ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

堅振:聖霊の賜物とは?聖香油の象徴する意味とは?

2021年01月31日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十講 堅振について



堅振とは
Gabriel Billecocq神父

前回は洗礼を見ました。今回は第二の秘跡、堅振を見ていきましょう。
堅振とはなんでしょうか?堅振の秘跡によって聖霊を受けます。そして、聖霊の賜物を豊かに有り余るほど受ける秘跡です。また、堅振によって、完成化したキリスト教徒、キリストの戦士となっていきます。

要するに、堅振とはまず、聖霊と有り余るほどに聖霊の賜物を豊かに受ける秘跡です。
聖霊は既に洗礼の際に与えられています。思い出しましょう。洗礼は最初の秘跡であり、霊魂の生命を与える秘跡です。洗礼の時から、洗礼者の霊魂には聖父と聖子と聖霊は居を構えることになります。

堅振の秘跡になると、霊魂における天主の現存をより深く根下ろさせるかのような効果があるということです。そして、洗礼の時に始まった「御業」を強化し、完成化し、確立し、「堅く」し、つまり「堅振」にする秘跡です。言いかえると、洗礼の際、始まった御業を霊魂において仕上げて、強化していきます。

洗礼によって天主の養子となった洗礼者は、堅振の秘跡に与ると、キリストの戦士となります。言いかえると、大人になります。堅振は信仰における通過祭のようなことで、堅振を受けると信仰において大人になります。堅振に与る者は超自然の生命において、大人になります。
以上は堅振の秘跡の粗筋です。「大人になった」という意味は「戦士」になったということです。つまり天主の「闘士」になりました。もちろん、いわゆる武器を持った武士ではないのです。キリストの戦士になったというのは、天主の栄光のために戦っていく者になったという意味です。
~~


信仰において大人になったおかげで、信仰において堅振者は社会において輝かしくなったという効果があります。それも大事です。大人になるというのは、社会上の使命を果していくということでもあります。

「大人」というのは、本来ならば身体と精神の成長が終わったという意味ではありません。いや、本来ならば「大人」というのは「一人前」になって、道徳を実践できる状態にあって、社会上に使命を果たし、輝かしくなっていくということです。言いかえると、「政治的な営み」をするのは大人です。ここでいうと「政治的な営み」の意味は俗にいう意味ではありません。厳密にいうと、道徳を実践していくという古典的な意味です。

要するに、堅振の秘跡は信仰において子供である洗礼者に刻印を与えて、それによって大人となります。大人として確立されて、信仰において「堅く」なります。以上でお分かり頂いたかと思いますが、天国に入るために堅振の秘跡は必要ではありません。救霊を得るためには、洗礼を受けて、聖寵の状態にあることだけが必要不可欠な条件です。

しかしながら、堅振の秘跡に与っていない信徒は非常に強い援助を受けないことになりますので、そして、もしも意図的に堅振を拒むようなことがあったら、深刻な罪となります。ですから、天国に入るためになるべく堅振を受けるようにしましょう。ただ、天国に入るために必要な条件ではありません。
~~
他の秘跡と同じように、堅振も質料、形相、執行者、能力者からなっています。それから、教会の意向をもって執行する条件もありますが、それは典礼で確立するのです。

さて、堅振の質料はなんですか?堅振の遠因の質料は「聖香油」です。「聖香油」とは「オリブ油とバルサム(芳香性樹脂)」の混ぜ物です。聖木曜日の時、司教が作る「聖香油」です。バルサムは樹脂であって、非常に芳しい物です。かなり素晴らしい香りで、しいて言えば潤いの香りがします。オリブ油と混ぜて、祈祷を捧げながら司教によって祝別されたら「聖香油」となります。

秘跡を授けるために、司教は「聖香油」を使います。「聖香油」は遠因の質料です。近因の質料は「聖香油」を堅振者の額につける仕草です。「聖香油」の付け方は「塗る」ことによってやります。つまり「塗油」です。具体的に、司教の手によって、十字架の印を切りながら「聖香油」を額に塗るという仕草です。


言いかえると、具体的に司教は堅振を授ける時、堅振を受ける信徒の頭に手を置きます。超自然の人生においてまだ子供である信徒ですね。つまり、司教は按手して、そして同じ手の親指をもって十字架を額に切り塗油します。親指に「聖香油」があるから、額に「聖香油」を塗ります。
以上が堅振の質料です。

では、秘跡の形相はなんでしょうか?以上の仕草をやりながら、つまり、「聖香油」を額に塗りながら司教が唱える言葉が形相です。
司教の言葉は次の通りになります。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、汝に十字架を記し、救霊(たすかり)の聖香油を以て汝を堅固にす」。

この言葉と仕草の象徴性は高いです。「汝に十字架を記し」という部分はもちろん大事です。洗礼によって私たちはイエズス・キリストの弟子となって、つまり、すべてにおいてイエズス・キリストに倣い、教わることになります。そして、イエズス・キリストは救霊の手段を与えました。それは十字架です。十字架によってこそ私たちは救われました。

言いかえると、キリスト教徒だったら、必ず十字架において生きていかなければなりません。十字架によって活かされています。「私のあとに従おうと思うのなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、従え。」(ルカ、9,23)と私たちの主は仰せになりました。キリストの弟子になるとはキリストに従うことです。そして、私たちの主の教えは十字架です。

十字架こそはキリスト教徒の枢軸となります。「汝に十字架を記し、救霊(たすかり)の聖香油を以て汝を堅固にす」というのは、十字架について恥じることはありません。恥じてはなりません。ですから、一番目立つ額に十字架が記されているということです。十字架についてキリスト教徒として恥じてはいけません。十字架こそがキリスト教徒の特徴であり、我らの主への従属を示す十字架なのですから。「汝に十字架を記し」。

で、その十字架を記すには、聖香油を使います。オリブ油とバルサムの混ぜ物です。バルサムはキリストの芳香性を象徴しています。バルサムは芳しいから、非常に良い香りを漂わせる物です。嗅いだことのある方はわかると思います。それは、堅振を受けた信徒はバルサムのようにある種に輝くように、つまり芳しく真理がひろまるように。

そして、本当に天主の内に生きておられる方に近づいた経験があると、聖人のような人々に近づけると、なんかどことなくキリストの芳しさによってつつまれている不思議な空気、これらの方々は輝かしいです。バルサムはそれを象徴しまします。


堅振を受けた信徒は、より徹底的に十字架によって生かされるべく、より徹底的に聖徳において生きていくべく、それによって自然に私たちの主、イエズス・キリストが堅振者から輝くようになります。

オリブ油は戦うための剛毅、強さを象徴します。古代において、オリブ油は戦闘と格闘の時に使われていました。それによって敵は自分を握れないようにしていたのです。これにたとえて、オリブ油は戦うための強み、力を象徴します。

そして、司教は以上のように塗油してから、司教が堅振者の頬を軽く打ちます。塗油されたので、堅振者は信仰において大人となりました。打ちながら、「汝、平安あれ」と司教が言います。

この頬を打つことによって、戦うために、私たちの主、イエズス・キリストの栄光を守るために必要になっていく「勇気」を示します。言いかえると、イエズス・キリストのために来るまで戦う勇気を備えるように。
以上、質料と形相を紹介しました。

次は、堅振の秘跡の通常の執行者は司教です。司教の委任があった場合、非常時の時、限られた場合、司祭も執行者となりえます。例えば、幼児は瀕死になる場合、司祭は堅振を与えることができます。そうすることによって、堅振の刻印を与えて、天国でより多くの聖寵を受けることになります。ちなみに、東洋では、堅振の秘跡は通常ならば、洗礼の秘跡のすぐ後に司祭によって与えられています。

要約すると、通常の執行者は司教です。なぜでしょうか。堅振によって大人になりますので、司祭職において完成である司教が与えるのが適切だからです。しかしながら、司教の委任があった場合、あるいは必要な時に、司祭も堅振の秘跡を授けることはできます。
~~

次に、堅振の秘跡を受ける能力者は洗礼者です。堅振を授かるため、洗礼を受けたという条件があります。当然と言ったら当然ですが。東洋では洗礼だけの条件で十分です。

ラテン教会では洗礼のすぐあと、必要がない場合、堅振に秘跡を与えてはいけないことになっています。子供は分別がつく年齢になる条件もあります。それだけです。それ以上に待つ必要はありません。厳密にいうと、聖体拝領はまだしていないとしても堅振の秘跡を受けてもよいです。

実は、フランスでは昔からガリカニスムという誤謬の影響もあって、堅振の秘跡を遅くして授かる陋習があります。なにか、12・13歳を待つことが多いです。ちょっと遅いかなあ。
もちろん、堅振の秘跡を受けると大人になるから、その条件として、信仰の基礎をしっかりと知っている上に、よく教育されている条件があります。が、これらの教育は聖体拝領するための前提教育と同じぐらいなので、聖体拝領ができる時、堅振を受けることもできるということです。

ですから、7歳になっても、堅振を受けることは全然あり得ることです。子供次第ですが、準備ができたら待つ必要はありません。信仰において大人になってもよいのです。堅振の秘跡のお陰で、大人として社会において使命を果たしていくための聖寵を受けることができます。
通常ならば、堅振の秘跡は聖体拝領のあとに授かることが多いでしょう。聖体拝領の一年後あるいは二年後あたりに。
もうちょっと教義などを深めて身につけた時、堅振の秘跡に与るとか。特に現在においては、信仰の真理を深めることは昔に比べて妨げが多いかもしれないから、聖体拝領のあと、一年後ぐらいとかが最近は多いです。



堅振の秘跡が効果をもたらすためには「聖寵の状態」にある条件があります。もしも、「聖寵の状態」にないのに、堅振の秘跡を受けても、それに伴う聖寵を受けないことになります。もちろん、それでも、有効に堅振の秘跡を受けて、堅振者となります。ただ、それに伴う聖寵は受けないのです。聖寵に戻った時、つまり告解に行った時、その効果を得られることになります。

最後に、堅振の秘跡の効果を見ていきましょう。堅振の秘跡は聖成の聖寵をいや増していきます。ここでいう「いや増す」というのは、霊魂においてより堅く深く植え込むという意味です。それによって、聖霊はより活発に霊魂において働きかけてくれるようになるということです。以上は堅振の秘跡の第一の効果です。

堅振の秘跡の第二の効果は、洗礼のように、霊魂において取り消せない刻印を刻みます。この刻印は子どもだったキリスト教徒を完成化させます。つまり、キリストの戦士となります。いいかえると、この刻印によって、社会においての使命を果たし行くことを助け、信仰において輝いていき、隣人への良い影響力を及ぼしていく効果があります。

そして、堅振の秘跡の第三の効果は信仰のために、剛毅という、強さという聖寵を受けることです。また、聖霊の賜物に忠実である力を与える秘跡です。つまり、堅くさせるという意味です。まさに信仰において「堅振」の意味であって、確立して、強化して、強くしてという。世では信仰を告白し、実践する強さを与える秘跡です。



また、堅振の秘跡の効果でいうと「聖霊とその賜物を豊かにうける」効果があります。聖霊の賜物とはなんでしょうか?以前にもご紹介したことですから、手短にしましょう。
聖霊の賜物は霊魂に善い性格を与えるような賜物であって、これらの賜物のお陰で、聖霊の教示を従順に素直に受けるようにしてくれる賜物です。
聖霊の賜物を理解するために、通常、次のたとえがされています。つまり、聖霊の賜物は船においての帆のような役割です。聖霊は風にたとえて、帆が風を受けて、より早くよく船が聖霊に従って動いていくという。聖徳はむしろオールにたとえられています。徳のお陰で、つまるところ、オールで漕いでいるかのようなことです。

また、聖霊の賜物は現代風にいうと、聖霊の電波キャッチするアンテナという感じでもあります。
七つあります。上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏

以上は聖霊の7つの賜物です。
洗礼の時、すでに与えられた賜物ですので、堅振の秘跡によって、さらに豊かに受けるようになれて、有り余るほど賜物を受けるようになります。

なぜ洗礼の条件は驚くほど軽いのか?

2021年01月27日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百九講 洗礼について



洗礼とは
Gabriel Billecocq神父

前回は一般的に秘跡とは何であるかを説明しました。今回から、秘蹟を一つずつ見ていきましょう。つまり、各々の秘跡を取り上げて、簡単に神学に照らしてどういった秘跡であるかをご紹介していきたいと思います。

最初に洗礼の秘跡を見ましょう。洗礼はまさにほかの秘跡の門なのです。洗礼を受けずして、ほかの秘跡に与ることはできません。ですから、洗礼の秘跡は時間の順番でいうと最初の秘跡となります。前回も申し上げたように、一番大事な秘跡はミサですが、食べるための条件として、まず、生きているという前提があります。生まれたという前提があります。

従って、洗礼というのは超自然の人生、言いかえると聖寵の生命あるいは聖寵の状態に生まれるための秘跡です。洗礼によって、天主は霊魂に住まいを構えにいらっしゃって、そこに継続的に居を構えておられます。

それでは、洗礼とはなんでしょうか?
洗礼という秘跡は原罪を取り消す上、その人が犯した他の罪をも取り消すのです。そして、洗礼という秘跡は原罪を取り消すことによって、聖寵の生命を与えます。その結果、洗礼という秘跡はイエズス・キリストの弟子となし、天主とカトリック教会の養子となします。

要するに洗礼の秘跡の主な効果は次のとおりです。原罪を取り消す。超自然の聖寵を与える。そうすることによって天主と教会の養子にする。という効果を持つ秘跡です。またイエズス・キリストの弟子になります。イエズス・キリストの弟子という意味は、私たちの主、イエズス・キリストの下に見習っていく者になったという意味です。弟子とは主の下に行って習って従っていく者です。
以上、洗礼の紹介でした。

洗礼の秘跡はわれらの主、イエズス・キリストが制定した秘跡です。洗礼者ヨハネがイエズス・キリストに洗礼を授けた時、イエズス・キリストは洗礼という秘跡を制定したでしょう。周知のように、私たちの主、イエズス・キリストはヨルダン川に入って、洗礼者ヨハネに洗礼を求めて、洗礼を授かりました。

「洗礼」という言葉はギリシャ語に由来しており、「みそぎ」または「潜水」という意味です。
要するに、洗礼の秘跡は霊魂に生命を与えるのです。また、原罪を取り消す秘跡です。
従って、救霊のためには洗礼は必要不可欠となります。洗礼を受けていない人は救われることが不可能です。私たちの主、イエズス・キリストはこれを明白に仰せになっています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マテオ、28、19)。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16,17)。(または、ヨハネ、3,5にも参照。)



ということは、洗礼を受けずして天国に入ることはできません。無理です。裏を返せば、天国に入るためには洗礼は必要不可欠です。
救霊を得るためには、このよう絶対な条件があることから、両親が赤ちゃんを洗礼に与らせる深刻な義務が生じるのは言うまでもありません。しかしながら、これに留まらないで、赤ちゃんを洗礼に与らせた両親はさらにカトリックの信仰の内に育てていく義務をも生じさせます。というのも、「両親として子供を洗礼に与らせたが、そのあとは子どもが好き勝手にすればよい」というわけにはいきませんよ。これでは無意味です。無責任です。

また同じように「洗礼にすぐ与らせないで、子どもが7-8歳になったら決めてもらおう」というわけにもいきませんよ。このような考え方は「君が生きたいか生きたくないか」というようなことを子供に決めてもらうような無意味なことです。なにか、赤ちゃんが生まれたばかりの時、「君、食べることをするかしないか」というようなことを子供に決めてもらうようなことです。これは無意味なことでしょう。母親が赤ちゃんに「母乳を飲みたいか飲みたくないか」ということを聞くわけがないのです。赤ちゃんが食べなければ、当然、赤ちゃんの意見など無視して、食べ物を与えていくわけです。生きていく上には、赤ちゃんにとって必要不可欠なことです。

このようにして、超自然の次元でも、以上と全く同じことになっています。洗礼を遅らせるのは同じように全く理不尽なことです。いや、あえて言えば非常に邪悪な行為です。なにか「天主を選ぶのは君の自由だぞ」という誤った印象を子供に植えつけてしまうからです。しかしながら、天主の外には何もないのです。人間なら、天主を選ぶべきだということです。

また、洗礼を遅らせるのは非常に邪悪なことになりますが、それは正しく善く生きていくために必要となる聖寵と聖寵の生命を子供に与えないことになるからです。言いかえると、洗礼を赤ちゃんに授けないのは、赤ちゃんを「死」の人生に置かせっぱなしにするというか、「霊魂が死んでいる状態のままに」子供をほったらかしにするような行為です。

これは深刻なことです。つまり、子どもが霊魂においてかなり深く長く死んでいる状況のなかで「君は命が欲しいのか」と子供に聞くようなことです。これは無理があります。なぜかというと、子どもは超自然の命は何であるか知らないし、長く罪のなかで生き続けたので、このような選択はそもそもできないわけです。

罪による多くの悪い習慣を身についた子供は一体どうやって洗礼を選べるでしょうか?言いかえると、多くの犠牲をこれからいきなりやっていくことを約束することを選びうる子供はいるものでしょうか?幼児洗礼をした上、さらにそのための躾がないのなら、これは無理なことでしょう。

ですから、赤ちゃんの時に洗礼を授けないで、遅らせてそのあとにするのは本当に邪悪な行為なのです。
しかしながら、赤ちゃんであるうちに洗礼を授けても、信仰の内に育てていかないことも非常に邪悪なことです。

ですから、カトリック的な教育を受けられないだろうと思われる赤ちゃんに対してはカトリック司祭は洗礼を授けないことになっています。なぜでしょうか?洗礼を授けるということは洗礼者の霊魂には刻印を刻むことになります。この刻印は永遠に残るわけです。
つまり、赤ちゃんにせよ、大人にせよ、この刻印をもったまま、地獄に落ちた場合、地獄に必ず落ちる「洗礼を受けていない者」よりも洗礼者の方が幾倍、厳しい苦痛と罰を受けることになります。



