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天主はあらゆる恩寵の源|真の謙遜とは

2021年10月26日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ゴードレ(Th.Gaudray)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ゴードレ(Th.Gaudray)神父様の説教  
天主様、あらゆる恩寵の源である
2021年08月01日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
聖書は何度も、繰り返し、数え切れない多くの言い方で次のことを教えます。「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられるからである」(ルカ、18,14)。これは人間の心の奥に真にあることです。これは我らにとって重要な教えです。

我々は被創造物です。我々の存在理由も人間の在り方も被創造物であることにかかります。また、被創造物であるが故に宗教生活を営むのです。創造主なる善き天主様を礼拝する理由は、また誰よりもこの上なく天主様を崇める理由は天主様が我らの創造主であるからです。つまり、本質的に人間はすべてにおいて天主様に依存しているからです。

本日の書簡において(コリント人への書簡、12,2-11)聖パウロは三位一体の位格について語られます。三位一体の第三の位格、天主様の霊すなわち聖霊、天主様より生じる霊によって、人々はイエズスを「我が主」と認めることができると教えられています。イエズスは天主の御子であり、すなわち三位一体の第二位格です。言いかえると天主様についての玄義には天主様の位格の間に違う関係があり、その関係によってのみ三位一体の位格の聖父、聖子と聖霊を区別できます。聖父なる天主様は聖子なる天主様と全く同じですが、一つだけ違うものは聖父と聖子との間の関係であり、つまり父子の関係があるのです。そして聖霊もあって、現に区別できる位格で、違う位格です。

このように三位一体の位格を区別することができれば、完全に異質のやり方、つまり創られたという形で創造主より生じた我々も天主様に完全にすべてにおいて依存することは本来なら自明なことではないでしょうか。要するに、我々は一人一人の存在、人生、持っているすべては天主様から常に与えられるのです。



無から我々を創られました。いや、より厳密に言うと絶えまなく常に無から我々を創り、存在の内に存続できるように我々を創り続け給うのです。はい、我々は極小さい、弱い被創造物にすぎません。信徒は皆、望まれることですが、もしも天で至福を得ることがあったとしても、地獄に落ちたとしても、我々は引き続き天主様に依存することになって、天主様への依存は変わりません。死んでからでも我々を存在させ給い続けるのは引き続き、天主様なのです。そして、天では天主様から栄光をも与え給うのです。

天主様への人間の依存は人間の根底にあります。いわゆる存在においての依存だけではなく(天主様がいなければ我々は存在し続けられないという)、すべてにおいても天主様へ依存しています。本日の書簡において聖パウロはその事実を思い起こします。

「イエズスは主である」という人は、自然上も超自然上(聖寵の次元)も善を施す人は、みんな天主様によってのみそのようなことができます。例えば、今、私はミサ聖祭を捧げられることも、また皆様はミサ聖祭に与かられることも、また皆様、今朝起床した時、「よし、ミサにあずかろう」と思えたことも、「天主様の掟、教会の掟に従おう」と思えることも、「ミサ聖祭に与る善い行為を決意した」と決意できたのも、それはすべて天主様の聖寵によってのみ可能であり、実現できます。

天主様は善良のすべての事の源であり、原因であります。聖パウロは聖霊の多くの賜物を紹介しています。いわゆる我々の周りにある多くの良いことで、更に人々のために善を施すための賜物などです。このような施し、行為、能力なども天主様の聖寵によってです。我々は皆、自分自身で有らしめるのは善き天主様なのです。このような事実は根底中の根底にあって重要中の重要な事実である分、なぜか人間にとって自覚しづらいところがあります。いとも愛する兄弟の皆様、我々は心の謙遜を本当に持っているでしょうか?天主様の前に、我々は無に等しいことを本当に認めているでしょうか?

我々のために我らの主は福音書において簡単なしるし、可視的しるしを二つ与え給います。このようなしるしのお陰で、僅かでも、自分の心において謙遜であれるかどうかを知ることができます。謙遜を表す第一の基準は改悛する心、償う意志にあります。福音書では税吏が何をするでしょうか。神殿の端に立ちながら、哀れな罪人であることを認めて、「目を天に向けることさえ成し得ない」のです。

はい、そうなのです。すべての善、良、善い物事は天主様より来ますが、同時にすべての悪、欠陥、欠如、すべての罪などは被創造物である我々からきて、我々が原因なのです。ですから、我々が犯している罪を告白して、我々の哀れな状態を認めて、力強い天主様の御手の下に、正義を全うするための天罰を見て憚り、御赦しを希うのです。

我々が犯した多くの罪に値する厳しい罰を知って、この罰から逃れるために天主様のみ前に畏れ多くしつつ御憐みを希うことはもっともなことです。また罰から逃れるために我々のできる範囲で努力することは正当なことですが、罰が与えられた時、その罰を受け入れて、(それが)公平で理に適うことを認めるべきです。つまり、我々は皆、とんでもない罪人であり、多くの罪を犯している分、とんでもない罰を受けても当然のことです。過失の深さに値する本来ならば受けるべき厳しい罰の代わりに、我々は償うために苦しんでも当然であり、当たり前であります。

現代、フランス全国でイスラム教が広まり、モスクが数多くなるのは天主様からの罰です。フリーメーソンが全世界を牛耳っていることも天主様からの罰です。そして、このような罰を受けることは当然だと認めましょう。また、毎日のようにどんどん息苦しくなっていく理不尽な「コロナ対策」で苦しめられることも天主様からの罰だと認めましょう。



我々は哀れな罪人にすぎません。この中、例えばデモに参加すること、抵抗すること、請願書を著名することなどは役立つかどうかはそれぞれに賢明の徳の実践にかかる評価です。ただし、注意しましょう。何でもかんでも異論を言い出すという精神を我々の宗教生活に絶対に入り込まないように注意しましょう。税吏に倣いましょう。「哀れな罪人である私は苦しんで、責められているが、この罰を受けるのは当然だ」という精神を徹底しましょう。

