、、、兄弟の誰もが出来なかった事を
ごくごく自然に出来たことは
戦後生まれた君に
両親にとって
戦後を生きる希望をもたらしたのだろうと思います。

父母にとって、

戦後を生きる力を君から受け取ったのかもしれないよ。
幼いころの両親は
君を可愛がっているあまり、、、

廻りの兄弟にはヤキモチを焼かすほどでしたよ。


君という、親の「第二の人生」の
出発への推進力だった君が
身近な存在であっただけに

自分も、かわいがられたかったのかもしれませんよ。
、、、
兄は根っこには優秀なヴィジョンがある人だけに

自分が個人的な域の中で
未亡人の母を守り切った時には
実家はきっと、、、
役目を終えたツールにしか見えなかったのではなかろうか?
日本の国策に近い医学の発展のメンバーに選ばれなかった運命が

実家を守って、個人開業することと
何ら変わらない、、、与えられた仕事だという割り切りが出来なくて

自分の価値観が、世間で脚光を浴びる仕事がしたいという
長男独特の、リーダーでいたかったのではなかろうか?

長男が実家を手放す気になったのが、、、解る様な気もします。
次男や三男、妹からは、
懐かしい我が家だった思い出を残してほしかったが
ITの発達した今日、
医師たちの時代は、設備された病院に
出向くだけの時代がやってくるという、未来に
維持費を考えると、
やがては維持できなくなるヨーロッパの古城のように

維持できる会社が維持してゆけば良いと
兄貴独特の、物理とエネルギーで、実家の重さを感じて、

自分がこの世を去るときは、
「0」という、、、有理数にしてゆこうと考えたのではなかろうか?

一見、、、主人も「自分ファースト」の権化になって
医師をすることだけに絞り込みをかけた人生でした。
人生を「喜劇」だと言った文豪が居たが、、、
医師という舞台俳優の
「主人公」を努めるアクターの
付き人が「家庭」も含んでしまうという事です。

妻はツールでしかありませんでした。
学問や、技術に執着する強さが医師になれたのでしょうね、、、
主人は、周りが優秀なので、必死になって全力で附いてゆきました。
運よく、、、博士論文がバイパス手術のない時代に
100頭近い犬を相棒に、
来る日も来る日も、
論文を書いていた。
「母には2-3年経ったら、実家の外科医として
東京に帰るからと、契約結婚に似た、付き合う事のない
条件結婚の契りを、母と契約して、
私は、薬剤師の職場を寿退職して札幌入りしたのが
札幌オリンピックの前後です。

結婚から5年間、、、博士号を取得したのが医師としての出発点でした。

当時、東京方面では知る人ぞ知るという三人男!の一人
東京女子医大の心臓外科の教授の
榊原先生の真っ赤な分厚い辞書に似た
「心臓」という著書に

主人の博士論文が引用されて、評価された文が有ったのです。

そのことがきっかけで、もう一度大学に戻るという
スタッフとして、次代の心臓外科医を育てるための
脇の固めをやってほしいと、

時の教授から、直接勧誘を受けました。

実家に帰る、、、東京に帰る約束の年が
ただでさえ3年も遅れているのに、、、

彼は、母校の大学に戻る方を選びました。
開業医に育って、大学まで卒業させてもらっていながら、
実家には、、、なんの役にも立たない

捕虜の生活同様の試練が始まりました。
もともとが東京の大学を卒業した私には、知人が居ません。

結婚生活にテーマを置いていない主人は
風呂のない二階建ての4軒の集合家屋の一角を借りていました。

一階から火事が出て、
母が主催していた「四つ葉会、ピアノ」の発表会の為に
母も、出演者も、気に入って頼んでいた
ステージのドレスを創るデザイナーが
結婚生活に必要な外出着を
銀座マギーで母と一緒に選んだ生地で縫ってくれたのですが

それも含めて、日舞の舞台衣装や、丸帯や、、
母が用意してくれた、物はことごとく焼けてしまいました。

「北海道は、、、部屋の中でストーブを焚くんだってね?!」
火災保険を30年分前払いで50万払って

くれていました。

結婚が10月、、、
家事になったのが、、、11月、、、だったかしらね???

まだ雪は降っていませんでした。

主人の祖母がご臨終で、取り急ぎ、私だけでも東京へと

飛行機で帰ったばかりでした。

主人は、出張で、夕張炭鉱の診療所に行っていたため、
九死に一生を得ました。

それからの人生は、、、すっかり居直ってしまいました。
「人生は登山中」だと!!!、、、
昼間の仕事着のまま寝ることにしました。

長い間、医師をするための費用だけしか働かないという
大学人の当時の「無給医の生活」に

実家は先行投資だからと、
何かにつけて、帰ってくる日を楽しみにしているからと

無償の応援を続けてくれました。

一年間の別居の体制で、私は恥を忍んで実家で長男を産みました。
3か月の間、母がいろいろと手伝ってくれましたが、
5月には札幌に帰ってきました。

家事に有った借間は新しく立て直されていましたが、
一階に移らせてもらい、

札幌での育児が始まりました。

主人には、
仕事しか目に入らない「無給医の生活」が
不思議だとは思わない、、、昭和40年代の北大の医師は
一握りを残して、皆、「無給医」だった時代です。

子供は熱を出していたも、、、
医師という病人の中に居る職業人は
「そう、、大変だね、、、頑張ってね、、、。」
はしかの時も、おたふくの時も、、、実験実験実験、、、。

無給の生活は、母が、未来の職員への前渡しだからね、、、と
家賃の5倍の生活費を送ってくれていました。

結婚前は、病院薬剤師として、
結構なお給料が出ていたので、
あと、、、数年は節約すれば、、、何とかなると思いながらも、

女性は結婚という、、、女性にしかできない出産を経由して

多くの事をあきらめて、孤独に強くなり
母が誕生してゆくのだなと思いつつ、、、

母親が誕生するまでの産道は
長く、暗く、死んでしまいそうなピンチに出会う一本道でした。

家の主人は、、、馬鹿なのか?

新婚だというのに、、、風呂のない部屋を借りる神経。

銭湯は広くて、気持ちは良いかもしれないが、、、

東京では、たぶん、、、医師たるものは、

奥さんを、銭湯暮らしは避けるのではなかろうか?

