「疱瘡神」は「ほうそうしん」ではなく「ほうそうがみ」」と読む(らしい)。
天然痘がこの世からなくなって30年余、いまや「しん」か「がみ」どころか、「疱瘡」を「ほうそう」と読むこともできない世代が多数になりつつある時代となった。
そういう現代にあって、「疱瘡神」が厳然と存在する世界がある。
石仏、石造物の世界である。
その昔、破格の感染力と致死力(40%)で、疱瘡は人々を恐怖に陥れた。
文久2年(1862)の麻疹(はしか)の大流行による江戸の死者は、26万人。
ちなみに江戸最大の火災、明暦の大火(1657)での焼死者は約10万、関東大震災約6万、昭和20年3月10日の東京大空襲、推定10万人と比べてもその大量死はけた外れの規模だった。
それは悪鬼の為せる業だと誰もが恐れた。
悪鬼を「疱瘡神」として見たて、村境に「疱瘡神」塔を建てて、村に入って来ないように念じた。
入って来た「疱瘡神」は、すべからく出てゆくように追い払いの儀式を行った。
「疱瘡神送り」で検索したら、大和郡山在住のご夫婦のサイトに「疱瘡神送り」を再現した写真があった。
大和郡山市の「疱瘡神送り」
『民間信仰辞典』には、こう書いてある。
「大阪地方では赤飯の握り飯をつくり、それを桟俵に載せ、赤い弊帛を立て、蓮根などを供えて道の辻に送り出す」。
その写真の隣には、上田市立博物館の企画展で展示された「疱瘡神送り」の写真がある。
長野県上田市の「疱瘡神送り」
いずれも朱色が目立つが、これは「疱瘡神」が赤を嫌うという伝承があるためで、「疱瘡
神除け」のお守りは赤一色のものが多い。
「疱瘡神」塔は全国各地に見られるが、ほとんど文字塔であることが共通点。
神明神社(野田市)
埼玉県にも89基の「疱瘡神」塔があるが、全部文字塔ばかりである。(『石仏雑記ノート1』石川博司)
下之氷川神社(志木市)
志木市には疱瘡で亡くなった子供の墓標がある。
疱瘡で死んだ子供の墓。左上部は賽の河原の子供二人。
「疱瘡」の「疱」という字が辛うじて残っているが、これは法名の「疱維童子」の一部。
上部の浮彫は、賽の河原で石を積んでいる子供だというが、軟石のため像が崩れて不鮮明。
江戸期、夭折はそれ自体が親不孝とみなされ、墓を建てることも少なかった。
疱瘡に子供の命を奪われたことが、施主田中源佐衛門には心残りだった。
不条理な災難を忘れないための、これは怨念の墓標なのです。
本題に戻ろう。
全国の「疱瘡神」は、ほとんどみんな文字塔だと書いた。
だが、物事には必ず例外がある。
茨城県取手市には、なんと「疱瘡神像」塔がある。
しかも複数個あるのだ。
疱瘡神像塔(水神社・取手市)
取手市は利根川に接している。
この利根川下流は、こと石造物についていえば、地方色豊かな特異地域と言って差し支えない。
千葉県東部の東総地方には、赤子を抱いた観音さまの子安観音が多い。
子安観音(賢徳寺・銚子市)
東総は、馬に乗った馬頭観音の分布地帯でもある。
馬乗り馬頭観音(路傍・銚子市)
ちょっと上流の野田市は、猿田彦像の密集地帯として有名だ。
猿田彦像(須賀神社・野田市)
取手市の疱瘡神像も利根川下流の特異石仏の一つと言えよう。
『取手市史(石造遺物編)』によれば、疱瘡神像は20体。
(注:藤代町と合併したので、現在は25基ということになる)
造立は1710年から1890年までの180年間。
中心は1800-1830の文化・文政期だった。
造立主体は、女人講中。
疱瘡が子供のかかりやすい病気なので、母親の願いをこめて造立されたものと思われる。
なぜ、取手市に「疱瘡神像」塔があるのか、その理由は定かではない。
文字が読めない人たちから像塔要求が強く出されたのだろうか。
「馬頭観音や弁天様には石像があるのに、なんで疱瘡神には神像がないんだ?」
「疱瘡神像」の注文を受けて、石工たちは頭を抱えたに違いない。
馬頭観音や弁財天は仏像だ。
仏像には儀軌(お手本)があるから刻像は問題ないが、「疱瘡神」には儀軌はない。
「疱瘡神」はどんな姿をしているのか、石工は何人もの神官や住職に訊いたはずである。
だが誰もはっきりした姿を提示できなかった。
では、石工はどうしたか。
彼の出した結論は、その作品にある。
