ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

私審判(永遠の決定的な判決)のあとに、公審判がある理由 【公教要理】第七十講

2019年10月28日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十講 永遠の命-②


「永遠の命を信じ奉る」
以上の言葉に、我々の究極的な行き先(終末)が要約されています。

我々の究極的な行き先の第一幕は「死」です。前回ご紹介しました。
我々の究極的な行き先の第二幕は「私審判」です。
霊魂は死ぬ時、創造主のみ前に出廷します。霊魂は天主のみ許に帰るのです。

喩え話で、私たちの主、イエズス・キリストは次のように仰せになります。旅に出ていた主人が家に戻る時、自分の僕らと再会します。主人は「会計報告を出せ」 と僕(しもべ)に言いました。
審判の時には、我々にもそうなります。死ぬ瞬間、霊魂はその創造主によって裁かれます。なぜかというと、我々は創造主に依存している存在だからです。創造主から生命を頂いているので、天主から預かった貴重な生命をはじめすべての物事をどうやって扱ってきたかについての責任があります。また、我々が持っている良いものは天主から頂いたものだし、洗礼や他の秘跡を通じての聖寵をはじめ、超自然なことのすべてを天主から頂いています。または助力の聖寵もあります。天主の助力のお陰で、この世で善く生きられるように助けられました。これらすべては、天主より給った賜物です。賜物を頂いた以上は、これらの賜物をどうやって使ってきたかの責任を取らざるを得ません。「会計報告を出せ」ということです。

私審判の時に、こういった報告をせざるを得ません。死んだとき、霊魂が身体を去る瞬間、天主のみ前に出廷し、裁かれます。
その時、我々の人生の一生のすべてが調べられます。その取り調べは一瞬もかかりません。というのも、天使たちが、純粋に霊的な目で察するように、人間も、霊魂が身体を去る瞬間に自分の送ってきた一生を貫く鋭い目で自分を眺めるからです。善い事も悪い事もすべてを。

この世で我々が告解に行くときに自分の犯した罪を糾明する時とは、違う感じです。というのも、地上にいる私たちが糾明する際、一日にやってきたことを一つ一つ思い出して、少しずつ検討して、その場所と時間を思い出して罪を確認しますが、それとは違うからです。死んだとき、一目で、自分の一生をすべて把握します。極まりなく鋭い一瞥となります。死んだとき「霊魂は自分を有りのままに見通す」のです。

「有りのままに自分を評価する」といえます。これは一番悲劇的なことです。
というのも、我々の霊魂には必ず良心があるからです。例外なく皆、良心の働きを感じたことがあります。内面的な声であるかのように、良心が「善悪」を霊魂に知らせて、どうすべきなのかを霊魂に知らせ、また「これは悪い事でやってはいけない」と知らせます。
悪を犯した時に、その後に残っていて自分を悩ます改悛または良心の呵責もあります。

残念ながら、我々は良心の声を押し殺すことができます。ただし、霊魂が身体を去る時には、良心はその全力を回復します。死んだとき、良心が一番明晰で確実な評価を行います。その結果、自由な良心に照らして 霊魂は、自分を有りのままに裁きます。
悲劇的瞬間です。なぜかというと、その時、霊魂は騙しようがなく、自分を有りのままに察知するからです。

死者のミサの典礼では、「Dies Irae天主の怒りの日」という続誦があります。それに「Quid quid latet apparebit」とありますが「隠されたことは、なんでも明らかにされるだろう」という意味です。そして「nil inultum remanebit.」「いかなるものも報いられずに留まらない」と。

~~

その時に、霊魂は自分のことを有りのままに察知して善悪を見て自分を裁くのです。典型的ですけど、私審判に臨む天使が「天秤」を持っている形で絵画などにおいてよく表現されています。これは良心が善悪を評価して測るということを意味しています。賛否両論を天秤にかけるということです。啓発された良心に照らして、霊魂が自分の証人となり、自分の裁判官となるのです。そして、送ってきた一生次第で、積み重ねてきた善悪次第で、頂いた聖寵をどうやって守って増やしてきたか次第で、また、生きるべき人生をどれほど拒否し、否定し、軽蔑し、背いてきたか次第で、霊魂が自分のことを評価して判断した結果、天主が永遠の沈黙のままに決定的な判決を渡されるのです。その瞬間に、霊魂の運命が決定されて固定されます。もう取り戻しのない判決となります。もう我々がやれることはなくなります。もうそこまでです。



また、よい学びの糧にするために、私たちの主イエズス・キリストの十字架によって我々の霊魂が裁かれるだろうということを黙想すると助けられるでしょう。つまり、イエズス・キリストは地上での一生の間、我々のためにお捧げした御苦しみと我々に対する御愛をお示しになられたのが十字架です。我々が死んだとき、イエズスが御受難を見せ給い、その間のあらゆる苦悩なども見せ給うのです。そして、御受難の際、我々一人一人のためにお持ちだった思いを特に見せ給うのです。そして、我々のためだけの思いに照らしても、判決が決まるのです。私たちの主イエズス・キリストの御受難を我々が無駄にしたか、御受難を糧にして成長してきたか次第で裁かれるのです。
~~

以上の審判は「私審判」と呼ばれています。というのも、各霊魂は死ぬ時に裁かれるからです。また、各霊魂は死んだときの「私審判」に出廷して、至上の裁判官である私たちの主、天主ご自身によって下される判決を受け、決定的に永遠の運命が決まるのです。

しかしながら、「私審判」が行われ、さらに別に、世の終わりの日には「公審判」が行われるということも啓示されています。全人類が死んだときに行われるのが「公審判」です。あえて言えば、あらゆる霊魂はもう一度出廷することになります。勿論、人間の言葉で想像することだから、(比喩的)表現に過ぎませんが、少なくとも全人類のすべての霊魂が天主のみ前にもう一度出廷することになります。

ただし、この「もう一度の出廷」には、新しい判決などはありません。判決は「私審判」のままです。

「公審判」になると、どう違うかというと、天主とイエズス・キリストの御前に裁かれるだけではなく、残りの全人類の前にも裁かれることになります。公審判の時にも、「私審判」の時と同じように自分が犯した罪をすべて察知しますが、さらに、罪によるすべての帰結・結果をも察知します。あえていえば、天主のみ前に出廷した「個人」として裁かれるだけではなく、「社会的な生き物」として裁かれるのです。というのも、行為を遂げたことによって、それが社会上・政治上に影響と結果を伴うものとして裁かれるからです。例えば、家長の霊魂の場合、家庭上の影響を生じるし、指導者であれば政治上の結果があります。そこで、犯された罪はまるで別の次元になるのです。

また、罪による結果として共同体としても罪が公に犯されるので、公に裁かれることになります。個別の裁判だけではなく、公の裁判となります。私たちの主イエズス・キリストを不正に断罪した多くの人々は、世の終わりの日に公に裁かれます。同じく、私たちの主、イエズス・キリストの名誉を讃えつづけ、天主とイエズス・キリストの愛を他人に伝え、多くの霊魂を愛徳と働きによって救い続けた聖人たちも公に裁かれて、その恩恵が評価されるのです。
以上、手短に公審判についてご紹介しました。