はい、比較にならないほど、洗礼を受けた者が地獄に落ちたら未洗礼者よりも苦しんでいます。洗礼者だったがゆえに、天主の養子だったわけです。ですから、天主を否認して、天主の父性を拒んだ洗礼者、つまり地獄に落ちた洗礼者に対する罰は、天主の養子でもない未洗礼者よりも重いのは当然でしょう。というのも、未洗礼者はいったん天主を受け入れてから天主を否認しているわけでもなく、まだ、養子にもなっていないため、その父性を拒んでいるとはいえないことから、その分、洗礼者に比べたら地獄での罰が軽くなるのです。

ですから、両親は赤ちゃんに洗礼を授ける時、これは義務ですが、またカトリック的な教育を与える、つまり、子どもの霊魂を養っていくという深刻な義務も生じます。その責任は大きいです。

では、洗礼の質料は何でしょうか?つまり物質的な印は何でしょうか?またその形相は何でしょうか?
水です。厳密にいうと、聖土曜日の復活徹夜祭の際、神父によって聖別されている洗礼水をもって、洗礼を授けることになります。洗礼水がない場合、普通の水を利用してもよいです。水とは洗礼の秘跡の遠因の質料です。

考えてみると素晴らしいことです。救霊を得るために、絶対に洗礼が必要不可欠です。そして、世界において一番普通にどこでもいつでもある、人間にとって必要不可欠なる水を善き天主が質料として制定なさいました。素晴らしいでしょう。これを見た時、善き天主がどれほど人々を救いたいかがわかってくるでしょう。一番普通である物質、「水」だけで洗礼に授かることができるのです。「洗礼を授かりたいか」「はい、授かりたい」と答えたら、水だけで洗礼を授けることが可能なのです。

もちろん、洗礼を授けるということは軽いことではないのですが、どこでもいつでも、洗礼を授けることは可能だということです。
繰り返しますが、洗礼の秘跡の遠因の質料は水です。近因の質料は「水を額に注ぐ」仕草です。これは「洗う」ことを示す仕草です。つまり、「みそぎ」を示している仕草です。

そして、この質料を完成化する形相は次の言葉です。洗礼を注ぎながら司祭が「我、聖父と聖子と聖霊との名によりて汝を洗う」といいます。「洗礼を授ける」という意味は「汝を洗う」という意味です。

以上の質料と形相は揃ったら、洗礼の秘跡という刻印が霊魂に刻まれます。洗礼者は天主ご自身を自らの霊魂に迎えることになって、聖寵の命を迎えて、聖父と聖子と聖霊なる天主が霊魂に居を構えます。洗礼によって霊魂は聖寵の状態に入ります。
以上、質料と形相についてでした。つまり、目に見える物質的な印です。

次は洗礼の執行者はだれでしょうか?洗礼を授ける通常の執行者は神父あるいは司教です。洗礼を授ける非常時の執行者は助祭です。
そして、必要に迫られてどうしても洗礼を授けざるを得ない場合は洗礼の執行者は誰でもよいです。このような場合は、本当に必要に迫られて、赤ちゃんの死に迫っている時、司祭も助祭もいない場合、間に合わない場合のことです。



善き天主はどうしても人々の全員を天国に迎えたいわけです。ですから、洗礼を授ける条件は非常に軽いです。素晴らしいでしょう。善き天主はどうしても人々の全員を天国に迎えたいわけです。このような真理を理解すると、どんどんいろいろなことが見えてきます。まるで善き天主は「天国に行くのは簡単なことだから、さあ小さな努力すらしてくれたらもう済むよ」という素晴らしい事柄に気づきます。

要約すると、通常は司祭あるいは司教。非常時の時、上司の許可を貰ったら、助祭。死の危険がある場合、瀕死の人が洗礼を受けたいという時、あるいは赤ちゃんの瀕死の時、司祭などを来てもらえないような必要な場合は、だれでも洗礼を授けます。

つまり、水を取って、教会の典礼に則って、教会の意向を踏んで、水を注ぎながら「我、聖父と聖子と聖霊との名によりて汝を洗う」といったらよいのです。これだけでも、洗礼は有効となります。授ける人はカトリック信徒ではなくても、異教徒が授けろうとも、洗礼は有効です。洗礼の典礼に則って授ける時、カトリック教会がなさろうとしている意向すらあったら、有効です。これで十分です。

なんと簡単なことでしょう。死んでから、天主のみ前に我々は出廷するとき私たちに「簡単だったはずなのに」あるいは「ほら、簡単だっただろう」と善き天主が必ず仰せになります。

次は、洗礼を受けられるのはだれですか?生きている人間ならだれでも洗礼に与ることができます。ただし、身体的な生命でまだ生きているという条件があります。死者に洗礼を授けることは不可能です。

また、洗礼を受けるために、洗礼を一度も受けたことがないという条件もあります。取り消せない刻印を霊魂に刻む洗礼なので、一度、洗礼を受けたら決定的であって永遠であるので、二度と洗礼を受けることは不可能です。

また、先述したように、洗礼に与るためには、生きているという条件がありますので、死んでいる人に対して洗礼を授けることは不可能です。
また、洗礼を授けるためには、水を注ぐ必要があるので、身体の一部に実際に水を注ぐ必要があります。

赤ちゃんの場合はどうなりますか。赤ちゃんの場合は「洗礼を受ける意志」はまだありません。生まれたばかりの赤ちゃんにはその知性と意志が足りないのでできません。ですから、赤ちゃんの代わりに代父と代母が赤ちゃんの名によって宣言します。そして、洗礼を授けることを望むのは両親であって、そしてカトリック的な教育を与えるという意志も必要です。つまり、赤ちゃんは洗礼を受けて、超自然の生命に生まれて、成長していきます。
以上、洗礼を受ける能力者についてでした。



次に洗礼の効果はなんでしょうか?前にすでにちょっと触れた課題ですね。
洗礼は成聖の聖寵を与えます。それに伴って、聖寵に属するすべてを与えます。要するに、超自然の聖徳、つまり信徳、望徳と愛徳です。続いて、天賦の枢要徳や聖霊の賜物をも与えます。それとともに、洗礼は天国の門を開けてくれます。

要するに、洗礼を受けた人は聖寵の状態に入った瞬間に、天国に入ることが可能となります。天国の門は洗礼者のために開いています。あえていえば、洗礼を受けた途端、洗礼者が死んだ場合、必ず天国に行くということです。この真理は非常に慰めになるでしょう。

もちろん、だからといって死を軽視するわけにはいきませんが、洗礼を受けた幼児が死んだ場合、必ず天国にいるということです。つまり永遠に至福であると確信できることは、何と慰めとなることでしょう。

ですから、これはよくあることですが、幼児が早世した時、両親の悲しみはいつも大きいです。でも、幼児に洗礼を授けたカトリック信徒のために善き天主は洗礼をうけて死んだ幼児が必ず天国に入ったという慰めを与えます。さらに言うと、天では聖人がいてくれて、その家族のためにとりなしてくださる聖人がおられるという確信を善き天主はカトリック信徒に与え給うのです。なんと素晴らしいでしょう。これは私の経験に照らしても、本当に計り知れないほどの慰めです。
つまり、洗礼は成聖の聖寵とそれに伴うすべてを与えるのです。

次に、洗礼は霊魂に取り消せない刻印を与えます。この刻印のお陰で、ほかの秘跡に与ることが可能となります。特に堅信と告解と聖体拝領ですね。

次に、洗礼によって、原罪は許されます。原罪を取り消されます。原罪に伴った結果は取り消されていないのですが、原罪自体は赦されます。また、同時に、洗礼を受ける前の全ての罪は赦されます。つまり、大人が洗礼を受けると、生まれてから洗礼までの全ての罪は赦されます。

そして、最後に、洗礼は罪のせいで受けるべき永劫罰と有限罰を取り消します。つまり、原罪を負っている限りにおいて、地獄に落ちる罰を受ける身となるのですが、洗礼によって、原罪は赦されるだけではなく、その上、地獄での永劫罰をも取り消されます。
それから、洗礼を受ける前に多くの罪を犯した大人は洗礼を受けると、それらの罪が赦されるだけではなく、それらの罪に伴う更なる罰も取り消されます。

以上、洗礼の効果でした。

秘蹟を制定されたのはイエズス・キリストです。秘蹟に必要な条件がなくなって有効性を疑うほどになっています。

2021年01月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百八講 秘蹟について



秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

公教要理の第三部の続きです。「私は命である」。イエズス・キリストは私たちに命を与えてくださいました。聖寵の命を与えてくださいました。聖寵の命を得るための主な手段は二つあります。第一、祈りによってです。前回の講座の課題でした。そして、第二に、秘蹟によって聖寵の命を得ます。今日は秘蹟の全般を見ていきしょう。つまり、諸秘蹟が共通する部分を見ていきましょう。秘蹟は何であるかという質問にも答えてみましょう。
~~

秘蹟とは何でしょうか?それを理解するために、トレント公会議を参照にすると早いです。トレント公会議は詳しく緻密に立派に秘蹟の定義を示したからです。

簡単にいうと、秘蹟とは「聖寵を施し、あるいは聖寵をいや増すために私たちの主によって制定された物質的な印(印号)」です。

この定義を細かく見ていきましょう。まず、秘蹟とは物質的なしるしです。しるし(印号)とは何でしょうか?しるし(印号)とは一定の現実を指しますが、別の現実を参照させるための現実だということです。たとえてみると、指差しのようなものです。指という現実がありますが、指差しすると、別の現実を指ししめすことになることに似ています。

要するに、物質的なしるし(印号)とは一定の現実である上に、物質的なしるしなのです。これは大事です。どれほど善き天主が善い御方であるか見てとれます。天主は私たちの本質をよく知っておられ、また、物質的な物事を必要としている人間の心理をよく知っておられ、また人間の不足をもよく知っておられますので、このように秘跡を制定なさいました。

つまり、「もう物質的な物事から離れよ、体がないかのようにするのがよい」とは天主は一切命令なさってはいないのです。いや、その逆です。「きみ、人間は物質的な存在で、感性のある存在だが、それは心配しなくとも普通のことである。私がこのようにきみを創ってあげたのだから何も問題はない。ただ、聖寵を与えるために物質的な手段、感知できる手段を与えよう。これらの印を通じて、感性と物質を超越する現実を知ることができるように。」と天主がおっしゃったかのように。

確かに、善き天主は秘蹟という手段を設け給うたのは素晴らしいことです。
秘跡とは目に見える、物質的な現実ですが、目に見えない、物質を超える現実を表すための目に見える現実です。言いかえると、各秘蹟において、感知できる現実があります。物質的なものあるいは発される言葉などがあります。聴覚できる、ときに嗅覚できる現実があります。例えば、聖香油ですね。ようするに、これらの物質から、感知できる現実を通して、目に見えない、非物質的な感知できない現実を知ることができるということはまさに秘蹟です。

それから、秘蹟は「私たちの主、イエズス・キリストによって制定」されました。カトリック教会によって制定されたわけではありません。これは当然と言ったら当然です。というのも、天主こそは聖寵の持ち主のゆえに、天主しか聖寵を与えられないからです。カトリック教会は聖寵を与えることに際してはイエズス・キリストの仲介者あるいは継承者にすぎません。私たちの主、イエズス・キリストしか聖寵を与えることはできません。ですから、イエズス・キリストによって制定された秘蹟なのです。

イエズス・キリストはいくつかの秘蹟を制定なさいました。そして、秘蹟を制定することによって、実践される印号を通して、必ず非物質的な聖寵が与えられるという保証を与え給うたのです。これは強調しておきましょう。大事ですから。トレント公会議も改めて断言しているところですが、重要です。つまり、秘蹟とは必ず自動的にその結果を伴うということです。ラテン語でいうと秘蹟の作用は「ex opere operato」だと言っています。つまり、条件通りに印号が行われるということのみによって、天主は必ず聖寵を与えることを、つまり目に見えない現実を与えることを約束なさいました。

私たち信徒の霊魂にとって、なんて穏やかに確信し、暖かい安心感と慰めになることでしょう。
例を挙げましょう。例えば、洗礼を見ましょう。詳しくは後述しますが、司祭が水をとって額に水を注ぎながら「我、聖父と聖子と聖霊のみ名によりて汝を洗う」という言葉を発します。神父は本人の額に水を注ぎます。額に注がれる水は印号です。「身体を洗う水」という物質的な印号です。従って、この物質的な印号を通じて、目に見えない現実を表すのです。洗礼での目に見えない現実は「聖寵によって霊魂において原罪を洗う」という現実です。

要するに、制定されたとおりに、額に水を注ぎながら決まった言葉が発されるという印号が実現する瞬間に、同時に霊魂を清めて、霊魂を聖寵の状態にさせるという目に見えない事実も実現します。そして、天主はこの印号が実現されるたびに、かならず霊魂を清める施しをも実現するという約束をなさったわけです。

このように、洗礼式に臨み、以上の印号をこの目で見た瞬間、本人の霊魂は聖寵の状態となった、言いかえると天主の子になったという事実を確信できるわけです。なんて素晴らしいことであるか、理解して頂けたでしょうか?善き天主は秘蹟を制定なさったということはどれほど善き御方であるか理解いただけたでしょうか?

要約すると、秘蹟とは「聖寵を施し、あるいは聖寵を増加するために私たちの主によって制定された物質的な印(印号)」です。
言い方を変えると、これらの印号は聖寵を施す効果のある手立てであると言います。つまり、秘蹟という制定された印号を実践すると、自動的に聖寵の施しが伴うという意味です。
たとえば、神父が聖変化の言葉を発する瞬間、イエズス・キリストは聖壇に現存することになります。必ず。これは想像を絶するほど、理解を絶するほど素晴らしいことです。天主が道具にすぎない司祭たちに与えたこの能力は何て素晴らしいでしょうか。
~~


私たちの主、イエズス・キリストは七つの秘蹟を制定なさいました。
七つの秘蹟は私たち人々の本性に沿った、人間の現実に沿った、また人間の心理に沿った形で制定されたと言えましょう。
人間なら必ず生まれます。そして大人になるために成長していきます。成長するために、食べなければなりません。また体の力を回復するために、休まなければなりません。また、病気になった時、治すために医者に相談します。これは人生において必ず生じる要素ですね。

霊魂の命においても、このような要素に類似して構成されています。
つまり、まず、聖寵の命に生まれます。これは洗礼です。
そして、聖寵の命においての成長もあります。これは堅信です。堅信によって、聖寵の命において大人となります。
それから、霊魂を養う秘蹟もあります。これは聖体です。
罪によって霊魂の力を失った時、その霊魂の生命を回復する秘蹟もあります。これは改悛の秘蹟です。
それから、死んでいく人々を和らげ、善き死を遂げられて、つまり聖寵を維持して永遠に生きていけるための秘蹟もあります。これは終油の秘跡です。
以上の五つの秘跡は一人一人の聖化のために与えられた秘跡なのです。

その上、もう二つの秘蹟は人間に与えられました。この二つは社会の聖化のために与えられました。
自然の次元では生きていくために人々は成長していきますね。つまり生まれて成長して死んでいきます。しかしながら、社会の一員としてのみ、生きていけます。人間なら社会の共通善に従っている前提があります。人間は必ず政治的な営みを行う存在です。そのため、同じように、社会においての命、政治的な命を聖化するための秘蹟を私たちの主が制定なさいました。品級の秘蹟があります。品級の秘蹟によって神父はその地位を与えられます。それから、結婚の秘蹟もあります。結婚の秘蹟は全社会を聖化する秘蹟です。

ところが、現代においては、なによりもこの品級の秘蹟と結婚の秘蹟が攻撃されています。そして、両方において現在、多くの堕落があちこちに残念ながら確認できます。
七つの秘蹟を繰り返しましょう。洗礼、堅信、聖体、改悛、終油、品級と結婚。

その内の三つは一人一人に一回しか授かることはできません。霊魂に取り消せない霊印を刻印する秘蹟なので、二度と受けることはできません。洗礼、堅信と品級です。

洗礼を受ける時、永遠に洗礼を受けることになります。死んでから、あの世で「(霊魂の)目に見える」ようになりますが、洗礼によって、霊魂において取り消せない刻印が刻まれることになります。天主の子になる洗礼です。たとえてみると、血統と似ています。血統ゆえに、父母がわかります。いわゆる遺伝子をもっていて、これを変えられないわけです。それと洗礼は霊的な次元で似ています。

それから、堅信も霊魂において刻印を刻みます。信仰において大人をなして、完成したキリスト教徒をなす秘蹟です。
最後に、品級の秘蹟も霊魂において刻印を刻みます。「あなたはメルキゼデクの位に等しい永遠の司祭である」(ヘブライ人への手紙、7、17)のとおりです。

要約しましょう。七つの秘蹟の内に、一人一人のための秘蹟は五つあります。社会のために二つあります。
三つは一回のみ授かることはできます。つまり刻印を刻む三つの秘蹟です。

そして、七つの内の二つは「死者の秘跡」とよばれています。死をもたらすからではもちろんありませんね。逆に、聖寵の命をもたらして死んでいる者を活かして、聖寵の命をほ与えて、死者を復活させる秘蹟です。もちろん洗礼はその一つですね。洗礼を受けていない者は聖寵の命の内に生きていないからです。そして、改悛の秘蹟もその一つです。大罪を犯したことによって聖寵の命を失った者、つまり霊的に死んでいる者に聖寵の命を取り戻す秘蹟であって、聖寵の命に復活させる秘蹟なのです。

その上、七つの秘跡の内に一番重要かつ重大な秘跡は聖体なのです。ミサ聖祭です。
なぜでしょうか?ミサ聖祭、あるいは聖体という秘蹟は聖寵を施すだけではないからです。洗礼は聖寵を施します。堅信は聖寵を施し強化し完成化したキリスト教徒として生きるように助ける秘蹟です。改悛は聖寵をとりもどします。終油は身体と霊魂の苦痛を和らげる聖寵を施し、善き死を遂げるための聖寵を施します。結婚は家族においてよく生きていく聖寵を施します。品級は教会の臣下を天国に連れていくための聖寵を施します。

ミサ聖祭とは聖寵を施すだけではなく、イエズス・キリストご自身を与える秘跡です。言いかえると、聖寵の持ち主を与える秘跡です。従ってミサ聖祭は秘蹟中の秘蹟です。聖体は秘蹟中の秘蹟です。聖寵の持ち主であるイエズス・キリストを与えることになるからです。それから、ほかの全ての秘蹟もそれがミサ聖祭のために制定されたことのゆえに秘蹟中の秘蹟でした。



洗礼を受けるのも、堅信を受けるのも、聖体拝領するためですし、また聖体拝領を最大に活かすためです。終油を受けることも、聖体拝領するためです。そして死んだら、天国で永遠に天主の現存の内に生きていくためです。つまり永遠の聖体拝領のためです。品級も言うまでもありません。聖体の秘蹟を行うために制定された品級なのですから。すべての秘蹟は聖体を中枢に据えています。聖体こそは霊的な命の本物の太陽なのです。
以上、七つの秘蹟を紹介しました。
~~

秘蹟とは物質的な印号なので、秘蹟には四つの特徴があります。この四つの要件は揃ったら秘蹟となります。物質的な印号ですから、秘蹟になるために何が必要でしょうか。ちょっと哲学用語が出るので、少し難しいかしれません。簡単に説明してみましょう。

つまり、物質的な「質料」だけでは物質にすぎないから、まだ秘蹟になりません。簡単にいうと、質料を「息吹く」形相も必要となります。要約すると、印号は「質料」と「形相」からなっています。

大体の場合、質料は具体的な物と事柄ですね。洗礼では水の注ぎとか、堅信では聖香油を十字架の形で付けるとか。あるいは、ミサ聖祭なら、パンと葡萄酒です。
それから、「形相」とは「質料」に息吹きを入れるようなことであります。殆どの場合、「発される言葉」が形相となります。洗礼なら、水を注ぎながら「我、聖父と聖子と聖霊のみ名によりて汝を洗う」という言葉です。堅信なら、聖香油を十字架の形で額に記しながら司教が発する言葉です。ミサ聖祭の際、パンと葡萄酒にかける聖変化の言葉です。

つまり、すべての秘蹟はまず質料と形相といった感覚できる要素からなっています。このようにして、聖寵が施される印となります。

ただ、質料と形相はあっても、秘蹟を実践するための執行者も必要となります。つまり秘跡を執り行う者が必要です。殆どの場合は神父ですが、各秘蹟を見ていくときに詳しく説明しましょう。時々司教でもあります。

それから、執行者の上、執行者が「公教会が行っている使命を執り行う意向」を持つ必要もあります。つまり、積極的にカトリック教会に従おうとする意志、そうすることによって、そのためにカトリック教会を制定なさった私たちの主、イエズス・キリストに従おうとする意志なのです。言いかえると、秘蹟を制定なさったときにイエズス・キリストが示された意向に従おうとする意志が必要だということです。聖体は何か、さりげなく執り行う秘蹟などではありません。

「でも、このような意志、意向は主観的でしょう。どうやってあるかどうかを知れるでしょうか」とよく聞かれます。カトリック教会の意向は「典礼」においてこそあるということです。つまり、それぞれの秘蹟のために賢明なる公教会はそれぞれの儀礼を制定しました。そして、各々の儀礼において、公教会の意向、ひいてイエズス・キリストの意向は織り込まれているわけです。典礼に従う神父は教会の意向で秘跡を執り行うことになります。

だからこそ、第二ヴァチカン公会議の典礼改革は非常に深刻なことでした。あまりにも儀礼を改革した挙句、時には秘蹟の有効性を疑うほどになっています。すべての儀礼は変えられましたよ。長い数世紀を通じて変わらなかったのに、洗礼式、堅信式、ミサ聖祭の典礼、品級の秘跡などなど変えられました。

そうすることによって、本来、カトリック教会が儀礼において織り込んでいた意向という宝を薄くして、場合によってなくしている状態となっています。そして、このような「新しい儀礼」を執り行うあまりに、神父の意向がそもそも正しかったとしても、少しずつその意向も変質してしまう状態を生みかねない状態になりつつあります。

そのせいで、現在の「新しい儀礼」なる新典礼のせいで、秘蹟の第四の要件となる執行者の意向を疑うことが可能となりました。それ以前の儀礼だと、疑えないわけです。ですから、儀礼を改革したのは非常に深刻なことです。初期のころから現代に至るまで、第二ヴァチカン公会議をのぞいて、一度もこのような改革はありませんでした。

それほど全般的に、そして根本的に儀礼を変えられることは一度もなかったのに。一度も。典礼には宝と叡智が織り込まれているから、恐れ多くて軽々しく変えられるものではないはずなのに。典礼は信徒の好感を引くための手段などでは決してないのです。私たちの主、イエズス・キリストの叡智とそのみ教えは典礼において織り込まれているからこそ、刻印されているからこそ、大切にしなければなりません。

秘蹟の要件を要約しましょう。質料、形相、執行者、典礼によって示される意向。
そして、最後に、当然と言えば当然ですが、秘蹟は効果をもたらすため、秘蹟を受ける能力者も必要です。たとえば、動物に洗礼を授けることはできません。無意味なことです。秘蹟を受けることができる者も必要です。今から、秘蹟を一つずつに説明していきますので、だれが受けられるか受けられないかを詳しく見ていきましょう。

祈りとは何でしょう?祈る時にはどうすればよいでしょう?

2021年01月17日 | カトリック
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百七講 祈りについて



前回の講座では、聖寵とは何であるかを紹介しました。第一、聖寵の状態、すなわち「平常の聖寵」とは天主の三つの位格が私たちの霊魂にお住いになることによって、「天主の生命という賜物を天主が人間に与える」という恩寵です。第二、「助力の聖寵」とは一時的な助けの聖寵です。助力の聖寵を通じて、善き天主は私たちがある行為を実践するために、あるいは悪い行為を躊躇するための一助を与え給うということです。
そして、聖寵を得るための主な手段は祈りと秘跡なのです。

今日は祈りについて見ていきましょう。祈りとは何でしょうか。
公教要理が記す通り、祈ることとは、父に話しかけると同じように天主に話しかけるということです。この定義は本当によくできています。(くりかえしますが)祈ることとは、父に話しかけると同じように天主に話しかけるということです。そういえば、私たちの主は祈ることを教えている際、「あなたたちはこう祈れ、〈父よ〉」(ルカ、11、2)と使徒たちに仰せになりました。

要するに、天主に話しかける時に重要なことは「父なる存在に話している」ということを思い出すことです。天主に話しかけるのは一体なぜ「父に話す」と同じことなのでしょうか?これも注意すべきことなのではっきりと説明しておきましょう。私たちの霊魂においてお住いを構え給うた善き天主は、私たちの友人になる恩恵を与え給うだけではなく、私たちの父になり給うからです。

聖寵の状態というのは、天主が私たちの父になっているという状態です。これは大切なことです。現代、いわゆる曖昧な「エキュメニズム」が流行しているせいで、「皆、同じ天主を父として頂いている」かのように信じ込む羽目に陥ることが少なくないでしょう。しかしながら、それは正確ではありません。より厳密にいうと、人々は全員、皆、同じ創造主としての天主を頂いています。

このように、人間なら必ず天主による「創造のみ業」より生じたということです。しかしながら、本来の「父」という意味では、人々は皆、同じ父を頂いていないわけです。聖寵の状態にいる人々のみ、同じ父を頂いているのです。言いかえると、つまり、聖寵という「大家族」に属する人々だけが同じ父を頂いています。ですから、狭義でいう「兄弟」、つまり本来の意味の兄弟となっている人々は同じ父を頂いている人々に限られるのです。つまり、聖寵の状態にいる人々は本当の意味での兄弟です。

言いかえると、聖寵の状態にいるカトリックの信徒たちです。カトリック信徒たちは聖寵を得ていない人々の兄弟ではありません。カトリック信徒たちはカトリックではない人々の兄弟ではありません。50年前ぐらいから、「皆、兄弟だ!」という誤謬は広まりましたが実際はそうではありません。言葉の意味を曖昧に使うことによってそのあたりが曖昧になりましたから、注意が必要です。



家族において、兄弟になっているという意味は「血統でつながっていて、つまり同じ父を頂いている」という意味でしょう。なぜこのような意味になっているでしょうか?同じ父によって生まれて生きているからです。つまり、一番厳密な意味でいうと、狭義な意味でいうと、兄弟になるためは、聖父なる天主によって超自然の命として生まれた時に限ります。つまり、超自然としての命にまだ生まれていない人は天主を父として頂いていないのです。従って、イエズス・キリストを兄弟として頂いていないのです。したがって、キリスト教徒を兄弟として頂いていないのです。

そして、父として天主を頂いていない人は、当然といえば当然ですが、聖父なる天主の遺産(これは天国あるいは救霊ですが)を相続する権利はありません。当然と言えば当然ですが、このような基礎知識はよく覚えておきましょう。基礎中の基礎ですから。
皆、必ずしも兄弟ではないということを忘れてはいけません。カトリック信徒たちのみ、兄弟となっています。そして、聖寵の状態の内に生きている人々に限って、天主は父となっています。

当然のことながら、この世に生きている限り、人間ならだれでも聖寵の状態の内にいずれの日にか生まれ変わることが期待できますし、望ましいことです。私たちが兄弟になることを教会が深く望んでいるからこそ、宣教があり、福音を伝えるのです。そのため、「善き知らせ」を伝えていくのです。「天主は私たちを養子にしてくださった!」という善き知らせです。「天主の子になった!」という善き知らせです。

要するに、祈りをするとき、父なる天主に話しかけるのです。そして、父に話しかけるとおなじように、天主に話しかけるのです。
この短い定義においては、祈りとはどれほど単純なこと、自然なことであるかが語られています。ときどき、祈ろうとするとき、物事を無駄に難しくする傾向が少なくないでしょう。「どうすればよくいのれるのか?どういった言葉を使ったらよいか」とか。それを一旦わすれて、単純に素直に祈るのがよいです。祈る時、私たちの父である天主に話しているということを思い出しましょう。

さて、祈ろうとしたらどうすればよいでしょうか?
第一、天主を礼拝しましょう。というのも、天主は私たちの父であると同時に、私たちの創造主であることに変わりはないからです。天主は私たちの父になり給うたお陰で、あるいは私たちは天主の子になることによって、私たちは超自然の次元に引き上げられているということを忘れてはいけません。つまり、人の力だけで、到底に取得できない宝を天主のお陰で取得したということです。ですから、祈る時、第一に、天主を礼拝しましょう。本来ならば、キリスト教徒ならあたりまえの習慣になっていることですが、天主に祈りをささげる際、まず天主の偉大さを認めて唱えて、礼拝するのです。
~~

残念ながら、近代主義による悪影響もあり、「天主は私の仲間、わたしの友達」といったような意見が意外と多くなっているようです。天主はなにか、何の遠慮もなく、何の礼儀もなく、何でも「会話」できるような存在であるかのような。それはありませんよ。父に話しかける時、丁寧に話すでしょう。友達ではないからです。この世は私の父のお陰で、生きているわけです。そして、父から生命を受けているし、人生においていつまでも父に依存する部分があるし、つまり多くの恩を受けています。

このように、天主の場合も同じです。天主は単なる「友達」ではありません。砕けたような口調で話しかけるのは論外でしょう。善き天主は善き天主なので、偉大中の偉大な存在です。「自分を欺いてはいけない。神を侮ってはならない」(ガラツィア人への手紙、6、7)。
当然ながら、天主との親しみはもちろんあります。ありますが、この親しみはいわゆる馴れ馴れしくなることはないというか、粗野な砕けたような関係ということにはなりません。

そして、「天主はいとも優しい御方なので、どれほどダメな傾向が私にあったとしても、許してくれるからさ、私のレベルに卑下してくれるからさ」ということはありませんよ。



普通の家族において、父の仕事は子供たちを引き上げて、高めてあげることにあるのです。つまり父は卑下してはならないのです。なにか、大人でなくなって、子供になるかのように、父が自分を貶めて、卑下することはありませんよ。もちろん、一時的に、父が「子供のレベルに自分を貶める」ことがあります。しかしながら、それはいわゆる、子供のレベルまで下がって、子供を引き上げるためです。そして、同じように、子供もどんどん高まってほしくて、全力を尽くして努力します。たとえば、子供は大人の会話に混じることによって自分がより大人っぽくなりたいということです。聖パウロがおっしゃる通りです。「私はこどものころは、子どものようにはなし、子どものように考え、子どものように論じたが、大人になってからは子どもらしいことを捨てた。」(コリント人への第一の手紙、13、11)

要するに、祈る時に、最初の目的は、天主を礼拝し、天主のいと高き威厳を積極的に認めることにあります。
それから、祈りの第二の目的は天主に感謝することにあります。当たり前といったら当たり前ですが、それほど多くのことを頂いているから、感謝するのは最低の最低でしょう。考えてみると、天主は私たちのようなちっぽけな存在を超自然の次元にまで引き上げてくださることになさるなんて、信じられないことでしょう。また、恩寵を私たちに与えてくださるなんて、冷静に考えると本当に信じられないことです。その分、感謝しましょう。

そうすることによって、父という関係の上に、天主は私らにその親交関係を結び、ある程度の対等性を与えてくださるわけです。どれほど素晴らしいことでしょうか。天主のみ内に天主が私たちを入れ給うなんて!これを思い出すと、天主を感謝することはいつまでも十分にできなくて物足りないでしょう。ですから、出来る限り、よく感謝していきましょう。また、善き天主は感謝の意を大御心のなかで受けるのです。これを思い出しましょう。善き天主は感謝の意を大御心のなかで受けるのです。ですから、感謝をよくしていきましょう。

そういえば、現代の社会では感謝することが珍しくなりました。というのも「人権」をはじめ、「現代人には権利がある」といって、「すべて得て当然だ」といったような空気なので、感謝することがなくなりつつあります。なんか、個人が権利を貰っているのが当然であるかのように、個人がすべてを貰っているのが当然であるかのような空気です。そして、天主に対するこのような態度はときどきあります。天主は人間に物事を与えるのは当然であるかのように、人間の言いなりになるべきだというような態度。それはまったくありません。逆です。人間こそは天主に仕えて、従っているのです。ですから、感謝してください。そうすると、天主によって恵まれることになります。

思い出しましょう。福音において、10人のハンセン病がわれらの主のもとに来る場面を思い出しましょう。その時、「治してほしい」という願いですが、われらの主は善き御方なので、当然ながら10人とも治してあげます。そして、10人は治りました。10人ともうれしいですが、そのうち、われらの主に感謝を表したのはたった一人だけです。感謝するのは人間にとってどれほど難しいかこれでお分かり頂けたと思います。

経験に照らしてもそうでしょう。そして、その10人の内、たった一人のみ、私たちの主の下に戻って、「ありがとうございます」といいます。そして、私たちの主は「10人を治したのではなかったのか?残りの9人はどこにいったのか」と仰せになります。残りの9人は恩知らずな人々でした。感謝を表さないのです。そして、感謝しに来た一人のために、イエズス・キリストは彼の身体を治した上に、今度、彼の霊魂を治すのです。素晴らしいでしょう。善き天主に感謝を表したから、更に私たちの主はより多くの賜物を送るのです。

あと、周知のように、親は子供が「ありがとう」といわせるためにどれほど苦労を掛けているかを見ても明白でしょう。そして、このように躾のある子、よく「ありがとう」といってくれる子に会う時、その子により多く与えたくなっていきますね。この子は、現実の「依存」をありのままに認めているから、ありがたいことですね。
要するに、礼拝し、感謝しましょう。祈りの一つの目的は天主に感謝することにあります。
~~

それから、祈りの第三の目的は一番知られているところでしょう。つまり願いを立てる目的ですね。恵みを乞う目的です。よく礼拝しないでよく感謝しないことが多いため、願っても成就することはまれでしょう。それでも、どうしても私たちは恵みを希っていますね。そして、私たちが天主に意外と多くの恵みを希っているのが常ですね。

そして、臨終の時、天主のみ前に来る時が来たら、いよいよどれほど天主から頂いたかということに気づくことになりますが、私たちは驚くでしょう。そして、なぜ、私たちの願いがあまり成就されていなかったのかもわかるでしょう。つまり、私たちが願っている多くのことは私たちのためにならないから与えられるわけがないということです。

ですから、これは多くあることでしょう。私たちの救霊とあまり関係ないことを願ったりすることが多いでしょう。あるいは、救霊を得るためにまったくためにならないことを意外と願っていることも少なくないでしょう。しかしながら、天主は私たちのために気づかない内に与えてくださった多くの物事をはじめて分かった時、皆、驚くでしょう。要約すると、祈りの第三の目的は恵みを希うことにあります。

そして、祈りの第四の目的は、私たちが犯した罪の赦しを希うことにあります。これも非常に大切です。親は子どもがなにか罪あるいは過失を犯したとき、謝罪を要求するのと同じです。そして、謝罪して、赦しを希うのは、慎みの行為なのです。つまり、天主のみ前に、私たちはどれほど小さいかを認める行為だからです。

謝罪すること、赦しを希うことは大事です。現代の社会では赦しを希うことがまれになっています。いわゆる、謝罪するよりも、裁判に訴えて賠償金を貰うのはむしろ普通になりつつあります。天主に赦しを希うのは大事であって、そしてその分、多くの恵みを頂くのです。

以上は祈りの四つの目的でした。第一、礼拝すること。第二、感謝すること。第三、恵みを希うこと。第四、罪の赦しを希うこと。
~~



キリスト教徒には祈ることが義務です。「祈らない人は救われない、祈る人は救われる」とは聖アルフォンソ ・デ・リゴリのことばです。
祈りというのは、信徒と天主の間の親交を大切にする手段です。維持・持続する手段です。たとえば、二人の親友はお互いに大事な方だと思ったら、よく話し合うでしょう。その関係を大切にするため、よく手紙を交換したり、あるいは会話したりするでしょう。このような関係がなくなったら、親交はどんどん薄くなっていき、ある時、絶交になるでしょう。

逆に、このような関係を大切にして、よく話し合ったりすると、親交を保つたけではなく、その親交を深めていくのです。その絆を強化していきます。これは祈りの役割です。ですから、祈りはキリスト教徒の義務です。祈ることによって天主との絆を強化していきます。また、祈ることによって、聖寵の状態が確固たるものとなっていきます。つまり、よく祈っているキリスト教徒は信仰において、聖寵において毅然として強くなっていきます。そして、祈れば祈るほど、罪を犯すことも少なくなっていきます。このように考えると、聖アルフォンソの言葉の意味が分かります。「祈らない人は救われない、祈る人は救われる」。要するに、祈りは義務です。

それから、いつ祈ればよいでしょうか。もちろん、なるべく頻繁に祈るのがよいです。聖パウロが言う通りです。「絶えず祈れ」(テサロニケ人への第一の手紙、5、17)。もちろん文字通りには無理ですけど、なるべくよく祈ることです。
良い習慣として、起きる時、一日を天主に捧げるために祈るのがよいです。また、寝る前に、一日にいただいた恵みを感謝して、罪の赦しを願うために祈るのがよいです。それから、日中、時々祈るのがよいです。悲しみがある時、苦しみがある時、危険がある時、誘惑がある時、祈るのが重要です。

そういえば、日曜日のミサに与る戒め以外に、教会は祈祷に関して細かく規定することはありません。たとえば、「必ず毎日三回祈れ」というような規定はありません。もちろん、祈れば祈るほどよいことで、それに越したことはありませんね。というのも、親友を愛すればするほど、頻繁に会いたくなってよりよく話したいと同じように、天主を愛すればするほど、祈りたくなっていきます。天主はなによりも、この上なく貴重なことですから。ですから、天主に近づこうとすればするほど、よく頻繁に祈っていくことになります。

そして、よく祈るためには、注意深く、慎み深く祈ることが重要です。礼拝することは慎みの行為です。同時に天主を信頼して安心感を以て祈ることが大事です。また、一番難しいところであるかもしれませんが、忍耐強く絶えず祈り続けることが大事です。よくあることでしょう。恵みを得るために祈りますが、叶わないからといって、祈りを止めることが少なくないでしょう。



これは過ちです。天主は私たちに与えるべきこと、与える義務はまったくありません。その逆です。私たちはすべてを天主により賜っているので、恩返しする義務があって、祈る義務があるのです。いわゆる、私たちの祈祷が成就するか否かにもかかわらず、いつまでも私たちは天主に依存して、また天主に深く恩に来ている事実は変わりません。

従って、いつまでも祈り続けることが大事です。忍耐強く祈り続けることが大事です。福音ではこれについての立派なたとえがあります。ある人が夜中に友人の家まで来て戸を叩く話です。いま不足している物を友人に頼みに来ました。夜中だし、騒ぎになるから、起きざるを得ないその友人に対する願いです。そして、私たちの主はこのように仰せになります。この友人は友人として頼まれたことを与えないとしても、静かに寝ることができるために与えるだろうと。このたとえを通じて、私たちの主は「忍耐強く、あきらめることはなく祈り続けなさい」と教えるのです。つまり、「正当な頼みであるかぎり、いずれか成就してあげるから」という意味を込めたたとえ話です。
要するに、祈る時に、注意深く、慎み深く、信頼して、忍耐強く祈っていきましょう。

それから、祈る時、まず、自分自身のために祈ることが大事です。聖寵を失わないように、信仰において忠実であり続けるように祈るのがよいです。それから、生きている者と死んでいる者とのためにも祈ることが大事です。死者は既にその運命は裁かれたので、煉獄からなるべく早く解放されるように信徒の死者のために祈るのが大事です。

そして、何よりも大事なのは、生きている人々のために祈ることです。生きている人々が天国に入れるように祈りましょう。これこそ重要です。罪人のために祈るのが重要です。聖母は何度もこれを私たちに頼んでいます。Pontmainのご出現の際でも涙をながし、ファチマの際に聖母が子供に地獄を見せて「そうならないように、罪人のために祈りなさい」と頼みました。永劫は非常に深刻なことで、取り消しのない状態ですから。そして、生きている人々の間に、愛徳の順番に従って、第一に、私たちに近い人々のために祈りましょう。家族、親、兄弟姉妹、友人、それから信仰において私たちに近い人々のために祈りましょう。「親交においての同胞者」とでも呼ばれうる人々のために祈りましょう。お互いのために祈り合うことが重要です。祈るということは自分自身のためだけではありません。お互いのために祈ることが大事です。そして、教会の構成員の皆さんのために祈るのも大事です。
~~

祈ることに当たって何を願えばよいでしょうか。一番重要なことを願いましょう。つまり、私たちの救霊のために必要である物事を願いましょう。
地上の物事あるいは現世の利益はいつまでも続かないし、いつか終わるから、現世の利益は救霊のために必ずしも必要ではない物事です。従って、祈りにおいて、何よりも超自然な恵みを願いましょう。

祈りには二種類があります。心の祈りと声の祈りです。この区別を理解すると、聖パウロの「絶えず祈れ」という命令の意味をも理解できます。「声の祈り」とは、言葉を以て発声して、また体の姿勢をもって行う祈りを指します。いわゆる、言葉をもっての祈りです。知るべき「声の祈り」には次の重要な祈りがあります。「アヴェマリア」あるいは「天使祝詞」と呼ばれる祈祷。天使聖ガブリエルがいとも高き聖母に祝いの言葉を知らせたことから「天使祝詞」と呼ばれます。そして、天主の言葉に追加された形で、聖エリザベートの言葉に続き、最後の部分は教会によって追加された部分から構成されています。


「めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。」
以上、前半の部分は天使ガブリエルと聖エリザベートの言葉です。そして、後半は教会が追加した祈祷です。
「▲天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終のときも祈り給え。アーメン。」

キリスト教徒にとって重要中の重要な祈祷です。そして、非常に覚えやすい祈祷なのです。そして、司祭として経験を述べさせていただくなら、老人あるいは病者の世話をする時、疲労していたり、病気のせいで何もできなくなっている状態でも、何も読めない覚えられない状態でも、アヴェマリアは最期まで残ります。臨終の人々の大きな慰めとなる祈祷なのです。

「めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。」

それから、キリスト教徒なら必ず知るべき祈祷は主祷文です。天主は使徒たちに向けて直接に教えられた祈祷なのです。「あなたたちはこう祈るのがよい」(マテオ、6、9-13)

「天にましますわれらの父よ、
(願わくは、)御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。
▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。アーメン。」

この祈祷には常に私たちの父なる天主に願い出るべき項目はすべて揃っています。以上、声の祈祷でした。もちろん、祈りは数えきれないほどに、その他たくさんありますね。栄唱などの短い祈祷、あるいは聖ベルナルドの素晴らしい「聖母への祈り」、そのほか多くの連祷は無数なほどあります。カトリック教会は非常に多くの祷りを受け入れました。好みもあってよいですし、いくつかを覚えておくといいですし。

それから、心の祈りという祈祷の種類もあります。その呼称通り、より内面的な祈りになります。もちろん、声の祈りも内面を含めて心を込めての祈りですが、心の祈りの特徴は発生する言葉はないという意味です。心の内にだけ祈るという。要するに、霊魂は天主のご現存を心に迎えるという祈りです。信仰の行為、希望の行為、愛徳の行為を内面的に行い、霊魂に天主を迎えるということです。そうすることによって、天主を礼拝するのはもちろんですが、そして感謝し、そして天主は霊魂にご自分自身を与え給います。
黙想あるいはとも呼ばれる祈りです。霊的な祈りの達者とされている聖アヴィラのテレサはこういっていました。「毎日、15分の黙想をする人は天国に入ることが確実です」。



黙想あるいは心の祈り、あるいは内面的な祈りは「静寂主義」という誤謬ではありあません。「静寂主義」は誤謬としてカトリック教会によって断罪されました。つまり、「静寂主義」といのはすべてにおいて消極的で、静寂しながら天主の間に動かないまま、15分の間に何もしないでそのまま立っているような感じですが、それは心の祈りではありません。黙想になりません。いや、それはなくて、黙想というのは、信仰の行為、希望の行為、愛徳の行為を込めて、天主を迎える状態にするということです。自分の霊魂を天主に捧げて、天主を迎える積極的な祈りです。そうすることによって、天主は霊魂にご自分自身を捧げることは可能となります。

たとえてみると、ちょっとだけ似てはいますが、こう言いましょう。母が食事の準備をしているとしましょう。台所にいて準備していいます。そして、二歳の子供は傍にいて母のやっている事をじっと眺めています。二歳の子供はそして話しかけます。おぼつかない言葉で。そして、母を手伝おうとしても何もできないのです。まあ、卵を下手に壊して、粉を散らかすぐらいですね。しかしながら、子どもができるのは母のそばにいることです。そして、いることだけで、母は喜びます。また子供も喜びます。そして、二人は実は消極的ではなく、お互いにいることによって喜びます。子供は具体的にあまり何もできないとしても、消極的にならないわけですね。興味津々になって、母を手伝おうとします。
もちろん、これはかなり弱いたとえにすぎませんが、心の祈りはこれとちょっと似てはいます。天主のご現存を心に迎える心の祈りです。
以上、祈りについてでした。

天主からの無償の恩恵 | 聖寵の種類とその違い

2021年01月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百六講 聖寵について



公教要理を紹介するに当たって、三部に分けました。この分け方は我らの主、イエズス・キリストの次のみ言葉に由来しています。
「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ、14、6)
公教要理の第一部において、真理なるイエズス・キリストを概観しました。救われるために信ずべき諸真理についてです。一般的にいうと「信経」、つまり信仰の諸信条です。
第二部において、道なるイエズス・キリストを概観しました。言い換えると天に入るために、イエズス・キリストに従って具体的にどう行為していけばよいかについての部分です。一般的には「道徳」と呼ばれているものです。ラテン語の言語「Mos(道徳)」は「実践」という意味です。具体的には、前回まで見てきた天主の十戒や教会の掟などを含んでいます。

そして、本日から第三部を始めていきたいと思っております。
「私は命である」というときのイエズス・キリストを中心にする部分です。要するに、第三部においては私たちに霊魂の命を与えてくださるすべての物事について見ていくことになります。言い換えると、聖寵の命を与える物事。一般的に「聖寵」あるいは「秘跡」と呼ばれる部分です。要するに、私たちにおいて働きかけてくださり、天主の内に生きていけるすべての物事などについての部分になります。
~~

最初に「聖寵」と呼ばれることについて見ていきましょう。カトリックになると聖寵という言葉は非常に頻繁に現れます。神父様たちは説教の時、殆ど必ずと言ってよいほど、聖寵という言葉を口にします。告解の時にも、司祭たちは信徒に聖寵のことをよく説きます。例えば、「天主の聖寵をよりどころにするように」あるいは「天主の聖寵を実りあるようにするように」といったような助言があろうかと思います。

要するに、「聖寵」という言葉は頻繁に現れていますが、実際問題として信徒はどういった意味になっているかについて曖昧なまま、あるいはよくわからないままであるということは少なくないのです。いわゆる、聖寵の定義を聞かれた時、どう答えたらよいか迷うような。ですから、本日の講座で聖寵の定義を示してみましょう。

まず、「聖寵」には「寵」という言葉の通り、ラテン語の語源を探ると「無償」なことであり「無料」なことであり、対価がいらないという意味です。また、フランス語などの西洋語で、権威者が「特赦する」あるいは「恩赦」するといった時、つまり死刑から救い出す特赦という言葉は「gracier」という動詞で、聖寵(grâce)と同じ言葉です。

これは恩恵を施すという意味でもあり、つまり、この恩恵を施す人は相手に施す義務はないということです。何の恩返しの必要もない「心ばかりのものである」としての意味です。また、その恩恵を受ける側、その恩恵に値しなくても恩寵を受けられるという意味です。



これはもともと自然次元の恩恵・恩寵としての意味ですが、超自然次元においての聖寵も全く同じです。天主の聖寵は超自然なる賜物であり、また無償なる賜物であります。そして、超自然というのは、人間の本性を越えた賜物であるという意味です。自然=本性という意味は、聖寵が人間の本性に比肩しうる点はないという意味です。人間の本性との共通点のない人間性よりは遥かに高次なる賜物なのです。そして、天主は私たちの永遠の救済のために私たちにこの聖寵を無償で施してくださいます。

言いかえると、聖寵とは天主よりの私たち人々へのプレゼントです。このプレゼントは私たちの能力をはるかに超えており、私たち人々が望むこともできなかったプレゼントです。また、人間の本性を越えているがゆえに、私たちの力では取得できないプレゼントです。要するに聖寵とは私たちを遥かに超えている天主からの私たちへの超自然のプレゼントです。そして、天主はなぜこの賜物を私たちに与えてくださるかというと、私たちが天に入れるために、永遠の救済を得られるためなのです。

要するに、私たち人間を天主の域にまで引き上げるために、天主は私たちまで御身を落とされたのです。
実際とは違いますが、たとえてみると、ある人が自分のペットに言葉を与えてペットが話せるようにするようなことと似ています。想像してみましょう。犬あるいは猫を飼っている飼い主が自分のペットに人間の言葉が話せるようにしておいて、人間とペットは会話ができるようにするようなことです。これは、いわば、飼い主からペットへの恩寵です。飼い主は「人間の言葉が話せる」という恩恵をペットに施すのです。

超自然の次元では天主が人間に対して以上と似たようなことをなさっています。ただし、大きな違いがあります。天主と人間との差は、人間と動物との差に比べたらはるかに大きくて無限であるということです。言いかえると、万が一、人間は話ができるという賜物をペットに施すことが可能だったとしても、天主が人間の霊魂への聖寵の施しに比べたら無限に小さい恩恵にすぎず、比較にならないほどその次元を異にしています。

以上、聖寵の一般的な定義を見ました。繰り返しますが、聖寵とは、人々を遥かに超越する超自然の賜物であって、そして、私たちを天国に入れるために施されるのです。というのも、天国は超自然の次元に属する現実だからです。言いかえると、聖寵の働きのお陰で、私たち人間は天国に値する立場まで引き上げられていくのです。つまり、聖寵が人間の究極の目的である永遠の命の次元に私たちを引き上げてくださっているのです。

天主は人間に対して人間を越えている超自然の目的を与えてくださっています。これが天国です。しかしながら、人間の力だけで天国に到達することは不可能です。私たちは自然次元に属していますが、次元を異にしていることから、超自然な次元のことに対しては自分の力だけでは手を出せないわけです。しかしながら、天主の賜物である聖寵は、本来、自然次元だけに属している私たちの本性を超自然の次元まで引き上げ給うのです。その時にはじめて、人間の究極的な目的地にたどり着くことが可能となります。以上、聖寵の一般的な説明でした。

従って、聖寵に頼らずして救済は不可能ということになります。聖寵のない人、聖寵を拒否する人は天国に入ることは不可能です。というのも、天国とは異質のままの人間になっているから、天国に入れないのです。人間の本性は本来超自然の次元に適っていないからです。ですから、人間の本性だけで、聖寵の助けなしに、目的地に辿り着くことは不可能となります。

「不公平だ」という人もいるかもしれません。(しかし)そうではありません。なぜかというと、天主は人間に天国という目的を与えてくれただけではなくて、常に、その目的地にたどり着くための手段、つまり聖寵を与え給うからです。俗にいうと天主は、無理なことを私たちに頼んでいませんので、限りなく気前の良い御方です。言いかえると、天主は私たちに目的を与え給う限り、その目的を達成するための手段をも与え給うのです。

ですから、最後の審判が来た時、私たちは天主のみ前に出廷したら、「私の場合、できないことだったので、私のせいではない」と文句をいっても済まないことになるわけです。確かに、人間の本性の力だけなら、無理ですが、天主は「聖寵をあげたのになぜ受け入れてくれなかったか。君の一生の間、多くの賜物と聖寵を絶えず贈ったはずであり、天国に行くのは容易だったはずなのに、君が聖寵を拒絶しただろう」とお答えになります。
~~


以上、聖寵に関する一般的な説明でした。
次に、聖寵には二種類を区別します。この区別は大事です。いつも「聖寵」と言われても、違う二つの種類を指しているから要注意です。
第一に、成聖の聖寵です。第二に、助力の聖寵です。以上の二種類の聖寵を混同しないように気を付けましょう。もちろん両方とも聖寵であるから、両方とも天主よりの超自然なる無償なる御恵みなのです。

成聖の聖寵は一番重要な聖寵です。何でしょうか?
成聖の聖寵とは、天主の三つの位格が私たちの霊魂において住み給うことによって、超自然の賜物が私たちに施されているというものです。言いかえると、成聖の聖寵とは「一度だけ助けるために送られる一度のみのプレゼント」ではなく、聖父と聖子と聖霊なる天主ご自身が私たちの霊魂において現存される聖寵なのです。要するに、成聖の聖寵とは三位一体の天主、全体としての天主は私たちの霊魂にお住まいを構えられることによって、天主ご自身の生命を私たちに施し給い、天主の生命によって私たちの霊魂を活かし給うというものなのです。

言い換えると、成聖の聖寵とは私たちの霊魂における天主の御命なのです。ですから、成聖の聖寵を享受している人は、天主ご自身を自分の内に持っているということを意味します。幼きイエズス・キリストの聖テレサは次のことをいっていました。「天は地を訪れた(Le ciel a visité la terre)」。この言葉は詩あるいは歌としても作曲されました。この言葉は聖成の聖寵の現実を美しく語ってくれます。

また、別の言い方をすると、天主は人間としてご降誕なさって、御托身をなさったように、天主は本質的に人間の霊魂において住まわれることになっています。聖父と聖子と聖霊なる天主として霊魂に住み込み給うのです。これが成聖の聖寵なのです。「成聖」とは、私たちを聖化するという意味で、本当の意味で天主との同居を意味しています。

たとえてみれば、飼い主がペットに人間らしい命をペットに与えて、ペットが人間として生きるようにして、飼い主と一緒に人間らしい生活を可能にすることと似ています。天主は実際にこれをなさっておられますが、これが成聖の聖寵なのです。成聖の聖寵の別の呼び方は「平常の聖寵」とも呼ばれています。状態を指しているからです。成聖の聖寵とは聖寵の状態に常にあるという意味です。聖寵の状態にあるという時、それはどういう意味でしょうか。これは、常に、つまり一時的ではなくて時間において継続的に維持している状態という意味で、天主は霊魂においてお住いで、またこの霊魂は天主の内に生きているという意味です。

以上、「平常の聖寵」の説明でした。繰り返しますが、これは、常に聖寵の状態の内に生きている状態を指しています。言いかえると、霊魂は天主のご現存と一緒に生きているということで、天主は霊魂において実質的に現存なさっている状態なのです。これが聖寵の状態です。

そして、ご理解いただけたかと思いますが、天国に入るために聖寵の状態は必要です。なぜでしょうか?天国とは「永遠に天主の生命を分かち合う状態」だからです。超自然の次元と自然の次元という区別を常に念頭に置きましょう。地上において、天主の生命が人間に既に分有されていないのなら、死んだとき、天主の生命を持たない人は天主の内にあの世で生きていけないことになります。つまり、死んだ人は大罪の状態と呼ばれる状態にあるのなら、天国に入れないことになります。ですから、以上に見たように何も不公平なことはなくて、いわば当然な結果なのです。

一方、天主はいつも聖寵を人々に与え給うているので、天主は聖寵を与えないから不公平だという文句は成り立ちません。問題は天主が聖寵を与え給うているので、その聖寵を大切にして、その聖寵にしたがい、聖寵を維持するのは人間次第だからです。
~~

以上、聖寵の状態でした。聖寵は天主のご生命まで私たちの霊魂が引き上げられていることを意味します。聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊なる天主と同居しているような状態です。立派なことでいとも素晴らしい事柄です。素敵です。言葉を絶するほどに、言葉で表現できないほどに素晴らしい事柄です。

以上、聖寵の状態でした。あるいは成聖の聖寵でした。そういえば、成聖の聖寵は霊魂を治療しているといえます。つまり、原罪によって私たちの霊魂に痕跡している罪への傾向に対して私たちが戦っていることを助けるということであり、これが成聖の聖寵です。特に、現世欲と意志の弱みに対して私たちが戦うために成聖の聖寵は助けてくださいます。

成聖の聖寵がどうやって与えられていますか。二つのやり方で与えられています。第一に洗礼を通じてです。また後述しますが洗礼は超自然の命に生まれることです。そして、第二には大罪を犯した結果、成聖の聖寵を失った場合、改悛の秘跡に与ることによって、つまり告解を通じて成聖の聖寵は与えられています。

成聖の聖寵あるいは「平常の聖寵」の次に、助力の聖寵あるいは「時事的な聖寵」という聖寵があります。助力の聖寵は「聖寵の状態」ではないから、成聖の聖寵とは違います。では、助力の聖寵とは何でしょうか?善き行為、そして超自然なる行為を実践するために、天主が私たちに施したもうた一時的な助けなのです。

助力の聖寵を理解するために、プールの近くにいる水泳指導員が、泳いでいる人に溺死させないように時々竿を差し出すのと例えてみると似ています。また、母親が倒れないように自分の子の手を繋いだり、自分で歩けるように手を放ったりすることと似ています。つまり、まだ覚束ない子の歩きなので、倒れそうになったら、手を出してくださる母と似ています。善き天主は私たちが天主により忠実になることを助けるため、聖成の聖寵に加えて、助力の聖寵を施し給うのです。



このような「一時的な聖寵」は、善き行為、また超自然なる行為を実践するための天主の一助なのです。そしてそれは聖寵の生命の内に成長していけるように助けるのです。例えば、単純に信徒が自宅で跪いて天主に祈っていることができるということは助力の聖寵のお陰です。そして、この助力の聖寵を受け入れた信徒の姿です。また、例えば、告解に行く信徒は善き告解ができるように天主が助力の聖寵を施し給うのです。

このように、天主は常に多くの助力の聖寵を施してくださいます。聖寵なので、無償の賜物です。つまり、毎回毎回、聖寵を拒む人は、ある時、その挙句無償な賜物なので施す義務もないということで、天主が施さなくなるでしょう。これは聖寵を拒んだ人の責任になります。

聖寵の状態の内に生きていない人、また、日常、天主のみ旨に奉仕するように導く助力の聖寵という小さな導きを常に拒んでいく人は天主に対して「あなたのプレゼントはいらない」といったようなことを言っているに同然です。で、ある日、天主が「そうか。なら、もう施さない」と決めても文句はいえないのです。残念ながら、このように天主の聖寵を拒むことによって、永劫へ落ちていく人々は少なくないでしょう。

要するに、助力の聖寵は一時的な助けであるのです。ですから、私たちはこのような一助けに気づくように用心して、これらの聖寵になるべくよく受け入れて従っていきましょう。

次に、どうやって成聖の聖寵を失うでしょうか?大罪を犯すことによって、成聖の聖寵を失うのです。前に罪に関する講座を思い出してみましょう。要するに、大罪あるいは「死に至らしめる罪」とは、霊魂の生命を奪う罪なのです。だからこそ、大罪は深刻な事柄なのです。大罪によって、霊魂の生命、つまり天主の生命を霊魂から追い出すようなことになるのです。

また、天主との親交状態を破壊する大罪でもあるのです。聖寵の状態はまさに天主との友好状態なのです。ラテン語で、「友好関係」あるいは「友情」とは「同居する」「一緒に生きている」という意味に由来しています。このように、アリストテレスによれば、二人の友人が「共同生活を求めている」と説明しています。

このようにして、天主は私たちの友人になる時、私たちの霊魂において寄せてくださってお住まいになり、私たちの霊魂と共同生活している状態となります。そして、私たちは天主を霊魂において歓迎することによって天主の友人となっています。大罪を犯す人は、この友情に背く行為を犯すのです。言いかえると、天主の愛徳に背く行為を犯します。天主の友情を裏切ることによって、天主との友好関係を拒むことになり、天主を自分の霊魂から追い出す行為となります。その結果、天主の親友を失い、霊魂において天主の不在の結果、聖寵を失う結果を招きます。

裏を返せば、告解によって成聖の聖寵をなぜ取り戻されるかもわかってきます。また後述しますが、罪を悔い改めて、誠実に罪を後悔する痛悔と行為を改めることによって、天主の友好関係を取り戻し、成聖の聖寵を取り戻せます。

助力の聖寵は拒まれることがあります。状態ではないので、ある状態でなくなるとしても助力の聖寵を失うことはないかもしれませんが、助力の聖寵を給うための主な手段がお祈りと秘跡であり、これらを通じて助力の聖寵を受けることができます。
この二つの重要な手段である祈りと秘跡については、次回から詳しく見ていきたいと思っております。

「私は命である」ということは、秘跡と祈りによって、私たちにおいての天主の生命を維持することです。

最後に一つだけ聖寵に関して触れておきましょう。ちょっと難しいかもしれませんが、功徳についてです。聖寵の状態にある人は功徳を施すことが可能となります。功徳というのは、つまり、手柄を行ったおかげで、それに値する報酬を貰う特権であるとでも定義できます。そして、善き天主は想像を絶するほど善い天主です。というのも、聖寵の状態を無償で賜物として私たちに施し給うだけではなく、その上、その個別の功績・手柄次第に応じて報い給うのです。

信じられない善でしょう。聖寵の状態を通して、私たちが善く実践していけるように天主は恩恵を施し給う上、「無償なる聖寵を活かし、実践していく善き行為に応じて、功徳を与える」とおっしゃっているのです。

功徳ですが、聖寵の状態のなかでこの世で善き行いの実践によって積み重ねられた功績に対しての報いという意味です。
ですから、なるべく多くの善き行いを実践していくことが大事です。天国で多くの功徳をいただくためにも。

悪口も中傷も嘘をつくことです:第八戒 なんじ嘘をつくなかれ

2021年01月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百四講 第八戒について 「なんじ、嘘をつくなかれ」。



第五、第六、第七の次、第八戒を見ておきましょう。

第八 なんじ、嘘をつくなかれ。
あるいは
第八 なんじ、偽証するなかれ。 ともあります。

前の数戒の次に来る流れは自然なのです。どちらかというと、十戒の順番はたまたまであるではなく、その順番に意味があります。
第五戒は人の命を守るための掟です。
第六戒は人類の命を守るための掟です。いわゆる人類の存続のための掟です。
第七戒は人の命を助ける物質的な物を守るための掟です。「なんじ、盗むなかれ。」

そして、第八戒は精神上の命を守るための掟です。第五戒の時に見たスキャンダルとしての精神上の命を守るのではなくて、第八戒の場合、評判・名声としての精神上の命を守るための掟です。思い出しましょう。第七戒は隣人の主に物質的な持ち物への侵害を禁じる掟です。

一方、第八戒は隣人の霊的な持ち物への侵害を禁じる掟です。霊的な持ち物とは主に隣人の名声なのです。人間ならばだれでもどうしても名声を大切にしています。これは面白いことに、人間が霊的な存在でもあることを裏付ける現象なのです。時には、物質的な財産よりも、名声を優先していることも少なくありません。大きな費用を払って裁判に行ってまで自分の名声を守ることは珍しくありません。いわゆる、名誉毀損を晴らして名声を取り戻したいという気持ちは自然です。人々は自分の名声を大切にしているのです。そしてこれは正当なことであって人間の本性に沿っています。

そして、第八戒は隣人の名声への侵害を禁じています。要するに、隣人の名声を毀損するということは、真理あるいは真実に背く行為なのです。
従って、第八戒は、第一、真理に背く行為を禁じています。第二、名声を侵害することを禁じています。第三、名誉を毀損することを禁じています。

真理に背くというのは、広義の真理に対する行為を禁じるということです。名声を侵害するということは、個別の真理となる隣人の名声という意味になります。そして、名誉というのは、隣人に対して払うべき敬意を表すための行為(礼儀作法)であり、第八戒は広義にいう真理を守るための掟なのです。

第八誡に反対する、つまり真理を守るための掟に反対する第一の罪は嘘なのです。嘘とは周知のことですね。嘘は全く自然なことではありません。例えば、幼い子供が嘘をついたら、すぐ自然に赤面してしまいます。あるいは、大人でも、嘘をつく悪徳を持たない人が嘘をついた時、見え見えになることが多いです。なんか、つい、目を伏せるようなことがありますね。いわゆる、良心が嘘はだめだということを強く訴えるような時です。やはり、嘘は自然なことではありません。人間の本性に背くものなのです。

では、嘘とは何でしょうか?まず、しるしなのです。必ずしも言葉ではないということです。つまり、意図的に相手を騙すために自分が思っていることとの反対のことを表す仕草あるいは言葉といったようなしるしを行うということを「嘘」と言います。しるしですから、言葉の他に、頭の合図、あるいは体の仕草、何でもいいですが、このしるしを以て思っていることとの反対のことを示すのです。つまり、外的に表現していることと内面的に思っていることとの不一致があるということです。そして、相手を騙す意図も嘘の条件なのです。これが嘘を特徴づける三つの条件です。
思っていることと違うことを外的に表す上、相手を騙す意図がある時、嘘となります。

そして、「嘘をつくなかれ」というのは、例外なく、すべての嘘は禁じられているということです。これは理解しづらいかもしれません。時に、やむを得ず、嘘をつかざるを得ない場合があると思いがちですが、実際にはそんなことはありません。嘘をついてもよい場合は一切ありません。

脱出の書には「いつわりのある訴訟を避けよ。」(23,7)「(主、あなたは)うそをつく者を滅ぼし」(詩編、5、7)。
それから、聖ヨハネの福音にも嘘に関する場面があります。私たちの主、イエズス・キリストは悪魔を指して「彼は嘘つきで、嘘の父だからである」(ヨハネ、8、44)。

悪魔はエワに嘘をつきました。そして、その嘘のせいで、罪は初めてこの世に登場しました。ですから、嘘をついてもよい場合は一切ありません。繰り返しますが、一切ありません。

嘘をつくことにあたって、いくつかのありようがあります。
第一、「善意の嘘」ということがあります。この場合、自分の利益あるいは善、あるいは隣人の利益あるいは善のために嘘をつくといって、嘘を正当化しようとする場合です。この「善意の嘘」ですら禁止されています。

聖アウグスティヌスはこのように説明しています。
「隣人の命を守るために人々は最善を尽くすべきです。しかしながら、隣人の命を守るために天主を侮辱する選択肢しか残らない時、何もやってはいけません。というのも、このような場合、残っている選択肢は悪い行為なので、これを行うわけにはいかないからです。」
つまり、隣人を救うためだったとしても嘘をつくよりも黙った方がよいということです。

それから、「有害の嘘」もあります。この場合、嘘をつくによって隣人を害することになります。

それから、「浮かれた嘘」もあります。「浮かれた嘘」とはいわゆる楽しむため、おかしく楽しくするため、お洒落するための嘘です。もちろん、冗談は禁止されるわけではありません。つまり、当然ながら言っている事は真実ではないことがはっきりとしていたら、だれもわかっていたら嘘になりません。相手を騙す意図はないからです。例えば、ある事情で、あるいは明らかなことに言っていることが真実ではないことが当然で当たり前な場合、嘘になりません。相手を騙す意図はない時、嘘になりません。いわゆる気晴らしというのはもちろん禁止されているわけではありません。繰り返しますが、騙す意図はない時、嘘になりません。

それから、嘘に続いて、偽証あるいは偽りの宣誓があります。言いかえると、天主の前に、天主を証人にしているのに嘘をつく時です。天主に関する掟を紹介した時に説明した偽証です。これは、必ず大罪となります。

あと、偽りの証言もあります。これは裁判あるいは訴訟の際、真実に反する発言をした時の嘘です。これも大罪となります。真実に対する深刻な罪である上、宗教に対する深刻な罪でもあります。それに、隣人への愛徳と隣人への正義に反する罪でもあります。

それから、嘘をつくもう一つの種類があります。「自分のありのままを偽って自分のありのままと違うようにみせることにする」時です。「偽善」ですね。偽悪もいえますが。有名な話は、いわゆるモリエールが描いた「偽りの敬虔な信徒」は典型でしょう。まさにタルチュフです。偽善者ですね。人々の尊敬を引くために、道徳的であるふりをしている偽善者です。まあ、かなり普遍的な現象でしょう。昔も今も何かの地位あるいは職などを貰いたい時、軽い形でもよく自分をより善く見せかけて、ある種の偽善は結構ありますね。

また、偽善の次に、「へつらい」もあります。「へつらい」とは嘘の称賛です。あるいは、大げさな讃辞です。要するに、真理に反する「お世辞」です。真実を傷つくへつらいです。そして、相手の傲慢を刺激してしまうというへつらいでもあります。これは、つまり、へつらいは相手にとって罪の切っ掛けになることもあります。ですから、隣人の善に反する罪であり、また隣人の名声に反する罪でもあります。

それから、偽善と似た種類ですが、「うぬぼれ」あるいは「高慢」もあります。つまり、持っていないのに、持っているふりをするという嘘の類いです。偽善に近いですが、偽善はより外面的な仕業であったら、うぬぼれはより言葉を通じての罪です。あるいは持っていることを大げさにすることも高慢となります。

また、真理に対するもう一つの種類の罪があります。失言です。つまり、真実を語るあまり、秘密だった真実を漏らすという罪です。つまり、秘密を守らないということです。いわゆる、自然次元の秘密ですが、言われたことを誰にも言わないことを約束したのにばらしてしまったというような時です。また、守秘を誓われた秘密もあります。いわゆる、仕事においての秘密を守る義務がある時です。医者あるいは弁護士、あるいは聴罪司祭などです。いわゆる、職業で義務となる秘密があります。あるいは、だれにも言わないと約束した時の秘密でもあります。このような秘密を隣人にばらすことは罪です。

以上は、真理に反する罪の幾つかの例でした。意外と多くあります。

そして、より個別的な意味で、隣人に関する真実に反する嘘をつくことによって罪を犯す時です。言いかえると、隣人の名声に対する罪の時です。名声とは「ある人に関して人々がもっている善い印象」となります。そして、自然に、人々は自分に関する周辺の良い印象を大切にしています。ですから、隣人に対する善い印象を傷つけるのは罪となります。自分に対してそういう目に合わせられたらいやであると同じように、隣人の良い名声を害するのは罪であり、殆どの場合、大罪となります。



隣人の良い名声に対する罪には、「誹謗」あるいは「中傷」があります。まず、言葉を通じての中傷ですが、中傷というのは深刻な罪です。なぜでしょうか?中傷とはなんでしょうか?「欠点、あるいは悪徳、あるいは過失」を不正に隣人に負わせることです。つまり、これらに関する現実がないのに、隣人に勝手に負わせるということで、つまり嘘です。そして、この罪は不正に根拠なしに隣人の名声を破壊しているということです。深刻な罪です。要するに、隣人の欠点について嘘をつくということです。たとえば、「この人は(性格上?)、どうしても物を盗んでしまうやつだ」といったような。つまり、泥棒ではないのに、隣人を害するためにあえて泥棒であるという嘘をつくといったようなことです。たとえば、隣人が昇進しないようにさせるためとか原因は何でもいいですけど。中傷は大罪です。

そして、このような罪を犯した場合、真理を傷つけた人にはこの不正な言葉を糺す義務があります。中傷はまさに不正な行為なのです。盗んだ物をその持ち主に返す義務があると同じように、奪った名声をその持ち主に嘘を糺すことによって返す義務があります。

中傷ではないのですが、悪口については、聖フィリッポ・ネリに関する有名な話があります。告解の際、悪口を頻繁に明かしている女性の信徒に聖フィリッポ・ネリが次の償いを提案します。「羽の枕をとって、これを裂いて外ですべての羽を散らかす」という償いを提案します。女性は喜んで「よかった!軽い償いですむ」と思ったら、次にまた告解にきて、また悪口を明かしてしまいます。そして「今回、前回に散らかした羽を拾いにいってきて、枕にもどす」という償いを提案します。信徒は「これは無理だわ」といいます。そして、聖フィリッポ・ネリは答えます。「悪口するとき、羽を外で散らかす時と同じように悪口は広まります」。ということは、悪口を償うことは簡単なことではありません。大変難しいことです。場合によって無理になる時もあります。ですから、言葉を非常に慎しみましょう。



中傷の次に悪口があります。いわゆる、悪いことを言うということです。フランス語で悪口は「呪い」と同じ語源の言葉です。悪口の厳密な定義は「隠されている隣人の罪、あるいは欠点をばらす」ということです。つまり、厳密にいうと嘘ではありません。ばらす罪あるいは欠点が隣人に本当にある場合ですがばらされています。悪口はこのような隠された罪と欠点をばらすことを意味します。こうすることによって、隣人を害する行為なので罪です。例えば、人前で、大きな声で、ばれていない何かの罪、時にはいわゆる家の秘密とかを公にするような悪口という罪です。

悪口の罪を犯した場合、悪口を償う、糺す義務があります。困難ですが義務です。悪口の場合、中傷と違って、撤回することはありません。ばらしたこと自体は嘘ではないから、撤回したら今度は嘘になります。いや、そうではなくて、悪口のせいで与えた損害を償う形で悪口を償う義務があります。いわゆる、精神的な損害だけではなく、具体的な社会上と政治上の損害も結構あるのです。悪口を償う義務があります。簡単ではなくて、デリケートですが、舌による罪は大変です。聖ヤコブがいうように、舌は人間が持つ一番小さな器官であるかもしれませんが、なかなか多くの損害をもたらす舌なのです。

それから、隣人の名声を害するもう一つの種類があります。「軽率な判断」です。軽率な判断とは根拠が足りないのに隣人を断罪するときです。なんか、何かについて疑いがあって、多少の根拠もあるかもしれませんが、確実な結論を出すには足りないのに判断するときです。これは確実になっていないから、嘘でも悪口でもなくて、中傷と悪口の間にある「軽率な判断」です。根拠は足りないものの、隣人に関する悪いことを言う時です。隣人の良い名声を害する行為なのです。「軽率な判断」です。

最後に、第八戒は隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。つまり、隣人の名声を損なう行為だけではなく、隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。隣人に対して払うべき敬意です。ののしりなどもあります。言葉を以て、あるいは行為をもってののしることもありえます(つまり、失礼あるいは無礼なことをやるとき)。隣人をののしり、あるいは無礼なことをするというのは、隣人に表すべき敬意に対する罪です。敬意の種類はいろいろありますが、このような失礼、無礼、ののしりの行為を償う義務もあります。

以上は、第八戒に関する紹介でした。
第七戒は物質的な物に関する掟なので、かなり具体的だった分、精神上の「財産」としての名声に関する掟である第八戒は多少、抽象的だったかもしれません。とまれ、第八戒は名声と真実を損なう行為を禁じている掟です。

聖母は天に閉じ込められた!

2021年01月11日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「聖母は天に閉じ込められた!」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

このお説教は、私たちに、あきらめずに子供の信頼をもって聖母に祈り、願い求め続けなさい。ということを思いださせてくれますね。
共産主義がその本性を現し、世界を飲み込もうとしている今こそ、あきらめずに聖母に信頼して祈ろうではありませんか!


ビルコック神父様によるお説教 2020年5月13日


ビルコック神父様によるお説教
2020年5月13日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖母は天に閉じ込められた!

愛する兄弟の皆様、
今、五月に入り、カトリック教会は今月の間、特に、聖母へ祈るように招いています。五月は昔から聖母の月とされてきました。また、「一番美しい一か月」といわれたりします。

さて、いとも聖なる童貞マリアへの崇敬をするためにどうすればよいか、具体的にどうやればよい崇敬ができるでしょうか?また聖母マリアへの崇敬の特徴は何であるか、どうやればよく深い実践になるのでしょうか?これらの質問への答えを知る一番早い方法は次の名著を読むことでしょう。聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールの『聖母マリアへの真の信心』がその基本的な著作です。

それはともかく、いとも聖なる童貞マリアへの信心でいえば、一つ思い出せとよいことがあると思います。これは、いとも聖なる童貞マリアの崇敬へのやり方に関して最近、聖母マリアが気に入られていた祈り方があります。

特に19世紀から聖母マリアはこれをお示しになって、また特に、試練においてこそお示しになられました。1870年の仏普戦争の際、また第一次世界大戦の際など初めての時に、いとも聖なる童貞マリアは子供たちの前に出現することになさいました。聖ベルナデットの前に現れたり(1858)、またファチマの子供たち(1917)、またポンマンPontmain(1871)の子供たちの前に現れたりします。



このようにして、子供たちの前に姿を現して、聖母マリアはいくつかのメッセージをお伝えになりました。そして、子供にメッセージを託して、子供を使者にしてこれらのメッセージを全世界に伝えてもらったのです。このようにして、聖母マリアは何度も何度も子供たちの前に現れることになさいました。これは、きっと、私たちは聖母マリアを崇敬するためにどうすればよいかということを示唆してくれると思います。

というのも、子供こそが信心を実践するに際して、信心それから崇敬のあるべき姿を示してくれるからです。子供が崇敬するときの特徴は何であるでしょうか。三点あるかと思います。

第一点はその素直さとその無邪気さです。周知のとおり、子供は無邪気であり、子供は素直です。子供は率直です。そういえば、子供時代の美点はこのような性格にあります。要するに、子供の陽気さですね。いつも率直である子供。そして、私たちも大人になっても祈る時、子供時代のこれらの態度をもって実践すべきです。



思い出しましょう。いとも聖なる童貞マリアへの崇敬は、私たちの母としての聖母への崇敬です。つまり、私たちの生母に対してと同じように聖母マリアに自分自身を奉献すべきだという意味です。従って、そうするために、私たちは聖母マリアを崇敬するとき、我々の心には、親への愛情をこめて、孝行を実践するように、つまり、聖母マリアの子として聖母マリアを崇敬するがよいです。

そして、聖母マリアの子として祈るために、子供の美点を以て崇敬することを意味します。そして、これらの美点の一つは素直さがあります。つまり、素直に聖母マリアに声をかけることです。見てください。子供は素直に親に話しかけるように、また、子供は何でも頼む、相手は誰でも頼むような素直さのようにできるといいです。

例えば、教皇、聖ピオ十世の前に謁見していた子供たちは素直に教皇に「初拝領したい」と急に頼んだ場面があるように。あるいは、聖ピオ十世のもう一つの逸話があります。子供に会った時、子供から聖ピオ十世が「もう一つの教義を明らかにしなさい」といわれた場面があります。



この場面、聖ピオ十世は何人もの子供を迎えて、おそらく御聖体の初拝領を行った後、聖ピオ十世は子供たちと話していました。で、イタリア人の女の子だったと思いますが、素直に「パパさま、もう一つの教義を明確にできるでしょうか」と言いました。そして、記録によると、そのあと、聖ピオ十世は笑いながら「教義を明確にしなさいと言われたなんて」といいながら、部屋に戻ったとあります。

要するに、子供たちは素直になんでも頼むのです。子供は遠慮なく何でも聞きます。子供は恐れることはありません。遠慮なく何でも聞きます。
私たちもいとも聖なる童貞マリアに祈る時、子供のように素直でいられるとよいです。無邪気に、遠慮なく聖母マリアに聞いて頼む素直さ。

聖母マリアは力強いです。蛇の頭を踏み潰したほどの力があります。ですから、五月の間、祈る時、崇敬するとき、素直でいましょう。聖母マリアに、遠慮なく何でもお恵みを頼みましょう。素直に聞きましょう。願いは叶おうとも叶わずとも、とにかく頼みましょう。かなわなくても問題はありません。かなうまで、別のことでも頼むのがよいです。とりあえず、落胆しないでしつこく頼みましょう。素直に、無邪気に祈りましょう。

そういえば、子供の第二の特徴はまさにしつこさです。愛する兄弟の皆様、子供がいるのなら、経験したことがあるでしょう。つまり、子供は何かを頼んでかなえなくても、何度も何度も何度もまた攻めてきますね。最初、「だめ」だと答えても、子供は「しょうがない、もう一度聞いてみよう」と、二度目「ダメ」だといわれても、「しょうがない、もう一度聞いてみよう」と。繰り返して。「いずれか親は叶えてくれるから、また聞いてみよう」という子供の心。

聖母マリアに祈る時、このように祈るといいです。ポンマンPontmainの子供たちに聖母マリアはまさにこのようにおっしゃいました。「いつまでもあきらめないで、祈りなさい」と聖母マリアは仰せになりました。



ですから、聖母マリアに祈る時、私たちもしつこく、しつこく祈りましょう。子供がしつこく頼むように。言いかえると、希望溢れたしつこさということです。「いずれ聖母マリアはかなえてくださるし」また「聖母マリアは私の祈りを飽きずに、逆に、子供がこれほどしつこく頼む姿を見て感動して、いずれ頼んでいるお恵みを与えてくださるだろう、あるいは頼んでいたお恵みではなくても、それよりも聖母マリアが用意してくださったよりよい別のお恵みは与えられるだろう」という心で祈りましょう。

最後に、子供の第三の美点は常に喜んでいること、そして子供らしい気楽さです。子供は気楽に生きているのです。なぜでしょうか?親の世話になっていて、親は何でもやってくれるから、子供は心配することはそもそもありません。ですから気楽です。これこそ子供時代の大きな特徴でしょう。

私たち大人は、祈る時にこのような気楽さは欠如しています。つまり、いろいろなことを遠慮なく聖母マリアに祈りながらも、同時に私たちは何かそれでも物事すべてをコントロールしようとしています。出来事をも、あるいはまわりのもの物事をどうしても私たちがコントロールしようとしています。また祈りにおいても。そのせいで、私たちは祈る時、心配せずに気楽に祈れない、あるいは喜びをもって、率直に祈れないことが多いでしょう。

気楽という時、つまり、聖母マリアにすべてを託すという意味です。聖母マリアは私たちの御母です。十字架の下に、私たちの御母になることを受け入れてくださった聖母マリアです。そして、本当の意味での私たちの御母です。ですから、私たちは聖母マリアにすべてを捧げて託しましょう。母として私たちの全ての面倒を見てくださるからです。身体に関することでも、霊魂に関することでも、徳になるなら聖母マリアは私たちの全ての面倒を見てくださいます。

また、物質的であれ、霊的であれ、私たちの救済にかかわるすべてのことも、です。また、私たちの周りにあるすべての物事に関しても聖母マリアは面倒を見てくださいます。健康上の問題も、親戚や友人や愛する人々のことに関しても、何でも世話してくださいます。母は自分の子の世話をしているように、聖母マリアは私たちの面倒をみてくださいます。

つまり、私たちの悩み、心配事、問題などは、聖母マリアの悩み、心配事、問題となります。母と同じように。母は自分の子が病気になったら看病してあげるように。母は自分の子に悩みごとなどがあれば助けてあげるように。また母は自分の子が喜ばれたら、ともに喜んでくれるように。そして、喜びがある時、母の働きのお陰で、この喜びが増えられるように。母は自分の子のそばにずっといてくれるように。子供は自分の母にすべてを託しているから、このようになっています。本物の気楽さです。

そして、私たちは聖母マリアに祈ってもあまり効果は出ない時があるでしょう。なぜでしょうか?善い意味での気楽で私たちはいられないからのではないでしょうか?つまり、聖母マリアにどんどん任せておくがよいです。霊的な生活においてでさえ、私たちはすべてをコントロールしようとして、任せないことが多すぎるでしょう。残念です。聖母マリアは私たちの霊魂の母になるように、霊魂においての主婦になるようにするがよいです。よりよく聖母マリアに対して孝行を実践して、素直になればよいでしょう。孝行の精神が私たちには足りません。

愛する兄弟の皆様、聖母マリアの月である五月なので、いとも聖なる童貞マリアへの崇敬を実践して改善していきましょう。善き天主は子供からの祈りを聞くとき、いったいなぜこれほど簡単に聞き入れ給うのでしょうか?子供の祈りは素直だからです。また子供はしつこいと同時に、天主に信頼して子供は天主にすべてを任せるからです。子供は天主のみ手にすべてを託すからです。ですから、子供の祈りはイエズス・キリストの御心と聖母の汚れなき心に届きやすいのです。

愛する兄弟の皆様よ、聖母マリアによく祈りましょう。
もう今、聖母マリアは天に閉じ込められています。はい、天に閉じ込められています。ある意味で、天の囚人となっています。あえて言えば、天の人質のようです。つまり、現代は、この世に聖母マリアが現れたり、直接手を出したりしてほしくないようです。

見てください。ルルドの聖域は閉鎖されています。この近くにあるパリのバック通りの(不思議のメダイの)聖堂も閉鎖されています。看板には、6月2日まで、訪問を受けられないと書いてあります。なんか、聖母マリアが手を出さないように頼まれているかのようです。また、周知のように、5月13日、明日、ファチマでは警察官たちが聖域を閉鎖して、信徒の立ち入りを禁じています。ポルトガルの司教たちでさえ、「ファチマに行かないように」と信徒へ声を掛けました。聖母マリアは天に閉じ込められています。

当然ながら、天では聖母マリアは喜ばれています。しかしながら、この世で私たちの母として手を出せないようにされているかのようです。この世に御母が働きかけてくださるのが多くの人々にとって嫌なのでしょう。
おそらく、現代でも、フリーメーソン会員たちは覚えているでしょう。ファチマの時、奇跡をみたフリーメーソン会員の回心を覚えているでしょう。また、不思議なメダイのお陰で回心したユダヤ人Ratisbonneのことを覚えている人も少なくないでしょう。

また、多くの医者、そして医療にかかわる詐欺師なども覚えているでしょう。ルルドでは、ときに、信仰をもって水に入ったらそれだけで病が治るということを見て彼らは嫌になるかもしれません。医療が治せない病でもルルドで治ることを見ることはいやでしょう。これを見て、医療が唖然するしかないことは嫌なのかもしれません。多くの人々は、これらの奇跡を見てわからない、どうしても理解を超えるような事実ですから。そして、多くの人々は自分の理解を越えることを認めたくないのでしょう。

結果、このような人々はできるだけ、聖母マリアがこの世を助けないのを望むのでしょう?ただ、そうすると大変なことになります。結局、聖母マリアに、御子イエズス・キリストの御腕を引き留めてほしくないといっていることになります。はい、天罰を引き留めてほしくないというのと同然です。結局、聖母マリアの御取り次ぎを拒絶することは、私たちの主の怒りがこの世に攻めてくるという意味です。
嘆かわしいことです。聖母マリアの働きかけを妨げる人々は自分がやっていることの弊害を知ればいいのに。そのせいで、どれほどの禍を招くか知ればよいのに。

愛する兄弟の皆様、私たちは聖母マリアを追い出す側に回らないようにしましょう。私たちの母として、聖母マリアを仰ぎましょう。また、后(きさき)として聖母マリアを仰ぎましょう。私たちの家庭では、聖母マリアのための小さな聖域を設けましょう。

思い出しましょう。私たちは子供の時、野原の花を簡単に拾って、自分の母にあげるというようなことがあったでしょう。なんか、この野原の花束は立派でもなく、豪華でもないかもしれないが、素直に、無邪気に心を込めての花束だから、子供からもらう母は深く喜ぶのです。同じように、家でも、そして祈りにおいても、一日の瞬間ごとに、聖母マリアのためのこのような花束がどんどん多くうまれるように頑張りましょう。一瞬の思いでも、一つのアヴェマリアでも。いつも、私たちの御母として私たちのそばにいられるように。

そして、よく覚えましょう。聖母マリアの親しい御働きがどれほど妨げられる場所があったとしても、聖母マリアは自分の子をその上なく愛しておられるから、それでも手を出してくださいます。天主を汚す政府の法律がどれほど我々を迫害に追い詰めても、聖母マリアは私たちの御母であることを変えることはできません。(聖域を閉鎖するような)一番、不誠実の司教が何をしたとしても、聖母マリアによる私たちの霊魂への働きかけを禁じることはできません。

また、どんな状態になったとしても、私たちの霊魂と身体が必要としている救いとお恵みを聖母マリアは与えてくださいます。ですから、いつまでも、希望を失わないようにしましょう。ずっとずっと聖母マリアを私たちの母として仰ぎましょう。どれほど、法律や政令が厳しくても。天主を汚す我が国の統治者たちが聖母マリアの御取り次ぎを拒んでも、私たちは常に聖母マリアに身を捧げれば、母はそばにいてくださいます。

聖母マリアは私たちの母なので、母として仰ぎましょう。子として聖母マリアを崇敬しましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて。アーメン

リスベート女史が結婚しなかった理由

2021年01月05日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたの小野田神父様のご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」25章 ああ天主よ、あなたの神聖な道徳律、あなたの掟の旧式な時代おくれの規定は、いかに善いものであることか!をご紹介します

この助産婦の手記の筆者であるリスベート・ブリュゲルがなぜ結婚しなかったか?のお話です。リスベート本人も天主の神聖な掟を守りとおしました。「天主様の掟と矛盾するような権利は、誰も私に対して持ってはいないんです。」リスベートの母親も賢明な良心を持った女性だったために、娘に間違った選択を強要しなかったのです。

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
********

「助産婦の手記」25章

『リスベートさん、一体あなたはなぜ結婚しなかったのですか?』この質問は、たびたび私に提出された。ほとんどすべての妊婦が、このことを一度は知りたがった。私が、それぞれの場合の事情に応じて、あるいは調子よく、あるいは押し強く、男たちをあしらっているのを婦人たちが見るときには、特にそうである。そういうときには、『なぜあなたは結婚しなかったのですか? あなたは、男の方と交際する術をよく心得ているじゃありませんか……』という質問は、彼女たちを非常に興味がらせたのである。

そこで、私は大体次のように答えることにしている。ある一つの事柄は、誰にでも適するというものではない。そしてもし人が一度しばらくの間でも、助産婦になって、非常に多くのものを見、かつ経験せねばならぬとしたら、結婚をあえてする前に、そのことを十回どころではなく、もっとたびたび熟考させられるであろう。また、この職業は、私が解釈し、かつ実践しているところによれば、ほんとに私の生活を完全に満たしてくれる。もはや私の心の中には、男を入れる余地は全くない……心の最後の片隅に至るまで、男のことを入れようとしても、すべて無駄である、と……

しかし、今日この場合には 『なぜ、あなたは結婚しなかったのですか?』という質問に答えることは、むずかしい。というのは、今この質問を、何の気づくところもなしに、私にするその妊婦は、もし私がかつてその男と結婚したなら、私のものとなり得たであろうところの妻としての席を占めており、そして今や、その男と結婚したがために、十字架を背負わねばならないその当の本人だからである。(その十字架を背負わなくてもよいように、天主は私をお護り下さったのであった――)

長い一夜を、もうすでに私はこの母親を見守っているが、その間、いろいろな記憶がよみがえって来た。このような時には、記憶は呼ばなくても現われて来るものである。もう、あれから長いことだ……殆んど二十年になる。このリスベートも、一度は人並みに、自分自身の家庭のことを、自分の子供のことを夢見たことがあったのは……一人の男の愛によって自分が得るはずであった幸福を信じたのは……何の悪い予感もなく、信頼して……

彼は、よい相手であった。少なくとも私の境遇にとっては。大工場の代表者で、多額の収入があった。彼のある叔母さんのところに婚礼があったので、このリスベートは花嫁衣裳を縫う手伝いをするために、数週間も、その家に行くことができた。その家で私は、当時の一般の習慣通りに、その家族の中に立ちまじって、その男と近づきになった。すべてが善くかつ正しいように思われた。私の叔父は、その男の人格と境遇とを調べた。人々は、私にぜひその幸福を逃がさぬようにと、 非常に勧めてくれた。

そして私は、婚約した。私の心臓は、燃えた。それを告白するのを、私はちっとも恥かしいとは思わない。人間の心と心が邂逅するということは、およそ地上のあらゆる出来事と同じように、実に創造主の世界計画にもとづくのである。また、私は信じるのであるが、もし娘たちへの求愛が全く真面目であり、真実であるように見えるならば、その求愛に対して彼女らが全く無関心に留まり、そしてどうしてもそれに興味を覚える気にならず、または、それが無駄に終るというようなことは、殆んどないものであると。

しかし私の場合は、そこに何ものかがあった……何か間を分離するようなもの、見知らぬものが、私の心の前に立っていた……突然、踏み切り線路の柵のように、警告し停止を命じつつ立っているものが。これは、相手のアルベルトが、言葉にせよ、愛情においてにせよ、あるいは希望においてにせよ、家庭という伝統の狭い柵の中から、少しでも拔け出そうと試みたときには、まさにそうであった。彼は繰返し繰り返し、ここまたはそこで、二人きりで会うこと、一晚、二人きりで散歩に出かけることを私に承諾させようと試みた。

すると、直ちに私の心の中に警報が鳴った。たとえ、当時の普通の教育によっては、それが何故であるかということは、私の理解し得ないところであったか。とにかく私は、なぜこの二人きりということが必要なのか、少しも判らなかった。家庭内でも、私たちは、ちっとも窮屈ではなしに、お互いによく知り合い、そしてあらゆる将来のことを語りあう時間と機会とは十分にあった。かようなわけで、私は彼の希望に応じなかったが、このことは、明らかに彼の機嫌を損じた。



私が家へ帰ろうとしているのを彼が聞いたとき、彼は私にこの機会を利用して、一度、まる一日を自分に捧げてもらいたいと申し出た。彼のいわゆる『お互いに一度よく愛し合う』ための、かような絶好な機会は、逸すべきではない。自分は真にそうする権利がある、というのであった。
『何の権利ですって? 私がこの家にいなくなったら、あなたはいつでも私の家へ、母のところへいらっしゃればいいんです。』
『あんたは将来、全く僕のものにならねばならないんですよ。あんたは、僕を愛しているということを見せて下さらねばならない。さもないと、僕はもはやそれを信じるわけには行きませんよ。もしあんたが、そんなにますます気取ったり、拒んだりするのなら……』

その当時、私はその要求の意味が判っていなかった。しかし、著しい不安が私をとらえた……彼の眼の中にきらめき燃えたっている焰に対する恐怖、そんなにうるさく迫って来ても私には理解できなかった情欲に対する恐怖が……
『お止しなさい! あなたが何のことを話していらっしゃるのか、私には判らないんです。でも私はただ、私たちの天主さまに全く属しているだけで、ほかの誰にも属していないんです……』そして私は部屋を出て、彼をそこに置き去りにした。

しかし、その新しいもの、判らないもの、それは今や、私の心の中にしっかりと坐り込んで、もはや私を放そうとはしなかった。この奇妙な言葉の裏には、何が潜んでいるのか? それは一体、何を意味するのであろうか、私はぜひそれを明らかにしたかった! その晩、私は聖母教会へ行った。翌日は、御昇天の祝日であった。その大きな教会の主任司祭は、優しい御老人であるが、私はその司祭に、告白のとき、右のことについて尋ねようと思ったのであった……
司祭は、私によく忠告して下さった。私はそのお方に、永遠に心より感謝したい。

叔母さんは、私に説教して、きのうのように、私の婚約者を外らすような、そんな交際振りをしてはいけないと言った。もはや以前とは違っているべきだ――一旦、婚約した以上は、結婚して、そんなに大へんよい境遇にはいることができるのを、喜ばねばならぬというのであった。私は、叔母さんの言うことを悪くは取らない。しかし叔母さんは、気の進まぬ最後の理由と原因とを確かに知っていなかった。

午後に、アルベルトがまたやって来た。目立って機嫌が悪く怒っていた。彼は、今日の最後の機会を利用して、きのう断ち切られたばかりの話の糸口を再びつかみ上げた。
『さあ、どうですか? あなたの愛をいよいよ最後に示してくれますか? では、水曜日を、私たちのために取って置いて下さい。ここを朝、立って、木曜日に帰って来たらいいでしょう……』
『いいえ。そうすれば、私はここで家のものに嘘を言い、そして家へ帰ってからまた嘘を言わねばならぬからです。そして、その間に何があるんですか? 結婚しない限り、私はあなたと二人きりで旅行には行きません。私は結婚式の祭壇で、私の花冠を立派に頭にのっけていたいんです。』
『僕たちが婚約したからには、僕はあんたに対する権利、あんたの愛に対する権利を持っているんですよ。少々早かろうが、遅かろうが、一体何の差支えがあるんでしょうか……』
『天主様の掟と矛盾するような権利は、誰も私に対して持ってはいないんです。あなただって、そうです。天主の掟に反するようなことは、あなたは私に、それを知りながら行うことを、求めることはできないんですよ……』
『あんたは、田舎育ちだったことが、よく判りました! 何という旧式な考えを持ち出すんでしょう。我々男性は、その権利をどうしても持たねばならないんです。我々は、愛に対する権利を放棄してはならないんです……もし、あんたが僕を拒むのなら、僕は娼婦のところへ行かねばなりません。そしてその責任は、あんたにあるんです。もしあんたが、ほんのわずかでも僕にする愛をお持ちあわせだったら、あんたは、喜んでそうする用意があるでしょう……私のために喜んで何でもしてくれるでしょう……僕たちが結婚した暁には……』
『もしあなた方男性が、純潔な生活をすることができないものでしたら、天主はそんなことを命じたり、要求なさったりされはしないでしょう。天主は、あなたを、私たちと同様に、よく御存知なのです。そしてもしあなたが今、結婚式まで禁欲生活をすることができないと主張なさるのでしたら、結婚後、あなたが何週間も旅行していらっしゃるとき、どうして私は、あなたの忠実さを信じることができるでしょうか?』
『あんたは、男というものは、女ではないということを、ぜひ了解せねばいけませんよ……』
『私は、自分が純潔のまま結婚しようと思っているばかりでなく、同じように純潔で結婚する男の人が欲しいんです――それ以外の人は、ほしくありません。それぐらいなら、私は独身で暮したいんです。このことについては、もうこれ以上、ひと言もいいたくないんです。』

この縁談は、結局、行くべきところへ、行きついた。その後、あまり経たないうちに、彼は、この婚約は解消されたものと認めるという手紙をよこした。そんな旧式で時代おくれの考えを持つ女とは、とても一緒に幸福に暮して行くことはできないであろうと。
『くよくよすることはないよ、お前。』と当時、私の母は言った。『あの男だと、お前は何も損はしないよ。あれは、お前と結婚する値打ちのない人だ。天主様は、お前がもし結婚したとすると背負わねばならなかったかも知れない十字架を、担わずにすむように、お前をお守り下さったのだよ。だからよく感謝しなくちゃいけないね。』

今日では、私は母の言ったことが、いかに真実であったかを知っている。しかし、当時では、期待していた人生の喜びが、ただ天主の掟を忠実に守ることだけによって、粉なごなになってしまったということを堪えるのは、ほんとに容易なことではなかった。それをやっと完全に凌ぐことができたのは、実は私に助産婦の職業があったためであった。今では、天主は私に対して、結婚とは別のものを望んでいらっしゃるということを、私は知っているのである!

三年前に、そのアルベルト・ベルグは、ここの繊維工場に渉外支配人としてやって来た。当時、彼は結婚していた――しかし、どういうように! 彼は、思う通りの女を見つけた。その女は、結婚前でも、何でも御意のままという女であり――そして結婚後も、その通りであった。夫が家の外で、変わったことを探しまわっている間に、彼女は家の中で、同じようなことをしていた。当時、私は彼女の流産のとき、一度その家に行ったことがある。病毒のためだと、医者は言った。――

それから、離婚が起った。
その後、間もなく、彼はこの村で、二十になる会計係の娘と関係しはじめた。その娘は、彼より二十五も若かった。私は、その男の行状を正確に知っていたので、その母と娘にあえて話して見た。娘さんは、そんな不幸に走りこんではいけないと!
『どうあっても、私たちは結婚するんです。』
『私は娘の幸福を壊すことはできませんよ! まあ考えても御覧なさい、そんな相手というものは、やたらに見つかるものじゃありませんよ……』

私は、出来るかぎりの材料を持ち出して説いて見たが、無駄だった。例えば、あの男は離婚した人だから、カトリック信者の娘は正式な結婚式を挙げることは不可能なこと――年齢の相違――前の結婚のこと―――しかし、すべては無駄であった。

『男の方というものは、放蕩するぐらいでなくちゃいけないんですよ。そうした後で、一番良い夫になれるんです。そんなに收入のある相手……そんな世帯や住宅などのある……そんな相手というものは、そうざらに道端に転がっているものじゃありませんよ……』
結婚したがっている娘たちは、忠告を受けつけない――しかし、結婚させたがっている母親たちは、なお、もっともっと受けつけない!
私が、今日まで解くことのできない謎としていることは、世の母親たちが――自分で結婚の悩みについては、十分に経験を持っているに相違ないのに――よくも自分の娘を、そんなに無責任に、軽々しく、善からぬ結婚をさせようと駆り立てることができるものだということ、しかも、そういうことが繰り返し行われる、ということである。

三週間前に、結婚式が村役場で行われた。もちろん、単に法律上の(教会外の)ものであった。そして、今もう子供が生れるのである……
『リスベートさん、もし私がそれを、もう一度やらねばならぬのでしたら……あなたは、結婚なさらなくて、よかったですね……
子供のことで、もうたびたび喧嘩をしたんです! 今も、もうお産の前にやったんです! とにかく、子供が出来たんですから……今どきは、どんな百姓の娘でも、結婚前に妊娠したら、どうすればよいか知っています……でも、私の母は、それを許しませんでした。母は、こう言いました。あの人は、お前に結婚すると約束なさったのだから、実際、結婚してもらわなくちゃならないんだよ。もしお前が子供を下ろしてしまったら、あの人はお前を勝手にあしらって、見棄てしまうよ、と。そして今、私がここで子供のために苦しんでいる間に、あの人は、カールスルーエのほかの女のところへ行っているんです。というのは、私は昨晚、あの人が急いで行ったため机の上に置き忘れていた手紙を読んでしまったんです……
私が、それを、も一度やらねばならぬのでしたら……』

ああ天主よ、あなたの神聖な道徳律、すなわち、あなたの掟の旧式な時代おくれの規定は、いかに善いものであることか! この掟は、それを忠実に守る人間をば、いかに多くの苦悩と困難とから護って下さることか!、

旧式こそ最善の方法

2021年01月04日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたの小野田神父様のご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」31章 その家は、砂の上に建てられたのではなく、岩の礎の上に立っている。をご紹介します

女性も男性も天主の掟を守ることで貴婦人であり紳士でありえます。婚姻まえの純潔は天主の祝福を招くのですね。

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
********

「助産婦の手記」31章

きょう、私たちの村では、お祭がある。初ミサと結婚式とが同時に行われる。私が最初に取りあげた二人の子供のうち、ヨゼフは初ミサであり、ヨゼフィンは結婚式である。全村が、こぞって祝った。屋根窓からは、大へん種々様々に組合わされた旗がひるがえっている。街路は、美しく掃き清められ、そして緑の葉が撒いてある。家々に添って、新鮮な白樺が立っている。花飾りが、大きなカーヴをなして、窓から窓へと、花の咲いた樹木の上を伝って絡みついている。御聖体の祝日のように、少女たちは、白衣を着、頭には花冠をつけて、校舎の前に集合し、そして新しく叙品された司祭を、初ミサを捧げに教会に案內して行けるその偉大な瞬間を待ちに待っていた。近隣の村々から出て来た音楽隊や、それぞれの旗をおし立てた種々な団体も、すでに停車場の前に立っていた。そして空には、親愛な太陽が暖かく笑い、そして一緒に喜んでいた。



祭日。若い司祭としてのヨゼフと、幸福な花嫁としてのヨゼフィン。彼女は、良い相手を得た。大きな紡績工場の第二支配人であり、かつ商業上の指導者である人が、彼女と結婚するのである。全村は、羨ましがった。ほかの母親たちも、娘たちも、この男を手に入れようと、どんなに骨折りをしたことか! それなのに彼女たちは成功しなかった。そして、全然その男を顧みず、全然そのことを考えていなかった彼女に、その大きな幸運が落ちて来たのである。ヨゼフィンは、全く清らかで美しい娘であった。 悪意に満ちた蔭口も、ないではなかった。しかし、それはすべて嘘であった。 ヨゼフィンは、自分の道を真直ぐに進み、何ものによっても、誤らされることなく、そしていかなる護步もしなかった――このようにして、彼女はその男を手に入れた。もしもあらゆる予想が誤っているのでなければ、それは幸福な結婚になるであろう。

私もその祝典に招待された。全く公然と、お祝いの賓客に伍して【と同等に】。およそ助産婦が、洗礼の場合以外に、一家のお祝いに招待されるということは、珍しい事である。 私たち助産婦は、実に一つの『必要な禍』に過ぎないのである。人々は、各種の困難と心配とを堪えて、私たちのところへやって来る。本当に切端つまって、私たちを呼ぶ。しかし、総じて、もし私たちを必要としないならば、非常に喜ぶ。私たちの顔を見るよりも、背中を見たがる。それは、正しいことではない、―――しかし人間的である。

『良い助産婦さん、本当に村の母です。その人は、村中のほかの誰よりもっとよく一切の悩みと困難とについて知っています。ですから、助産婦さんは、また喜びと佳い日にちあずかるべきではないでしょうか?』このように、駅長は、私を祝典の食事へ連れて行ったとき言った。それは、正鵠を得たものであった。人は全くそう言ってよい。もっとも、みんながそれを模倣するという危険、および、そうすると私たち助産婦が祝典ばかりあるために、もはや自分の職業上の仕事をやらなくなるという危険は、この場合、大きくはない。これについては、問題は余りにも簡単であり、かつ余りにも判り切っている。

ヨゼフィンは、きようの祝日を公明正大にかち得たのであった。元来、ヨゼフが、高等学校の三年生(上から数えて)を修了し、そして司祭になろうと思ったとき、彼の兄の一人は、高等学校の最上級にあり、もう一人の兄は大学にいた。一番上の妹は、結婚したいと思っていた。そこで資金が、もはや足りなくなった。勤め人の扶養家族手当ては、まだ無かった。小さな弟妹が、まだ三人もいた。



そこで十五になるヨゼフィンは、工場の事務所に勤めようと決心した。彼女は、兄弟をさらに助けるために、金を得たいと思った。彼女は、機敏で利巧であったから、間もなく電光のように速く速記し、タイプライターを打つことができた。私は、工場主と支配人に彼女を雇ってくれるようにと頼んだ。当時は、そんな若い娘を採用する習慣はなかった。しかし、特にそうしてくれた。

『お前、どんなものでも、気に入ってはいけないよ。』と駅長が言った。『何も、もらってはいけないよ。招待されちゃいけないよ。お前の自由を保って、誰のことにも、少しもかかわる必要のないようになさい。』

間もなく、工場の人たちは、彼女の仕事の速いのと、動作のしっかりしているのに驚いた。彼女は可愛らしい娘であったから、 彼女の愛を得ようとする動きもまた、間もなく始まった。 多くの人々は、小さな贈物をして、彼女に近づこうと試みた――しかし、拒絶された。『有難う、でも私は、原則として何も頂かないことにしていますのよ。』とヨゼフィンは言って、品物を見もしないで、押し返した。
そこで人々は、芝居や、音楽会への招待など、ほかの方法を試みた。『大へん御親切に有難うございますが、お断わり致します!』とヨゼフィンは言った。『私は、行こうと思えば、自分で切符を買いますわ。』
『あなたは、まだそんなに旧式なんですか、お嬢さん?』
『いえ、とてもモダーンなものですから、私は自分で正しいと思うことをする勇気があるんです。私は、誰にも御礼を言うことなしに、自分の自由を保たねばならないんです。』
『何と勿体ぶるんでしょう! あなたも、やはり我々みんなと同様に、同じ原始猿から出ているんですよ……』とある一人が抗議をあえて述べた。
『猿が人間になったということは、まだ誰も見たことがないんです。しかし、人間が猿になることは、私は毎日見ています。』とヨゼフィンは、生れつきの頓智をもって、たしなめ、そして人々を味方に引き入れ、そして段々心が平静になった。

ただ一人の人が、すなわちそれは工場主のある親戚であるが、ある日、実に卑劣にも、少しばかり愛情をあえて発露して、彼女の頬を撫でようとした。そこで、彼女は、わざと大きな声で言ったので、みんなにそれが聞えた。
『もしもし、ハンケチは更衣室にかかっていますよ。私は、あなたの汚い指を拭く雑巾の代りに雇われているんじゃありませんわ!』
『ひどい奴、いやな奴』と、そのやり損じた男がブッブツ言った。しかし、その娘に対する一般の尊敬は増した。人々は、彼女を本当に貴婦人として取り扱い、そして彼女にあまり近づかないように注意した。

彼女は、厚かましくはなかった。反対に、他の人々が節度を守っている限りは、彼女は可愛らしく、かつ愛想がよかった。しかし、それだけにまた、彼女は仕事においても頭を使い、ずば抜けてよく働き、昇進し、そして段々と商業指導者の注意を引きつけた。特に重要な商議の場合は、速記を取らねばならなかったし、 また会議および相談の場合には、謄本を作らねばならなかった。彼女は、知らぬうちに、女秘書となっていた。給料は、仕事に応じて自由に加減された、というのは、その頃は、賃銀表は、まだ今日のように、すべて何でも、紋切型に定められてはいなかったから。

支配人は、女の子というものに対しては、大した評価をしていなかった。もうすでに、そういうことをよく経験したことのあるすべての人のように。しかし、彼女は、彼の注意を呼び起した。しかもいよいよますます。
ヨゼフィンが一度、病気になったとき、彼は非常に淋しく感じたので、翌日のお昼に、彼女を見舞おうと思い立って、駅長の宅へやって来た。

『あんたは、我々を淋しく感じさせますよ、シュタインさん。ほんとに、直きに帰って来てくれなければいけませんね。』
『かけがえのないような人はいない、とビスマルクのような人でも言いましたわ。もし私の弟が、もう二年で卒業したら、すると……』
『すると、あなたはまさか我々を見棄てて、弟さんの家政婦になるつもりじゃないでしようね? それはいけませんよ……』
『もう勤め口は、きまっていますわ。だって、私たちの小っちゃいのが、一番小さな妹が、それを待ち構えているんですもの。でも私は、職業を鞍変えして、乳児看護婦になりますわ……』
『それは、よその子供でなくちゃいけませんか?』
『いいえ。でも自分の子が出来るかどうですか……』
彼らは、その夜、家庭の中で、全く無邪気におしゃべりをした。『しっかりした夫を得られますかどうか、というのは、自分の子供たちの父親として持ちたいような、そしてその責任を負わせることのできるような、そんな人をです……』
『あんたは、十分に選択できますよ。』
『ああ、どんな女のスカートの廻りででも、おべっかを言い、そして、チョコレート一枚で卑しいことをしてもいいと信じるようなものは、男じゃありませんわ――全く憐れむべき人です!』

この日から、本当の嫉妬心がその支配人を捕えた。もし誰かが来て、ヨゼフィンを征服し、彼女を連れ去ったら……彼は早くも頭の中で、彼女の襟首をつかんで引廻した! そんなことが起ってはならない。――さてヨゼフィンが、また出勤して来たとき、彼はこの太陽の光を確保するために、何をなすべきかを急に知った。元来、そんな綺麗な娘を事務所で古い書類のように、塵まみれにしておくことは、気の毒であった。しかも彼の住宅は、空っぽだった。彼はその二部屋に家具を備えつけておいた。年寄りの家政婦が、やっとその家の中を整頓していた。一体、何が彼のしようと思っていたことを妨げたであろうか?

それは、容易に同意を得べくもなかった。彼が、長い間考慮した揚句、ある日、ちょっと小さな突擊を敢行したところ、ヨゼフィンは非常に咎めるように、かつ悲しそうに彼を見つめた。『でも、支配人さん……』と、あたかも天が半分くずれ落ちたかのような眼つきをして、ただそう言ったきりであった。涙が眼の中に光っていた……

そこでとうとう彼は、古来の確かな道が最良のものであるということに考えついた。彼は、その日のうちに、駅長のところへ行って、その娘さんに求婚した。父親は、彼をお婿さんにすることは、恐らく満足であり得たであろう。彼は真直ぐな男であり、同じ信仰を持っており、保証された社会的地位を持っていた。ヨゼフィンは、すでによほど以前から、知らず識らずの間に、その支配人が好きになっていた。ところが、初めて、きょうという日に、何かがいつもより変っていることに気がついた。彼女は、彼もまた、ほかの男たちと同じだということを痛切に悟って悲しんだ! しかし、その誤解は、晴れ上った。そして親愛なる太陽は、再び笑った。

ヨゼフィンは、ヨゼフが卒業するまで、勤めを続けたいと思った。父親は、しぶしぶながら、彼女がさらにその婚約者と一緒に働くことに同意した。
『お前、いつもよく注意して純潔でいなさいよ。お母さんと私が、いつお前を見ても決して困る必要がないように、万事がなっていなければいけないよ。礼儀上のキッス、それはよろしい。しかし多すぎないように、いいかね、多すぎないように。お前は、そんなに長い間、忠実に身を守って来たのだから、今もまだ身を落してはいけないよ。愛する人に対しても、絶対にお前の純潔を守りなさい。』

一度、支配人は燃え上がる激情のため、少し我を忘れたことがあった。しかし、直ちにその娘の心の中には、防衛の構えが作られた。
『パウロさん、一体、きょうは、私を何と考えていらっしゃるの? 私はあなたに、そんなことをさせるきっかけを与えたでしょうか? もしあなたが、あす来て、許しを乞わなければ、私たちは、もうお分れです。』 そして彼女は行った。それは、仕事じまいの時刻より一時間前のことであった。

翌日の日曜日に、支配人はもう朝の八時頃に、停車場の小さな職員住宅の前に立っていた。いま直ぐヨゼフィンをあえて訪問していくかどうかを決し兼ねて。その娘が、彼にとってはいかなる宝であるかということを、今はじめてよく知った。彼は、非常に真直ぐな人であったから、自分がいかに甚だよくなかったかを認めたのであった。

私は、その結婚式から満一年後に、初めての女の子をとりあげたとき、この婚約物語を聞いた。この話は、支配人が自身で、お産の夜、妊婦を見守っていた際、話してくれたものであった。よくそういう時に、人があれやこれやの話をするように。
『私の家内がかつてそうであったように、すべての娘さんたちが、そのようであるなら、大抵の結婚もきっと幸福になるでしょう。結婚改善がいろいろ企てられていますが、その際、人の考えつかない一番の弱点が、まさにこの点にあるのです。それは、結婚前の純潔ということです。このことは、私を信じて下さい。もし、人々が結婚前に純潔を守ることが出来るならば、問題は、九〇パーセントまでは解決されるでしょう。』

かようなわけで、ヨゼフィンは、幸福な結婚への基礎を置いた。彼女の夫は、自分の妻を全く心より尊敬することを、よい時期に学び、そして二人の若々しい幸福の上には、過去のいかなるわずかな陰影すらない。その家は、砂の上に建てられたのではなく、岩の礎の上に立っているのである。

「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」を誤って理解していませんか?

2021年01月03日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ビルコック神父様によるお説教 2020年6月10日「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」


ビルコック神父様によるお説教
2020年6月10日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、手短に先ほど朗読された福音について申し上げましょう(ルカ、6、36-42)。何かキリスト教徒を馬鹿優しい弱虫に貶めるような響きがあると思われたかもしれません。私たちの主、イエズス・キリストは仰せになります。「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。人を罪に定めるな、そうすれば罪に定められぬ。」(ルカ、6、37)。

もしも文字通りに私たちの主、イエズス・キリストのこの言葉を理解すると、何ごとを問わず、キリスト教徒なら何も言ってはならない、主張してはならない。何かがあってもキリスト教徒は口出ししてはならない、あきらめなければならない、引っ込むべきだ、黙らなければならない。キリスト教徒はずっとさばいてはいけない。評価してはいけない。いや、むしろ、ずっとずっと忍従するのみ許されている。

このような誤った考え方を持った人々は意外と多いのです。カトリック信徒にも見られるし、またカトリックを敵にしている人々にもこのような「キリスト教徒像」が見られます。そして、このような考え方に基づいて、カトリック信徒へ「カトリックだから、黙れ、忍従せよ」として利用されることは多いです。つまり、「あなたカトリックだろ。だから黙殺せよ。だから何もするな。だから忍従せよ。だから苦しめ」と言われて、カトリックにはそれだけが許されているかのような空気があります。

このようなカトリック像の根拠として、先ほどの私たちの主のみ言葉にあるとされていますが、それはイエズス・キリストのみ言葉を間違って理解することになります。いや、むしろ、このような理解は私たちの主、イエズス・キリストのみ言葉を歪曲することなのです。

私たちの主、イエズス・キリストと彼のカトリック教会は裁判所を廃止しようとしたことは一度もありません。そういえば、カトリック教会は(世俗社会から独立した)裁判所をちゃんと持っています。裁判所を持つということは、カトリック教会は裁いているということを意味します。また同じように、カトリック信徒として、正義の徳を常に実践しなければなりませんが、正義の徳は本質的に「裁くこと、つまり判断すること」を要求する徳なのです。

「正義(Justice)」とは何であるかというと、「各々の人に、その恩、その分に応じて恩を返す徳」なのです。そして、実際に、恩返しするために、ひとまずどれほど恩を頂いたかを確認して、何を恩返しすべきかを判断する必要があります。ですから、判断すること、つまり「裁く」ことは正義の徳の根本要素なのです。そして、カトリック教会は正義の徳を称賛して、その実践を信徒に求めます。

また、善き天主は私たち人間に知性を与え給うたのです。教父たちをはじめ、聖職者たちはいつもいつも、カトリック信徒にこの知性を養い発展していくように勧めています。しかしながら、「知性」だけの行為とは、「知性」の本質的な要素とは、「評価する」あるいは「判断する」ということです。つまり知性は裁く能力です。では私たちの主、イエズス・キリストは「人をさばくな」を仰せになった時はどういう意味でしょうか?



「さばくな」という文字だけを取り出して、文字通りに解釈してしまうと意味を成しません。つまり、「知性を黙らせて、忍従せよ」ということではありません。使徒たちに向けた「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」という言葉を理解するためには、先ほどの福音のその前の文章とを一緒に読むのがよいです。「御父が慈悲深くあらせられるように慈悲深い者であれ。」(ルカ、6,36)と。

また、更にいうと、その前の文章を一緒に読むとより明らかになります。本日のミサの福音にはなくて、数行前にある文章です。私たちの主、イエズス・キリストは使徒たちに「あなたたちは敵を愛し」(ルカ、6、27)と仰せになりました。つまり、悪人でも自分の友達を愛しているのですから、あなた方、カトリック信徒が友達だけを愛するのであれば悪人より良いということはないでしょう。ですから、「この話を聞いている人々に言おう。あなたたちは敵を愛し」(ルカ、6、27)と。

ですから、「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」というイエズス・キリストのみ言葉を理解するためには、敵への愛と慈悲の要求を前提に置かなければなりません。そういえば、「慈悲深い者であれ」と命令されていますが、慈悲深くあるための前提には「裁く」あるいは「判断」が必ずあります。というのも「慈悲深くする」という意味は、あるみじめさ、ある悲惨事を憐れむことを意味します。つまり、目の前に惨めさがあると判断してはじめて憐れむことは可能となります。ですから、「慈悲深くする」ために、隣人をさばく必要があるということです。

ですから、このように、明らかに「必ず何にかんしてもさばくな」という命令ではないのです。いや、むしろ私たちの主、イエズス・キリストが私たちに命令するのは「慎重に判断せよ」ということです。イエズス・キリストが断罪するのは「判断する」ことではなく、「軽々しい判断」なのです。「軽々しい判断」とは、何の根拠はないものの、何の手掛かりあるいは証拠がないものの、隣人を罪を定めるということです。

また、私たちの主はともに「口」による罪を断罪します。つまり、人前で根拠なしに隣人に罪を定める悪口と誹謗をイエズス・キリストは咎めます。または、自分自身を慰めるために隣人を判断することをもイエズス・キリストは咎めます。要するに「隣人はこれほど堕落しているのだから私はましだ」とい気持ちを得るための判断をイエズス・キリストは咎めます。



つまり、隣人を悪く評価することによって、自分の評価を高めようとするようなものです。ですから、福音の次の部分には、梁とわらくずのたとえをイエズス・キリストは取り上げます。まさに、自分自身を慰めるために隣人のことをさばくという。これはまさに、ファリサイ派の人々が常にやっていたことです。ファリサイ派の人々は多くの人々をさばくことによって、自分自身が立派だと見せかけていたのです。

ファリサイ人と税吏のたとえにはありますね。ファリサイ人は税吏について「私はこのようなくずではないからさ」といった態度で隣人をさばきます。そうすることによって、ファリサイ人は自分自身を高めようとしていて、立派な人であるかのように見せかけます。このファリサイ人は理に適わないのです。まず、自分自身に関する事実を認めないということです。慎みの心に背く態度です。

隣人をさばくためには、慎みが必要です。むろん、隣人をさばくことはときどきは必要です。教父たち全員そろって明らかにこのみ言葉について説明します。「一切裁くな」ということではなくて、「憐み深く仁慈であれ」ということです。これこそ、本日の福音の教訓なのです。そのためにはまず第一に、「自分自身をよく裁くように」習慣づける必要があります。

そして、「自分自身をよく裁く」ためには、天主に向かって、自分自身をありのまま、素直に、忠実に評価するということです。罪人なる自分自身として自分を知ることです。ですから、自分自身の欠点、また弱み、また天主への依存において、自分自身を知れば知るほどに、隣人をよく裁くことにつながります。つまり、自分自身の罪を知って、隣人の罪を見て「罪だ」と判断することできるようになります。私たちはどうしても天主の御憐みを得たいので、隣人の罪を裁くときにも自分自身の罪を自覚し、自然に憐み深く行為するようになります。

要するに、人をさばくな、「そうすればあなたたちもさばかれぬ」とイエズス・キリストが仰せになる時、「愛徳における順番」、つまり「愛徳の秩序」を示してくださいます。隣人に対して本物の慈悲、それから本物の正義を全うしたいと思うのなら、つまり、正しい真の判断を下したいと思うのなら、必ずその前に天主との関係において自分自身をさばくべきだという教えです。そして、天主への依存が存続する限りにおいて、隣人をさばく時に正しい判断をして、慈悲深い判断をして、公平な判断をすることができます。

しかしながら、一方で、ある霊魂が傲慢の内に生きているのなら、言いかえると、傲慢の霊魂が天主を標準に自分自身をさばくことなくて、自慢げに「自分自身が善いもの」だと決めつけるな、このような時には、隣人への判断は必ず歪められています。慈悲も無理となります。
ですから、本日の福音でのイエズス・キリストの教えは自分自身を天主の目の下に置くようにということです。

隣人をさばく必要があります。物事をさばく必要もあります。愛する兄弟、罪は罪です。冒涜は冒涜です。涜聖は涜聖です。物事をそのありのままに、その現実通りに評価することを習わなければなりません。しかしながら、だからといって、隣人を罪に定めてはいけません。断罪してはいけません。霊魂の裁き、意図の裁きは天主に譲りましょう。最後の日、天主はお裁きになられますので、隣人に対しても、自分自身に対しても天主は判決を渡されることを忘れないでおきましょう。



私たちカトリック信徒はどうしても天国に入りたい、どうしても私たちの罪に対して天主の御憐みを頂きたいものだから、隣人に対して憐み深くに振舞っていきましょう。慈悲深くあるいは憐み深く振舞うということは、無条件に罪を黙殺するようなものでもないし、また罪は罪ではないかのような黙認でもありません。また、罪の前に目をつぶって、罪は増えていくことを黙殺してもよいわけがありません。天主の栄光にかかってくるので、それは一切ありません。

憐み深く付き合うということは罪人である隣人を見たら、その隣人は天主に愛されているということを思い出して、また天主の御血によって贖罪された霊魂であることを思い出しましょう。ですから、罪人にたいして憐みを示してあげるということは、隣人の霊魂は天主のご慈悲を仰げるようになるために行為するということです。

どれほど慈悲深く振舞っても、ある霊魂が天主のご慈悲を頑固に拒否したら、悪が広まらないためにもちろん厳しく行為せざるを得ない場合もあります。しかしながら、隣人の霊魂が天主のご慈悲を求めている場合、隣人に対して全力で慈悲深く付き合って天主のご慈悲を垂れることにつながりますように。愛想よく、気前よく振舞いましょう。

そして、神父は毎日、ミサの際に言っているように「われらが人に赦す如く、われらの罪を赦したまえ」。私たちに対する天主の裁きの基準は、私たちがどのように隣人をさばいたかに基づくことになります。また、私たちの罪に対する天主の赦しの程度は、私たちがどのように隣人の罪を赦したかによります。これは愛徳なのです。隣人への愛徳は天主への愛徳を全く密接につながっています。

本日の福音はデリケートで難しかったかもしれませんが、本日の福音をよく理解するために、本日の聖ヨハネの書簡に照らす必要があります(ヨハネの第一の手紙、4、8-21)。要するに、愛徳に照らしてこの教訓を理解することです。愛徳は一つしかありません。天主への愛徳と隣人への愛徳は同じ愛徳です。

ですから、憐みの聖母にお祈りしましょう。私たち慈が悲深くあられるように、善良であられるようにお祈りしましょう。馬鹿やさしくならないように祈りましょう。つまり、罪はいつまでも罪であることを忘れないように祈りましょう。
そして、罪人である私たちは、私たちの主、イエズス・キリストによって贖罪されたというのは、私たちは罪人であるからだということを忘れないように祈りましょう。私たちが犯した罪の御赦しを天主から頂くように祈りましょう。罪の償い、悔い改めによって御赦しを得らえるのは確かです。しかしながら、このような赦しと慈悲を得るためには、また隣人に対して慈悲と赦しを実践していかなければなりません。

聖父と聖子と聖霊のみ名によりて、アーメン