何処に、、、患者さんの目があるかもしれないのが、、、
医師という職業なのだから、、、。

ま、、、いいか!
ここは北海道、、、

私を知っている人も、
私に近づいてくる知人も居ない所であるからして
「いんでないかえ、、、と」

根性を入れなおして、、
医師として
一人前になってゆく道に進み始めている主人を
いかに放任して、、、、好き勝手にしておくかが
私の目下の仕事であった。

お互いに、、、そのうち必要を感じるときが来たら、、、

子供を産み、
子供を育て、
小さな借家で留守番よろしく
でたらめな時間に帰ってくる主人の為に
食事の支度をするという

子供を愛し、子供から、愛を学び
二人の愛が、子供を鎹に育てるつもりという

結婚も仕事の延長上の緊張感が続いたのでした。
                  

                  つづく

明日には、大幅に削除して、
余計なおしゃべりは短時間だけ、
君の為だけに、書いておくよ。











                                      つづく

忘れられてゆくことの原因を考えてみました。

2019-08-20 03:58:49 | Weblog

今年も 手作りのケーキを送ってくださってありがとう、

今年も、千葉から名物の梨をありがとう。

この梨は私に送ってくださるというよりも

がんセンターで検診、研究、などを通して

戦後の団塊の世代が果たした「日本の復興」に

黙々と働き続けた多くの昭和20年代の生まれのコロンブスたちの中に

私の弟もしっかりと、眼に見える実績を残したからだと思うのです。

私自身に送ってくださるというより、

その知人の家族が、九死に一生を得たといういきさつから、

本来なら弟に送りたい「梨」なのでしょう。

しかし、、、国立という性質上

お礼心で物をお礼に送ることなど、失礼だし、足を引っ張るのと同じだからと

「友達であり、学友であり、、、、長い付き合いの、、、義姉の私に電話が入ったのが
何十年も前の事でした。」

「あの時、検診を受けなかったら、、、大切な家族と、今もこうしていられなかった。」

「がん」が検診で見つかってから、手術、入院、退院、通院、、、と

築地に通いながら、

絶体絶命と思いながらも、いつしか希望にかわっていったそうです。

そして、、、もう何十年も健康で勤務しているそうです。

「姉」の私に、梨を送ってくるのは

国立は個人的な組織ではないので、「今年も、健康で生きていますよ~~!」と。

感謝を言いたくても、筋違いのシステムで動いているところなので

「姉の貴女に、今年も元気だからと、感謝をどこかに言いたくなる。」、、、というのである。

昔の童話に、「王様の耳は馬の耳」という作品が在りましたが

心情としては、募る感謝をどこかで表現しないとさっぱりできないのでしょうね。

梨はいつも10個送ってくる。

言いたいことを聴いてあげる役も、医療には大切なことだと思っています。

梨を私に送ると、すっきりするから、受け取ってほしいというのです。





梨、、、なし、、、ナシ。。。生し、、、

私自身の事は、、、忘れてしまった、、、友人に

「弟の代わりに、、、食べてあげるから、、、」

思わず、学生の頃の会話になりますから、

私自身は忘れられてる自分自身が微妙に、、、

ピエロに思えるのですが、

癌からの生還であるという事は、

「忘れられない事なんですよね!」

彼女には、、、友人よりウエイトの重い回復という奇蹟に思うのでしょうね。

解る様な気がします。

千葉の梨は絶妙に美味な喜びの味がしました。」

忘れはしない、、お顔も知らない人とはいっても

、無事生還の何十年もの歳月は

私でよかったら、、、梨でも、カキでも、、、ミカンでも、

話を聴きながら食べていますよ。、、、

友達だっていう事を忘れない限りはね。





初心者の写真、、、クリックする毎日です

2019-08-18 15:19:33 | Weblog

炎天の毎日ですが

この方の写真は初心者どころか、、、芸術ですよね!

一瞬にして消える夜空に描かれたパッションの芸術は見事なものですね~~~~!

作品を閲覧させていただいて、幸せ気分で日曜日のひと時を

良い時間をいただきました。

ありがとう、、、、、(^^



ちなみにこの写真は、私が撮影した一瞬の「一期一会」

花火ではありませんが、光と、物質が織りなす、、、、、万華鏡の中の一瞬です。

写真という、一瞬を捉えて、永遠に心にインプットする光の魔術師は

花火を捉えると形而上の世界になりますね!

                    美しい、、、花火

                    夜空の花

                    お父さん、、、お母さん、、、お爺ちゃん、、、お婆ちゃん、、、

                    あなたの世界の花を

                    私たちの世界の花を

私の中の、、、笑い

2019-08-16 17:16:36 | Weblog

息子の中学校の教科書を読んでいたら、
横光利一さんが書かれた「蠅」という文に目が行った。

あらすじは多くの横光ファンがご存知のとうりですが

若い息子たちの教科書に出ていたことが

クス、、、と笑えた。

紳士の乗った馬車が
崖下に落ちてしまうのですが、

馬車にとまっていた蠅が

まるで何事もなかったように

馬車から離れて飛んでゆく、、、

たったこれだけと言ってしまえばそれまでですが、

横光利一さんという作家は

現代の作家の
説明や描写や状況づくり過多という
余計な設定が無い。

ストーリーの面白さに
無理が無いと言えば良いのかな??

理屈や説得力にあまり関係が無い面白さだと思いませんか?


よくある、、、当たり前の、、、状況を述べてくれている。
読み手が気が付かなければ
何を言わんとしてるのかな?、、、と。

何でもないと思える文章の中に

笑いが止まらなくなるような笑いがある。

笑いの神髄のような、、、笑いを感じてしまう。

トカゲのしっぽ切りの
ミステリーめいた殺人とかではなくて

無理な創作がないのに、、、傑作だと笑えてくる。

とにかく、、、おかしい、、、笑えるのです。

読み終わったとき、

蠅は自分ではなかろうか?、、、などと

思い当たる過去のラッキーなことなどと
重ね合わせて

笑って過ごすのでした。

私の中の笑いとは

声を出して笑うというより

おかしいのである。

おかしくて、、、おかしくて、、、。

他人が視たら、、、思い出し笑いの

けったいなお婆さんが

一人で笑っているのです。

         想像してみてください


おかしいでしょう、、、笑い(^^






全くの私見ですが、、、痴呆と虐められる環境との一例

2019-08-15 03:05:26 | Weblog

若き日に「恍惚の人」という本を読んだことを思い出します。

森繁久彌さんが映画にも出演されて

痴呆になってゆく老人の日常を

哀しいまでに名演技で

若かった私の心に「直撃してくる崩壊」を問いかけてきました。

人間が悩の機能に障害が起きると

様々な病気になることは、

薬剤師になるまでのプロセスで

学問としては講義を受けて、

麻薬や覚せい剤の取り締まりの大切なことは

肝に銘じて勉強してきました。

医療としての、脳の機能の異常は

これからの医薬の世界の課題として取り組んでゆくことは

永遠の課題だとは思います。

こうしたレベルの次元とは別に

お茶の間の「主婦」「家族」「住宅事情」「経済事情」

町内会や身近な知人、親戚兄弟、夫婦関係、、、など、

人間の機能とは別に「やる気のおきる心」「何もしたくない心」

災害などショックが起こす逃避の心

喪失感からくる「心の免疫力に似たような、、、耐力」

もちろん、理想的な施設に入居でき☜

何の心配もないはずなのに、、、ボケてゆく要素は何なのか?

人間は、、、聖書の言うように

パンのみには生きられないのかもしれない。

アイデンティティといえばよいのか?

自分主体になれる何かが、
脳のエンジンをかけるのではないかと???
思いませんか?

