ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

【再掲】もし、私が胎児だったら?

2021年07月18日 | プロライフ
このブログを開いてくださった、みなさま、どうか真実を知ってください。
そしてかわいそうな胎児のために、手を声をあげてください。

プロライフ(中絶反対派)

この動画の前半は、胎児が成長していく奇跡の連続を見ることができます
受胎から出産にいたるまで、天主の介在を信ぜずにはいられないでしょう
以下は大体の日本語訳です
【前半】
11週になると、胎児は笑ったり、しかめっ面をするようになります、指やつま先をぴくぴく動かしたり、
自分の親指を吸ったりします
胎児は母胎の中で、1時間に50回以上も動くのです
13週になると耳が聞こえるようになり、振動も感じることができます
お母さんの心臓の鼓動を心地よく聞いているのです
超音波で胎児からREM波を感知できることから、眠って夢を見ていることがわかります
出産のまえなのに!
妊娠6か月になると、胎児はほとんどが発達しています
完全に成長した赤ちゃんと同じように機能しているのです
そして38週~42週で、胎児は生まれてきます
聖書が教えているごとくに、「天主はいのちの創造主である」
「わたしは、母の胎内に宿る前から おまえを知っていた。・・・」(エレミア1:5)
天主は全てのいのちのために計画を持っておられるのです
「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。 わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。」(詩編136:19)
赤ちゃんたちは、天主様から祝福されています
「見よ、子供たちは天主から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。」(詩編127:3)
いのちを選択してください!

【後半】
2002年にアメリカでは、
1,082人の子供たちが暴行されて死亡しました
2,347人の子供たちが交通事故で死亡しました
32,867人の子供たちが病気で死亡しました
1,310,000人の子供たちが合法的中絶により死亡しました
130万人です!
毎日毎日、毎週毎週、毎年毎年、
罪のない胎児が、無菌のクリニックのドアの向こうで、静かに、殺されています
誰も気にしないように見えます
でもここで無知による無関心は終了です
ここで知ったことへの責任が生じます
心の準備をしてください
これが中絶が胎児にしていることなのです

↑動画の4:53からは【閲覧注意】となりますが、これこそが人工妊娠中絶の真実です


The Silent Scream(沈黙の叫び)

「ナンバー・ワン」とは、何の隠語かご存知ですか?
妊娠11週では子宮頸部は狭いために、胎児は子宮の中で切り刻んで、子宮から引きずりだされるのですが、罪悪感からか、胎児の体のもっとも大きなある部分のことを「ナンバー・ワン」と隠語で呼ぶのです。


「人工妊娠中絶とは?」ー真実を知る重みー

動画の8:20からは、12週の胎児がお母さんの胎内で遊んでいるエコー動画が見れます

中絶した胎児は、移植や難病の治療薬のために利用されることもありますが、12週未満の大部分の中絶胎児は医療廃棄物(感染性廃棄物)として廃棄されます。一方で、12週以上の死胎は、墓地埋葬法に規定する「死体」として火葬・埋葬すべきことが定められています。このために11週までに多くの中絶が行われているのです

****************************


想像してみてください。
もしあなたが、巨大なギザギザのハサミで、生きながらにして、足、お腹、手、首を引きちぎられ、切り刻まれて、最後には頭も潰されるか、半分に切られるとしたら?なぜなら、時が満ちていないので、母親の体は狭くなっていて取り出せないのです。
たったひとりにさえ残酷すぎるこの行為は、これまでに全世界で億を超える胎児に行われ続けています。
これらのあまりにも多くの叫びが、天主の復讐を呼ばないはずはありません。

ファチマの聖母マリア様、赤ちゃんに対するあまりにも残酷なこの行為を終わらせて下さい!
最も信じていたはずのお母さんの胎内で、お母さんに助けを呼んで、子宮の壁にしがみついて、必死に逃げようとしている赤ちゃんを助けてください!
ファチマの聖母マリア様、人類をあわれんでください!