本日の福音書にある、心において謙遜であるかどうかを知るための第二のしるし、基準は憐みなのです。謙遜な心を持つ人は隣人を憐れむのです。逆に、高ぶる人は、傲慢な人は必ずと言ってもよいほどいずれか虚栄心という罪を犯してしまいます。あらゆる物事は天主様に依存している事実を認めたくないから、傲慢な人は本来、天主様から来る賜物のすべてを自分自身から来ることにしてしまいます。で、自分が生んだ賜物だと思う挙句、虚栄心に繋がり、隣人への軽蔑に繋がります。福音書に登場する高ぶるファリサイ人のように。かれはほかの人々よりも偉いと思い込んでしまいます。

気を付けましょう。天主様から頂くすべての良いこと、恩寵などを自分の物にしてしまったら虚栄心に繋がります。何でもいいですが、一族の偉い血統を自慢したり、筋肉が強くてとても体力があることを自慢したり、健康であることを自慢したり、頭がいいから、学問に達者であるから、あるいは実践家であるから自慢したり、善徳を実践することを自慢したりするなどはすべて虚栄心です。虚栄心は修道院においても入り込みます。自慢したり、高ぶったり、他人よりも偉いよと思ったりするなど行為です。はい、だれでもすべての人生において虚栄心は溢れます。賜物が多ければ多いほどに生じやすいです。

一方、心が謙遜であれば、すべての賜物は天主様が与えられた事実を認めますので、天主様がいなければ自分は何でもないということを知っています。謙遜な人は胸を張るよりも、慎しんで本来ならば人の目からずっと逃れたいはずです。人々からの評価、評判などを求めない人です。逆に謙遜の人は罪人であることを知って認めているので、罰を受けることは当然だと知っています。ですから、無視されても追い出されても軽蔑されてもそれは当然だと知っています。

だからといって、謙遜の人は絶望に落ちることはありません。その逆です。謙遜の人は常に喜んでいます。彼の喜びは天主様によって愛されていることを知っていることにあります。謙遜の人は自分自身に頼らないで天主様に頼っているので、そこに謙遜の人の力があります。被創造物に頼ることはありません。どれほど偉大であっても綺麗な被創造物であったとしてもですよ。

善徳、聖徳にすら頼りません。よき天主様にのみ頼っている故、謙遜の人は強いです。十字架を見たら、我々はどれほど天主様に愛されていることかを知ります。そして、それを知って天主様に頼って確かに剛毅となります。慎しみから得られる剛毅さです。

二週間ぐらい後に被昇天を祝うのですが、いとも聖なる童貞マリアに祈りましょう。被創造物の内にもこの上なく慎しんで謙遜だったマリア様から謙遜から来る本物の剛毅さを与えられるように。そして、ずっとずっと天主様の力強い御手の下にへりくだり、自分を下げましょう。そうしたら、いつか上げられます。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 

堅振式:キリストの兵士になる|なぜ戦いなのか?聖ペルペトゥアの試練

2021年10月18日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ティシエ・ド・マルレ(Tisseier de Mallerais)司教によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ティシエ・ド・マルレ(Tisseier de Mallerais)司教様の説教  
堅振式・キリストの兵士になる
2021年5月16日 ご昇天の後の主日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン   
お座りください。

いとも愛する兄弟の皆様、本日、本教会において、堅振を授けるのは、私にとって大きな喜びです。聖霊の剛毅において多くの子供、というか堅振式によってもはや子供でなくなるのですが、また数人の大人にも堅振を授けられて嬉しく思います。

愛する受堅者の皆様、堅振という秘蹟を受けるために、親や司祭によってよく準備されて心構えはできているでしょう。堅振とは、我らの主イエズス・キリストが制定された七つの秘跡の内の一つの秘跡なのです。秘跡は天主の生命、すなわち聖寵を我らに与えるために制定されました。

洗礼と叙階と並んで、堅振という秘跡には特徴があります。霊魂において消せない刻印を付けます。刻印というのは、霊的な印という意味ですが、霊魂において永遠に刻まれることになります。そして、この刻印のお陰で、信仰を宣言し、告白する霊的な力は得られます。言いかえると、キリストの真理の証人になる力を与える秘跡です。つまり、我らの主、イエズス・キリストは真の天主であることを宣言する力を与える秘跡です。



このように、受堅者は「我らの主、イエズス・キリストの証人」だとも呼ばれていますね。また、「イエズス・キリストの兵士」とも呼ばれていますね。というのも、キリストの証人になるためには、戦う必要があるからです。この戦いは、まず、カトリック教会の敵らに対する戦いです。例えば、フリーメーソンに対する戦いです。また、自分自身に対する戦いも要ります。いわゆる、人間的な尊敬、あるいは本音と建て前を区別したりして、心配や恐れに対する戦いです。

これらを倒して、回心するために必要としているキリストの真理をあなたから聞くことを待つ人々のために、キリストの真理を告白して、宣言して、伝えていくための戦いです。あなたたちの言動、言葉のお陰で、より多くの人々はカトリック教会へ回心していけます。考えてください。堅振を受けた信徒としてのあなたたちの使命は重要です。カトリック教会におけるあなたたちの役割と戦いは重要です。その使命についてくれぐれも考えなさい。

また、堅振のお陰で、聖霊の七つ賜物をより豊かに受けることになります。ご存じのように、あなたの霊魂を船にたとえてみると、聖霊の賜物は船の七つの帆と似ています。これらの帆は霊的な風である聖霊を受けて船をこの世ですでに聖人になるという港、また天国における永遠の幸福という港へとあなたたちを前進させます。



特に、剛毅という賜物を強調しましょう。剛毅の賜物によって、あなたたちは遠慮、恐れ、恥ずかしさに対して強めてくださいます。恥ずかしさ、あるいは恥は「人間愛」あるいは「人間的な尊敬」いわゆる「他人へ迷惑をかけたくない気持ち、あるいは迷惑という口実」というようなことです。つまり、人の前で、自分がカトリック信徒であるということを明らかにして振舞うことを恐れることが多いでしょう。なぜなら、これは、とがむべき弱さだからです。ですから、これから、知り合いの前でも公けにも、教会の聖伝に忠実なカトリック信徒として振舞いを宣言することを躊躇してはいけません。

