石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

94 愛知県半田市亀崎の鬼門地蔵

2015-01-01 07:51:15 | 地蔵菩薩

新年おめでとうございます。

新年用企画が、諸事情でボツになったので、1月16日、up予定の鬼門地蔵に変更しました。

本年もよろしくお願いします。

 

現代は情報化社会。

過剰な情報に埋もれて、私たちは、その取捨選択に追われる毎日です。

だから「初めて知る」事柄も、既に流布していたのに、こちらがそれを知らなかったケースが大半です。

しかし、中には、情報が発信されず、誰も知らないことも、たまに、あります。

愛知県半田市亀崎の鬼門地蔵は,さしずめ、その典型例でしょう。

 鬼門地蔵(半田市亀崎)
「吉岡たすく『野の仏紀行』(佼成出版社)平成2年」より無断借用

『日本石仏事典』や『日本石仏図典』にも載っていません。

現代日本の石仏の運命と同様に、鬼門地蔵もその数を減らしつつありますが、それでも地域に根付く独特な文化、習俗と見なすに十分な数が残っています。

私は、たまたま、「吉岡たすく『野の仏紀行』(佼成出版社)平成2年」で、鬼門地蔵の存在を知りましたが、半田市民が地元の誇るべき文化として鬼門地蔵を全国レベルのメディアに紹介してこなかったことが、誰も知らない最大要因として挙げられるのではないでしょうか。

 

鬼門とは、北東の方位を指し、陰陽道では、鬼が出入りするので忌むべき方角とされます。

平安京では、京都の東北に当たる比叡山に鬼門除けとして延暦寺を建立し、また、江戸では、江戸城の鬼門である上野に寛永寺を建てたことは、よく知られています。

半田市の鬼門地蔵は、その屋敷版。

「吉岡たすく『野の仏紀行』(佼成出版社)平成2年」より無断借用

個人の家を守り、又は厄除けとして屋敷内の鬼門の方角に、石の地蔵をお祀りするものです。

私が半田市へ行ったのは、2014年12月19日。

名古屋周辺は、前夜の、9年ぶりの大雪で交通網はズタズタ。

予定よりだいぶ遅れての半田市到着でした。

一泊して翌朝降り立ったのが、JR亀崎駅。

余談ですが、明治19年設立のこの駅舎は、日本最古の駅舎だとか。

半田市教委への事前の問い合わせで、鬼門地蔵は、半田市の亀崎と乙川にあること、亀崎の神前神社をスタート地点とするのがいいことなどを、予備知識として得ていました。

亀崎駅から神前神社へ向かいます。

 JR亀崎駅は中央上部、神崎神社は右下隅緑色。

町は、開発から取り残されて、昔の面影を色濃く残す港町。

        神崎神社 

神前神社でUターン、鬼門地蔵探しのスタートです。

 亀崎のメインストリート仲町通り(神前神社前から南方向を見る)

100mも進まないうちに第一小祠発見。

①3階建てビルの鬼門地蔵

亀崎には珍しい3階建てビルの北東の壁に木製の小祠。

小祠の正面の延長線には、神前神社がある。

亀崎の海側の家々の鬼門は、すべて神前神社方向だと思って間違いない。

②宝珠を捧げ持つお地蔵さん

 3階建てビルのそばの2階家。

 

道路に面して小祠が板壁に取り付けられている。

祠の扉は留め金を外せば、簡単に開く。

鬼門地蔵は宝珠を捧げ持つお地蔵さんが多い。

右手に錫杖、左手に宝珠の普遍形ではない。

 

③優しいお顔の地蔵さん

仲町通りに面してもう1基お地蔵さんがある。

 玄関戸にまぎれて見えにくいが、クーラーの右隣、石台に乗って小祠がある。

玄関前の台石に小祠が乗っている。

他所から来た者は、ここにお地蔵さんがいらっしゃるなんて想像もできないだろう。

柔和なお顔のお地蔵さん。

こんな優しそうなのに、鬼の侵入を阻止できるのだろうか。

④壁に取り付けられた小祠

 仲町通りに面してもう1基見つける。

通り側に鬼門があり、家と家との間が離れているので、あればすぐ見つけやすい。

だが、それも終わりのようだ。

 

