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日本人は地方を見捨てるのか。2024年、少子高齢化で認知症が這い回る地獄絵図となる

2018年09月29日 | プロライフ
日本人は地方を見捨てるのか。2024年、少子高齢化で認知症が這い回る地獄絵図となる=鈴木傾城の転載


●少子高齢化による「日本をあきらめた地方の悲惨な現状」を知らねばならぬ。
●2018年9月16日、「日本の総人口に占める70歳以上の割合が2割を超えた。」65歳以上で見ると日本の総人口比の28.1%である。
●高齢者が極端に増え、子供が極端に減っている。人口も消えていく。
●少子高齢化は日本を崩壊させる致命的な病苦。日本人は、これから生々しい「日本の崩壊」を現実に見ることになる。少子高齢化という病魔は、「地方」という最も弱いところを破壊して壊死させてから、都市部に侵食していく。
●しかし日本人の人口の半分が三大都市圏(東京圏・名古屋圏・大阪圏)に暮らしており、「日本人が減っている」ということに気づいていない。
●2050年までに、国土の約6割は無人化する。

●地方は人口が少ないので、地方に進出するビジネスは少ないし、逆に地方のビジネスはチャンスを求めて都会に向かう。仕事が消えれば、若者も消える。地方に残されるのは常に高齢層。高齢層は消費が弱い。次々と廃業を余儀なくされていく。地方ではモノを買いたくても買えない、買い物すらできない陸の孤島になる。交通機関も赤字経営となって維持できない。電車もバスもなくなり、いよいよ不便になる。銀行も、病院も、郵便局も、赤字経営になれば撤退していく。地方は「壊死」する。人口が減り、高齢化し、やがて消えていく。地方は再生よりも荒廃に向かう。

●2024年には日本で最も人口の多い団塊の世代がすべて「75歳以上」となる。2026年には高齢者の5人に1人が認知症患者となる。あと10年もしないうちに、見捨てられた高齢者が認知症で這い回る地獄絵図が発生すると危惧される。地方の人々は日本をあきらめた。少子高齢化が日本を破壊する時限爆弾になっている。

●少子高齢化によって税収が減り、高齢者にかける社会保障費が膨れ上がっている。

●日本を愛し、日本の未来を憂うのであれば、日本最大の国難は少子高齢化であると強く認識しなければならない。もう手遅れの一歩手前まで来ている。

●しかし「少子高齢化が日本を自滅させる」という共通認識・危機感が共有できていない。今、ここで少子高齢化の危機感が共有できなければ、日本は破滅的な結末を迎えてしまう。

●まず最初に日本を救うために「大変なことが起きている」と叫ぶ必要がある。もう時間がない。


日本人は地方を見捨てるのか。2024年、少子高齢化で認知症が這い回る地獄絵図となる=鈴木傾城

少子高齢化の問題を真剣に考えている人は少ない。日本人の半数が大都市圏に住んでいるため、その深刻さを理解できないのだ。日本をあきらめた地方の悲惨な現状を知っても、まだ見て見ぬふりを続けられるだろうか。

2018年9月16日、総務省は「日本の総人口に占める70歳以上の割合が2,618万人となり、初めて日本の人口の2割を超えた」と報告している。団塊の世代が70代に達しているのだ。65歳以上で見ると3,557万人で、日本の総人口比の28.1%である。

一方で出生数の方は、200万人超えだった1974年以後から明確に減少の方向にあり、2016年にはとうとう100万人を割って97万6,978人になってしまっている。

高齢者が極端に増え、子供が極端に減っている。まさに、超少子高齢化が進んでいる。また、人口の自然増減率を見ると2007年から一貫してマイナスを記録するようになった。

これらのデータから、日本は3つの危険な事態が進行しているということが分かる。

1. 高齢者が増え続けている
2. 子供が減り続けている
3. 人口も減り続けている

高齢者が増えて、子供が減って、人口も消えていく。日本が静かな危機に直面している。

高齢者が増え続ける国にイノベーションは生まれない。子供が減り続ける国に活力は生まれない。人口が減り続ける国に成長は見込めない。

少子高齢化は日本を崩壊させる致命的な病苦なのだ。そろそろ日本人は、これから生々しい「日本の崩壊」を現実に見ることになる。
日本人のほとんどは少子高齢化という病魔に無関心

社会・文化・経済における「日本の崩壊」があるとしたら、その原因となる確率が最も高いのは、間違いなく少子高齢化の進行だ。

しかし、日本人のほとんどは少子高齢化という日本を蝕む病魔に無関心だ。まるで他人事なのだ。なぜなのだろうか。それは、半分以上の日本人が「少子高齢化をまったく実感できていない」ことにある。

なぜ実感できないのか。それは、日本人の人口の半分が三大都市圏(東京圏・名古屋圏・大阪圏)に暮らしており、この三大都市圏に暮らす人たちは「日本人が減っている」ということに肌で気づかないからでもある。

総務省統計局「国勢調査」及び国土交通省「国土の長期展望」がまとめた資料を元に、総務省市町村課が作成した『都市部への人口集中、大都市等の増加について』の資料を読むと、この三大都市圏に住む人たちの割合はさらに増えていき、都市部の人口集中がこれからも続くことが示されている。

一方で、三大都市圏以外の地域は着実に人口減となる。2050年までに、現在、人が居住している地域の約2割が無居住化し、国土の約6割は無人化すると分析されている。

人口の半分以上は三大都市圏に暮らすので、少子高齢化はまったく実感できていないのである。だから、地方がどんどん死んでいくのに無関心のまま放置されている。
日本崩壊の過程が人口動態から透けて見える

この現象を見ると、日本の崩壊はどのように始まるのかは明確に見えてくるはずだ。

「都会に住む日本人が無関心のまま最初に地方が死んでいき、やがて都市部もまた少子高齢化に飲まれて崩壊する」

これが、人口動態から見た日本の崩壊の姿である。少子高齢化という病魔は、「地方」という最も弱いところを破壊して壊死させてから、都市部に侵食していくのだ。

増え続ける「買い物弱者」

最近、地方で買い物ができずに孤立する「買い物弱者」の問題が表面化しつつある。

地方は人口が少ないので、そこでビジネスをしても割が合わない。だから地方に進出するビジネスは少ないし、逆に地方のビジネスはチャンスを求めて都会に向かう。

仕事が消えれば、若者も消える。地方に残されるのは常に高齢層である。高齢層は消費が弱い。だから地方の個人商店は売上が上がらず、店主の高齢化も相まって次々と廃業を余儀なくされていく。

地方で暮らすというのは、不便と隣合わせである。都会ではどこにでもあるファストフード店やコンビニも採算が合わないので進出しない。

そこに今まであった個人商店さえも消えていくのだから、地方ではモノを買いたくても買えない人たちが大量に出現しているのである。

地方は、もはや買い物すらできない陸の孤島に

2015年の経済産業省調査では、こうした60歳以上の買い物弱者数は700万人いると試算している。

若年層であれば、こうした環境であっても「インターネットで買い物すればいい」と考える。しかし、高齢者はそんなわけにいかない。

高齢層は年齢層が高くなればなるほどテクノロジーから疎くなり、インターネットの基本さえ分からない。

それだけではない。人口が減り、出歩く高齢者も減っていくと、交通機関も赤字経営となって維持できない。電車は走らなくなり、バスの路線もなくなり、交通はいよいよ不便になる。

銀行も、病院も、郵便局も、赤字経営になれば撤退していくしかない。当然のことながらATMもない。

そうなれば、地方は陸の孤島も同然の状態となり、いくら郷土愛が強くても、そこで暮らしていけなくなってしまう。こうした状況が延々と続いており、少子高齢化によって状況は悪化するばかりだ。

自然災害からのインフラ復旧すら危うい

ファストフード店もない、コンビニもない、個人商店もない、交通機関もない、銀行もない、病院もない、郵便局もない。少子高齢化はそうやって地方を「壊死」させてしまう。

人口が減り、高齢化し、やがて消えていくのだから、地方が再生できると思う方がどうかしている。

昨今は地震やゲリラ豪雨や台風と言った自然災害も大型化しているが、地方がこうした自然災害に被災していくと、やがてはインフラの復旧ができなくなる可能性も高い。

インフラが消えれば生活環境は極度に悪化する。地方は再生よりも荒廃に向かう。

見捨てられた高齢者が認知症で這い回る地獄絵図

2018年、「70歳以上の割合が2,618万人となった」と総務省は発表したというのは冒頭でも書いたが、気がかりなのは2024年には日本で最も人口の多い団塊の世代がすべて「75歳以上」となってしまうことだ。

認知症は75歳を過ぎると急激に増えていく。2024年から認知症は大きな社会問題として見えるようになっていく。2026年には高齢者の5人に1人が認知症患者となる。これは患者数にすると約730万人である。

日本の地方は病院も介護施設もなくなっている。だとすれば、あと10年もしないうちに、見捨てられた高齢者が認知症で這い回る地獄絵図が発生したとしてもおかしくない。実際、そうなると危惧する人もいる。

地方の人々は日本をあきらめた

少子高齢化に叩きのめされ、地方は疲弊し、荒廃し、そして見捨てられた。そして、地方の人々はもうこの状況が改善できないことを悟り、再生をあきらめ、日本をあきらめた。

しかし、都会に住む日本人はまったくそのことに気づいていないか、気づいても無関心のままである。これで日本はこれからも大国でいられると楽観的に思える人はどうかしている。