あと、もちろん、何故おそれるでしょうか?打撃、弊害、迫害を受けたくない気持ちが働くからでしょう。殉教者のように、投獄されることもあるでしょう。昔は、自分の信仰を宣言するだけでもすぐに死刑となっていましたよ。ですから、想像に難くないのです。信仰を告白して、宣言するために必要である霊的な勇気、剛毅はかなり大きいでしょう。これは自分の力で得られないので、聖霊の一つの賜物です。聖霊は信仰の戦いに臨むために、また、美しい徳である節制の徳を実践するために、あなたたちを強めて、剛毅を与えて、強化させてくださいます。はい、節制の徳は現代に置かれて限りなく軽蔑されて、否定されて、馬鹿にされているから、特にその徳を実践しましょう。これを一生ずっとやり続けていくのです。

つぎのような一例を取り上げたいと思います。古代に生きた殉教者の話です。真の天主への真の信仰のために殉じた者です。聖ペルペトゥアPerpétueといううら若き女性です。結婚することになりました。彼女の父は異教徒でした。Perpétueはキリシタンでした。そして、父は娘を強制的に若い異教徒の男性に嫁がせました。この結婚相手の詳しいことは残された歴史において忘れられてしまいました。そして、Perpétueはまだとても若い時、二十歳になったばかりにキリシタンであることを密告されました。セプティミウス・セウェルスス皇帝の時代だったでしょう。その時代の迫害はかなり激しかったです。キリシタンであることがばれたら、即座に逮捕されて投獄されて死刑執行される時代でした。

まったくこのようになりました。Perpétueは逮捕されて投獄されます。彼女と一緒に、約10人のキリシタンがいました。その内には、有名である聖フェリチテFélicitéもいました。FélicitéとPerpétue。皆様、耳にしたことがあると思います。これは、北アフリカのカルタゴで起きた事柄ですよ。つまり、Perpétueはアフリカ出身でした。皮膚もちょっと濃かったです。



さて、次はどうなったでしょうか?娘を訪問するために、牢屋にいきなり来たのはPerpétueの父です。そして、言います。
「娘よ、なにをやっているのか?我々の先祖、我々の偉大なる家を侮辱するぞ!」
はい、Perpétueの家族はカルタゴの貴族で、なかなかのエリート層でした。
「我々の偉大なる家を侮辱するぞ!すくなくとも、おまえの父の白髪のために想ってやりなさい!」うんぬん。
そして、Perpétueは答えます。「裁判所に出たら、私が話すのではなく、天主が代わりにお話になるでしょう」と。

そして父は去ります。そして裁判の日がきます。10数人のキリシタンは被告人の席に並んでいます。裁判官はヒラリアヌスHilarianusと言います。高位な官職を持った人です。

被告人の一人一人へ、異教名で呼び出して、運命の質問をします。「君、ヘーラクレース、キリシタンなのか?」。「はい、キリシタンです!」「ユーピテル神へ供え物したら終わる。お香一粒を捧げたら終わるからさ」「いいえ、捧げません」「死刑!」

という感じです。一人ずつ以上のように死刑となって、最後はPerpétueでした。Hilarianusは彼女へ同じ質問をします。「君、Perpétue、キリシタンなのか?」「はい、キリシタンです!」。そして、その瞬間、いきなりPerpétueの父が現れて前まで来ます。キリシタンの前に来て、Perpétueのもとまで来て、跪いて、娘に次のように希います。「我が娘よ、希うよ。君の父の白髪のために想ってやりなさい!すくなとも、君の赤ちゃんのことを想ってやりなさい!」
はい、Perpétueが逮捕される数週間前、数か月前に赤ちゃんが生まれたばかりでした。父は裁判の時、その赤ちゃんを抱き、娘の近くに来て赤ちゃんを差し出しました。Perpétueは結婚していただけではなく、母となっていたのです。赤ちゃんはまだまだ幼いです。父は赤ちゃんを連れてきたのですよ。想像してください。Perpétueは目の前に自分の赤ちゃんがいて、赤ちゃんを見ています。
父は「考えてください。あなたが死んだら、この子はどうなるのかを?君の子を想ってやりなさいよ!君がいなければこの子は生きられないだろう。」

どれほど酷い誘惑なのか想像してください。それは実際にあったことですよ。我々もこのような誘惑に晒されるかもしれません。危険な誘惑でした。異教徒だった父は人間愛だけで、間違った人間愛だけで物事を考えていたので、このような誘惑を娘に与えます。
Perpétueはどうするでしょうか?一粒の香をさりげなくそこへ投げたら、もうすべて終わるからですね。一粒のお香は大したことではないでしょう。



そして、裁判官は年配の父を裁判所から追い出すことを命令します。さらに娘の前で父を棒で敲きで罰します。「出ていけ!裁判所の働きを妨げている!」

そして、Perpétue自身が語ります。というのも、死刑執行の前に、牢屋で自分が経験したことを書きおろしてくれたので、彼女の最期は裁判はよく知られています。彼女自身が語ります。
「私の可愛そうな父が、そのように不正に敲かれることを見て深く悲しんだ」

しかしながら、Perpétueはそういった人情に抵抗しました。自分の赤ちゃんの将来によっても動揺しませんでした。「この子を天主のみ摂理にお任せします」と言い、「夫は拒否しているので、この子はまだ洗礼を受けていないが、天主のご加護にすがります」とPerpétueが心の内に言っていました。
そして、最後にHilarianusはもう一度、Perpétueに問います。「アポローンの石像でもユーノーの石像でも一粒のお香を本当に投げないのか?」「いいえ、投げません。天地を創造した唯一なる真の天主を礼拝します。我らを罪と最後の裁判から救うためにこの世に来り給うたイエズス・キリストです。」
これはキリシタンの信仰のよい短い要約版です。
そして、裁判官は「本当にこのまま頑固になってもいいのか?キリシタンというセクトをつづけるのか?」「はい、真の神への信仰を固く捧げます!」「なら、殺せ!」