要約すると、世の終わりの日に、我々は、全員もう一度出廷し、天主のみ前に裁かれます。判決自体は変わらないのですが、全人類の前に、我々が遂げたあらゆる行為は見え見えとなって、開いた本であるかのように、送ってきた一生を有りのままにだれでも読みとれることになります。

人生の終わりに必ず起こる「3つ」のこと 【公教要理】第六十九講

2019年10月22日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十九講 永遠の命-①



信経の第十二条そして最後の条です。「永遠の命を信じ奉る」
永遠の命とは、一体何でしょうか。
現世での命ではなく、今の命が終わった後に続く命のことです。誰でも知っているように、この世での命は、いずれ終わります。例外なく、すべての人々にとってこの世での命には必ず終わりが来ます。
そこで、「永遠の命」とは現世の命が終わった後に続く命のことです。来世の命です。なぜそれが「永遠」と言われる命であるか、というと、終わりなく何時までも続く命だからです。それは果てしない限りのない永遠の命です。

一体なぜそういうことがあり得るのでしょうか。それは、我々の霊魂が不滅だからです。
霊魂は純粋に霊的なものです。「霊的な存在」だは、何を意味するのでしょうか。霊魂は「肉体的な存在」ではないということ、非物質的ということです。それが霊的な存在です。

霊的な存在とは、時空の外に行為することができます。我々の霊魂は、時間を超えて時を移動できるます。というのも、思考する時には、霊魂は時間の制限から解放されているからです。
我々の霊魂は「概念」を知り、理解し、垣間見ることが可能ですが、「概念」というのは普遍的なものです。

例えば、「人間」という概念は時間を超越し、空間を超越し、物質を超越する概念です。
従って、我々の霊魂は、時空を超越する行為を成し、その活躍を可能にしています。霊魂は時空の中に閉じ込められず、拘束されず、時空によって制限されていません。こうして、我々の霊魂は霊的なのみならず、さらに不滅な存在です。
なぜかというと、霊魂は以上のような霊的な永遠の行為を成すことができるからです。これらの行為を可能にする本性が必然的に備わっているからです。なぜかというと、我々が成す行為は、我々が持つ本性の帰結だからです。

このように、霊魂は「永遠」という性格の「行為」が可能ですから、時空の外に行為が可能ですから、我々の霊魂の本性には「永遠」という要素が必然的に備わっていることを意味しています。

従って、人間の霊魂には終わりのない命が備わっています。霊魂には現世の後に永遠の命が待っています。
「永遠の命」とは、そういう意味です。死後の霊魂は引き続き、永遠の命を生き続けます。正しい人の場合、至福の命とも呼ばれている永遠の命です。悪人、つまり罪人の場合、苦悩の命と呼ばれる永遠の命です。

以上は永遠の命のご説明でした。
神学上、「終末論」と呼ばれます。[「四終」あるいは「万民四末」とも言います。]
「終末論」というのは、我々の人生の終わりの日に、臨終のときに起こる最期の出来事(終末)次第で、我々の永遠の運命が決まる、という教えです。言い換えると、我々の永遠の命がどうなるかが決まる最終的な「事柄」が終末です。最終の結末、終末です。それでもう終わりです。決定的です。三つのことが起こると、すべての霊魂は、あえて言えば「終わりなき命」の状態に固定されるかのようです。

これらの三つの出来事を言います。第一は「死」という出来事。
第二は「私審判」です。我々の霊魂が天主によって裁かれることです。
第三に、審判による判決の執行(天国と地獄)です。[第三の天国と地獄とを二つ数えて、四終と言う。]
以上の三つの出来事は「最終の結末」を成すのですが、この三つの出来事こそが、我々の霊魂を永遠の運命に決定します。至福の命になるか、それとも残念ながら、悪人の場合、苦悩の命になるかどちらかを、です。

~~



「終末論」の第一の出来事は「死」です。
人々は皆死ぬべき存在です。「死」というのは一体何でしょうか。「死」とは「霊魂」と「身体」との分離です。これは悲痛な分裂です。以前にも申し上げたように、我々の身体と霊魂が、一つの実体を成すということを説明した通りです。霊魂と身体は別々の二つの存在ではありません。何か二つのものが傍に並んでいるのでもなく、また容器の中に納まっているかのように身体の中に霊魂が閉じ込められているのでもありません。

いや、それだけではありません。身体と霊魂の間は互いに完全に浸透し合い、縺れ合い、一つの全体をなしています。そうして、こういった密接な絆を悲痛に分裂するのが「死」です。死のせいで、霊魂が身体を活かすことはできなくなります。そして、身体と霊魂との間に必ず起きる分離、それが「死」と呼ばれるものです。身体と霊魂が分離した後に、世の終わりの日と肉身のよみがえりを待ち、身体はちりに帰ります。霊魂の場合は天主のみ前に出廷します。

身体と霊魂の分離である死は、その上、天下にあるすべての物事の略奪をも意味します。つまり、死ぬ時、霊魂は物質的なあらゆる物事を去り、死によって純粋な霊的な生活に入るのです。地上で所有していた持ち物、また愛していた品物から離れます。地上では積み重ねた富からも、死によって離れます。我々の周りにいる友達、我々の死を嘆く友人たちからも離れます。
「この涙の谷」 である地上を死によって去るのです。永遠の命に入るのです。これが第一の出来事、死です。
「死」は不可避です。また、人間にとって、人生における一番確実な出来事です。我々が何であれ、死ぬことは確実です。他のあらゆる出来事は確実ではないにしても、いずれ私が死ぬということだけは、もっとも確実な出来事です。一人の人がこの世に生まれた瞬間に、必ず死ぬことがもう既に決まっています。
「死ぬために生まれた」ということです。
「死」とは、罪に対する罰です。楽園において、天主はアダムとエワに幾つかの賜物を与えました。「外自然・過自然(praeter-naturalis)」と呼ばれる賜物です。

人間の本性に、さらに有り余る賜物として与えられましたが、こういった「外自然・過自然(praeter-naturalis)」の四つの賜物の内の一つに、不死の賜物がありました。
しかし、アダムが原罪を犯した時、天主の怒りを被り。原罪の一つの罰として「死」を受けました。そして、アダムは人類の頭として罪を犯してしまったので、「負債」を全人類に負わせてしまいました。そして、人類は、原罪による負債を継いだと同時に、当然、その原罪に対する罰をも負うけました。
従って、「死」という罰は、全人類の運命となります。現代でも、我々の人生において織り込まれている「死」は、第一の人間アダムによる罪に対して天主が与えた罰です。我々皆その罰を負わざるを得ず、私たちの主でさえ十字架上に死を経験されたのです。

死ぬのは一回限りです。これは大事なことです。一人一人に一回だけの人生があり、死ぬのは一回限りです。我々の霊魂は一つだけで、その霊魂についている命も一つだけで、従って人生も一回だけであって、死も一回限りです。

だからこそ、あえていえば、「死」という大切な約束をすっぽかすわけにはいきません。死を悪く行うわけにはいかないのです。というのも、死んだ時点では、もう手遅れだからです。もう終わりで、もう二度目がないからです。死んだ時点でもう決定的であって、終わってしまうのです。終わるとは、完成されるという意味であって、決着が付けられるということです。
死んだ時点で、我々の人生は永遠に向けてもう決まります。