与えられるばかりの環境は、
脳の萎縮が起きてもふしぎではありませんよね。

だって、、、

自分で動いて、
自分で考えて、
自分で評価して

客観的には被災者であって
虐められっ子で
村八分的なよそ者扱いをされていると、、、仮定する。

和歌山で、潮岬の嵐の中の防空壕で生まれた私。
両親は戦地からの帰国許可で焼夷弾の雨降る日本の本土に帰還。
この間南紀の豪族の孫と宮内庁勤務の父を持つ医師の夢のような青春。
日本でも一握りの女性の女学校教師という東京府のキャリア女性の母

戦争に巻き込まれて、
千人張りと、名誉の送迎で戦地入り。
勤務が総合病院院長だった現地の臨床医養成の仕事の父は
外科の医局のない漢方医の外科指導という医師ならではの奉公。
総合病院を丸ごと預けられての院長の周りは日赤の提灯袖の看護師さんがいっぱい。

母は子供を連れて戦地の病院までついて行ってしまった。

言葉の解らない外国で
4人の子供の育児は不自由であった事だろう。
占領軍としての微妙な日本の軍医は規則に従うだけで家庭は無し。

それでも母は夫のそばが安心だったのだろうか?
戦争が激しくなり、
長男を残して3人の子供を喪った。
なかば、ヒステリーの静かな内向タイプの異常状態だったのかもしれません。
母は無くなった息子たちを取り戻すのだと
4男にたる男の子を激戦地のニュースの中で主産するが
一度は仮死状態になる様な育児の環境ではない中で頑張ってしまう。

孤独と、子供の死と
言葉の解らない不便さと、

明治生まれで大学を卒業した気丈な母も
誰が悪いんでもない、、、戦争に虐められたいじめられっ子と言えそうだ。

一年違いで私がお腹に入ったまま
軍医は最後のトラックが迎えに来ないという
戦場に行くのにも行けない状態の日に

日本から祖父が単身戦地まで娘夫婦家族を迎えに来た。

ヨーロッパの地続きの住人のする方法に従って
退却するときの為に、指輪やブローチやネックレスにしておいた報酬金は

最後の日本への連絡船の切符を手に入れるのに役立った。

あとは、一品づつ、関所を通るのに使いながら
日本について、満タンの屋根まで乗客が居る汽車の
子供の為の座席の確保に焼きだったとか、、、

串本まで来て、焼夷弾の降る中で
防空壕の中で、私は生まれたそうです。

戦場まで娘夫婦を迎えに行った私のお爺ちゃんが
串本で、役所に出生届を出してくれました。
「この子、紀州の子供なり」と。
防空壕では、栄養失調の私は泣き声をあげなかったそうです。

すでに生まれていた子供でも、
うるさく泣く子は、味方の日本人の手で殺されたそうです。

生きるのか死ぬのかわからない状態で
南紀の川を昇って山の中について

巨大な銀杏のある村の診療所の医師として
父は命がつながったのでした。

長旅と逃避と、食糧難と、子供の戦場での死、、、
之って、、、究極のいじめられ体験だと私は思います。

父も市ヶ谷のお屋敷で生まれ、
文人通りの作家や芸術家らとの行き交う中で

当時は宮内庁の方々の医療を担当していたという
慈恵医科大学から、戦場に行ったのですから

天と地の落差のある環境に耐えたことになります。
優秀だったすぐ下の弟は無くなり、
妻の弟も、末っ子の実弟も学徒出陣で出兵。
シベリアを体験して、兄弟親戚皆父の居候。

戦後のアメリカの教育に追いつけ追い越せの日本人魂は
こんな落差のある環境にも
い命を懸けて、自分発の復活に、
明日の事は明日考える日々だったという。

ヨセミテ渓谷の瀧もびっくりの落差のある
命がけの帰国と
無一文からの父には
母が最期に持ってきた「メス」などの入った手術道具のカバン。
財産は、、、これだけ!

究極のいじめられ体験の父母は
それでも、、、満身創痍でも、、生きているという事が
当時としては大変な幸運だったそうです。

何で?????父母たちは正常で
無一文から私たちを
大学入学まで押し上げてくれることが出来たのか?

何処にそのような復活のパワーが潜んでいたのか?

何で???気が狂って苦しさの頭皮をせずに、、、立ち直れたのか?

物ごころついたとき
私が、、、「アリラン~~」と歌い始めたとき

狂気のように、耳をふさいで
小さく丸く体を丸めて、、、死んだようになったことが有りました。

想像を超える母の苦労が垣間見れた一瞬でした。

第二次世界大戦を漠然と受け止めながら
ひたすら実験をしていた地下室の住人は
痴呆になるという噂だけで、現実には
人間を辞めてしまった状態には
なっていないことになりますよね。

科学実験を駆使して、
自分を主体に生きていたのですから、、、。
地下室で、、、

阿保になれるのと
痴呆とでは違いますよね?

焼夷弾で壊滅した町の中で
長谷川利行は多くの歌を残しています。

もしかしたら、、、
関東大震災のなかだったのでしょうか?
彼の絵の下の意識下に感じる「ビク!」となる変なオーラーは
絵はがきほどのダンボールの欠片に画かれた絵とは思えない
退廃的な恐怖を超えて、手元に置けなかった。

多くの倒れた被爆者の中を
正常の脳のまま歩けるとしたら、
人間のこころの壊れ方と
脳の壊れ方は
一部の人間は連動していないのかもしれません。


途方に暮れて狂う事でバランスをとる悩より
正常な脳の行動結果、ゲルニカや、
製作する心の余裕のある事の
不思議を思いながら
世界各国、
戦乱から立ち上がった復活都市を観るにつけて、

終戦まで生きて、、、今日まで
復活の道を歩んでこられた
日本人の脳の柔軟性に驚くときがあります。

終戦記念日が、過ぎました。

75年前の惨状を記憶の引き出しから
ソート出して思い出させます。

日本人は、自分があるから生き残ったのか?
人間という同じ次元の座標にあるものに支配されるものと

神様が居ると信じて、
人間以外の全知全能の何かを肯定して
姿なき、、、卵の殻の中で
ヒヨコになるまでに人生が終わってくれているのか?

人間はヒヨコになって
卵の殻の外に出たことが無いのか?

卵の外には、世界が無いのか?

はらきり、、、
三島由紀夫さんは
100まで生きていたら
切腹をどのように意味づけるだろうか?

一説には、川端康成さんと
年代の相違が
ノーベル賞獲得に影を落としたという説もありますが、

盾の会というのは
私ごときには難解すぎて
理解をすることまでは
考えるのさえ控えてしまいます。

天才と言われる人の心は、
人生不可解なり、、、という
東大に入学出来ているのに
瀧から飛び込む学生さんのように、、、

切腹も、飛び込みも、
自我の主体に理解が追い付かない何かがあるのでしょうね。


逃げきれない苦しみを背負わされたら、、、?
私なら、、、呆けて、しまいそうな気がします。
人間はやめても、復活のチャンスを残そうと、
自ら死ぬことは出来ない相談です。

痴呆にはならなかったのか?

武士道に支配されている人間は
究極の時点で
はらを切って自分で死ぬという

ある種の主体が在り

支配されているように見えて、
殿に仕えるという非支配の中に
武士であるという主体のある主体のなかでの仕えるという誇り?
アイデンティティよりもっと、、、重い何かがあるとしたら?
誇りと主体をもって、
時代の制度に支配されていたと仮定すると

武士の魂を持った者は痴呆にはならないのか?

考え方で脳の萎縮は起こらないのか?

考え方で、感受性が大きく変わることは確かである。
内分泌や、ホルモン、、
アセチルコリン、、、等伝達物質
セロトニン
ドーパミン
、、、、、
無限にある生命体のような、、、人間のピースを

最後の空間にはめたときに

はげ頭だって勝手に怪我生え始めるだろう。、、、か?