このように、カトリック信仰を捧げたことを理由で、死刑という判決になって実行されました。
そして、裁判官は死刑という判決を言い渡します。そこにいたキリシタンの全員へ。具体的な刑は闘技場に投げられて猛獣によって食われるという刑となりました。
その一週間後、執行は行われました。死刑判決を受けたキリシタンの全員は闘技場へ連れられて、そこに多くの観客がいました。街の住人たちで、多くは異教徒でしたが、このような残酷な娯楽を楽しんでいました。同時に、この死刑は勇敢なこれらのキリシタンの凱旋をも意味します。カルタゴ闘技場で抵抗もしないで、ライオンやヒョウやトラといった猛獣に噛ませて食わせておきました。

以上、Perpétue聖人の最期の歴史です。死刑実行以外に、彼女の執筆になる文章も残っている分、その殉教は間近に感じ取れます。牢屋に至る間、Perpétueは裁判の流れ、死刑判決までの流れを書き留めたので本当にお勧めです。そして、天主はどれほど彼女を助けて、またカトリック信仰を宣言するようにどれほど天主によって強められたかがわかる証言です。つまり、血を流してまで、死んでまで、カトリック信仰を宣言する勇気を与えてくださるという聖霊の賜物です。

愛する皆様、以上は一例にすぎませんが、我々も本物のカトリックであることを表す時に迫害を受けたり、軽蔑と弊害を受けたりしても、耐えられるために、過去の殉教者のことを思い出して、慰めと勇気になるようにしましょう。

愛する信徒の皆様、愛する受堅者の皆様、聖霊の賜物を受けるように、とくに剛毅という賜物を受けて、いずれか、ある日もしかしたら明日、あるいは今日、いつまでもカトリック信仰を宣言する勇気があるように、そしていつも、彼らの言葉を通じて多くの善を施せるように、また彼らの善き模範によってより多くの人々がカトリック信仰へ回心するように、聖霊が受堅者を強め給うよう希いましょう。

聖Perpétueのとりなしをも希いましょう。また、いとも聖なる童貞マリアに祈りましょう。殉教者の元后です。十字架の下で聖母マリアも殉教を苦しまれたのです。天主なる聖母の御子と一緒に、聖母マリアは自分の命を一生捧げ続けました。ですから、本日の堅振を受けて、聖霊の七つの賜物に満たされるように祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

この世にいるのはなぜか?なぜ生まれてきたのか?|教皇とミサ聖祭に対する戦争

2021年10月09日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ペトルッチ(PP. Petrucci)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ペトルッチ(PP. Petrucci)神父様の説教  
教皇とミサ聖祭に対する戦争
2021年07月25日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

愛する信徒の皆様、我らの生きている時代は平凡ではありません。相次ぐ出来事は重要であり、そのせいで多くの人々の人生は変わることもあるでしょう。第一の出来事には、衛生上の独裁政治が思い浮かびます。全世界のどこでも、治験段階にあるワクチンの接種を強制的に人民に課する独裁政治です。また、悪がしこいことに人々を辛いジレンマに追い込むようにしています。自称ワクチンのために実験台に使われるか、それを拒否するか。しかしながら、拒否したらクビになるほどのような脅迫にかかっているという辛い二択です。

はい、現代はそら恐ろしい時代となっています。それよりも酷いことに、教会内に至って、聖伝ミサに対する戦争は継続しています。ご存じのように7月16日、フランシスコ教皇によって発布された自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」をもって聖伝ミサに対する戦争は強化されました。この教令には、第二ヴァチカン公会議の実であるノブス・オルド・ミサ(新しいミサ)をさらに広めて強化する目論見があります。新しいミサとは、天主様のミサでなくなってその代わりに人間のためだけのミサです。



そして我々はこのような時代の内に人生を送らざるを得ない事実があります。ですから、信仰に照らして一番重要なこと、本質的なことに立ち戻ることは大事なことです。これは我々の究極的な目的地に立ち戻りましょうということです。

つまり、この世にいるのはなぜですか。なぜ生まれてきたのですか。自分の霊魂が救われるためにこの世に生まれたのです。このことこそが一番重要な真理です。この真理こそが私たち一人ひとりにとっての一番大事なことなのです。

この人生は巡礼にすぎず、短い移行に過ぎません。天主様は永遠の命のために我々を創り給いました。そしてこの世に生まれてきたのはこの永遠を得るためであり、努力して永遠の命を得ることに値する手柄を果たすためです。ですから、この世でのキリシタンの人生は戦いです。戦闘です。旧約聖書において既にヨブがこういっています。「Militia est vita hominis 、super terra(この世にいることは人にとって兵役である)」(ヨブ記、7,1)。

信仰に照らして戦っていかなければなりません。失望しないために、望徳を保つために、そして、我々の周りのこの世を信仰に照らして変えるために戦わなければなりません。信仰はつねに我々の心に染みてわれわれの霊魂に燃えつくすようにすべきです。
はい、この人生を送って、死後になって天国で至福を得て天主様と一緒になるか、不幸なことに地獄に落ちて自分の霊魂を失うか、一人一人の行為、一人一人の覚悟と努力にかかっています。皆さんの決意にかかっていることなのですよ。

福音書でイエズスが仰せになりました。「よし全世界を儲(もう)けても、自分の霊魂を失えば何の役にたつだろう」(マテオ、16,26.マルコ、8,36)。
聖アンブローズはキリシタンたちに向けて次のように思い起こさせました。「現にある二つの永遠の一つにしか行かないことを覚えてください。永遠に救われるか永遠に罰せられるか」。

以上のような真理は我々の黙想の対象にしましょう。なぜなら信仰が教える真理に照らして、我々は言動を決めなければならないし、周りの出来事を解釈しなければならないわけだからです。

聖フランシスコ・ザビエルによれば「人間にとって善とは専ら一つだけあって、また悪とも専らひとつだけある。人間にとって唯一の善とは救霊であり、唯一の悪とは劫罰を選ぶことである。」

さらにいうと、現代に生まれた我々に向けて、天主様は「この時代において救霊することだ」と命じておられます。教会初期の殉教の時代ほどにまだなっていないものの、平凡な時代でもなく全体的に困難な時代に向かっていることは間違いないことです。