日本を愛し、日本の未来を憂うのであれば、日本最大の国難は少子高齢化であると強く認識しなければならない。もう手遅れの一歩手前まで来ている。

危機感が共有できていないうちは何も始まらない

少子高齢化が日本を破壊する時限爆弾になっているという意識は、まだ日本人全体に共有されていない。そして、危機感もまた希薄だ。

すでに少子高齢化が地方をじわじわと殺している現状にあっても、国民の半数は三大都市圏に住んでいるので、まるで他人事のように「見て見ぬふり」をしている。

しかし、少子高齢化によって税収が減っている上に、高齢者にかける社会保障費が膨れ上がっている。

少子高齢化の放置によるツケは、年金受給年齢の引き上げ、年金の削減、医療費負担の増大、税金の引き上げ……という見える形で、日本人全員にのしかかってくるようになっている。

人口動態から見ると、少子高齢化問題は解決するどころかより深刻化してしまうわけで、もう日本人はこの問題を無視できないところにまできていることを認識すべきなのだ。

自滅へのトロッコに乗った私たちにできること

最初にやらなければならないのは、とにかく「少子高齢化が日本を自滅させる」という共通認識を持ち、これを広く周知して国民の意識と議論を高めていくことだ。

危機感が共有できていないから問題は先送りされてきた。ここで少子高齢化の危機感が共有できなければ、日本は破滅的な結末を迎えてしまう。

この危機感が共有できたら、出生率を上げるためにどうするのか、地方をどう救うのか、少子高齢化を解決するために税金はどのように配ればいいのか、政治家は何をすべきなのか、社会はどのように変わるべきなのか、すべての議論が進んでいくことになる。

危機感が共有できていないうちは何も始まらない。だから、「少子高齢化による日本の崩壊」という未来が見えた人は、まず最初に日本を救うために「大変なことが起きている」と叫ぶ必要がある。もう時間がない。

広がる「墓じまい」少子高齢化や家族の関係希薄化で新規申し込みの10倍

2018年09月27日 | プロライフ
広がる「墓じまい」少子高齢化や家族の関係希薄化で新規申し込みの10倍の転載

●自分や家族らの墓を撤去して寺などに返還する「墓じまい」の動きが相次いでいる。
●多くの人の遺骨をまとめて埋葬する「合葬墓」(1500体分)も希望者が殺到している。
●「自分の墓を託す人がいない」
●「これからは『継がなくてもいいお墓』はさらに注目を集めるだろう。」


広がる「墓じまい」少子高齢化や家族の関係希薄化で新規申し込みの10倍

自分や家族らの墓を撤去して寺などに返還する「墓じまい」の動きが相次いでいる。墓を新たにつくる希望者の約10倍に上る地区もあり、霊園などからは運営への影響を懸念する声も出ている。家族の形が多様化する中、少子化や血縁関係の希薄化で誰にも墓を託せなかったり、家族の手間や経済面の負担軽減を考えたりして決断に至るケースが多いという。23日はお彼岸の中日。墓を近隣に移す「改葬」や遺骨をまとめる「合葬(がっそう)」、ビル型の納骨など、新たな弔いの方法を模索する人も増えている。

大阪府北部の箕面(みのお)市、茨木市、豊能(とよの)町にまたがり、府内最大の約2万4千区画を有する「大阪北摂霊園」。昭和48年以降、近隣のニュータウン住人を中心に申し込みを受けてきたが、昨年度は新規の墓設置の申し込みが約30件だったのに対し、墓じまいの申し出は10倍近い286件となった。「この状況が続けば、運営に影響も出かねない」と、霊園を運営する大阪府タウン管理財団の担当者は懸念する。墓じまいはこの10年間で、約1400件に達しているという。

遠方にある祖先の墓を近くの場所に移すなどの「改葬」も増えており、厚生労働省の衛生行政報告例によれば、平成28年度の全国の改葬件数は約9万7千件で、5年前から約2万件も増えた。

秋田市は今春、住民の悩みの深さを目の当たりにした。多くの人の遺骨をまとめて埋葬する「合葬墓」(1500体分)の利用者を募集したところ、希望者が殺到。利用枠は即日、埋まった。

初期費用1万7千円以外にお金はかからず、埋葬後は管理を委託できる。こうした条件も多くの人をひきつけた要因とみられるが、同市の担当者は「希望者から聞こえてきたのは『自分の墓を託す人がいない』『子や孫に負担をかけたくない』といった切実な声だった。合葬墓の需要がこんなに高いとは」と驚く。今後、さらに1500体分の合葬墓を整備する方針という。

長野県小諸(こもろ)市は、合葬墓の永代埋葬権をふるさと納税(24万円)の返礼品としている。2月の受け付け開始から寄せられた問い合わせは約400件。市の担当者は「すでに27人の申し込みがあり、その約7割は東京都や埼玉県などの首都圏からのものだ」という。

× × × 

大都市圏でも新たな弔い方法が模索されている。東京メトロ千代田線などが走る町屋駅(東京都荒川区)から徒歩数分のところに、ビル型納骨堂「東京御廟(ごびょう)」がある。

外観は白い5階建てビルだが、室内は仏壇が置かれて静謐(せいひつ)な雰囲気が漂う。参拝所でICカードをかざすと機械が作動。扉が開き、故人の遺骨が墓石に納められた形で運ばれてくる。傍らにはデジタル写真の遺影、花も飾られていた。「老いが進む中、通いやすい場所に祈りの拠点があることは重要。しっかりと管理してくれることもありがたい」。父親のお参りにきていた葛飾区の男性(61)は満足げに笑った。

運営する町屋光明寺の大洞龍徳(おおほら・たつのり)住職(48)は「屋外のお墓と同じようにお参りにきてもらい、家族の絆をつなぐ場所としていただきたい」と語る。

葬儀・お墓コンサルタントの吉川美津子さんは「これからは『継がなくてもいいお墓』はさらに注目を集めるだろう。一方で家族の絆を次世代にどうつなぐか、といった視点も重要だ。残される人々が心穏やかにお参りできる場所となるかも考え、弔いの方法を模索していくべきだ」と指摘する。(三宅陽子)

これから急増する「定年女子」を襲う厳しすぎる現実

2018年09月26日 | プロライフ
これから急増する「定年女子」を襲う厳しすぎる現実 人口減少日本で、女性に起きること by 河合 雅司の転載



●日本は「おばあちゃん大国」になる。
●2017年生まれが90歳まで生きる割合は、女性が2人に1人(50.2%)、男性も4人に1人(25.8%)だ。95歳までなら、女性25.5%、男性9.1%に上る。
●老後の収入をどう安定的に確保するか。
●10年後には131万人の女性が定年を迎え、20年後にはさらに250万人の女性が定年に達し、合わせると、約380万人の女性が定年後の生活を歩む。
●「定年女子」の再就職は難しい。
●長き老後の生活費はどうすればよいのか。
●多くの人の老後の生活資金の主柱といえば公的年金。
●女性は「独り暮らしになる可能性」が大きい。
●「高齢化した高齢者」となって身内が1人もいないとなりうる。

これから急増する「定年女子」を襲う厳しすぎる現実
人口減少日本で、女性に起きること

河合 雅司

女性の2人に1人が90歳まで生きる

日本は「おばあちゃん大国」への道を邁進している。

昨年の敬老の日に合わせて、総務省が発表した推計(2017年9月15日現在)によれば、65歳以上の高齢者は前年比57万人増の3514万人だが、これを男女別にみると男性1525万人、女性1988万人で女性が463万人多い。

女性100人に対する男性の人数でみても、15歳未満では105.0、15~64歳は102.3と男性が上回るものの、65歳以上になると割合は逆転する。男性は76.7にまで落ち込んでいるのだ。

総じて女性のほうが長寿であるためだ。厚生労働省の「簡易生命表」によれば、2017年の日本人の平均寿命は男性81.09歳、女性は87.26歳となり、ともに過去最高を更新した。ちなみに、戦後間もない1947年は男性が50.06歳、女性53.96歳であった。

この頃「人生100年時代」と言われるようになったが、「簡易生命表」で確認してみよう。2017年生まれが90歳まで生きる割合は、女性が2人に1人(50.2%)、男性も4人に1人(25.8%)だ。95歳までなら、女性25.5%、男性9.1%に上るという。

各年齢の平均余命をみると、2017年時点で40歳だった人の平均余命は男性42.05年、女性は47.90年だ。70歳だった人は男性15.73年、女性20.03年である。

「おばあちゃん大国」となった日本では、〝80代ガール〟がファッションリーダーとなり、今では考えられないような流行やブームが到来するかもしれない。

かつてない規模で「定年女子」が誕生する

だが、長寿を喜んでばかりはいられない。

平均寿命が延びたといっても、「若き時代」が増えるわけではない。老後がひたすら延び続け、戦後間もない時代の高齢者には想像もできないほど膨大な時間を過ごすことになる。それは、老後の収入をどう安定的に確保するかを考えなければならないということに他ならない。

「簡易生命表」の数字を見るかぎり、誰が100歳まで生きなければならないか分からない。とりわけ確率が高い女性の場合、人生100年を前提してライフプランを立てておいたほうが無難だ。