「心」は卵の殻の中で、
ヒヨコになってそだってゆくのだろうか?

成長してゆく欲望が、
自分という器の中で

卵の殻のようなものに突き当たり
その殻が破れないとき

人生の殻の中に閉じ込められてしまったとき

悩以外の生命体が
宇宙に浮かぶ銀河のように
人間の中の別の生命体が、
絶妙に
引力のような
相互の関係に見えて入るが、、、?

大きな宇宙の支配を受けて
生まれ乍ら、、、壊れ乍ら、、、
動き続けるというバランスの中で
壊れ乍ら、生まれながら、修復されながら

赤いカニの大移動のように
人間も
ある種の方向性に従って移動しながら
膨らんでは壊れて
壊れたものは風化しながら成長を遂げたモノの
存在を可能にする。

再び壊れそうもないもので
復活を繰り返しながら

原子爆弾によって分解する。
人は元素という
小さな存在から、

ひとかけらのピースを創りはじめ

ピースをつなぎ、
はめ込めながら復活してゆくのか?

全く別の生命体として存続し続けるのか?

一度死んで、、、生き返った人が居たら、、、?

ナイルの文化のミイラは
来世が来たことが、、、認識できるのは

実は「博物館の展示室」のサイドなのか?

サイトカイン、、、∞の命のピース。
人間の中の家来のようで、
家来でない生命が

バランスが保てなくなったとき

次のチャンスに生かそうと思考をめぐらす
、、、自分発の脳のエンジンをかける刺激。

ゴミとゴミでない物の違いも

値段や希少価値や、人間国宝作家の客観的価値の他に

個人ごとに独自の感受性のセンサーの感度を持っている。

例えば一例に過ぎないが、、、

3歳ぐらいの時に、

初孫がきらきら光るキャラメルの包み紙で

八角形もどきの指輪をつくってくれた。


私は15年も経った今も大切にしていますから、、、

「婆にあげる、、、僕が作った指輪だよ!」

あの時の可愛いい笑顔が指輪と連動して

時を止めている。
キャラメルの紙で創った指輪は
私の記憶を
「時を止めたまま」微笑みを誘う

生きている物を孫から教えられた。
生きていることは見えないが

川の水のごとく確かに、、、
故人が残した文のように
絶え間ない形がとどまることが出来ないが、

孫は、
キャラメル包み紙の指輪をつくって

時間を止めて、、、

見える形で、、、

「心の存在のような光の揺らぎ」を

生きている不思議な「心」の動きの存在を教えてくれた。

心の中の

記憶や感動や喜び、、、

悲しみ、、、

喪失感と

時間を止める力のある記憶とは

脳はもう一人の私というよりは

「感情の素直すぎる私の中の私」という

友達のようにも思えてくる。


戦時中に生まれた私の兄や主人には

共通点がある。

はっきりした形や行動としてあらわれなくても

戦中に幼少時代を過ごした年代の人は

心に、虐められた被虐の記憶がある。

取り返しのつかない喪失感からくる

心の貧乏がどこかにある。

終戦なのだと、

人間であることの最後の頑張りが
戦争を、終わらせたんだと
主体をもって、戦争の終わりに向かって
自分自身が主体の戦後を生きてゆくなら

敗戦という言葉は要らない。

破壊行動の手段で
世界を支配したつもりであっても

原子爆弾は支配者事、死の灰に分解して命は無機物にしてしまうからだ。

見える次元、
機械の次元
物質の次元の

支配ごっこが

原子爆弾という手段なら

切った、、、貼ったの世界から

一歩も踏み出してないという
卵の殻の世界ではないのか?

人間という、

不思議な生命体の集積のような

「命と呼ぶ宇宙の中」で

領土を争うという、
経済を争うという
○○ファ―ストと言うよりも

お金が無くなることが恐怖という物質世界が存在する以上

無限に豊かになれる「心の世界」は理解されないだろう。

世界が一つになって
解読してゆかねばならない
科学の時代が来てしまった。

大きな問題の答えを
円周の上の無限の点のような
各々の考えが世界各国の知恵の円周で
我が国の一番だけ考え始めたら、
数値化できるのは

物質や数字や金塊だけに置き換えるのだろうか?

西部劇の領土争いや、

十字軍時代の権力争いに

逆戻りして着くのだろうか?

未来より過去の納得が独自の理論で大切な国は
未来を喪って、過去の証明に走るとき
「時間」という、、、生命あるもののすべての支配者が

振り向いて立ち止まって、、、
「乗り遅れる文化文明の列車のドア」を
開けてまってくれるだろうか?

time up!


「世界中話し合いの地球単位の平和という目的」に
向かってゆくならば、
答えに向かってゆくのかもしれない。

戦争は、
大きな意味で、
「人間の欲」が一部だけ
異常に成長しすぎた
バランスの悪い、、、病気のようなものの
しこりのように思えてくる。

世界中で手を取り合って
人種を超えて、
「欲張り」から脱出して

地球の心に触れられたら、、、と思うとき、
痴呆になってしまって、
人間を辞めてしまう暇はありません。

    眠くなってきました、、、
お休みなさい、、、私、



光ってる虫?
目立って鳥のエサになるほど大きくない、、、
可愛らしい私、、、


*************本日をもって、心を整えよう、、、*************

多くの状況に
おびえたㇼもしただろう?!

欲しいものも、
もらえなかっただろう、、、

立派な家業の跡取り息子のはずが

空襲で木っ端みじんの町全体の瓦礫の中に立ち尽くしたとき

人は、痴呆状態に一瞬なることによって

何らかの能動的な脳を保護しているのではないかと思いませんか?

75歳になったせいでしょうか?

真夜中にこんなことを考えて

眠れない夜を、
眠らないで文章を書く時間なのだと

自分主体に解釈することにしています。

自分でも気が付かない時間に

昼間、、、

洗濯物をたたみながら、、、
きっと、、、動きながら眠ったのだろうと、、、
夜に起きる時間がずれ込んだのだと、、、
あくまで主体は自分にあると思う事にしている。

痴呆になることだけが、、、
これからの恐怖だから

命尽きる直前まで、、、
すべからく行動する毎日は
「自分発」という前提で、生きてきた以上は

仮に、、、
家族と言えども

人に頼ることだけはすまいと思っている。
人に支配は受けるまいと思っている。

自分で出来ないこと以外は
欲しがらないことである。

自分で出来る範囲の中で

気が付くことを
お線香花火のように繰り返しながら
松葉を散らして
柳となって
小さな球となって
ぽとりと落ちて、、、
命が付きますように、、、(^^!

自分の心の中に火花が視えればそれでよいことにしよう、、、



            やっと、、、眠くなったので、、、寝ます。

      御、夜、巣、視 拿 娑 意


猛暑のあとは、、、台風か!?いい加減にしてほしいお天気様よ!

2019-08-12 13:40:32 | Weblog
今年の猛暑は
ただ事ではありませんでしたね!

