石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

128 五百羅漢(写真ファイルから)その4

2017-06-05 08:43:52 | 羅漢

◇羅漢寺(兵庫県加西市)

現代は情報化社会だから、否応なくあふれんばかりの情報に接することになる。

「石仏」はマイナーな分野だが、それでも日々新しい情報が飛び込んでくる。

自分のことながら、その情報の選択基準がはっきりしないのは、なさけない。

ひとつだけはっきりしていることは、どんなに魅力的でも、遠隔地の石仏は、無意識に排除していること。

時間はあるけれど、金がないからです。

日帰りできる範囲外は、遠隔地となるから、ほとんどの場所は「行ってみたいけれど、諦める」ことになる。

それでも「行ってみたい」欲望を抑えきれず、禁を犯して遠出、行ってよかったと思う場所が、2か所ある。

修羅那の石仏と北条の五百羅漢。

両方に共通するのは「幻想的」なイメージ。

今回は「北条の五百羅漢」を取り上げる。

写真を見ていたから、変わった石仏であることは、重々承知していた。

にもかかわらず、現地でその石仏群を目の当たりにして、言葉を失った。

私には、とても羅漢には見えない。

寺号が「羅漢寺」で、これは五百羅漢だと寺が説明しているので、そうかと思うけれど、その説明や先入観なしに、これを羅漢群だとみる人は少ないのではないか。

それがいかに超常的で幻想的な石造物であるか、それを伝えるには、あまりにも筆力不足なので、二人の文章をその著書から引用させてもらうことにする。

 仏は、奇怪な姿のまま右に、左に傾き、よろけながら立っている。方形の石に頭だけを丸く彫って手や躰はそのままで、線彫りにした一見幼稚な仏たちである。しかし、陰影を持った切れ長な目に象徴された恐ろしいほど深い悲しみを湛えた表情は、石仏全体に共通しており、それが何かを意図した作者の技法のような気がした。

これをモノマニックというのかどうか。凍り付いたような冷たい表情が、その目の造作にあるのは確かなようだ。見たところ、石仏によくある笑ったものはない。むしろ優しい顔は彫るまいと決めた作者の執念がノミあとに表現されているように思った。

五百体ほどある仏の一体一体を見ながら、ぼくは、なぜこれほどまでに儀軌にはずれた仏を刻んだのか、作者の心境を思った。ぼくは、仏と仏の間を行ったり来たりしながら、時にはそこに彫られた毛筋ほどの線も見逃すまいと長い間、向かい合った。しかし、切れ長の瞳に湛えられた憂愁のかげは、深い謎を秘めたまま、黙然として何も語ろうとはしない。

石仏を見ながら、この彫法は、うまい下手の問題ではなく、少なくとも、仏教とか美とかそういうものを念頭におかないで、まず死者への深い思いやりの心が動いたものだろうと思った。そこには哀しく、美しい心が、ただひたすらに石に向かう純粋さだけがあったように思う。そんな目で見る仏の顔は、永い風雪に傷みながらも、その内面には、造立に悲願をかけた人々の熱い血が動いているように思うのである。(宮川重信『風雪そして石仏』の「異質な面貌北条石仏」より抜粋

 

恨むかのように、嘆くかのように、いかにもうそぶいて天を睨む仏がある。せっせと絵でも描いているような仏もあった。縮こまるものもあれば、のびのびと背を伸ばして遠くに視線を投げて歌を歌うようなもの、沈黙に徹した仏、胸を抱き、自らの首をしめて苦しむ仏、目をむき歯をかみしめて無念の形相の仏、やはりここに並ぶ仏は一つ一つに個性があった。よく見ると一人ひとりが自我をむき出しにしている。

ここには永遠の臨終と生誕の歓びがある。あっちを向き、こっちを向き、ぴたりと寄り添い、離れ離れとなり、ばらばらでありながら妙に一つの秩序がある。手も足もない一本棒のだるまさん、ちっぽけな手指が石の粗い衣からのぞいているのを見ると理屈抜きのおしゃべりがあり、哲学者風に考えると思念の蝶が舞い踊っているようである。