たとえれば、試験と似ています。試験が終わって、試験監督が「終わり」と言い出す時と似た感じです。もう試験は終わったのです。答案用紙はそこで「完成」となるのです。悪く完成されたら、点数が少なくなりますね。でも、それでも、「出来上がり」で、しょうがなく完成となるのです。というのは、試験は終わったので、書かれた答案用紙次第で、もう点数が既に決まっているのです。取り返すことは不可能です。死も同じようです。

一人の人が死んだときに、彼の人生が「完成」されます。しいて言えば死んだ後に「点数」の結果を待つだけです。これが「私審判」です。



以上のように、死は確実な出来事です。人生における一番確実な出来事です。しかし、必ず死ぬという確実さに伴い、いつ死ぬか、どのような状態で死ぬか、に関しては、逆に極まりない不確実さがあります。

だからこそ、あえて言えば人間の人生は悲劇的と言えるでしょう。つまり、だれもが「私が死ぬ」ということを知りながら、「いつ・どこで・どう死ぬか分からない」ままだからです。必ず死します。それは確実です。
ただ、今死ぬか、今日死ぬか、数時間後に死ぬか、明日死ぬか、10年後、20年後、30年後死ぬか、80年後に死ぬか、天主しか知らないことです。我々人間には分からないことです。だからこそ、常にいつも、死を準備しなければならないのです。
また、「死を思う」ことは健全な思いであって、良い思いです。

ある聖人の有名な逸話があります。その聖人は金持ちに出会います。その人は多くの富を持っていましたが、聖人が彼に「これらの富をもって、どうなるでしょうか?」と声をかけました。
金持ちは多くの計画を組んでいたのです。その度に、聖人が「そして、その後は?」と何度も聞きました。
そして「死んだら、どうなるか?」と。
死んだとき、すべてがお終いです。あなたの富と宝物などは、死ねば持っていけないのです。
あなたの富はこの世に残る、しかも、おそらく浪費されるでしょう。あなたの車は死ぬ日の翌日に事故にあい、破壊されるでしょう。

要するに、死んだときに、すべてが止まります。また、いつ死ぬか誰も知りません。死は非常に大事な瞬間です。だからこそ、「死を思う」ことは非常に健全な思いです。
義人は頻繁に死を思いますが、義人にとって死は快い事柄であり、甘美な出来事です。

詩編115には、「Pretiosa in conspectu Domini, mors sanctorum」とあります。「聖人たちの死は、主の御前に尊い」 とあります。なぜでしょうか。
義人は天主のご現存の内に一生を送り、永遠の命を常に視界に入れて生きるので、地上を逐謫の身で、つまり「祖国を追われ追放された」かのように生きています。巡礼者でもありますが、逐謫(追放)された者として、地上で人生を送ります。義人にとって、死というのは、この「追放」の終わりを意味します。義人はすべての希望を天主に 置いたからこそ、義人にとって死は甘美です。

典礼上、死者のミサにおいて、司祭が次の祈祷を唱えます。力強い祈祷でかなり慰めのある言葉です。
「主よ、御身を信じる者の生命は、取り去られるのではなく、変えられるのであり・・・」と。
つまり、義人は人生を去り死にます。地上での命を去り、永遠の命に入るのです。
地上において天主の現存の内に人生を送ってきた義人は、死のとき、天主の現存の内に永遠の命に引き続き生き始めます。
義人にとって、死は、「元后,憐れみ深き御母」という美しい祈りにある「この涙の谷」あるいは「逐謫」から解放されるということを意味します。

「死」のお陰で、ついに天主を観想でき、真の光を浴び、永遠の命を享受することを義人は知っているので、義人に、はどうしても天主のみ前に出たいとう気持ちが強くあります。その願望が強ければ強いほど、死とは快い出来事に見え、幸せな時になります。

諸聖人の人生を見ると、聖人たちは臨終が迫っている時、常に次のように周りの人々を慰めています。「私のことを思って泣かないでください。私は光に入るからです。」

他方、罪人の死は恐ろしく、凄まじいものです。というのも、罪と地上の富などに愛着してしまった罪人は、死ぬと、自分が愛しているすべてを失うと知っているので、彼は死を恐れます。
問題は、こういった罪人が霊的なものに一つも親しんでおらず、超自然な絆を持たないので、死んでも得ることはもう何もないことです。だから、死は、彼にとって悲劇です。総てを失うだけだからです。
「死への思い」というのは、我々にとって、この世で良き人生を送るために、間違いなく一番健全な思いなのです。



世の終わりに「肉身がよみがえる」理由 【公教要理】第六十八講

2019年10月19日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十八講 肉身のよみがえり



使徒信経の第十一条です。「肉身のよみがえりを信じ奉る」。

「肉身のよみがえりを信じ奉る」。この信条の意味は一体何でしょうか。
世の終わりに、すべての身体がよみがえり、もう一度霊魂との一致が回復されるという意味です。これが「肉身のよみがえり」です。ここでいう「肉身」は「身体」のことです。つまり、死んだときに埋葬するその「身体」、灰の水曜日の典礼で言われるごとく腐敗して塵に帰る「身体」が、世の終わりの日にはよみがえるということです。灰の水曜日の際、信徒たちに灰をかけ、次の言葉が言われます。「人よ、おぼえよ、汝は塵であって、また塵にかえるであろう」。

そして、この塵にかえる運命をもつ「身体」が 世の終わりによみがえるということです。これは、カトリック信仰の一つの信ずべき教義です。この信条は古(いにしえ)より聖伝によって断言され続け、聖書においても明言されています。
旧約聖書にはヨブの次の言葉があります。「私を守るものは生きておられ、仇打つものは塵の上に立ち上がるのだと知る。皮膚がこのようにきれぎれになっても、私はこの肉で天主をながめるだろう」 。

以上のように、旧約聖書においても肉身のよみがえりは断言されています。また、マカバイの書下には次のことばもあります。世の創造者なる天主である「世の王は、天主の法のために死んだ我々を永遠の生命の中によみがえらせてくださる」 。

また新約聖書において、「墓にいる人々がみなそのみ声の呼びかけを聞き、墓を出る時が来る。善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる」 。



また私たちの主イエズス・キリストご自身も「肉身のよみがえり」という真理を断言しました。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」 と仰せになります。
思い出しましょう。確かに、肉身のよみがえりという信条は、我々にとって認めがたいかもしれないし、大自然の法則などに確かに反するような事柄です。だから、私たちの主がラザロの墓の前にいらっしゃったときのことを思い出しましょう。

ラザロは死にました。本当に死に、聖書はその死を強調しています。ラザロの姉妹たちは、ラザロについて「主よ、四日も経っていますから臭くなっています」 と言いました。これは死体が腐敗しだしたということです。その悪しき腐臭がラザロの死とその身体の腐敗を明白に語るところです。
そこで、私たちの主はラザロの二人の姉妹と一緒に墓の前にいらっしゃいます。そして、私たちの主はラザロの姉妹たちにこう仰せになります。