ちょっとした街歩きにも
保冷剤を5つ並べて区切りを縫ってレース生地で

保冷付け襟を自作した。

思いっきり大きなポケットのブラの
ポケットにはガーゼで包んだ保冷剤を入れる、
脇の下の汗取りパットのあるシャツを
パッとの中綿を出して
ミニ保冷剤を3個
バナナ型にカーブをつけてセット。
シャツをビニール袋に入れてそのまま冷凍

両手には木綿の指なし手袋に
キッチンペーパ^を切って保冷剤を包み
手のひらにねじ込む。

33度を超えて、会合に参加するときは
外を歩かざるを得ないので
炎天下には全身保冷材セットスタイルです。

500円で買ってきた
デニムの帽子にカットを30か所入れて
レースの旧いブラウスから、
切り取った生地でアップリケして
頭の通気性抜群の
デニム木綿の帽子の天井に
保冷材用ガーゼ布ポケットを創り
保冷剤を入れて頭も冷やす。

我が家から、講習会場までは
一時間15分のあくせく歩行と
北大構内の森林のような
涼しい道路を観光客や留学生や
自転車で追い抜いて行く北大生らと

束の間の非日常で
気分転換する
過ぎし日の学生時代のように
ゆっくりと歩く癖は無くなっているが、、、。
卒業以来仕事の性質上

早飯が芸のうちになっている。
北大前のコンビニで
ビスケットと牛乳で夕食代わりのスナックを食べる。
コンビニも、大学前という性質上
カウンターでドリンクが出来るようになっているから
サービスがいいですね!。

大学院での単位が残っているのだろうか?
講習会には大学生というよりは
大学院生らしい姿も見える。
講師は教授、助教授の先生方が担当する。

大学時代の講義とは異なって
手とり足とりの面倒見の良さで
ノートをとらなくても、
カラー刷りの画面のパンフレットが配られる。
たまには、パンフレットの無い授業もあるが
興味を持って聴いていれば
知的欲望は満足して、
ナールほどね、、、、、と
結構気楽に楽しめるほど、
本来は難解な授業も、
優しく、あの手この手で理解できるように
スライド在り、動画あり
かなりのお年を召した生徒さんも
質問したりしているから

年齢の幅が広い受講者で、
75歳の私の姿もカメレオン並みに保護色になっている。

後期は9月から再開されるが

気候と相談しながら
行ける日は極力、受講するようにして

痴呆にだけはならないように
努力したいと思っています。

講習会が終わって駅のイーオンで
主人の夕食のおかずやら
牛乳や、フライドチキンや
フランスパンを買うと

保冷材は、役目が終わりに近くなります。
付け襟を外して
ビニール袋に入れて
酌量を冷やしながらバスに乗ると

今日の炎天下の一日通学は
無事に熱中症にもならずに帰宅。

後期高齢者は、今年の炎天下の外出は
保冷剤による「過剰防衛で、クリヤーできました。」

何かに参加するという事は
天気予報にによっては
闘いの一日であったことは確かです。

この、、、異常な暑さは、
ミサイルの打ち上げなどによる
微粒子の汚染空気が
さらに人工的な害毒を創っている気がする時があります。

30前の若者が熱中症でなくなるなんて、、、

温度の他に、、、何かの異常な条件が

天候に加わったとしたら

知的財産権の他に
環境清涼空気権も必要かもしれません。

ミサイルがあたらない場合でも
海洋汚染限度国として
汚染が、自然の循環に破壊要素を残さないように
国交交渉を出来るように

なるといいですね、、、、。

札幌郊外は、空気がきれいなのが、、、宝物です。



後期の、「北大道新アカデミー」を続ける予定!

2019-08-11 05:16:45 | Weblog
主婦にとって、
明けても暮れても、、、家事の仕事は終わりが無い。
音楽のように、
一拍休みを入れることにした。

前期は8人の北大の先生が
自分たちのやってきた研究や、未来につなげたい夢や
はたまた、北大の教育の組織図のような説明と

幅広い講義を
茶の間の私にも
解りやすく聴ける講義でした。

後期は台風シーズンや、
雨風の季節であることもなんのその、、、
昨日、申し込みの授業料を
コンビニから支払てきました、

前期の7月11日
松田正先生の講義は
タイムマシンで
学生気分で受講できました。

北大の「階段教室」に移動して
先生とゆかりの深い
平野俊夫先生のお名前が
講義において紹介されました。

人間の免疫についてのお話でしたが

本来なら難解な事を、わかりやすく
カラーのコントラストのはっきりした画面で
説明してくださったので

実にわかりやすい
我が生命体の中の宇宙にも
自分と他とを認識する生命体が居るお話には

興味が、増すばかりでした。

前期の講義が終わってから、

パソコンに「平野俊夫」と
キーワードを入力しました。

大阪大学の学長さんとして
「最後の授業が、Uーtyu-buで

とても楽しく受講できました。

何気なく使っていた
「インターロイキン」という言葉が
岸本先生と平野先生と、アメリカのコロラド大学の
ディナㇾㇿP、f、の、複数の方々が
命名されたんですって???!!!

劇的な発見ですね!

クラフォ―ド賞や
ガードナー国際賞が贈られた立派な研究の
貴重な動画が、U-tyu-buで拝見できました。

山村雄一先生のお名前も出てきましたが
私が、薬剤師として知っている山村先生は
「紅参」の本を出された先生ですが、
一つの講義から、自宅に帰ってからの
パソコンでキーワードを入力して
自宅での「一泊休みが楽しくなりました。」

後期は雨風雪と後期高齢者の私には
天候具合というブロカーが
皆勤を妨げますが、
出れる状態の時は
就籍することにします。

授業料は研究費の一部として応援になると思いますので

体力が負けそうな天候の授業は


欠席することも、有ろうかと」思います、

試験もないし、レポートもないし、
目的もないのですが、

参加すると、気持ちが若くなるから不思議ですね!



道新さん、、、マイペースな私ですが、
後期もよろしくお願いします。


絆(小説の下書きメモ)創作です

2019-08-08 13:33:23 | Weblog


たまたま、、、一緒にTVを観ていた主人に、

ちょっと、「あなたも見習いなさいよ!」

「出産まで7か月も、私を実家に預けっぱなしで」

「出産にも間に合わないし、、、!」
4か月になって、安定期に入るまで、、、
手紙も見舞いもよこさないで、、、

東京の実家から、

はるばる、札幌入りするのだから

「俺様を父親という称号に格上げした、、、偉い息子よ!」

そのように叫んで、、有頂天になってほしかった、

なんで???
千歳空港まで、迎えに来なかったのよ!!!」

一年間も、
出産から、
孫のミルクが4回になるまで
我が家の娘時代に過ごしたのと同様に、

嫁に出した家族を
全面的に
面倒を見てくれた母に

申し訳なくも、、、
羽田空港まで送ってもらい、

大きなトランクと、
オムツと、
念の為にと
6回分のミルクの筒を片手に
3か月半の長男を負んぶして
札幌に向かったのでした。

千歳空港には

絶対に来ているはずと信じていました。
もしかしたら、

全日空と間違ったかもしれないと、

長いロビーを「オムツ」とミルクをもって
行ったり来たりしながら、

「お疲れさま、、、俺の息子だ!

札幌入りの初めの一歩は俺が抱く!」

きっとそのように言うに違いないと、、、

主人を探し回った。....