ここを支配しているのは、太古からの静寂、ここにみなぎっているのは妥協を一切好まない人と人の剛直な姿があるだけである。

羅漢場一帯に漂っているのは成長をやめた稚拙と痴呆、一歩も引かない英知のひらめき、何もかも狂っている精神病院の病棟の中の瞳々々の行列である。平凡といえば平凡、怪異といえばどれも怪異、その顔が入リ混じり、前になり後ろになり、斜めになって潮騒のように迫ってくる。

こうした石の仏をいつ、だれが、何のために刻んだのか。まるっきりナゾである。ナゾがナゾを呼び、ナゾが幻想を生んで、北条の羅漢の魅力となっている。何もかもはっきりして、わかりきったところには、幻想は育たない。(森山隆平『羅漢の世界』より)

北条の五百羅漢は、どこか円空仏と相通ずるところがある。

日本は横並び文化だといわれる。

前例にしたがい、仲間と同じようにして生きる。

普遍的で突出しないことに重きをおく社会で、どうしてこのような超個性的作品が生まれるのか、それが不思議でならない。

◇東光寺(大分県宇佐市)

そもそも宇佐市へ行ったのは、宇佐神宮へ参拝するためだった。

宇佐神宮へ行く途中に、ちょっと寄り道をしたのが東光寺だった。

東光寺の五百羅漢と宇佐神宮を同じ日に見て、日本の文化は幅広いな、とつくづく思う。

具現的なるものと抽象的なるものが、同じ宗教という枠内で存立し続けている。

一方で心打たれた者が、他方でもその美に心酔する、そんなことが自分の中で自然に生じたことを改めて気づいて、驚いてしまう。

 

五百羅漢は、本堂裏手のゆるやかな斜面に全員が東面して座している。

夏休み前に校長の話を聞く生徒たちのように、規律を守りながらも、そこには開放感があふれている。

寄居の少林寺の羅漢たちのような広々とした空間とはいわないが、せめて清水市興津の清見寺くらいの広さに配置すれば、より個性的に輝いて見えるのに、と思う。

川越・喜多院ほどの自由奔放さはないにしても、呵々大笑するものあれば、涙ぐむものあり、怒るものあれば、悲しむ者あり、千差万別の喜怒哀楽の表情に、親しき誰かを見つけられること必至。

もちろん、「胸開きらごら像」もちゃんとある。

東光寺は、曹洞宗寺院。

曹洞宗の僧侶たちの中には、一介の乞食僧として、修行をしながら生涯を終えた僧がいた。

彼らの漂泊の本義は、救世済民にあった。

東光寺十五世道琳和尚が、五百羅漢造立を発願したのも、救世済民が願意だった。

他の五百羅漢が、菩提供養で造立されたのに比べ、衆生の安楽を願う道琳の願意は明らかに異なっていた。

それだけに、道琳の勧進は、朝早くから夜更けまで、身を粉にして行われた。

時代は幕末、激変する世の中にあって、道琳の周りだけは変わることがなかった。

嘉永元年(1848)に始められた五百羅漢造立の勧進は、四半世紀後の明治4年(1871)、538体の羅漢完成まで続けられた。

この道琳和尚の倦むことない勧進があればこそ、五百羅漢は完成したのだが、もう一人重要な人物がいたことも忘れてはならない。

それは、石工覚兵衛。

538体の羅漢をたった一人で彫ったと伝えられている。

それを支えたのは、覚兵衛の信仰心だった。

五百羅漢造立という大仕事を成し遂げた彼は、出家して僧侶となり、そのまま東光寺に住まい、遷化したと伝えられている。

 なお、本堂に向かって右には、十六羅漢がござる。

五百羅漢完成の前年に作られたという。

もちろん、石工は覚兵衛。

 

 

 


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