「あなたの兄弟はよみがえるだろう」 と。イエズス・キリストは終わりの日の肉身のよみがえりのことを仰せになっていたのですが、姉妹のマルタは次のように答えます。
「彼も終わりの日、復活の時によみがえることを知っています」 と。ということは、その時、既に肉身のよみがえりは信じられていたということです。

つづいて、私たちの主はラザロの復活という奇跡をおこない、その復活によって、肉身のよみがえりは可能であるということを証明します。

そして、第四ラテラノ公会議「世の終わりの日の肉身のよみがえり」という信条を改めて教義として断言し、真理として断言しました。

「肉身のよみがえり」の証拠として、以上のように見てきた神学上の理由の上に、理性で考えてもいくつかの理由を加えることは可能です。便宜上の理由に過ぎないのですが。厳密には「信条を裏づける絶対な証拠」とはならないけれど、理解するための助けとなります。

霊魂と身体という二つのものは単に結びついている異なる実体ではありません。いえ、身体と霊魂は一致していて、一つの全体をなしています。我々は結局「一」なるものであって、霊魂と身体からなっている「一つの全体」です。ある意味で、人間の霊魂は身体を欲しがっているのです。

また、「肉身のよみがえり」という信条は、理性的な信条といわれるに相応しいものです。というのも、この地上においては、我々は必ず自分の身体を道具にして働きを遂げる存在だからです。かならず身体を通じて行動するからです。霊魂でやり遂げる行為でさえ、身体をも用いて成します。我々の身体は善悪問わず、すべての行為の道具となっています。従って、その意味でも世の終わりに、我々の道具だった身体が、我々の栄光あるいは永劫の罰どれにしても、それを被るということは非常に相応しいことです。これらは有益な理由です。



また、他にテルトウリアノという教父の書いたものには、「肉身のよみがえり」の信条を支えるために、大自然から引き出された幾つかの論拠が差し出だされています。
こういった論拠は、上の論拠より大きくないかもしれませんが、大自然においてでさえ「肉身のよみがえり」という真実の「影」あるいは「前兆」を垣間見えているというような論拠です。引用しましょう。
「世の終わりの日に身体のよみがえりがあるという真実を、天主は聖書において啓示し給う以前に、創造された大自然においても織り込んだ。」
次に彼は幾つの例を取り上げます。有名なのは「冬」という事例。「冬」は自然の死のようなものであって、春になると自然が復活するということ。
また、毛虫が自分の墓を紡いでそれに入って、蝶として復活するようなこと。
麦の種も土地に植えられたら種として死んで、麦の穂として復活するようなこと。
以上は幾つかの象徴であって、前兆ではありますが、大自然においても織り込まれている現象であって、少なくとも「肉身のよみがえり」の可能性を語っています。
~~

「肉身のよみがえり」という信条は近代になって、真正面からではなくても、実際の行いにおいて否定されるようになりました。これは世界中の国々で「火葬」という様式を、フリーメーソンが普及させましたが、それはこの信条を否定するためです。「火葬」により、「身体がよみがえることは不可能だ」と思わせようとします。火葬で身体が塵と化し、そのまま「身体が復活する」ことが無理不可能なようにみえるからです。

それに対して何と答えるべきでしょうか。第一に、天主は全知全能である存在です。塵になったからといっても、天主にとってそのことは重要なことではなく、人間的な制限によって天主の全能は制限されるものではありません。いやむしろ、「身体を塵にさせた」からといって、天主が身体を復活させえないという発想自体が、侮辱的なものであることは想像にかたくありません。天主には「石」をも叫ばせるほどの力があるわけですから 。

次に、天主は塵になったところにおいても、身体のそれらの要素を回復できます。また、さらに声をあげて注意すべきこともあります。よみがえっていく「身体」は、特定の霊魂の特定の身体です。つまり、前に申し上げたように、身体と霊魂は区別出来ても別々のものではありません。哲学上の用語をあえて使えば、身体と霊魂が合わせられて、それが一つだけの「実体」を成します。一人の人間は、「霊魂と身体」からなる「実体」です。このようにして、現在われわれの身体を構成している一つ一つの原子とは限らないとしても、天主は相応しい原子をとって、「私の」身体をよみがえらせます。
重要なのはその特定の霊魂のその特定の身体のまま、ということです。「新しい身体」ではなく、個人としての固有の「私の身体」がよみがえるのです。これは非常に注意すべき点です。

我々の身体は我々の霊魂と別のものではないのです。だから、特定の霊魂に結び付いている我々の特定の身体というのは、その霊魂だけの唯一の身体なのです。「私の身体」という時に、やっぱり「私」が入っているから、「自分の霊魂なる私」をもさすのです。

だから「肉身のよみがえり」という信条は、当然、天主にとって何らの不可能なことはありません。
逆に言うと、身体が塵となるからといって、元の原子も散らされるからといって、天主がその特定の身体を復活できないということを信じるのは結局物質主義的な発想です。いえ、違います。人々の身体は、単なる「物質」ではありません。
「霊魂によって生きている肉体」です。



人間は、世の終わりの日に、自分の身体を取り戻します。しかし、どういった状態で取りもどすのでしょうか。それは、完全な状態で、しっかりと四肢をもって取り戻します。この世で達することのできない本物の完全さという状態で。
通常は「完全な年齢で」復活すると言われています。その上、霊魂は自分の特性を身体に完全に及ぼします。ここで言う特性とは、霊魂の状態ですね。
救われた霊魂の場合、素晴らしい特性ですが、永劫の罰を被った霊魂の場合、「地獄に落ちた霊魂」の特性が体にも及んでしまうのです。

永遠の命を取得した霊魂の場合、永遠の命にある状態の霊魂の「栄光の特性」が身体にも及びます
霊魂の第一の特性は「受苦不能性」impassibilitasです。天国において霊魂は苦しむことはもはやないので、身体も苦しむことはありません。
第二の特性は「輝き」claritasです。ご復活したイエズス・キリストの栄光の御体の輝き、使徒たちが見たその「輝き」はよみがえる身体にも霊魂から及ぶのです。また、使徒たちはタボル山でイエズス・キリストの御変容の際に「栄光体の輝き」を垣間見ました。
そこで、至福直感の天主の輝きの内に生きる霊魂は、自分の身体にもその輝きを伝えます。「受苦不能性」と「輝き」の次の第三の特性は「敏捷(びんしょう)性」agilitasです。
霊魂は「敏捷性」を身体に及ぼします。「In ictu oculi」(まばたきの瞬間)と言われているように、瞬時に身体が移動できる特性です。
最後に「精敏さ」subtilitasという特性をも身体に及ばします。その特性はイエズス・キリストが最後の晩餐の高間の壁を通り抜けてきたように、障害を通り抜けるのです。



他方で、地獄に落ちる劫罰の霊魂たちは、欠点となる「特性」を身体に及ぼします
地獄にいる永劫罰の霊魂たちが、永遠に苦しむように、身体も終わらぬ苦しみの状態に落ちます。闇と「歯ぎしり」 のある地獄で、身体も闇に包まれ、感覚にとって恐ろしい多くの醜さを受けます。劫罰を受けた霊魂たちは地獄に閉じ込められ、火によって永遠に苦しめられます。従って、永遠の命を得た栄光の身体と違い、敏捷性もなく、囚われの身となり、拘束されます。
最後に劫罰の身体は、罪によって重くなるかのように非常な鈍重さを受け、一番粗い物質以下の鈍重さを持ちます。
以上は「肉身のよみがえり」という信条でした。