もちろん、これからの「おばあちゃん像」は大きく変わる。一昔前に比べて若々しい人が目立つようになったが、変わるのは容姿だけではない。1986年に男女雇用機会均等法が施行されて以降、女性の社会進出が進んだ。

もうすぐ、われわれは、日本のビジネス史において経験したことがない場面に遭遇することだろう。かつてない規模での「定年女子」の誕生だ。

総務省による2017年の「労働力調査(速報値)」を見ると、55歳から64歳の女性の正規職員・従業員は131万人いる。45歳から54歳となると、250万人だ。

65歳を定年と見なして、この女性たちが定年を迎える場合、10年後には131万人の女性が定年を迎えており、20年後にはさらに250万人の女性が定年に達している。合わせると、約380万人の女性が定年後の生活を歩むことになるのだ。

男女雇用機会均等法の施行以降、オフィスの風景は様変わりした。寿退社が多く、コピー取りやお茶汲みが女性の仕事とされた時代は完全に終わり、今後は1つの会社に勤め続けて定年退職を迎える女性社員が増えてくる。

統計の数値がそれを先取りしている。総務省の「労働力調査(基本集計)」の平均速報(2017年)によれば、定年まで10年以内の55〜59歳の女性の就業率は、2007年の59.5%から2017年には70.5%へ上昇した。60〜64歳も2007年の41.0%から2017年は53.6%に増加した。

内閣府の「男女共同参画白書」(2016年版)は、「子供ができても、ずっと職業を続ける方がよい」と考えている人は45.8%だと伝えている。1つの会社に勤め続け、昇進する女性も珍しくなくなり、女性役員も次々と誕生した。厚生労働省の「雇用均等基本調査」(2016年度)によると、課長相当職以上の管理職の12.1%は女性である。

男女雇用機会均等法の施行年に四年制大学を卒業して就職した女性の多くが、2024年には60代に突入する。この世代は途中で退職した人も少なくないが、彼女たちより少し後の世代は働き続けている割合が増えてきており、定年まで働き続ける女性はさらに増え続けることが予想される。

「人生100年時代」を展望したライフプランを考えるとき、定年後も働くというのは大きな選択肢の一つとなろう。ところが、定年女子を待ち受ける雇用環境は、現時点では決してバラ色ではない。定年退職を迎える女性の場合、厳しい現実が立ちはだかっている。

オールド・ボーイズ・ネットワークとは?

第一生命経済研究所が定年前後に再就職した60代に調査を実施しているが、男性は「退職前から(再就職先が)決まっていた」が36.8%、「満足のできる再就職先がすぐに見つかった」が30.3%と、70%近くが定年後の人生の選択をスムーズに決めている。

これに対して女性はそれぞれ22.2%、17.8%と、苦戦ぶりをうかがわせる数字が並んでいる。男性以上に、長い老後のライフプランを描き切れない女性が増えることが予想される。

男女の差が生じる要因としては企業側の責任も小さくない。男性の場合、「前の勤め先が紹介してくれた」が26.3%なのに対し、女性はわずか4.4%にすぎない。

50代後半の女性の53.0%は勤務先から定年後の仕事に関するアドバイスや情報提供を受けておらず、多くはハローワークや友人・知人、インターネットを使って自ら情報を集めているのである。

男性と同様に65歳までの再雇用制度も利用できるが、前出の第一生命経済研究所の調査によれば、男性の6割ほどの水準だ。むしろ、以前から関心のあった資格を取得するためにスクールに通うなど、「第2の人生」を切り開こうという傾向も見られる。

定年女子の再就職を厳しくしている要因の一つに、「オールド・ボーイズ・ネットワーク」の存在がある。

「オールド・ボーイズ・ネットワーク」とは、排他的で非公式な人間関係や組織構造のことだ。伝統的に男性中心社会であった企業コミュニティーにおいて、暗黙の内に築き上げられてきた。

社内派閥や飲み仲間、業界の勉強会、経営者の親睦団体など、ネットワークの形態はさまざまだ。多くの男性はこうした人脈を通じて情報交換をしたり、仕事上の便宜を図ったりしている。

女性たちは、ほとんどが蚊帳の外に置かれているため、組織の文化や暗黙のルールも伝わりにくい。

重要な人事異動や新規プロジェクトが、仕事帰りの居酒屋などの会話の中で決まることも少なくない。女性の昇進を妨げている大きな要因として挙げられるが、定年後の好条件のポストについても例外ではないということだ。

そうでなくとも、女性の場合、これまで1つの企業で働き続ける人が少なく、定年後の生活について参考にできる先輩がなかなか見つからない、相談できる仲間がいないという事情があった。

企業には女性が定年退職まで働くことすら、あまり想定してこなかったところさえある。企業経営者は、定年女性の再就職の受け皿づくりを急ぐべきである。
わが子に先立たれる女性も増える

とはいえ、企業経営者の奮起を待つだけでは心許ない。人生100年をにらんで自ら準備できることは、若いうちから実践に移しておくに越したことはない。

では、長き老後の生活費を、どうやり繰りすればよいのだろうか。

よほどの資産家は別にして、多くの人の老後の生活資金の主柱といえば公的年金であろう。女性は男性に比べて賃金が抑え込まれたり、途中で寿退社したりする人も多いため、退職金や年金受給額も低い傾向にある。賃金構造基本統計調査(厚労省、2017年)によれば、女性の賃金は男性の73.4%だ。

この男女格差を引きずったまま、高齢期に入る女性は多い。男性よりも老後が長いことを考えれば、少しでも受給額を増やしたいところだ。

公的年金は受給開始後、生きている限り受け取れるし、長い年月の間の物価上昇にも対応している(民間の個人年金や企業年金は必ずしもそうではない)。

まず選択として考えたいのが、「年金の受給開始年齢の繰り下げ」だ。むろん、受給開始年齢の繰り下げは男性にとっても大きな選択肢であるが、寿命の長い女性のほうがそのメリットは大きい。

年金額を少しでも増やしておきたい理由は、寿命の長さが「独り暮らしになる可能性」の大きさと抱き合わせになっていることにもある。

夫のほうが年上という夫婦は多いだろう。男女の平均寿命の差も考え合わせれば、連れ合いを亡くしてから独りで暮らす時間はかなりの長さとなる。

さらに考えなければならないのが、人生100年時代においては、年老いた子供に先立たれる女性が増えてくる点だ。「高齢化した高齢者」となって身内が1人もいないとなれば、頼れるのは年金だけとなろう。

具体的に説明すると、現行では公的年金の受給開始年齢は原則65歳である。だが、本人の希望で60〜70歳の間で選択できる。受け取り開始時期を1ヵ月遅らせるごとに、受給額は0.7%ずつ増え、最も遅い70歳からもらい始めれば、受給額を42%も増やすことができる。

70歳の受給開始から12年弱で、原則として、65歳から受給を開始した場合と年金総額は等しくなるという試算もある。これに従うならば、70歳まで受給を遅らせて81歳以上生きればより多くの年金をもらえることになる。

女性は、かなりの人が100歳近くまで生きるとみられているのだから、得をする人は多そうだ。

ただし、男女を問わず、年金受給開始年齢を繰り下げようと思えば、その間収入の算段をしなければならない。それは「働けるうちは働く」とセットとなろう。

とはいえ、先述したように「定年女子」の再就職は難しいという現実もある。

定年後の好条件ポストを確保するには、「オールド・ボーイズ・ネットワーク」を崩さざるを得ないが、長い時間をかけて築き上げてきたアンダーグラウンド組織の強固な結びつきを断ち切るのは難しい。ならば、メンバーに加わるのも手だ。

ただメンバーに加わろうといっても、ハードルが低いわけではない。そこで対抗策として考えたいのが、性別を超えたディスカッションの場を設けるよう会社側に働きかけることだ。

就業時間内になるべく多くの接点をつくっていくことで、「オールド・ボーイズ・ネットワーク」に風穴を開けられれば、今よりキャリアアップしやすくなり、定年後の選択肢も広げやすくなる。

「起業」を考えよう

それでも、高齢になって自分らしく働ける仕事はなかなか見つからないものだ。そこでさらなる選択となるのが「起業」だ。起業ならば、「第2の定年」を心配しなくてよい。

男性に比べて勤務先からの情報が少ないという状況を見越してか、定年前に60歳以降も働ける会社に転職したり、起業に踏み切ったりする女性は増加傾向にある。

もちろん、そのすべてが安定的な収入に結びつくとは限らない。勝算があって踏み切る人ばかりでもないだろう。退職金をつぎ込んだ挙げ句、事業に失敗したとなったら目も当てられないと尻込みしたくなる人も多いだろう。

こうしたリスクをできるだけ減らすためには、定年間際になって慌てて準備をするのではなく、老後の長さを考え、むしろ若い頃から将来的な起業をイメージし、人脈づくりやスキルアップを計画的に進めるぐらいの積極的な発想がほしい。起業を念頭に置いて資格取得やスクールに通うのもチャンスを拡大する。

内閣府男女共同参画局の「女性起業家を取り巻く現状について」(2016年)によれば、女性の起業が最も多い年齢層は35〜39歳の12.1%である。次いで30〜34歳の10.4%だ。一方で55〜59歳以降も上昇カーブを描き、65歳以上も9.9%と3番目に高い水準となっている。