見てみよう。
取手市最初の疱瘡神「浅間神社」 2番目「鹿島神社」(安永5年・1776)
(享保4年・1719)
①しめ縄の上に左は「疱瘡神」、右は「疱瘡守」の文字。
②男女神坐像。右の男神は右肩に幣束を、女神は徳利を持っている。
③右は赤く彩色されていた痕跡がある。赤は疱瘡神の特徴的な色。
二つの作品は細部こそ違え、雰囲気はよく似ている。
石工の頭には、下のような道祖神のイメージがあったのではなかろうか。
双体道祖神(群馬県六合村、現中条町)
「疱瘡神」は疫病神である。
疫病神が入らないように村の入り口に「疱瘡神」塔は立てられた。
つまり、「疱瘡神」は塞の神でもあった。
塞神(さいのかみ)と言えば、道祖神、それも双体道祖神を誰もが思い浮かべるに違いない。
石工が「疱瘡神」として男女神を取り入れても不自然ではない訳が、そこにはあったことになる。
3番目に古い「青龍神社」(寛政11年 4番「屋敷集会場」(文化2年・1805)
1801)
19世紀初頭のこの二つの「疱瘡神像」塔は、同一石工ではないかと思うほど構図が似ている。
男神は立ち、女神は座っている。
男神が幣束を持ち、女神が徳利らしきものを持っているのは、1,2番と同じ。
4番の中央に「三玉大明神」の文字。
「三玉大明神」とは、岐阜県大垣市の浄土宗「大運寺」で生まれたお狐様のことで、その神体に疱瘡除けの秘法が書かれているとのことから、日本各地から信仰を集めたと言われている。
5番、「鷲神社」(文政6年・1823) 6番、「鹿島神社」(天保3年・1862)
5番、6番は再び坐像に戻って、文字の台石の上に座している。
しめ縄があるかないかだけで、構図も雰囲気もよく似通っている。
取手市の「疱瘡神像」塔のうち、設立年が分かる塔だけを並べたらこういう結果になった。
偶然かも知れないが、年代が近接する二つの像が酷似しているというのは面白い。
後者が前者をまねたのではなかろうか。
ところで全体に共通したことがあるのだが、それは下の2体の双体道祖神を見てから触れることにしたい。
長野県塩尻市 長野県安曇野市
お分かりだろうか。
双体道祖神は男女仲好く頬を寄せ合い、手を取り合っているが、「疱瘡神像」塔はいずれも男女が離れていて、よそよそしい。
恐ろしい天然痘から村の人たちを守るという重大な使命の前には、いちゃついた男女神は不似合いだと、これは石工の倫理観のなせる業だと思いたい。
命題は「石工の想像力は自由に羽ばたいたか」であった。
儀軌がないのだから、もっと奔放に想像をめぐらしてほしかった、と思う。
悪鬼なのだから、鬼のバリエーションもあったのではないか。
それよりももっと空想の神がいい。
仕事人から芸術家になれるチャンスが彼にはあったのに、残念なことだった。
わき道にそれるが、取手市には東京芸大がある。
芸大の学生による「疱瘡神像」コンテストをやってみてはどうだろうか。
町おこしの一助になりそうな気がするのだが。
ところで女神が持っている徳利はどういう意味なのだろうか。
琉球には次のような歌がある。
「歌や三味線に踊りはねしちゅて清(ちゅ)ら瘡のお伽遊ぶうれしや」
「歌や三味線につれて踊ったりはねたりしながら疱瘡神のお相手をして遊ぶのはうれしい」という歌で「清(ちゅ)ら瘡」は「疱瘡神」を意味している。
琉歌には、疱瘡神だけをまとめた冊子があるくらい、沖縄の人たちの疱瘡への関心は高かった。伊計島では、疱瘡神を迎える宿を決め、夜伽して疱瘡神をもてなし、病が軽くすむように祈願し、流行期をすぎると、浜辺に豚の頭を供え、疱瘡神を送ったという。『日本の神々(谷川健一』より。
茨城県岩間町の年中行事の4月の欄には、つい近年まで、疱瘡囃子という行事があった。
種痘を受けた子供の家で太鼓をたたいて種痘が根付くように祈る行事だったそうだが、これは江戸時代の疱瘡祝とどこか似ているところがある。
疱瘡祝は子供が3歳になった時、疱瘡にもかからず無事成長したことを祝う儀式だった。
年々派手になる疱瘡祝を苦々しく思っているお上が出した触書がある。
「婚礼、出産、疱瘡祝の節村中男女集り分限不相応の賄いを費し候儀仕らず候様、縁者或は組合等ばかり相寄り万事手軽に取計い申す可き事」(「大藤家文書」茨城県谷田部町)