「聖霊に対する罪」が赦されぬ罪といわれる理由 【公教要理】第六十七講

2019年10月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十七講 罪のゆるし


「われは聖霊、 聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦しを信じ奉る」。

信経の第十条です。「罪の赦しを信じ奉る」。

「罪の赦し」とは一体何でしょうか。「赦し」または「赦免」、「罪を赦す」というのは「免罪・赦免する」権限・力を指しています。
「罪を赦免する権限」というのは「罪を消す」力です。「罪」というのは「天主に対して人間が犯した侮辱行為」です。罪とは自然法に反し、天主の法に反する行為です。天主に逆らう行為であって天主を否定するような行為です。「罪を赦免する力」というのは、その「天主に対して犯された侮辱行為」を赦す力です。
このように二つの事が罪において包含されているので、「罪の赦し」においても、二つのことあるいは二つの要素が包含されています

第一は、罪が天主に対しての過ちあるいは過失という要素です。罪とは、天主の名誉・仁義・荘厳さ・全能に対する侮辱行為で、本物の「過ち」であって、一番に言えることは「それが天主に対して犯されている」ということです。
従って、第二に、罪を犯した結果として刑罰を被ることになります。

罪には、必ず二つの側面があるのです。
一方では天主に対して犯された過失・過ちです。
他方では罪を犯した結果から帰結する刑罰です。
殆どの場合、その罪の次第に応じて、その「刑罰」は「償い」あるいは「罰」という形を取ります。以上のことは普遍的なことです。

自然法の次元でもこのようになっています。例えば、一人の子供が何かの悪戯を犯した時、これはまず教師にせよ親にせよ、誰かに対する「罪」(過ち・侮辱)です。当然、父母あるいは教師はその悪戯を赦すことはできます。ところが、その悪戯のために、子供は必ず罰を被る必要があります。このように、天主に対する罪も基本的に同じです。天主に対して罪が犯される度に、一方で、天主に対して犯される過ちがあり、他方では犯された「過ちを償うために」被らなければならない罰もあります。

その罰の程度は、罪の深刻さ次第です。過ちのせいで天主との親密さが失われてしまった時、また、その罪によって天主に完全に背き天主を追い出すようなときに、それに伴う罰は、その過ちの程度に適うものとして、「永劫の罰」となります。というのも、永遠なる天主を追い出した罪なので、それに伴う罰も永遠なのです。
他方、過ちが軽い場合には、それに伴う罰は、「有限の罰」と呼ばれるのですが、「限られている時間」で被る罰という意味です。
「罪を赦す」とは、「犯された過ちを赦す」力です。その「過ち」を赦し、赦免し、完全に取り消す力を言います。天主は「過ちを忘れる」力があります。「過ちを忘れ給う」ことによって、永劫罰も免除されます。
~~

「罪の赦し」を要約してみます。繰り返すと、あらゆる罪を赦免し、取り消す力です。
天主ご自身は次のように仰せになります。「罪がたとい真紅でも、雪のように白くなる」 。「罪がたとい真紅でも」というのは、「どれほど深刻な罪だったとしても、罪がどれほど重い過ちだったとしても」の意味であり、「雪のように白くなる」ということは「(天主である)私にそれらすべてを完全に赦す力がある」ということです。

預言者イザヤの書には、天主の次のお言葉があります。「その悪を雲のように、その罪を霧のようにふき消した。」
以上、「罪を赦す」力をご紹介しました。

次は、「罪を赦す」権限は誰にあるかという問いです。当然ながら、「罪を赦す」力は、あえて言えば唯一天主のみにあります。なぜでしょうか。天主こそが罪によって侮辱された御方ですから、当然ながら、赦すことができる御方は侮辱された御本人だけだからです。

従って、「罪を赦す力」は天主のものです。そこで、私たちの主イエズス・キリストも「罪を赦す力」を持つというべきです。先ず「天主として」イエズス・キリストはその力を持つのですが、それは分かりやすいですね。私たちの主は、聖なる三位一体の第二の位格であって、「天主」であるからです。主は、「Deus de Deo」「天主よりの天主」だからです。これは、聖なる三位一体の玄義です。天主としてのイエズス・キリストは「罪を赦す力」を持ちます

キリストは聖ヨハネ福音において次のように仰せになります。「父のされることを子も同様にする」 。「私のものはみなあなた(父)のもの」 と。
次に、「人間」としても主イエズス・キリストは「罪を赦す力」を持つと言うべきです。イエズス・キリストは使徒たちに次のように仰せになります。「『人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために…』と言って、中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』と言われた」 。
ここでは、私たちの主は明白に「人間として」「罪を赦す力」を持っていると断言なさいます。それが御父から譲られた権限だから、イエズス・キリストはそれを持つのです。

最後に、私たちの主は「罪を赦す力」を持つ三つ目の「資格」があります。我々人類の贖い者であるからです。勿論人間としてですが、「贖い主」として「罪を赦す力」を持っています。人間として、イエズス・キリストは十字架上に架けられて死に給うたことにより我々を贖ってくださり、我々の霊魂を悪魔から奪い返したので、我々の霊魂を勝ち取った「征服権」を持っておられます。救い主として、ご自分の血を流されたことによって取得された権限でもあります。主は、我々の罪を赦す権限を取得されたからです。

丁度、洗礼者聖ヨハネが私たちの主を「メシア」として初めて指すときに「世の罪を取り除く天主の子羊を見よ」 といっています。「Ecce agnus Dei」「天主の子羊を見よ」と。子羊というのは、まさに十字架上に贖罪者として屠(ほふ)られる生贄ということです。洗礼者聖ヨハネは「世の罪を取り除く天主の子羊を見よ」 というのです。

従って、私たちの主は、天主としても人間としても贖い者としても、「罪を赦す」すべての力を持つのです。その通りで、イエズス・キリストは一生の間にいつも罪を実際に赦し続けました。福音を読むと明白です。
例えば聖マリア・マグダレナは自分の犯したすべての罪が赦されました。またほかにも多くの人々の罪がイエズス・キリストによって赦されました。例えば姦淫の女性とか。「私もあなたを罰しない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」 とイエズス・キリストは仰せになります。

次に、私たちの主は「罪を赦す」力をお持ちなので、その権限を委任しました。使徒たちに委任された権限として、公教会にも委任された権限です。
~~

復活後、イエズス・キリストは使徒たちに次のように仰せになります。「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」 と。
これは、信仰の真理であって、我々が信じるべき信条です。罪を赦す権限が公教会に譲られたということは信じるべき教えです。トレント公会議の第14総会には、次の命題があります。
「救い主によるこれらの御言葉」つまり「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」 という「御言葉」のことです。「救い主によるこれらの御言葉は 最初からいつも公教会が受け入れ続けてきたとおりに『告解の秘跡』における『罪を赦すあるいは罪を赦さぬ権限である』としてある。その御言葉を受け入れない者は排斥されよ」と。

従って、公教会が私たちの主から「罪を赦す権限」を頂いたという真理を信じるべきです。この権限は絶対であり、普遍的です。あらゆる罪が赦されえます。
まず、天主にはその深刻さと重さそしてその数を問わずあらゆる罪を赦せる力をお持ちなので、公教会にその権限が委任された時点において、同じく「必要されている限り罪を何度でも赦すことができ、そしてその罪がどれほど重くても赦すことができる」のです。

主は次のように仰せになります。「あなたたち(使徒たち)が地上でつなぐものはすべて天でもつながれ、地上で解くものはすべて天でも解かれる」 。
「すべて」です。また仰せになりました。
「私は〈七度まで〉(ゆるすことができる)とは言わぬ。〈七度の七十倍まで〉という。」
公教会はすべての罪を赦す権限を持ち、その権限は完全で絶対的で普遍的です。
確かに、時々は公教会によっても「赦せぬ罪」があるという表現を耳にすることがあります。例えば「聖霊に対する罪」とかは「赦せぬ罪」となっています。

このような罪は、「公教会」でさえ「赦す」力がないと言われるかもしれません。実際は違います。「赦す力」がないが理由になっているのではありません。聖霊に反するような罪がなぜ「赦されぬ罪」と言われるかというと、「天主」そして「公教会」などがそういった罪を「赦すことができない」からではないのです。天主は全能であって、すべての罪を赦す力があるし、その権限をそのままに公教会に譲ったので、当然、すべての罪を赦すことが可能です。
なぜ聖霊に反対するよう罪が「赦されぬ罪」と言われるのかというと、こういった罪が犯されている時の罪人の状態が、赦しを得ることが可能な状態ではないことを意味するからです。

この意味において「赦されぬ罪」なのです。だから私たちの主は「あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」と仰せになります。この言葉を正しく理解しましょう。これがあるからといって、「聖職者」が気まぐれやその時の感情で赦しても赦さなくても良いというような自由を持つのではありません。全く違います。

なぜ「赦す」時も「赦さぬ」時もあるのかというと、それは罪人(つみびと)の状態次第によるということです。

罪の赦しには、先ず罪人が「罪を犯した」と明かして、自分を告発し、赦しを乞い願いに来る必要があります。罪を赦すには、罪を犯した人がその罪を犯したことを痛悔しないと赦すことができないのです。言い換えると、「悔悛の心」と「罪を償う意志がある」という条件が揃った時に、はじめて本当の意味で「罪を赦すことができる」のです。

だから、以上のような条件、つまり「悔悛と償う意志と」が揃っていない罪人は、天主の赦しを得ることは不可能です。そこで、聖霊に反する罪のような「赦されぬ罪」といわれる多くは、その罪の性質が、「悔悛」あるいは「償う意志」という条件がないことが明白な罪なのです 。こういったような罪は、「頑固に、意図的に罪から出ようとしない」罪です。
~~

最後に、具体的に言って、公教会はどうやって罪を赦すのでしょうか。

通常の場合、洗礼という秘跡を通じて、公教会が罪を赦します。
洗礼を授かった人は洗礼を受ける以前のすべての罪(分別がついた後からの罪)が赦されます。もちろん、洗礼によってまず原罪という穢れが取り消されます。その上、自分で犯したすべての罪が完全に赦されて、取り消されます。すべての過ちと、すべての刑罰も赦免されます

洗礼の秘跡の後、イエズス・キリストは「告解の秘跡」あるいは「改悛の秘跡」を制定なさいました。
「告解の秘跡」とは、それを通じて、悔い改める罪人、自分の罪を咎める罪人の罪を司祭が赦す秘跡です。「ああ天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない」と詩編50に書いてある通り、霊魂の罪を司祭が赦す秘跡です。というのは、司祭が「私たちの主イエズス・キリストの名において」罪を赦し、悔い改める人のために、罪の過ちから完全に赦免し、永劫罰から免除するからです。

また、臨終にという形ですが、赦される条件が揃っていて、内面的にだけでも悔悛と償う意志のある信徒のために、終油の秘跡にも罪を赦す力があります

以上、「罪の赦し」という信条をご紹介しました。

諸聖人の通功 【公教要理】第六十六講

2019年10月09日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十六講 諸聖人の通功



信経の第九条は
「聖なるカトリック教会、諸聖人の通功を信じ奉る」です。
最初に申し上げたように、この信条には二つの部分があり、それぞれ同じ現実の二つの異なる側面を現わすものです。
前者は、地上における・位階制の・眼に見える公教会ですが、その公教会は眼に見えない神秘的な「諸聖人の通功」からなる教会を目的にしています。

公教会という社会は、洗礼によって霊魂たちを結び合わせ、そのうえで、霊魂たちを諸聖人の通功に向かわせて参加できるようにさせるものです。

「諸聖人の通功を信じ奉る」

「諸聖人の通功」という信条は一体何でしょうか。「諸聖人の通功」とはどんな意味でしょうか。「公教会の構成員の間の霊的な賜物・善・功徳の交際」ということです。言い換えると、公教会の構成員の間に流れる共通善を指すに他なりません。

「諸聖人の通功」というのは、公教会は本物の家族であるということを現すものです。地上の家族とは違い、家族の間に同じ血が流れるのではなく(家族を特徴づけるのは血統ですから)、公教会の場合は本物の善・賜物・功徳が流れることによって構成員たちをお互いに結合します。また、これらの賜物・善が全構成員に及ぶのです。全員の絆を作りあげます。

そこで、「公教会の構成員」とは、一体だれのことでしょうか。また、結局、公教会の一員であるとは、どういう意味でしょうか。言い換えると公教会の構成員である「聖人」であるとはどういう意味でしょうか。というのも、「諸聖人の通功」とは、諸聖人の間の結合をいうからです。「聖人」というのは、私たちの主イエズス・キリストと一致している人々です。これこそが聖人の定義です。

ここで、公教会の三つの状態を区別する必要が出てきます。「諸聖人の通功」なる公教会の三つの状態です。「位階的な公教会」ではなく、「諸聖人の通功」なる公教会の三つの状態を説明します。

第一の様子は「戦う公教会」あるいは「戦闘の教会」です。
これは地上にある目に見える教会であって、位階制のある公教会です。これは公教会に属する成聖の状態にある霊魂たちです。なぜ「戦闘の教会」かというと、これらの霊魂たちがこの地上にいるのは戦うためだからです。罪に対して、現世に対して、欲望に対して、悪魔に対して、戦う教会です。旧約聖書において聖なる人ヨブが述べた通り、本当の意味での戦闘です。地上においての人生は戦闘であって、戦いです。これが「戦闘の教会」です。

公教会の第二の状態は「苦しむ教会」あるいは「苦しみの教会」です。これは煉獄にいる霊魂たちを指します。はい、煉獄にいる霊魂たちは「聖人」です。なぜかというと、天主によって既に、天国に入れる資格があると既に裁かれた「聖人」だからです。ただし、天国に入る前に煉獄で清める必要があるのです。煉獄にいる霊魂たちは苦しみます。清めというのはやはり苦しみを伴います。したがって、公教会の第二の状態を「苦しみの教会」というのです。