起業を志した理由のトップでは「性別に関係なく働くことができるから」が80.8%と最も高く、「趣味や特技を活かすため」(66.7%)、「家事や子育て、介護をしながら柔軟な働き方ができるため」(54.4%)などが男性に比べて大きくなっている。

子育てや介護に一段落ついたタイミングで、いま一度、「自分らしさ」を見つめ直し、「仕事と家庭の両立」を求めて起業に踏み切っている人が、すでに相当数に上っているということである。

女性の場合、78.6%が個人事業主である。起業にかけた費用や自己資金をみても、50万円以下が25.2%とトップで、比較的低額で開業する傾向にある。経営者の個人保証や個人財産を担保とはしていないとした人も73.6%を占め、手元資金の範囲で堅実に始めるという人が多い。肩肘張らずに考えれば、案外、始めやすい。

女性は男性に比べて子育てや介護といった生活ニーズに根ざした「生活関連サービス、娯楽」(18.8%)、趣味や前職で身につけた特技を生かした「教育、学習支援」分野での起業が多いのも特徴の一つだが、今後、勤労世代が減っていく中で、生活関連サービスのニーズは大きくなる。

こうした分野で小回りのきくサービスを展開する企業が増えることは、社会全体にとってもプラス効果が期待できる。

大きなリスクを背負わない人が多い分、女性起業者の起業後の手取り収入は少なく、月額「10万円以下」が26.7%、「10〜20万円以下」が22.5%と、半数近くは20万円以下にとどまる。だが、これでも長い老後を踏まえて、「老後資金の蓄え」、「年金の足し」として考えれば大きい。

女性に限らず、男性だって、長い老後を、いかに「自分らしく」生きるかは大きなテーマであろう。現役時代から入念な準備を進めておかなければできないことは多い。少子高齢社会にあってのライフプランづくりは、実に計画的でありたい。

団塊の世代はなぜ人口が多いのか?

2018年09月10日 | プロライフ
団塊の世代はなぜ人口が多いのか?からの転載

●1947年、48年、49年に産まれた「団塊の世代」。この三年間だけ、その前後の年と比べて抜きん出て出生数が多い。アメリカのベビーブームが十年以上続いたのに対し、日本のベビーブームはわずか三年しか続かない。なぜ団塊の世代は、たった三年で絶えるのか?ベビーブームがこの三年だけに集中するのはなぜか? なぜこの三年間だけ出生数が多いのか?中絶がなかったからである。

●団塊の世代とは、「中絶がなかった時代」の申し子だ。中絶法がなかったどころか、刑法の堕胎罪が有効であったのである。中絶を認めたその法律とは「優生保護法」、現在の「母体保護法」である。この法律が、「団塊」を強制終了させる。日本社会を劇的に変える。「人口を減らせ」という大号令のもと国策として「中絶をすすめた」のだ。

●驚くべきは、1953年には、その数は一気に百万の大台を超えてしまう。中絶法施行後たった四年にして、中絶件数は何と十倍になった。この数は、最近の年間出生数とほぼ同じ。ベビーブームが三年で過ぎ去った後、空前の中絶ブームがやってきたのだ。まさしくこれが日本の戦後なのだ。日本の戦後を特徴づける主役は、わずか三年で終わったベビーブーマーではなく、その後に延々とつづく「中絶ブーマー」のほうだ。

●ロシアンルーレットのような熾烈なブームに乗り損ねたわれわれは、中絶の生き残りである。1957年には、国の公式のデータによれば、十人が産まれるあいだに七人が中絶されている。「できた」子の三分の二が中絶されるという現実が日常となる。それが日本の高度成長の正体である。

●「経済的理由」をもって中絶することを可能とする法律で、経済効率至上主義は家庭においても徹底されることになる。今の生活の自己都合の前に、都合の悪いこどもの未来が葬り去られるのが当たり前となる。人のいのちよりも経済を優先するという「人間以下」の選択に国レベルで甘んじてしまった日本人は、押しも押され「エコノミックアニマル」となる。

●われわれはいまだに戦後の中絶ブーマーを終わらせることができない。中絶ブームを引き起こしてしまった不幸なマインドセットから抜け出せないでいる。


団塊の世代はなぜ人口が多いのか?

1947年、48年、49年に産まれた人たちは、その突出した人口の多さゆえ「団塊の世代」と呼ばれる。この三年間だけ、その前後の年と比べて抜きん出て出生数が多い。誕生した赤ちゃんは年間270万人にも達する。団塊の世代とはすなわち、日本版ベビーブーマーである。しかしながら、アメリカのベビーブームが十年以上続いたのに対し、日本のベビーブームはわずか三年しか続かない。不可解なほどはかないブームだったのである。名前のごつい感じとは裏腹に、実は層の薄い「団塊」なのである。

では、なぜ団塊の世代は人口が多いのかと世間に問えば、「日本が平和になって安心してセックスできるようになったから?」という適当な答えが返ってくるのが関の山だろう。もっとも、それ以前との比較においては確かにそのとおりである。1946年の上期に産まれたこどもが身ごもった頃はまだ戦時下である。安心してセックスできる状況などでは毛頭ない(…はずなのに命を得た彼らはちょっとすごい)。

平和になって安心してセックスできるようになって以降の、ほんとうに戦争を知らない子どもたちの出生が始まるのは1946年の下期からである。したがって日本のベビーブーマー元年が1947年であることに異論の余地はない。

問題は、それ以後の、1950年以後との比較である。なぜ団塊の世代は、たった三年で絶えるのか?

ベビーブームがこの三年だけに集中するのはなぜか? なぜこの三年間だけ出生数が多いのか? どういうわけだかこれまで誰もまともに答えようとしてこなかった問いのようだが、ちょっと調べれば簡単に分かることだった。身も蓋もない。答えは明快。

中絶がなかったからである。

世界に先駆けて人工妊娠中絶を認める法律が成立し、それが本格的に運用されることになるのが1950年以降のことだ。団塊の世代が誕生していた当時はまだその法律は存在せず、ゆえに「できた」子は、もれなく産まれていたのである。できてしまったが、産まずに中絶するという選択肢が当時はなかったのである。団塊の世代とは、ただたんに「中絶がなかった時代」の申し子なのだ。中絶法がなかったどころか、刑法の堕胎罪が有効であったため、よしんば中絶したくともできなかったのである。

中絶を認めたその法律とは「優生保護法」、現在の「母体保護法」である。

優生保護法が成立するのは1948年7月13日であり、よって国の人口統計データに出生数と並んで中絶件数がはじめて報告されるのが1949年からということになる。ヤミ中絶はカウントされないから、1948年以前に国の公式データにおいて人工妊娠中絶という項目は存在しない。中絶は、ない。

この法律が、「団塊」を強制終了させる。日本社会を劇的に変える。

「中絶を認めた」という解釈は適切ではない。女性の権利として中絶が認められたというのではなく、「人口を減らせ」という大号令のもと国策として「中絶をすすめた」のである。

中絶が公式に存在することになった最初の年、1949年の中絶件数は十万件あまりにのぼる。じゅうぶん大きな数字であると思うが、これが1949年と1952年の二度にわたる法改正を経て、驚くほど数字が跳ね上がる。

翌1950年の中絶件数は、初年度の三倍の32万件に急増している。出生数の13%に相当する三十万人を一年で失ったことで、この年をもって団塊の世代というベビーブームが終わりを告げるのは必然である。

さらに驚くべきは、1953年には、その数は一気に百万の大台を超えてしまう。中絶法施行後たった四年にして、中絶件数は何と十倍になったのである。この数は、最近の年間出生数とほぼ同じ。度を超していると言わざるをえない。今になって冷静に考えれば狂気の沙汰と言うしかない(まして国が発表する公式の数字と実際の中絶件数との間には大きな開きがあることを関係者は誰も否定しない。実数はその三倍から五倍になるという説もある)。

ベビーブームが三年で過ぎ去った後、空前の中絶ブームがやってきたのである。まさしくこれが日本の戦後なのだ。日本の戦後を特徴づける主役は、わずか三年で終わったベビーブーマーではなく、その後に延々とつづく「中絶ブーマー」のほうである。

このロシアンルーレットのような熾烈なブームに乗り損ねたわれわれのことを、Abortion Survivorと呼ぶ。われわれは、中絶の生き残りである。一方、生き残りを賭けることもなく、ただ産まれるしかなかった団塊の世代は幸いである(ときに彼らが呆れるほど脳天気にみえるのはそのせいだろうか)。

1957年には、(あくまでも国の公式のデータにおける)中絶件数の対出生比が70%を超える。十人が産まれるあいだに七人が中絶されるという苛酷な現実。こどもが「できた」数は、団塊の世代も、その後の時代もほとんど変わりはない。むしろ高度経済成長期を迎えるほど、その数は増えている。人は安心してセックスに励み、たくさん子宝にめぐまれたのである。しかし「できた」子の三分の二が中絶されるという現実が日常となる。それが日本の高度成長の正体である。

「経済的理由」をもって中絶することを可能とする法律をいただくことによって、経済効率至上主義は家庭においても徹底されることになる。今の生活の自己都合の前に、都合の悪いこどもの未来が葬り去られるのが当たり前となる。人のいのちよりも経済を優先するという「人間以下」の選択に国レベルで甘んじてしまった日本人は、押しも押され「エコノミックアニマル」となる。