男の子だから、父の手で
札幌の、、、初めの一歩を、主人の腕に抱かれて踏ませたかった。

仕事が外科医、、、突発的な手術もあろう、、、

私は、日航の到着ロビーで、息子にミルクを飲ませ乍ら

時間を稼いだ、、、

今回は、きっとくる!!

私は、押しかけ女房でも、なんでもない。

現役で薬剤師として、総合病院で働いていたキャリアウーマンだった。

「君の家の外科医として、君の家に入るから、僕は次男だから

博士号を取得したら、東京に帰るから、、、」と

24歳の現役の薬剤師を辞めさせて札幌に呼んだのは夫だった。

私の頭の上を飛び越して

母とそんな約束をしたのは、

無給医という逆環境の中で

薬剤師という手に職を持った働ける女性が

急流で、つかんだ藁だったのだろう、。。。か。

結婚を申し込んでおきながら、

仕事第一、
仲間のスケジュール第一、

コメデイカルの結婚式の幹事が第一、、、

実家に出産までの一年間を
夫タル姓に代わっている女房を預けておきながら
一切の費用は、
キャリアウーマンだった私の貯金から支払った。

その間、、、暑中見舞いさえ来ない。
母への届け物もない。
もちろん生活費の仕送りもない。


札幌に着いて、数時間たったころ、、、

「医師をするための事にしか関心のない
夫の不思議な視点の狭さに気が付いた。」

戦争中に生まれ長野に疎開して東京に戻った後は
戦後のドサクサの復興期の日本は

国民のほとんどが、
ぞん底を味わったはずである。
唯一の楽しみは映画であった頃に
勉強に目覚めたようであった。

幼稚園において、卒業の時に
優等賞をもらえて、
お利巧ちゃんをして、
先生のいう事を聴いて、
正しいこと、正しくないことを
しっかりと守り

成績が良いことが、先生からも、親からも褒められ、
友達の中ではリーダーになれることを
幼児期に、学習してしまった、、、

私が思うには、、、

日本が教科書で育てようとした、

戦後の復活期にひたすら、教えられた事を
正しいと信じ、国の期待に沿って
教科書に仕上げられた、、、まじめ人間のように
私には、
、、、、ありえないと、、、思えるほど

まっすぐに、まっすぐに、、、努力してきた
考え方に幅のないますぐな
融通の利かない育て方をされた人のように見えた、
命を預からせていただき、
病人に寄り添って
病気と闘う医師という職業には
ぴったりの性格かもしれないと思えるが、

女性にとっては、相棒に成れても
愛だとか、、、恋だとかの

浮いた空気は微塵も想像できない、、、
ある種の、安全パイといえばよいのか??、、
つまらない、、、
時代の決めた価値観の中で、、、はみ出せないという
努力に努力の積み上げで
医学部にはいれたのではないかと?
想像したくなるような
地味な、華やかさの感じられない
よ~~くワカラナイママ

母が、「若くして亡くなった外科医の父が、若くなって

この先生に生まれ変わって、我が家の外科の看板を

内科医の兄と、守ってくれるのだと、、、

私なりに役割結婚だと思いながらも、
父の当然の過労死で、
残された患者さんたちへの不安を解決するには
仕事だと割り切って結婚に踏み切った。

内科医になったばかりの兄も、
一人での開業は神経が磨り減るだろうと想像もできた。
ただし、、、役割と割り切って結婚するのですから

医学博士を取得するまでは
実家の職員だと思って
「医師をすることのむつかしさ」への
大学院生活と、技術取得の地方へのローテションの任務には

家内になるものが、邪魔にならないように
実家が全面サポートをするという
暗黙の理解があった。

戦後の貧困の中から立ち上がる日本は
とりあえず、目下支払える者の肩に
請求書は背負うという
暗黙のルールで動いていた。

開業医には税制の有利な法で
多くの居候のめんどうを見ながらも
世間は、当たり前のように
頼れるものは
すべて使って
戦後の復興に
人材養成の結束をしていた時期でもあった。

主人の父親の実家は、
田舎の
何代も続いている産婦人科医であったらしい
叔父さんも産婦人科医で
界隈は出産に立ち会った子供や親が
まるで親戚のようにコロニーになっていた。

叔母さんは薬剤師で
長女は女医で
次女は薬剤師だった、
医学部に進んだ主人に
次女との結婚で実家の開業を継いでほしいと
再三言われたそうであったが、

医学を学んだ主人にとって
「血族結婚は避けるべきだと判断した。」というから、、、
実に、正しいことに沿って生きてゆっくという

融通の利かない狭い視野の中で正しく生きるタイプであると思った。

開業医の叔父さんは実父の弟で、叙勲もされているし

改革総理大臣になった政治家とも
医療面でつながった同郷の後援会長などしていたから

叔母さんの言う通り
次女と結婚していたら
金銭には困らない
田舎の名士の跡取りとして
優雅に暮らせたはずであろうに、、、、
何で、父親の早逝した我が家のあとの職員をする気になったのか?

本人にしかわからない、、、人生の弥次喜多道中が始まりました。




母は昔、
夫であるはずの私の父が
院長をしている総合病院の前の
公衆電話から

遠慮しながら、
息子が病気だと診療を頼んだそうですが
戦争中でもあり、
外科の患者のトリアージで
電話にも出てくれなくて、、、

父は帰宅することさえしなかったそうです。

私は、外科医という、、、
ある種の「愛」の邪魔になる職業と結婚してしまった。

言い換えると、
病院という企業の、
主役の派手さは見事であるが、
病人の為の駒と言える立場に居るのが外科医であるかもしれません。
「連休や正月や、父母の命日には
怪我をするな!事故を起こすな!喧嘩するな!」

患者さんには注文できない外科医である。
正月であろうと、お盆であろうと、
はてさて、、、母の命日であろうと、、、
患者さんのそばに居る職業なのである。

とんでもない、
融通の利かない時間貧乏な男性と
結婚してしまったことなのか!

全ては職場優先の外科医であることを認識して結婚した以上、

今回は今回と、
割り切って、
愛情や、感情で物事を考えないようにした。

彼は、
女房子供を守るという暖かさがあるのかもしれないが
一切のそれらしき寄り添う状況は皆無と言えるほど
暖かさには出会う事は無かった。

同僚を家族と思っているのでしょうか?
ダのような会にも誘っていただけることが
頑張れた証のように、
外で使い果たしたスタミナが
玄関ドアのノブの所でガス欠に陥るほど
医療に夢中で
お仲間と居ることが活きてる証のような毎日が続いています。

過去を振り返ると

単身赴任も職場への忠実。

何よりも、
「取得したい技術」があれば
、突然消えた。
国内技術留学とか言って

大阪の国立循環器センターで
無給でロングステイの技術取得の旅に出ると
帰ってきてからは、
家を長く留守にした正当性を論じ」
自分が医師を続けるには、このままでは
時代に遅れるか、
患者にセカンドオピニオンを紹介する時代に入った以上
目下、足りないと思われる技術を取得するために
家庭の多少の我慢は仕事のうちだと言った。

国立循環器病院で、
受け入れてくれたチャンスを
生かせて、学ぶことが多かったのだから
帰ってきたときは

何か月も過ぎてるのですから
子供に土産の一つも買ってくると
生き方上手と言えるのに、、、、、
応援団長も楽しく出来るでしょう!