最後に、公教会の第三の状態は、天に既にいる聖人たちです。「凱旋の教会」と呼ばれています。

このようにして、公教会というのは以上の三つの種類の霊魂たちの大家族です。以前に長くご紹介した地上の位階制度の教会は「戦闘の教会」です。そして「苦しみの教会」もあり、煉獄にいる、聖なる霊魂たちです。そして、最後に、「凱旋の教会」で、すでに天に入った、天主を見奉る至福を享受している聖なる霊魂たちです。

以上の三つのグループは同じ大家族です。はい、「諸聖人の通功」の大家族です。つまり「諸聖人」の間に本物の交流があります。功徳が流通されているので「通功」と言います。また、公教会の構成員全員の間を纏める絆があり、統一されています。この統一は、「功徳・賜物」を共有することにおいてこそ統一します。まさに、共有の遺産であり、霊的な財産です。この遺産、財産、賜物とは何でしょうか。

真っ先に言えるのは、いとも聖なる主イエズス・キリストの功徳です。十字架上にて溢れるほど、ありあまるほど、イエズス・キリストはすべての霊魂たちのために功徳を得られました。
次は至聖なる聖母の功徳もあります。次に諸聖人の功徳もあります。諸聖人は自分のために功徳を得ながらも、他の霊魂たちのためにも多くの功徳を得ました。
次は、全宇宙で捧げられているミサです。その次は地上にいる霊魂たちの祈りであり、また良き施し・働き・善行で、信徒が払う犠牲です。

これらは「宝」であって、公教会の遺産を成す「財産」です。これらの功徳などが累積しているのです。この宝の交流を「諸聖人の通功」と言います。「諸聖人の通功」というのは、霊魂たちの間に流通する多くの「功徳・善」とです。有り余るほどある、評価を絶する「富」です。「有り余る」とは、天国に入るため必要とされる以上、十分に用意されている宝だということです。
~~

このようにして、「諸聖人の通功」を通じて、「戦闘の教会」と「苦しみの教会」と「凱旋の教会」からなる公教会の三つの状態の諸聖人たちが「功徳を共有し交流する」とことです。
その「通功」が、諸聖人の間の功徳の流通を特徴づけています。祈りを通じたり、執り成しを通じたり、贖宥を通じたりして、霊魂たちは、つまり「諸聖人」は、他の聖人のために、つまり「成聖の状態にある霊魂」のために、功徳を施し、賜物を得さしめることが可能だということです。

例えば、地上においてある信徒が祈りをささげたり、自分を聖化したり、難しい働きを遂げたり、犠牲を払ったりすることによって、まず自らのために功徳を得ますが、他人のためにも聖寵を得ることになります。例えば、「親のために祈る」一人がいたら、実際に親のために恩恵を得しめるのです。なぜ個別の祈りあるいは「個人の祈り」は他人に効果がありうるのでしょうか。「諸聖人の通功」のお陰です。

地上において、一人の信徒が一人の聖人に祈りをささげる時、その聖人に栄光を与えることになります。これも「諸聖人の通功」です。祈りによって栄光を受ける聖人が天主に執り成して祈りをささげた霊魂のために天主からの恩恵を得さしめるのです。これも「諸聖人の通功」です。

煉獄の霊魂たちに関しても同じです。周知の通り、有名な贖宥があります。11月の頭、墓所を訪問して、煉獄の霊魂たちのために祈ると特別な贖宥を得ます。煉獄にいる霊魂たちは苦しんでいるし、清められるために煉獄にいるのですけど、煉獄の霊魂たちは自分で自分のために何もできない状態に置かれています。我々とは違います。我々は地上にいる限り、自分のために祈ることが可能です。煉獄の霊魂たちはできません。彼らは自分のために何もできませんが、我々が煉獄の霊魂たちのためにやれることはいっぱいあります。我々が祈ることによって、かれらの煉獄での苦しみは緩和され、時に苦しみが消され、煉獄から解放されることもあります。これも「諸聖人の通功」です。

「諸聖人の通功」によって「霊的な財産」が公教会の構成員たちの間に流通しているということです。「戦闘の教会」と「苦しみの教会」と「凱旋の教会」との構成員たちの間に「通功」があります。

以上の信条は、我々にとって非常に慰めとなる信条です。現代のような混乱期においては猶更です。また、この信条は公教会の統一をよりよく表します。つまり、諸聖人に祈る信徒、聖人に倣って生きていく信徒は、公教会の統一を具現化し、「諸聖人の通功」を享受して多くの恩恵・聖寵を得しめるのです。

残念ながら以上の素晴らしい「諸聖人の通功」に参加できない霊魂もあります。この意味は明らかで、簡単です。位階制度的な公教会に属さない人々、つまり未信者・異端者・離教者・棄教者・公教会から隔てられた破門者などは、位階による公教会である「戦闘の教会」に属さない人々なので、それらの霊魂たちは「諸聖人の通功」に参加できず、その功徳を享受することはできません。天主の恩恵を受けることは可能ですが、これは功徳ではなく、天主による完全なる無償の賜物に留まります。いわゆる「諸聖人の通功」によって恩恵を得ることは不可能です。


公教会と国家の関係 【公教要理】第六十五講

2019年10月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十五講 公教会と国家との関係について



「聖なる公教会を信じ奉る」。
数回にわたって公教会に関する信条を少なからずご紹介しました。改めて「公教会の外に救いなし」という真理を思い起しましょう。従って、天国に入るためには 人は教会の一員でなければなりません。しかしながら、天国に入ることを困難にする要素も少なくありません。

主イエズス・キリストによって制定された公教会は超自然な社会で、特別な目的があり、その目的は霊魂たちを救うことです。イエズス・キリストは公教会を制定しましたが、他に存在している人間の自然な諸社会(家族・国家など)を、公教会に取って代わらせることはありません。言い換えると、主は公教会を制定しながらも、世俗上の諸社会、国家などを否定するのではありません。むしろ、主はそれらの諸社会が相互に実りあるようにするために自然な社会と超自然な社会(つまり教会)とが互いに浸透しあうことをお望みです。両社会は区別でき、違いながらも、常に共同に働き合うということです。

質問しに来たユダヤ人たちへの主の答えもそういうことが説明されています。
「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」 という有名なお言葉があります。
私たちの主は世俗上の社会を否定することは一切ありませんでした。むしろ、公教会を制定することによって、主は世俗上の社会に霊的な社会を付き加えることをなさったのです。こうして、霊的な社会は世俗上の諸社会を完全に受け入れ、それらを聖化します。

以上のような課題は、公教会と国家との微妙な関係という問題を語ります。なぜ微妙な関係かというと、教会と国家との境の線がどこにあるかをきめるのは具体的には難しい課題だからです。また、それぞれの社会の個別な権威を否定せずに、どのように互いに協力するべきかという点も難しい課題です。

その意味で、中世期に全般に亘って、両社会の間に多くの議論がありました。それぞれの社会は自分の権威をあえていえば「絶対化」しようとしたことから発生した議論でした。例えば、時に教皇が国家に対して絶対な権威を持つと思った挙句、世俗上の国王たちは(フランス国王や神聖帝国の皇帝たちも含めて)教皇に対して反乱を起し、教皇より国王の方が優位だと押し付けようとした争議などがありました。
しかし、実際に国家と教会という課題になると、一方が絶対であるということはありません。逆に、両社会が単に非常に違う社会で、両社会は微妙に補足的な関係にあるということです。

それは兎も角、念頭に置くべきは次のことです。
国家も公教会も、それぞれ本物の社会であって、それぞれ完全なる社会ではありますが、それはそれぞれの特別な次元においてそうだということです。言い換えると、国家の次元と公教会の次元は違うということです。国家の根源は自然(本性)にあります。なぜかというと、「人間は本性的に政治的な動物である」からです。その本性に従って、人間は自然に社会で生活しています。因みに、一番本性的である「家族」こそがあらゆる社会の基礎となります。

一方、公教会という社会は自然本性のための社会ではありません。超自然な社会です。つまり、人間の本性に根源を持たない公教会は、天主なるイエズス・キリストが公教会を制定なさったご決断においてこそ、その根源を持ちます。つまり両の社会の根源は別々ですし、違います。

また、両社会の構成も違います。国家あるいはより一般的にいうと「市民社会」は、何らかの政体を取っても良いわけです。アリストテレスの定義でいうと、君主制も共和制もありうるのです。要するに、場所・地理・時代・国家・民族の性格次第で、政体は多様ですし、それぞれの民族の特定の本性・個性次第で、政体・国制などは変わったりします。

一方、カトリックなる公教会の政体は、公教会を制定なさった私たちの主イエズス・キリストによって与えられ、時代と場所を問わず、変わることはありません。公教会の政体は君主制です。天主により制定され天主により望まれ、公教会は君主制です。

最後に、それぞれの社会が追求する目的も違います。市民社会(国家)は世俗上の共通善を追求します。「世俗上の共通善」には、単なる物質的な福祉だけではなく、道徳、平和、融和、喜び、親しさ(政治的な友情)などなどがあります。当然ながら、人生を完全にさせる霊的な要素も、世俗上の共通善に属します。しかし、それらのものはすべて人間の次元(本性)を超えません。一方、公教会が追求する善は「永遠なる至福」です。

そこが、一番難しいところです。現世での市民社会というのは、人間の究極的な善(永遠の至福)を与えることが不可能だからです。言い換えると、人が創造された究極的な目的である「永遠の命」を、市民社会が与えることはできません。

天主は人間の存在理由(目的)が超自然(天主の生命)の次元にあるということを決め給うた、つまり、人間の存在理由は、天主のご生命に与ることです。その目的は超自然の(人間の本性を超える)次元であるなら、その目的地(永遠の命)に辿り着くには超自然な手段が必要になります。ところが、市民社会は自然な社会なので、超自然の目的とは別次元であり、市民社会からでは 超自然の目的を得しめようがありません
従って、超自然の目的を得るために、別の社会が必要です。それは、超自然の社会であって、霊魂たちをその超自然な目的に適うようにさせることのできる社会です。

だからといって、良き天主なるイエズス・キリストは、超自然の社会(教会)を制定することにより、自然の次元を否定することは一切ありません。逆です。自然の次元、自然な社会を維持し、大切にしながら、自然の次元を超自然の次元にまで高めて豊かにするのです。

超自然と自然の関係はそのような関係なので、国家と教会の関係も同じです。というのも、公教会は市民社会の本性を破壊せず、市民社会の目的(世俗上の共通善)を否定することもありません。逆に、公教会は市民社会(国家)の本性とその目的を完全に受け入れ、その本性とその自然なる目的を癒し、高めるのです。

従って、必然的に市民社会はある程度は公教会に従わねばなりません。というのも、市民社会は人間の超自然な目的を得しめることは不可能だからです。市民社会を超える超自然の善を人々に得さしめるためには、国家あるいは市民社会が公教会に従う必要があります。だからといって、そういった「服従」は、アリストテレス的な意味でいう「奴隷が主人に服従する」というような態度では決してありません。違います。間接的な服従です。つまり市民社会は自分の次元において、ある程度の独立が維持されているということです。そこが国家と公教会との関係の難しいところです。


~~

もう少し国家と公教会との関係をよく理解するために、その関係についての諸誤謬を見ておきましょう。そうして、その誤謬を避けるためにはどうすれば良いかを見て、国家と教会との関係への理解を深めましょう。

第一の誤謬は二つの社会を混同するということです。
第二の誤謬は相互の関係を絶つほど、両の社会を分離することです。

【両社会の混同】

第一の誤謬は両社会の混同です。これは、具体的に二つの現象によって表れます。
一方で、超自然の社会(公教会)が国家を完全に吸収し、公教会が世俗の社会になろうとする現象です。これはある種の聖職者至上主義です。また、「アウグスティヌス主義」と言ってもよいでしょう。
「アウグスティヌス主義」とは、「公教会があらゆる物事を支配し、あらゆる者を統治し、何があってもすべてのことに対して全権威を持つ」と言う誤謬です。こういう誤謬は、国家という社会は本物の「完全なる社会」 として存在しないことになります。つまり両社会の混同です。

また、その逆になると、国家が公教会を吸収し、国家が「恩寵の名において」超自然の社会になろうとする現象です。一般的にこれを「チェザル主義」と呼ばれ、「皇帝が教皇になる」という誤謬です。フランス史において、そういった現象はガリカニズム(フランス教会至上主義)として現れました。長い間、フランスにおいて教皇の勅令が有効になるために、フランスの高等法院によって記録される必要がありました。つまり、フランスにおいて長く教皇の勅令の有効条件は高等法院の裁可にありました。ある種のチェザル主義です。両の権威(教皇と国王)の混同という誤謬です。
だからといって、両権威を混同しないことは、両権威を分離することではありません。というのも両権威を区別しながらも、その調和の境目を常に図るべきです。しかしそれは微妙で難しい実践になります。

【両社会の分離断絶】

両権威を分離する誤謬は、現代に至って「世俗主義」あるいは「政教分離」となります。つまり、市民社会と公教会を完全に切断しようとする世俗主義・政教分離です。世俗主義あるいは「自由主義」とも言えます。要するに、人々は「二重の生活」をするという主張になります。政治上の生活、宗教上の生活、両方が無関係であるとする誤謬です。具体的に、人は、政治上、何でもでき、自由で、公教会に干渉されないとし、同時に信仰上、何でもでき自由で国家によって干渉されないとする誤謬です。これも誤謬です。

なぜかというと、それでは人間の精神分裂だからです。皆に特別な超自然な生活の営みがあるとしても、一人一人はやっぱり同一の人間であり、一人のなかに二人がいるとことはありません。両生活の分離は、「精神分裂主義」であり、そういった「自由主義」では、人間がちゃんと生きることはできないのです。というのも、あらゆる「自由主義」はあえていえば究極的に言うとある種の「精神分裂」に過ぎないからです。分離してしまうと、人間は同一なので、早かれ遅かれ両社会の片方を捨て、一方の社会にだけに参加することになってしまいます。

要約すると、国家と公教会との関係は非常にデリケートな関係です。両社会は完全に区別されつつも、それぞれの次元においてお互いに完全に独立し、人間は同一である故に、また人間の究極的な目的は永遠なる至福である故に、両社会は相互依存しながら働きあい、相補うべき関係にあります