March for Life 2021 : July 22nd in Tokyo , July 23rd in Osaka

2021年07月17日 | マーチフォーライフ


▶▶▶March for Life in Tokyo : on Thursday July 22nd, 2021 "Marine Day" at 4 PM

The march is about 3km from Tokiwa Park (Nihonbashi) up to Hibiya Park

Assembly at Tokiwa Park in Nihonbashi
Location for Assembly : 4-4-3 Nihonbashi Hongokucho, Chuo-ku, Tokyo
Googlemap: https://www.google.com/maps/place/Tokiwa+Park/@35.6884179,139.7682742,17z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x48f2e48b4319f946!8m2!3d35.6881129!4d139.7699694

[Access]
* 4 minutes walk from Shin-Nihonbashi Station on the JR Sobu Line
* 4 minutes walk from Mitsukoshimae Station on the Tokyo Metro Hanzomon Line
* 5 minutes walk from Otemachi Station on the Tokyo Metro Line
* 4 minutes walk from Kanda Station on JR Yamanote Line, Keihin Tohoku Line and Chuo Line.
* 4 minutes walk from Kanda Station on Tokyo Metro Ginza Line

March starts at at 4 p.m.
Distance of walk : approximately 3 km
Place of dismissal : Hibiya Park


▶▶▶March for Life in Osaka on Friday July 23rd, 2021, "Sports Day"

The march is about 4 km from Osaka City Hall up to Namba along Midosuji Avenue

Location: Osaka City Hall, 1-3-20, Nakanoshima, Kita-ku, Osaka City
Assembly : Nakanoshima Park next to Osaka City Hall at 2:30 PM

[Access] Beside Yodoyabashi Station on the Osaka Metro Midosuji Line/Keihan Railway's Keihan Main Line (Exit No.1) or
Beside Oebashi Station on the Nakanoshima Line of the Keihan Railway (Exit 6)

March starts at 3:00 PM from Osaka City Hall
Distance of walk : approximately 4 km
Place of dismissal : Namba (after Takashimaya Department store)

Save the human life before birth!
There is something you can do.
Walk with us and with Our Lady of Fatima!
Thank you!




命のための行進:マーチフォーライフ[2021]は、7/22(木)東京と、7/23(金)大阪で開催です!

2021年07月17日 | マーチフォーライフ
今年2021年も、東京と大阪でマーチフォーライフが開催されます。



いのちのための行進:マーチフォーライフ
[マーチフォーライフ東京]・・・7月22日(木) ”産み”の日 午後4時 日本橋常盤公園に集合
日本橋常盤公園 → 日比谷公園までの3㎞ほどを行進します

【所在地】東京都中央区日本橋本石町4-4-3
【アクセス】●JR総武線 新日本橋駅 徒歩4分
●東京メトロ 半蔵門線 三越前駅 徒歩4分
●東京メトロ各線 大手町駅 徒歩5分
●JR山手線・京浜東北線・中央線 神田駅 徒歩4分
●東京メトロ銀座線 神田駅 徒歩4分


[マーチフォーライフ大阪]・・・7月23日(金) スポーツの日 午後2時半に大阪市役所となり中の島公園女神像まえに集合
午後3時に大阪市役所まえを出発 → 難波までの約4㎞、御堂筋を行進します

【所在地】大阪市北区中之島1-3-20
【アクセス】●Osaka Metro 御堂筋線・京阪電車京阪本線「淀屋橋」駅下車すぐ(1番出口)
●京阪電車中之島線「大江橋」駅下車すぐ(6番出口)


あなたに、できることがあります。
生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、ファチマの聖母といっしょに歩いてください!