文句や説教になると

家からは姿が消えていた。

基礎系の医師ではない以上、

この研修の恩恵は
患者さんへの責任からであろうかと推測した。

大変な出費が家系にかかわってくる宿泊費も
勤務医は税金の控除にはならない。

45歳を過ぎても
ロンがいっぱいで、
子育てにはかかわらない父親の姿には
子供たちも寂しいものがあったのではなかろうか?

主人は大学で**長や**担当長や○○会長をさせていただきながら

自分の事しか見えない時代が確実に有った。

東京の私の実家に帰って、個人開業の我が家に入るなんて

、、、そのような事、、、言ったかな??


いつしか北海道生まれの
北海道育ちの
北大を卒業して医学医学博士を取得したという事は
恩ある母校の世界の連帯の人生で
時代が時代なら

個人というプライベートなつながりが
ちょん切れて、
北海道に貢献してゆく道に一筋というところであっただろう。

日時は光陰矢の如し出あった。

私の、母が死んだときも、
彼は病院を最優先にして
葬式には現れなかった。

「医師をする努力の人」には。
愛のあるなしに関係なく
仕事として、家庭からサポートをすることは
やぶさかではありません、、、

母は明治生まれの外科医の妻ですから
私を自分の分身のように、
一方的に指導的立場をとっていました。
娘のゆく道も、
「医師の娘は医師と結婚すべし、、、みたいな、、、思い込みがあった。」

勝手に、、、自分の意思のままに決めつけているところがあった。

無給医の苦しい時代の
生き残り結婚に向けて
急カーブの急流の
「藁」にしがみついた主人も哀れであった。
次男には、仕送りは卒業と同時に
仕送りはストップになった。

初恋の人が忘れられないのか?

その女性は三越に作品が並ぶ芸術家でもあった。

私は主人に頼まれて、初恋に免じて、
伝統工芸作家の作品を買いに行ったものでした。

主人は知人の冠婚葬祭祝い事に何百回と出席しましたが。

お祝いごとに、彼女の作品を差し上げました。

生涯、、主人にとって高校時代の才媛の、初恋の心の妃が、
心の支えでした。

可愛そうに。。。
この人しか世の中に女性は居ないとばかり

サザエの蓋を絞めてしまった彼の初恋の世界は

不思議と腹が立たなかった。

私にだって初恋の思い出がある。
家の事情が豊かであったなら、

輔つ恋の人とは30歳過ぎてから
薬剤師として一人前の修行を積んでから
ごくごく自然に結婚していたかもしれません。

主人の初恋が忘れられない気持ちがよくわかります。

しかし、、、此処は鬼婆になって
哀しからずや道を説く我!、、、野暮ですが、、、
「あなたの恋した人はね、
あなたが大金持ちで、
彼女の作品を買い続け、
彼女が世の中に評価されるまで、
ゴッホのお兄さんの役をしなければ
販売数や、個展会場の評論家や
はてまた、、、会場への動員数まで
作品を有名にする資金が無いと!!!
彼女の作品は
天才の優美さまでは
届いてないでショウ。

彼女は、単なる医師と結婚しては仕事が挫折する人だから

あきらめた方がいいわよ~~~」

かなり、、、いじわるな解説を夫にして差し上げましたが、、、

夫は、東京銀座の服部時計店での個展に

私をして、、、彼女の作品を買ってきてほしいと、、、
とうとう、
彼女のお気に入りの小物を手に入れたのです。

そのとき、初対面の私は彼女と、
百年の知己のように、
何のこだわりも無く話せました。

小さな作品で、
瀬戸物屋で買ったら4000円ぐらいの水盤もどきの作品に

十万円という値段が表示されていました。

小さいものでは
最高の値段がついていたので、

主人のメンツの為にも、
その一品の作品を買いました。
私、、、馬鹿よね、、、とは思いませんでした。
バカなお金の使い方だとも思いませんでした。

その種の一番の展示物を
買うべきだと割り切っていた私でした。
その結果、
小さな作品のコーナーの品になっただけでした。
たまたま、その作品を
気に入っていた彼女は
作品の感想を訪ねてきた。

「どうして、この作品をかってくださったの?」

「たぶん、御仕事柄、
現実逃避して、
作品のイメージを追いかけているうちに

この小さな宇宙船のような、
ノアの箱舟のような作品に
貴女は
すくわれたんじゃないかな~~~と思ったから、

貴女の作品のファンでもある主人に

貴女の作品を創造するイメージの心の旅に
同乗させてもらえるかなって。」

ふと思ったのよ。

彼女は嬉しそうに頷きました。


生き抜くための必要から結婚した女性(私)との間には

子供が出来たら、

愛は邪魔と

主人は仕事にのめりこみました。

幸いなことに、私も、男女の愛は、邪魔という

自分の趣味を持っていたので、

二人は、誰から見ても、、、お似合いの、

仲良し夫婦で通ってきました。

心は少年少女の同級生のように
歳をとらない夫婦になりました。

ひとかけらの嫉妬もありません。

でも、「心に残り続けるのは
初恋の貴女だと思いますので、

これからも、時々
主人から、、、買ってきてくれないか?

頼まれると思いますよ。」

彼女に告げて、別れました。

作品は、お世話になった知人んで、
飾れるロビーの所有している
作品を展示できる方に差し上げました。

私にとっては、
ちょっとばかりの金銭的値打ちのあるものより

主人あてに届く患者さんからの手紙が大切です。

いまだに、患者さんからの御礼状が届き、

例えば、、、

「先生に若き日につないでいただいた血管がつながり

右腕は失わないで済みました、」

お手紙とともに、自分の農場でとれた果物を送ってきた。

病院では贈答は禁止されているので、

その旨を書いてお返事をしても、

自分の気持ちだからという。

来年も、再来年も、、、、先生が病院に居てくれるだけで

安心する旨の事が書かれていて、、、

受け取ることも、
心の医療かもしれないと、主人は言った。

主人が医師をしている限り、

どこかで患者さんが救われていると思うと、

夫としては、点数のつけようがないが

長きにわたる、

サポート人生で、私も脇役の自己満足を肯定できる歳を重ねた。


私は虫だったかもしれない?