仲町通りから小路に入り込んで行く。

地元では、狭い路地のことを「せこ」というらしい。

 「せこ」は入り組んでいて、どことなく明治、大正の匂いが漂っている。

紋切り型表現で恥ずかしいが、タイムトリップしたみたい。

 共同で使用していた井戸か。井戸端会議場でもある。

期待が持てそうな気がする。

人がいれば訊く。

だが、「きもんじぞうをご存知ですか」と訊いては、ダメ。

「きもんじぞう」が初耳で、知らない人ばかり。

「ほら、家の壁に小さな祠が取り付けられていて、中にお地蔵さんがいる・・・」と説明するとうなずく人もいる。

老人が多い。

うなずくから「この近くでどこかありませんか」と聞くと、とたんに口ごもってしまう。

「子供の頃、あの家にはあったけど・・・」と返事が過去形になって、結局、収穫はゼロ。

 

5 裏鬼門地蔵

 どこをどう歩き回ったのか、海側の比較的新しい家の壁際に祠を発見。

でも、どこか違和感がある。

祠のある場所が、鬼門ではないから、変な感じがするのだ。

家に向かって右の奥が鬼門だから、本来、ここにあるべきではないことになる。

と、現場では思ったのだが、帰宅後調べたら、裏鬼門も忌むべき方位であることが分かった。

さしずめ、これは裏鬼門地蔵と云うべきか。

 

6 地元石工制作の地蔵

 狭い「せこ」に車が入り込んでくる。

車体に「介護」の文字。

車が止まったと思ったら、家から杖をついた老人が身体を支えられながら出てきた。

壁に鬼門地蔵がある。

 

撮影していいか、尋ねたら、

「家を改築したとき、こんなもんやめようと皆んな云ったけど、元のように取り付けたんですよ」。

そんな言葉を残して、車は立ち去った。

ご老人の娘さんか、嫁さんか、少し若い、これも年配のご婦人が話の相手をしてくれる。

地蔵石仏は、地元亀崎の石工の制作したものという。

 

教えてくれた場所を訪ねたが、場所を聞き間違えたのか、石工の店には行き着けなかった。

彩色石仏だが、口紅を除いて墨の濃淡がベース、シックな装いだ。

お地蔵さんの足元を包む座布団に信仰心の篤さが見られる。

当然、供花も新しい。

付け加えるならば、亀崎の鬼門地蔵12基を見て回ったが、枯れた供花はどこにもなかった。

いまどき、町ぐるみの信心深さは、特筆すべきことのように思える。

 

あちこち、ぐるぐると「せこ」を歩き回ったが成果はない。

仲町通りに出たら、目の前に「かめとも」の看板。

「観光案内所」らしいので、飛び込んでみる。(*「かめとも」は、町おこしの会のたまり場)

責任者らしい男性が、「鬼門地蔵マップを作ろうとしたんですが、なにしろ個人所有なので、いろいろと問題もあって」と、マップがない事情を話してくれる。

「でも、ちょっと歩けば、すぐ見つかりますよ」と事もなげにいう。

「せこ」を歩き回って来た私としては、そんな「調子のいい」話には簡単には乗れない。

「そんなにどこにもあるのなら、とりあえず一つ紹介してくださいよ」と粘る。

路地を歩き出す彼の後を追う。

「ここは友人の家。子供の頃はあったのに」とか「改築するまでこの家にはあったのに」とかブツブツ言いながら進むが、なかなか祠には行き当たらない。

彼の家にも数年前まではあったらしい。

彼は、「亀崎の鬼門地蔵は170体くらいはある」というが、38年前の半田市史では「今では30軒ほど。昔はこの数倍のお地蔵さまが祀られていた」と記載されている。

どっちが本当なのか。

町おこしのリーダーが、地元の文化財の数を誇張していうのは、当たり前とすれば、市史の30基が実数か。

その後40年近くたったことを考慮すると、今や20基くらいになっていてもおかしくはない。

結局、彼が紹介してくれたのは、「半七地蔵」だった。

 

鬼門地蔵が個人所有の地蔵なのに対して、「半七地蔵」は地域のお地蔵さん。

亀崎には、この他「里地蔵」、「中町地蔵」などがある。

石仏から見た半田市の特徴は、極端な地蔵信仰にある。

石仏の総数は、約2000基。

その約6割は墓地内墓碑や供養塔であり、残りの4割、約800基はそれ以外、つまり個人屋敷や路傍にあることになる。(『半田市史文化財編』1977年)