質素倹約令を出さなければならないほど、疱瘡祝は盛大に行われていたようだ。
牛久町の代々名主を務めてきた某家には、「文久二年疱瘡祝諸掛入用帳」なる文書が残されている。
「一 四百文 酒代 一 三百文 すし代(略) 惣〆金 三両壱分三朱ト三百四十四文」とある。(『茨城の民俗23号』)
疱瘡神は疫病神だから、「触らぬ神に祟りなし」が基本であった。
「瘡も触らなければうつらず」である。
しかし、疱瘡に罹らなければ、盛大に疱瘡神にお礼をのべた。
お祝いに酒はつき物である。
女神が徳利を持っていて何の不思議はないのです。
今回、「疱瘡神像」塔を求めて3回取手市に行った。
小文間という農村地帯を歩いていた時、ぽつんと佇む道標に出会った。
東西を走る国道に北からの農道がぶつかる所に道標はあって、「右 成田山 左 取手町」と表示してある。
石碑のメインをなすのは「開運不動明王」の文字。
その上に「麻疹」「疱瘡」の2文字が見える。
「麻疹」と「疱瘡」にご利益のあるお不動さんがこの近くにあることになる。
寄り道してみた。
3,400m先の坂道の途中に「大聖寺」はあった。
無住の寺で聞くべき人もいないので、「麻疹」と「疱瘡」に関わる痕跡を探したが、見当たらなかった。
国道に戻る途中、畑仕事をしているご婦人に声をかけた。
「あのお不動さんのことですが・・・」
「ああ、あれははしか不動といって、昔は大勢の人がお参りにきたもんですよ。私も子供のころはよく親に連れてこられました」。
腰を曲げて作業をしながら、こちらを見ることもなく、ご婦人ははしか不動の思い出話をポツンポツンとする。
もう、とうに忘れ去って思い出すこともなかったのに、きっかけを与えられて、記憶がどこからともなく蘇って来たかのように。
疱瘡とか麻疹は、今やそんな位置づけなんだなと改めて気付いたのでした。
江戸時代も病気は山ほどあったのに、神社に祀られている特定の病気の神と云えば圧倒的に疱瘡の神が多いです。よっぽど疱瘡は恐かったんですね。千葉県特有の現象かもしれませんが、江戸後期右肩上がりだった疱瘡神の造立が嘉永を過ぎると激減してしまいます。どうもこの時期、蘭方医グループがお玉ヶ池に種痘所を開設したようです。フワフワした民間信仰より確実な医療法に庶民は飛びついたということでしょうか。
取手の疱瘡神塔巡りをなさったのですね。松中さんが軽く、三玉大明神を大垣市の大聖寺のお稲荷さんと指摘されていて唖然と致しました。実は、疱瘡神に彫られている「三玉大明神」が何処の神様なのか、どうして唐突にここに彫られているか今まで誰も解明していなくて謎だったのです。驚いて大垣市や大聖寺のHPをみましたら当時は疱瘡神として全国展開していたようですね。これから少し大垣市に当たってみようと思っていますが、大ヒットです。ありがとうございます。
連日のご感想ありがとうございます。教官から返却された提出レポートの採点欄を見るようで、遠い昔の学生時代に戻った気がします。これまで反応らしい反応がなかったので、勝手気ままに書き散らかしてきましたが、少し居住まいを正さなくてはと、思っています。
千葉県には、400もの疱瘡神塔があるとのこと。その中で神像はどれくらいあるのでしょうか。その像は、取手市のと同じように、男女双体像なのでしょうか。
疱瘡神像塔に私が興味を持ったのは、怖い疱瘡を防ぐのに、男女神は似つかわしくないと思ったからでした。代受苦の仏としては、地蔵がまず思い出されます。疱瘡地蔵はあるのでしょうか。もし、ないとすれば、それはどうしてなのでしょうか。地蔵ではなく、新たに疱瘡神塔を造る、庶民の心情を知りたいと思うのです。
まず、民間信仰の場合は正論はないのです。「なんでもあり」を受け入れなければバカバカしくて追っかけていられません。たとえば、如意輪観音の、手を頬に当てた姿が歯痛に見えることから「歯の神」として、塔の回りに歯ブラシや塩が供えてあることがあります。ゲッ!と驚きますが、信じる人は偽薬効果で治る人がいたのです。疱瘡地蔵もたぶん何処かにあると思います。庶民ってそんなもんです。
もやもやしてたものがすっきりした気がします。