でもこの虫は輝いているのかもしれない
脇役をこなすことの大切さは
虫からも教えられることが多い。

虫が居なければ
花は咲かないのだから。

医師と結婚する女性には

私の経験上伝えておきたいことが有ります。


患者さんから診ると、神様であったり仏さまであったり

信頼できる頼れる人であったり、

様々ですが、、、

ひとたび家庭の事となると、

初めから、

夫人は主役の後ろの陰になる可能性があります。

患者さんという、
病気という
マイナスエネルギーの

「巨大なブラックホール」と闘っている医師は

仲間の病院との時間がメインの闘牛士のようです。

家庭の奥さんになる人は


主役より脇役に向いている人でしょうね、

世間も周りも、
学問や技術の維持費と
時間貧乏の為に
時間を買わねばならないという
見えない雑費や
冠婚葬祭費で
ベンツが買えるぐらいかかるという
会合や学会や海外交流に
現実に
固定資産税の30倍はかかるという

見えない借金を背負っているという事をかんがみて、

必要経費に必要で十分な金額が出せないと、

晩年には、
収入の数字だけで、
税務所からの税金が容赦なく数字からの割り当てで

ローンで払う羽目になりますよ。

経費では認めてもらえない交流が
時代について行ける医師の必須の出費が
必要だという事です。
油断しないで、、、生活は節約して
税金を払っても
老後は施設に入れるだけの備えは必要です。
医師家族が困っても、
誰も助けてくれませんからね。
プライドを守るという事も、
妻の務めかもしれません。

子供にも特技をつけさせないと、
世間の誤解は嫉妬となるかもしれません

相手をいじめっ子にしないためにも、
いじめられない子供に育てなくてはなりません。

婚活のお嬢さん

医師の中には綺羅星のごとくすごいお金持ちも居て

目立ちますが、大半は、、、中流で、
上流のお仲間と付き合いきれないで

孤独になる夫人も居ますので、

しっかりと、
自分の趣味や、
生き方を持ち
自立した精神で、

「医師をするという事に、、、意義を感じるのであれば、」
お見合い結婚しても、
孤独に負けることは無いと思いますよ、、、。

息子のは、
お金持ちのお嬢さんが紹介されてきますが、

贅沢に育ったお嬢さんは

勤務医の質素倹約の、
仕事バカにはついてゆけないかもしれませんね。

勤務医は日進月歩の医学の進歩についてゆかねばなりませんから

生涯、授業料のかかる維持費のかかる人生だと解ってから

それでもと、、、認めてくださるのなら、、、

貴女の方から、2回目のデートは申し込んでください。

忙しいからといわれても、

貴女を拒否しているわけではありません。

本当の事を言っているだけです。

ですから、その時は、、、

都合のよい日に連絡ください、待っています。と

可能性を信じて、次を待ってやってください。

仕事に打ち込んでいるために
時間貧乏と、精神の疲れる職業なので

自分からの行動が
次につなげられる主体が無いという
患者さん本位の時間で動くため、、、

めんどくさくなるのが、、、
めんどくさいという

仕事人です。

理解するのは一生かかりますが、

医師をしているという事の意義を見いだせて、
そのサポートに

応援団長を引き受けるつもりの

医療への理解があれば「絆となって」

相棒となって、、、

運が良ければ、
「愛する、愛される、、男女の絆が生まれるかもしれません」

息子を愛してくださる可能性を秘めていたあなたに

時間貧乏が
すべての原因であることを伝えておきます。

最近、、、結婚とか、男女の出会いに

夢をくださいました。

TVでお似合いのカップルが、
お茶の間の人気をさらっています。

息子の結婚にも、又!夢が持てるようになりました。

あんなに忙しい、、、時間貧乏のはずのお二人でも

見事に最高の出会いで、ゴールイン!!!!!

8月に祝福の末広がりの祝日が出来たことに

又、、、又、、、立ち上がるパワーをもらえました。








8月の記憶

2019-08-04 23:57:07 | Weblog

終戦の前年の8月

国内退去の通達を戦地まで知らせてくれた母の父、

お爺ちゃん。

娘夫婦を国内に退去させるために

祖父は戦火激しい中を

退去命令をもって、大陸に渡った。

長男はシベリアに居たというが、

娘夫婦を日本に誘導する法を優先させてくれた。

最前線の戦地に

出発する準備中のトラックの

突然の出発停止。

すんでのところで、

父は舅に当たる私のお爺ちゃんの誘導で

大陸との連絡船で日本に入国できた。

父母は8月になると、

お爺ちゃんへの感謝を話してくれた。

連絡船に乗ると、窓を閉めて外が見えないようにするという

船内からの命令があった。

護衛の船はすでになく、

真っ暗な海を真っ暗な船が日本に向かったと、

話していた、

日本に、運よく到着・

お爺ちゃんは家族にとって

多くの知恵で

孫子を守ってくれたなんて、、、、、

なんという、幸運!

8月の海には護衛戦のつかない連絡船が

日本に向かって

夜の海を

真っ暗な海を、

灯りを消して、、、、、祖国に向かって帰ってきたのでした。

 

あれから75年が過ぎたことになります。

どうして、、、北海道に住んでいるのか、、、?

振り返ると、、、自分でも理解できない。

東京から、北海道に移り住むことは

さほどの努力は要らなかった。

しかし、北海道から東京に戻ることは

鯉の滝登りと同じだった。

何回も試みても、急流に押し流されて、

帰還することはできなかった。

振り返れば、外国の地で

終戦間際になって

日本に帰還できた父と母には

一身をなげうって、、、命がけで

娘夫婦を迎えに

戦場まで迎えに来てくれた祖父が居た。

戦場から祖父がそのまま

熊野の山の奥の奥の

疎開地に、

娘夫婦を抱え込んで

無一文で

しかも、キノミ着のままの

娘夫妻には新生児の私が

防空壕で生まれたのだった。

祖父は娘家族を抱え込んだまま

終戦を迎えたのでした。

、、、、、

祖父がもしも、、、捨て身の心で

戦地まで迎えに来てくれなかったら、、、

私は生まれたと同時に、戦地で命を落としていた事だろうと

想像するときが、、、8月である。

祖父にいただいた命だと思っている。

終戦を迎えたときには

祖父の紹介で、

父は、南紀の七か村、、、無医村という疎開地の診療所の

唯一の外科医として、

戦後の第一歩の生活が始まりました。

B29  の

ゴンゴンゴン、、、ゴン、、とうなる空の雲間には

恐怖があったと言っていました。

そして、翌年の昭和20年8月!!!

ついに、、、人類のタブーにもあたる「原子爆弾」が

広島に落下されたのでした。

続いて、、、長崎、、、

人類は、正々堂々と名乗りを挙げて戦っていた武士の時代から

300年の鎖国を経て

独自の文化の中で繁栄していた元禄の井戸の中から

明治という、青空の下に来たときには

鎖国時代には想像できない世界という

見えない糸でバランスをとる、、、文明開化を経験した。

地球規模の国々との交流に

精いっぱいの努力と

精いっぱいの勉強と

始まったばかりの議会政治は

富国強兵という

アジアが一体となって、、、

一つの大きな

大きな国になって、

アメリカ 

ロシア

ヨーロッパと

互角に対等な交流が出来る国づくりが

何処でどのように間違ってしまったのか?

文明開化をしたばかりの

後進国同様だった国民の中から、

世界情勢を知る一部の人たちが

国を動かさざるを得ない政治が、、、

世界の大国とバランス感覚で

調和してゆくつもりであったと思えるが

私には、ワカラナイ???高度な次元の解釈が要ります。

玉音放送でラジオから聞こえてきた

昭和天皇陛下の終戦のお言葉には

国民は地面にひれ伏して

悪魔の原子爆弾の落下の現実において

陛下の玉音放送において

終戦のお言葉によって

戦後が始まったのは

昭和20年の8月でした。

もし、、、陛下の玉音放送が無かったら、

日本人は原子爆弾によって

「元素」に分解されていたことだっただろう、

怖い8月。人類のタブーがキノコ雲になって

未来の地球に一大警告となった広島落下の原子爆8月の記憶です