中絶件数そのものは減っているとはいえ、われわれはいまだに戦後の中絶ブーマーを終わらせることができない。中絶ブームを引き起こしてしまった不幸なマインドセットから抜け出せないでいる。

もし、この狂気の沙汰を生んだ法律がなかったなら、団塊の世代の当時のまま国の公式データにおいては中絶という項目が存在しないままだったら、単純計算で現在の日本の人口は二億人になっている。人口減少による国の存亡の危機など、ゆめゆめ考えるに及ばなかったのだ。(つづく)



「反・ベビー運動」の行き着くところ

2018年09月09日 | プロライフ
「反・ベビー運動」の行き着くところから転載

●世界に先がけた中絶合法化。人道も産児制限の文脈も大きく逸脱した日本の狂気の沙汰のフライングは、人命と人権の尊重に向けて動き出した国際社会にとって驚天動地の出来事だった。

●日本医師会の会長、武見太郎は、優生学的見地にもとづく中絶の必要性は否定しなかったが、優生保護の名目とは無関係な「経済的理由」による中絶には終始反対の立場だったという。

●武見はこう述べている。「優生保護法問題について、第十四条一項四号にいう「経済的理由」は直ちに削除すべし。一方これに最も反対していた団体は、日本母性保護医協会だった。」武見は、安易な中絶を”利権”としてしまった日本母性保護医協会(現在の産婦人科医会)の姿勢を痛烈に批判している。合法化によって、”中絶の産業化”が一気にすすむ。

●1949年以降、国の統計データをもってしても今日まで累計で9,000万件の中絶がおこなわれていることになる(実数はずっともっと多い)。もしこれだけの犠牲がなかったなら、当時の人口問題の専門家たちの予測どおり、日本は食糧難に陥ったのだろうか?人間以下の生活水準に甘んじることになったのだろうか?生活空間を求めて再び戦争に走ったのだろうか? 答えはノーである。

●1948年の悲観的予測はことごとく外れた。
もし、日本人が空腹であれば、それは食べるものが不足しているからでなく、ダイエットをしているから。
アメリカ人からの施しを受けて生きているのではなく、日本人は余剰工業生産物をアメリカに輸出している。
人口過剰の日本から日本人が外国に移民するのではなく、もうかる仕事を求めて日本に不法入国する外国人は後を絶たない。
人口の専門家が、独善的な専門知識をもって予測したすべてのことは、はずれた。
いわゆる専門家といわれる人たちが日本の実情について無知であったことは明らかだ。

●1948年に反・ベビー運動が回し始めた世論の不器用なはずみ車は、今に至るまで回り続け、止まるところを知らぬ破壊行為を続けている。日本人の赤ちゃんに対する態度は頑固。
子供なんて要らない。
何で結婚しなきゃいけないの。
若い母親たちは第二子に、もう拒否反応を示す。

●日本は急速に国全体が老人ホームになりつつある。これは若い世代にとっては、特に喜ばしいことではない。人口学的年齢構造は、ちょうどエジプトのピラミッドをひっくり返したかのようになる。つまり、若い人たちの狭い底辺が、高年齢層の広い上辺に押しつぶされるような状態になる。

●かつて、産むはずの人数の子供を産まなかった親たちが、今、人数が少なすぎる若年層におんぶしてもらうことを期待するのは、公平であるといえない。

●戦後の動乱期の一時的な緊急避難はいつまでつづくのだろうか。緊急避難を余儀なくされる”被災者”はいつ解放されるのだろうか。合法のタテマエのもとにおこなわれる中絶という究極の搾取の苦しみから。


「反・ベビー運動」の行き着くところ


2014/06/20 17:55

note for life(4)

世界に先がけた中絶合法化。人道も産児制限の文脈も大きく逸脱した日本の狂気の沙汰のフライングは、人命と人権の尊重に向けて動き出した国際社会にとって驚天動地の出来事だった。日本に殺人を正当化する法律ができたと世界は驚きの声をあげた。一方、それもこれも敗戦直後の混乱期ゆえの過渡的な措置だろう、と大目に見られた節もあったようだ。

「この法律が成立した頃は、物質の欠乏と戦後の道徳の混乱期でございましたので、私どもは一時的な緊急避難として国会を通過したと理解しておりました」と当時を振り返るのは、日本医師会の”ドンとして長く会長の座に君臨した武見太郎である。医師会にアンタッチャブルな権力を集中させたドン武見の、優生保護法をめぐる証言は興味深い。一般的には医師会こそ最大の中絶支持勢力と見られているからである。

武見医師会は、優生学的見地にもとづく中絶の必要性は否定しなかったが、優生保護の名目とは無関係な「経済的理由」による中絶には終始反対の立場だったという。1970年代に優生保護法改正論議が盛んになったとき、カトリックや成長の家など宗教界が求めたのが、まさしくこの「経済的理由」の削除だった。その当時、宗教界と医師会は対立関係にあるかのようにみられていたが、実は主張は同じだったのである。

武見は会長職を退任した後に、こう述べている(日本教文社刊『胎児は人間でないのか』より)。

私は、日本医師会会長在任中の二十五年のうち二十年間というものは、優生保護法問題と関係をもっておりました。この間優生保護法問題についての私どもの主張は、一貫して第十四条一項四号にいう「経済的理由」は直ちに削除すべしということでございました。一方これに最も反対しておりました団体は、日本母性保護医協会でございました。と申しますのは、この団体は、そもそも産婦人科医である谷口弥三郎参議院議員の選挙母体として結成されたのでございますが、この団体の政策として打ち出され、議員提案で昭和二十三年に国会を通過したのが、優生保護法であるからでございます。

加藤シズエと並んで、優生保護法成立のために徒党を組んだ国会議員“四人組”の一人が、谷口弥三郎である。ここで武見は、谷口の選挙母体として安易な中絶を”利権”としてしまった日本母性保護医協会(現在の産婦人科医会)の姿勢を痛烈に批判しているのである。

さらには“四人組”のもう一人、衆議院の太田典礼も産婦人科医だった。太田は、”太田式リンク”の開発者である。これは、女性の膣内に埋め込まれ、受精卵の着床を妨げる”中絶器具”であり、戦前は販売が禁止されていた。晴れて中絶合法化を達成することで、太田はその販売利権に与ることになっただろう。合法化によって、”中絶の産業化”が一気にすすむ。

1949年以降、国の統計データをもってしても今日まで累計で9,000万件の中絶がおこなわれていることになる(実数はずっともっと多い)。もしこれだけの犠牲がなかったなら、当時の人口問題の専門家たちの予測どおり、日本は食糧難に陥ったのだろうか?人間以下の生活水準に甘んじることになったのだろうか?生活空間を求めて再び戦争に走ったのだろうか? ジンマーマン神父の回答を待つまでもなく、答えはノーである。

1948年の悲観的予測はことごとく外れてしまいました。もし、日本人が空腹であれば、それは食べるものが不足しているからでなく、ダイエットをしているからです。アメリカ人からの施しを受けて生きているのではなく、日本人は余剰工業生産物をアメリカに輸出しています。人口過剰の日本から日本人が外国に移民するのではなく、もうかる仕事を求めて日本に不法入国する外国人は後を絶ちません。(…)人口の専門家が、独善的な専門知識をもって予測したすべてのことは、はずれました。いわゆる専門家といわれる人たちが日本の実情について無知であったことは明らかです。

「アメリカに輸出」していたものといえば、中絶もそのひとつである。そして、ある意味、中絶にからむ「不法入国」もあったようである。アメリカが中絶を合法化するのは1973年だが、まだ中絶が違法だった60年代に、アメリカ人女性たちの間で日本への”中絶ツアー”がブームになっていたという。

「日本の外国系の病院には、中絶の問い合わせが後をたたない」と証言するのは写真家の剣持加津夫である。剣持は1960年代前半に、中絶される胎児を写真に収めながら中絶の恐ろしさ、虚しさを告発するフォトジャーナリストとして活躍した。”中絶ツアー”の実態も彼が現場で出くわしたスクープである。当時、アメリカではヤミ中絶の基本相場が千ドル(36万円)と言われていた。剣持の皮算用はブラックすぎて笑えない。

向こうのご婦人は、自国で払ったつもりで日本に飛行機で飛び、手術をしたあげくに真珠のネックレスぐらいはおみやげに買うことができる勘定であろう。(剣持加津夫『消えゆく胎児との対話』読売新聞社刊より)

ご婦人がたの“中絶天国”日本への“憧れ”が、自国での中絶合法化への情熱に拍車をかけたのではなかったか。中絶を担保に高度成長を遂げた日本に、ご婦人がたの亭主たちだって”憧れ”を抱いたかもしれない。アメリカは日本に追随した。ヨーロッパ各国もそれにつづいた。優生保護法は世界を変えた。歴史を動かした日本オリジナルの立法を他に知らない。

策士とメディアに踊らされ、人々が浮き足立つ中で世界史上に残る悪法を成立させてしまった戦後の日本の悲しい状況をつぶさに見届けてきたジンマーマン神父。人口減による国の破綻が間近に迫る今日のさらに輪をかけて悲しい状況が、元をたどれば1948年7月13日に遡ることに、ボタンの掛け違いはそこから始まっていることに忸怩たる思いを抱きつづけたことだろう。

1948年に反・ベビー運動が回し始めた世論の不器用なはずみ車は、今に至るまで回り続け、止まるところを知らぬ破壊行為を続けています。日本人の赤ちゃんに対する態度は頑固です。子供なんて要らない。何で結婚しなきゃいけないの。夫はもう一人子供が欲しいのに、医者は一人より二人の方がいいと勧めているのに、若い母親たちは第二子に、もう拒否反応を示します。

いまだにわたしたちは、ジンマーマン神父の言う1948年に始まった「反・ベビー運動」の影響下にある。この「はずみ車」の回転を止めない限り、この社会に未来はない。

日本は急速に国全体が老人ホームになりつつあります。これは若い世代にとっては、特に喜ばしいことではありません。人口学的年齢構造は、ちょうどエジプトのピラミッドをひっくり返したかのようになります。つまり、若い人たちの狭い底辺が、高年齢層の広い上辺に押しつぶされるような状態になります。かつて、産むはずの人数の子供を産まなかった親たちが、今、人数が少なすぎる若年層におんぶしてもらうことを期待するのは、公平であるといえません。

ジンマーマン神父が警鐘を鳴らした当時からもう二十年がたっている。状況はますます深刻になりこそすれ、好転する兆しはみえない。中絶という言葉を出すだけで、多くの大人たちは臑の古傷が疼くだろう。だが、その傷と向き合ってそれを乗り越えることを考えない限り、この社会に未来はない。

最後に武見太郎の言葉を借りる。

ところが、(戦後の動乱期に一時的な緊急避難として国会を通過したと理解していた)その法律が今日に至るまで放置されております。ここに今日優生保護法の問題が起こっておる最大の問題があると思うのであります。

まったく同感である。「放置」は、そこからさらに三十年がたっている。戦後の動乱期の一時的な緊急避難はいつまでつづくのだろうか。緊急避難を余儀なくされる”被災者”はいつ解放されるのだろうか。合法のタテマエのもとにおこなわれる中絶という究極の搾取の苦しみから。(つづく)


「急進的な産児制限」の導入

2018年09月07日 | プロライフ

「急進的な産児制限」の導入から転載

●「急進的な産児制限」は、第十四条に定められた、特定の医師に認可される「人工妊娠中絶」によって実現する。「人口削減」を目的とした中絶の導入である。”子どもが邪魔になる”ことを前提とした”間引き”の合法化である。今でもこの法の骨子と法の精神は生きている。

●優生保護法とは、戦前の国民優生法の流れを汲んだ、遺伝的疾患の「断種」を主たる目的とした法律だった。その手段として不妊手術だけでなく、人工妊娠中絶の導入が画策された。1948年7月13日に成立したこの法律は、それ以上にもっと不可解で不愉快な内容をともなっていた。

●第十三条において中絶が認められる場合として、いわゆる「強姦による妊娠」という極限状況に加え、以下の二つの規定が設けられた。
「分娩後一年以内の期間に更に妊娠」した場合、
「現に数人の子を有している者が更に妊娠」した場合がそれである。
つまるところ、「年子」と「三人目」は堕ろせ(る)、とされたのだ。

●あえて(る)と括弧に入れたのは、善良な市民にとってこの規定は、ほとんど(る)が消え、命令形として受け止められるに等しい性質の法制化だったからである。

●世界に先がけた日本の中絶合法化は、女性の権利とか個人の自由とかの問題ではなく、あくまでも人口削減のための奨励策だった。

●この規定が法律の文面から消えた後も、このときのマインドセットは社会から消えてなくならない。今でも妊娠した多くの女性に、年子と三人目の壁が立ちはだかる。

●年子と上に二人以上兄姉のいる人の背筋を凍らせるこの規定は、施行後すぐさま改正論議を呼ぶ。年子と三人目だけでは人口削減が進まないとばかりに、こんどは一人目の子でも二年ぶりの子でも、あらゆる都合の悪い子どもを標的にする。

●1949年6月24日、優生保護法最初の大改正。年子と三人目はターゲットでなくなり、中絶を認める規定は「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母胎の健康を著しく害する恐れのある場合」の一文にまとめられた。この「経済的理由」こそ正に打ち出の小槌である。もはや年子でなくても一人目でも、事実上理由なくあらゆる中絶が認められることになった。同時に、産まれる前の子どものいのちはもれなく、「経済的理由」という名の親たちの現在の都合と天秤にかけられることになった。

●ジンマーマン神父の証言によれば「ほとんどの家庭で日常茶飯事として人工妊娠中絶が行われる」ようになり、「家族計画の約三分の二は人工避妊でなく人工妊娠中絶によって達成」されることになる。

●「人口爆発」を唱える得体の知れないアメリカの専門家たちと日本のプロパガンダマスコミをつなぐ仕掛け人がいた。戦後初の女性議員となり、後には東京都名誉都民となった加藤シズエ衆議院議員である。優生保護法を立案した四人の国会議員の一人だが、加藤は戦前にアメリカ留学の経験があり、そこで女性運動の草分けであるマーガレット・サンガーと出会っている。

●サンガーは有色人種の切捨てを本気で主張した人種差別主義者で、ナチスにも影響を与えたと言われるほどの過激な優生思想の持ち主だった。たしかにサンガーが家族計画の普及を目的に創設した団体Planned Parenthoodは、今日ではオバマ大統領が全面的に支援する全米最大手の中絶クリニックチェーンへと成長を遂げている。しかしサンガー自身が中絶をよしとすることは生涯なかった。中絶を産児制限の手段と認めることはなかった。Planned Parenthoodが中絶事業に乗り出すのは、創設者の没後、1970年代以降のことだ。人を人とも思わない冷淡なレイシストではあっても、サンガーは中絶に関してはシロである。



「急進的な産児制限」の導入
「急進的な産児制限」の目論見は、この法律の十四条に定められた、特定の医師に認可される「人工妊娠中絶」によっていとも簡単に実現するところとなった。「人口削減」を目的とした中絶の導入である。”子どもが邪魔になる”ことを前提とした”間引き”の合法化である。今ならこんな趣旨の法の成立などありえないだろうが、今でもこの法の骨子と法の精神は生きている。

そもそも優生保護法とは、戦前の国民優生法の流れを汲んだ、遺伝的疾患の「断種」を主たる目的とした法律だった。その手段として不妊手術だけでなく、人工妊娠中絶の導入が画策されたのである。「断種」とはまたその言葉からして気が滅入る。遺伝学が未発達の時代だったとはいえ、優生思想の具現化などもってのほかである。しかし、1948年7月13日に成立したこの法律は、それ以上にもっと不可解で不愉快な内容をともなっていた。

優生保護の観点から中絶が認められる具体的な疾患が規定されたのだが、それ以外にも、十三条において中絶が認められる場合として、いわゆる「強姦による妊娠」という極限状況に加え、とってつけたように以下の二つの規定が設けられた。

「分娩後一年以内の期間に更に妊娠」した場合、および「現に数人の子を有している者が更に妊娠」した場合がそれである。

つまるところ、「年子」と「三人目」は堕ろせ(る)、とされたのだ。

世界に先がけた日本の中絶法バージョン1は、あろうことか、生々しいほど具体的に年子と三人目(以降)を標的にしたのである。

あえて、(る)と括弧に入れたのは、善良な市民にとってこの規定は、ほとんど(る)が消え、命令形として受け止められるに等しい性質の法制化だったからである。世界に先がけた日本の中絶合法化は、女性の権利とか個人の自由とかの問題ではなく、あくまでも人口削減のための奨励策だったことを見落としてはならない。ジンマーマン神父の記述にある、三人目の赤ちゃんに向けられた敵意は“合法的に”醸し出された世間の目だったのだ。

この規定が法律の文面から消えた後も、このときのマインドセットは社会から消えてなくならない。今でも妊娠した多くの女性に、年子と三人目の壁が立ちはだかる。結婚している夫婦であっても、年子は世間体が悪いから堕ろすようにと親親戚から圧力がかかるといった話は珍しくない。また先日の西日本新聞の記事に、三人目が産めなくて後悔する母親がリアルに登場する。

年子と上に二人以上兄姉のいる人の背筋を凍らせるこの規定は、施行後すぐさま改正論議を呼ぶ。ただしくは”改正”ではなく、”改悪”に向けて。中絶推進派の攻勢は止まらない。年子と三人目だけでは人口削減が進まないとばかりに、こんどは一人目の子でも二年ぶりの子でも、あらゆる都合の悪い子どもを標的にする。

1949年5月、朝日新聞に「解決迫られる人口問題」と題した座談会の抄録が掲載された。ここで中絶推進派の急先鋒・林 髞(たかし)は「現在の人口を四割減らすのが急務だ」とし、あわせて「社会の浄化」のために「妊娠しても堕ろすことが出来るなら、二十年後には大体パンパンガールの八十%、ヨタ者、やくざの八十%が減ると見込んでいる」と堂々と持論を述べている。

目を疑いたくなるこんなトンデモ発言が大新聞の活字になるのである。今なら林(当時慶応大学の大脳生理学の教授)が公職追放になるのはおろか、林を後押しする姿勢をみせた朝日新聞は発行禁止だろう。ところがトンデモどころか、林の主張の方向に世論は動かされ、同年、優生保護法は中絶推進派の思惑どおりのバージョンアップに成功する。

1949年6月24日、優生保護法最初の大改正。年子と三人目はターゲットでなくなり、中絶を認める規定は「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母胎の健康を著しく害する恐れのある場合」の一文にまとめられた。この「経済的理由」こそ正に打ち出の小槌である。もはや年子でなくても一人目でも、事実上理由なくあらゆる中絶が認められることになった。同時に、産まれる前の子どものいのちはもれなく、「経済的理由」という名の親たちの現在の都合と天秤にかけられることになった。

こうして、ジンマーマン神父の証言によれば「ほとんどの家庭で日常茶飯事として人工妊娠中絶が行われる」ようになり、「家族計画の約三分の二は人工避妊でなく人工妊娠中絶によって達成」されることになる。目論見どおりジェノサイドは遂行されていく。

しかし、ここで、ひとつの大きな疑問に直面する。そもそも産児制限とは、避妊をおこなうことであり、不妊手術という極端な方法まで含む人工避妊の徹底によって実践されるものである(後に世界を席巻する産児調節ピルの危険についてはここでは触れない)。「中絶による産児制限」などという発想は、当時は世界の誰も想像すらできないことだった。“産児制限の母”と称された、かのマーガレット・サンガーでさえも。

「人口爆発」を唱える得体の知れないアメリカの専門家たちと日本のプロパガンダマスコミをつなぐ仕掛け人がいた。戦後初の女性議員となり、後には東京都名誉都民となった加藤シズエ衆議院議員である。優生保護法を立案した四人の国会議員の一人だが、加藤は戦前にアメリカ留学の経験があり、そこで女性運動の草分けであるマーガレット・サンガーと出会っている。

サンガーに傾倒していた加藤は、その来日の手引きもしながら、サンガーを時の人に仕立てあげる。今で言えばマザー・テレサと同じくらいマーガレット・サンガーは日本で有名人となる(両者の言動が水と油ほど違っているとしても)。小学生たちは産児制限という言葉とセットで「サンガー女史」という名前も諳んじた。加藤の思惑どおり、日本はサンガーの思想を国の法律として実践する世界で最初の国となったのである。

サンガーは有色人種の切捨てを本気で主張した人種差別主義者で、ナチスにも影響を与えたと言われるほどの過激な優生思想の持ち主だった。たしかにサンガーが家族計画の普及を目的に創設した団体Planned Parenthoodは、今日ではオバマ大統領が全面的に支援する全米最大手の中絶クリニックチェーンへと成長を遂げている。しかしサンガー自身が中絶をよしとすることは生涯なかった。中絶を産児制限の手段と認めることはなかったのである。

Planned Parenthoodが中絶事業に乗り出すのは、創設者の没後、1970年代以降のことだ。人を人とも思わない冷淡なレイシストではあっても、サンガーは中絶に関してはシロである。

サンガー=産児制限=中絶=人口削減の達成

しかしながら当のサンガーも与り知らぬところで、日本で産児制限と中絶がつながれてしまう。でっちあげである。国民はだまされたのである。加藤シズエのPRの才能は、電通もひれ伏すほどだったかもしれないが、事実関係の検証もないままこれを喧伝したマスコミの責任は大きい。

日本は、戦後の混乱期のどさくさに乗じて、まんまと中絶を産児制限の方法として合法化するという離れ業をやってのけた。かつてソ連で女性を労働力として確保するために中絶を合法とする時代があったものの、スターリンの時代になると禁止される。第二次世界大戦終了時点において、主要国で中絶を合法としていた国はない。(つづく)

激しいレイプの末に妊娠した12歳の少女。 中絶を選ばなかった彼女が得たもの。

2018年09月06日 | プロライフ
激しいレイプの末に妊娠した12歳の少女。 中絶を選ばなかった彼女が得たもの。からの転載

●リアナ・レボレドは12歳の時、激しい暴行を受けてレイプされた。

●医師はリアナに中絶は当然の権利であると説得した。「しかし中絶すればあのレイプが忘れられて自分の痛み苦しみを和らげることができるのか?」赤ちゃんのいのちを終わらせることは誰のためにもならない。

●レイプはリアナさんの人生を生き地獄に変えた。どれだけ洗い流そうと必死になっても心の闇をぬぐい去ることはできない。この苦悩から逃れるためには自殺の二文字が浮かぶ。しかし彼女は、自分のことだけを考えていたらダメ、自分のからだの中で芽生えた小さないのちのことを考えなければいけないと思う。

●しかし、今35歳のリアナは、生まれた娘が自分のいのちを救ってくれたことを、あのとき死に物狂いで求めた癒しを与えてくれたことを理解している。「2つのいのちが救われた。私は娘のいのちを救った。娘が私のいのちを救ってくれた。」レイプの後の自分の人生に明確に目的と意味を見出せたのは、もうすぐ大学を卒業する23歳になる娘のおかげだ。「“ママ、いのちをくれてありがとう”って娘が言ったのは4歳だった。そのとき私は確信した。この子が私を再生させてくれたんだって」

●リアナは娘のいない人生を想像もできない。それによって娘を得て愛することができるためならば、もう一度あの屈辱も痛みも苦しみもぜんぶ耐えることができると言う。「その現実(レイプ)がどれだけ絶望をもたらそうと、娘を心から愛するために、それに耐えねばならないのだとしたら、私はもう一度でもその現実を受け入れる」



激しいレイプの末に妊娠した12歳の少女。 中絶を選ばなかった彼女が得たもの。

リアナ・レボレドさんはそのとき12歳。メキシコシティーの家の近くを歩いていると、突然2人組の男にクルマで連れ去られ、激しい暴行を受けてレイプされる。顔がわからなくなるほどの半死の状態で発見されたリアナさん。「ほんとうに恐かった。もう殺されると思った」と当時を振り返る。

事件後、発見されたのは傷ついたリアナさん本人だけではなかった。彼女の中に誕生したひとつの新しいいのちもともに。

医師はリアナさんにレイプの“副産物”を抱え続ける必要はないことを伝える。この先、あの忌まわしい夜の思い出を引きずって生きていかなくていいのだからと。中絶は当然の権利であることを彼女は納得する。

しかしリアナさんは医師に問う。中絶すればあのレイプが忘れられて自分の痛み苦しみを和らげることができるの? 医師が「いいえ」と答えたとき、彼女は悟る。赤ちゃんのいのちを終わらせることは誰のためにもならないことを。

「もし中絶によって何も癒されないんだったら、中絶に意味はないでしょう」と彼女は言う。

「ただ誰かが私のからだの中にいることはたしか。生物学的な父親が何者か知らないし知りたくもないけれど、その子は私の子。私の中で育っている。その子が私を必要としているのはたしかなこと。だから私にとってもその子は大切…それで(養育のために)、仕事を見つけて働かなくちゃと思ったの」

レイプはリアナさんの人生を生き地獄に変えてしまった。どれだけ洗い流そうと必死になっても心の闇をぬぐい去ることはできない。この苦悩から逃れるためには他に方法はないんじゃないかと、12歳の少女の脳裏に自殺の二文字が浮かぶ。しかし彼女は、自分のことだけを考えていたらダメ、自分のからだの中で芽生えた小さないのちのことを考えなければいけないと思うようになる。

今35歳のリアナさんは、娘さんが自分のいのちを救ってくれたことを、あのとき死に物狂いで求めた癒しを娘さんが与えてくれたことをはっきり理解している。

「2つのいのちが救われたの。私は娘のいのちを救った。けれど、娘が私のいのちを救ってくれた」とリアナさん。

レイプの後の自分の人生に明確に目的と意味を見出せたのは、もうすぐ大学を卒業する23歳になる娘のおかげだと。

「幼い子どもが、いのちが与えられていることを幸せだって口にするなんてなかなか考えられないでしょう。でも本当なの。“ママ、いのちをくれてありがとう”って娘が言ったのは4歳だった。そのとき私は確信した。この子が私を再生させてくれたんだって」

「娘はいつもそばにいてくれた。娘は私に本物の愛を教えてくれたかけがえのない人。これからもずっと娘に感謝するわ」とリアナさん。

リアナさんは娘さんのいない人生なんて想像もできないと言う。驚くべきことに彼女は、それによって娘さんを受け入れて愛することができるようになるならば、もう一度あの屈辱も痛みも苦しみもぜんぶ耐えることができると言う。

「その現実(レイプ)がどれだけ絶望をもたらそうと、娘を心から愛するためにはそれに耐えねばならないのだとしたら、私はもう一度でもその現実を受け入れる」

現在ロサンゼルス在住のリアナさんは、レイプされて妊娠した女性を支援するNPOを立ち上げ、どんないのちも愛されるに価するという大切なメッセージを世界に伝えている。

※ソース https://www.lifesitenews.com/news/woman-who-chose-life-after-brutal-rape-at-12-has-no-regrets-says-her-daught



1948年7月13日をめぐる狂想曲

2018年09月05日 | プロライフ

1948年7月13日をめぐる狂想曲からの転載

●1948年7月13日、優生保護法が成立する。世界を唖然とさせた、人工妊娠中絶を認めた法律である。この法律の施行によって「団塊」のベビーブームは終わる。

●日本の戦後とわたしたちの今日を決定づけた「1948年7月13日」をもたらした力学は、アメリカの意思とは無関係に突き進んだ。人口削減の手段として中絶を導入するなどという悪魔的な発想は「鬼畜米英」だって思いもしなかった。世界に先がけて中絶法を成立させ、その後各国の中絶合法化の流れに影響を及ぼした責任は、すべて日本にある。とりわけマスコミの責任は大きい。

●メディアが事実を歪曲し人々を煽りたてる状況は、当時も今日と何ら変わるところはなかった。なかでも毎日新聞が「総力を挙げて日本の赤ちゃん攻撃の先頭に立ち」、戦時中の「生めよ、増やせよ」政策の逆を行くキャンペーンを張った。

●「急進的な産児制限」とはすなわち中絶のことである。それが「政治的に正しい」=ポリティカルコレクトネス(PC)であるという世論をマスコミがでっちあげてしまうのだ。いまだにその恐怖の延長線上にわたしたちの今日があるという事実がさらに恐ろしくて哀しい。新聞、ラジオによる赤ちゃんを攻撃するキャンペーンは目覚ましい成果をあげる。「増やすな、産むな」が、国民を総動員する新しい合言葉となり、世紀の立法へと突き進む。

●1948年、専門家とマスコミが作り上げた紋切り型の見解は、日本は8,000万人以上の人口を養うことができない、それ以上人口が増えると、1)永久に合衆国の食糧援助に頼る、2)永久に人間以下の生活水準に甘んじる、3)生活空間を求めて再び戦争に走る、という三つの選択肢しかない、だった。

●デマが新聞社説等で大まじめに吹聴された当時の世相は戦時中より悲惨ではないか。それまでの交戦国に対する敵意が、今度は自国の赤ちゃんとお母さんに向けられる。予防的見地に基づく「ジェノサイド」を正当化する屁理屈が用意され、それをマスコミが金科玉条のごとくに祭り上げる。日本の日本による日本のためのジェノサイドである。狂気の沙汰と言うほかない。自虐史観という言葉があるが、まさに自虐を実践してしまったのが戦後の日本なのだ。

●当時は小学生でも「産児制限」という言葉は知っているのが当たり前の世の中だった。それ無しには日本に未来は無いと小さな頭にも刷り込まれるほど「プロパガンダ」は徹底していた。

●中絶件数は数年のうちに10倍になり、年間100万を超えるようになる。大量殺戮をもたらした不幸な戦争が終わった後で。平和になったはずの世の中で。




1948年7月13日をめぐる狂想曲

note for life (2)

南山大学の教授職等をつとめ、日本に倫理神学の礎を築いたアントニー・ジンマーマン神父が、宣教師として来日したのが1948年1月のことだった。

その年の7月13日、優生保護法が成立する。世界を唖然とさせた、人工妊娠中絶を認めた法律である。 この法律の施行によって「団塊」のベビーブームは終わる。

「麻痺し、萎縮し、極貧に陥った日本に600万の兵隊と引き揚げ者が海外から帰国してきて、食糧配給の列に加わりました。そして、再会した夫婦が戦後のベビーブームをもたらしたのは当然の成りゆきでした。人口は1945年の7,200万から1948年は8,000万に膨張し、人口学の専門家群が一夜の中に出現し、声を合わせて、人口調節運動の必要を説いたのです」と記すジンマーマン神父は、優生保護法成立前後の当時の日本の混乱状況をもっとも冷静にウォッチできた人物である。その頃の多くの資料が失われている中で、神学者として高い評価を得た外国人宣教師の証言は貴重である。

日本の戦後の人口問題についてジンマーマン神父がのこした論考を追ってみる。

「1948年、日本は人口過剰と産児制限の話で持ちきりでした。ダグラス・マッカーサー元帥が率いる連合軍の司令部は、そのような日本の状態を見極めるために、強力なアメリカ人専門家のチームを動員しました。(…)その中の何人かは公然と日本の経済・社会的生存のためには、産児制限が必要であると主張したものです」とジンマーマン神父も述べているとおり、GHQの政策として優生保護法の導入が図られたとする見方は少なくない。中絶の合法化は、敗戦国日本のさらなる弱体化を意図した戦勝国アメリカによって押し付けられた占領政策であると。

しかしながら占領政策憂国論は的外れだったようである。ジンマーマン神父によれば、マッカーサー元帥は公的には彼らの勧告を採用せず、公開書簡で、彼らの考えが「個人的なものであり、占領軍の権威ある意見とか見解に基づくものではない」と発表したというのだ。

この指摘は極めて重要である。日本の戦後とわたしたちの今日を決定づけた「1948年7月13日」をもたらした力学は、アメリカの意思とは無関係に突き進んだのだ。人口削減の手段として中絶を導入するなどという悪魔的な発想は「鬼畜米英」だって思いもしなかった。世界に先がけて中絶法を成立させ、その後各国の中絶合法化の流れに影響を及ぼした責任は、すべて日本にある。とりわけマスコミの責任は大きいだろう。

しかし、アメリカ人の専門家による報道へのリークは、全国の報道関係者にもてはやされ、結局、アメリカが日本に産児制限政策を採用することを迫っている、ということに、なってしまいました。日本の諸悪は人口過剰によるもので、解決策として急進的な産児制限を主張することが政治的に正しいと、多くの人が考えるようになりました。

ジンマーマン神父が描く報道関係者の暴走は、とても60年以上も昔の話とは思えない。メディアが事実を歪曲し人々を煽りたてる状況は、当時も今日と何ら変わるところはなかったということだ。なかでも毎日新聞が「総力を挙げて日本の赤ちゃん攻撃の先頭に立ち」、戦時中の「生めよ、増やせよ」政策の逆を行くキャンペーンを張ったのだという。

「急進的な産児制限」とはすなわち中絶のことである。それが「政治的に正しい」=ポリティカルコレクトネス(PC)であるという世論をマスコミがでっちあげてしまうのだ。なんと恐ろしい。いや、いまだにその恐怖の延長線上にわたしたちの今日があるという事実がさらに恐ろしくて哀しい。

新聞、ラジオによる赤ちゃんを攻撃するキャンペーンは目覚ましい成果をあげる。「増やすな、産むな」が、国民を総動員する新しい合言葉となり、世紀の立法へと突き進む。

1948年、専門家とマスコミが作り上げた紋切り型の見解は、日本は8,000万人以上の人口を養うことができない、それ以上人口が増えると、1)永久に合衆国の食糧援助に頼る、2)永久に人間以下の生活水準に甘んじる、3)生活空間を求めて再び戦争に走る、という三つの選択肢しかない、というものでした。

この外国人宣教師の明快な分析に誰か反論できるだろうか。これが本当なら、国の弱体化ひいては破滅に向かう道を日本は自ら選び取ったのかと呆れるしかない。こんなデマが新聞社説等で大まじめに吹聴された当時の世相は戦時中より悲惨ではないか。それまでの交戦国に対する敵意が、今度は自国の赤ちゃんとお母さんに向けられる。

予防的見地(?)に基づく「ジェノサイド」を正当化する屁理屈が用意され、それをマスコミが金科玉条のごとくに祭り上げる。日本の日本による日本のためのジェノサイドである。狂気の沙汰と言うほかない。自虐史観という言葉があるが、まさに自虐を実践してしまったのが戦後の日本なのだ。

ジンマーマン神父の述懐において、日本が集団ヒステリー状態に陥った当時の様子を生々しく伝える描写がつづく。

人口減を提唱するプロパガンダは、ちょうど日本上空を吹き荒れる台風のように、手が付けられなくなっていました。北海道北端の稚内から、九州南端の鹿児島に至る日本の隅から隅まで、産児制限の方法が教えられるようになりました。劇場ではそのやり方を教える映画が上映され、PTAでもその件で話し合いがなされ、新聞も毎日、関連記事を書き立てるという時代でした。

小さないのちを守る会の辻岡健象代表によれば、当時は小学生でも「産児制限」という言葉は知っているのが当たり前の世の中だったという。それ無しには日本に未来は無いと小さな頭にも刷り込まれるほど「プロパガンダ」は徹底していたのだ。

1948年7月13日に優生保護法は成立するが、その後のさらなる混乱状況について、ジンマーマン神父は次のようにリアルに記す。悪夢が現実になった。

約8,000人の産婦人科医が、人工妊娠中絶手術を施す資格を得るために、所定の課程を終了しましたが、これは正に打ち出の小槌でした。助産婦は赤ちゃん減少の影響をもろに受け、時には縄張まで定めて、コンドームを売って収入を補ったものです。

産ませることが仕事の助産師が産ませないために奔走するとは世も末である。法律の施行と同時にジェノサイド計画は進行する。中絶件数は数年のうちに10倍になり、年間100万を超えるようになる。大量殺戮をもたらした不幸な戦争が終わった後で。平和になったはずの世の中で。

子供を少なく産むことこそ社会に対する義務であると、母親たちが考えるほどでした。「政府の指示に従わないで、恥知らずにも次から次に子供を産む」人並みでない女性は、すぐに悪口を言われました。住まいも、一律に二子家庭がやっと入れるように小さく作られるようになりました。隣に三人目の赤ちゃんの泣き声が聞こえようものなら、隣人たちはお祝いの喜びではなく、敵意をむき出しにしたものです。

三人目の赤ちゃんが敵視されるのは必然だった。最初に成立した優生保護法は、まさしく「三人目」を標的にしたからである。(つづく)

★アントニー・ジンマーマン神父の引用はその論考「過熱した日本の人口調節」より。Originally an article in Social Justice Review 126, July/August 1994. Translated with permission from the same Institute and the author by Fr. John A. Nariai, Humanae Vitae Research Institute, Japan