これらの石仏地蔵は、近世中期以降、特に元禄・宝暦・文化年間に爆発的に造立された。

それは、新田開発、回船業、醸造業が発達し、地域の基幹産業となってゆく時期と同じであった。

住民たちの経済的安定が石造物造立に反映されていることになるが、では、何故、地蔵なのか。

市史執筆者もこの疑問に明確な答えを示してはいない。

「がんらい浄土信仰は宗派を超越して当地では根強く、寒念仏・四遍念仏をはじめ念仏供養塔の類が広く分布し、特に六字名号の文字碑が多いのもその特色である」。

説明になっているような、いないような。

 7 キリスト風地蔵

これまで、仲町通りから海側ばかりを歩いてきたが、今度は山側一体を探すことに。

残雪の「せこ」の片隅に開き戸が開いたまま、寒そうに佇むお地蔵さんを発見。

鬼門地蔵はブルーシートの先、白壁の下にある

近寄って見る。

キリスト様かと見間違うバタ臭いお顔。

とてもお地蔵さんには見えない。

これも地元の石工の作品なのだろうか。

 

8雪の中の鬼門地蔵

亀崎駅からの掘割通り脇に鬼門地蔵がある。

鬼門地蔵だけでも珍しいのに、雪上の鬼門地蔵は、極めて珍しいことになる。

半田市に雪が降ることがめったにないからです。

 

9 家の一部の鬼門地蔵

掘割通りから東光寺方向へ向かう。

典型的な鬼門地蔵がある。

屋敷の鬼門の方角の石垣と柵を一部凹ませ、祠を安置、外からもお参りできるようにしてある。

家を建てる時、鬼門地蔵を念頭において設計されたものと思われる。

そうした家の祠だから、掃除が行き届いていて気持ちいい。

10 鬼門地蔵?辻地蔵

東光寺参道前の道の隅に小堂がある。

中にお地蔵さん。

背後の家の鬼門の方角にあるので、鬼門地蔵のようでもあり、個人所有の堂にしては立派なので、地域の辻地蔵のようでもある。

訊いて確かめたかったが、あいにく人通りがなくて、断念せざるを得なかった。

 『半田市史文化編』の受け売りだが、こと石仏に限って見ると、亀崎地区は全国でも珍しい地域だという。

     仲町地蔵(地域の辻地蔵)

何が珍しいかというと、地蔵ばかりで、観音がないこと。

観音様が少ないのではない。

ないのです。

阿弥陀如来8、地蔵142、観音0、弘法大師2、行者1 計153

以上の数字は、亀崎の寺境内と墓地、堂、路傍、屋敷などの石仏の総て。

観音ばかりか庚申塔も見えない。

「学問的にも注目すべき点」だと『半田市史』は指摘するばかりで、その理由については、触れていない。

東光寺から奥は坂道ばかりのようなので、Uターンして、亀崎7丁目へ。

家の前で掃除をしている私と同年輩の男性に声をかけた。

珍しく鬼門地蔵に詳しい人で、たちどころに2か所の所在地と行き方を教えてくれた。

「鬼門地蔵が少なくなって、亀崎でなくなってしまう。寂しい事だ」と小さい声だが、きっぱりという。

11 キリスト風地蔵の兄弟地蔵

教えられた場所に鬼門地蔵はあった。

庭なのか駐車場なのか、広い空間のその片隅にポツンと佇んでいて、なんとなく侘しい。

お地蔵さんは、ブルーシートの家のキリスト風地蔵とやや似ている感じ。

キリストさまが宝珠を持っていれば、同じ石工の可能性があるが、前掛けがかかっていて分からない。

 

12 亀崎南端の鬼門地蔵

もう一つ、教えてもらった鬼門地蔵は、亀崎町の南端の国道沿いにあった。

位置関係から裏鬼門地蔵かと思われる。

駐車場の一隅に車と並んでいて、何の違和感もない。

伝統的習俗は、地域が近代化されても、どっしり居座って変化になじんでしまうようだ。

これで亀崎の鬼門地蔵探訪は終わり。

2時間半で12基。

多いのか、少ないのか。

もっとあちこち「せこ」を歩き回ってもいいかなと思ったが、乙川にも鬼門地蔵は沢山あると聞いているので、このまま国道を乙川方向に歩いてゆくことに。

13(おまけ)新居町の辻地蔵と鬼門地蔵

亀崎町から新居町に入って、老人夫婦に鬼門地蔵を訊いたら、「あるよ」との答え。

「道路の向こう側の小路をどんどん行きなさい」。

云われた通り進んでゆくとご婦人が迎えてくれた。

どっしりした、真新しい台石の上の地蔵堂は、彼女の家で世話をしている地域地蔵。

木製の台がボロボロになったので、コンクリートで造りなおしたばかりだという。

「30年位前までは、8月の地蔵盆というと子供たちが菓子をもらいに行列した」らしい。

「もっと小さな個人のお地蔵さんもあるよ」と連れて行ってくれたのは、まさに鬼門地蔵。

思いがけない場所に、突如、現れて、鬼門地蔵は探しにくい。

しばらく小路を歩くと、こんな条件のこんな場所にあるはずと予測がつくものだが、鬼門地蔵にはそうした予測は無理のようだ。

ここから1時間ほど歩いて乙川駅へ。

道路際に鬼門地蔵は1点も見つけられなかった。

9時から歩き始めて、12時半。

体力が落ちて、3時間半のウオーキングが限度。

未練を残して名古屋方向への電車に乗った。

 

今回の取材の反省点としては、「厄除けの鬼門地蔵はその役割を果たしているか」を、鬼門地蔵のある家で確かめなかったこと。

何か決定的なミスを犯したようで落ち着かない。

半田市教育委員会にも注文がある。

まず鬼門地蔵マップの作成を急いでほしい。

現状の把握が急務だからです。

このまま放置していたら、早晩消滅することは必至。

では、現状維持の方策はあるか。

新改築して鬼門地蔵を残す家には、補助金をだしたらどうだろうか。

部外者で門外漢の余計なおせっかいですみませんが・・・

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
年初から良いものを (Utam)
2015-01-01 16:46:11
あけましておめでとうございます。年初からこのような鬼門地蔵を教えていただき勉強になりました。ありがとうございます。 中の記述をみると8月の旧盆の日程で地蔵盆もやられていたとのこと、地蔵ばかりだというのもおもしろいです。奈良町にも地蔵をこのような形で家の壁の中におまつりしていたりする所もあるのですが、方角とは関係ないと感じます。また調査を続けて下さい。楽しみにしております。 Utam
Unknown (住人ママ)
2016-07-28 12:03:38
亀崎の住人です。私の子ども(小学生)がお地蔵さん好きなので、私もここ数年お地蔵さんのことを調べたくなり、近所の詳しそうな方にお尋ねしたりしていました。私もかめともの方(きっと同じ方!)にもお尋ねしましたよ。問い合わせる人が時々いると、張り合いがあるのでしょう。お地蔵さんツアーが夏休みに行われるようになり、昨年は私と息子も参加しました。
10の東光寺近くのお地蔵さんは、個人所有ではなく、あの辺りの数件の方々がお世話していらっしゃいます。
お調べになった中にはありませんでしたが、うちの近所のお宅にも御堂が独立した形の鬼門地蔵(たぶん)があります。
建て替えられて当時の面影はないですが、70代の母によれば、昔とても大きなお宅だったそうです。1615年から家系図が分かっており、徳川家康が幸村に追われて岡崎に逃げる途中でそのお宅に一泊され、そのお礼にこうがいの形の家紋の使用を許されたとの話です。幸村に追われて、ではなく、本能寺の変の後で明智の手下に追われて、の説もあります。

亀崎は歴史ある町です。私も知らないことばかりです。立川美術館の館長さん(元校長先生で、立川流彫刻の彫刻師でもある)は、史実研究に熱心で、古文書、地域の古老(故人も含む)のお話など付き合わせて深く考察されており、興味深いお話を沢山ご存知です。また、亀崎駅前の紀伊国屋(おまんじゅう屋さん)のおばあ様は、昭和の絵手紙という本を書かれており、昔のことを沢山ご存知です。ご高齢なので、いつもとは限りませんが、絵がお上手で、頭が良く、お店番をしていることも多く、お話がとても面白いです。
良かったら、またお越しくださいね。

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