このように、いつもいつも努力して一番重要なことに立ち戻り、そこに留まるようにすることが大事なことになります。一番重要なことは言いかえると我らの主、イエズス・キリストです。イエズス・キリストに従い、倣い、常に祈りによってともにし、我らの人生と心の中心におく、主を信頼するということなどです。

というのも天主様は試練が我々に与えられることを許可しています。また、このような戦闘を許可しています。それは我々の救霊のために必要であるからであり、またどれほど厳しい試練であるとしてもイエズス・キリストは我らの傍に常にいらっしゃって、天主の生命である聖寵によってわれわれを支えたまいます。

教皇の自発教令には気づかせてくれることがあります。使徒時代から教え続けられた聖伝の信仰と第二ヴァチカン公会議が生んだ新しい教えとは絶対に相容れないことを示してくれたということです。これが、「公会議を受容した」教会が聖伝ミサの存在をゆるせない所以です。

なぜでしょうか。単純です。聖伝ミサにおいてカトリック信仰の全体とすべてが織り込まれているからです。また、聖伝ミサはサタンに対するイエズスの勝利でもあります。つまり、十字架上の生贄の流血を伴わない再現です。また聖伝ミサに与れば与るほど、信徒たちの人生にも染みて、どういった人生を送るべきか自然に身についていきます。つまり、戦闘の人生を送ることという事実を自覚して、積極的に戦っていくように養うというのが聖伝ミサです。また、自己犠牲の精神も養われています。また永遠の栄光を得ることに値するために、イエズス・キリストに従い、イエズス・キリストに倣う精神も養われています。



一方、エキュメニズムの精神によって育まれた近代的なミサはプロテスタントの精神に染まっていて、何よりも人間を中心におくのです。現代の社会で確認できる大がかりで全面的な危機はフランス革命とともに生まれた民主主義、民主政治の理不尽さを露呈させています。天主の権利を否定するためにできた「人権」により生まれた民主主義の弊害は露呈されるようになりました。

以上は政治上で人間を中心におく民主主義であるなら、同じように新しいミサは天主のためのミサでなくなって、人間のためのミサになってしまっているということです。

要するに、現代、我々は生きている政治社会での危機、それから教会での危機はまったく同じ問題の二つの側面にすぎません。両方の危機は繋がっています。両方とも信仰を破壊するための、教会を破壊するための革命なのです。そしてこのような戦いの内にあるのが我々の兵役です。我々は戦闘員です。乱れた秩序を回復するために改めるために合法的な手段で全力を尽くすべきです。

そして、第一に自分自身に対する戦いなのです。自分自身を改めなければなりません。というのも社会、教会、この世が改まってほしいと思うのなら、自分自身をかえなければなりません。我々の第一の戦いは自分自身に対する戦いなのです。

本日の福音書に出ているところです(ルカ、19,41-47)。イエズス・キリストはエルサレムの前にいて涙を流されています。というのもエルサレムは救霊をもたらしに来た天主の御子を迎え入れないから、こんど罰として滅びるエルサレムを見てイエズスは悲しまれます。そしてその預言通りに紀元ごろ70年、ヴェスパシアヌス皇帝の代に、いわゆるティトゥス皇帝の軍によってエルサレムの神殿は破壊されました。このような天罰は現代の欧州を象徴していると言えましょう。というのも、かつてキリスト教だった欧州は信仰を捨てた分、昔のヘブライ人のように天罰を被っているからです。イエズス・キリストを拒めば拒むほど、自壊に至っていくのが欧州です。



また本日の福音書に登場するエルサレムは人間の霊魂をも象徴しています。我らの主、イエズス・キリストによって救いに呼びかけられている霊魂です。イエズス・キリストは信仰の恩寵を我らに与え給い、イエズス・キリストを肯定するように、受け入れるように、イエズスの教えに従うようにイエズスに倣うようにすべての人々を呼びかけられています。

そしてイエズスは一人も残さずにすべての人々のために救いをもたらしに来ました。あらゆる人間を救うために十字架上に死に給うたのです。また、一人一人の人に救いを得るための十分な適切な聖寵を与え給います。あと、それぞれの霊魂はそれを受け入れるかどうかです。それぞれの霊魂次第でありますが、残念ながら、天主様からの聖寵を拒むことがあります。こうなったら、自滅につながっていきます。

しかしながら、信徒である我々はイエズス・キリストを限りなく受け入れて迎え入れましょう。勝利するための第一の条件です。我々の霊魂と心に我らの主、イエズス・キリストを迎え入れましょう。イエズスのために我らの心に最大の最高の地位を譲りましょう。というのも、イエズス・キリストは神殿の商人たちを追い出すために来給いました。



福音書にあるこの場面はまず、史実をそのままに表します。そして、霊的な意味もあります。イエズスは神殿から商人たちを追い出されたのは、御父の家の神聖さを再断言するためでもあります。ひいては全世界の(建物としての多くの)カトリック教会は神聖であることを示し給いました。この分、教会に入るためにどれほど敬意を払うべきか、立居振舞においても服装においても祈りにおいてもどれほど尊厳に畏怖に満ちて入って言動していくべきかが示されています。

しかしながら、イエズスが神殿から商人たちを追い出した行為によって以上の、具体的な教え上、象徴的な意味もあります。つまり、われわれの霊魂こそは一番大事な神殿であるのです。そして、イエズスは神殿なるわれわれの霊魂にいる商人たちを追い出すために来給いました。これらの商人たちは乱れた感情、この世にある財産、栄光などへの愛着、肉欲や乱れた欲望などです。

というのも、天主様は我らの霊魂をお創りになったのは、天主様の神殿になるためです。聖霊の神殿になるためです。そのために我らの霊魂が存在します。我々の存在理由です。要するに、我らの主、イエズス・キリストを自分の内に迎え入れ、イエズス・キリストが我々の内に施されることを妨げないように努力することです。

また、イエズスに我々の内にどんどん施されるように祈ることです。告解と聖体拝領によって自分の霊魂にどんどんイエズス・キリストを迎え入れましょう。そして、私たちのために、私たちの代わりに、私たちとともに戦い給いますように。つまり、イエズス・キリストとともに霊魂ができるだけ一致しますように。