Silent Scream~沈黙の叫び」という短編映画があります。
妊娠11週の胎児が中絶される様子を超音波映像で撮影したドキュメンタリーです。
お腹の赤ちゃんは明らかに逃げまどいます。まるで恐怖の叫び声をあげるかのように・・・。
世界に先駆けて中絶法を制定した日本は「堕胎天国」と揶揄されてきましたが、それは今も変わりません。
実際の中絶件数は、公的報告件数の5倍あると言われています。
天主の創られた生命を、誰も中絶することはできません。
何千万という罪のない子どもたちの母の胎内での虐殺は天に向かって復讐を叫ぶ罪です。
私たちカトリック信者は、堕胎(人工妊娠中絶)に協力することはできません。
人工妊娠中絶を選択できることは、個人の基本的人権では絶対にありません。 堕胎(=中絶)によって、残念ながら、日本は日本のもっとも大切な自分の国民に対して戦争を行っています。
統計によると、日本では67年間の間に3,846万人の赤ちゃんが堕胎(=中絶)されました。
『一九九五年八月十五日に』(朝日新聞社文庫)によると、日本の戦死者は軍人と民間人を合わせて、310万人でした。
日本では、「戦後」、第二次世界大戦の12倍の殺害を、自国民にする戦争を始めてしまいました!
ファチマの聖母マリア様、赤ちゃんに対するこの世界最大の戦争を終わらせて下さい!

マーチフォーライフとは?

1973年に、アメリカは全州にわたってABORTION=人工妊娠中絶が合法になりました。この判決に疑問を抱いた市民が立ち上がり、翌年から「March for Life=マーチフォーライフ」が始まりました。判決のあった日にワシントンDCに集まる参加者の数が年々増えつづけるとともに、すべてのいのちを守る「Pro-Life=プロライフ」の価値観が草の根でアメリカ全土に浸透していきました。ワシントンDCの50万人デモ行進の影響は世界に及び、いまや各国で、中絶法を変えよう、産まれる前のいのちとお母さんを守ろうと訴えるマーチがおこなわれています。今年 2021年にアメリカは48回目
1948年、アメリカの中絶合法の25年前に、日本は世界に先駆けて中絶を合法化しました。この優生保護法が施行されてわずか4年間で中絶件数は10倍になり、年間の出生数に迫る数の中絶がおこなわれるようになりました。 2014年7月13日。日曜日の午後、国会をめざして日本で初めてのマーチがスタートを切りました。 わずか30名の有志による小さな小さな一歩ですが、とても勇気のある愛にあふれる一歩でした。それから毎年、7月の第二日曜日は、日本のマーチフォーライフ〜いのちのためのデモ行進の日になりました。 2021年に日本では8回目となります。

女性も男性も、大人も子どももいます。“中絶やめよう” プラカード代わりのうちわを掲げますが、声はあげません。産まれる前の赤ちゃんが声をあげられないように、マーチ参加者も静かに、でも、満面の笑顔で歩きます。お腹の赤ちゃんが、声はあげられなくても生きていることそれ自体を喜んでいるように。声なき行進は、祈りの行進でもあります。
さあ、あなたもファチマの聖母と一緒に、歩いてください!

ファチマの聖母のご出現から、2017年は100年目でした。 ファチマの聖母は、私たちに本当の平和を与えようとしておられます。
まず霊魂たちの天主との平和、そして、世界の平和です。
シスター・ルチアが1957年に言ったとされる、「ロザリオ」と「汚れ無き御心への信心」は、天主が人類に与え給うた、残された最後の2つの治療薬です。もしも私たちが、本当に平和を希求しているのなら、私たちは「聖母の汚れなき御心」に向かわなければなりません。これは絶対に必要な条件です。





『胎児も立派な人間です』 1.生物学的証拠 2.医学的証拠
『胎児も立派な人間です』 3.心理学的証拠

ファリサイ人になるかならないか?「反省入門」キリスト信徒が実践すべきこと、してはならないこと

2021年07月08日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「2020年8月9日聖霊降臨後第10主日」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ビルコック神父様によるお説教 2020年8月9日聖霊降臨後第10主日


ビルコック神父様によるお説教
2020年8月9日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

ファリサイ人になるかならないか?「反省入門」キリスト信徒が実践すべきこと、してはならないこと(ルカ、18、9-14)

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆様、本日の福音書において、我らの主、イエズス・キリストは、毎日、寝る前、天主の前に我々が行う反省を具体的にどうすればよいか教えておられます。

特に、福音書の中に登場するファリサイ人の欠点と短所をイエズス・キリストは強調します。これらを見ていきましょう。
福音書の構成を見ると、ファリサイ人についての部分は比較的長い一方、税吏についての部分は比較的短いです。つまり、我らの主は今日、何をやってはならないかを示してくださいます。

ファリサイ人は最初、何をするでしょうか?まず、自分を他人と比べます。「天主よ、私は他の人のような者ではなくあなたに感謝いたします」とファリサイ人が言います。思い出しましょう。彼は神殿にいます。「二人の男が祈ろうと神殿に上がった」と我らの主が仰せになっています。そして、神殿とは天主の家です。ですから、本来ならば、神殿にいくと、天主へ直接にお祈りして、他の人と自分を比べるわけにはいきません。

しかしながら、ファリサイ人は違います。神殿に行って、天主へ目をあげ、天主を眺め、自分の切なさを反省することなく、ファリサイ人は何と、他の人々を眺めて、自分と比べます。最初は、他の人々と自分を比べますが、一般的に比べることになります。言いかえると、ファリサイ人は当時の社会を見て、この世の堕落を眺めて、「私は他の人のように、貪欲な人、不正な人、姦通する者ではなく」と言います。

現代において、カトリック信徒がやりがちなことであるかもしれません。確かに、現代の堕落の前にいて、これらの短所と欠陥を指摘することはたやすいです。今も昔も短所、欠点、欠陥はこの世に蔓延っているから驚くことではありません。我々もいつも確認できて経験しています。だから、指摘してもなんともなりません。

では、ファリサイ人はなぜこの確認をした上に、自分を他の人と比べるでしょうか?「私は他の人にあるような短所はないよ、私は他の人のような者ではないよ」ということで、天主の前に自分を高めようとします。しかしながら、ファリサイ人はそこにとどまりません。一般的に、当時の人々を自分と比べるだけではなく、ファリサイ人は特定の人、隣の税吏と自分を比べます。「またこの税吏のような人間でもないことを、あなたに感謝いたします」

いとも愛する私の兄弟よ、以上のような欠点は我々にもあるのではないでしょうか?自分を他人と比べる癖。というのも、自分を他人と比べることによって、自分を安心できる手段になるから、周りの短所を見て、自分を高める良い気持ちになるから、このような短所に陥ることは多いのではないでしょうか?

ことに、聖伝へ忠実であり、信仰を守り、どうしても信仰を最期まで守り切る覚悟を持つ我らカトリック信徒、また我らの信仰の中心と柱となる本物のミサに与っている我らカトリック信徒は、この世を見渡して、他の人々を眺めて、「これよりも我々は遥かに善い」と言い切ることは簡単なことです。



もちろん、ある意味で、この確認は正しいです。いとも愛する兄弟の皆様よ、カトリック信徒でいられることは、他のすべてに比べたらはるかに善いことであるのです。それは間違いないのです。当然です。というのも、唯一、カトリックという宗教を通じてしか天国に行けない宗教を仰いでいるからです。ですから、部分的にこのような確認は正しいです。

が、だからといって、我々は正しい者になっているのではありません。その逆です。恵みを貰えばもらうほど、最期に求められる責任と総計は重くなるわけです。つまり、我ら、カトリック信徒は多くの恵みを貰う分、天主によって厳しく裁かれるということになります。
だからこそ、他の人、また罪人と自分を比べてはいけません。また、カトリック信徒の間にお互いに比べ合うこともさらにだめです。

本日の福音書において、ファリサイ人は税吏と自分を比べる時、神殿の中にいながら、振り返って、税吏を見て「私はこのような人間ではない」と思うのですね。この癖、この短所に対して警戒しましょう。兄弟同士で、カトリック信徒同士で、このような比較を行う誘惑は時に強いかもしれない、この短所に傾くことは簡単かもしれません。つまり、隣人の短所を見て、「自分が持たないな」と思って、自分が安心するという。まあ、このような安心を求めるのは自然な傾向だと言えましょう。また、この傾向に行くのもたやすいです。

