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もし原罪が無かったら、楽園での社会はどのようになっていたか?【前編】公教要理[上級編]第13回

2022年04月03日 | 公教要理
もし原罪が無かったら、楽園での社会はどのようになっていたか?楽園について【前編】|公教要理[上級編]第13回

白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

楽園について。人間性、位階制、伝統的秩序、不平等などについて。自然法。



(アヴェ・マリア 最初の祈り)
さて、聖なる良き年になりますように。
休み明けの最初の授業ですので、復習しましょう。神学大全の第一部で、被創造物についてみています。
被創造物の内に既に天使や物体などをみてきました。今は人間という特徴的な被創造物を見ています。すでに人間性を見ましたが、いま、かなり具体的な細かい題目を見ています。つまり、人間の創造に関して聖トマス・アクイナスはかなり具体的に面白く解いてくれています。

前回を要約すると、霊魂は天主によって直接に創造されていること。それから、体の創造を見ることによって、聖トマス・アクイナスは創世期を振り返って解釈を試みます。その一環として、女性の創造や男女における天主の御象りなどについても見てきました。

さて、次に、楽園での人間について聖トマス・アクイナスはじっくりと説明されています。我々にとって夢みたいですね。なぜなら、皆、やはり、どこかに楽園を経験したかった気持ちがあるだろうと思います。そしてアダムとエワに与えられた賜物をもって生きたかった気持ちはどことなく皆さんにあるでしょう。

前回みたように、いくつかの賜物がアダムとエワに対して天主によって与えられました。知性に関しては、天賦の知識が与えられました。なかなかの賜物ですね。また、知性において、超自然上の聖徳も賜物として与えられました。

要するに、理解していただきたいのです。アダムとエワはある種の「自然状態」の内に創造されたということです。つまり、生まれながら人たらしめるすべての要素、すなわち人間性をもって創造されて、この人間性は完成された形で与えられました。要するに、霊魂と体の諸要素と在り方、社会的な存在などの在り方などは人間性に属しています(自然法)。

そして、良き天主は以上の自然(人間性)に超自然(人間性を超える事柄)を付き加え給うたのです。賜物として。無償に。超自然というのは人間性に属さず、他の本性なる天主性に属することだと言います。
前回みたように、超自然に属するのはひとまず、恩寵です(天主の生命、聖寵)。そして、対神徳もそうなのです。特に愛徳と愛徳の増加という恵みも与えられました。他の道徳上の聖徳も与えられました。愛徳などを含めて、天賦の聖徳と呼ばれています。言いかえると、直接に天主によって与えられた聖徳です(人間の力で達成できる善徳とは違うのです)。天賦の聖徳とともに、聖霊の七つの賜物なども与え給うたのです。

このように、つまり、我々が聖寵の状態にいる時のすべての恵みをアダムとエワも持っていました。ただし、原罪を犯していなかった点では、我々よりも完璧な形でこれらの恵みを持っていたのです。

その上、超自然上の賜物だけではなく、外自然の賜物をも与え給うたのです。これは人間性とは別の本性に属しないものの、本性の通常の在り方と通じないので、完全に自然上の要素でもないことから、外自然(あるいは過自然)と呼ばれています。

繰り返しますが、外自然の賜物は人間性に属するものの、人間性の通常の在り方で得られない賜物だという意味です。言いかえると、人間性の通常の在り方、人間の力だけで得しめることのできない賜物なのです。外自然の賜物と言います。「praeter-naturalis」というラテン語になりますが、「praeter」とは「外にある」という意味になります。



外自然の賜物には四つあります。第一に、天賦の知識があると前回に観ました。アダムは大人の状態で創造されました。大人の年齢で創造されたとともに、一人前の大人として良い人生を送り、救霊を得るために必要となる観念なども天主に与え給うたのです。天賦の知識です。要するに天賦の知識によってアダムはすべてのことを知っていたわけではないのです。例えば、川の前を通って、川底にいくつかの石があったかを知れるわけではありません。全知の賜物ではないということです。おそらく、電気の法則も知らなかったでしょう。当時、不要な知識でしたので。
アダムとエワの天賦の知識とはよく生きていくために必要な観念・知識だと言います。
面白いことに、原罪がなかったら、彼らの子孫にはこの天賦の知識がなかったとされています。またそれについて後述します。
第一の賜物は天賦の知識です。

前回にもみた第二の賜物は保全の賜物と呼ばれています。前回、縦の矢印でこの賜物を表象したかと思います。いわゆる「支配させる・従わせる」という賜物です。要するに、我々の感情などは理性に照らされていた意志に従っていたことになっていたという賜物です。そして同じように理性は天主に従っていました。また、この同じ保全の賜物によって、動物などはアダムとエワに従っていました。今はもはやそのような従順はなくなりましたね。動物も含めて。それを残念に思う男女は少なくないでしょう。想像してください。ゴキブリあるいは蜘蛛などは我々に従っていたら、ちょっと気持ち悪い経験は避けられたでしょう。
以上は保全の賜物です。このように、知性にかかわる賜物です。天賦の知識と保全です。

つづいて、聖トマス・アクイナスはかなり具体的な質問をしております。統治、権力についての質問です。要するに、楽園での人間はどのような統治をしていたかという質問です。つまり、政治上の統治権ですね。政治上の権力と権威についてです。

ご存じのように、信条で聖書に明記されているように、アダムとエワの子孫の全員は原罪の後から生まれましたので、楽園での政治を知らなかったのです。しかしながら、もしも原罪の前に子孫が生まれて、そしてもしも原罪が無かったら、楽園での社会はどのようになっていただろうかという神学上の問題です。

例えば、社会生活は楽園であったでしょうか。社会生活、政治共同体生活がなかった場合、完全なる個人主義的なことになったでしょうか?これは、あまり、人間の完成化から見るとちょっと違いますね。ですから、個人主義的を基にする個人個人からなる社会にならなかったのはいうまでもありません。しかし、そうでなかったとしても、楽園での社会において、不平等や格差があったでしょうか?

このように問うと、皆さんの関心を引いたと思いますが、どちらかというと、宇宙の創造の時にこの質問への答えはすでに解かれていました。
良き天主はあらゆる物事の間に秩序を置き、不平等と格差をもって宇宙全体を創造されました。人間社会も同様です。なぜなら、このように全体は美しくなるからです。不平等の故に美しくなります。美があります。(一律は美しくないのです。)

さて、楽園での不平等はどうなっていたでしょうか。
まず、自然上の不平等がありました。つまり、性別や年齢の違いからくる不平等があったでしょう。男性と女性の別もあったでしょう。この別は不平等なのです。身体上の差による不平等です。現代ではこのような自然上の不病でさえ否定されようとしますが、やはり、だからといって現実は変わるわけではありません。

格差、差別、不平等といった表現には非常に負のイメージがあると思います。なぜでしょうか?不平等と欠点を同一視して、同じ意味であると捉える傾向があると思われます。我々ですら、みんな現代に毒されているので、不平等と聞いたら、負のイメージがあるでしょう。欠点、足りない、十分ではない、不全であるようなイメージが思い浮かぶのではないでしょう。なにか、困ったこと、本来ならばあってはいけないこと、不正なこと、だめなことというイメージが思い浮かぶでしょう。このイメージこそが間違っています。過ちです。それは仕方がありません。現代社会は言葉の意味を非常に操作して変えてしまったせいで、だれでもこのような間違った意味で理解しがちとなり、みんな、これらの誤謬の影響を受けざるを得ないからです。

しかしながら、「不平等、差別、格差」だからといって、欠陥、不完全であることになりません。無関係です。
例えば、手に指が五本ありますが、それぞれの指は不平等で、差があって、別にあります。でもそれゆえに不完全になることはありません。かえって、このような差別は非常によいことです。手の指の差別ゆえに、手を使って我々は多くの物事ができるようになります。考えてみてください。手の力は素晴らしいものです。この力は手における差別から生じます。(親指ばかりあったら困りますね)。そして指はよいことに反逆することはありません。反逆されたなら、みんな困るかと思いますね。

指の違い、つまり不平等は欠陥でもなんでもありません。しかしながら、現代人は「不平等」を耳にしたら、「欠陥」とすぐに思ってしまいます。
要するに、楽園では不平等な社会になったことでしょう。性別においても、年齢においても。なぜなら、子供は生まれて成長していくことになったでしょうから、大人と子供の間の不平等は自然に生まれます。年齢の差も不平等であることは極く当然に見えるでしょうが、近代社会はこれですら否定したくなるかもしれません。しかしながら、この不平等を否定しても、現実は変わらないのですね。

18歳の若者は年を取った人々を殺せるかもしれないのですが、より若い子供に対して「反逆」しようとも意味を成さないのですね。また、子供に対して、「君は大人だ」といっても、子供はそれで成長したことになりません。(つまり、反逆や革命ですら、このような年齢による不平等、秩序を逆説的に裏付けるということです)。

このように、「差別」、「不平等」などに対する政治運動は基本的に反自然であることはご理解いただけたと思います。いずれにせよ、このような人間性に刻まれている基本要素(男女の別、上下の別、年齢の別など)を否定しても挙句の果てに、苦い弊害を被らせることになるだけです。

同じように体質上の不平等も楽園ではあったでしょう。身長、体重、腕力、視力なんでもいいですが、みんなバラバラですね。また身体上の才能においても不平等になったでしょう。調理する才能、木材をうまく使ってつくる才能、縫う才能、畑を耕す才能、何でもいいですが、みんな才能においても違っていて不平等ですね。(しかし)このような才能の不平等は欠陥でもなく、不完全でもありません。その逆です。これらの違いがあるからこそ、社会は成り立ち、個人個人の完成化が可能となります。またこのような多様性の故に、社会は豊かになれます。そして、一緒に生活できて、共存できるのです。

その他、霊魂における不平等もあります。記憶力が逞しい人もいれば、理解力が優れている人もありますし、洞察力、想像力なんでもいいですが、みんなバラバラで、才能が違って、不平等です。

このような不平等があってよいのでしょうか。秩序があるから(よいの)です。そして、秩序の前提には不平等があります。現代人はこのような関係への理解ができなくなったようです。秩序は不平等を前提に成り立つのです。

では、現在の社会はなぜ、どんどん乱れていき、不秩序になっていくでしょうか?平等主義を提唱する近代社会だからです。平等主義が提唱する平等が実現することを想像してみてください。みんな、全く同じ「人」になったら、どうなるか想像してみてください。政治上で言うと、命令する人はいなくなります。統治する人がいなくなります。会社においてでもいいですが、役割分担を決める人もいなくなります。どれほど目茶苦茶な無秩序になるか想像しやすいですね。ほら、みんな平等になってしまうと「社会」は無意味となります。平等主義の目指すのはこのような絶対的な平等なので、皆を同じ「ロボット」にさせようとします。しかしながら、このような社会では、役割分担もできなくなって、社会自体は消滅して、人々は破滅するしかありません。

このような平等主義が強ければ強いほど、人々はどんどん、なにごともやらなくなり、全能なる福祉国家からすべてを貰うようになり、少しずつ、いわゆる、全体主義的な国家となっていきます。(これが)平等主義の帰結です。

現在、我々が経験している国家による独裁政治、全体主義は1989年革命の時に提唱された平等主義の帰結にすぎません。この因果関係は当然ですが、現代人は見ないふりにしているかあれですが、困りますね。しかし、平等主義という政治上の思想の原理原則を考えると、現在、経験しているような状態に至るだろうということは必然的な帰結にすぎません。驚くことではありません。そして、反自然的な思想なので、長く保てないものであり、いずれか崩壊します。それも必然です。我々自身の目で政治社会の復興をみられるかどうかは別にして、時間の問題だけです。無理な政治は無理な政治だからです。いずれかこれらの矛盾は爆発します。反自然的な政治は人間性を否定して、破壊することになるので、自然は自然に抵抗していきます。要するに平等主義の帰結は全世界で現代で痛いほどその帰結を強いられていきます。

要するに、邪悪な共和政、邪悪な近代国家に対して戦う必要はもちろんありますが、それ以前に誤った政治原理原則に対して戦うべきです。これらの過った原理原則こそが弊害の原因だからです。どういった原理原則でしょうか?フランス共和政の原理でありますが、すなわち、1789年革命の原理原則なのです。自由、平等、博愛。この三つこそは反自然です。これらの原理原則こそは近代の弊害をもたらして、現代の大変な状態を作ってしまったわけです。

そして、楽園ではこのような革命的な原理は存在しなかったということになります。これはよかったですね。というか、我々にとってそれほど良い情報でもないかもしれません。なぜなら、楽園を取り戻すことは不可能だからですがこれは、仕方がありませんね。
しかしながら、繰り返しますが、楽園ではこのような革命的な政治は存在しなかったでしょう。なぜなら、繰り返しになりますが、秩序ゆえの不平等だからです。前にもご紹介したように、天使たちの位階の間にも想像に絶する不平等があります。各天使は別の天使と完全に違う存在となります。完全に不平等です。

同じように、人間の間に同じ人間性を共有する以外、みな違っていて、個性があって、特有性があって、それは非常に良いことです。
ちなみに、考えてみると、原罪のせいで、我々の心の奥に潜む罪へ誘惑は妬み、恨み、羨望などがだれものこころにあるのですね。なぜか、つい、自分が持っている物事よりも、隣人の財産、才能を睨んで羨ましくなるような。罪の根源の一つですね。これは悪魔が耳へ呟く「平等主義」です。

しかしながら、冷静に考えてみるとバカげた妬みですね。「あなたたちは神々のようになる」という誘惑は平等主義に帰着します。悪魔は「平等」が大好きであり、いつもこの言葉を利用して、我々を誘惑してしまいますね。このせいで、人間は隣の人の方が良いだろうと思いがちです。しかしながら、これは気のせいというか、やはり間違っています。自分に与えられた物事を単純に素直に満足するように努めましょう。人間は自分の欠陥などを過剰に見がちですが、逆に自分の強みや長所や才能をも認識して、これらを活かしてより完成化するように努めましょう。形は無数あります。目に見えても見えなくても、無数に才能がありますので、みんな、与えられた才能があります。我々がこの地上で存在するのは、良き天主が我々にお望みになったことを現すことであり、そして、与えられた使命を果たすために存在しており、秩序における相応しい場所、つまり分をわきまえるかたちで善き天主はお望みになったのですから、それが結構なことであり、嬉しいことです。

ある譬えが思い浮かびます。婦人が生け花をやる時です。あえて、もしも同じ種類の花だけを使うことになるとしましょう。たとえば薔薇ですね。つまり花の種類で言うと平等だということになります。全然生け花について無知なので、まちがったらゆるしてくださいね。しかしきっと、同じ薔薇になっても、同じように切られて、同じ長さで花束を作ることはないだろうという気がします。この不均衡によってこそ、花束として綺麗になるというところが生け花にあるように、このような不平等は美しいです。はい、多様性は豊かさをうみ、美しさの種となります。この意味で不平等と多様性は同じ意味になります。つまり、自分の家に家具として布団ばかりでしたら、やはり困って、あまりよく生きていけないのですね。

このように、楽園では平等のようなことは存在しません。
そうなると、楽園では社会があったということになります。そして、このような楽園での共同体はどうなったでしょうか?

当然ながら、ある人は他の人を支配するような社会になるのです。つまり、楽園での社会には位階制もありました。そうなのです。
聖トマス・アクイナスによると、楽園では本当の意味で、人への人による支配があったとされます。ここは「支配(domination)」という言葉を正しく理解すべきです。古典的に言うと、「支配」の種類は二つあります。「うしはく【領く】」という奴隷的な、独裁政治的な支配があります。現在の諸国における統治形態は、このような奴隷的な支配を通じて国を治めているのです。独裁政治です。暴君たちです。啓蒙されていない政治家です。この統治形態を理解するために、主人と奴隷の間にある関係が想定されています。つまり、上は下の意志を無視して、強制的にでも自分の意志に従わせて、道具として利用しているというような支配関係です。面白いことに奴隷制は廃止されてものの、現代の社会は完全に奴隷社会に戻りました。ちょっと不都合でしょうが、もはや我々は奴隷制の社会において生きていますよ。このような奴隷制、奴隷的な支配は楽園では存在しません。このような「覇権」は存在しませんでした。



楽園での支配はアリストテレスの言葉でいうと、「政治的な支配」となります。つまり、「しろしめす」ような世界で、王道的な、「覇権」の反対語として、「王権的」な統治となります。つまり、臣下は意志的に積極的に従う世界です。奴隷が主人に従わせられていると反対して、臣下は君主を奉仕するという政治です。臣道のような政治です。あるいは「家父長」的な政治です。主人対奴隷ではなく、父が子供を育てるような徳政です。父権も権威です。家族における政治の統治権の一つです。平等主義の名の下、父権をも否定されようとされますが、父権は社会の根本的な権威なのです。父権とは覇権的な権力ではありません。父権は王権的な権威であり、父権は完全なる本物の自然なる権威なのです。

このような支配形態は、人間性に刻まれていて、楽園で普通にあって、発展していたでしょう。そして、このような統治権の運用でいうと、何の問題にならなかったでしょう。なぜなら、人々は共通善のために尽くそうとする意志も人間性に刻まれていて、原罪がなかったので、その意志に反逆するわがままなどは起きなかったからです。

このように、人々は共通善のために尽くそうとしているので、社会全体の統合も無碍に常に成り立つ楽園での社会でした(分裂、軋轢、戦争もなく)。社会の統合は共通善という目的に従った社会になるという意味です。言いかえると、各人は自分に与えられた賜物や才能を隣人のために使い、提供することにしていたという楽園での社会になりました。社会こそはこのような相互助け合いから成り立つのです。各人は自分の才能などを隣人のために提供して、社会として成り立ち、このように各人はよく生きることが可能となり、各人は完成化できるようになります。共通善は各人の完成化にありますし、これこそが「社会生活」あるいは「社会活動」の本質だといえます。

もちろん、このように良い社会生活がすることは言葉で言いやすいですが、毎日の日常生活では、難しいです。楽園と違って罪もありますし、そして、実際に、共存するのは簡単ではないことは皆さん経験されたでしょう。犠牲と努力が要ります。

以上は楽園での政治社会の紹介でした。楽園での政治社会の存在と、人に対する人の支配の存在もあるという事実があるのは興味深いです。つまり、楽園では子供が父へ「父さんよ、ここは楽園なので、私が好き勝手にするよ。ほっといて」というようなことはありません。考えてみると、理不尽きわまりであって、無意味な発想です。本来ならば上に見守ってもらいたいし、人間の本性には社会上の統治権など、権威・権力が刻まれています。罪によって堕落しても、権威自体は人を人たらしめる根本要素です。

もちろん、現代では近代的な考え方が深く広まったせいで、または最近、全世界での変わった雰囲気のせいで、政治に関する考えにくい真理になりました。それも認識しましょう。つまり、我々はどれほどまともなしっかりとした政治に関する真理を頭で知っていても、この社会に生きているので、どうしても影響されることもありますので、警戒しましょう。このような毒された堕落した、転覆された政治下で生活せざるを得ないので、いつのまにどこかで我々も影響されているので警戒しながら、本来の良い政治を実践するように努めましょう。

そして、身体上でいうと楽園でどうなったでしょうか。【中編】につづく

もし私たちがアダムの立場だったとして原罪を犯さなかったか?楽園での人間について【後編】|公教要理[上級編]第12回

2022年03月07日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

楽園での人間について。(自然法、夫婦の別、男女の別などについて)



アダムの知性と意志は我々の知性と意志とは変わらなかったのです。ただ、罪の影響だけはなかったのです。
つまり、楽園での人間は人間だったということです。我々現代の人々と同じ本質、同じ本性を持っていたという意味です。原罪によって人間の本性は変わらなかったという意味です。我々はアダムと同じ本性を持っています。

つまり、アダムは知性によっての知り方は我々と同じような知り方でした。言いかえると、感覚可能な現象を通じて知識を得て、結果や帰結などを見て原因へ遡るような知り方です。また同じように、感覚可能な現象から抽象して、観念を引き出すような知り方はアダムにも我々も変わらないのです。

このように、アダムは天主を直接に知れなかったのです。一対一に知ることはできませんでした。たしかに楽園では頻繁にアダムは天主との交流があって、話されたりしていたようですが、いわゆる祈りなどの間接な交流であり、一対一の交流ではなかったのです。なぜなら、天主と一対一になったら、人間は罪を犯せなくなるからです。しかしながら、アダムは原罪を犯したことから、このような一対一のことはなかったことを示します。

歴史上に天主との一対一を経験したことのある人はいると思われるのですが、神学上の議論であり、確かなことではありません。使徒聖パウロの場合、厳密に言う一対一ではなかったと思われます。天主によって「拉致」されて、天をちょっと見せられたのですが、本物の一対一ではないのです。

聖書において、「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」(脱出の書、33、20)と明記されています。モーゼも聖パウロも天主を見たことがあることもわかっています。この二つの例外以外、ないのです。聖トマス・アクイナスは聖パウロとモーゼが天主との一対一があったかどうかを考察しています。同時に、天主ご自身は「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」ということなどで、一対一のようなことではなかったでしょう。使徒聖パウロの「拉致」は確かに例外的であって、珍しい恵みだったに違いないのですが、一対一ではなかったでしょう。

それはともかく、アダムは天主との一対一を経験したことがありません。アダムは天にいたわけではなく、楽園にいたからです。つまり、アダムには信徳があったということです。また、アダムは天使が見えなかったし、天使と話すこともできなかったのです。天使には身体がないから、このような交流は不可能です。アダムの知り方は私たちと一緒でしたので、感覚可能な現象を通じなければならなかったのです。つまり、普段、アダムは天使についての知識を得られなかったのです。私たちと同じように。

繰り返しになりますが、これらの問は人間の本性が何であるかを理解するために非常に役立つのです。つまり、人間たらしめるのは何であるか、人間らしさは何であるか、我々はどういった存在であるのかを理解するために非常に役立つ問です。
また原罪を理解するために役立つのです。原罪は人間の本性を破壊しないわけです。また原罪は人間の本性を変質して、悪くさせたわけでもありません。人間の本性は傷ついたが、そのままに良質なのです。

このように、アダムの知性、知り方は我々の知性、知り方と変わらなかったのです。
ただし、一つの問題は残ります。アダムは大人の状態で創造されたわけです。そして、アダムは最初の人間なので、先生などいませんでした。しかし、アダムは何らかの形で学習する必要があったのです。具体的にどうやって習ったかというと、非常な形でアダムは習いました。「天主が与えた知識」をもっていたのです。天主による天賦です。つまり創造した段階に、アダムの霊魂において必要としていた観念などの知識を与えられたということです。

はい、おっしゃる通りに天使にも天賦の知識がありました。ただし、天使と違って、アダムは直接に観念などを知らなかったのです。我々と同じように表象を通じて観念などを知っていたということです。
天主は天使の下に人間を創造されたのは確かですが、天使のように人間を創造したわけではないのです。「天主が与えた知識」とはアダムのみに与えられた知識です。

繰り返しになりますが、天賦の知識があるからといって、アダムは天使と違って直接に観念を通じて知識を得られることが出来なかったのです。言いかえると、前回、人間の知識の在り方を紹介しましたが、アダムの天賦の知識を含めて、表象などを通じなければならなかったのです。
復習になりますが、人間の知性の働き方では、必ず表象と観念がリンクされています。そして知性の働きによって、表象から観念を抽象します(要約すると、表象は9感を通じて得られると)。

教育は以上のような人間の本性を踏まえるはずです。そうしなければ、よく習えません。つまり、教育というのは、少しずつ表象を越えて、表象に留まらないで、抽象力を増やして、観念までたどり着く能力を養うのです。
しかし、アダムは大人の状態で創造されたので、必要としていた観念と表象は天主によって与えられたということです。このようにして、最初から多くのことを知ることができました。このような天賦の知識のお陰で、創世記に明記されているように、アダムは動物などに名を付けることができたということです。アダムはそれぞれの存在を名付けられたということは、これらの存在を知っていたということを裏返しに示します。
なぜなら、本来ならば知らないことを名付けられないのです。つまり、この一句は、天賦の知識が聖書において啓示されているということを示します。



(視聴者の質問)歴史上でのいくつかの聖人、あるいは旧約聖書の預言者などは天主によって与えられた知識もあると思いますが、おなじようなことでしょうか。

(ビルコック神父の回答)いいえ、ちょっと違います。聖霊による天啓、与えられる知識があるとしても、アダムに天主によって与えられた知識は異質です。アダムに与えられた知識は完全だったからです。自然次元において、超自然においても、アダムはよく生きていくために、天を得るために、必要としていたすべての知識が与えられたからです。

繰り返しになりますが、アダムは創造された時、アダムが与えられた目的を得るために必要としていたすべてのことを天主が与えられたのです。アダムの天賦の知識は部分的ではなく、かなり広かったと思われます。注意してください。天賦の知識は絶対的な知識ではないのですよ。すべてを知ったわけではありません。自分の目的を達成するために必要となっている知識だけです。

このようにアダムの知性は完璧であって、アダムは間違いを犯せなかったほどでした。なぜなら、アダムの知性を動揺させうる何もなかったからです。アダムは間違えることが出来なかったのです。もちろん、我々にとって不思議に見えるのは、それでもアダムが罪を犯したというところですね。このポイントは重要です。これも覚えておきましょう。アダムが犯した原罪は過ちでも間違いでもないということです。知らなかったからではなかったのです。原罪の一つの結果として、人間は過ちと間違いを犯せるようになったのですが、原罪の前の正義の状態の内に、アダムは間違いを犯せなかったのです。原罪を犯してからアダムも間違えるようになりましたが、原罪の前にそれはなかったのです。



そしてアダムは罪を犯した時、アダムの完璧な知性の働きではなく、罪は意志の働きの結果です。そして、罪であることを知りながら、悪へ行くことを決意したわけです。だからこそ、原罪は重いわけです。無知だったから、素直だったから罪を犯したわけではありません。

言いかえると、原罪は純粋な悪意をもって犯された罪です。罪の重さを減らせる事情、たとえば無知、脆弱、理性の欠陥などないということです。つまり曇った知性によって誤魔化された意思が本来ならば望まなかったことを決意するようなことはアダムにはなかったのです。

我々の状態は違いますね。よく知性が曇って間違って、過って意志を照らして、悪い方向へ向わせられています。つまり、我々は多くの言い訳ができるのです。「知らなかった」とか、「誤った」とか、「このようなことになるなんて察しなかった」とか我々は言えるのですね。アダムとイブならそうはいかなかったのです。アダムとイヴにはこのような言い訳はあり得ないのです。不可能です。アダムとイヴの状態はそのような欠陥、過ちの余地は存在しなかったのです。アダムとイヴの罪は純粋に意志による罪です。つまり完全に悪意をもっての罪です。知性に欠陥などなかったので。言いかえると、純粋に傲慢の罪でした。

アダムの意志に関して信条があります。アダムの意志は聖寵においてラテン語で言うと「設立」されたということです。つまりアダムの意志は超自然の次元にまで高められたということです。
言いかえると、信条なので、信じるべきことですが、アダムは超自然の次元まで引上げられたということです。超自然ということは、聖寵の次元にまで引き高められて、また対神徳や超自然の聖徳などまで引き高められたということです。これは信条です。

信条になっていないのは、創造された時、すでにその状態だったことです。ですから「引上げられた」という言い回しを使いました。トレント公会議の言い回しは「設立(Constituere)」となります。ただし、この状態において創造されたかどうか信条になっていなくて、神学の対象の論点の一つです。
つまり、直接に超自然の状態において創造されたか、あるいは純粋に自然状態において創造されてから時間が経って超自然の状態に引上げられたか(その後、超自然の玄義を天主から示されたか)、神学の一つの論点です。
聖トマス・アクイナスをはじめ、偉大な神学者の一般共通説は天主がアダムを超自然の状態に直接に創造されただろうと、中間段階はなかっただろうとなっています。しかし、これは信条ではありません。
信条は「アダムが超自然の状態に引上げられた」となります。いつ、引上げられたかについては信条の対象になっていません。ささやかな区別ですが、公教会は緻密に区別しています。
いつについてだれもわかりませんが、一番高い可能性は創造の時に合わせて超自然の状態に引上げられたということです。

それはともかく、いつという問題を別にして、アダムは聖寵の状態にいる時から、初めの正義の状態にあると呼ばれています。楽園でのアダムの状態は初めの正義の状態と言われます。正義の状態にあったということです。正義は「正しさ」を語るということで、アダムにおいてすべてはまっすぐとなっていて、正しかったということです。ラテン語で「Rectitudo(正しい)」という語源の意味はまっすぐという意味です。アダムは完全にまっすぐでした。つまり、言いかえると、アダムにおいてすべては正しくて、秩序正しく整えられていたということです。神学用語でいうと「保全の賜物」とも称せられています。

ただし、この正しさは何だったでしょうか。聖書においてこの最初の正しさが明記されています。コレへットの書にあります。「天主は人間を正しいものとして造られた」(7,29)
この正しさは何でしょうか?三重の従順です。

第一に、天主への知性の従順なのです。これは正しいものです。まっすぐです。
直線はなんであるでしょうか?二点をまっすぐに貫いて何の迂回をしないような一線です。同じように、アダムの第一の真っすぐさは天主と知性を結び付ける従順です。天主に従って知性が働くということで、秩序正しく知性が天主の内に調和的に働いているということです。これは上階層の正しさです。

その下の階層に真っすぐさがあります。下の階層のの能力は知性と意志に従っているという秩序が守れている真っすぐさです。つまり、我々の欲情は知性と意志に従っているということです。アダムは保全の賜物があったわけです。アダムにおいてこのように正しく欲情は意志と知性に従って、知性と意志は天主にしたがっていました。

ところが、我々はもう、それを持たなくなりました。秩序が乱れました。保全の賜物の代わりに、我々は現世欲に秩序を乱すようにさせられています。まっすぐと打って変わって、敗北となっている状態です。醜い状態に陥ってしましました。意志と知性は天主に対して反逆して、欲情は意志と知性に対して反逆して、めちゃくちゃになって、秩序が乱れています。
ですから、我々は常に戦って、辛うじて、本来の秩序を取り戻すために努力しています。真っすぐさを取り戻すため、正義を取り戻すためです。

天主の統治の部についてふれておきますが、上部の秩序は下部の秩序の原因となります。意志と知性が天主に従順であって、欲情が意志と知性への従順です。逆ではありません。
そして一番下の階層の秩序もありました。身体は霊魂に従っているという正しさ、秩序、従順がアダムにありました。上部の二つの秩序も保全であったので。

注意していただきたいのは、上の階層は下の階層の状態を決めます。上が乱れたら下も乱れます。逆に上が正しかったら下も正しくなっていきます。一番上の階層の正しさは、第二の階層の正しさの原因となり、さらに第二の階層のの正しさは一番の下の階層の正しさの原因となります。