社会においても教会においてもこれから物事はどのように変わっていくでしょうか。変わっていくことだけは確かであろうが、具体的にどうなるでしょうか。聖ジャンヌ・ダルクがいうように、最終的に天主様は勝利を与え給うが、戦闘員たちは踏ん張って戦うことに専念すればよいと。
天主様は勝利のために適切な人々を選び出されるし、手段を与え給うことになります。そうでなければ、世の終わりになるでしょう。

喜ばしいことに、ファチマで出現された際、聖母マリアは「我が汚れ無き御心は最後に勝利する」と約束されたので、安心できます。ですから、善い意味でこの戦争は逆転し、天主様の勝利へ変わっていくでしょう。具体的にどうやってこのような逆転は起きるでしょうか。聖なる霊魂によってです。我らの主、イエズス・キリストにすべてを託した霊魂によって勝利に導かれます。このようなエリートの霊魂は頭となり、天主様のための戦闘を果たせる霊魂たちはこれから輩出していきます。このように社会と教会での天主様の秩序は取り戻されるでしょう。

そのために、我々は常に努力して準備しなければならないし、心を備えるべきです。まず、自分自身に毎日、いつも、我らの主、イエズス・キリストとの一致を強化することに努めましょう。そして、ずっとイエズスへの信仰と信頼を堅く維持するように努力しましょう。(戦いに挑んでいるので、よく絶望の脅迫に迫れるだろうが、絶望的な時においてこそ、踏ん張って勇気を出してイエズスのみ旨を果たせば戦闘員としての我々の義務は果たされるので、それで十分です)。天主様こそは歴史の流れを支配していることをわすれないでおきましょう。(すべての出来事はより多くの善のために用意されていることは教義において教えられています)。

そして、聖母マリアに祈りましょう。このような覚悟ができるように、イエズスへすべてを託する覚悟を養うように祈りましょう。
とりあえず、毎日、現在において生きていきましょう。天主様の恩寵にたよりながら毎日出てくる問題と試練などを一つ一つ受け入れて立ち向かい、戦っていきましょう。天主様はこれらのすべての試練を許可していることをわすれないでおきましょう。

商人たちを神殿から追い出すために試練が必要です。(何の戦いもせずに商人たちは出ないからです。)キリスト教の秩序を確立するためには十字架は必要不可欠です。しかしながら、十字架を担うべきであるとともにそれを担い乗り越えるための聖寵をも与えられます。本日の書簡で(コリント人へ第一の手紙、10,6-13)思い起こされるように、忠実なる天主様は我々の力を越える試練を送られることはないので安心しましょう。

毎日の苦しみがある分、毎日の聖寵もあるので、喜ばしいです。そして、よく祈って、天主様を何よりも上に我々の人生においておくのなら、毎日、未来にも、その時ごとに何をやるべきかは天主様によって示されることになりますので、そのみ旨を理解できるように、聞けるように努力して祈りましょう。

聖母マリアに以上の恩寵を得られるように祈りましょう。聖母マリアこそは自分自身を完全に天主様に託して、天主の聖寵に深く染みておられました。そして、一番苦しい時になってもそれは変わりませんでした。十字架の下にいた聖母マリアもその状態は変わりませんでした。聖母マリアの霊魂には天主様への望徳が満ちて、どれほど絶望的になっても、悲しい気持ちになってもいつも心の奥に安心して安泰でした。なぜなら、聖母マリアはつねに天主様と一致していたので、御受難などの酷い出来事はどれほど辛いとしても天主様が許可したことを知り、より善いことのためにあることを知っていたので心配しないで安心していました。
ですから、天主の御手に安心して自分自身を託しましょう。天主様は全能であり我々を愛し給うからです。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

巨人たちを倒す方法について|ダヴィドとゴリアテの史実を解説

2021年10月03日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(Billecocq)神父様の説教  
巨人たちを倒す方法について
2021年06月20日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、聖務日課には早課があります。早課とは具体的に九つの詩編を詠唱するのですが、夜間の日課です。また、毎日九つの詩編の後、聖なる教会はいくつかの読誦を加えています。毎日変わりますが、読誦は具体的にどのようでしょうか。聖書の知識を養うためという意味でも、聖書の文章はたくさんあります。そのおかげで、聖書のすべての書を読めることになってかなりためになります。読誦といったら、また教父たちによる文章も多くて、多くの場合、福音書を解釈する文章になります。または福音書読誦もあります。

さて、今の時期になると、司祭たちは早課を詠唱するにあたって、列王の書の読誦となっています。旧約聖書において、列王はいわゆる「士師」の時代の次に来た時代です。それはエジプトから解放された後、イスラエル人達は聖地を取り戻して、「士師」という人々を通じて、天主は直接にイスラエルの民を統治しました。言いかえると、その時代には王あるいは指導者などはいませんでした。平時であるとこのように平和に何とかできましたが、何らかの脅威あるいは戦争は起きた場合、天主は「士師」と呼ばれる人を選び出されて、この士師はイスラエル民のトップとなって、敵を破って、秩序を取り戻して、通常の物事についても決定したりしましたが、一旦平時に戻ったら、士師は「士師」を「やめて」自分の家に帰って死ぬまで平和に住んでいました。

ある日、イスラエル民は一揆して、「他の国々と同じように王が欲しい」と要求しだしました。そしてそれは叶って、初代の王はサウル王でした。
ちょうど最近の読誦ではサウル王がペリシテ人に戦に挑むところになっています。ある山腹(山の中腹)の上にいるサウル王は下への谷と川を展望しています。そして、向こうの山の中腹にペリシテ人の軍隊は構えています。両陣営は開戦を待ちながら立ち向かいつつお互いに見合っています。ただし、ペリシテ人の軍隊にはある男がいます。ゴリアテという兵士です。かれは巨人です。本当に背高くて文字通りに巨人であり、架空ではありません。聖書において彼の身長は明記されていて、およそ340センチメーターとなっていました。ですから、かなりの身長の巨人で、皆かれを恐れていました。あと背が高かっただけではなく、デカくて力が強かったわけです。聖書にはゴリアテの鎧の重さが明記されています。この鎧を着てもゴリアテは普通に手際よく戦えたと書いてあります。鎧の重さはおよそ70キロでした。以上はゴリアテの描写です。