しかしながら、この傾向は悪い傾向です。それに抵抗すべきです。なぜでしょうか?このようなことをすると、本来ならば天主しか「ある人を正しい者だ」と言い切れないのに、自分を他人に比べるというのは、自分自身が自分自身を「正しい者」と判断するから悪いのです。

これこそ、ファリサイ人の欠点です。ファリサイ人は自分を正しい者と勝手に判断します。しかしながら、これはやるべきではありません。天主の前に、自分のありのままに参って、天主は私たちを正しくし給うことになります。

例えば、告解に行くとき、私たちは私たちの罪を明かし、自分を咎めるべきですが、言い訳を述べるべきではありません。また、我々が犯した罪を明かして、自分を咎める際、これらの罪を自分で許せるわけがありません。それは天主がなさることで、また我々を正しくなし給うのです。言いかえると、我々は聖化していけるのは、我々の力によってではなく、天主の聖寵によってだけなのです。また、言いかえると、聖寵の状態にさせるのは、天主のみです。我々の力でこのようなことはできません。



要するに、以上はファリサイ人の第一の短所です。天主の前に自分をありのままにさらすのではなく、他人と自分を比べる短所。
第二の短所は第一の短所につながっていますが、ファリサイ人は比較して他人の短所を非難します。しかしながら、本来ならば同質のことを比較すべきです。異質なことを比較しても意味がありません。つまり、他人の短所を比較するのなら、自分の短所と比較すべきです。が、ファリサイ人は他人の短所を見ながら、自分の長所と比べます。これも悪い癖です。この比較は不公平です。

残念ながら、このような短所に陥るのはよくある話です。
何かを見た時、最初、つい「非難してしまう」ことがよくあるでしょう。一般的に、誰かの外的な短所を非難したり、それから性格あるいは道徳的な短所を非難したり、そして時に、何も根拠もないにもかかわらず、他人の意図を非難したりすることもあるでしょう。

しかしながら、一方、自分を見る時、短所などを無視して、長所と良い部分をみて自慢することが多いでしょう。で、他人に対して行う非難は自分に対してどうしても同じような非難を加えることができないことが多いでしょう。

福音書の別の場面において、我らの主、イエズス・キリストははっきりと仰せになります。「なぜ、兄弟の目にあるわらくずを見て、自分の目にある梁に気をとめないのか?」(マテオ、7、3)

要するに、このファリサイ人は誤った比較を行います。その結果、ファリサイ人の反省は誤っているのです。
いとも愛する兄弟よ、このような悪い傾向になりやすいので、注意しましょう。つまり、自分の長所だけを見て、短所を忘れて、長所に自慢して「自分が正しい者」と言い切ることが多いでしょう。もちろん、皆、長所があるので長所を見て正しく認めることがいいことですが、長所があるからと言って、それで「正しい者」になるのではありません。天主のみ、人々を正しくさせ、聖寵の状態に入れ給うのです。

それから、ファリサイ人の第三の短所はなんですか?他人と比較する結果、ファリサイ人は他の人々から自分を排除します。
「このような人間ではなく感謝いたします」とファリサイ人が言っています。つまり、いつも否定形を使っています。「残りの人々のような者ではない」あるいは「この税吏のような人間ではない」。

言いかえると、このファリサイ人にとって、はっきりと区別された二つの人がいるということです。「自分」対「ほかのすべての人々」。ですから、ファリサイ人は反省しようとしますが、自分がほかの人々のようなものではないので、反省から自分を排除します。このように、自分を正しい者と判断するのは、ファリサイ人自身であるだけではなく、またエゴイスティックな営みとなってしまいます。この短所は愛徳を傷つけます。愛徳に背きます。なぜでしょうか?愛徳は輝いて発散するからです。

いとも愛する兄弟よ、このような傾向になりやすいかもしれません。いわゆる引きこもるというか、我々の身内と一緒にしか交流を持たないで、外に行かないという。いわゆる、外に福音を運ぶことを怠るという。もちろん、慎重にして、自分の信仰を守るべきですから、外の世に出て、信仰、教義、ミサなどについてもちろん、一切妥協すべきではないのです。ただ、外へ我々が引き継いだ大宝、愛徳を隣人へもたらすために、そとへ出ていかなかったらどうやって届くでしょうか?