我々は常に人生において経験しているでしょう。カトリックに改宗した人々は皆経験しているでしょう。つまり、天主のことについて知性でよく分かった時、意志も正しくなって、正しい方向へ導かれて、少しずつ、欲情も身体をも従わせえます。しかし、出発点は信仰、回心です。天主のために目的づけられます。

そしてアダムの罪は欲情においても身体においてもないわけです。意志と知性のレベルです。「私は従わないことにする」という天主に対する反逆です。意志の決意です。欲情でもなくて、過ちでもなくて、純粋に悪意です。本来の自分の目的から逸らして、悪を選ぶ意志による行いです。
この本来の乱れなる罪のせいで、下の階層の反乱を招きます。下の階層の秩序も乱れているようになります。ですから今は抑えがたい欲情もあったりして、またわれわれの身体も脆弱でどうにもならない所以です。原罪のせいです。上の階層の秩序が乱れたせいで、他のすべての下の階層の秩序が乱れます。

また、原罪についての授業の時に改めて見ることになりますが、このように「初めての正義の状態」は何であったのか理解していただけたと思います。
で、どうしても、我々は思ってしまうでしょう。「私はアダムの立場にいたなら、このふざけた原罪を犯さなかったに違いない」と。

しかしながら、我々は本当にアダムの代わりにいたとしても、我々はアダムより勝ることはなかったのです。アダムにはすべてがそろっていました。私たちよりも遥かに完成していました。同じように「ルシファーの代わりにいたなら、絶対に反逆しなかっただろう」と思うこととおなじようなことです。ルシファーは被創造物の内に一番優れた、完璧な存在だったですので、私たちよりも遥かに遥かにまさっていたのです。

どうせ、この仮説は意味がないのです。我々はアダムでもルシファーでもないので、もう手遅れで、歴史をやり直すことはできないのです。仮に、もしもあり得ないとしても、本当にわれわれが彼らの代わりにいたならば、どうせ、我々よりも遥かに完璧な人々であるのに、なぜ我々の方がより良い決意するかと言えるのは個人的に疑問が残ります。

歴史を後から見直す、検討することは簡単ですが、当事者だったなら、これほど簡単に別行動をしたとはいいがたいのです。

アダムにはもちろん欲情がありました。私たちも欲情がありますね。そして、普通なら、我々は自分の欲情に対してちょっと怖いですね。うまく機能しなくなっているので、欲情はいつ暴れ出すかよくわからないので、我々は欲情に対してちょっとこわいですね。
アダムにも欲情があったのですが、怖いことでもなかったのです。完全に従っていたからです。善への欲情ばっかりだったわけです。楽園では悪がなかったので、欲情は必ず善へ向かわせられていたのです。この地上とちがっていたのです。

たとえば、楽園では悲しみなどはありませんでした。なぜなら、悲しむというのは、悪に対してことです。しかしながら、楽園では悪はなかったので、悲しみも怒りもありませんでした。怒りも自分にかかってくる悪に対する抵抗の欲情なので、楽園では存在しませんでした。怒る能力はあったわけですが、怒る対象が存在しなかったので、アダムは実際に怒ったことがありませんでした。楽園では。アダムの妻ですらアダムを怒らせなかったほどの完璧な楽園でしたよ(笑)。

憎しみというような欲情もありませんでした。憎しみの対象は楽園では存在しなかったからです。恐れもなかったのです。
同じように、アダムの霊魂にはすべての徳が揃っていましたが、完全な徳だけを実施していました。例えば、愛徳、正義の徳などを行いました。しかしながら、不完全な徳と呼ばれる徳、つまり罪と関係する徳などを実施する機会がなかったのです。持っていましたが、行う必要はなかったのです。

たとえば、慈悲という徳をアダムが行わなかったのです。なぜなら、慈悲の対象は楽園で存在しなかったのです。惨めなことは存在しなかったからです。また、償うことも改悛することもありませんでした。罪がなかったからです。アダムは楽園で罪人ではなかったので。
おなじように、我らの主、イエズス・キリストは改悛の徳を行ったことがありませんでした、人々の罪のために自己犠牲として贖罪のために御自身を捧げたのですが、改悛などはありませんでした。イエズスは一つの罪をも犯したことがないからです。

このような不完全な徳を行わなかったことは不完全さを示すのではなく、逆に完全さを示すわけです。アダムは私たちより遥かに完全だったことから、アダムのすべての行為は私たちの行為よりも価値があったのです。
永遠の命を得るために愛徳が必要ですね。愛徳は高ければ高いほどに永遠の命を得ることに値します。そして、我々の仕事は愛徳の実施を妨げる障害を自分の霊魂から一つずつ取り除くということです。
アダムの場合、楽園で、愛徳に対す障害は一つもなかったので、無限に愛徳は実施されていました。アダムの愛徳は勝っていったので、アダムの行為はかなりの功徳に値していました。

言いかえると、アダムにとって私たちにとってよりも、良い行為を行うに当たって、よりやりやすくて努力を必要としなかったからといって、その功徳は少なかったことになりません。功徳の価値は愛徳の程度だけです。善い行為をやるかどうの努力と関係ありません。また愛徳について紹介する時、改めて説明します。

さて、最後の点になりますが、一番下の階層の秩序、正しさは人間に対する大自然の真っすぐさです。つまり、大自然、被造物世界は人間に従っていたという正しさです。
ただし、正しく理解しましょう。一般的に言われる大自然に対する人間の支配のイメージとかなり違います。つまり、アダムは「この星々よ、この軌道が気に行かないので、軌道を変えてください」といっても星々の軌道は変わらなかったのです。もちろん。天主のみ旨に従った大自然という大枠において、アダムは自分の目的を果たすために(つまり正当な目的のために)完全に障害なく、抵抗なく大自然を利用することはできたのです。
いいかえると被造物世界は楽園で、完全にアダムに奉仕していたのです。

これで終わりにしたいと思います。楽園についてまだちょっとだけ残りますが、新学期にゆずりましょう。1月11日となります。ご清聴ありがとうございました。

(終わりの祈り)

なぜイヴはアダムの脇から創られたのか?楽園での人間について【前編】|公教要理[上級編]第12回

2022年03月03日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

楽園での人間について。(自然法、夫婦の別、男女の別などについて)



(アヴェ・マリア 最初の祈り)
・・・今回の授業は、創造の部における被創造物の内に、人間についてです。聖トマス・アクイナスの神学大全の創造に関する最後の部分は人間についてです。あとは、天主の統治についての部分があります。これは次回見ることにします。

さて、人間についての部においての最後の部分は今日、説明することになります。12-13ぐらいの質問となりまして、比較的に理解しやすくて短い部分です。しかしながら、非常に興味深い質問です。なぜなら、聖トマス・アクイナスは楽園での人間について紹介しているからです。言いかえると、アダムとイヴは具体的にどのようだったかについて聖トマス・アクイナスは紹介しています。

楽園での人間について、まず天主はアダムとイヴをどのように創造されたかについてです。

前回、すでに見たように、アダムとイヴの霊魂は楽園であるかどうかを別にして、どうしても天主によって創造されるご計画があったことを述べました。また、言いかえると、人が宿るたびに、必ず天主は直接に働かれておられるということもすでに述べました。天主の御働きによって、天主が一人の霊魂を創造されるということです。

この点について、数人の教父たちは誤解していました。例えば、オリゲネスなどはそうでした。彼によると、宇宙の創造の最初からあらゆる人間の霊魂たちを創造され、最初からすべての霊魂はすでに存在して、これらの霊魂をどこかに「保管」してあるかのように、人間が生まれるたびに天主は霊魂を其の個別の身体へ送り込まれるだろうと想像していました。これは間違いです。

人の身体がある程度に構成されて、霊魂を受け入れられる状態になったら、その瞬間に天主が霊魂を創造して、すぐさまにその身体と一致させてくださいます。つまり、受胎があるたびに天主は直接に御自ら働かれて霊魂を創造されます。
原罪がなかった場合、楽園での受胎もこのようになる予定でした。残念ながら原罪のせいでこの世は堕落しましたが、同じく、受胎があるたびに、天主は霊魂をお造りになります。



さて、人間の身体についてみましょう。前回はそこまで見ておきました。神学大全の第一部の問91です。
創世記の解釈となりますが、人間の身体は「地のちりをとって人間を形づくり」(創世期、2、7)されたということです。
この一句の意味は何でしょうか?ちょっと難しいです。なぜなら、教皇ピオ十二世はこの一句に関する解釈を定めていないとして、科学的に解釈されても構わないと宣言したからです。

それはともかく、「地のちり」から確かに言えるのは、人間の身体は何か物質的なものから造られたに違いがないのです。
また「地のちり」というのは、人間の身体は天下被創造界の「要約」であるということをも意味します。これは聖トマス・アクイナスが説明しているところです。これ以上に聖トマス・アクイナスは「地のちり」がなんであるかについて説明しないのです。

灰の水曜日の時、「人よ、おぼえよ、汝はちりであって、また、ちりにかえるであろう」という一句が思い浮かびますね。これは身体についてです。地の塵から身体を創りになった天主です。そして、身体はいずれか、ちりにかえるということです。霊魂ではないのですね。身体についてです。カトリックの葬式でも、死者の亡骸を埋葬することも、身体が塵に帰る現実を思い起こし、また謙遜の心を表すためでもあります。

また、聖トマス・アクイナスによる「地のちり」とは人間の身体が物質的な被創造世界の要約であるということを意味します。加えて、聖トマス・アクイナスは天主ご自身が人間の身体をお造りになったと説明します。言いかえると、人間の霊魂を受け入れるために相応しく適切なる人間の身体を天主がお造りになったということです。



なぜなら、思い出しましょう。これは生き物なら適用できます。生き物には、霊魂が身体を活かすことになります。そして、このように霊魂が身体を活かすのですが、この活かし方とは霊魂と身体の一体を意味します。霊魂と身体を区別できても実際には一体となります。生き物は霊魂と身体からの構成物なのです。しかしながら、構成物だからといって、その生き物の一部が霊魂であり、別の一部が身体であることになりません。この構成物は一体となっていて、身体のすべての部分において霊魂が一体化していて、別々に出来ないのです。生き物は一体です。

あくまでも一体ですが、水の中にワインを入れたら、出来た液体はワインと水の混じった液体となって、完全に混ざっていて、もはや別々に出来なくなります。子供の場合、ミントのシロップでも水に入れたら、混ぜた結果、一つの液体となっているような感じです。結果として、その飲み物のすべては同時に水でありシロップでもあるような。譬えに過ぎないのですが、生き物、生物はそれと似ています。霊魂は体全体を活かします。身体のどの部分においても霊魂が宿っているということです。例えば、自分の指を見て、これが私の指ですが霊魂がないとは言えないのです。一体です。自分の体のどの一部においても自分の霊魂も宿っているということです。
先ほどの液体のたとえと違って、身体と霊魂の一体の際、霊魂と身体の融解、溶解などはありません。そうではなく、霊魂は身体全体、身体のどの一部までも活かしています。

このように、霊魂は身体を活かせるために、身体と霊魂は見合っているわけです。霊魂によってその身体を活かすために見合っているように造られています。

ですから、動物のように、感覚的な霊魂だけの場合、その感覚的な霊魂に見合った身体が用意されます。つまり、感覚的な生活を送れる身体が用意されています。このように動物には感覚がありますが、動物の霊魂による感覚的な知識は身体上の器官を通じて得られることになっています。また裏を返せば、身体上の器官などは動物自体の霊魂の感覚的知識能力に見合っています。このように多くの動物はいて、生物の秩序における位置次第にその身体も霊魂も違っていて、それぞれ身体と霊魂は見合っています。これから、動物の上下関係、位階制もあって、それぞれの生活上の在り方も違います。

天主は人間の霊魂を直接にお造りになります。そして、あえて言えば霊魂を造られる時、人間の身体に見合うように造られます。裏を返せば、人間の身体は動物にはない、天使の霊魂にある、知性と意志のある人間の霊魂に見合うようにも用意されています。
つまり、人間の霊魂において、前回に見たように、植物的な生活の上、動物的な生活もできます。この上に、他の動物などと違って、理性的な生活もできます。人間はこのようになっているからこそ、天主ご自身が人間の身体をお造りになったのです。

人間と動物の間に乗り越えられない境がそこにあります。なぜなら、動物などは単なる動物的な生活、感覚的な生活ができるように造られて、それに合わせてその体も用意されています。一番高等な動物に至ってですら、意志と知性を機能させるための身体を持たないということです。一番高等な動物ですら、意志と理性を受け入れられる身体を持たないのです。つまり、動物の身体は理性と意志のある人間の霊魂を受け入れられないことになります。十分ではないということです。(この意味でも輪廻転生があり得ない所以であります)
このように、天主は最初の人間を直接にお造りになりました。人間の身体は意志と知性のある霊魂に見合うように造られたのです。

さて天主は人間の身体を「地のちり」から造られました。地のちりはなんであるかというと、いまだに謎です。教皇ピオ12世も暗にこの可能性を捨てないのですが、天主はもしかしたら、ある動物をベースに人間の身体を造られたといった可能性は聖書によって否定されていないわけです。
もちろん、この話はいわゆる進化論で、猿から人間が生まれたという説と関係しますね。しかしながら、猿の身体から人間の身体が造られたとしても(これは神学上に可能な話となり)、猿の本質が一体壊滅されて、新しい存在である人間を天主がお造りになったことは変わらないのです。なぜなら、物事の本性は霊魂によって与えられていて、身体によってではないからです。ですから、猿の身体がベースにされたとしても、猿の身体が人間の霊魂を受け入れられないので、完全に天主が改造されて、ぜんぜん別の身体をお造りになったということになります。(この意味で進化論は間違いです)。
地のちりの正体は何であるにせよ、人間の霊魂に見合った身体を天主がお造りになったことは天啓で、確かです。ですから、猿から人間へ進化というようなことは不可能です。なかったのです。なぜなら、人間の霊魂と猿の身体は見合っていないからです。

要するに、人間の霊魂に見合った身体を用意するために、天主ご自身が人間の身体をお造りになったということです。なぜなら、天主ご自身は人間の霊魂をもお造りになるからです。すでに存在する物質的、感覚的な被創造世界において人間の霊魂の可能性が潜在的にあったのならば、天主ご自身の直接な働きは不要だったはずです。

要するに、天主ご自身が人間の身体をお造りになったということです。

次の聖トマス・アクイナスの問が面白いです。ちょっと読んでおきましょう。というのも、聖トマス・アクイナスは難しい時は難しいですが、この問いのように、理解しやすい部分もあります。聖トマス・アクイナスを理解できて、なんか頭がいいような感じがして嬉しいですね。単純でも聖トマス・アクイナスはいつもきれいな説明をなさいます。

聖トマス・アクイナスの文章です。
「身体の創造の際に、身体に与えられた体質について。人間の身体は人間の霊魂に相応しく見合わせれて造られただろうか。大自然のすべての現実は天主の創造なる御考えによって造られた。だから、被創造世界の現実は職人の前にある作り物のように天主の前にある。ただし、職人なら必ず、自分の作り物において最高の質を与えて作ろうとしている。この最高の質とは絶対的な意味ではなく、その作り物の目的に合わせた形での最高の質だということである。」

天主がお考えになった人間の目的を前提に、人間を最高に造られたということになります。

「また、職人は最高質の作り物を作っても、二次元的な欠陥があったとしても、職人はそれを問題にしない。例えば、職人がのこぎりを作るとしよう。その目的は「切る」ためにあるので、鉄からのこぎりを作るだろう。グラスの方が綺麗な素材なのに、この職人はグラスからのこぎりを作らないだろう。というのも、このようなより綺麗な要素はのこぎりの目的を果たすために障害になるので、職人はそうしないだろう。」

ご覧のように興味深いです。
聖トマス・アクイナスはそれぞれの存在を考える時、それぞれの存在実体だけを考えるのではなく、目的づけられている存在として捉えているのです。「何のために」造られたという重要な視点です。職人は綺麗なのこぎりを作ろうとしても、絶対にグラスから作らないことになります。なぜなら、そうすると、より綺麗だとしても、のこぎりの目的なる「切ること」を達成するのが無理になるからです。だから、職人はのこぎりを作る際、鉄からでも「切る」という目的に見合っている素材で作るということです。

聖トマス・アクイナスに戻りましょう。
「このように、大自然にある諸現実に天主が最高の質を与えられた。絶対的な意味での最高の質ではなく、それぞれの存在の目的に合わせて最高の状態で造られた。」

言いかえると、永遠の救いである人間の目的を得るために、天主は人間を最高の状態でお造りになったということです。救霊という目的あっての最高の状態です。この説明は奥深いです。
そして、聖トマス・アクイナスはアリストテレスの『自然学』の第二巻を引きます。

「人間の身体の近目的は理性の霊魂である」

目的においても秩序があり、順番があります。
つまり、身体は霊魂のために存在します。霊魂は霊魂の目的のためにあります。人間の場合、天主のためにあります。
同時に、身体は霊魂の奉仕のためにあります。身体は霊魂のために存在します。身体を通じて感覚できて知ることもできて、霊魂を養い、意志と知性を発揮できます。このように、普通の知識などを得られる以上に、天主を知るために身体をもちます。

「人間の身体の近目的は理性の霊魂とその働きである。物体は形相のためにあるからである(言いかえると、身体は霊魂のためにあるからである)。道具は行いのためにあるからである。要するにかかる形相(理性的な霊魂)、かかる行いのために必要としていた最高の身体を天主が創られたということである。」

続いて聖トマス・アクイナスは次のように付け加えます。

「さて、身体の状態にたいして不満があったり、欠陥があったりすると思われる場合、これらの欠陥は物質である故に物質の素質からなるためにあると思うべきである。」

物質は物質なので、物質の素質から不可避な欠陥だということです。
これ以上でも以下でもありません。このような欠陥などがあっても、人間の霊魂の目的を達するために障害にならないということです。言いかえると、「本質的に私に与えられた目的を反たせない」というできる人は存在しません。なぜなら、天主は人間が与えられた目的を果たすために必要なるすべてのことは与えられて、十分に最高の身体が与えられたからです。
大事なのは、人間に与えられた目的を果たすためだということです。別の目的ではないということです。ですから、我々の目的は「空に飛ぶ」ということではないので、我々は飛べないし、他にも動物に比べて多くの不自由があると思いますが、それはそれぞれの動物と違う目的で我々は造られたからです。

さて、聖トマス・アクイナスの次の問は「女について」です。「女の創造について」です。
最初の問は「天主は女を造る必要があったのか」ということです。
答えは「はい、必要だった」のです。人類の繁殖のために天主は女の創造を望まれたのです。
神学上の説明とともに、創世記の解釈の試みであるので面白いです。もちろん、創世記の解釈はデリケートで、難しいことです。

創世記を読んでみると、最初は男を創造されて、それで天主は満足したと書いてあります。つまり、女はまだいないけれども、それでもよかったという風に読めなくはないのです。そして、その後、男は助け手が欲しがるようになって、求めても見出せないのです。そして、天主はそれをみて、天主ご自身が介入されて、女を直接にお造りになります。女の創造者は天主ご自身です。アダムを眠りに入れてから天主は女の子を創造されます。

面白いことに、他の被創造世界の種類なら、このような創造の形態と順番はないわけです。動物なら、雄雌の創造において順番はなくて、最初が雄であとは雌のようなことはないのです。人間に限って、まず男を創造して、そのあと女が想像されたという区別が明記されています。
聖トマス・アクイナスはこれを説明します。男の創造と女の創造を区別して、前後にさせることを天主が望まれた理由を聖トマス・アクイナスが説明します。



男女の創造についてこの区別と前後がなぜあるかというと、人間の本来の目的は(動物と違って)繁殖ではないことを示すためだと聖トマス・アクイナスが説明します。人間の一番重要な目的は理性的な目的であるということです。
まあ、現代ならこのような目的の区別は理解しづらいですが、(セックスするために人間は存在しないということを意味します)。

人間の一番重要な働き、行いは理性上の働きであり、「黙想・観照」にあるということです。物事の本質を見極める働きこそが人間の主な働きである、繁殖という働きは二次元的です。

これを我々人間に教えるために、示すために、天主は時間において男女の創造を別々にさせたもうたのです。観照することこそが人間の重要な働きであること、この大事な現実を思い起こすためでした。

要するに、人間において繁殖の能力は人間における一番高貴なものではないということです。人間における一番高貴なのは理性であるとして、霊魂にかかわる働きです。理性の霊魂、すなわち知性と意志による働きこそが人間たらしめる働きであり、人間の高貴なる働きです。繁殖は二次元的です。感覚的な生活も植物的な生活も二次元、三次元的です。繁殖という能力は植物の特有の能力に過ぎないのです。

さて、後になって、女は創造されました。その時、聖トマス・アクイナスが次の問をかけます。「男から女を天主がお造りになったのは相応しいことだったのか」。

もちろん、はい、相応しかったです。天主は相応しいことのみを行われるので、ある意味で答え事態はだれでも予想できて知っているはずです。また、聖トマス・アクイナスがこのような問いをするのは、天主がものごとを良く悪く行われたかを疑問にするためではありません。答えは当然であるとしても、聖トマス・アクイナスがあえて問うて、天主ご計画をよりよく理解するためです。つまり、天主はこのように具体的に行われたことから引き出せる教え、天主のご計画と天啓はなんであるのかを知るためです。

聖トマス・アクイナスは「男から女を天主がお造りになったのは相応しいことだったのか」に対して、相応しかった理由を四つ述べます。

第一、アダムが人類の唯一なる起原であり、人類の頭であることを示すためでした。
アダムが人類の唯一なる起原であり、人類の頭であることを示すためでした。イヴはアダムから取り出されたということで、アダムは純類の唯一なる起原です。二元ではありません。また、今度、原罪を見ていきますが、イヴは原罪を犯したわけではないのです。アダムこそが原罪を犯しました。アダムは人類の頭だからです。イヴは最初に実を食べたのですが、まだその時、原罪は侵されていないのです。イヴとしてだけ罪が犯されたにとどまっていたのです。人類の頭なるアダムが身を食べた時、原罪が犯されました。

個人な罪に留まらないで、全人類の頭すなわち代表として食べて、全人類の責任を負って犯された深刻な原罪です。だから、全人類へおよぶ原罪であるということです。譬えに過ぎないのですが、妊婦が酒を飲んで病気になって赤ちゃんも不自由になるような感じです。赤ちゃんのせいではないかもしれないが母はみごもった赤ちゃんの責任を負うので、母が取る身体上の危険は赤ちゃんに及ぶことは当たり前です。もちろんたとえですが。霊的に言うと、アダムは人類の頭として造られて、全人類の責任を負っていることになっていたからこそ、原罪は大きかったのです。

要するにアダムは人類の唯一なる起原です。イヴはアダムから取り出されたのです。アダムは人類の頭なのです。
聖トマス・アクイナスは次のように説明します。
「このようにされて、最初の男はある程度の尊厳が与えられた。なぜなら、天主が存在する全宇宙の起原であるのように、天主に象られて、アダムも自分の種類の起原となる。」



第二の理由とは、「このようにされて、男はよりよく女を愛し、よりよく離れないで女と一緒にいられるためである。なぜなら自分自身から取り出されたことを知っていることによってである」
要するに、天主は男女の創造の前後を行われたもう一つの理由は、男に女をよりよく愛するようにするためだったということです。もちろん、アダムのあばら骨から取り出された女はイブのみであって、もはや男のあばら骨から女が取り出されていないのですが、最初の男、アダムには嫁に対して頗る愛を天主が与えられたということです。本当に夫婦間の愛はそこに起源をもつのです。深い愛です。つまり自愛するほどの愛です。アダムとイブは同じ身体なので。このように、本物の友情、本物の「愛」の絆のあるべき姿は創世記において以上のように示されています。

第三の理由は現代で受けがたいかもしれません。聖トマス・アクイナスによると、第三の理由は、女は男の権威を尊敬するためです。
「アリストテレスも『ニコマコス倫理学』の第八巻において説明するように、男女は他の動物のように繁殖のために一緒になるだけではなく、さらにいう(人間的な営みなる)家庭生活を営むために一緒になるのが相応しいことである。この意味で男女の別があって、その役割も別々である。このように男は女の頭である。だから、男が女の起原であるかのように男から女が取り出されて創造されたのは相応しかったことである。」

言いかえると、男は女の頭です。このために、イヴはアダムの後に創造されたし、またアダムのあばら骨から創造されたのも、この男女の別を示すための現実です。つまり、アダムへの依存のままにイヴは創造されました。

以上のような真実は現代で理解しづらいのはわかっています。受け入れがたいのも知っています。なぜなら、健全な「依存」とはなんであるか見失ってしまったからです。理解不可能となりました。「依存」と「隷属」は現代で、かならず負のイメージになっているので、余計に理解しづらくなりました。
創世記の意味は女は男の奴隷のような存在であるということではありません。女性には特別な役割があるという意味なのです。さらにいうと、高貴な役割になります。家においても被創造世界において特別な高貴な綺麗な役割があるということです。
ただし、この役割を果たすために、男への依存、上下関係が前提となっています。政治的な上下関係です。独裁的な隷属性ではないのです。つまり奴隷に対する主のような関係ではなく、臣下に対する君主のような関係となります。覇権ではなく、王権のような関係となります。

第四の理由は最後の理由となりますが、かなり美しいです。いわゆる類型学に属する理由です。霊的な兆しとしてです。
「このようにされて、公教会はイエズス・キリストを起原にしていることは示されている」
このように女は男に従うべきと同じように、公教会はイエズスに従うべきだということです。同じようなやり方です。公教会はあくまでもイエズス・キリストの教会です。ですから、結婚する時、女性は夫の姓を貰う理由でもあります。

エフェゾ人への手紙の第五章において、聖パウロは女の創造と男女の婚姻について次のように書きます。
「この奥義は偉大なものである。私がそう言うのは、キリストと教会についてである」(5,32)

このように、結婚において夫婦はキリストと教会の象りでならなければならないのです。つまり、夫婦の関係をみて、キリストと教会の関係が語られるということです。夫婦の在り方は教会とキリストの一体の生きている模範であるのです。どれほど素晴らしいことであるのかはわかるでしょう。ですから、敬虔な信仰深いカトリックの家族はキリストと教会との関係の奥義を実際、具体的に具現化しています。

次は、イブはアダムのあばら骨から取り出されるのです。これはなぜでしょうか。
聖トマス・アクイナスは二つの理由を提示します。

第一の理由は男と女の間に本物の政治的な絆で結ばれるようにさせるためです。
つまり独裁的な関係とか覇権のような関係はありません。女の子を貶めるためでもありません。逆に纏めのある社会になるように男女は造られたということです。共同体の絆は本来ならば非常に強いはずです。社会とは、家(家族)とは集合体でもなんでもありませんよ。石の山積みなんて石の社会にならないのです。同じようなものを並列しているからといって社会とならないのです。

本来ならば、社会とは、すなわち国、家族、村、共同体には共有の生命を分けていて、同じ生命によって活かされているはずです。より厳密に言うと、同じ目的に向けた共同の働きがあって初めて社会として成り立つのです。つまりまさに「共同体」ですね。共同体の語源は共同な働きによって一体になっている人々というような意味です。そして、基礎的な社会・共同体なる家族を助けるために、天主はアダムのあばら骨からイブを取り出されたのです。このようにして、何よりもまず霊的な共同体なる家族を助けられます。霊的な共同体とはそれぞれの霊魂の一致、それぞれの意志の一体を意味します。そしてこのような霊的な一体は、身体上の一体をもって示されるように、天主はアダムのあばら骨からイブを本当に取り出されたのです。

聖トマス・アクイナスは続いて次のように説明されます。創世記の解釈でもあります。

「このように女は男を支配してはいけなかったことから、アダムの頭からイヴは取り出されなかった。他方、女は男によって軽蔑されてはいけないことから、アダムの足からイブは取り出されなかった。」

我々は現代人は以上のバランスをとれなくなりつつありますね。現代人は白黒で考えがちですね。二元主義というか、ある極端からすぐもう一方の極端に陥いてしまいます。両極端の間に、調和のとれた中間があるのを理解できなくなっている現代です。

「他方、女は男によって軽蔑されてはいけないことから、アダムの足からイブは取り出されなかった。」

さてなぜあばら骨からイヴは取り出されたかというと、あばら骨は心臓に当たる部分だからです。転じて愛を象徴する部分でもあります。

第二の理由は、また表象を表すためです。
「アダムは眠りに入ったように、イエズスも十字架上に眠りに入って(死という眠りですねその後、復活を齎した御死ですね)、脇から教会が制定された水と血の玄義はながされた。」

この意味で、教会はイブのように槍によって貫かれたキリストのあばら骨から生まれたということです。水と血は秘蹟を象徴しています。水は特に天主の生命を与える、天主の生命に産ませる洗礼を象徴していて、血は天主の生命を我々の霊魂において常に増やすミサ聖祭を象徴しています。またイエズスの御血を受けて自分の霊魂が清められるという告解の象徴でもあります。

そして、特に現代で特筆すべき点でしょうが、女性のいとも高貴な立場を示すのは、天主ご自身が御自らに直接に女性をお造りになったということです。女性は天主によって直接に造られたのです。言いかえると、女性はこれほど高貴な存在ではなかった場合、天主はわざと直接に介入しなくてもよかったはずです。アダムに任せて、自分なりに都合の良い助け手を造れと天主がなさることがあり得たわけです。しかしながら、そうはならなくて、天主は直接に女性をお造りになって、被創造界をさらに完全化させたのです。というのも、女性は被創造界にとって本当に完全化を意味します。特別の立場、位置づけにあるのです。

要するに、仲介なしに天主は直接に女性をお造りになりました。
つづいて聖トマス・アクイナスは「人間は天主に似せられて、天主に象ってつくられた」という一句についての解釈です。これはつまり、人間には知性と意志があるということを意味します。動物なら、この意味で天主に象って造られていないわけです。動物において霊的な要素はめったにないからです。動物において、天主の本質に似ているような要素はめったにないのです。天主の御象りというようなものは無いということです。

しかしながら、不完全な象りであるものの、不正確な似せであるものの、人間において天主の象りがあります。しかしながら、霊的な働きであるとして、つまり、知性の働きと意志の働き、また真理・善へ向かわせている働きなどは天主の象りではあります。なぜなら、天主こそは知性と意志であり、完全な真理であり、完全な善であります。

しかし、動物には生命はないのではと言われるかもしれません。そして、天主は命でもあるので、動物においてもある種の天主の象りがあると言われるかもしれません。
これは確かにあります。しかしながら、生命だけでは大雑把すぎて、「象り」だとは言えないのです。あえていえば、存在するすべての物事は天主を連想させます。なぜなら、天主こそは存在そのものなのだからです。またすべての物事は天主によって存在させられて、存続させています。確かに、この意味で、全宇宙には天主の印があります。しかしながら、これは「象り」とは言わなくて、天主の痕跡、しるし、名残であると言います。
サイン、印鑑のような感じですね。で、絵画にサインがあったとしても、この絵画は画家の象りになるとは意味しないのですね。
一方、不完全であるものの、人間において天主に似ている何かがあるということです。しかしながら、人間は本当に天主に似ているということです。

創世記において、「似ている」と「象って」という二つの言葉は並列します。同じ意味で捉えても差し支えないし、大体の場合はおなじ意味で捉えられているのです。
しかしながら、この二つの言葉を区別して解釈することもあります。象りと似せを別に捉える解釈もあるということです。象りというのは人間の意志と知性であるとする解釈があります。似せは天主の生命の内に活かす「聖寵」だという解釈もあります。聖トマス・アクイナスはこの解釈を肯定して、二つの言葉を区別して捉えても差し支えはないと説明します。
象りはある種の下書きであるかのように、我々は意志と知性があって、理性のある存在だということです。似ているところは、聖寵によって天主の生命を人間の霊魂に宿ることは可能であるということです。


以上は創造についてでした。
次は楽園でのアダムとイブはどうなっていたかについてです。
【後編】につづく


品級の秘蹟は救霊の秘蹟|主が司祭に託された権能、叙階の条件とは?

2021年05月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十五講 品級の秘蹟について



品級の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

さて、最後の秘蹟を見ていきましょう。品級の秘蹟であって、我らの主、イエズス・キリストが制定なさった秘蹟のなかでも素晴らしい秘蹟です。品級という秘蹟を通じて、我らの主、イエズス・キリストは人々をお選びになって召命したまい、司祭と成し給うのです。司祭の叙階というのはイエズス・キリストの代理者を任命し給うという意味です。言いかえると、司祭は地上においてイエズス・キリストの代わりに代理人として任命される人々なのです。我らの主はご自分の全ての権能を司祭たちに託し給うのです。これが品級の秘蹟なのです。

品級の秘蹟によって、聖職や司祭の義務を果たすための権能、それからこれらの使命を正しく果たすための恩寵が与えられます。
品級の秘蹟によって、我らの主は地上の特定の人々を選び出し給い、イエズス・キリストの代表者として、代理人として、イエズス・キリストご自身のみ名において、そしてイエズス・キリストの全権能を託し給い、この世に働くために品級の秘蹟を制定なさいました。

これが品級の秘蹟なのです。ここの品級はまたラテン語で「Ordo」で、秩序という意味もあって、つまり、秩序づけるという意味も色濃く出ています。言いかえると、各々の物事を各々の相応しい場にあるように努めること、これこそがまさに「品級」や秩序の役割です。そもそもの「秩序づける」という意味は、「それぞれの物事をそれぞれの目的地に向かわせて導き出す」という意味です。

要するに、「秩序づける」とは、品級の秘蹟のお陰で、司祭たちは霊魂たちを自分の目的地にたどり着くように導いていくという意味ということです。そして、霊魂の目的地は天国です。言いかえると霊魂の救霊を助けるのが司祭職なのです。
つまり、品級の秘蹟は救霊の秘蹟といえます。品級の秘蹟のお陰で、司祭たちは霊魂たちに救霊を与える秘跡となるのです。当然といえば当然です。


というのも、御(ご)聖体をお配りする司祭は天主ご自身を与えるということになるので、永遠の命である天主を与えるということであり、つまり救霊を与えることになるということです。思い出しましょう。御聖体の秘蹟は永遠の命の保証となるような秘蹟だからです。

また同じように司祭はお赦しの言葉を与えますがこれは、言いかえると、イエズス・キリストの御名において大罪を赦すという秘蹟です。つまり、救霊である聖寵を改めて与える秘蹟となるのです。同じように、終油の秘蹟を授ける時、最期を迎える信徒に救霊を与える秘蹟なのです。
要するに洗礼からはじまるすべての秘蹟はそもそも救霊を与えるために存在します。そして、品級の秘蹟のお陰で、他の秘蹟を授けられるようになるという意味で、品級は「救霊の秘蹟」なのです。

品級の秘蹟は他の秘蹟と同じように、我らの主、イエズス・キリストによって制定されました。トレント公会議は十分にこれを再断言しました。
そして、福音において我らの主は品級の秘蹟を明白に制定なさいました。最後の晩餐の時です。イエズス・キリストは使徒たちに向けて、「これを行え」と仰せになります。つまり、イエズス・キリストは使徒に命令を下します。そして行動せよ、「行え」という命令となります。

我らの主が使徒に与えた権能は本物の権能です。この権能はミサをもう一度行うことができる力をイエズス・キリストは使徒に与え給いました。ミサを再現する権能です。言いかえると、最後の晩餐の際、イエズス・キリストより、司祭たちはミサ聖祭を執り行い、再現する力を預かりました。「これを行え」と我らの主が仰せになりました。

我らの主は「これを記念せよ」とはあえて仰せにならないで、「これを行え」と仰せになられました。つまり、「私の記念のために、今の生贄をまた行え」ということです。ですから、イエズス・キリストは明白に記念することを命令するのではなくて、この犠牲を改めて執り行うように命令なさったのです。「記念せよ」と勝手に解釈するのはプロテスタントですが、福音書の原文に照らしても誤りですし、聖伝に照らしても誤りです。



それから、我らの主は福音の別の場面に、使徒に授洗する権能を与えて、授洗するように命じられました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ、28、19-20)
また使徒たちに直接、罪を赦す権能をも我らの主が与えられました。
「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人にはゆるされない。」(ヨハネ、20、23)

以上のような場面において、イエズス・キリストは使徒たちに品級の権能を与え給うたことを明白に示し給いました。

品級の権能には位階制があります。つまり、司祭になるために、いくつかの段階を登らなければならないのです。
最初の段階は「カトリック教会」という位階制の社会に入る段階です。入会する段階です。カトリック教会は完全な社会であり、他の社会から別にある社会であり、世俗社会に依存しないで、自ずから社会のすべての要素を持ち、成り立つ社会なのです。そして、教会という社会の構成員は「聖職者」と呼ばれる人々です。

たとえてみましょう。国家は完全なる社会であるとされています。ある国家には国籍を持っている人々がありますね。フランスならフランス人がいて、日本なら日本人がいます。このように、世俗社会ではないのですが、霊的かつ超自然なる完全な社会である教会も国籍のような「戸籍」の人々があります。受洗者はもちろん、カトリック教会の構成員となります。そして、その上、カトリック教会に「入籍」する人々は、つまり、法律上もカトリック教会の法律の管轄にある人々もいます。「聖職者」と呼ばれる人々です。

聖職者というのはカトリック教会に入籍する人を指します。カトリック教会に入籍するために、剃髪式という儀礼があります。剃髪された人は聖職者となって、つまりカトリック教会に入籍しているということで、完全に教会の法律の管轄に移る人となります。
それから、司祭職までに、いくつかの段階があります。このように、剃髪された聖職者は少しずつ昇級していって、素晴らしい司祭職に近づいていきます。これが品級の秘蹟です。つまり、上下関係があって、位階制のある品級の秘蹟です。

まず、下級四段があります。最初の四つの段階ですね。第一、守門の段があります。守門の段に就いたら、鐘を鳴らす権能が与えられます。そして、この段の名前が示すように、教会にいることが相応しくない人々を教会から追い出す仕事もあります。第二の下級の段は読師です。この段に就いたら、聖職者は儀礼の際に信徒たちのために聖書などを朗読する権能が与えられます。第三の下級の段は祓魔師です。

ご覧のように、段ずつにミサ聖祭に近づいていくようにされています。というのも、司祭職のすべて、いやすべてはミサ聖祭を中心にしているからです。祓魔師の段に就くと、悪魔などを祓う権能が与えられていますが、この段についても、「制限付き」の権能であって、上司の許可なしに悪魔を祓うことはできません。そして、第四の下級の段は侍祭です。侍祭の段に就いたら、聖職者は聖壇まで、ミサ聖祭の質料(パンと葡萄酒の小瓶)を持っていく権能が与えられています。

このように、段ずつに聖壇に近づいていきます。「門」から聖域の辺境のある「朗読壇」へ、ミサ聖祭を始めるため、聖壇の階段の下に行くための悪魔祓い、それから、聖祭を助けるために祭壇のすぐ近くまでパンと葡萄酒を持っていく侍祭という段階がありますね。

以上は下級の四段です。剃髪者、それから下級の四段の聖職者たちはスータン(法衣)を着用する特権があります。現代は、スータンの着用の義務は免除されて、残念ながら弊害が多いです。というのも、司祭は地上においての天主の代理人たる人になるので、この司祭職を外面的にも示す必要があります。イエズス・キリストは人々にご自分を公に表し給ったように、司祭も公に常に人々に自分の司祭職を示す義務があります。スータンはいつも着用する法衣で、儀礼の際、スータンの上に、サープリスと呼ばれる白衣を着用するのです。

それから、上級三段があります。司祭職自体は上級の第三段であって、それを準備するために第一と第二の段があります。
上級の第一段は副助祭であり、第二段は助祭です。



副助祭に就くと、取り消しのできない決定的な約束が聖職者によってなされます。副助祭の段に就くと、祭壇へ決定的に近づいていく、司祭職への予備段なのです。同時に、副助祭の段に就くと、永続的な貞節と独身生活を送る義務が出てきます。つまり、副助祭は永続的な独身生活を送ることを誓います。副助祭以上の段に就くと、もはや結婚することはできません。副助祭になるために、独身生活を送る誓いをしなければならないということです。

また、副助祭の段に就くと、毎日の聖務日課を唱える義務もあります。しない場合、副助祭の大罪となります。聖務日課というのは、我らの主、イエズス・キリストが祈っておられた祈祷を続けるということなのです。つまり、上級の段から、聖務日課を唱えることになりますが、副助祭、助祭、司祭は聖務日課を祈る時、我らの主の名において、お祈りするという意味となります。聖務日課はイエズス・キリストが祈っておられた祈りとして、カトリック教会の祈祷中の祈祷で、至上の効果を伴う祈祷なのです。

以上の義務の他、副助祭の段に就くと、祭壇のより近くにいる栄光を持つのです。それを表すため、儀礼の際、副助祭服を着用する特権もあります。
そして、ミサ聖祭の時、副助祭は水の一滴を聖杯に注ぐのです。つまり、小瓶を持っていく侍祭よりも一歩先にミサ聖祭の中心に近づいていきます。副助祭は水の一滴を聖杯に注ぐのです。この水の一滴は何を象徴するでしょうか?すべての信徒たちの生贄を我らの主の生贄に合わせて一致することを象徴する儀式なのです。

また、副助祭はミサ聖祭の間、書簡を詠う権能もあります。最後に、副助祭はミサ聖祭の間、司祭を助けるのです。
上級の第二の段は、助祭なのです。副助祭より上です。司祭職の一段前の重要な段です。助祭も副助祭と同じように、儀礼の間、助祭服を着用します。副助祭の義務を引き継いで、永続の独身生活と聖務日課があります。



助祭はミサ聖祭の奉献の部の時、司祭と一緒に聖杯とパテナ(聖皿)を献げるのです。それから、助祭は説教する権能もあります。また、福音を詠う権能もあります。それから、司祭の許可で、聖体をお配りする権能もあります。また、助祭は荘厳に洗礼を授ける権能もあります。以上は助祭の権能でした。儀礼の時、助祭はスータンとサープリスを着用する上、斜めに結ばれているストラをも着用しています。左肩からストラが垂れて、右腰に結ばれています。助祭です。

最後の段は司祭の段です。司祭職です。
司祭の祝別式によって、司祭となる聖職者は我らの主の代理人となり、この世での「代わりのイエズス・キリスト」となります。司祭職に就くと、生贄を捧げる権能があります。つまり、ミサ聖祭という聖なる生贄を捧げる権能を持ちます。また罪を赦す秘蹟をも授ける権能を持ちます。品級の秘蹟と堅振の秘蹟以外、すべての秘蹟を授ける権能があります。品級の秘蹟と堅振の秘蹟は司教のみ授けられます。

厳密に言うと、上級の第三段は二つの小段に分けられています。司祭職と司教職に分けられています。司教職は大司祭であるということで、司祭職を完全に持っている時、「司教」となります。ですから、司祭職と司教職は本質的に違うのではなくて、同じ段に属します。司教職に就くと、品級の秘蹟(神父を作ることですね)と堅振の秘蹟を授ける権能もあります。また、司教は聖杯、教会、聖壇、聖油、童貞などを祝別する権能をも持ちます。

その上、司教職になると、別次元の権能も追加されます。ここは要注意で、この追加の権能は司祭職に属する権能ではありません。司教になると、統治権、指導権もついてきます。ようするに、司教は第一、完全なる司祭職の権能を持ちます。そして、その傍に、司祭職に属しない別次元の「統治権」をも持っています。

この統治権は教える権威、指導する権威でもあります。この統治権は教皇から直接に与えられています。
言いかえると、この統治権によって、司教たちはカトリック教会の統治に参加することになります。言いかえると、司教は「教える教会」の一員となります。しかしながら、司祭の場合、統治権はないことから、「教える教会」の一員ではなく、教えられる教会の一員なのです。



以上の区別は要注意です。というのも、司教は事実上に司祭職の全権と重なって、統治権をも持っています。が、統治権は司祭職から来るのではありません。別次元にあって、統治権は上司(教皇)の意志によって与えられているのです。簡単に言うと、統治権はカトリック教会において統治する権威と権能なのです。

ですから、ある小教区の主任司祭には小教区において統治権がありますが、あくまでも司教に委任された形でその統治権を持っているということです。裏を返せば主任司祭の統治権を司教がいつでも取り戻せるということです。

助祭と司祭(司教職を含めて)の段では、秘蹟の質料は司教の按手なのです。
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それから、秘蹟の形相は按手しながら司教が唱える諸祈祷なのです。

品級の秘蹟を受ける条件は何でしょうか。だれが品級の秘蹟を受けられるでしょうか?もちろん、洗礼以外の他の秘蹟と同じように、受洗者でなければなりません。洗礼は「秘蹟の門」です。それから、男性でなければなりません。女性は品級の秘蹟を受けることはできません。女性はこのような秘蹟を授かったとしても、無効の儀礼となります。統治権は男性専用のことである他、イエズス・キリストが明白に男性にのみ司祭職を授け給いました。

他に、教会法はいくつかの妨げなどを制定しています。
簡単に言うと、もう一点だけを紹介しましょう。受洗者であり、男性である上に、品級の秘蹟に与るためは、召命もなければなりません。召命とは天主によって召し出されるという意味です。我らの主は明らかに使徒に次のことを仰せになります。「あなたたちがわたしを選んだのではなく、私があなたたちを選んだ」(ヨハネ、15、16)。

召命は神秘でありますが、天主が直接にある霊魂を選び給い、呼びかけ給うというようなことです。
司祭職に就くには、もちろん、身体上の能力は前提になります。いわゆる、司祭職を体力的に耐えられる身体がなければなりません。また、善徳を実践する慣習は深く身につけている条件もあります。要は、良き風習がなければなりません。残念ながら最近、カトリック教会において多くの風習の問題が出ていて、どれほど弊害があり、どれほどカトリック教会の汚れになり、どれほど信徒にとっての悲劇であるか、計り知れないのです。

また、司祭職に就くには最小限の知性もなければなりません。というのも、司祭は信徒に福音を伝えて伝道して、「よき知らせ」を説教する役割もあります。また、信仰を広めるだけではなく、誤謬から信仰を守る義務も司祭にあります。ですから、知性上のある程度の能力も前提です。

以上の条件は、わかりやすい条件ですが、その上、天主の召命、つまり、天主よりの呼びかけで「行け」という命令もなければなりません。それは神秘的なことというか、というのも、天主は物質的にわれわれに話しかけることはそもそもありませんので、この召命を示すために、叙階式の時、司教はそれぞれの受戒者を呼び出す儀式があります。

具体的に言うと、「召命があるのでは?」と考えている男性はまず、司祭に相談を受けてもらうのがよいです。
以上は、手短に品級の秘蹟をご紹介しました。この素晴らしい秘蹟のお陰で、地上において「Alter Christus」は作られています。つまり、イエズス・キリストの代わりに司祭はおられ、永遠の命をもたらすため、救霊のための秘蹟を授けていって、福音を伝道させる素晴らしい秘蹟なのです。
これで、公教要理の本講座は終了といたします。

婚姻の秘蹟の制定の瞬間:「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」

2021年05月09日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十四講 婚姻の秘蹟について



婚姻の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

さて、最後の二つの秘蹟を見ていきましょう。殊に社会を聖化するために、我らの主、イエズス・キリストは婚姻と品級を制定なさいました。もちろん、個人もそれで聖化されていますが。

まず、婚姻の秘蹟を見ていきましょう。
最初にいうべきことは、秘蹟である前に婚姻の制度は自然の制度であるということです。言いかえると、婚姻の制度は自然の現実であります。つまり、人間の本性から生じる社会制度です。要は、天主はアダムのための連れとしてエワを創造なさった瞬間、婚姻制度をも設け給ったのです。
「天主は、人間を祝福して仰せられた、「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」」(創世の書、1、28)



天主はこのように仰せになることによって、婚姻制度を制定なさいました。婚姻制度は自然上の現実です。自然上の契約でありまして、婚姻によって一人の女と一人の男が同意して(契約は成り立つために同意する要件はあります)、お互いに誓い合って、いくつかの義務と権利を受けいれることに同意します。権利といえば、必ず義務も生じて、権利と義務は離れられるような存在ではありません。

繰り返しますが、何よりもまず、婚姻制度は人間の本性より生じる自然の現実なのです。それを忘れてはいけません。人間の本性に属するのが婚姻制度です。また、婚姻制度は契約でもあります。言いかえると、正義を実現させるための制度ということです。では、契約とは何でしょうか?それらは条件などからなっていて、それにより特徴づけられています。

で、婚姻という契約の趣旨、その条件は「生めよ、ふえよ」ということです。天主が制定なさったのが婚姻の契約、婚姻の制度です。天主は婚姻の制度の条件を制定なさった以上、人間によっては変えられないのです。

そして、人間の本性に刻印されている婚姻制度として天主は制定なさいました。「生めよ、ふえよ」。
言いかえると、婚姻の約束は子供の出産と子供の教育のために制定された制度です。また、婚姻制度の目的は人間が世界に広まっていくためにあります。「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」。

もちろん、地上に満ちる彼方に、婚姻制度の究極的な目的は天国が満ちるために制定されました。以上は自然次元として、人間の本性に属する婚姻制度としての婚姻の説明でした。

我らの主、イエズス・キリストは婚姻制度をそのままに維持しながら、人間の本性の一部である婚姻の約束として維持して、人間なら自然権となる婚姻制度として維持しながら、秘蹟の価値まで、婚姻制度を高めることになさいました。これは素晴らしい神秘であり、美しいことです。

その結果、婚姻は秘蹟ともなります。自然次元の契約として変わらない婚姻制度ですが、その上、秘蹟ともなる婚姻なのです。つまり、超自然の婚姻の約束となります。自然次元としての婚姻の約束は変わりません。つまり、婚姻制度の目的はそのまま、「生めよ、ふえよ」となります。婚姻の本質はつまり変わりません。

しかしながら、婚姻の秘蹟になると、すでに正当だった婚姻の絆は聖化されています。言いかえると、婚姻は秘蹟になると、聖なる現実となって、侵すべからざる制度となります。婚姻の秘蹟は我らの主、イエズス・キリストと公教会との関係になぞらえます。その結果、婚姻の約束が立派に果たせるように、夫婦のために特別な恩寵が与えられています。



要は、婚姻の秘蹟というのは、夫婦のために天主が用意した特別の御助け、特別の恩寵だと言えましょう。このポイントはデリケートなので気を付けましょう。というのも、自然次元の制度である婚姻は同時に秘蹟にもなっているという点がデリケートです。ですから、男女の二人の受洗者は結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けなければなりません。言いかえると、受洗者なら、婚姻の秘蹟以外の形で結婚してはいけません。
しかしながら、洗礼を受けてない男女が結婚しようと思ったら、つまり一般的な言い方で言うと、異教徒の男女が結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けることは不可能です。洗礼を受けていないから、洗礼以外の秘蹟に与ることはできません。

婚姻の秘蹟を受けないからといって、異教徒の男女は人間の本性に刻印されている婚姻によって結婚する権利はそれでも残ります。「自然結婚」と呼ばれて、自然結婚としては成り立つということです。本物の結婚であるということです。結婚という契約はそれでも変わらないからです。婚姻の目的は子供の出産と子供の教育にあります。

カトリック信徒にとって、婚姻において二重の現実があります。自然次元の現実と超自然次元の現実があります。そして、カトリックにとって、この二つの現実は切り外せない現実なのです。つまり、カトリック信徒は「自然次元の結婚があるから、教会の秘蹟を受けずに結婚しよう」ということはできません。それはありません。

役所での手続きとしての結婚、無宗教の結婚、異教の結婚はカトリック信徒にとって、価値のないものです。たとえば、法律上の結婚はあくまでも国家から見た制度であって、カトリック信徒にとっては、何の価値はありません。というのも、天主にとってもカトリック教会にとってもこのような法律上の制度は価値のないことだからです。

ですから、男女の受洗者は秘蹟を受けないで役所で手続きしても、結婚していないということになって、内縁関係の罪を犯していることになります。カトリック信徒なら、このような法律上の結婚はもはや自然次元の婚姻にも相当しないということです。



一方、異教徒の男女は役所で結婚届けしたら、カトリック信徒と違って、本当に結婚していることになります。自然上の契約としての結婚で。逆に言うと、結婚届けしなくても、男女のカトリック信徒は婚姻の秘蹟を受けたら、天主の前に、本当に完全に結婚していることになります。このように、異教徒のために、自然次元の婚姻制度は残っています。しかしながら、受洗者なら、自然上の婚姻と秘蹟上の婚姻はセットとなっていて、切り外せない事実となっており、婚姻の秘蹟といった時は自然上の婚姻も含まれています。一致します。

婚姻の制度によって、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。婚姻の秘蹟の本質はそこにもあります。繰り返しますが、生殖するためのすべての行為に関して、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。最終的に生殖が実現されるかどうかを問うことなく、大事なのは完全に生殖のための行為である限り、許されている行為です。

婚姻の秘蹟はイエズス・キリストによっていつ制定されたでしょうか?はっきりとはわかりません。イエズス・キリストの最初の公活動、カナの婚宴の際に制定なさったという説が有力です。カナの婚宴の際、初めての奇跡をなさいます。本当に素晴らしいことです。カナの婚宴での奇跡はイエズス・キリストがどれほど婚姻を尊重しているかということを示すのです。



制定の時はともかく、婚姻の秘蹟は本物の秘蹟であることに関して変わらないのです。トレント公会議はこれを明白に再断言しました。

婚姻の秘蹟の質料と形相は「同意」なのです。発言される同意ですね。具体的にいうと、夫婦はお互いに交わし合う「はい」ですね。「○○、○○を妻として迎えることにしますか」「はい」、○○、○○を夫として迎えることにしますか」「はい」。

それから、この同意は有効になるため、証人たちの前、大声で発言されなければなりません。また、本物の同意でなければなりません。つまり、意識的に同意するという、言いかえると拘束されないで、自由に同意するという条件があります。また、その同意は相互でなければなりません。婚姻は契約ですから。
以上の条件が満たされることは、夫婦がお互いに相手に自分をあげることを示すのです。「生めよ、ふえよ」のために同意するということです。

婚姻の秘蹟の執行者は司祭ではありません。夫婦自身が婚姻の秘蹟の執行者です。言いかえると、婚姻の秘蹟に与る一人の男性と一人の女性が執行者です。残念ながら、以上のような当たり前のことをしつこく繰り返さざるを得ません。というのも、現代社会が進めようとする堕落めいた動きに抵抗するためです。同性の者の間に、結婚なんて存在しません。

これは当然のことです。婚姻という契約は「生めよ、ふえよ」のためにある制度ですから、男女でなければなりません。人類を増やすために生殖するためにある制度です。で、生殖する前提は男女の別です。また、男女はお互いに補い合うことは生殖の前提です。ですから、同性の者の間において婚姻の契約は文字通りに不可能です。文字通りに、反自然なのです。つまり、人間の本性に背くことです。そして、反自然のような行為は非常に深刻なことで、人間自体を破壊している罪なので非常に深刻なことです。

そういえば、自然に背くこれらの「法律」を推進している人々はどれほど堕落しているか、獣的な性格を持っているかは彼等を見るだけでも残念ながら明瞭なのです。
それはともかく、婚姻の秘蹟は「生めよ、ふえよ」という趣旨のために制定されているから、必然的にこの契約の対象者は一人の女と一人の男の間にだけ成り立つわけです。当然といえば当然ですが。そして、これは婚姻制度の本質でもあるので、また人間の本性でもあるので、いつまでも変わらない本質であり、変えられない婚姻制度なのです。

つまり、男と男の間に、女と女の間に結婚はありません。悲しいおどけにすぎません。悪魔のしわざであるといわざるを得ません。天主に対する深刻な侮辱です。このような反自然的な関係は結婚でもなんでもありません。

要するに、婚姻の秘蹟の執行者は夫婦自身なのです。婚姻の秘蹟は二つの特性を持っています。一夫一妻制と解消不可能性です。

一夫一妻制とは何でしょうか。一人のみの男は一人のみの女と結婚するという婚姻の秘蹟の特性が一夫一妻制です。一夫多妻制もなければ、多夫一妻制もありません。一夫一妻制です。我らの主、イエズス・キリストはこれを明白に再断言なさいました。そして、聖パウロも次のように書きました。「妻は夫の生きている間に彼に結ばれている」(コリント人への第一の手紙、7、39)。以上が一夫一妻制の原則です。

旧約聖書時代には、一夫多妻制が事実としてありました。天主は立法者であって、婚姻制度をも制定なさいましたが、天主は旧約聖書の時代、一夫多妻制を耐えて赦しておられました。しかしながら、我らの主、イエズス・キリストによって、決定的に一夫多妻制は永久に廃止されました。ファリサイ人の前の場面で、一夫多妻制を明らかに廃止なさったのです。

また、一夫多妻制の結果、良い実りはあまりなかったのです。アブラハムの例を見るだけでも、最初の妻、長男Ismaelイスマエルが生まれたAgarアガルを追い出さざるを得なくなりました。というのも、多妻の間の争いばかりとなって、不和の種を作るのが一夫多妻制だったからです。子供の教育にとっても妨げとなります。それはともかく、婚姻が秘蹟になってからは、厳格に一夫一妻制となっています。

第二の特性は解消不可能性です。解消不可能性は永続的な契約になるという意味です。永続という意味は夫婦の一人の死までという意味です。
婚姻の秘蹟によって結ばれた絆は非常に強いです。結婚した瞬間から、夫婦は離れることは不可能であるほどです。つまり、離婚はありません。国家は離婚を認めても、カトリックの結婚において離婚はありません。従って、国家の法に従って離婚しても、カトリックの秘蹟でいうと、離婚は無効で、結婚しているままです。



フランスのようなカトリックの国において離婚を合法化するなんて、宗教に対するとんでもない侮辱ですが、民間の裁判などが離婚を許可する判決をだしても、何の価値のない判決となります。カトリックの結婚は解消不可能であって、この世では一人も解消することはできません。天主の前に夫婦は夫婦のまま死ぬまで結婚しています。

つまり、国家の法律上理解したとしても、カトリック信徒は天主の前に再婚することは不可能です。そもそも、再婚することは不可能です。偽りの再婚をしても、内縁関係の罪を犯しているに過ぎないということです。

世俗の離婚は要するに無効で何の価値がありません。しかしながら、この制度は非常に邪悪で、危険です。まず、子供の教育にとって非常に悪い制度です。離婚の制度のせいで、多くの家族を不幸にして、子供の教育をめちゃくちゃにして、社会を破壊する制度です。というのも、家族こそが社会の基盤だからです。現在になって、離婚制度の悪しき帰結は目の前にあって、確認しやすいです。要は、カトリック信徒なら、離婚は無理であって、考えられない選択です。論外です。

場合によって、夫婦の一人がもう一人に離婚させられて、その状態を堪えざるを得ないことがあります。やはり、堪えざるを得ないことで、このカトリック信徒は再婚しないのです。相手のことを悲しんでも仕方がないだけです。

しかしながら、あえて裁判にいって、あるいは離婚を要求するようなことをしたら、カトリック信徒は大きな罪を犯すのです。これは大罪です。婚姻の秘蹟に対する直接の罪です。ですから、このような場合、他の秘蹟に与ることはできません。同じように、内縁関係にある人々は秘蹟に与れません。つまり、結婚していないのに同棲しているという結婚もどきことを知ってやっている人々は大罪を犯している状態なので聖体拝領することは不可能です。

場合によって、事情があって、夫婦は「身体の隔離」(結婚しているままですが、別居すること)が赦される場合があります。しかしながら、このような特別な措置を許可できる権威は司教のみです。要するに、夫婦は自分の判断で別居することを決めてはいけません。正当なる権威、つまり司教に「身体の隔離」を依頼しなければなりません。

婚姻の秘蹟を受ける条件は何でしょうか。妨げのない受洗者です。言い換えると、カトリック教会が決める妨げはありますが、妨げの種類は二つあります。一つ、禁止の妨げは結婚されたら有効であるものの違法の結婚という妨げ。もう一つ、無効を伴う妨げもあります。つまり、この場合、結婚してもそもそも結婚として成り立たないという結婚の無効を伴う妨げです。

この点は神学上のややこしい点で深入りしませんが、秘蹟や教会法とのかかわりと関係しています。
例を挙げましょう。カトリック信徒は異教徒と婚姻を結ぶのは、無効を伴う妨げとなります。ただし、場合によって特例もあり得て、つまり妨げがあっても秘蹟に与る許可が与えられることもあります。

許可が絶対にありえない妨げもあります。時間の問題で、細かい話を割愛します。
簡単に言うと、婚姻の秘蹟に与りたいと思うなら、二人の若者は司祭の下に行って、婚姻の秘蹟は何であるかを説明されて、結婚の準備をします。
そして、その際、司祭は当事者が自由に拘束なしで結婚しようとしていることを調べておきます。例えば、脅されて、あるいは拘束の下に結ばれる婚姻はもちろん無効です。それを事前に防ぐために司祭は確認する義務があります。
無効の結婚というのは、言いかえると、偽りの契約と似ていますね。つまり、契約として成り立たないので、結ばれても効果を伴わない契約ですね。無効の結婚も一緒です。要は、結婚したいと思うなら、司祭に伺うのがよいです。で、神父は結婚の要件などを確認しますので、安心できるでしょう。

婚姻の秘蹟の効果はどうなっているでしょうか?聖寵を増やします。そういえば、婚姻の秘蹟に与るために聖寵の状態も前提ですね。その上、夫婦の義務を立派に果たせるように助けて、婚姻の秘蹟による特別の聖寵も与えられています。



イエズス・キリストはこれほどまで憐み深いお方!|終油の秘蹟

2021年04月18日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十三講 終油の秘跡について



終油の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

前回、「死者の秘蹟とよばれる改悛の秘蹟」を見たのですが、次に、瀕死の人々のための秘蹟を紹介しましょう。
瀕死の人々のための秘蹟だからといって、死者の秘蹟ではなく、生者のための秘蹟なのです。というのも、終油の秘蹟を受けるためには、聖寵の状態にいなければなりません(霊が天主の生命の内に生きている状態)。
終油の秘蹟あるいは「病者の秘蹟」は聖寵の状態にある瀕死の信徒に授ける秘蹟です。終油の秘蹟は個人のための秘蹟の内の最後の秘蹟なのです。
そのあとの二つの秘蹟は婚姻と品級ですが、社会のためにある秘蹟となります。

さて、終油の秘蹟とはなんでしょうか?
病者の霊魂と肉身を助ける秘蹟なのです。他の秘蹟とおなじく、イエズス・キリストによって制定された秘蹟なのです。
ただし、具体的にいつの場面の時に制定されたかについては、なんとも言えないところです。福音書ではこの秘蹟の制定は記されていないからです。通説に従うと、イエズス・キリストの復活後に制定されたのだろうと思われています。

それはともかく、終油の秘蹟はユダの手紙において明記されています。その上、トレント公会議は改めて終油の秘蹟について秘蹟として断言しました。終油の秘蹟は本物の秘蹟であることは信条の一つであり、信じるべき信条です。イエズス・キリストによって制定された秘蹟です。
終油の秘蹟の場合、ユダの手紙においての痕跡があるものの、聖書に書かれたことというよりも、まさに聖伝において伝えられてきました。

要するに、病者の霊魂と肉身を助ける秘蹟なのです。聖油をもって司祭が瀕死の病人の身体に十字架を印すことから、「終油」と呼ばれます。つまり、死の審判に出廷する前の最後の塗油となるからです。

前にも見たように、最初の塗油は洗礼の際に行われます。第二の塗油は堅振の際に行われます。そして最後の塗油はこの終油の秘蹟の時です(司祭なら、第四の塗油になりますが)。

この秘蹟はある意味で最晩年の秘蹟だと言えましょう。ご覧のように、終油の秘蹟は救霊を得るために必要不可欠ではありません。洗礼が必要不可欠であることを見た通りです。洗礼を受けない限り、天国に行くことはできません。しかしながら、もちろん、終油の秘蹟を受けなくても、天国に行くことはできます。ただし、終油の秘蹟を受けることによって、多くの恵みを頂いて、逆に言うと、受けることができるものの、あえて受けないことにするのは大きな過失なのです。

もちろん、終油の秘蹟を受けられるように、司祭に頼むことは具体的に信徒たちにとってデリケートであり、頼みづらいところがあるのは事実です。というのも、終油の秘蹟を授けるような場合というと、瀕死である状態ということなので、親戚にとっても本人にとってもつらいです。地上の人生の終わりが近づいていることを意味します。また、同時に、永遠の命は近づいたことをも意味しますので、喜ばしいことでもあるのですが、人間的にみると我々、死すべきもの、罪深い者にとって、やはり、辛くて心配の時期でもあります。



さて、終油の秘蹟の質料は何でしょうか。遠因の質料は「病者の油」と呼ばれる油です。「病者の油」は聖木曜日の聖油のミサの際、司教が作って祝福する聖油です。「病者の油」をもって、司祭は病者の秘蹟を授けます。具体的に、病人の五感の器官に(目、耳、鼻、口、手、足)十字架を印します。そうすることによって、この五感によって犯された一生の罪のあとを除き、病人の罪の償いを得るための秘蹟です。

そして、目、耳、鼻、口、手、足に塗油しながら、司祭は次の言葉を言います。これは、秘蹟の形相となります。
「この聖なる塗油によりて神が汝を見、聞き、かぎ、触れることによりてなしたるすべての罪をゆるしたまわんことを」

で、具体的に、神父は聖油を指にこうやってちょっと取って、塗油していきます。まず、目に塗油しながら、「この聖なる塗油によりて神が汝を見ることによりてなしたるすべて罪をゆるしたまわんことを」それから、同じ言葉をもって、それぞれの五感に合わせて、耳、鼻、口、手と足に塗油していきます。毎回、それぞれの五感によって犯された罪の赦しと償いを希う祈りとなります。

司祭の塗油とその言葉、終油の秘蹟の中心部分となります。そうしながら、司祭は天主の慈悲があるように祈ります。
終油の秘蹟を受けた人々の証言によると、皆「受けてから、内面的に静謐な状態、安泰となった」といっています。これは間違いのないことです。終油の秘蹟を受けていないかぎり、認識しづらいことだと思いますが、終油の秘蹟を授けた多くの司祭たちの経験に照らして、皆、同じく証言しています。終油の秘蹟を受けてから、病人は安泰な状態となって、また「死ぬ覚悟ができた」といえるようになります。

それは、かなり印象に残る現象です。終油の秘蹟によって、恐ろしい死に対して、瀕死の信徒は穏やかになり、落ち着き、時に死を迎える喜びを得られます。つまり、終油の秘蹟によって、病人は毅然となりえるというか、強い姿勢で死を迎えて、また喜びをも得るというか、少なくとも霊魂は静謐になり安泰となります。終油の秘蹟の執行者は司祭です。

しかしながら、終油の秘蹟を受ける人には条件があります。洗礼者であり、分別がついた信徒(つまり、罪を犯しうる年齢になったという意味です)である条件もあります。つまり、一歳の赤ちゃんは死にそうになっても、終油の秘蹟を受けないのです。というのも、一歳の赤ちゃんは罪を犯せないし、既に洗礼によって赦されている原罪以外、罪を犯していないので、終油の秘蹟は不要です。(犯された罪の赦しを希う罪はないということです)。

そういえば、このような幼い子供は死んだときの葬式のミサは黒ではなく、白で、喜びに満ちている典礼です。というのも、洗礼者の幼い子は天国に行くのです。洗礼を受けたまま、罪を犯していないから、赤ちゃんの霊魂は清いからです。

要は、終油の秘蹟を受けるには、洗礼者であること、分別があること(罪を犯し得る状態にあるという)、それから、第三の条件は、深刻な病気になっていること。言い換えると、死に至らせる病気があるということです。もちろん、すぐ、この病気で死ぬことはなくても、終油の秘蹟を受けられます。ただし、死に至らせる病気である条件があります。この意味、いずれか必ず死ぬからとって「生きている」ということは病気ではないのですね。

それはともかく、たとえば、重い癌にかかった人とかは終油の秘蹟を受けられます。いわゆる、癌の場合、まだまだ最期に全くなっていないとしても、終油の秘蹟を受けることはできます。「霊魂と肉身を助ける」効果があります。ただ、同じ病気で、二度と、終油の秘蹟を受けることはできません。しかしながら、いわゆる、病気から治って回復して、そのあと、もう一度病気なったら、もちろん、終油の秘蹟を受けることはできます。

終油の秘蹟を受けるために、ぎりぎり、死ぬ直前をまって、最期を待つことは好ましくないことです。これは大事なことです。具体的に、その時が来たら覚えていただきたいと思います。最期がいつなるかは、結局誰も知らないので、終油の秘蹟を受けることを遅くしすぎるのはだめです。あと、昏睡の状態になってしまった時、終油の秘蹟を受けることもできませんので、大変なことになります。ですから、このようなことにならないように、あまり待たないで、終油の秘蹟を受けましょう。

司祭は、終油の秘蹟を授けに来る際、その前に告解の秘蹟を授けます。そして、聖体拝領をもさせます。意識を失っている人は残念ながらも告解することはできないわけですよ。いつもミサに通っている信徒なら、それでも改悛の徳を持っていることに期待して、お赦しを頂ける状態にあることに期待されますが、やはりそれでも弊害があります。

しかしながら、あまりミサに与っていない信徒なら、改悛の徳を得るかどうかは非常に微妙な場合、どうなるかは大変でしょう。その場合、意識を失ったなら、司祭が来てもあまり何もできないわけです。信徒の内面的な状態に関して、司祭は何ともできないからです。



ですから、自分が大変な病気になったらぎりぎり最期まで待たないで、終油の秘蹟を受けましょう。また、自分の親戚が重い病気になったら、その人の最期を待たないで、しつこくても、親戚が死をよく迎えられるように助けましょう。準備しましょう。いずれか皆、死ぬので、親戚に対してなるべく早く司祭の訪問があるように助けましょう。

繰り返しますが、司祭としての経験からすると、終油の秘蹟を受けるお恵みは非常に大きいです。証言は数え切れないほどに多いです。いや、司祭の親戚だけの話でも、よく経験していることです。親戚に、終油の秘蹟を授けたら、本当にお恵みが多いです。

終油の秘蹟の効果は二種類があります。肉体に関する効果もあれば、霊魂に関する効果もあります。

肉体の効果といえば、病気による苦しみを和らげるほか、場合によって、天主のお望みなら、健康を戻すこともあります。
経験に照らしても、五・六回ぐらい、終油の秘蹟を受ける信徒もいるぐらいです。毎回、回復して、時に、終油の秘蹟のお陰で治ることもあります。それは天主がお決めになることで、天主のみ旨のままに。もちろん、このようなことは自動的ではないし、しかもそれほど重要なことではないのです。大事なのは永遠の命を得ることです。我々は地上にまだ天主のご用があったら治し給うことがありますが、そうではなかったら、天に行けます。

そして、霊魂に関する効果は罪の赦しと償いの効果があります。小罪も、告解で忘れられて告白し損なわれた大罪も赦されます。そして、霊魂を安心させて、力を与えて強くさせます。最期を迎えるとき、断末魔の苦悶がありますが、その時、悪魔の攻撃があります。それに備えるために、終油の秘蹟は霊魂を毅然にさせておきます。最期の時こそ、悪魔は一番暴れるわけです。というのも、どうしてもその霊魂を地獄に落としたいわけだから、最期の時に、我々の主からその霊魂を奪いたいわけです。で、終油の秘蹟を受けることによって、死ぬ覚悟と死ぬ強さを霊魂に与えられています。司祭なら、だれでも、終油の秘蹟を受けてからの霊魂の新しい毅然な態度を証言できるかと思います。

以上、終油の秘蹟をご紹介しました。天主という裁判官の前に出なければならない霊魂に安泰と毅然さを与えるのです。


告解に行くための手引き

2021年04月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 百二十二講 告解に行くための手引き



告解に行くための手引き
Gabriel Billecocq神父

前回は、改悛の秘跡をご紹介しました。今回は改悛の秘跡において、告解に行く者が行うべきことをご紹介したいと思います。
前回見たように、改悛の秘跡の遠因の質料は、洗礼を受けてから犯された罪、とりわけ大罪ということになります。
それに加えて、改悛の秘跡の遠因の質料は悔い改める者の三つの行いからなります。言いかえると、改悛者はそれらの三つの行いを実践して初めて、改悛の秘跡は効果があることになります。

その内の一つは内面的な行為であり、残りの二つは主に外的な行為となります。
具体的には、改悛するための三つの行為は次のようになっています。
第一、痛悔、あるいは遷善の決心です。
第二、告白です。
第三、償いです。
あえて言えば、告解前、告解中と告解後という区別で、殆どこの三つの行為と捉えて良いかもしれません。殆どですけど。

最初に痛悔という行為があります。この行為こそが一番大切です。内面的な行為でありますが、改悛の秘跡の基盤となるのがこの痛悔です。そして、痛悔はずっと続くようにすべきであり、本来ならば告解の前中後だけではなく、人生においてずっと痛悔の心を持つべきです。というのは、痛悔というのは改悛する、悔い改めるという徳となるからです。

では、痛悔あるいは遷善の決心とは何でしょうか?痛悔とは自分が罪を犯したことに対する内面的な痛み、またもう二度と罪を犯さないという断固たる決心をして、これらの罪を忌み嫌うということです。

第一、痛悔は内面的な痛みです。つまり天主を侮辱したことから来る痛みです。天主の良さに背き、その善さを見捨てたことから来る痛みです。罪を犯したことによって天主に背を向けたことから来る痛みです。罪とは天主から背を向けるという意味だからです。

痛悔とは内面的な痛みなのです。つまり、涙を流しても物足りないものです。こういった外面的な痛みだけではありません。内面的に深く悲しむことを意味します。そういった痛悔に至るためには、「告白の祈り(Confiteor)」を捧げるのがよいです。また、告解に行くまえに、詩編の第50、「Miserere」を読むのも良いでしょう。この詩編はダヴィド王が三重の罪といってもよい罪を犯した後にダヴィドが唱えたのです。

ダヴィド王はまず、視線において罪を犯しました。つまり自分の妻ではない女を欲しがったという罪を犯しました。それから第二の罪、ダヴィド王はその女と不倫関係となって、その間に子供がうまれました。で、不倫の結果に生まれた子供を見て、ダヴィド王が女の夫を殺させました。第三の罪です。



そのあと、ナタンという預言者はダヴィド王を厳しく戒めに来ました。天主はダヴィド王とその民を厳しく罰しました。その結果、ダヴィド王は深く悔い改めましたが、その時、詩編第50という美しい祈りを作りました。「天主よ、慈悲によって私を憐み、深い憐憫によって、私のとがを消し給え(Miserere mei, Deus, secundum magnam misericordiam tuam)」
この詩編をよむことをお勧めします。本当に美しくて、そしてこれを読むと内面的な痛悔をするための大きな助けとなります。要するに、天主を侮辱した後悔と悲しみという念を起こさせる詩編なのです。

痛悔には、罪を忌み嫌うことも含んでいます。これは、罪は天主の正反対であり、深く天主を悲しませて傷つけることであるということを理解しているからこそ忌み嫌うということです。また、天主を自分の霊魂から追い出す罪なので、罪を忌み嫌うということです。そして、痛悔の結果、罪を忌み嫌う結果、もうこんど二度と罪を犯さないという決心をして、遷善の決心ということも痛悔において含んでいます。
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Miserere mei
~~
告解という裁判所に出ても、痛悔を持たない者は赦しを頂けないことになります。いったい、痛悔していない罪を本当の意味で、赦すのは無理です。というのも、赦しを頂くためには、赦しを乞う前提がありますが、赦しを乞うためには痛悔する必要があります。いわゆる心を持って内面的に赦しを乞うために、犯した罪を痛悔して、忌み嫌って、もう侵さないように決心する必要があります。

「痛悔していない」というものが現れたら、赦しを乞うていないということになるので、当然、その場合、天主は赦しを与えることはできません。また、「回心しない。行動を改めない。同じ罪を犯すことにしている」というような態度で来たら、これは赦しを乞う態度ではないのです。というのも、もう、これから罪を侵さない決心をしないということは、罪を忌み嫌っていないということを意味します。

そして、罪を忌み嫌っていないということは、罪を愛着しているという意味です。従って、赦しを本格的に頂こうと思わないことになります。痛悔の心がない状態です。ですから、天主は赦しを与えようとしても、与えられるためには、赦しを乞うという前提がありますので、赦しを乞わなければ与えられません。それは悲劇的なことです。本当に。

ですから、痛悔の心になり、痛悔するように努力しましょう。告解に行くときはもちろんですが、告解の時だけではなく、常に痛悔するように努力しましょう。そうすると、告解に行くのも簡単になるし、赦しを頂くことも簡単になるし、またその効果も増えます。

というのも、思い出しましょう。改悛の秘跡によって永劫の罰は免れるとしても、限りある罰は残っています。で、罪を犯した分の限りある罰の多寡(たか=多い少ない)は痛悔の程度に依存しています。痛悔は磨けば磨くほど、限りある罰も減刑されます。ですから、毎日、寝る前に「糾明」して、反省して、自分の明かした罪を見つけて悔い改めるのです。



厳密に言うと、痛悔という時、二つの痛悔があるとされています。完全なる痛悔と不完全な痛悔です。

実際、完全なる痛悔を持っているかどうかを知るのは難しいです。それはともかく、不完全な痛悔というのは、いわゆる、罰と地獄を恐れているから、罪を忌み嫌うというような痛悔なのです。叱られることを恐れて、いたずらを後悔する子供と似ています。要は、父の罰がくるから、やったいたずらを後悔するという感じです。この後悔は正直です。本物の後悔です。本当に、罰してほしくないから、やったことを悔い改めています。しかしながら、完全なる後悔ではないということです。

痛悔も以上のような子供の気持ちと一緒です。しかしながら、不完全な痛悔だけでも、赦されるということです。天主は不完全な痛悔だけでも赦し給います。つまり、地獄を恐れているから痛悔しているというのが不完全な痛悔です。でも、改悛の秘跡が効くためには十分です。ご存じのように、我らの主は公生活の間、三年間、多くのお言葉を残しましたが、その内、「地獄」という言葉は非常に頻繁にお使いになっています。地獄に落ちるという罰、永劫の罰をおっしゃられ、イエズス・キリストは何度も我々を警告されたのです。

そして、それは良いことです。というのも、このような警告のお陰で、善き道から外れないとすれば我々は助かりますので、それは良いことです。親にとってはよくわかることだと思います。時に、悪をやるのならこの結果になるよということで、子供に警告してあげるおかげで、悪い方向へ行かないための助けとなります。

善き天主は我々をお創りになっただけに、我々の心理を深く理解してくださるので、その意味で、我々人間の性質に合わせておられます。ですから、地獄と永劫の実際に存在する罰を振りかざすことによっても、多くの霊魂は救われます。そういえば、地獄と永劫は実際に存在しますので、脅かすというよりも、警鐘を鳴らしてくださるようなもので、まさに警告してくださるのです。そうすることによっても、罪を悔い改めない場合、どういった目に合わされるかということ、つまり地獄と永劫の罰を見せることによって、我々の不完全な痛悔に誘ってくださるのです。

それはそれで、素晴らしいことで、救われるためには十分です。地獄に陥りたくないという不完全な痛悔をもつだけでも、告解に行って赦しを頂くのです。地獄を恐れることは非常に良い気持ちです。永劫の罰を免れたいという恐れの念は良いことです。聖書では、恐れの念は知恵に達するための第一歩だと記されている通りです。

それでは、完全なる痛悔とはなんでしょうか?完全なる痛悔とは霊魂が深く悲しんで、痛悔して、後悔していますが、今回は地獄を恐れているから悲しむのではなく、天主を侮辱したから、天主の言うことを聞いていなかったから、天主を悲しませたから、悲しくなるというようなことです。
要するに、天主を愛している気持ちから生じる痛悔です。

そういえば、相手を愛すれば愛するほど、相手を侮辱した時、その分、深く悲しみます。また、その分、深く後悔して、もう一度、愛する人が悲しまないように努力するということです。経験にてらしても、人間同士の赦しにおいてもこのようなことはわかることです。つまり、人が本当に痛悔しているのなら、いわゆる罰されるとかというよりも、やはり、悪いことをしたことを深く悲しんで気の滅入りという姿を見たら、「彼は本当に後悔している」ことがわかりますね。

たとえば、母を愛している息子が、母が悲しんでいる姿を見たら、耐えられないはずです。ですから、息子が母の悲しみの原因だったら、なおさら耐えられないことで、絶対に悲しませないように努力するはずです。というのも、母を愛しているのならそういう気持ちになります。天主に対しても同じです。

天主を愛すればするほど、天主の悲しみを見て、自分も悲しむようになります。そして、自分は天主の悲しみの原因であることがわかって、なおさら耐えられないことになって、もう天主を愛しているから、私はもう、天主を悲しませる罪を犯さないように全力を尽くすのです。このような痛悔は完全なる痛悔だと呼ばれています。

実際、このような完全なる痛悔に達するのは難しくて、本当に達しているかどうかはだれも言えないことです。しかしながら、達成さえしていれば、この完全なる痛悔はすでに赦しを得られるためには十分な条件ですが、その場合でも、告解に行く必要があります。
以上は、悔い改める者の第一の行いでした。痛悔でした。

改悛において、一番重要な行為は痛悔となります。痛悔はやはり、告解の時だけではなく、できるだけ、常に痛悔するように努力する必要があります。罪を犯さないためにも必要となります。改悛の徳の一環である痛悔だと言えます。ベネディクト修道士らは「悔恨」の徳と呼んでいます。

カトリック信徒は常に痛悔の徳を常に実践しているからといって、いわゆる悲しい人にならないわけですよ。ただ、罪の重さを知り、罪を犯すことによる弊害を知り、その分、罪を憎んで、侮ろうと常に努力します。それは悲しみとは別のことです。むしろ、カトリック信徒は赦されていることを知り、常に非常に喜んでいるのです。
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Miserere mei
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さて、悔い改める者の第二の行為は何でしょうか?告解そのもの実体です。つまり告白ですね。厳密に言うと、赦しの言葉を頂くため、自分が犯した罪を司祭に明かして咎めることです。罪の告白は司祭に言い表す必要があります。

具体的にいうと、改悛者は司祭のところに行きます。そして、跪きます。一般的に、信徒はこういいます。「神父様、多くの罪を犯したから、私を祝福してください。」あるいは、「神父様、私が犯した罪をよく告白するように、私を祝福してください。」

で、神父は祝福を与えます。この祝福は改悛者がよい告白ができるように聖寵が与えられています。

そのあと、並んでいる人々が少ない場合、改悛者は告白の祈りを唱えるのです。

そして、そのあと、罪を告白します。告白を準備するために、糾明するための善くできた栞(日本では公教会祈禱書)がありますので、それを参照するのがよいです。罪の種類などはリストされていて、良い糾明をするため、自分の罪を見つけるために助かります。なるべく、告白をよく準備しましょう。

大事なのは、改悛者は少なくともすべての大罪を告白すべきです。すべての大罪です。秘跡の質料なので、必要不可欠なのです。あと、告白の仕方ですが、罪を明かす時、簡素に明かしましょう。自分の罪だけを明かすので、他人の罪を言わないようにしましょう。また、事実通りに、正直に、慎みをもって明かしましょう。なるべく、大罪に関して、罪の数をも言いましょう。例えば、貞操の徳に背く行為をやった場合、その数あるいは頻繁さを明かすべきです。

たとえば、ミサに意図的に与らないことにした改悛者は何回、ミサに行かなかったことを明かすべきです。人を殺した者は何人を殺したか明かすべきです。大罪、つまり深刻な罪になると、その数をも明かすべきです。

もちろん、小罪を明かしてもいいですし、大罪がなくとも、小罪を明かすために告解にいくのが良いことです。ただ、罪を明かす時、必要な事情だけを言い表しましょう。いらない事情や細かいことは言わなくてもいいです。事情の説明は足りない場合、司祭は質問しますので、ご安心ください。



告白は無駄話ではありませんので、冗長になることは避けましょう。簡素で、手短にしながら、正確ではっきりとした言い方、すべての必要のことを言いましょう。つまり、すべての罪を明かしますが、罪だけを明かして、それ以上に言う必要はありません。いわゆる、罪と直接に関係ないその周りのすべての事情を言わなくてもいいですし、他人のことを問題にしなくてもよいです。言い訳もいりません。そうするために、例えば、次のような形で罪を明かすのがよいでしょう。

「神父様」。というのも、天主の代理人である神父に罪を言い表すから、「神父様」で始めるのがよいです。
「神父様、私が明かします。○○という罪を犯しましたので、私が私を咎めます」というような言い方でいいでしょう。簡素な形で、無駄話にならないようにかなり効果的だと思われます。ただ、言い訳しないようにしておきましょう。言い訳ではなくて、自分を咎めるということです。

もしも、大罪などはない場合、洗礼を受けてからの過去の大罪(つまり、すでに赦された大罪)を明かすのもよいです。
大事なのは、すべての大罪を明かすということです。もしも、やはり言いづらい罪がある時、どうしてもなんか言い出せない罪がある時、それは誰にもありますので、問題ではありません。ただ、その時、簡単に司祭に言いましょう。「神父様、罪を犯しましたが、どうしても言えなくて」、あるいは「明かしたいが、言いづらくて」

そして、司祭は穏やかに優しくて、質問したりすることによって、言えるようになるべく助けてくれますので、ご安心ください。またご遠慮なく、その助けを求めてください。大事なのは最終的に明かせるようになることです。こういった言いづらい罪を告白した暁には、どれほど、ほっとするか言い表せないことがありますので、本当にご遠慮なく、司祭の助けを。

逆にいえば、意図的に大罪を隠すことは、冒涜を犯す危険があります。言いかえると、告解の効果を失う危険に晒すという意味です。

そして、これはカトリック教会の素晴らしい点ですが、告解の際、告白されたすべてのことは厳格な秘密の義務が司祭にあります。この秘密の義務は絶対です。司祭の命が危険にさらされても、告解の秘密を守るべきです。司祭は告解の秘密を破るよりも死ぬべきです。(たとえば、殺人者がその罪を明かしても、司祭は裁判で証言してはいけません)

告解の時の司祭はあくまでも天主の代理人なのです。ですから、告解で聞いた物事について、天主だったかのように聞いたので、人間的な扱いはしてはいけません。言いかえると、告解で聞いたことに基づいて、告解の外に何かを判断するあるいは行動するのは絶対に禁止されています。
これらの保証はカトリック教会が設けたものですが、どれほどありがたいでしょうか!

あえていえば、改悛の秘跡においての司祭は本物のごみ箱です。ただ、罪を預かっているごみ箱ではなく、罪を潰して破壊するごみ箱なのです。言いかえると、底のないゴミ箱となるので、そこに罪を投げたら、罪は消えていきます。

ですから、自分の罪を明かすのは誰にとっても嫌なことですし、司祭を相手に罪を告白することも恥ずかしいし、年配の方が若い司祭を相手にしてでも、そういった不愉快な気持ちになることもあるのは普通なことですが、その時、こういった保証をおもい出しましょう。このような人間的な妨げを忘れましょう。司祭は司祭なので、誰であるかはどうでもいいことで、告解の時、司祭は底のないゴミ箱であり、罪を消していくための道具になります。天主が司祭という道具を通じて、罪を赦すのです。

要約しましょう。改悛者は告白します。罪を明かして、その重さ、種類、頻繁さなどを告白します。
そして、罪の告白が終わった時、次のような言葉で告白を締めるのがよいです。
「以上の罪を犯したことを明かして咎めて、また覚えていない罪や過去の罪をも咎めます。また、これらの罪の赦しを天主に希って、また、私はそれに値すると判断したら、神父様にその分の償いと赦しのお言葉を頂くように願います。」

そういえば、過去の罪、つまりすでに赦された罪を明かすのも可能ですし、いいですし、いわゆる、これらの罪への痛悔をより高めるために時によいことです。

そのあと、神父は一旦、改悛者にちょっと話します。激励なり、助言なり、慰めの言葉なり、警戒なり、時には痛悔はあるかどうかを確認するための質問なり。また、赦しを与えるために条件を付けることもあります。例えば、盗みだったら、盗まれた物を返す条件とか。あるいは、いわゆる罪の状態だった場合、もはやこの状態は続いていないことを確かめるようなこともあります。例えば、内縁関係にあったという罪だった場合、もはや同棲しないことを、内縁関係は終わっていることを確かめる必要があります。

そして、そのあと、司祭は贖罪のために、償いを改悛者に与えます。罪を犯したとき、必ず罪を償う必要があります。贖罪のためですね。
このように司祭は償いを与えます。もし、与えられた償いを果たすことは無理である場合、改悛者はその時、言うべきです。大丈夫の場合、そのままに受け入れます。

普通は、司祭が償いを与えてから、短い間を与えて、例えば「○○祈りを償いとしてやりなさい」あるいは「その日、ミサに与りなさい」といってから、改悛者はできない場合、例えば、その日に出張でとか不在のせいで、ミサに行けないのなら、簡単に正直に司祭に言いましょう。果たせない償いであることを知りながら、告解室を去るのはやはりだめです。

結局、償いを果たすことを拒む改悛者は罪を悔い改めないことを意味するからです。しかしながら、いわゆる、与えられた償いを果たすことは事情があって無理である場合は、話が変わります。その場合、司祭は別の償いにしてくれるから、正直に言いましょう。大事なのは与えられた償いを果たすことですから、事情があることもあるので。

そして、告白の最後は司祭がお赦しの言葉を与えます。同時に、改悛者は痛悔の祈りを言います(あるいは心の中に)。というのも、御赦しを頂くその瞬間、できるだけ痛悔であるようにするために、痛悔の祈りを唱えます。

「平和の内に行きなさい」と神父が言って告白は終わります。

告解のあと、償いはなるべく早く果たすべきです。できる場合、告解のすぐ後で果たしましょう。なるべくはやく「quam primum」と道徳者が言っている通りです。

償いは祈りの場合、やりやすくて、どこでもできますね。もうちょっと重い償いになると、それほど早く済めない償いもあるでしょうが、何か疑問があった場合、ご遠慮なく、司祭に聞いてください。償いは非常にありがたいです。償いを果たすと、心は軽くなって、そして限りある罰を消すためにも助けとなります。

以上は改悛の秘跡のために改悛者が行うべき三つの行為を紹介しました。
痛悔、告白、償い。

カトリックには、罰するためではなくて赦すための裁判所があります。そこでは憐みの判決しかなされません。

2021年04月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理 第百二十一講 改悛の秘跡について



改悛の秘跡について
Gabriel Billecocq神父

さて、次の秘跡をご紹介しましょう。洗礼、堅信、ミサ聖祭の次に、改悛と呼ばれる秘跡をご紹介しましょう。
「改悛」といった時、一般的に二つのことを指すのです。第一、いわゆる改悛という徳を指すことがあります。悔い改める善徳ということで、例えば、旧約聖書においてヨナは天主のお言葉を預かり、ニネベの人々へ改悛をしなければニネベは破壊されると告げます。同じように我らの主、イエズス・キリストは我らの改悛を求めておられます。これは単純に悔い改める善徳ですが、もう一つ、秘跡を指す時の改悛もあります。

改悛という善徳は徳ですので一つの習慣ですが、自分が犯した罪を憎み、これらを糺すように頑張る習慣なのです。言いかえると、改悛という徳を実践するということは、自分が犯した罪を嫌って、何かの犠牲あるいは施しあるいは苦行などをもってこれらの罪を償おうとしていて、そしてできるだけの用意と努力をしてもう一度、罪を犯さないようにしておく徳です。

改悛の秘跡において、もちろん改悛の徳が含まれます。というのも、改悛という徳を実践しないかぎり、改悛の秘跡を効果的に受けることはできません。

改悛という秘跡は秘跡なので、我らの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印号なのですが、改悛の秘跡をもって、洗礼を受けてから犯された罪を司祭が赦すことになります。要するに、改悛という秘跡によって、洗礼のあとに犯された罪が赦されるということです。
我らの主、イエズス・キリストご自身は罪を何度も赦されました。というのも、罪は天主への侮辱であるから罪を赦せる御(おん)方は天主のみです。侮辱を赦すためには侮辱された者こそが赦しえるとの前提があるからです。

そして、天主なる我らの主、イエズス・キリストはその意味で、すでに地上での人生の間、何度も罪を赦されました。例えば、姦通の女の場面では、イエズス・キリストは「あなたたちの中で罪のない人がまずこの女に石を投げよ」(ヨハネ、8、7)。そして、そこにいた人々は皆、去っていきます。そして、我らの主と姦通の女は残って、我らの主は「あなたを罰した人はいなかったか」と尋ねます。「女は「主よ、一人も」。そこでイエズスは「私もあなたを罰しない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」」(ヨハネ、8、10-11)つまり、この場面で、我らの主は罪を赦されます。聖マリア・マグダレナの場面も有名ですね。我らの主の下へ泣きに来た場面です。「この人の罪、その多くの罪はゆるされた、多く愛したのだから。」(ルカ、7、47)

要するに、我らの主、イエズス・キリストは罪によって侮辱された天主であるがゆえに、罪を赦す力があります。そして、罪を赦す力を使徒たちにイエズス・キリストは託しました。その力、その根源を託したことによって、改悛の秘跡を制定なさいました。その結果、司祭はイエズス・キリストのみ名において、その代わりとして、罪を赦す力があります。

改悛の秘跡の制定は我らの主の復活のあとにありました。我らの主は使徒たちの前に現れ給います。「あなたたちに平安」(ヨハネ、20、19)と仰せになります。これはまさに復活の実りです。「彼らに息を吹きかけて、『聖霊をうけよ。あなたたちが罪を赦す人はその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」といわれた」(ヨハネ、20、22-23)

この場面は改悛の秘跡の制定であって、我らの主は使徒たちに罪を赦す力を与え給いました。改悛の秘跡は必要不可欠です。特に大罪を犯した人ならなおさらです。言いかえると、霊魂の生命が亡くなるほどの罪を大罪というのですが、霊魂の生命を失った人は、言いかえると聖寵の生命を失った人は改悛の秘跡を通じてのみ、霊魂の生命を取り戻せるわけです。

あえていえば、これこそはプロテスタントの不幸なのです。というのも、プロテスタントは改悛の秘跡を廃止しようとしました。全力で。いまも、昔も、プロテスタント教徒の証言がありますが、カトリック信徒に対して「この秘跡があって幸せだなあ。そのおかげで良心にやましいところがないから羨ましい」といったようなコメントが多いのです。

プロテスタント教徒に言わせれば「私は直接に天主に罪を明かすから」といっていますが、実際に罪が赦されたかどうかという確信を持てないわけです。しかも残念なことに、基本的に改悛の秘跡を通じてのみ罪が赦されます。というのも、天主ご自身は改悛の秘跡を通じて罪を赦すことになさいましたから。こういった秘跡を制定なさったのも天主のこの上ない善良をしめしています。というのも、我々人間は身体をもって、感覚があって、霊的な現実に触れるためにも、物質的な、感覚的な媒体が必要となります。

それだけではなく、更に言うと、人間には確信を得ない限り、落ち着かないという性質があるため、よく生きるためには確信が必要です。秘跡はそういった確信を与えてくれます。改悛の秘跡の印号は実現された途端、秘蹟の効果は確保されているというようにイエズス・キリストは秘跡を制定なさいました。

このようにして、司祭は秘跡の時、罪を赦す印号を与える瞬間、罪は赦されることになり、そして天主の友好関係を失っていた状態であれば、天主との友好関係を取り戻すことになります。要するに、改悛の秘跡は何よりも素晴らしい秘跡です。また、この上なく、天主のいと高き慈悲を示している秘跡です。

改悛の秘跡の別の名前は「死者の秘跡」とも呼ばれています。なぜでしょうか?死んでいる霊魂、言いかえると天主の生命、聖寵を持っていない霊魂は文字通りに死んでいるから、改悛の秘跡に与って、初めてこれらの死んでいる霊魂は天主の生命に復活するという意味です。ですから、「死者の秘跡」と呼ばれています。

また、以上で分かるように、改悛の秘跡は必要不可欠です。改悛の秘跡に与らないと、基本的に天国に行くことはできません。天主との友好関係を持たない人は、永遠に天主の内に生きていくことは一体どうやってあり得る話になるでしょうか?あり得ません。大罪を犯している人は天主を自分の霊魂から追い出している状態ですから天主のおられる天国に行けるわけがありません。

それで、良き天主はそのいと高き善良さを示して、罪を赦すための秘跡を制定なさいました。改悛の秘跡はイエズス・キリストの十字架上の犠牲から生じます。十字架上の悪人の話を思い出しましょう。彼はイエズス・キリストとともに十字架上につけられたのですが、彼は少なくとも重い罪を犯して十字架刑に処されたことが知られています。その悪人自身が明かします。「われわれは行ったことの報いを受けたのだから当然だ。だがこの人は何の悪事もしなかった」(ルカ、23、41)と悪人が求めます。我々の主は何もしなかったのに十字架上におられるということをその悪人がはっきりと断言しますが、次にその悪人が言います。「イエズス、あなたが王位を受けて帰られるとき、私を思い出してください」(ルカ、23, 42)。そして、我らの主は答えます。「真に私は言う。今日あなたは私とともに天国にいるだろう」(ルカ、23,43)

十字架上の犠牲はなんて素晴らしい実りをもたらすのでしょうか。その悪人の罪が赦されたほどの犠牲。そして、悪人はそのあと平安のうちに死んでいきます。直接、十字架上の肉体のイエズス・キリストに罪の赦しを頼んで赦されたからです。

ですから、改悛の秘跡は洗礼を授かってからの罪人のための秘跡です。洗礼を受けないと改悛の秘跡を受けることはできません。
罪人は赦しを希って、告解室へ跪きにいきます。

他の秘跡と同じように、改悛の秘跡は物質的な印号なのですが、質料と形相からなっています。改悛の秘跡の質料は何でしょうか?遠因の質料は洗礼を受けてから侵されたすべての罪なのです。そして、特に大罪が対象となります。ですから、告解に行った時、一番優先に大罪こそを明かすべきです。もちろん、義務化になっていなくても、小罪を明かすことも大事ですが。

それから、近因の質料は罪人の「三つの行為」と呼ばれるものです。三つの行為に関する詳細は次回の講座の時にご紹介します。簡単に言うと、罪人の三つの行為は「痛悔」があり、「告白」があり、「償い」があります。詳細は次回の時、ご紹介します。要するに、質料は大きく言うと、告解の時に明かすべき罪です。

では、改悛の秘跡の形相は何でしょうか?つまり、我らの主の御血が霊魂を清めた、秘蹟が実現された具体的な印はなんですか?形相は司祭が与える「赦しの言葉」なのです。神父のみ、赦しの言葉を有効に与えられます。もちろん、司教も司祭なので、赦しの言葉を与えられます。しかしながら、助祭も他の聖職者も赦しの言葉を与えることはできません。信徒ならなおさらのことです。改悛の秘跡を預けるためには、司祭でなければなりません。

さて、「赦しの言葉」は何でしょうか?イエズス・キリストの名において、相応しい状態にある罪人のために、神父が述べる次の言葉です。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて汝の罪を赦す」というお言葉です。「Ego te absolve a peccatis tuis, in nomine patris et filio et sipiritus sancti」という赦しの言葉です。司祭が罪を赦せるのは天主より直接に与った権限にすぎません。

しかしながら、以上の赦しの言が発せられた途端、実際に天主が罪を赦したということになります。そういえば、「赦しの言葉」を言いながら、司祭は罪人に十字架の印を切ります。罪の赦しは十字架のお陰で実現された、また十字架においてこそできるということを示すためです。「お赦しの言葉」が発せられる途端、天主の生命を失っていた信徒であれば、天主の生命をその瞬間に取り戻すのです。

形相はつまり決まったお言葉ですが、「判決」とも呼ばれます。天主の判決です。「赦したぞ」という処分。ですから、告解室を指して「裁判所」とも呼ばれています。ただし、罰するための裁判所ではなく、赦すための裁判所です。憐みの裁判所です。告解という裁判所においての判決は必ず「御憐みの判決」となります。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて汝の罪を赦す」。

正義を全うするための裁判所もありますよ。それは皆、死んだ瞬間、出廷する裁判所です。

ですから、とりあえず、御憐みの裁判所は天主によって用意されているので、頻繁に行きましょう。それを活かしましょう。天主は改悛の秘跡という具体的な形で、折角、無償に御憐みを我々に与え給うという業はなんて素晴らしいことで、それはしかも簡単なことなのです。
もちろん、自分の罪を明かすのは不愉快ですが、天主のゆるしを得るためなら、安いことでしょう。そして、死後の裁判の時、罰を避けるためなら、非常に安いことでしょう。

改悛の秘跡のお陰で、あらゆる罪が赦されるのですよ。「赦すぞ」という判決しか出られない裁判所なので、我々、罪人はどうしても行きたくなるでしょう。赦せない罪なんて存在しないので、どんな罪でも赦されます。

さて、改悛の秘跡の効果は何でしょうか?以上を踏まえると簡単です。第一の効果は、改悛の秘跡は罪人が痛悔している大罪と小罪を取り消すのです。思い出しましょう。罪という時、二つの現実が重なっています。罪には過失があります。つまり、天主に対する侮辱の行為。そして、その行為に対する罰も決まっています。つまり、罪を償うために払わなければならない対価です。

告解の「赦しの言葉」はすべての過失をチャラにします。取り消すのです。その借りをないことにします。天主は我々が犯した罪をと忘れてくださいます。つまり、告解のあと、何もなかったかのように一からやり直せるということです。これは素晴らしいことです。というのも、我々は誰かと喧嘩して仲悪くなった時、すべてを赦して、忘れて、何もなかったかのように一からやっていくことは非常に困難でしょう。人間って、すぐ恨みを持ってしまうし、「赦してあげる」といっても、実際に「が、忘れていない」ということは多いでしょう。一方、天主はすべての罪を本当の意味で赦し給います。罪を取り消して、忘れてくださいます。



あとは、罪を犯したせいで生じる罰に対して、どうなるでしょうか?そもそも、罰というのは侵された罪の深刻さに相当しています。つまり、罪が重ければ重いほど、罰も重くなります。で、大罪の場合はどうなるでしょうか?大罪というのは霊魂から天主を追い出す罪であって、霊魂の生命を失わせる罪です。この場合の罰は永劫なのです。つまり、地獄です。で、「お赦しの言葉」のお陰で、この永劫という罰は取り消されます。言いかえると、本来、そのままに死んだら地獄に落ちそうになっていた霊魂は改悛の秘跡によって、天国への道に再び乗せられたということです。これもなんとも素晴らしいことです。もう、我々が地獄に落ちることに値するのに、その永劫をチャラにしていただけるなんて、どれほど素晴らしいことでしょう。

さて、永劫は大罪に伴う罰で、まさに地獄ですが、改悛の秘跡によって取り消されます。が、減刑というか、それでも償う必要はありますので、時間的に限定されている罰が残ります。そういった、時限の罰も改悛の秘跡によって多少にかかわらず取り消されることがありますが、どれほど取り消されるかは残念ながらだれもわかりません。というのも、時限の罰の取り消しは、我々の痛悔と直接につながっています。慎み深くて、誠実に深くに痛悔すればするほど、罰は減らされています。残念ながらも、これは心の中の状態なので、それを具体的に図ることは困難で何とも言えません。また次回、ご紹介しますが、そういうことになりますので、痛悔という徳をできるだけよく実践していくこと習うことが大事です。

それはともかく、時限の罰への取り消しの程度は天主のみがご存じです。で、死んだとき、時限の罰は完全に赦されていない場合、煉獄に行かざるを得ません。煉獄で、時限の罰を受けて、その償いを果たします。


そして、改悛の秘跡の効果は永劫の罰が赦される分、霊魂においてあたらためて聖寵が入っていきます。で、聖寵を失っていなかった罪人も改悛の秘跡によって、その聖寵は増やされています。

また、改悛の秘跡は過去の死んでいた功徳を復活させます。また、いくつかの秘跡上の聖寵を受ける特権を与えます。特に、明かされた罪を再び侵さないように抵抗するための聖寵を頂ける特権を与えてくれるのが改悛の秘跡です。

そして、それよりも、改悛の秘跡は平安を与えます。安泰と静謐を与えます。これはなによりも素晴らしいことです。プロテスタント教徒なら、あるいはカトリックの近代主義者は「天主に直接に告白する」といっても、結局何の平安を得ることはありません。罪人は告解に行って、犯した罪を明かす苦労を遂げたら、告解室から出ると平安になります。「平和の内に行け」と神父が告解の最後の時に言う通りです。で、しばしば、告解室から出ると、この平安を感じることがあります。

要するに改悛の秘跡は非常に素晴らしいです。この秘跡を活かさないことは勿体ないというほかありません。

新しいミサ(パウロ六世のミサ)について 【その2】

2021年03月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十講 新しいミサについて



新しいミサについて
Gabriel Billecocq神父

さて、新しいミサについて、手短に具体的にご紹介しました。欠陥だらけのミサです。なぜでしょうか? まず、変更箇所は数えきれないほど多いです。また、朗読と大声での言葉は過剰に重視されています。それよりも、少しずつでしたが、いくつかの重要な現実を取り消して、その代わりに他のことを重視するような典礼になっていきました。つまり、贖罪などの教義を隠すかのようにされていて、その代わりに教義でもないことを過剰に示している典礼となっています。これこそ、新しい典礼の根本的な問題です。

例えば、罪に関する教義を見ましょう。司祭が罪人である事実を想起する儀礼は聖伝ミサにおいて多々あります。多くの清め、告白も、祈祷も、自分を咎める祈祷もいっぱいあります。一番目立つのは、階段祈祷でしょう。階段祈祷はさらに信徒も罪人であることを認めて、赦しを願うわけです。

これらのすべての祈祷は取り消されたか(階段祈祷がそうなのですが)、見えないようにされたか、少しずつ、なくされてきました。
また同じように、霊的な戦いの意義と促進を表す儀礼と祈祷も聖伝ミサにおいて多々ありました。が、新しいミサはもはやこのような戦闘精神は消えました。

例えば、1969年の段階だけでも、告白は残っているものの、天主の赦しの儀礼は取り消されました。なんか、許されなくても良いかという印象をあたえるような。階段祈祷の時、司祭がお辞儀しながら告白して、お赦しを願うのですが、これらの儀礼なども取り消されました。また、奉献の部のところ、「Suscipe Sancte Pater(聖なる父、全能永遠の神、不肖の下僕である私が、活けるまことの神にささげるこの汚れなきホスチアを受け入れ給え)」という祈祷も取り消されました。ここで、司祭は自分が非常に罪人であることを認めているのですが、それも取り消されました。また、現世利益とこの世を侮蔑する祈祷もすべて取り消されました。また、霊的な戦いに関するすべての祈祷も取り消されました。

また贖罪についてはもはや何も言われていません。つまり、十字架上の生贄によって全人類が贖われたということを曖昧にさせて、もはや贖罪はなくなって、「救済」という言葉を使うのは殆どなくなりました。

いとも処女なる聖母マリアの永遠の童貞性に関する祈祷なども取り消されました。諸聖人の通功に関するすべても取り消されました。王たるキリストとして、キリストの王としての統治も完全に取り消されました。地獄と天国、つまりあの世での我々の目的地についてのことも完全に取り消されました。周知のように、死者に関する典礼や祈祷も大幅に変更させられてしまいました。

そういえば、死者のための典礼は新しい典礼を指して「もはや埋葬ではなく、天葬だ」とからかわれることがあります。つまり、死者のために祈らなくても良いような典礼となっていて、煉獄なども完全に取り消されて、地獄に対するもっともな心配を慰める祈祷などもすべて取り消されました。その代わりにあえて言えば「ばかばかしく優しい神」という誤った印象が与えられています。それは深刻です。天主を侮辱するようなことですから、また、もはやその侮辱すること自体がわからなくなったら、天主はなんであるかを全く理解しなくなっているということを意味します。
以上のような典礼の変更のせいで、結局、このように信仰も変わります。
ある祈祷を取り消して、ある動作を取り消して、ある儀礼を取り消すと、このように信仰は変わるのです。



現在、新しいミサを見たら一瞬で感じることです。ミサの構成は不安定で乱れていて、二週間の間でも変わることがなくはありません。また、祈りは全くなくなっていて、長い「騒音」になっています。うるさくて黙想もできない、祈ることもできないという信じられない状況にあります。

私はパリの中心にあるSaintNicolas du Chardonnet(サン・ニコラ・シャルドネ)教会に任命されていますが、聖伝ミサが初めての方が、頻繁にいらっしゃいます。ときどき、本当にいきなり、教会の前を通行していたら興味をもったので、さりげなく入って見たという方もいます。すると、皆さん、最初の印象はおなじです。「ここは黙想に耽っているなあ、祈っている空気、聖域に入った感覚、天主の実存を感じる場所」といったようコメントばかりです。

このような印象は感動でも感情でも関係ありません。信仰は感情ではないからですが、単純に聖伝ミサのすべては、聖伝ミサの一つ一つの言葉と動作まで、万象の主である天主、全能永遠なる天主、創造主なる天主を外的に表しているからだけに過ぎません。

聖伝の生贄、ミサ聖祭の典礼のもう一つの立派なところは、天主の恩寵を得るためにどれほどわれわれは罪人であること、卑劣であること、そしてどれほど平伏してつつしんで、天主のみ前に出なければならないという必要性を強く教える典礼であるということです。また、どれほど強く救霊を得るために戦う必要があるということです。これらの根本的な要素が取り消されたのは非常にひどいことです。犯罪的なことです。

また、新しいミサでは「信徒の参加を増やす」という方針の下に行われたのですが、その裏で、「司祭」を貶(おとし)めることになりました。司祭職の本当の意味を曖昧にさせて、なにか集会の司会だけをやっているかのような典礼になっています。



また新しいミサにおいては、もはや天主へではなく、信徒へ向かっています。天主に生贄を捧げるかどうか微妙になるほど信徒にむかっています。
それから、ホスチアを天主に捧げることではなくなって、「人間による労働の実り」を捧げるということになっています。言いかえると、超自然を捧げることではなくなって、自然次元なものだけを奉献することになります。

信徒の過剰な参加のせいで、本当に神父が生贄を捧げるか、あるいは信徒も生贄を捧げえるかということも微妙となってきます。
これらの典礼の変更のせいで、品級と司祭職についての教義が少しずつ変えられていきます。つまり、一般的な信徒も神父であるかのような印象を与えます。「信徒たちが共有する司祭職がある」という表現が第二ヴァチカン公会議以降に使われているのですが、非常に覚束ない曖昧な表現で、危険な表現で、信徒を惑わす表現です。



以上のような変更のせいで、一言でいうと、典礼の非神聖化が起きています。またラテン語の廃止と現地の言語の利用はまさにこの非神聖化を促進しました。また、一部だけではなく、ミサ典文まで訳されて、そして大声で読まれています。ミサ典文は小声で唱えられていたのにです。トレント公会議は小声で唱えるべきだと命令しているにもかかわらずです。

それに想像してください。神父が信徒たちに向かっているまま、よく集中しているままにいられるのは至難の業です。一番聖なる執り行いを実施しているのにです。
また新しいミサにおいて、信徒がよく神父に代わって聖体を配るのですが、これは天主に対する不敬を表しています。その結果よくある話ですが、御聖体が手から地面に落ちた時です。これは知り合いの神父様が目撃したことですが、そこの主任司祭は足で御聖体を踏んだという恐ろしい冒涜行為をやってしまいました。もちろん、どこでもそうはなってはいないかもしれませんが、数えきれないほどの恐ろしい結果の一つの例です。

それよりも一番恐ろしい変更は、秘跡としての生贄としての要素が取り消されたことです。思い出しましょう。ミサ聖祭は生贄でありますが、償いを得るための生贄であって、言いかえると、天主の我々に対するご好意を得るための生贄です。つまり、罪のせいで天主は人間に対して怒っておられます。憤怒しておられます。



肉体になり給えり、十字架上の生贄を捧げたイエズス・キリストのみ、天主の怒りを鎮めることができます。だからこそ、毎日、我々カトリックはミサ聖祭を捧げることになっています。十字架上の生贄の再現なので、同じ効果をもたらして、天主の怒りが静まるように希い奉って、我々の罪へのご慈悲が得られるようにミサ聖祭を執り行うわけです。

新しいミサにおいては、以上のようなすべての要素は取り消されたのです。つまり、罪はそれほど深刻ではないかのように、どうでもいいかのようにされてしまい、また天主にとっても罪はどうでもいいかのようにされているという恐ろしい状況です。

信徒のかたから聞いた話ですが、新しいミサの神父様に罪について聞いたら、このように答えられたそうです。「罪って?どうでもいいよ。神にとってどうでもいいから、神は罪なんて構わない」という答えがあったようです。なんて天主に対して不敬であり、信徒に対して惑わすことになるのでしょう。このような信じられない返答があり得るのも、新しいミサの一つの結果だと言えます。聖伝ミサだと、罪は軽いものではないことがその内容でわかりますから。



また、新しいミサにおいては、奉献の部も完全に取り消されました。生贄を示すために非常に大事だったのに、また罪の償いのために奉献されることが強調されていて、内面的な献身と奉献も強調されていた部分なのに。すべては取り消されたのです。

贖罪と罪の償いという要素は殆ど完全に取り消されました。実は新しいミサのミサ典文も変更されていて、変えてはならぬカノンですら、なくなっていて、四つの文章があって、司祭が選べるということになっています。それに、実際においてそれ以上、カノンが変わることがあります。

それはともかく、新しいミサの第二のミサ典文において、一番短い文章になりますが、生贄・犠牲という単語自体が取り消されました。恐ろしいことです。そうなったとき、どうなったかということです。もはや犠牲ではなくなって、普通の食事、ちょっとした記念に過ぎなくなります。

あと、聖変化の祈祷は大声で唱えられて、記念であるかのように唱えられるようになっているので、聖なる典礼の中心中の中心的な執り行いという性格を失うかのように、もはや記念となっています。
聖伝ミサなら、聖変化の時、一旦沈黙して、体を慎み深く傾けて、聖変化の祈祷を小声で唱えてから、沈黙して跪いて、それから御聖体を取り上げますが、その差は歴然でしょう。また、聖変化の祈祷を唱えるのは司祭自身です。司祭だけです。昔の話を語るのではなく、十字架上の生贄を再現するということです。つまり、聖変化の祈祷の内、確かに記念する部分がありますが、聖伝ミサでは、記念の部分が終わったら一旦止まって、沈黙して、身体の態勢をも変えてそして聖変化へ入ります。つまり「いまはもう記念ではなく、再現だよ」と典礼が叫びます。

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残念ながら、新しいミサにおいて聖変化になっても「叙唱」の口調は維持されています。特に何もおきていないかのようにされています。聖変化であるのに!司祭たちはおそらくあまり教わっていないと思われるのでしょうがないかもしれません。神学校では何を教えているかわかりません。

また新しいミサにおいて、我らの主のご現存を強調し、表す動作と儀礼などは非常に少なくなってしまいました。例えば、跪(ひざまず)きの数は殆どなくなっています。司祭の手指も重要でなくなったのです。ご存じのように、聖伝ミサでは、御聖体に触れた司祭の指先をこのようにくっついているままにして、清めてから初めて離れてもよいとなっています。御聖体に触れたので、清めない限り、何も触れてはいけないことになっているからです。ですから、聖変化のあと、このように摘まみの姿勢のままに司祭がミサを続けるのです。これも取り消されました。また指の清めの儀礼も取り消されました。

また、聖杯あるいは聖皿、つまり御血と御体に触れる聖具は本来ならば金属にならなければなりません。天主なので、なるべく貴重なものではなくてはならないと。でも今では何でもつまらない器でもよいわけです。
また、聖器(聖杯とパテナ)の清めの儀式も取り消されました。聖杯を覆うため(御血の中に何も落ちないようにするため)パラという聖具も取り消されました。聖壇の祝別も取り消されました。聖壇に布かれるべき、三重の祭壇布も取り消されました。本当に恐ろしいことです。何も残っていません。聖職者の貴重性を象徴する荘厳性も殆どなくなりました。

以上のように、新しいミサはプロテスタント的なミサとそっくりです。プロテスタントは「カトリックの新しいミサに参列してもよい」といっているほどです。またルターを引用しましょう。
「(カトリックを潰す)目的をなるべくかならず達成するために、古いミサの幾つかの儀礼を維持せよ。そうすれば、急な変更によって憤怒しそうな信者は文句を言わないだろう。」

信じられないのですが、これがなんと20世紀後半になって実現されました。新しいミサにおいて、もはや聖なることは何も残っていません。そして、そのせいで教義、信仰も損なわれています。これは悲劇的なことです。ミサを変えることによって、信仰を変えることになりました。要するに、新しいミサに行くと、信仰を危険に晒すということになります。必ず。新しいミサに与ると、信仰を失う可能性が高いということです。

で、悲しい現象であり、また、面白い現象でもありますが、この典礼改革の一つの言い訳は「一般人に合わせるため」だということでしたが、数年で教会は空っぽとなりました。これは必然的な結果です。今の「信徒」は尊敬も畏敬も畏怖も抱いていないのです。聖なることなんてどうでもよくなっています。教義と信条なんてどうでもよくなっています。



新しいミサに行っている信徒のかたに、試しに聞いてみてください。「信仰と教義について殆どしらない。」「地獄なんてしらない。」「地獄は空っぽだろう」といわれるかもしれません。煉獄については「それはなに?」でしょう。
また教義だけではなく、道徳についても聞いてください。新しいミサに与る信徒のかたに、堕胎や避妊などについて意見を聞いてみてください。また貞節に関することを聞いてみてください。

新しいミサの神聖性を最少限にしたせいで、信仰を非常に弱めたということです。裏を返せば、最初は信仰が強くても、新しいミサに行くと信仰を守れない、信仰を失って行くしかありません。ですから、新しいミサに与ってはいけません。ですから、もしも、ある信徒がその近辺に新しいミサしかないから、どうするかと迷っていたら、簡単です。ミサに行かないことです。その場合ミサに行く義務は免除されているからです。ミサに与る義務は信仰を守るためにあるからです。新しいミサに行くと、信仰を失って行くから、信仰を危険に晒すことは非常にだめなことです。この場合、ミサに行かなくても罪になりません。絶対に新しいミサに与ってはいけません。信仰が危険ですから。

ミサと信仰は密接につながっています。聖伝ミサに与ったら、信仰は強くなっていきます。正しいままなのです。



要するに、新しいミサとは冒涜そのものです。非神聖化そのものです。プロテスタント化そのものです。カトリック信徒なら、一切、新しいミサに与ってはいけません。無理です。

最後に、新しいミサに関する細かい分析に興味のある方は次の文書があります。一番よくできている新しいミサへの反駁だと思われます。
二人の枢機卿による文章です。戦闘の天使である大天使聖ミカエルの祝日、1969年9月29日に発表された文章です。Ottaviani(オッタビアーニ)枢機卿とBacci(バッチ)枢機卿による文章で、二人とも、当時のヴァチカン政府の主要な地位に立っていました。
「Bref examen critique(手短な批判的な検討)」。この文章は最適なのでお勧めします。比較的短い文章で読みやすいのでぜひともお勧めします。その文章は次のことを確認します。新しいミサは全体としても詳細においても聖伝ミサのカトリック神学から非常に遠ざかっていると。この文章をお勧めします。


新しいミサ(パウロ六世のミサ)について 【その1】

2021年03月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十講 新しいミサについて



新しいミサについて
Gabriel Billecocq神父

以前、生贄を見る中で、聖なる生贄であるミサ聖祭をご紹介しました。ミサ聖祭は「流血を伴わない十字架上の生贄の再現」でした。
今回、一般的に「新しいミサ」と呼ばれることについて触れなければなりません。それは、「パウロ六世のミサ」とも呼ばれますが、最近できたミサで、第二ヴァチカン公会議の直後にできたミサです。新しいミサの詳細を見る前に、少し歴史を見ることにしましょう。つまり、いわゆる聖伝ミサ、また「ピオ五世のミサ」といわれるミサはピオ五世の時代のミサではないことを思い出すのがよいでしょう。

聖ピオ五世は16世紀の教皇ですが、トレント公会議を執り行った教皇であり、またそのトレント公会議の決定をなした教皇です。それから、聖ピオ五世はいわゆる「聖ピオ五世のミサ」と現在呼ばれるミサの典礼を確定させる勅書を発しました。この勅書をもって、教皇聖ピオ五世は聖伝ミサを神聖化し、永遠の価値を与え、そのミサをいわば列聖したと言えましょう。というのも「いつまでも、廃止すること能わず」というミサであると教皇が明確に命じたからです。



どちらかというと、「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれるミサは実は聖ピオ五世のつくったミサでないのです。その呼び名は「Quo Primum」の勅書に由来していて、つまり聖ピオ五世が最終的に聖伝ミサの典礼を確定したという出来事を記念した呼び名にすぎません。つまり、聖伝ミサのすべては聖ピオ五世以前から存在していました。聖ピオ五世は何も新しい典礼を制定することもなく、新たなミサを作ったわけではないのです。聖ピオ五世はただ、当時の聖伝ミサの典礼を編纂したにすぎません。

聖伝ミサは使徒時代から継承されてきたわけです。聖伝ミサのカノン(ミサ典文)は、つまりミサ聖祭の中心部分、序誦から主祷文までの部分ですが、使徒時代には、すでに定着していた聖伝ミサの核心です。というのも、使徒たちはミサ典文にある諸祈祷をすでにそのままに唱えていました。

さらに言うと、中心中の中心部分である聖変化の祈祷は福音書において明記されており、また聖パウロの書簡においても明記されています。御聖体を取り上げる儀礼は逆に11世紀あたりの遅い時代になって追加されました。いわゆる、Beranger de Toursの異端と戦うためですが、御聖体の取り上げの儀礼以外に、ミサ典文のほとんどすべては使徒時代から定着していました。ほとんどの部分は「古より」といわれるほど、その起源を特定できないほど大昔から唱えられている祈祷でした。

要するに、ミサ聖祭の核心部分は非常に古いのです。最も中心中の中心はイエズス・キリストご自身が制定されて(聖変化)、使徒時代の時に定着しました。

それから、ミサ聖祭の典礼に追加されてきた他の祈祷や儀礼はいきなり追加されたものではなく、少しずつ時代ごとに慎重に適切に追加されてきました。それを示す資料として古文書である多くの典礼文があります。

ゲラシウス教皇典礼書(4世紀前半)、グレゴリウス教皇典礼書(8世紀)、レオン教皇典礼書(5世紀)などが残っていますが、そこでは、今の聖伝ミサのほとんどの祈祷はすでに使われていました。特に四旬節において現在でもつかわれている毎日の祈祷に関していえば、非常に古くてこれらの典礼書において既にあります。

つまり聖ピオ五世はこれらの祈祷などを一つも作っていないわけです。繰り返しますが聖ピオ五世は聖伝ミサの典礼を編纂したにすぎません。編纂する意味は、それから以降、聖伝ミサの典礼が変更できないようにしておいたという意味です。長い時間の積み重ねで、多くの聖職者の叡智で聖伝ミサの達した高い完成度をいつまでも保つための編纂でした。


というのも、当時はプロテスタントの異端によってミサが攻撃されていたことを思い出してください。ただし、使徒時代以降に追加された部分などは考えてみるとそれほど多くはありません。もう少し遅くできたのは階段祈祷(10世紀)と最後の福音(16世紀)ぐらいでしょう。

しかしながら、ミサ聖祭の典礼とその構成自体は何も変わっていません。使徒の時代と最初の諸世紀の時代にすでに定着しているわけです。ミサ典文、カノン自体は使徒時代の時にすでに固まっていました。

要するに、「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれるミサは、実を言うと、何も変わっていないミサ聖祭であり、「変わらぬミサ」と呼ばれることがありますがもっともな呼称です。この意味というのは、使徒たちがご自身がすでに唱えていたミサ聖祭という意味です。同じ祈祷、同じ言葉を使って、使徒たちは継承者へ伝えていき、数世紀の内に典礼書において成文化されてきたという聖伝ミサです。そして、この最終的な古典化は聖ピオ五世の編纂によって行われたということです。
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新しいミサを産んだ運動として「考古学主義」というものがありました。つまり、聖伝ミサよりも古い形のミサに戻ろうという考え方です。
この考え方は非常に誤っているのです。教皇ピオ12世はその誤謬を丁寧に否定しました。また回勅においてこの「考古学主義」を排斥しました。
問題は部分的に正しい指摘もあるものの、完全に誤っている部分が多いのです。

正しい指摘としては、例えば、聖体拝領は最初の数世紀の間に手で行われたということがあります。確かに、そうでした。問題はそれに戻ろうとするのは過ちです。教皇ピオ12世は丁寧に説明します。我らの主、イエズス・キリストによって制定されたカトリック教会は時代が下るにつれて、少しずつ経験を積み、成熟したかのように、成長しました。子供が大人になっていくのと同じように、カトリック教会も成長していきました。その本質は変わらないで、同じ本質、同じ顔立ち、おなじ体型ですが、成熟していきました。

聖パウロの書簡においてこう記してあります。「私が子どものころは、子どものように話し、子どものように考え、子どもように論じたが、大人になってからは子どもらしいことを捨てた」(コリントへの第一の手紙、13,11)。

聖伝ミサの典礼の歴史はまさにカトリック教会の成熟の歴史をもの語っています。確かに、事実としてカトリック教会は最初の数世紀の幾つかの慣習を捨てました。しかしながら、それは非常に限られた慣習であって、多くはありませんよ。例えば手での聖体拝領。8-9世紀になると、手での聖体拝領は完全になくなっていました。あるいは、二つの形色ともに拝領する習慣も12世紀から14世紀までにはなくなりました。これらの決定などはたまたまではなく、叡智と経験と成熟の結果の成果なのです。

ですから、長い経験の結果を決定したことを取り消す意志、つまり、原初のミサに戻るとする「考古学主義」はなかば夢想されている深刻な誤謬といえます。これは、カトリック教会の長い歴史によって得られた経験と叡智を蔑ろにすることでしかありません。たとえば、手での聖体拝領がわかりやすいと思います。不敬になりやすいから排除されました。そこまでいかなくても多くの問題がありました。御聖体に触れた信徒の手をどうすればよく清められるか、また、多くの人々が拝領すると、冒涜の可能性も増えて、御聖体の欠片が落ちたりするおそれも。舌で聖体拝領した方が絶対にご現存に対する畏敬は保たれやすいのです。そうすることによって、多くの不用意な冒涜を回避できるわけです。残念ながら、現在の新しいミサではこのような冒涜は頻繁に起きるのです。

二つの形色ともに拝領する習慣を維持するのもかなり困難でした。衛生上の問題もあるなかで、御血を拝領するのは実際上容易ではありません。液体ですから。しかしながら、御血として我らの主、イエズス・キリストに対して最大の礼拝をも払わなければなりません。そのため、実際上、御血の拝領は困難でした。液体を運ぶのでこぼし易くなるし、吹管を使って拝領していたから非常に不便が多かったのです。そして、御血の拝領は司祭以外に必要であるわけではないので、カトリック教会の叡智が働いて、その結果、西洋では御血の拝領を廃止しました。それでも、御聖体を拝領するだけで、我らの主、イエズス・キリストの御血、御体、ご霊魂とご神性のすべてを頂くことになりますので、信徒にとっては何も変わらないのです。

その上、聖伝ミサはこの上なく最も立派に信仰を示す典礼なのです。聖伝ミサにおいて、信仰のすべては要約されていて、信じるべき信条のすべてが入っています。このように、我々が執り行う聖伝ミサと我々が告白する信仰は密接につながっています。離れられない絆があります。聖伝ミサは信仰のすべてを表現します。



原罪は聖伝ミサにおいて示されています。信徒も司祭も罪人として聖壇の前に向かうわけです。贖罪の玄義は聖伝ミサにおいて、当然ながら非常に表現されています。御托身の玄義も言うまでもなく示されています。一番象徴的なのは、奉献部にある祈祷、葡萄酒において水の一滴を入れる儀礼の時に御托身の玄義が示されています。葡萄酒は神性を象徴して、水は人間性を象徴しています。無原罪の御宿りの聖母、それから贖罪の御業のおける聖母マリアの至上の役割と位置づけも示されています。霊魂における聖寵の働き、イエズス・キリストのご生命の働きも語られています。

要するに、カトリック信仰のすべての信条は聖伝ミサにおいて語られています。さらにいうと、ミサ聖祭の構成においても文章においてもこれらの信条は立派にうまくはめ込まれています。このように、聖伝ミサに与ると、信仰は教えられているだけではなく、信仰徳も増やされていきます。



教皇セレスティア四世の言葉だったと思いますが「Lex orandi, Lex Credendi」という格言があります。「祈っている法は信じている法だ」。つまり、典礼は信仰につながるのだという意味です。また信仰こそが典礼を方向付けるのです。このように信仰と典礼の絆は切り外せないのです。祈り方と信仰は密接につながっています。

俗に言ってもこのような諺がありますね。「君がやっていることを見て、君が誰なのかを教えよう」という格言があるように、「君がどうやって祈るかをみて、君がどういった信仰を持つかを教えよう」といえます。つまり、行為において、行動は本質を表すということですね。このように、ミサ聖祭はこの上ない典礼なので、正に「執り行う」ことであって、行為そのものです。そして、ミサ聖祭という行為は信仰がなんであるのかを表明します。要するに聖ピオ五世のミサはカトリック信仰のすべてを表します。

繰り返しますが、ミサと信仰は密接につながっています。そして、聖伝ミサは、本当の意味で聖伝であり、つまり、イエズス・キリストから使徒へ、使徒から司教へ、司教から司祭へ、代々引き継がれた聖なるミサなのです。ですから、変わらぬミサと変わらぬ信仰は密接につながっています。

ですから、お気づきになったと思いますが、ミサを変更しながら信仰を変更しないことは至難の業です。逆もしかりです。信仰を変更しながら、ミサを変更しないことは至難の業です。信仰とミサの間に密接な絆がある所以です。繰り返しになりますが、ミサ聖祭の構成と祈祷の儀礼において信仰がはめ込まれているからです。

従って、ミサを変えたら必然的に信仰が変わる危険が大いにあります。さらにいうと、信仰生活をも害する恐れが大いにあります。
例えば、聖伝ミサにおける信徒が取るべき態度、動作などは規定されていますが、これらも天主への礼拝を表すためです。言いかえると、外的な態度や動作を変えるだけで、天主への礼拝の仕方、祈り方をも変えることになります。その結果、天主へ払うべき畏敬を変えることになります。



残念ながら、以上のようなことを実際にやってしまったのが、第二ヴァチカン公会議だというべきです。第二ヴァチカン公会議の一つの結果となった新しいミサのせいで、以上のような変更がありました。

第二ヴァチカン公会議の正式の最初の文章(法令)は第二会期が終わった時、発表されましたが、典礼についての文章です。「Sacrosantum concilium」という文章です。この文章はいわば時限爆弾でした。というのも、この文章は曖昧過ぎるせいで、完全に好き勝手に解釈することが可能です。この文章においては、一応、変わらぬ教義が明記されてはありますが、同時に毎回、いつも「特例」あるいは「例外」を設ける余地が与えられています。

例えば、絶対的に典礼はラテン語になります。が、司教は違う言語を選んでもいいです。といったような感じです。
また、例えば「絶対に新儀(新しいこと)を典礼にいれてはいけない。が、固有文化に適応するためなら変更してもよい」という感じです。

要するに、この文章のやり方を一言で要約すると簡単です。一方で真理を一応再断言するものの、他方でこの真理を変更してもよい項目を設けておくというものです。この意味で、「Sacrosantum concilium」という文章はまさに時限爆弾となります。それに基づいて何でも正当化できるからです。本来ならば、教皇あるいは公会議が発する文章に期待すべき性質を持たない文章です。本来ならば、逆です。はっきりとした、解釈の余地のない明白な文章が期待されているのに、第二ヴァチカン公会議の文章の特徴でもありますが、もやもやしすぎて、好き勝手に解釈しても差し付けなく、結果とし何でもできるという。

「Sacrosantum concilium」の直接の結果が新しいミサなのです。またパウロ6世のミサと呼ばれるミサです。この新しいミサはいきなり出てきたものではありません。本来ならば、その歴史を紹介すべきですが、簡単にいうと「典礼運動」に由来しています。複雑な歴史なので割愛しますが、それにご興味のある方はBonneterre神父の研究に参照していただければと思います。

この中で典礼運動が研究されていますが、少しずつ、「どうしても変更すべき」空気の生成や「動作よりも言葉だけを重んじる」傾向や「考古学主義」の流行りや「犠牲の執り行いを軽視する」傾向などがよく描写されています。当然といえば当然ですが新しいミサは自然に発生したものではなくて、数十年の間、この典礼改革が準備されていたわけです。最初は典礼学において「改革希望」を操作した数十年の運動の結果なのです。


そして、新しいミサは1969年の時、パウロ6世によって正式に制定されました。「Novus Ordo Missae」と呼ばれる文章によってです。「ミサの新しい構成(あるいは典礼)」という意味です。この新しいミサを実現した主役は他でもないパウロ6世です。もちろん、一人でこの典礼を作ったわけではありませんが、パウロ6世はかなり関わりました。が、典礼改革の中心人物はBugnini(ブニーニ)司教でした。かれこそ、この改革を推し進めて実現させました。その他、改革の主役を担った人物として、Birminghak教区のBouyer(ボイヤー)司教の他、残念ながら、二人のプロテスタント信徒もいました。ここに言う人物は積極的に新しいミサの典礼を作った者たちであり、単なる「顧問」のような消極的な役割を持つ人ではなかったのです。

当時、エキュメニズムを担当していたBaum(バウム)司教の証言を引用しましょう。
「(典礼改革のための)これらのプロテスタント信徒たちは単なるオブザーバではなく、顧問もやり、さらには積極的にカトリック典礼改革の審議に参加しています。オブザーバだけならそもそも誘う意味がありません。彼らは積極的に改革に貢献しました。」

信じられないと言えば信じられないのですが、パウロ6世ですら普通に認めています。新しいミサの典礼が発表されてから数日後、1969年4月10日、パウロ6世は次のことを発言しました。典礼改革に参加したプロテスタントの牧師の前での発言です。聞いてください。本当に信じられない発言です。
「あなたたちが数年前から尽くしてくださった仕事に対し、誠に感謝の意を表する次第です。はい、正に、カトリック教会の善のため以外、何の報酬の期待をも持たないで、速やかに、また高度な見識の能力を示して、複雑かつ困難な作業に勤しんでくださったのですから。」



500年もの間、カトリック教会に対し、多大なる弊害を与えたから、そして、カトリック教会の基礎を覆そうとしていたから、歴代教皇や公会議はずっとずっとプロテスタントを排斥して、その誤謬を否定していたことを考えると、信じられない発言です。ある意味で新しいミサは「プロテスタント的なミサ」です。詳しく後述しますが、新しいミサは現にプロテスタント的なミサです。これは悲しいことであって、悲劇です。

ルターの言葉を借りましょう。彼はもちろん新しいミサを夢にも見たこともないのですが、象徴的なので引用します。ここで彼のいうミサはもちろん聖伝ミサですね。
「ミサが転覆される日が訪れたら、教皇の位が転覆されることを意味すると思う。というのも、教皇の位のすべては、つまり、教皇の下にある修道院、教区、学校、慈善施設(病院など)、聖職者と信仰(教義)のすべては巌(いわお)であるかのようにミサの上になり立っているからだ。憎むべき冒涜であるミサが崩れた瞬間に、これらのすべても崩れるのだ。」
非常に明白でしょう。面白いことに、教会のすべては、修道院を含めて、ミサの上に成り立つとルターが言っていますね。



Bugnini(ブニーニ)司教が新しいミサを紹介していた時の話です。ルフェーヴル大司教が参加されたときになされた発表でしたので、ルフェーヴル大司教は我々神学生に、次のような話をよく話されていました。それは、新しいミサの詳細をブニーニ司教が初めて説明した時、ルフェーヴル大司教はいつもすぐに発言するタイプなのに、その時はあまりにも信じられない内容だったせいで、ショックを受け、驚きのあまり、何も言えなかったと。

後で見ますが、新しいミサにおいては、信徒たちの積極的な参加が過剰に重視されているので、当時の説明会の時、一人の修道士が立ち上がって「では、修道院においては(基本的に信徒がいないので)どうやって執り行えるか」という質問をしました。その答えはなんと「ああ、考えていなかった問題ですね」というものでした。

なんか、信じられないことでしょう。新しい典礼という非常に重い改革がおもいつきのように作られたなんて。つまり、全教会のために作られてもいない典礼。修道士を視界に入れていなかった典礼。つまり、カトリックの典礼ではないということです。カトリックとは「普遍」という意味ですから。以上の話だけでも、どれほどカトリック的ではないミサであるか見えてきたと思います。

しかしながら、重要な点を強調しましょう。以上の新しい典礼を発表したからといって、パウロ六世は聖伝ミサを廃止したことはありません。全くありません。聖伝ミサは一度も廃止されたことはありません。ヨハネパウロ二世もベネディクト16世も枢機卿に相談した時、何度もはっきりと「聖伝ミサは廃止されていない」ということを明白に示されました。

要するに、今でも、すべての司祭は聖ピオ五世のミサを捧げることができて、聖伝ミサを捧げる権利があるということです。
聖ピオ五世は「Quo Primum」の勅書を発した時、次のように明確に書かれています。「廃止すること能わず」。また正確に言うと聖伝ミサを「神父が捧げることを妨げること永遠に能わず」と。


ミサに与るための典礼書、「毎日のミサ典書」の使いかた

2021年03月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十九講 ミサ典礼書「毎日のミサ典書」を使いましょう



以前、ミサ聖祭とは何であるかを見てきました。その本質、その現実を見ました。流血を伴わない十字架上の生贄の再現です。そして、前回はミサ聖祭の具体的な構成をご紹介しました。ミサ聖祭はどういった流れになって、どのように全体を成して十字架上の聖なる生贄を再現しているかを見ました。

今回、手短に非常に具体的なことを紹介したいと思います。「毎日のミサ典書」をどう利用すればよいかという課題です。信徒の皆さんが常に使っている「毎日のミサ典書」ですね。

この本ですが、ミサ聖祭に善く参列するためのすべての典書が入っています。
分厚い本なので、初めて「毎日のミサ典書」を使うとちょっと迷う方もいると思いますので、簡単にご紹介しましょう。
そして、簡単に、「毎日のミサ典書」の利用に当たるコツを紹介しましょう。

まず、「毎日のミサ典書」は大きく言うと二つに分けられています。第一部はかなり長いですが、ミサ聖祭に関する部分、殆ど3分の2以上占めています。そして、残りの部分は信徒のための祈祷、祝福など、つまり祈るため、信仰生活を助ける部分です。例えば、告解に行くためのしおりとか、他の秘跡の典礼とか、多くの祈祷とか、聖歌とか、いろいろあります。この部分は直接にミサ聖祭についてではありません。普段使いの本として便利な書のようなものです。

さて、「毎日のミサ典書」自体を見ましょう。「毎日のミサ典書」を効率よく使うために、一番大事なのはミサ聖祭の在り方と構成をよく理解することです。より一般的にいうと、典礼を理解すると使いやすくなります。典礼とは祭礼を律する物事です。もちろん、ミサ聖祭は典礼中の典礼ですね。

ミサ聖祭に関して、大きく言うと二つの部分があります。
第一、全く変わらない部分です。「通常文」と呼ばれるもので、ミサ聖祭の構成そのものです。
そして、第二、毎日変わる祈祷と朗読です。いわゆる、ミサ聖祭の構成の中に、毎日、変わる朗読と祈祷です。



ミサ聖祭の構成、ミサ聖祭の典礼はミサ聖祭の流れを指しています。そして、ミサ典文あるいはカノンは全く変わらない部分です。
この変わらない部分、つまり通常文とは「毎日のミサ典書」の真ん中にあります。「通常文」です。
ですから、ミサ聖祭に参列する時、流れを追うために一番やりやすいのは、「通常文」に沿っていくことです。

そして、「通常文」の最初に、「階段祈祷」があります。そして、ページをめくると、ミサの流れが追っていけます。つまり、神父が唱える祈祷がミサの流れにそって一通り載っています。ただし、「通常文」だけを見ても、当日のミサ聖祭の「固有文」は載っていません。しかしながら、「通常文」を見ると、ミサ聖祭において変わらない流れが載っています。

「通常文」を開くと、最初に教育の部がありますが、その流れに沿って、固有文のところに、空っぽな四角が載っています。これは固有文を参照してくださいという意味です。

もしも、「毎日のミサ典書」がはじめての方にとって、固有文を参照することが難しいのなら、ご心配なく、とりあえず「通常文」だけでいきましょう。ミサ聖祭の流れ自体で、主な祈祷はすべて入っていますので、最初、ミサ聖祭に与る方は「通常文」に沿って行けばよいです。ページをめくっていくと、次に奉献の部に入っていきます。つまり、聖なる生贄の部のすべての祈祷と文章が載っています。それを読みながら、司祭の祈祷に心を合わせましょう。

司祭のペースが速すぎてついていけないと言われる信徒もいますが、ご心配なく。すべて読んでいなくてもいいのです。ミサ聖祭の目的はすべてを読むのではなく、十字架上の生贄と一致することにありますので。
このようにミサ聖祭の最後まで、「通常文」は続きます。
以上はミサ聖祭に与るための一番重要なところです。比較的それほど長くもない「通常文」で、100ページ弱ぐらいで、ミサ聖祭の主な部分は入っています。これを見ると、ミサ聖祭の流れを追って行けます。

さて、次の段階は固有文を見つけることです。最初はちょっとチャレンジになるかもしれません。
先ほどに申し上げたように、「通常文」は「毎日のミサ典書」の真ん中にあります。固有文を参照するために、「通常文」の前にあるか、後にあるかどちらかです。チャレンジは今です。カトリック教会は長い叡智の結果、典礼を「毎日のミサ典書」において整理した結果、一年分のミサが載っています。



そして、固有文は二つのグループに分かれています。一つは「通常文」の前にあります。もう一つは「通常文」の後にあります。前の部分、つまり「毎日のミサ典書」の前半を占める部分は「聖節の部」と呼ばれています。後の部分、つまり「毎日のミサ典書」の後半を占める部分は「聖人の部」と呼ばれています。

前の部分は通年のそれぞれの典礼の時期のミサの固有文が載っています。つまり、基本的に主日の固有文です。待降節の第一の日曜日の固有文から、聖霊降臨後の最後の日曜日の固有文まで載っています。要するに、この部分においては主に主日の固有文が載っていまして、通年の日曜日の順番で載っています。言いかえると、我らの主、イエズス・キリストの人生と玄義を追っていく部分です。
一年の典礼の流れはイエズス・キリストの人生を追っていきます。

ですから、主に主日の固有文が載っている「聖節の部」は待降節から始まります。続いてご降誕の祝日。そして御公現の祝日。そして、七旬節になって、そして、四旬節になっていきます。四旬節は結構長いです。それから、我らの主、イエズス・キリストのご受難になります。聖週間とその後、復活祭です。そして、次にご昇天へ。そして、聖霊降臨があります。そして聖霊降臨のあと、一通り、典礼年の主日の最後までの固有文が載っています。これは、主に主日の固有文の部分でした。つまり、日曜日にミサに与るとき、「通常文」に載っていない固有文はこの前半のところにあります。

「聖節の部」という一つの循環と関係なく、もう一つの循環があります。「聖人の部」です。後半の部分です。
年間の毎日、我々の模範となる聖人、また我々に恩寵を分配してくれる聖人を崇拝するようにカトリック教会は典礼を整えました。そうするために、固有のミサは用意されています。これらの固有分は後半にあります。



後半の部分は年間の毎日の聖人を崇めるためのミサの固有文が乗っています。
一般的に、「聖人の部」は11月末から始まります。「聖人祝日の部」とも呼ばれています。11月30日の聖アンドレアから始まることが多いです。そして、毎日、聖人が崇められています。ご存知のように、よくある日を指すために日付を使わないで、その聖人で指す習慣があります。例えば、「聖バレンタイン」とか「シュルベステル」(12月31日)とかあります。

なぜ11月末で始まるのでしょうか?殆どの場合、待降節の第一の主日は11月末になることが多いからです。そこに、聖人の祝日の固有文が乗っています。6月24日、洗礼者ヨハネ。6月29日、聖ペトロと聖パウロ。7月1日、主イエズス・キリストの御血などなど。8月15日、被昇天の祝日は「聖人祝日の部」において載っています。聖母マリアが天に昇られたことを祝う日です。このように、通年の聖人の祝日が載っています。「聖人の部」です。

さて、もう少しチャレンジしましょう。
それぞれの聖人のために、更に固有の祈祷あるいは固有の朗読をカトリック教会が指定したり作成したりしました。しかしながら、場合によっては、固有の文章は特になくて、聖人共通の文章もあります。例えば、童貞殉教者の聖人なら、童貞殉教者の聖人のための共通ミサもあるということです。

その結果、「聖人の部」は2つに分かれています。聖人ごとの固有文と、聖人の「種類」による共通ミサの固有文。



しかしながら、ご心配なさらないでください。聖人の祝日に預かったとき、単純にその聖人の日に参照すれば、共通文に参照するためのページが書かれているから、参照しやすいです。例えば、10月10日のページにあたりました。証聖者、ボルジアのフランシスコの祝日です。そこにあるのは「大修院長の共通ミサ(57頁)」と書いてあります。簡単でしょう。

さて、要約すると何を覚えておけばよいでしょう。「毎日のミサ典書」において、三つの部分があります。真ん中に「通常文」。そこから入りましょう。前半に「聖節の部」。これは主日の固有分です。後半は「聖人の部」。
その上で、後ろには多くの祈祷や秘跡の典礼や祝福が載っているので、ぜひ御覧ください。糧になるものがいっぱい載っています。

聖ピオ五世のミサ(聖伝のミサ)の構成をご紹介します|聖伝のミサとは、使徒たちから、そのままの形で受け継がれたミサ聖祭という意味です

2021年03月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 百十八講 ミサ聖祭の構成



ミサ聖祭の構成
Gabriel Billecocq神父

以前に、ミサ聖祭の定義を示して、聖なる生贄、聖なる犠牲だと紹介しました。今回はミサ聖祭の構成をご紹介したいと思います。
ここでいうミサ聖祭はいつものミサ聖祭です。通常「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれることが多くて、あるいは「聖伝ミサ」とも呼ばれています。その通り、聖伝のミサですが、なぜ聖伝であるか後ではなします。現在、聖伝ミサを指して「特別形式」と呼ばれることもありますが、特別でも何でもなく、通常の形式であり、ごく普通の形式であるというべきです。

さて、ではなぜ「聖ピオ五世ミサ」と呼ばれるのでしょうか?聖伝ミサの典礼を最終的に確定させて編纂したのが聖ピオ五世だからです。聖ピオ五世は16世紀の教皇であり、在位は1566年から1572年までです。当時の状況からするとルター改革、ひいてはプロテスタント主義の台頭による弊害に立ち向かわざるを得なかった教皇でした。ご存じのように、ルター改革とプロテスタント主義は根本的にミサ聖祭を破壊するのです。プロテスタント主義を踏襲する形で、第二ヴァチカン公会議もミサ聖祭を破壊しています。

このように、プロテスタント主義に対して抵抗するために、聖ピオ五世はミサ聖祭の典礼を決定的に確定させました。なぜでしょうか?ミサ聖祭をプロテスタント主義の攻撃から守るためであり、プロテスタント主義からの防御対策のためです。

しかしながら、大事なのは、聖ピオ五世による典礼の編纂はあくまでも既存の典礼、すでに執り行われていたミサ聖祭の典礼を整理し、典礼書の形にしたにすぎません。言いかえると、新しいこともなく、構成も以前を踏襲したにすぎません。

後ではなしますが、特に、ミサ聖祭の中心部分であるカノン、ミサの典文の奉献の部と聖変化の部はつまるところ使徒時代のままです。
この意味でこそ、「聖伝ミサ」といえます。つまり、使徒たちからそのままの形で、受け継がれたミサ聖祭だという意味です。福音書の最後の晩餐のところの我らの主、イエズス・キリストの御言葉を読んでみると明らかですし、また、聖パウロの手紙においてもミサ聖祭の中心部分の祈祷はそのままに記されています。

これが、聖なる生贄であるミサ聖祭の核心の祈祷が、使徒時代に制定されたと言われる所以です。そして、イエズス・キリストによって制定されて、使徒たちがミサ聖祭の核心部分を制定して、現代にいたるまで受け継がれてきました。

もちろん、だからといって、現代の典礼は使徒時代のミサだけではありません。カトリック教会の叡智とその成熟のお陰で、ミサ聖祭の典礼は増やされていき、新しい付属の儀礼が追加されたり、より拡張され、また少しずつ典礼も編纂されてきました。なぜこのような追加などがあったでしょうか?犠牲を捧げるに際して、心構えができるため、生贄を準備するため、また相応しい心境でミサ聖祭に臨むためです。

カトリック教会は、カトリック信徒が良い相応しい内面的な心境で臨むための儀式であることも、犠牲のあと、良き天主に感謝を捧げることも大事ですから、そうするための儀式も追加されたりしました。

要するに、このような追加は時代につれて少しずつ行われてきました。ところが、大事なのは、これらはあくまでも追加に過ぎなくて、ミサ聖祭の核心を変えることもなく、ミサ聖祭の本質を変質することもなく、逆に、かえって、ミサ聖祭の本質をより綺麗に忠実にするための付属儀式が加わったということです。

つまり、ミサ聖祭の本質はそのままに使徒時代から伝わっていたその本質をより大切にするために、核心の周辺、本質ではない部分あたりに多くの儀式と祈祷が少しずつ、少しずつ、それぞれの時代の叡智に従って、またそれぞれの時代の状況に応じて、追加されてきたのです。その理由は、司祭も信徒もこの上なく素晴らしい執り行いであるミサ聖祭に、よりよく与ることができるように、天主と一体となることができるような助けを得るためです。つまり、宗教中の宗教行為をより善くできるようにするためです。



このようにして、使徒時代のミサから、時代が下ってくると、少しずつ豊かになってゆき、そして聖ピオ五世は一旦、典礼を最終的に確定させました。プロテスタント主義の攻撃から防御するためです。

また今度詳しくご紹介しますが、残念ながら、第二ヴァチカン公会議の際、以上のような長い歴史から生まれた叡智とミサ聖祭の鎧はパウロ6世の改革によって新しいミサが制定されて、急に正面から否定される羽目になりました。この新しいミサは完全にプロテスタント的でありますが、これについては今度の話に譲ります。

しかしながら、以前からご紹介しているミサ聖祭は言うまでもなく、聖伝ミサのことです。なぜでしょうか。聖伝ミサこそが最も明らかに十字架上の犠牲の再現を示しているからです。思い出しましょう。ミサ聖祭は秘跡であると同時に犠牲でもあります。

そして、聖ピオ五世によって典礼化された聖伝ミサ、そして現代に至って今でも捧げている聖伝ミサこそが、ミサの幾つかの形式の内、一番「秘跡的」な典礼となっています。いいかえると、最も明らかに十字架上の犠牲とは何であるかを示して、具現化しているのです。ですから、聖伝ミサこそが最も象徴的というか、十字架上の犠牲を最も明らかに示して、ミサ形式中の最も明白にミサ聖祭を具現化して、十字架上の犠牲をはっきりと示しているのです。

新しいミサの根本的な問題は(無効にならないとしても)十字架上の犠牲を示さなくなっていることにあります。決定的な弱点です。

さて、今日でも使っている聖伝ミサの典礼は聖ピオ五世によって編纂されました。
大きく言うと、この典礼は二つに分けられています。カトリック教会の初期から、使徒時代から、大きくミサ聖祭を二つに分ける伝統がありました。

つまり、「求道者のミサ」と「洗礼者のミサ」という二つの部分です。「求道者、つまり洗礼志願者のミサ」とは最初の部分ですが、信者や求道者に教えるためにあります。そして、「洗礼者のミサ」とは犠牲そのものです。言いかえると、「心構えをするための部」と「犠牲を捧げる部」という構成になります。

そして、最初の数世紀の間、求道者たちは「教えの部」に参列していましたが、「犠牲の部」が始まると退場していて、洗礼者のみ臨んでいたことから、「求道者のミサ」と「洗礼者のミサ」と呼ばれています。
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要約すると、ミサ聖祭の構成には二つの部分からなっています。第一部は「準備の部」、第二部は「生贄を執り行う部」という構成です。
時には、第三部という区切りもあって、つまり「感謝の部」、犠牲をささげた後に天主に感謝するという部分です。基本的に、第二部の付属部分として区別されています。

まず、ミサ聖祭の第一部は「教育の部」です。この第一の部の中心の目的は、ミサ聖祭という生贄に、相応しい心構えで、相応しい心境で、良い内面的な状態で臨めるようにするための部分です。言いかえると、カトリック教会は霊魂たちの黙想を助け、霊魂の静謐を助け、つまり、天主に向かわせるための状況を唱え、この世の雑音や騒音などを亡くす環境を作るための部分です。

このように、霊魂は少しずつ、一心に、天主を中心に集中することができて、外の世から一旦去るような心境を作ることを助ける部分です。このようにして、霊魂たちはなるべく天主と高度な一致の状態で、ミサ聖祭という十字架上の聖なる生贄に臨むための部分です。つまり、一人一人の霊魂が十字架上の犠牲となるべく現に一致できるようにされていく部分です。

さて、では、第一部の構成はどうなっています。小さい八つの部分からなっています。
第一、司祭は祭壇の下までいく「階段祈祷」があります。司祭は祭壇の下に向かいますが、祭壇の前の階段の下に止まって、祈祷を捧げます。通常、祭壇は高めに設置されており、祭壇まで上るために奇数の階段(一つあるいは三つ)があります。それはともかく、司祭は階段の下に止まります。そこで、「階段祈祷」を捧げます。その内の中心部分は告白の祈りです。つまり、司祭は自分が犯した罪を告白して、その赦しを希い、そうすることによって、良い生贄を捧げられるように心の準備をします。



これは当然のことです。ミサ聖祭を捧げる司祭はキリストにおいて執り行うことになりますので、出来るだけ、なるべく清い状態で捧げ、司祭の霊魂は最大になるべき我らの主と一体化している必要があります。そうすることによって、自分を一番従順な道具にさせ、イエズス・キリストの御手に道具たる自分を捧げるための準備を行います。「階段祈祷」はそのための準備です。

そのあと、祭壇まで上って、一心に接吻して、それから「入祭文」を唱えます。「入祭文」は当日の祝日に合わせた詩編の一句となっていて、ミサ聖祭に入るための祈祷です。

「階段祈祷」の延長線には、「求憐誦」(キリエ)という祈祷を唱えます。「主、憐み給え。キリスト、憐みたまえ。主、憐み給え。」と。
当初は連祷を唱えていた部分ですが、あとの時代に連祷は短くなって、キリエという形で残されました。そういえば、聖土曜日、復活前夜祭の時、連祷はそのままに全部唱えられています。

それはともかく、「求憐誦」(キリエ)とは天主の怒りを鎮めるための祈祷です。「主、憐み給え。」と。
それから、例外もありますが、殆どの場合、「栄光頌」(グロリア)を唱えます。感謝の讃美歌です。ご降誕の際(クリスマスの際)、天使たちが唱えた讃美歌です。「グロリア・イン・エクシェルシス・デオ」、「いと高き天においては、神に栄光あれ。」これはまさに賛美する祈祷です。そして「地上においては、善意の人々に平安あれ」「Et in terra pax hominibus」、これは我らの主が私たちに齎する(もたらす)宝です。平安、平和。十字架上の犠牲、我らの主、イエズス・キリストの犠牲こそが人類史上、過去・現在・将来も含めて、この上なく、天主に最高の栄光をもたらした出来事です。そして、栄光だけではなく、イエズス・キリストの犠牲のお陰で、地上における平安、平和ももたらされています。
言いかえると、ミサ聖祭の外に本物の平安、本物の平和はないということです。この意味でミサ聖祭は公けの執り行いでもあり、政治的な行為でもあるわけです。

「栄光頌」(グロリア)のあと、祭壇の右側へ移動して(祭壇に向かって考える)当日の「集祷文」を唱えます。「集祷文」において、特にどういった恩寵を受けたいか、どういった恩寵を霊魂たちに分配していきたいかを希います。

「集祷文」のあとは、「朗読」があります。基本的に、一つとなっています。例外的に、複数の朗読のミサもあります。「朗読」は一般的に「書簡」とよばれています。というのも、多くの場合、一人の使徒の書簡になっているからです。時には旧約聖書の朗読もあります。参列している信徒たちへの教えです。



「書簡」のあと、賛美する部分があります。「昇階誦」あるいは「詠誦」と「アレルヤ」と「小詩句」あるいは「続誦」などからなっています。ほとんどの場合、詩編からなっていて、それは主に感謝するためです。

そういえば、書簡の終わりに、参列者は「Deo Gratias」といい「天主に感謝」といいますが、この「天主に感謝」は「昇階誦」、「アレルヤ」と「続誦」という形で続きます。歌ミサの場合、賛歌隊が唱える讃美歌です。感謝するためです。

そのあと、司祭は祭壇の反対側へ移動します。つまり、右側から左側へ。そこで「聖福音」を朗読します。つまり、四つの福音からの一部を朗読します。言い換えると、我らの主、イエズス・キリストの人生の一つの場面です。



そのあと、「説教」があります。司祭が当日のミサの書簡と福音などを説きます。当初の時代、司教自身がやることが基本で、その時こそが、使徒に向けた、また洗礼志願者に向けての教育の場でした。

そのあと、「信経」が唱えられます。これは、この上なく、信仰的行為なのです。というのも、信経においてこそすべての真理が要約されているからです。そして、信徒たちは信教を唱えることによって、信仰の行為を果たしてから、当初の時代、求道者は教会から退場することになっていました。そして、信徒は残って、信仰的行為を果たしたおかげで、本物の生贄に臨むための準備がおわります。
これで、第一部、教育の部は終了します。

続いて、第二部に入ります。生贄の部です。
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さて、聖なる犠牲は三部からなっています。というのも、前回にも見た通り、すべての犠牲には三つの段階があるからです。第一、奉献の部です。つまり、お供えする部分。奉納する部分。奉献の部の際、司祭は予めパテナの上においてあるホスチア(パン)とカリスにある葡萄酒を天主に奉献します。目的は天主がこれらの犠牲を受け入れていただくためです。

奉献の部には奉献する祈祷がありますが、このなかで司祭は自分自身をも奉献することになります。そのなかで、「ラヴァボ(洗い)」という儀礼があります。手を洗う儀礼ですが、この儀礼は非常に古い儀礼です。このような外的な手洗いという行為によって、内面的な清めを表すのです。犠牲を捧げるために自分を清める儀式です。まとめると、犠牲の第一部は奉献の部ということになります。

奉献の部は序誦で終了します。そして、「序誦」はその名前通り、ミサ典文に先立つ祈祷です。ミサ典文、カノンは供犠・生贄の部であって、ミサ聖祭の中心部分となります。ミサ聖祭の核心部分です。この犠牲の部は「序誦」のあとから始まり、「Pater主祷文」までです。

このミサ典文、カノンの部は供犠、生贄を捧げる中心部分となります。必ず、声を出さないで無言に唱える部分です。トレント公会議の際でも再確認されたように、なぜ声を出さないで唱えるかというと、聖なる執り行い中の聖なる執り行いであるほどに恐れ多いからです。また、その部分は司祭のみ執り行える生贄なので、信徒たちは司祭ではないので、カノン典文の際、信徒たちはなにも作用することはないのです。

カノンの間、司祭以外、皆、跪いた姿勢で沈黙の内に黙想します。そして、聖なる生贄となるべく一体化することに努めます。言いかえると、十字架上の生贄に一致する努力です。そうするための一つのコツというと、本当に十字架上の下にいると想像して、聖母マリアと同じように、十字架上の御子の生贄を一致して、その苦しみを共有したと同じように、私たちも、十字架上のイエズス・キリストとの一致を行うことです。



そして、司祭は聖変化を執り行うのです。これは言いかえると、生贄を捧げる行為そのものです。まず、パンの聖変化を執り行い、そのあと、御聖体となったパンを掲げます。この持ち上げの儀礼自体は10世紀に定着しました。Berangerによる異端に抵抗すべく、御聖体におけるご現存をより善く示すために御聖体を持ち上げる慣習が出来上がりました。

それはともかく、ご現存の実現は聖変化の時の御言葉を司祭が言う瞬間です。そして、同じようにカリスの葡萄酒の聖変化を執り行い、御血となり、御血を持ち上げる形で、よりよく信徒たちが礼拝できるようにします。

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以上が生贄の部でした。「主祷文」までです。そして犠牲の部の最後の部は、拝領の部です。奉献して、生贄を捧げて、最後に拝領します。

拝領の部もミサ聖祭の大事な一部です。犠牲が完全するためには必要不可欠の一部です。司祭が拝領しない限り、犠牲は完成されないのです。最低でも、司祭は拝領します。このとき、信徒たちも拝領することに越したことはありません。

このように、拝領の部に入ると、司祭は「主祷文」を唱えます。そのあと、パンを裂く儀式があります。この儀式も非常に古くて、当初の数世紀の間、そのパンは発酵のパンでしたが、奉献の部の時、信徒たちが行列しながらパンをお供えして、そして司祭によって聖変化されて、そしてパンは裂かれて御聖体を配っていたのです。聖パウロの書簡において、すでにパンを裂く儀式についての記述があります。そのあとの時代になっていくと、パンを裂く儀式は大きなホスチアを裂く儀式に縮小されるようになりました。

信徒たちのためのホスチアは小さな無酵母のパンです。種無しのパンです。聖変化の時、すべてのホスチアは聖変化されます。そして、そのあと、司祭はパンを裂いて、拝領して、次に司祭は信徒の拝領のため、ご聖体を配ります。以上が、ミサ聖祭の核心の部分です。

拝領がおわった後、短い感謝の部分があります。善き天主に感謝し奉るという部分です。聖体拝領誦があります。昔は聖体拝領の間に歌われていましたが、聖体拝領が終わってから司祭が唱える祈りです。それから、聖体拝領後の祈りがあります。この祈りは、捧げられた犠牲、それから頂いた拝領が霊魂たちの間に実るように希う祈祷です。



そして、最後の福音の朗読があります。御托身の玄義を想起するための福音です。というのも、御托身とミサ聖祭は密接につながっているからです。御托身がなければ、十字架上の犠牲もあり得なかったのです。御托身があるからこそ、我らの主、イエズス・キリストは本物の犠牲者、本物の司祭、本物の天主になっているからです。

最後の福音はミサ聖祭のすべてをもう一度要約するかのような部分です。ヨハネ福音書の冒頭です。イエズス・キリストの御托身を語って、御托身があって初めてミサ聖祭は成り立つということです。

以上がミサ聖祭の構成でした。ご覧のように、ミサ聖祭の構成は非常に完全であります。
また、ミサ聖祭の構成は時代に下って、成熟して、その完成度は高くなりました。カトリック教会は子供が大人になっていくと同じように、完成していきます。聖ピオ五世によって最高の完成度に達成したと言えましょう。



ミサ聖祭の本当の意味:カトリック司祭の第一の存在理由は人間のためにあるのではないーIn persona christi

2021年03月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十七講 ミサ聖祭という聖なる犠牲



ミサ聖祭という聖なる犠牲
Gabriel Billecocq神父

我らの主は完全なる犠牲を捧げ給うたのです。前に一般的に犠牲とは何であるのか、犠牲の四つの目的は何であるのか、それから我らの主、イエズス・キリストの十字架上の犠牲はなぜ完全なのか、そしてどうやって旧約聖書の犠牲を廃止したのかを見てきました。そして、我らの主は完全なる犠牲を捧げ給うたのです。

我らの主、イエズス・キリストはこの犠牲の犠牲者であり、同時に司祭であり、同時に犠牲の対象、捧げられる天主でもあります。
我らの主、イエズス・キリストは十字架上の犠牲を時間のうえで延長することになさいました。そうするために、ミサ聖祭という秘跡を制定なさいました。この秘跡は犠牲でもあります。

そして、ミサ聖祭は十字架上の犠牲の再現です。大事なのは、十字架上の我らの主、イエズス・キリストの犠牲は唯一であって、もう一度起きるわけではありません。完全なる犠牲でしたので、もはや再び起きることはあり得なくて、唯一無二の犠牲です。前回見た通りです。我らの主、イエズス・キリストの犠牲は唯一無二です。というのも、イエズス・キリストの司祭職は永遠であり、キリストは天主であるからです。十字架上の犠牲は完全です。というのも、キリストは完全なる犠牲者であるとともに、天主によって同意されている完全なる司祭でもあるからです。

同時に、人間はどうしても天主に犠牲を捧げようとする本性があります。善き天主は人間の本性を見守っておられます。従って、天主は人間が引き続き、天主への犠牲を捧げ続けるようにお望みになりました。しかしながら、完全な犠牲を捧げられることになさいました。そうするために、我らの主、イエズス・キリストは十字架上の犠牲が世々に至るまで延長することを可能になさったのです。

つまり、そうするために、ミサ聖祭を制定なさいました。ミサ聖祭はまさに十字架上の犠牲の再現です。ミサ聖祭は十字架上の聖なる犠牲の延長です。我らの主がご自分の犠牲を世々に至るまで延長されたのも、人々が十字架上の犠牲を引き続き天主に捧げられるためです。つまり、十字架上の犠牲と同じ効果の犠牲になるためです。ミサ聖祭を捧げることは、イエズス・キリストの犠牲の再現なので、天主のお気に召された犠牲であり、天主の怒りを鎮められる犠牲ともなります。



そうするために、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさいました。つまり、ミサ聖祭は単なる食事ではありません。単なる記念ではありません。単なる集会ではありません。ミサ聖祭は根本的に十字架上の犠牲の再現です。それは非常に大事なことです。ミサ聖祭は犠牲である本質を否定したら、秘跡を否定することになり、犠牲を中心にする宗教の本質を否定することになります。ですから、注意しましょう。

言いかえると、より神学的な定義でいうと、ミサ聖祭は我らの主、イエズス・キリストの十字架上での流血を伴わない犠牲の再現です。言いかえると、ミサ聖祭は十字架上の犠牲を再現します。あるいは現代において十字架上の犠牲を改めて実現する犠牲です。ただ、流血を伴わないということで、神秘的な形で再現されます。あるいは秘跡という形で再現されるともいわれます。なぜでしょうか?

十字架上の犠牲の再度の実現は目に見える印を通じて行われているからです。ミサ聖祭の目に見える印とは祭壇上のパンと葡萄酒の聖変化ですが、今、目に見えない現実、十字架上の犠牲を祭壇上に再現するための秘跡です。

要するに、一度だけ、十字架上で行われた犠牲の執り行い方こそ違いますが、捧げられる犠牲は同じであるということです。
ミサ聖祭は十字架上の犠牲そのものです。ミサ聖祭という聖なる犠牲において、十字架上の犠牲のすべての要素と効果を持っています。全くの一致です。ミサ聖祭という聖なる犠牲は十字架上の聖なる犠牲と同じ現実です。

さて、犠牲になるための要件を思い出しましょう。奉献、破壊、拝領という三つの要件があります。十字架上の犠牲の際、我らの主がご自分を捧げるというのが奉献です。そして、犠牲者の破壊は我らの主が死に給(たも)うたときです。受難の間、我らの主の御体から流れる御血こそが御死を一番あらわしています。死は身体と霊魂の離別を意味しますので、それを一番あらわしているのは身体と血が別々になるという血が流されることでしょう。

このように、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさいましたが、犠牲であるミサ聖祭において、十字架上の犠牲のすべての要素が含まれています。ただし、ミサ聖祭の場合、我らの主、イエズス・キリストはご自身を捧げ給うのですが、パンと葡萄酒の外観の下に捧げ給うことになさいました。玄義はそこにあります。まさに真の玄義です。

従って、ミサ聖祭の際、天主の怒りを鎮めるために、犠牲者を生贄にして司祭によって捧げ、そして拝領します。
犠牲者はあります。十字架上の犠牲者は本来の個別の御体をもったイエズス・キリストです。それは目に見える形で捧げられました。祭壇において、イエズス・キリストは現存しておられます。しかしながら、パンと葡萄酒という形色の下に、本質的な形で現存しておられるということです。これこそがミサ聖祭の玄義であって、そこにおいてこそ、犠牲は秘跡となります。

以前に見たように、ミサ聖祭という秘跡は目に見える、物質的なパンと葡萄酒という外観の下に、我らの主、イエズス・キリストの目に見えないご現存を実現する秘跡です。これは以前に見た定義ですね。そこにこそ、秘蹟と犠牲はつながっています。パンを指すために、ホスチアといわれることもありますが、ホスチアの意味は「犠牲者・生贄」という意味です。



要するに、ミサ聖祭の際、我らの主、イエズス・キリストは祭壇の上にご現存しておられます。身体を持った形でおられるのではなくて、パンと葡萄酒の外観の下で本質的な形でおられるということです。しかしながら、パンと葡萄酒の外観に過ぎなくて、ご聖体になった途端、我らの主、イエズス・キリストご自分自身となり、現存しておられます。現に、実際に、祭壇におられます。これは大事なことです。現実であって、実際に、十字架上の犠牲は今まさに目の前に再現されて改めて実現されているということです。

要するに、ミサ聖祭においては、十字架上の犠牲とのミサ聖祭の犠牲は同じ犠牲者です。同じく現におられる犠牲者です。十字架上なら、身体を以て。ミサ聖祭なら、本質をもって。

それから、生贄として犠牲を捧げて、犠牲者を破壊するということでもあります。十字架上の犠牲だというとわかりやすいですね。ご受難という非常な苦しみの結果、流血が伴い、そして生贄の破壊は十字架上の死で果たされました。言いかえると、ご霊魂と御体は離別した時、犠牲者の破壊は果たされます。

ミサ聖祭においても生贄の破壊は行われます。しかしながら、身体を以てではなく、パンと葡萄酒の外観の下にご現存しておられると同じように、秘蹟的な形でこの破壊は行われています。どういうことでしょうか?

十字架上と違って、祭壇上の破壊は流血を伴わないで苦しみを伴わないのです。要するに、ミサ聖祭の際、十字架上のように我らの主、イエズス・キリストは苦しまれていません。しかしながら、ミサ聖祭の際、御体と御血は離れる時があって、これは秘跡的な破壊となります。ですから、ミサ聖祭において、聖変化は二つあります。第一、パンを御体へ。そして葡萄酒を御血へ。この二重の聖変化は御血と御体の離別という現実を示し、十字架上の生贄の破壊を示しています。これは秘跡的な生贄の破壊を意味します。

ですから、この二重の聖変化は非常に重要です。この二重の聖変化がない限り、犠牲として成り立ちません。生贄にして犠牲を捧げるためには、生贄を破壊するという前提があるので、御血と御体の離別があってはじめて犠牲として成り立ちます。パンと葡萄酒は別々にあるという意味はそこにあります。犠牲だからです。犠牲者の破壊を示すのです。そこは秘跡になります。つまり、身に見える形で(パンと葡萄酒の別々の聖変化)十字架上の御死という現実を題壇上の再現という目に見えない実際にある現実を示します。



というのも、聖変化のあと、我らの主、イエズス・キリストはパンと葡萄酒の外観の下で双方に実際に現にご現存しておられますので、十字架上の犠牲は本当の意味で再現されます。もちろんこれは理性を越える玄義ですが、非常に重要な玄義です。そこにおいてこそ、ミサ聖祭の意義があります。

十字架上の犠牲とミサ聖祭の犠牲は全く同じです。形だけは違います。前者は流血を伴うが、後者は流血を伴わない。前者は実現された犠牲であり、後者は再現される犠牲です(十字架上の犠牲は唯一なので)。前者は目に見える形であり、後者で身に見えない形です。前者は身体を以て現実にあって、後者は秘跡を以て現実にあります。ということです。

ミサ聖祭は玄義中の玄義です。祭壇の上に、我らの主、イエズス・キリストはご自分をご自分自身によって捧げ給い続けることになさっています。
以上はミサ聖祭の中心である聖変化、犠牲を実現する中心部分でした。生贄の破壊を再現する部分です。

そして、犠牲が成り立つためには、「捧げる」ことが必要なので、司祭が執り行うことが要件ですね。十字架上の犠牲の際、司祭は我らの主、イエズス・キリストご自身です。永遠なる真の司祭なるイエズス・キリスト。

祭壇上の犠牲の際、イエズス・キリストは代理人をお選びになって、ご自分の持っておられる全権を代理人に託すことになさいました。
ですから、聖変化の時、司祭は「In persona christi」として犠牲を捧げると言われています。つまり、キリストご自身にして犠牲を捧げるという意味です。つまり、聖変化の時、司祭は自分の人格を完全に失うかのように、我らの主、イエズス・キリストは司祭を完全に任じる形で、イエズス・キリストが捧げ給うように司祭に任じられたことになります。言いかえると、聖変化の時、イエズス・キリストは司祭の代わりに、司祭の体を借りて、犠牲を捧げ給うことになります。



これこそ、司祭の立派なところです。つまり、イエズス・キリストの全くの道具となります。自分の名においては何もせず、イエズス・キリストを捧げ給うのです。また、あと後述しますが、犠牲の執り行いと司祭職とは密接につながっています。ミサ聖祭の時の司祭は「Alter christus」で代わりのキリストとなっています。

そして、最後に、十字架上の犠牲が捧げられた第一の目的は天主の御怒りを鎮めるためです。で、そのおかげで、全人類のために効果を表しました。同じように、ミサ聖祭は天主の御怒りを鎮めて、参列して拝領している人々へその効果をもたらします。

十字架上の犠牲の際、我らの主、イエズス・キリストは無限の功徳を得られて、全人類の救霊を得られる無限の功徳を得しめ給いました。我らのために。祭壇上の犠牲の際、十字架上で得られた功徳は霊魂たちに分配されています。ですから、実際に救霊を得るためには、ミサ聖祭の犠牲と一致する必要があります。言いかえると、十字架上の犠牲と一致する必要があります。そうすることによって、十字架上に得られた救霊のための功徳の効果を頂けます。

以上,ミサ聖祭の犠牲を紹介しました。繰り返しますが、十字架上の犠牲は苦しみと身体を以て、流血の結果に、死に給うことをもって遂げられた犠牲となります。ミサ聖祭の犠牲は二つの聖変化によってとげられる犠牲の再現です。で、十字架上の犠牲の時、我らの主、イエズス・キリストによって得られた功徳をミサ聖祭の犠牲はこれらの功徳を分配し、割り当てます。そして、これらの功徳は余るほどあふれているので、ミサ聖祭の犠牲の効果は無限で限りないということになります。



また、今度ご紹介しますが、新しいミサと司祭職については、もう、お気づきだと思います。新しいミサにおいて、何もかも非神聖化されたし、犠牲のすべての要素は見えないようにされていて取り消されています。奉献、生贄の破壊、天主の怒りを鎮めることなどなど。

悲しいことに、新しいミサを行ったせいで、天主の怒りを招いた司祭はどれほどいるでしょう。間違いなく、神聖中の神聖なる営みを非神聖化することは大きな責任を伴います。つまり、ミサを人間レベルに引き落として、十字架上の犠牲との一致、一体化のすべてを取り消し、どれほど信徒の霊魂への弊害があるかは見えてきたと思います。我らの主、イエズス・キリストを侮辱するようなことです。玄義中の玄義はむやみに変更して操る事柄ではないわけです。

以上は、ミサ聖祭という聖なる犠牲をご紹介しました。
そして、前の講座も含めて、犠牲の定義、それから十字架上の犠牲の完全性を理解することによって、ミサ聖祭の犠牲が何であるかをより理解していただければ何より幸いです。また、どれほど大事な秘跡であって、どれほど、我々がミサ聖祭を中心にすべきか、または司祭の存在理由はひとえにミサ聖祭にあるのかが見えてきたでしょうか?
司祭の第一の存在理由は人間のためにあるのではなく、天主に犠牲を捧げるためにあって、天主の御怒りを鎮めるためにあります。司祭は「In persona christi」として犠牲を執り行います。そして、それを実施してはじめて、司祭は天主のお恵みを多くの霊魂に分配して及ぼすことができます。



では、現代では一体なぜ天主はまだ具体的に手を出さないで、罰を受けるべき多くの人々に天罰をまだ下っていないでしょうか?聖伝のミサ聖祭が引き続き挙行されているからこそ、天主の御怒りを鎮める効果はいまだに続いているからでしょう。
ある意味で、現代の堕落をみて、現代の醜い罪を見て、これでも天主の御手を止められるミサ聖祭の効果がどれほどあるかが評価できると思います。

最後に自覚しましょう。ミサ聖祭こそが我々の人生の中心になるべきです。なぜでしょうか?ミサ聖祭の時、拝領すると、我らの主、イエズス・キリストの犠牲に一体化、一致させられるからです。その結果、犠牲に伴う恩恵は我らの霊魂に流れ込むことになります。

旧約の犠牲は廃止された。イエズス・キリストの十字架上の犠牲によって。

2021年03月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十六講 旧約聖書の犠牲と我らの主、イエズス・キリストの犠牲



旧約聖書の犠牲と我らの主、イエズス・キリストの犠牲
Gabriel Billecocq神父

以前、一般的にいう犠牲とは、何であるのかを見てみました。「奉納品の破壊を伴う外的な奉献であり、これは内面的な奉献を示す祭礼」のことです。
次に、犠牲をよりよく理解するために、犠牲の四つの目的を紹介しました。第一に、礼拝そして感謝。第二、償いあるいは贖罪。第三、恩恵の希求。第四、神との一体化 あるいは一致(拝領)。

要するに、犠牲を執り行うことによって、人間が神に物質的な貴重品を捧げて、そうすることによって、その所有権を捨てて、神に属させるということで、犠牲にされる奉納品は「聖化」される(これは西洋語において犠牲の語源の意味になっている)ということです。そして、このような犠牲を捧げることによって、人間は神への依存、それから犠牲にされる犠牲者との絆を示しています。犠牲者との絆は、犠牲を捧げる人々が内面的に神に自分を奉献することを表すためです。同時に、破壊される奉納品、犠牲者を通じて、神との一体化を図る祭礼となります。

殆どの場合、どこでもいつでも犠牲において捧げられる奉納品は形を問わず破壊されています。なぜでしょうか?それは、人間は神のために、より完全な「奉納」をするためです。奉納品を破壊すると、人間は取り消すことなく、本当に、その奉納品を神に完全に譲ったよということを表すからです。

もちろん、犠牲という祭礼は主に外的な儀式となっています。奉納品を奉献するのも、奉納品の破壊も、その拝領も、身体を動かす祭礼であり、物質的な要素が多いです。しかしながら、同時に、このような外的な祭礼は内面的な犠牲を示すことでもあって、またそのように示すべきです。

天主は霊的な存在なので、霊的な犠牲を捧げる必要もあるということです。我らの主はこう仰せになりました。「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ、4、24)と。つまり、物質的な現実を通じて、霊的な現実、それから内面的な現実を表すということです。

以上、簡単に以前に見たことを要約してみました。少しだけ、犠牲の歴史を見てみましょう。この講座の目的は歴史ではないので、手短にしますが、我らの主、イエズス・キリストの犠牲をより良く理解するために、ある程度、犠牲の歴史を見ておきましょう。

まず、犠牲という現象は「自然次元」に属します(つまり、人間の本性に織り込まれている事柄で、人間にとって必須の営みです)。もちろん、カトリックにおける犠牲は超自然次元の営みでもあり、天主は超自然のレベルまで犠牲を引き上げたということですが、そうすることによって、その自然のレベルを破壊したことはなく、むしろ、その自然レベルを全くそのままに保ちながら、これを昇華するのです。言いかえると、天主の生命の働きによって、本来ならば人間の本性を越える実が結ばれることを可能にするのが天主の聖寵ということになります。

ですから、旧約聖書の時代、天主は既にヘブライ人に犠牲を要求しました。しかしながら、犠牲という祭礼はどこでもいつでもすべての宗教において存在する祭礼です。どこでもいつでも宗教というものは、お供え、犠牲、生贄などがあります。以前に定義した犠牲が必ずあります。



例えば、古代エジプト、古代メソポタミア、古代ギリシャと古代ローマなどの犠牲の歴史は資料が多く残ってよく知られています。また、アステカをはじめ、中南米の犠牲などもよく知られています。アフリカの多くの文明においても犠牲があります。アジアも一緒です。どこでもいつでも祭礼があります。というのも、祭礼を営むのは人間の本性の一部であって、人間は社会において必ず祭礼を捧げます。

というのも、創造主が存在するということは現実なので、その自覚度あるいは認識度がばらばらであるとしても、どこでもいつでも少なくとも人間を超える存在を崇拝して、礼拝を捧げる営みが存在します。人間の本性に刻まれる事柄です。どうしても創造主たる存在へ礼拝を捧げようとします。つまり、自分を創造したとされる存在へ、犠牲を通じて祭礼を捧げるのはどこでもいつでもある現象です(先祖へであろうとも、仏へであろうとも、神々へであろうとも)。

そもそも、創造主を想定して捧げられた犠牲でしたが、もちろん、歴史上に、多くの誤謬と邪道が生じて、多くの過酷なこともありましたし、間違った対象に犠牲を捧げることもありましたが、それは別の問題です。つまり、面白いことに、どれほど邪道になっても、間違っても、過酷になっても、とりあえず、人間の社会なら、どこでもいつでも、祭礼があって、犠牲という祭礼が存在するということです。人間の本性に属する要素なので、普遍的な現象になるからです。

では、なぜ悲惨な犠牲などが生じたでしょうか?それは人間が罪人であって、原罪を負っているから、どうしても人間が営む事柄において、その罪も染まってきて、本来の筋から脱線したり邪道になったりすることは多くて当然のことです。それでも、形を問わず、人間の本性に従って、人間は必ず、犠牲を捧げようとします。

いわゆる、歴史上に生じた人間の生贄、あるいは子供や赤ちゃんの生贄があったのですが、一番覚えてほしいのは、形をさておいても、以前、定義した「犠牲」、つまり「上の存在への供え物、奉納、奉献」という祭礼はいつでもどこでもあるということです。

いや、逆にいうと、現代でも新興宗教や多くのセクト、たとえば、フリーメーソンの幾つかのロッジにおいて、人間の生贄、あるいは悪魔のミサが確認されていますが、それでも犠牲なのです。ただ、「悪魔へ捧げた犠牲」になりますが、しかしながら、間違った対象になったとしても、人間は必ず犠牲を捧げる本性を持っています。それだけは変わりません。

このような悪魔のミサや人間の生贄などは、凄まじく醜く人間の本性に背く生贄になりますが、それでも逆説的に、「悪魔に感謝を捧げる」というようなことになっても、彼らが間違った対象に犠牲を捧げても、彼らは絶対視される何かへ「自分を奉献する」、あるいはその絶対化されたその存在への依存を示そうとして、犠牲の祭礼があります。

何のためにささげられるのでしょうか?残念ながら、現世利益を求めて、権力と金などを得るための犠牲になりますが、それでも犠牲であるということに関しては、人間の本性を表します。以上の悪魔へのミサは一番堕落した形の犠牲になるかと思いますが、それを語る資料などをみたら、現にひどいものですが、より広く知られているところでいうと、いくつかの「ロックバンド」は文字通りに「悪魔に自分を奉献する」祭礼を展開している現実があります。彼らは現世利益を得るために、悪魔へ犠牲を捧げ、また悪魔と一体化して、拝領しますが、悲劇的な結果となります。

しかしながら、面白いことに、どれほど間違った方向にいっても、人間の本性はかわらないのです。つまり、面白いことに、どれほどの誤謬になったとしても、誤謬自体は本質的な事柄として存在しないので、すべての誤謬は一部の真理をもっていて一部の真理を表します。たとえば、このような悪魔への犠牲の場合、「犠牲を捧げるのは人間の本性の一部である」ということを証明します。どうしても、人間が犠牲を捧げます。
問題は、善く捧げるべきだということです。
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そうするために、旧約聖書において、天主ご自身はどうやって犠牲を捧げるべきかについて細かく規定なさいました。天主は創造主であって、また犠牲が捧げられている時、天主への犠牲なので、天主ご自身が旧約聖書において犠牲を規定することになさいました。これらの規程はモーゼ法に記されています。

モーゼ法以前にももちろん犠牲はありました。例えば、カインとアベルの二つの犠牲がありますね。カインが捧げた犠牲を天主は受け入れませんでした。一方、アベルの犠牲を天主は受け入れました。言いかえると、前者の犠牲を捧げても天主の好意を得られない一方、後者の犠牲を捧げられたら天主の好意を得られるということでした。

なぜでしょうか?新約聖書は、なぜ後者は有効になっていた一方で、前者は無効だったかを説明します。それは、アベルが犠牲を捧げた時、自分の霊魂をも奉献したおかげで、外的の犠牲と内面的な犠牲は一致していたので、天主のお気に召されました。一方、カインの犠牲は外的な犠牲、形式的な犠牲のみを捧げており、自分を奉献しなかったので、天主はカインの犠牲を拒まれました。否定しました。

ただ、カインとアベルの時代には、すでに犠牲が捧げられていたということです。ノア、アブラハムなども犠牲を捧げたことが記されています。例えば、ノアの大洪水のあと、ノアは犠牲を捧げた記述もあるし、アブラハム、イサクなども一緒です。歴史と人類学の成果を見ても、どこいつも犠牲があることは確認されていますが、ヘブライ民と旧約聖書においてももちろん犠牲がありました。



そして、時代が下って、天主はモーゼに律法を与えられたとき、犠牲を細かく規定なさいました。これはいわゆる「旧法」と呼ばれる律法であり、後述しますが、イエズス・キリストによって旧法は廃止されて、もはや有効でなくなりましたが、あとでなぜどうやって廃止したかということを紹介します。

要するに、旧約聖書において天主は犠牲を規定なさいました。犠牲において、流血を伴う犠牲もあれば、流血を伴わない犠牲もありました。流血を伴わない犠牲でいうと、例えば果物の供え物とか、お香、油などを奉献する奉納でした。それで、殆どの場合、お香を焼いて、油を火になげたりしていたので、ある意味で、流血を伴わないお供え物においても、奉納品の破壊が存在しました。

それから、流血を伴う犠牲には種類が三つありました。 
第一、ホロコースト(いけにえ)がありました。
第二、罪のためのホスチア(いけにえ)がありました。
第三、平和的な犠牲がありました。

さて、それぞれを見ていきましょう。
第一、ホロコースト(いけにえ)という犠牲は奉献される奉納品の完全な破壊を意味していました。つまり、犠牲者は完全に焼かれた犠牲でした。神殿において、その犠牲のための場所があって、司祭たちはそこでホロコーストを捧げていました。つまり、犠牲者を全く残さない犠牲。

第二、罪のためのホスチアと呼ばれる犠牲は、罪を償うためにありましたが、捧げられた犠牲者の一部を残して、司祭たちはそれを食べていました。つまり、この犠牲の中心の目的は贖罪です。ホロコーストの場合、礼拝が中心の目的になる一方、罪のためのホスチアの場合、贖罪が中心の目的となります。ですから、司祭は犠牲者の一部を拝領して、つまり一部を食べました。

第三の平和的な犠牲は主に、「感謝する」ということを目的にしています。面白いことに、モーゼ法の犠牲において、犠牲の種類ごとに殆ど犠牲の目的別で分けられていますね。もちろん、すべての目的はすべての犠牲においてにありますが。
そして、平和的な犠牲において、犠牲者の一部は司祭と犠牲を捧げていた一般人によって食べられたのです。

要約すると、第一の犠牲、ホロコーストの場合、犠牲者の全部が破壊されます。
第二の犠牲、贖罪のための犠牲の場合、司祭が犠牲者の一部を食べます。
第三の犠牲、感謝を中心にする犠牲の場合、司祭と犠牲を捧げることを頼んでいた「奉納者」は犠牲者の一部を食べました。

以上が、旧約聖書における犠牲の幾つかの種類です。ここで一つ指摘しておきましょう。旧約聖書の犠牲には犠牲として効果がありませんでした。つまり、不完全な犠牲でした。

なぜでしょうか?これらの犠牲を捧げていた人が罪人だったからです。で、罪人なる人、罪人として犠牲を捧げる人は天主の好意を得ることはできません。というのも、これは矛盾そのものだからです。「罪人」であるというのは、天主の好意を得ていない、自力で好意を得られないという意味ですから、天主の好意を得ていない人が天主の好意を得ようとしても無理があります。

罪人は天主と間に、絶交の状態にある人なので、このような人が他人のためにも自分のためにも仲直りを得ようとしても一体どうやって得られるでしょうか?自分の力だけでは無理があります。つまり、言いかえると、罪人が捧げる犠牲の価値は一体どうやってあり得るでしょうか?というのも、罪人は天主の味方ではない、天主の好意を得ていない人なので、天主から見て彼が犠牲を捧げても何の価値がないのは当然でしょう。(想像してください。あなたを徹底的に侮辱した人が何の仲介者なし、償いなし、自分のため、あるいは他人のため、あなたに恵みを乞いに来てもその申請を受け入れることはあり得ないようなことと似ています)。



言いかえると、司祭が天主によってお気に召されて初めて、その司祭が捧げる犠牲に効果があります。その逆ではないのです。天主のお気に召されていない人が犠牲を捧げても効果はありません。そして、罪人という定義は天主のお気に召されていないという意味です。

このように、罪人によって捧げられた犠牲は不完全でした。しかしながら、現実として、旧約聖書においての犠牲は天主のお気に召されていたのではないかと思う方もいるでしょう。確かにそうなのです。旧約聖書においての犠牲は天主のお気に召されていましたが、なぜでしょうか?旧約聖書においての犠牲は別の特別な犠牲を示し、予兆していたとしてのみ、天主のお気に召されていたということです。つまり、別の完全な犠牲の象徴、予兆であったこととしてのみ、天主が旧約聖書においての犠牲を肯定していたということです。

ですから、旧約聖書においての犠牲の価値は結局、我らの主、イエズス・キリストの犠牲を目的にしていたということです。要約すると、旧約聖書における諸々の犠牲は、我らの主、イエズス・キリストの完全なる犠牲、正しい犠牲、唯一の有効な犠牲を予兆して、象徴していたのです。

我らの主、イエズス・キリストの犠牲は、旧約聖書の犠牲にはなかった完全性を持っています。だからこそ、十字架上の我らの主、イエズス・キリストの犠牲は旧約聖書のすべての犠牲を廃止しました。というのも、旧約の犠牲は、イエズス・キリストの犠牲を予兆させるためにのみ、存在した犠牲だったから、実際に、イエズス・キリストの犠牲が実現されたら、もはや旧約聖書の犠牲の存在理由は消えたからです。

また、旧約聖書の約束もイエズス・キリストの犠牲によって果たされたので、その旧法も果たされて、亡くなって、その代わりにイエズス・キリストの犠牲が新法をもたらしました。旧法を完成した新法、旧法よりも清く正しく現実的である新法をもたらしたのはイエズス・キリストの御血です。旧法では、羊やヤギなどの血は何の価値もありませんでした。イエズス・キリストはそれについて仰せにもなっています。


このように、イエズス・キリストの十字架上の犠牲をもって、唯一、完全なる犠牲を果たしたことによって、旧法の約束を果たして、その意味で旧法は廃止されました。また、ですから、我らの主、イエズス・キリストの犠牲をもって、旧約聖書は終わります。つまり、旧約聖書における天主の御約束を成就したイエズス・キリストの犠牲、イエズス・キリストの御血なので、もはやその約束のためにあった旧法、立法などの存在理由がなくなり、廃止されます。

そういえば、現代のユダヤ教を見ても以上のことは確認できます。面白いことに、今でも旧約聖書は終わっていないと思い込んでいるユダヤ人たちは現実問題として旧約聖書の律法を続けることができません。というのも、神殿が破壊された時以来、モーゼ法に従って犠牲を捧げることが不可能になっている状態にあります。これはイエズス・キリストの犠牲以降、ずっと続いています。事実上、旧約聖書の犠牲も廃止されています。

ユダヤ教においては、現在、犠牲はもはや存在しません。悲しいかもしれませんが、天主は旧約聖書を廃止したから、ユダヤ教徒たちがどれほど踏ん張っても無駄です。現実を見ると、明白なのに。つまり、ユダヤ教において神殿が破壊されて、また犠牲もなくなったのです。



で、犠牲がなくなると、宗教はもはやなくなったということになります。ですから、犠牲のない現代のユダヤ教は宗教ではありませんし、宗教になろうとおもってももはやなれません。というのも、旧約聖書の諸々の犠牲の不完全性に代わって、我らの主、イエズス・キリストの完全なる犠牲が実現されつづけているからです。

さて、では、なぜ、我らの主、イエズス・キリストの犠牲は完全であるのでしょうか?以前に見た通り、イエズス・キリストは真の天主であると同時に、真の人でもあります。両方です。イエズス・キリストの人間性はイエズス・キリストの天主性によって聖化されています。これは御托身の玄義です。位格の結合の玄義です。要するに、イエズス・キリストは真の天主であるおかげで、いつまでも人間ならだれも持てない完全性をイエズス・キリストが人として持っています。

具体的にいうと、我らの主、イエズス・キリストには原罪がありません。天主であるから、原罪を負えません。具体的には、奇跡を通じて、聖霊の御宿りによってお生まれになったことは、その無原罪を示します。我らの主、イエズス・キリストは真の人であると同時に、真の天主であるということです。完全に人であると同時に、完全に天主であるイエズス・キリストなのです。

では、イエズス・キリストは何をなさいましたか?唯一、本物の犠牲を捧げ給ったのです。ご自分自身を犠牲者として捧げ給ったのです。すでに教義の部に紹介しましたが、聖なる犠牲、本物の犠牲が実現されたのは十字架上の時です。

第一、天主へ捧げられた犠牲です。また我らの主、イエズス・キリストは天主ご自身です。第二、我らの主、イエズス・キリスト、完全である司祭、至上に浄い司祭によって捧げられた犠牲です。第三、捧げられた生贄はイエズス・キリストご自身です。イエズス・キリストはご自分自身を犠牲者として捧げ給ったのです。「その命は私から奪い取り物ではなく、私がそれを与える」(ヨハネ、10、18)と仰せになりました。要するに、我らの主、イエズス・キリストは司祭としてまた犠牲者なるご自分自身を捧げ給うたのです。

要約すると、我らの主、イエズス・キリストは天主なるご自分自身に犠牲を捧げ給うたのです。また、犠牲を捧げ給った司祭でもあります。また捧げられた犠牲者でもあります。そして、その上、真の人なるイエズス・キリストなので、人として捧げ給い、十字架上の犠牲の効果を全人類まで及ぼしました。

以上に見るように、十字架上に実現された生贄はこの上なく完全なる聖なる犠牲なのです。

また、現に、唯一の本物の犠牲は我らの主、イエズス・キリストの犠牲のみです。他のすべての犠牲は最高でも似非(えせ)犠牲にすぎません。旧約聖書なら、我らの主、イエズス・キリストの犠牲を予兆し、象徴として特別な位置づけがありましたが、十字架上の犠牲が実現された時点で、旧約聖書の犠牲は廃止されました。無用となったからです。天主の御約束が果たされたからです。また、イエズス・キリストの犠牲はいとも完全なる聖なる犠牲になられたので、他にはこのような完璧な犠牲は存在し得ません。

つまり、我らの主、イエズス・キリストの犠牲はこの上なく犠牲中の犠牲を捧げ給うたのです。イエズス・キリストの犠牲に適える犠牲は存在しません。そしていつまでも存在しません。

繰り返しますが、我らの主、イエズス・キリストのみ、本物の、唯一の聖なる犠牲を捧げ給うたのです。十字架の犠牲です。また、この犠牲は永遠です。というのも、我らの主、イエズス・キリストの司祭職は永遠だからです。真の天主であるからです。我らの主、イエズス・キリストの司祭職は永遠だからです。従って、我らの主、イエズス・キリストの司祭職は唯一で、無比です。ですから、その犠牲も唯一で、無比です。そのため、唯一なる永遠なる犠牲と司祭職なので、我らの主、イエズス・キリストには継承者がありません。司祭なる我らの主、イエズス・キリストには継承者がありません。



旧約聖書においては違いました。司祭には継承者があって、定期的に司祭職を継承していました。が、新約聖書では、司祭たちは司祭職を継承していません。天主によって、我らの主、イエズス・キリストの司祭職とその司祭権に任じられているだけです。

また後述しますが、新約聖書の司祭たち(司祭と司教)は「Alter Christus」であって、代わりのイエズス・キリストであって、キリストの継承者ではありません。あえて言えば、イメージですが、司祭になった時点で、もう一度、我らの主、イエズス・キリストの司祭職が具現化したかのように、完全にその司祭職が司祭に与えられているということです。

言いかえると、司祭は我らの主、イエズス・キリストの司祭職をそのままに延長しています。また、司祭はイエズス・キリストの権限と権威に与っていますが、司祭個人としては何の力もありません。あくまでもイエズス・キリストに任じられたとして、イエズス・キリストを代理して、その権限と権威を持っています。

王権上の勅使に似ています。あるいは政治上の大使に似ています。つまり、天皇が任命して、天皇がいないとして、天皇の権限と権威を持った大使あるいは勅使。そして、大御心を仰ぎ、大使あるいは勅使が天皇のご意向通りに行動するにすぎません。

また今度、見ておきますが、司祭が捧げる犠牲であるミサ聖祭は十字架上の聖なる犠牲、唯一の犠牲そのものであって、その再現です。神父は十字架の聖性により、新しい犠牲、あるいは違う犠牲を捧げないということです。神父は全く同じ犠牲を捧げるのです。

以上のように我らの主、イエズス・キリストの完全なる性格を見ました。永遠に確立された聖なる十字架の犠牲は、古い犠牲を果たしてそれを実現させることにより、古い犠牲を廃止したのです。

ミサ聖祭の重要な「四つの目的」

2021年02月24日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十五講 生贄・犠牲の諸目的



生贄・犠牲の諸目的
Gabriel Billecocq神父

前回、犠牲・生贄の定義を示したように、犠牲には三つの要素があります。
一つは、お供えがあります。いわゆる「奉納」あるいは「奉献」です。天主へ私たちが持っている「何か」を捧げるということで、その「何か」を完全に投げ捨てて、離れていて、天主の物にするという「奉納」。そして、このように外的な奉納を行うことによって、「天主への内面的な献身」を示しています。それから、犠牲の第二の要素はお供え物の崩壊があるとみました。それから、第三の要素は天主との一致のために犠牲を捧げるということをもみました。

今回、犠牲の諸目的を中心に見ていきたいと思います。つまり、何のために犠牲を捧げるでしょうか?

以前、すでにちょっと触れた課題です。祈りについてご紹介した時、祈りの目的は四つあると説明しました。当然と言えば当然ですが、この四つの目的は犠牲の目的としても数えられています。

犠牲は祭礼の一環でありますので、公的な儀礼であり、政治的かつ社会的な役割を持つ祭礼でもありますので、犠牲は全く祭礼の一つなのです。祈りもまた祭礼に属します。もちろん、祈りの場合、犠牲よりも私的な行為としても行われることが多いし、そして場合によって、外的な行為を伴わない完全な内面的な行為としての祈りもあるわけですが、祭礼の一つの執り行いとしても祈りがちゃんと存在しています。

従って、祭礼のすべての執り行いに共通している様子がありまして、犠牲も祈りも同じ四つの目的があります。あえて言えば、祈りの場合よりも、犠牲においてこの四つの目的が明確となると言えましょう。では、これから、犠牲の四つの目的をゆっくり見ていきましょう。
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犠牲の定義を思い出しましょう。
「犠牲」とは「祭礼の内の一つの儀礼であり、可視的な奉納を通じて、内面的な宗教的な行為の実践を示す物質的な「何か」を投げ捨てて神の物にする儀礼です。そうすることによって、自分自身を奉献する人々は神との一致をはかるのです。」

そして、犠牲の諸目的は以上の定義で見た犠牲の本質から生まれます。
そして、犠牲の第一の目的、また一番大事な目的は「礼拝する」ということです。ですから、犠牲という祭礼を捧げる第一の目的は天主を礼拝することにあります。この目的は一番中心にあって、犠牲という儀礼の本質から生じる目的です。なぜでしょうか?

犠牲を執り行うことによって、人々は自分の持っている「何か」の所有権を捨てて、この「何か」を天主に奉献するわけです。俗に言うと、神にお供えするという形で神に「プレゼント」を差し上げるということです。では、「お供えする」あるい「奉納する」という行為は何を意味しているでしょうか?奉納先への依存を表して認める儀礼となります。

言いかえると、犠牲者あるいは奉納品を奉献することによって、その所有権を人間から天主へ移転させるというのは、まさに犠牲という儀式です。この奉納品の所有権をあきらめるという外的な行為によって、内面的な天主への献身が示されています。要するに、外的な奉献を通じて、内面的な実践を示し、それは内面的な献身を意味する「犠牲」なのです。言いかえると、天主への依存を認めて積極的に示している「犠牲、お供え物」なのです。

ですから、犠牲の一番の特徴は天主への依存を示していることにあります。これこそが「礼拝する目的」の意味です。「天主を礼拝する」というのは、天主は我らの主であること、我らの創造主であることを積極的に認める行為です。また、我らは天主の使い人であること、また聖寵によって我らが天主の養子であることを積極的に認める行為です。要するに、我ら人間は天主に依存しているよという事実を積極的に認める行為です。犠牲という祭礼は天主への依存を示しているという目的が中心にあります。

そして、お分かりのように、天主への依存を示していることによって、ミサ聖祭という犠牲は被創造物と創造主との絆を語っているのです。つまり、犠牲を通じて、人間は天主に事実としてどうしても依存していること、それから人間が天主との一体によってその天主との絆を深めて実践していきたいという願いをも表しています。

被創造物として、人間はみな、天主に依存しています。そして、カトリック信徒は洗礼によって贖罪された天主の養子として、他の宗教では存在しない、比較できないほどの天主との深い絆があります。ミサ聖祭はカトリック信徒に限って、カトリックにおいてのみある、天主との親子関係という絆を示す犠牲です。

それはともかく、繰り返しになりますが、犠牲の第一の目的は天主との絆、天主との関係を表すことにあります。しかしながら、絆とはなんでしょうか?そもそも西洋語では「宗教」の語源的な意味です。「Religio」とは「Religare」に由来していて、つまり宗教とは人間を「(天主に)つながらせる」という意味です。ですから、犠牲という儀礼は祭礼の儀礼中の儀礼です。一番、この上なく、宗教的な行為を実践する儀礼です。なぜでしょうか?犠牲という祭礼こそが、天主への依存をあらわすための執り行いです。天主との絆をあらわしているための執り行いです。

要するに、天主を礼拝するという目的は犠牲の目的中の目的です。ミサ聖祭に参列する際、必ず「礼拝する」という目的を思い出しましょう。また、十字架上の聖なる犠牲を黙想するとき、その「礼拝する」こと、天主との絆のことを思い出しましょう。あるいは、ミサ聖祭と別に、個人的に犠牲を払おうとするときにおいても、天主への礼拝を表すことは非常に大事です。つまり、天主への依存という関係を表すことが非常に大事です。

ご覧のように、犠牲を通じて、犠牲を払う人は自分自身を天主に奉献するのです。自分自身を天主に投げ捨てます。犠牲を天主に奉納することによって、犠牲を払う人自身の奉献を示しているのです。まさにこれは「献身する」ということで、自分自身を天主に捧げるということで、礼拝するということです。これらの言い回しは類似していますね。献身、奉献、捧げる、礼拝するなど。

だからこそ、司祭はこの上なく「天主にささげられている」存在なのです。また、だからこそ、三つの誓願を捧げる修道女と修道士も「天主にささげられている」存在なのです。そして、聖職者は天主の奉献の上、その内に最期まで生きていきます。つまり「聖別」された存在です。

まとめると、犠牲の第一の目的は「礼拝する」ことにあります。



犠牲の第二の目的も非常に大事です。この目的はこの世での我々の状態から生じます。つまり、我々は必ず罪人であるということから生じます。人間は罪人であることは誰人も簡単に確認できるし、また信仰もその真理を教えています。原罪があったゆえに、われわれは罪人という状態の内に生きざるをえません。あえていえば、かならず罪の支配の下にこの世に生まれる人という事実。皆、罪人です。みな、欠陥があって不完全です。罪とは「天主への侮辱」です。で、天主への侮辱を償うためにはどうすればよいのでしょうか?贖罪することによって罪を償えるのです。では、贖罪するためにどうすればよいですか?犠牲をもって、贖罪するのです。

ここでも、外的な犠牲は内面的な犠牲を表します。つまり、罪の償いを行うための犠牲です。罪を贖うためです。
罪を犯したら、その罪を償う必要があります。つまり侮辱した相手の下に慎み深く行って、その「赦し」を希う必要があります。まさに、犠牲はそのためにあります。人間が侮辱している天主の赦しを希うために、貴重な奉納品、つまりある犠牲を天主に捧げて、罪を償おうとします。

そして、天主の赦しを希(ねが)うことによって、罪によって反逆者となった人間に対するもっともな天主の怒りを鎮めようとしています。犠牲を通じて、天主に対する反逆(つまり罪のこと)を償うことになります。ですから、犠牲において、奉納品を破壊することによって、犠牲を払う人の「償いたい心」を表して、天主との「仲直りしたい心」を表します。

ようするに、犠牲の一つの目的は天主の赦しを得て、天主の好意を得ることにあります。また後述しますが、残念ながらもこの第二の目的は新しいミサにおいてかなり薄められてしまいました。つまり、犠牲の第二の目的は贖罪にあります。要は、我々が犯した罪を償うという目的です。そうすることによって、天主の怒りを鎮めて、我々に対する天主の好意を得て、つまり、天主のご慈悲を得るように、御憐みをえるためです。

罪のせいで苛立った天主は我々が捧げる犠牲のお陰で、天主を喜ばせて、天主との仲直りを得るのです。天主からの我々への好意、そのご慈悲を得るのです。また、天主の御赦しを得しめる犠牲です。これが第二の目的です。

要するに、犠牲における「供犠」あるいは「犠牲」という行為自体によって、つまり「お供え」する部分よりも、奉納品、犠牲者を破壊する行為によって、苦しい形で、負担付きの形で、つまり奉納品を完全に失うという形で、これは破壊ですが、犠牲を払う人は「罪を償いたい意志」を実際に表します。

つまり、犠牲において、必ず償いの目的があります。そういえば、罪を償い、罪を贖うこと、そして天主の好意、天主との仲直りを得ることは非常に密接につながっています。双方は同時に両立するわけです。人間が罪を償う。そして、天主の怒りは鎮まってほしいという。犠牲において、この双方の側面があります。というのも、先ほどに申し上げたように、犠牲によって、天主との絆を積極的に認めて深めていく祭礼です。したがって、天主との絆は単なる「依存」だけではなく、本物の暖かい相互な絆になるために、人間が贖罪する必要があります。天主への侮辱を払った暁に、つまり犠牲によって罪を償った暁に、天主はいよいよ人間を好意的にみることになります。

贖罪という犠牲の第二の目的は非常に大事です。
繰り返しますが、犠牲から「贖罪」という目的がなくなったら、天主と人間との間の絆がきちんとしているという確信はなくなります。ようするに、贖罪という側面をなくしてしまうと、人間の犠牲、あるいは人間の祈りを天主は聞き入れ給うかどうかということがぼやけしてしまいます。これは悲劇的なことです。



また今度、話しますが、本当に困ったことです。新ミサにおいて、この「贖罪」の効果は薄められて、不信の種となります。罪を償うという側面は新ミサにおいて薄くなる分、天主の御赦し、天主からの好意を得られなくなるわけです。天主は馬鹿やさしい存在であるわけがありません。天主は正しいです。正義を全うする天主です。ですから、憐み深い天主であると同時に、正義を全うする天主でもあります。つまり、天主が憐みを配るために、その前提に正義が全うされる必要があります。

つまり、御赦しを得るために、罪を償うことは必要不可欠です。憐みと正義は密接につながっています。いわゆる、正義が全うされた途端、無限に正義が要求する対価よりも遥かに非常に天主が我々に恵みを施し給うという憐み深いことです。犠牲において、人間側は恩返しするだけではなく、天主に対する侮辱を償うことによって正義を全うする結果、天主が御憐みを垂れたまうのです。以上は犠牲の第二の目的です。
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犠牲の第三の目的に移りましょう。以上の二つの目的からの帰結になります。
贖罪することによって、人間は天主と仲直りして、その絆を強めて、その絆をよくした結果、天主からの好意を人間が得た関係となりました。つまり、積極的に罪を償おうとして、犠牲を捧げたおかげで、天主の御赦しを得ました。つまり、礼拝と贖罪によって、このような好意的な関係ができた暁に、天主は多くの恵み、おおくの恩寵を人間のために分配されて、また人間はこれらの恩寵を希うことも可能となります。

礼拝の行為を捧げて(天主に従う心をあらわす)、罪を償った(天主に従うことを完成させる行為の)おかげで、願いを天主に捧げても聞き入れ給うことが可能となります。天主は礼拝と贖罪によって人間に対して好意的になったので、人間の願いを叶い給うことは可能となりました。

要するに、犠牲の第三の目的は「恩寵を希(ねが)う」ことにあります。そういえば、天主はいわゆる「恵みの自動的な配分者」ではありません。なにか自動的に、いつもどこも、かならず天主が機械的に恩寵を配分するような存在ではありません。天主は恩寵を垂れるためには、天主と人間の間に犠牲によって清められた絆・関係が前提となります。「恩寵を希う」という目的は「礼拝」と「贖罪」との目的から直接に生じます。



そして、犠牲の最後の目的は「感謝する」ことにあります。天主より頂いた無数の恵みのために天主に感謝するという意味ですが、それだけではなく、「聖体拝領」というニュアンスもあります。つまり、ミサ聖祭の第四の目的は天主との一致であります。それは御聖体の拝領によって実現します。単なる一致だけではなく、天主との一体、天主との完全な分かち合い、合体となります。ですから、犠牲の第四の目的は「天主との一致」であって、つまり「イエズス・キリストになる犠牲者を拝領」することにもあります。

繰り返しになりますが、外的な犠牲は内面的な犠牲を示しています。ですから、犠牲を払う人は犠牲者を拝領することによって自分をも犠牲にすることを表します。

具体的に、殆どの場合、犠牲のあと、その犠牲者(ユダヤ教だったら羊)を食べるか、つまりお供えした奉納品を飲食することですが、いつでもどこでも犠牲を完成させるために、捧げた犠牲を食べ飲むのです。これは「拝領」と言います。つまり、奉献された犠牲者と一致するということです。で、犠牲者と一致することによって、天主に「自分自身」を捧げることを示して、天主との一致を願うことを示しています。これはどこいつも、犠牲の特徴でした。捧げられたお供えを食べ飲むことによって、つまり犠牲者との一致をすることによって、犠牲を捧げる人々は「自分自身を神にささげる」ことを示しています。犠牲はこれを示すためにもあります。

しかしながら、同時に、犠牲によって、奉納されている犠牲者は神に属する「聖なる物」となりました。ですから、天主に属するものを拝領することによって、犠牲者と一致して、自分人間も自分を犠牲にすることを表すだけではなく、ある意味で、聖なる犠牲者を拝領することによって、天主と一致して、天主との絆を強めようとしています。

要するに「拝領」は犠牲を完成させる儀式です。一方、犠牲を捧げる人々の内面的な犠牲を表すとともに、天主との一致をも表す「拝領」です。というのも、犠牲によって、犠牲者の所有権は人間から天主に移ったので、聖なる物となった犠牲者を食べ飲むことによって、非物質的な神と一致する手段とされています。

ですから、拝領というのは犠牲の大事な目的です。また犠牲の必然なる帰結だと言えます。拝領するという目的は天主と人間との絆を、その一体を実現するためのことです。犠牲者を拝領することによって、人間は自分自身を捧げることになって、その結果、天主との一体をはかるものです。

聖アウグスティヌスは次のように書いています。「本物の犠牲とは聖なる社会の内に我々が天主において合体される執り行いなのです」

非常に核心をえた定義です。「天主に合体される」ということはまさに「聖体拝領」、ミサ聖祭です。
そういえば、聖アウグスティヌスの定義だけを見ても、犠牲の社会的な、あるいは政治的な側面も窺えます。つまり、個人としての人が捧げるというよりも、社会上の人々は共同体として天主に合体すべきだという犠牲の側面が窺えます。

そして、そうするために、社会として、共同体の人々はミサ聖祭に参列しなければならないということです。つまり、ミサ聖祭は公の犠牲として、政治的上と社会上の役割があるとして、この上なく政治的な公けに属する祭礼という位置づけであり、聖なる執り行いなのです。ですから、以上の第四の目的も大事です。犠牲において拝領をしないことは、犠牲による効果を被らないようなことで、いやむしろ、犠牲の効果を拒否するようなことです。



ある著作者の言葉を借ります。「要約すると、人間あるいは天主による制定に従い、犠牲を執り行い、犠牲とは物質的な奉献なのです。そして、この物質的な奉献は内面的な奉献を示しています。この犠牲において、天主への尊敬の印として【これは礼拝の目的に当たります】、至上の主のために、貴重な財物を投げ捨てます。このように、天主に召した形に沿って捧げられた犠牲は天主が犠牲を払う人々に好意的になることが期待されています【これは贖罪の目的に当たります】。そして、その結果、天主との同盟、あるいは宗教的な親交関係を結ぶことが期待されています。」

この意味で、犠牲こそが宗教の儀礼中の儀礼で、宗教的中の宗教的な行いなのです。というのも、犠牲によって、神と人をつながらせますが、それだけではなく、「拝領によって」神との合体を実現します。ですから、拝領という目的は犠牲にとって非常に大事です。以上は犠牲の四つの目的についてでした。カトリックのミサ聖祭だけではなく、一般的に犠牲において以上のような目的があります。旧約聖書においても、他のすべての犠牲において、何らかの形でお供えする奉納品を「拝領」することがあるからです。