そして毎日、ペリシテ人の陣営のあるテントからゴリアテが出て、谷へ降りて、そこにある川の岸まで近づいて、つまりサウル王が率いたイスラエル人の陣営の一番近いところまで行っていました。そこで、ゴリアテは大声でイスラエル人たちを脅かしていました。「おまえらの内の一人が我々と決闘せよ!この決闘の結果次第で、戦争の結果が決まって、勝った側は敵の民を支配することになるとしよう!」
そして以上のように、40日間毎日、ゴリアテは同じく、降りて決闘という挑発をします。また同時にイスラエル人の卑怯さと弱さを罵りながら挑みだします。そしてそうすることによって、文脈でいうと、イスラエル人を通じて、イスラエル人の神をも侮辱することになります。
サウル王の軍隊は挑まれても動きませんでした。恐れています。イスラエル人の軍隊には巨人もいないし、いったい誰がこの恐ろしい巨人ゴリアテと戦えるかは見当たらないままです。

ある日、ダヴィド王が登場します。その時、すでに王となっています。聖別式に与って塗油を受けたから王となっています。イスラエル人の陣営に16歳で到着します。ダヴィド王は末っ子でしたが父によって送られたわけです。なぜならダヴィド王の兄さんたちはサウル王の兵士としてそこにいたからです。で、ダヴィドの父は兄さんたちのために差し入れをするためにダヴィドを送ったわけです。またいくつかの物を陣営から故郷へ運ぶためにも送られました。

このように、ダヴィドは陣営に到着して、三人の兄さんを捜して、父から預かった差し入れを渡します。すると、ちょうどその時、ゴリアテの声が聞こえて、イスラエル人を罵り、天主を罵ることばが聞こえました。聖霊によって感化されたダヴィドはそれを聞いて「何もせずにいられるわけがない。天主をこのように侮辱されてじっといられない」ということで、ダヴィドはサウル王のところにいって、ゴリアテと戦う許可を頼みます。



当然のことですが、サウル王は15-16歳のダヴィドを見てちょっと若いなあと思って、また弱いなあと思いました。ダヴィドは巨人でもないし、体も細かったです。ですから、サウル王は許可を与えることに関してためらうのです。また、ダヴィドは兵士の間で馬鹿にされることになります。兄さんたちも「君が何をやっているか、子供の遊びではない。帰れ」とね。

しかしながら、ダヴィドはそれでもしつこく頼み続けます。ダヴィドを通じての天主の聖旨ですが、ダヴィドは「その人と戦うよ。天主はこれ以上侮辱させられないことを確信している」と。

すると、サウル王は結局、ダヴィドの頼みに応じてゴリアテとの決闘に行かせます。サウル王はまた、ダヴィドに鎧を与えます。ダヴィドは一応鎧を着ますが、はじめて武装することになるので、ぜんぜん覚束なくて、居心地が悪いわけです。結局、ダヴィドは鎧を脱いで「大丈夫だよ、いつもの身なりでいって、自分の武器をもって戦うからさ」。つまりその武器とは鳥を狩るためにずだ袋に収まっている投石器とここまで来るための棒で、それで戦うのです。

このようにダヴィドは投石器と棒を手にしながら、ゴリアテがイスラエル人を罵りに来る時に合わせて、巨人ゴリアテのところに行きます。そうすると、ダヴィドは川まで行って入って、五個の小石を拾って、ゴリアテの決闘に応じます。このような小さな子供が巨人である自分と戦うなんて侮辱だと受け止めて、ダヴィドを指して「犬め」と罵ります。そして、ひきつづきに、冒涜しながら天主を侮辱しつづけます。

そして、聖書によると、ダヴィドはゴリアテを回りながら、彼が戦いに応じるように挑発します。ゴリアテは勝利を確信しているので、何も用心なく立ち向かいます。すると、ダヴィドはずだ袋から石を出して、投石器に入れてこれを振りまわし始めます。ゴリアテは目の前にある子供を見て、侮辱として受け止めます。

そして、ダヴィドは石をゴリアテの額へ投げて、当たって額が貫かれておそらく小脳に当たって、ゴリアテは地面に堂々と倒されます。少なくともゴリアテは気絶していたのですが、死んでいるかどうかはまだ判明しておらず、ダヴィドはもう動かない巨人の身体へ走り出します。ゴリアテの剣を鞘からぬいて、ゴリアテの首を跳ねます。



すると、ペリシテ人は恐怖におちいります。無敵の巨人が死んだということで逃亡しだします。イスラエル人は逃亡する軍隊を追いかけてできるだけ多くの敵の兵士を殺しました。

いと愛する兄弟の皆様、以上の話は物語でもなんでもなく、史実ですが、そこから多くの教訓が得られます。聖アウグスティヌスは時に重要な教訓を示してくれます。

ペリシテ人は悪魔の陣営をしめしています。ゴリアテは悪魔らの頭を示します。悪魔らの王、闇の君主、サタンを示します。イエズス・キリストの人々をどうしても殺そうとしている悪魔らの頭を示します。イスラエル人とサウル王はいわゆる、善い陣営を示しますが、間違った力を使っているわけです。なぜなら、イスラエル人の陣営とサウル王の軍隊は自分らの力に頼って戦おうとしますが、自分の力だけではゴリアテに対して何もできないわけです。

そこから、第一の教訓を述べましょう。我々は、人間の力だけでは、人間に与えられる力だけでは、天使である悪魔らに対して何もできなくて無力であるということです。天使は遥かに人間を越えているだけではなく、更に言うと、原罪を負っている人間になると、なおさらのことです。ですから、自分の力だけでは、つまり人間だけの力では、悪魔に対して何もできないで、無力で、足が掬われて麻痺してしまいます。場合によって大変なことになります。

その時、15歳の若い当事者は登場します。ダヴィドです。彼は清さを示して、無垢、素直さをしめしています。つまり福音書において「子供のようになりなさい」(マテオ、18,3あたり)とイエズスが仰せになったことが思い起こされます。