ファリサイ人は「このような人間ではない」という言うことによって、他人と自分との間に壁を建てます。他の人々から自分を排除します。
自然な次元でいうと、このような行為によって、政治的な生活を営むことは無理となります。ファリサイ人たちのそのあとの歴史を見ても、これは残念ながらも明白です。しかしながら、その上、愛徳の施すことも無理となります。愛徳は周りの人々へ伝わるものです。

いとも愛する兄弟よ、ですから、このような短所に陥る危険があるから、注意しましょう。つまり、心地良い場所にいられて、どうしてもそこから出ないようにして、いつも引き籠るように防御態勢を取るような傾向。
これはいけません。カトリック信徒は孤立してゲットーに閉じられるような存在ではありません。その逆です。公教会は普遍的です。そしてその普遍性はカトリック教会を特定できる一つの特徴なのです。普遍性はギリシャ語で「カトリック」といいます。つまり、教会はカトリックであるのは、普遍的であるからです。

もちろん、カトリック信徒はみんな一般人と一緒ではありません。というのも、我々は信仰を持っているから、信仰を持たない人々と違います。しかしながら、だからと言って、信仰を持たない人々と自分を比較するよりも、信仰を持たない人々を憐んで、涙を流すべきです。つまり、壁を置くのではなくて、できるだけ愛徳と真理をもたらすことが急務です。
要するに、ファリサイ人の第三の短所は他の人々から自分を排除します。そして、エゴイズムに陥って孤立してしまいます。

最後に、ファリサイ人の反省をよく見ると、もう一つの問題があります。表面的な反省にすぎないという点です。ファリサイ人は何を言っているのかを思い出しましょう。「私は週に二度断食し、全所得の十分の一を捧げています」。これは善い行いです。それだけを見ると、現世意欲から離れて、苦行しているように見えています。少なくとも、このような行いは犠牲なので、善い模範になるはずです。

では、なぜファリサイ人のこの発言に問題があるでしょうか?彼は自分の外的な行いのみを見ているという点が問題です。我々も告解を準備するため、あるいは毎日の反省の時、このように我々にとって一番難しい努力になるかもしれません。つまり、夕方の反省の際、この一日の行為を振り返ってはいます。これはもちろんやるべきですし、よきことですが、まだ足りないということです。

というのも、罪というのは、行為にあるのではなく、意志にあるわけです。罪は第一に、意志において根源をもっています。意志から生じます。そのあと、行為に移しますが、罪はもともと意志にあります。つまり、罪は必ず、内面的な行為から始まります。言いかえると、天主から背く意志、思いは罪の始まりです。

そこで、ファリサイ人は自分の心の底まで見ないことにします。他の場面では我らの主はファリサイ人を指して「白く塗った墓のようだ」(マテオ、23、27)と仰せになります。まさにその通りです。外面はピカピカですが、内面は腐っているという。この危険もあるので、注意しましょう。警戒しましょう。毎日の反省を十分にやらないで、改悛という徳を十分に実践しないと、このような傾向になりかねません。

つまり、表面的な反省に留まり、われわれは何をやっているかだけを見ながら、我々は心の中にどうしているか十分に見ない、外的な行為を見ながら内面的な行為を十分に見ない危険があります。つまり、表面的な事柄を見ながら、心の中の我らの深い意図を見ない危険。
しかしながら、罪も聖寵も心においてこそありますので、注意しましょう。

いとも愛する兄弟よ、以上のような点は一例にすぎませんが、これらの短所と傾向を改善するように努力しましょう。深い人間になるように努めましょう。数週間前の福音には、イエズス・キリストが聖ペトロに「Duc in altum」と命令しました。「奥深い物事へ導け」という意味を込めた命令です。



霊的な生活は深い生活なのです。表面的な生活ではありません。もちろん、我々は人間であるから、霊的な生活は身体を通じて、外的に必ずなりますが、このような外的な営みは内面的な状況を反映しなければならなくて、外面と内面は一致すべきです。

いとも愛する兄弟よ、ですから、いとも聖なる処女、マリアにこのような傾向にならないようにお祈りしましょう。そういえば、聖母マリアはこのファリサイ人の逆のことを表します。福音において、一度も聖母マリアは自分を他の人と比べたことがありません。その逆です。エリザベートに聖母マリアが訪問した際、エリザベートは「主の御母が私を訪問してくださったのですか」と聖母マリアに言います。で、聖母マリアは「確かに、私は女の中で祝福された」とは言わないのです。天使に言われた通り、確かに女の中に祝福された方であるのに、聖母マリアはそうは言いません。
聖母マリアは「確かに、私は女の中で祝福された」とは言わないのです。このような自慢と比較をしません。隣人を非難しません。隣人から自分を排除しません。「私の魂は主をあがめます」とおっしゃるのです。そして、聖母マリアは聖エリザベートに愛徳をもたらします。言いかえると、内面的な深い生活をもたらします。

ですから、いとも聖なる処女なるマリアに、このような深い内面的な生活ができるようにお祈りしましょう。このような深い内面的な生活こそ霊的な生活の実践なのです。アーメン

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

[再掲]秋葉悦子氏の論文から

2021年07月03日 | ファチマの聖母の会とは?
とても興味深い論文をご紹介します。

バチカン生命アカデミーのメンバーとして活躍する随一の日本人が、刑法学者の秋葉悦子教授です。秋葉さんは、ヒト胚研究の倫理的側面を論証してきた第一人者で、始まりのいのちが不可侵である真理を説く日本では稀有な存在です。( プロライフ.jpのエデュケーションのWEBページより )


秋葉悦子氏(富山大学経済学部経営法学科教授)
「イタリアとカトリックの生殖補助医療をめぐる倫理問題」
 2010年3月21日

※実際のプログラムの表紙に使われた14世紀の絵に近いものです。

【引用開始】
これは、ヒト胚をテーマに2006年に開催された生命アカデミーの国際会議のプログラムの表紙に使われた14世紀の絵です。右側の赤い服を着ているのがマリアです。マリアのおなかの中にはイエスがいます。そして左側にいる女性、エリサベトのおなかの中には洗者ヨハネという預言者がいて、2人が出会ったとき、おなかの中の子が喜び躍った、と聖書には記されています。

この絵を生命アカデミーが使ったのは、生まれる前の子どももコミュニケーションしていること、人と人とのかかわりをしていることを示したかったからだと思います。そして、次のような人格概念を提示します。「個人」だけが孤立してあるのではなくて、人と人とのかかわりが人格にとって不可欠な要素である。その人格的なかかわりは、自意識のレベルに限られません。ヨハネと洗者ヨハネは、母胎内にあって自意識はなかったかもしれないけれども、何かを察知してコミュニケーションしていた。それは、精神的なコミュニケーションなのですが、それを示したかったのだと思います。

生命アカデミーの文書は、この絵について直接解説しているわけではありませんが、先ほど水野先生がおっしゃっていた「胎児と母のコミュニケーション」が生化学のレベルで行われていることを、子細に証明しています。受精卵、胚が子宮に着床する時期はごく短期間に限られていて、子宮はこの期間を過ぎれば胚を受け入れません。この着床期の子宮の受精卵に対する許容状態は窓にたとえられて「着床ウィンドウ」と呼ばれています。このウィンドウが開くのに合わせて、胚も着床できる状態に変化するのだそうです。このように、母と子の間では、生化学レベルで非常に猛烈な対話が交わされています。したがって、着床は、母親が一方的に決めるのではなくて、子どもと子宮との間のクロストークなのです。双方の条件が整わなければ着床は起こらないことが、生物学的に明らかにされています。ヴァチカンは胚が母との間でこのような生化学的なコミュニケーション、物理的な対話が交わされることを証明して、胚が人格であることを示そうとしているのです。
【引用終わり】

全文はこちら