棒を手にしてダヴィドは来ます。この棒はイエズス・キリストの「十字架」を示しています。ですから、ゴリアテはダヴィドを罵ります。「棒だけをとって来やがるね。犬め」と罵ります。はい、イエズス・キリストは悪魔と戦い、勝利して倒しましたが、それは十字架によって勝ちました。また五個の石は、教父たちによると、イエズスの聖なる生贄の五つの御傷を示しています。

要するに、ゴリアテの前に進むダヴィドは十字架とイエズスの御傷から出た御血から流される聖寵を示します。
聖書も明記しているように、なぜダヴィドは戦うことにしたかというと、天主が全能であることを知って、天主の御力に信頼していたからと書いてあります。そして、天主こそはゴリアテに勝利したわけです。

教訓はどこにあるでしょうか?
我々も、悪魔に対して勝利するのは、自分の力ではなく、イエズス・キリストの御力によって悪魔は破られることになるということです。また、イエズス・キリストの十字架のお陰で、我々は送られる誘惑に対して勝利するでしょうということです。十字架は我々がお捧げする犠牲であり、五個の小石は我らの主の御傷から流れる御血であります。我々はこの御血を秘蹟によって受け入れます。ですから、十字架と秘蹟を手にしているのなら、我々も悪魔を倒すことができるのです。

いと愛する兄弟の皆様、以上のような教訓は我々の人生において思い起こしましょう。悪魔を過小評価していけませんよ。我々を敵にしている勢力を過小評価してはいけませんよ。どれほど多くの罪がおかされているかを見たらその勢力の強さはわかります。また残念ながらも、我々の内にも罪を犯しているわけです。我々は傷つけられているから、悪魔は我々に比べて強くて我らよりも遥かに強いわけです。

しかしながら、だからといって、絶望してはいけませんよ。天主の聖寵に自分自身を完全に託しましょう。キリストの十字架に自分自身を完全に託しましょう。イエズスの十字架は現世と死と悪魔を破って勝利しました。「死よ、私はあなたの死だ」。

我らの主の十字架というのは、イエズス・キリストに自分自身の霊魂をお捧げする勝利であって、悪魔の敗北を意味します。
ですから、以上の教訓を具体的に我々の人生において踏まえるべきです。つまり、超自然の手段を活かしてこそ、悪魔と戦うということです。



しかしながら、その上、現代の教会の危機において、活かすべき教訓です。つまり、人間臭い手段、つまり自然上の手段を使って教会を救えないわけです。社会ですら、社会の復興を得るために、自然レベルの手段を使おうとしても無駄です。最終的に教会の復興も社会の復興も聖寵と秘蹟を通じてはじめて可能となります。

現代、我々が経験しているカトリック教会の危機は深刻です。いと愛する兄弟の皆様、一番攻撃されているのはミサ聖祭をはじめとする秘蹟なのです。要するに、ゴリアテを倒すための棒と小石は攻撃されているということです。ですから、本当に教会の危機が終わってほしいと思ったら、信仰に対して忠誠を尽くそうと思ったら、我々もいつものミサ聖祭と秘蹟と信仰と望徳に忠実を尽くすべきです。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、ミサ聖祭においてこそ我々は希望を据えて期待しましょう。頻繁に秘跡に与ることこそは我々の救霊や社会などの復興につながることを確信しましょう。人間らしい手段、人間臭い手段に期待して、教会の危機などの解決を希望していけないのです。

残念ながらも、第二ヴァチカン公会議ぼけ(現状や真理を把握しようとしない知識の欠如や危機感の低さのこと:編集者追記)の、聖伝を拒んでいる現代の多くのカトリック信徒はまさにこの罠に陥りました。彼らは義足の傷を焼こうとするような無駄なことをやっているかのようです。つまり、「福祉」などの人間臭い手段を使おうとして教会を復興しようとする無駄なことほどがありません。残念ながら、このような手段では、戦いはもはや負けになっています。サウル王もイスラエル人の兵士たちもそれを認識していたのに、我々も認識すべきことです。



いと愛する兄弟の皆様、聖母マリアの手にすべてを託しましょう。聖母マリアがいつもいつも天主なる御子の御手にすべてを託されたように。
天主の母になることを頼みに来た天使が聖母マリアの前に現れた時、聖母マリアははっきりと言われます。自分の力でそういうことはできないという「私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」(ルカ、1,34)とマリアは聞きます。言いかえると、聖母マリアは自分を天主に奉献して一生貞潔を守る誓願をしたので、救い主の母になれないという質問ですが、それに応じて天使は「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです。」(ルカ、1,35)。つまり、天使は聖霊と聖寵によってこそ、これらの不思議なことは起きると告げました。

また従姉のエリザベートに会いに行く時、聖母マリアは言います。「私の魂は主をあがめ」る(ルカ、1,46)と。つまり、自分の力で天主の母になったことはなくて、全能なる天主が自分自身に偉大なことを行っておられるだけである、というつつましい心の現れです。はい、天主こそはすべてを成されておられます。我々は単なる道具ですから、協力することを決意して、自分の意志で協力をしようとしないかぎり、何も始まらないのです。天主こそはすべてを成しておられるわけです。

ですから、聖母マリアに祈りましょう。純粋な超自然な希望でいられるように。人間臭すぎる物事を無視できるように。過剰に感情的なあるいは物質的なものごとを無視できるように。祈りと信仰に自分を捧げられるように。ミサ聖祭に与り、頻繁に秘跡に与れるように。そうすることによってこそ我々は周りにいる多くの巨人に対して凱旋していきます。



はい、それをはっきりと申し上げる義務があります。我々を囲む誤謬は膨大で巨人のようなものです。そして、これらの誤謬に比べて、我らはかなり弱くみえるでしょう。しかしながら、天主の聖寵があれば、聖母マリアの御取り次ぎがあれば、お祈りの助けがあれば、ロザリオの祈りがあれば、凱旋するということを確信できます。というのも、聖母は約束したからです。「最後に私の無原罪の御心は勝利する」と。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン