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皆さん、家族を守れ!

2022年08月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ブべ神父様(J-P.Boubée)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



皆さん、家族を守れ!
ブべ神父様(J-P.Boubée)のお説教  
2022年8月7日 

Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、本日の福音において、イエズスは泣きだされます。イエズスは我々の人間性を共有しておられますので、人間の感情をも持ち、泣くことができます。しかしながら、福音においてイエズスが泣いておられる場面は少ないのです。それぞれは人間の目から見ると感動的であると同時に、高度な霊的な意味もあります。

福音において記されているイエズスは泣いておられる場面は次の通りです。ラザロの死の際です。御受難の始まりごろ、ご苦悶の際もです。この時、人々のすべての罪を負うことになることを控える時です。

そして、本日の福音において、石から創られている要塞、エルサレムのために泣いておられます。エルサレムは旧約聖書の最高の象徴となります。エルサレムこそは多くの希望の集まり、戦いの切っ掛けとなり、また恐ろしい天罰の切っ掛けにもなってきた要塞です。

ある時、強制的にその住民は移住されて破壊されたし、またその後、復興されたりしたエルサレムです。要するに、エルサレムは旧約聖書における天主の御約束の対象でした。物質的な御約束の対象でした。その御約束の成就はイエズスの御托身の準備のためにヘブライ民の心構え次第であって、その次第で、エルサレムの盛衰が決まりました。



しかしながら、この御約束はむなしくなり、それにヘブライ民は値しなかったのです。これを知っておられた我らの主、イエズス・キリストは泣きだされた所以です。

重用なのは、物質的な約束、繁栄などのすべては、霊的な目的のためにあることにあります。霊的な目的に従属していることにあります。そこにエルサレム、神殿などの存在理由があります。

例えば、神殿について考えましょう。天主はこの神殿の建築を重視し給いました。ソロモン王は建築を果たしましたが、天主はその建築をダヴィド王に与えることをお拒みなりました。ダヴィド王は天主の最愛の王だったのにということです。天主はダヴィド王を直接に選抜して、多くの恵みを与え、イエズスはダヴィド王の子孫の内に生まれるという預言をもなさいました。それでも、ダヴィド王は多くの戦争と戦いをやらざるを得なかった結果、かれは多くの血を流したので、天主はダヴィド王が神殿を建てるのは相応しくないと判断されました。

そして、ダヴィド王の息子、ソロモンが即位すると、最初は神殿の建築にとりかかりました。宮殿でもなく、他の仕事よりもまず、神殿を優先的に建築に全力を尽くされました。なぜなら、エルサレムという要塞が天主によってヘブライ民に与えられた理由は、天主の栄光と礼拝のためだったからです。天主の家を建てるためでした。あらゆる物質的な存在は天主のためにあり、天主を目的にされているのです。

ご存じのように、新約聖書の教会はもはや特定の民族、特定の国、特定の領地でなくなり、普遍的となりました。要するに、カトリック(普遍的)という称号があたえられているように、カトリック教会はすべての人々のためにあり、だれでも入れて、皆が入るように誘招かれています。そして、時代、文明、民族、国々を問わず、カトリック教会はどこでも根を下ろせて、普遍的な教えを特徴的な一つ一つの文明、一人一人へ伝えられるように制定されました。

カトリック教会こそは国々の砦となりました。目に見える壁と物質的な要塞はないとしても、霊的に国々の要塞となりました。カトリック教会という要塞の基盤は武器でもなく武力でもなく天主の恩寵にあります。そしてこの要塞の前哨は我々一人一人の肉体をもった人生に他なりません。
このように、カトリック教会、即ち天のエルサレムの建築のために、我々は全力を尽くし、その要塞を守り抜くべきです。

地上のエルサレムは天のエルサレム即ち普遍的な教会、カトリック教会を象徴する前兆でした。天主はすべての人々を天のエルサレムへ入るように呼びかけてくださいます。あとはそれぞれの答え次第です。
天主はすべての人々が霊的な要塞なるカトリック教会に一緒になって悪魔から守られるようにお望みです。

このように霊的な要塞でありながら、地上では具体的に石を持つ要塞です。まず、我々一人一人が要塞の一個一個の石となります。しかしながら、さらにいうと、これらの石はどのように秩序化されて、調和的に一緒に天主のみ旨のままに動くかによって、要塞の建築が強く弱くなります。規律正しく、要塞、即ちキリスト教の価値基準、掟、秘蹟を守る程度次第で、天のエルサレム、カトリック教会の盛衰は決まります。

それぞれの石即ち我々一人一人は違う意志で、特定された役割をもちます。皆、教皇になるような、国王になるような使命は与えられていないわけです。それぞれはその分をわきまえて、要塞を守り抜くために、与えられた砦をしっかりと守り抜く義務があります。
そして、天の要塞を築くためのそもそもの基盤、最初の砦はカトリック家族に他なりません。このように、我々は我々の家族、キリスト教の家族を全力を尽くして守り抜くのは重要です。

昔は家族を守るために、国境までいって敵国と戦うことがありました。
キリシタン文明圏は最盛の時代に至った時でも、カトリック教会は最盛だった時でも、家族を守るために国境ではなく、遠地で敵を追い出すことがありました。キリシタンを奴隷化して、虐められた遠地へ赴き、どんどんひどい目に合わせられた古いキリシタンの共同体を助けるべく、イエズスの御墓を守るべく、多くの騎士などは十字軍に参加しました。聖地への十字軍はもちろん一番しられていますが、他にも多くの十字軍があります。キリシタンを守るためなら十字軍と言います。レパント海戦は十字軍であり、レコンギスタも十字軍であり、ヴィエナでの戦いも十字軍であり、カタリ異端との戦いも十字軍です。

これらすべての十字軍は我らの主、イエズス・キリストが統治するように行われたのです。
また、もちろん、これらの遠地の十字軍ができたのも、深くキリスト教的だった社会の元気力を示します。
現代なら、昔のように内外の国境があるよりも、ペギーの言葉を借りたら、敵はどこでもいるわけです。国境は我々の内に移動したかのようです。もはや武器を取って国境までいって国を守るようなことがなくなって、守り抜くべき国境は我々の内でもどこでもあります。
世の終わりの時代の一つの特徴はそこにあります。まはや内外の区別、味方・敵の区別が曖昧になる時代です。

さて、キリスト教の要塞のためになぜ戦うべきでしょうか。戦わなければ、少しずつ、要塞が崩れ始めて、多くの霊魂の回心を助ける恩寵や力を失うからです。

この世で、この宇宙では、あらゆる被創造物は生命のために存在します。生命、命、元気力のためにすべて整備されています。生命を伝えて、広めて、保って、運ぶために、被創造世界のすべては創られています。
三位一体なる天主は生きている神であることを示すためかのように、被創造世界のすべては生きるために存在します。

そして、自然上と超自然上の生命の成長のために必要不可欠な母体は家族です。家族こそは自然上の生命と霊的な生命の成長のための第一、最初の母体です。

ご覧のように、サタンに渡された、革命的な現代社会において、家族は絶えまなく攻撃されています。法律によって、すべての家族は責められています。もちろん、カトリック教会という大家族も攻撃されて、霊的な生活を妨げるために、破滅するためにあらゆる手段は行使されています。
そして、家族という社会の基礎的な細胞は激しく攻撃されています。

家族はまず、婚姻制度の本来の姿を壊すために激しく攻撃されています。このように、革命的社会は全力を尽くして、人々は天主がお望みになる婚姻を結ばないで、事実婚というか、内縁関係を正当化して、それを促すわけです。また、結婚する前に、試しに同棲させるような空気を革命的社会は促しています。要するに「動物のようにせよ」といわれて、この悪習は普及しています。現状です。そして、人々はいつのまにこのような状態に慣れてきてしまいました。

自称結婚と呼ばれているわけの分からない「関係」はいま何でもありというようなことになり、このままになると、ペットとも、ロボットとの「結婚」も認められそうですね。何でもありですね。堕落には限りがないのです。

離婚も同然です。離婚は許可された時から、婚姻制度を目茶苦茶にさせて、実に多くの家族を爆発させていきます。
婚姻が秘蹟になっているのはたまたまではありません。このぐらい家族をイエズスが愛されて、守ろうとしておられる砦で、男女の別などを考慮し、それぞれの分をわきまえた相応しい婚姻制度を制定なさいました。

だから、我々は不完全な人間であることすら、これらの不完全性の故に、喧嘩、争いなどがもちろんいつまでもありますが、恩寵と堅い婚姻制度という盾に頼らないで、離婚という制度の結果、それぞれの状況をより悪化させるわけです。解決を難しくするのです。

また現代の家庭内の風俗をご覧ください。ポルノなどの普及によって、若い時から子供たちは悪行に慣れてきています。学校での「性的教育」とは子供を堕落させて、動物にさせる「教育」に他なりません。
どこでもこのような不潔な絵、アニメ、映画は過剰にも流されて、外でも子供をはじめ、皆は攻撃されています。

建前に、法律上、厳密に言う酷いポルノは禁止されているはずだが、それはただの故実になっていることは見え見えで、そのあたりの悪魔の覇権は著しいです。また、このような不潔な報道などを止めさせようとする人々が登場すると、玉条なる「表現の自由」にかこつけて、これらの努力は無に帰させることが少ないです。

家族は以上のように制度として攻撃されています。またその風俗も攻撃されています。しかしながら、この上に、家族の構成員も攻撃されています。
父の使命と母の使命、それから子供の立場を破滅しようとする法律は無数ほどあります。女性の男性化のために現代の社会は全力を尽くします。男性のように女性を無理でも働かせて、家庭から離れさせて、また服装などもそうですし、なるべく男性が果たすべき仕事、業務をあえて女性に与えさせるような政策ばっかりです。

また、男性の女性化も図られています。男性らしさは常に馬鹿にされていて、否定されているあまりに、男性は男性らしくさせないための政策と空気が作られています。男性は常に身を屈して、妥協して、負けるかのようにさせるためです。

以上のような労働政策の結果、女性が働くようになって、男性の無職率も増えて、そのプライドも傷つけられて、精神的に弱虫になって、常に不安の内に生きて、自分が父らしく家庭のために働けるか自信がなくなったりします。

経済学をやった誰でも知っているかのように、無職とは単なる調整のためのファクター、様子に過ぎないかのように扱われています。
経済学を見たら、肉体の人間、家族は完全に無視されています。成長率は目的となって、一つ一つの家庭の生計を守るための経済なんかはもはやなくなりました。

社会が必要としている男の特別な使命の破滅のせいで、社会の絆が崩れて不信に陥ていって、次世代の毅然さを育てられなくなります。

子供も同然です。最近の子供は生意気で、親の言うことを聞かないで、王様であるかのように何でも子供の言いなりになるような空気になります。それは子どもの権利、あるいは児童虐待を防ぐといった故実が利用されて、家族の破壊は計られています。

いままで、家族への攻撃について申し上げたのは、その婚姻制度、その風俗、その構成員への攻撃でしたが、一番弱い構成員について、まだ触れていないのです。
家族が天主によって制定されたのは、一番弱い家族の構成員を守るためです。新しい霊魂を産み、生命を伝えて、親を継承していって、また新しい生命を産むために家族は制定されたわけですよ。このように代々の生命は繋がって引き継がれて継承していきます。自然上の生命、超自然上の生命の継承も両方です。堕胎の合法化はそれを破壊するための 最悪の政策です。

現代社会は以上の家族制度のそもそもの目的を破滅しようとします。
現代なら、家庭という聖域へどれほどの不潔な画面、動画、音楽が入り込んで、親が何もしないでその侵略を黙認しているでしょうか。外での攻撃よりも大変です。家庭の門を開き、悪を誘い込むような行為です。



昔話をさせてください。60年代のはじめぐらい、テレビがはじめて登場する時代でしたが、当時、すでに多くの人々は警鐘を鳴らしました。「ほら、本当に考えたのか。毎晩、知らない人、しかもその道徳が怪しい人、知識があまり頼れない人、判断力もそこまでの人を毎晩、自分の食事のテーブルに誘ってもよいのか。また、この「客」がうるさくて、ずっとずっと主役であるかのようにふるまって、家父であるかのように家で教えられていることについて何でも決めて、家を占領する人を家に入れてもよいのか」という警告でした。

家にテレビを置くのはそれに値する行為です。これは60年代の最初の頃だけの警告でしたよ。今のようなインタネット、画面、CM、出鱈目の番組などはまだ存在しなかったごろですよ。
現代、子供の手に危険な携帯電話なり、ゲーム機なりを与えて、子供はかってに何を見るのかゲームするのかを決めてしまうようになっています。
いずれも、価値のないことばっかりで、バカげたことばっかりで、卑しいことばっかりで、醜いものばっかりです。

このように、父母の代わりに、無資格者が家庭へ入り込んで、ボスであると自称宣言して、父母の代わりに子供に教えているに同然です。
父母はその責任を果たされなくなって、その代わりに、これらの機械を通じて、無名の悪魔たちは子どもを「育てています」。

さて、以上は厳しく描写したかもしれませんが、残念なことに現実です。なぜこれを改めて強調したでしょうか。

考えてください。我らの主、イエズス・キリストは単なる石からなる要塞であるいエルサレムのために泣いておられたのなら、エルサレムよりも重要であり、キリスト教的である小さな霊的な要塞なる我々の家族を見て、どれほどイエズスは泣いておられるでしょうか。

ですから、我々は踏ん張って戦うべきです。イエズスの涙が流されないように戦うべきです。
我らの主の我々への教訓をよく理解しましょう。キリスト教的な家族を築いていきましょう。天主によって制定された婚姻制度を愛して守りましょう。結婚するために、同じ信仰、同じキリスト教的な目的がある相手を選びなさい。家族での祈りを説くに大切にしましょう。

フランスでは時にある傾向があって、何か祈りはちょっと恥ずかしいので、それぞれですればよいというところがあります。もしかしたら幼い子供と一緒に親が祈っても、子供はちょっと大きくなったら、家族の祈りに参加しなくてもよいような場合もあります。もう大きいので、自分で祈れるしという故実ですが、多くの場合はそれはないのです。

我々の家族を大切にしましょう。我々の子供を恩寵の源なるイエズス・キリストに導きましょう。告解、御聖体拝領、ミサに子供をつれていきましょう。平日のミサを含めて連れていきましょう。

聖域なる家族を聖域らしく築いていきましょう。また天の要塞の前哨なる家族を守りぬくのは当たり前であるはずです。

ご存じのように、要塞を制覇するために、まず前哨を落とすものですから、家族を守り抜くことによって、天の要塞も守られています。
聖ジャーヌダルクはオルレアンを落とすために、まず前哨などを落としました。これらの前哨は要塞を守るためにあります。

しかしながら、家族という要塞にもさらに前哨があります。これらの前哨はなんでしょうか。聖伝系の学校です。小教区と小教区の公教要理です。小教区にあるキリスト教的な少年団体です。これらの前哨はあなたたちの家族という要塞を守るために助けとなります。

完全に独立した形で小教区にも共同体にも誰に頼らないでやっていけるだろうと思うのは幻想です。もしも、前述した無資格者を家に入れたらもうおしまいです。だから、守り抜きましょう。小教区の共同体上の生活、運動、少年団体などなどを一緒に守り抜きましょう。全力を尽くして家族を守り抜きましょう。

家族という要塞は闇の王によって狙われています。なぜなら、家族という要塞を落としたら、それによって、全破壊を実現させうることを悪魔は知っているからです。

家族は天の国の基本石なので、その基本石を壊して、全体が揺るぐからです。家族が破壊されたら国は脆くなります。

家族を守るために、家族での祈りと風俗を守るだけではなく、前哨を守るだけではなく、もう一つ、家族を守る重要な武器を大切にしましょう。平和と喜びです。時には忘れがちですが、平和と喜びを家庭内に何よりも大切にしましょう。

一緒に家族で過ごせる時間を作りましょう。主日の休日は大昔からあっていいことです。家族の日でもあります。ですから、定期に家族と一緒に過ごして、また子供は家庭にいることを喜んでいることを望みましょう。大切にしましょう。全力を尽くしましょう。
食事を家族で取って、いくつかのことで喜びと平和と強くしましょう。

「平和のために励む人は幸せである、我らは天主の子らと呼ばれるであろう」(マテオ、5,9)
平和は秩序の帰結です。
聖心へ家族を奉献しなさい。そのために遠慮なく司祭に頼んでください。聖心への家族の奉献は重要です。最初は司祭を呼ぶのは難しくても、司祭抜きで奉献できますので、奉献して、しばらくしたら、聖心の御絵、ご像を祝別するために司祭を読んだらいいですし。

聖心は愛徳です。愛徳から喜びに繋がります。喜びから平和に繋がります。しかしながら愛徳の源は我らの主、イエズス・キリストの聖心であるから、それを基にしたら、あなたたちの家族は本当の意味で喜びと平和の裡に過ごせて、正しい道を歩むことが可能となります。一定の幸せも得られるでしょうが、それよりも、安定的に教育できて、一人前のキリスト教徒を育って、天国に行けるための最善が尽くされるでしょう。

また子供によく思い起こさせましょう。天主に感謝しなさいと。家族がいて、洗礼を受けていて感謝しなさい。全家族が良いキリスト教徒という恵みがあったら、さらに感謝しなさい。現代ではこれほどの恩恵を仰いでいる家族はすくないのです。ちょっと前まで、このようなことは凄い恩恵であることすら、誰も予想もできなかったのに。

ですから、聖寵の内に、祈る精神の内に生長しなさい。家族の聖徳を育みなさい。なぜなら、家族こそは庭であって、土であって、そこにすべての実りが植えていきます。教会は家族の上に育たれています。



ですから、安心しなさい。恐れることはありません。天主の御慈悲に任せて、自分なりに全力を尽くせばあとは何とかなります。聖家族へ特に祈りなさい。聖ヨセフへの信心をも大切にしなさい。聖ヨセフはすべての父、労働者、清貧を実践する者の保護聖人です。いとも聖なる童貞マリアによく祈りなさい。聖母マリアは我々を憐み、愛してくださいます。聖徳をも見守ってくださり、助け給います。

イエズスは我々の模範になるように。子供の模範になるように。
聖家族のご像なり、み絵なり、家の中心のところに置きなさい。あなたの家族の統治者であることがよく示されるように。そうすると、聖家族はあなたたちの家族の模範であることが常に思い起こされて、多くの聖寵を受けるでしょう。

このように、なぜ我らの主は泣いておられたかについてご理解いただけたとおもいます。
われわれは個人個人ではなく、要塞の内の一員であり、共同体の一員なのです。
我々は恩寵を必要としています。また基礎共同体を必要としています。平和なる共同体なる家族を必要としています。
このように生命が生まれて継承されるだけではなく、恩寵なる生命も継承されるために必要なのです。皆、一人一人は永遠の命に至るように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

聖体拝領の効果

2022年08月16日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ神父様(B. MARTIN de CLAUSONNE)のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ああ、聖なる宴かな!
クロゾンヌ神父様(B. MARTIN de CLAUSONNE)の説教
2022年06月19日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて  

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。このミサ聖祭をカレドニアの信徒たちのためにお捧げします。

親愛なる信徒の皆様、本日、御聖体の祝日を祝っております。先週の木曜日の祝日ですが、主日へ移動されたので、今日、お祝いしております。本日の祝日はいつも大変に喜ばしい大祝日でございます。ミサ聖祭と並んで、御聖体はこの地上での最高の御宝であるからです。我々の霊魂の中に天国を垣間見えさせてくれる御宝です。天主の柔和、神聖さ、愛徳に満ちた御宝です。そして、我々の霊魂に与えられている宝であり、このように毎日、天主の御命の内に生きていけるために与え給うた御宝です。ですから、このような至上の喜びは我々が死んだときに愛徳によって生きている状態だったら、永遠に続く喜びとなっていきます。

これは我々の信仰の玄義の内でも一番驚くべき御宝でしょう。イエズスは死んでまで我々を愛し給い、天に昇り給いながら、引き続きご現存を通じて我々と一緒におられるようになさったこの至上の秘跡であります。
2日目の説教の際、御聖体の秘跡の立派な効果や、それに織り込まれている至上の真理などを話しました。御聖体に関する真理を改めて味わうために、本日のミサの続誦、ラウダ・シオンをよく読んで黙想しましょう。

ホスチアはパンと葡萄酒の形色の下、我らの主、イエズス・キリストのまことの御体、御血、ご霊魂とご神性であります。また常なる天主による奇跡であり、我々と一緒におられて、そして私たちを慰め給い、助け給い、傍にいてくださいます。

さて、御聖体拝領の効果についてちょっとお話したいと思います。
第一に、聖体拝領のお陰で、我々はイエズス・キリストと密接に一致するようになり、大変多くの恩寵を受けることになります。いや、それ以上です。あらゆる恩寵の起源、源泉なる天主、我らの主、イエズス・キリストを拝領することになります。
このように、聖体拝領を行うことによって天主の御心と人の心は密接に一体となり、この一体化によって、我々は天主の生命によって活かされて、我々の霊魂をどんどん聖化されるのです。御聖体拝領による一体化のお陰で、我々の霊魂における成聖の恩寵は増やされて、天主自らの生命の内にどんどん生きていけるようになります。

この一体化ほどに密接なことはありません。このようにイエズスは次のように仰せになったほどです。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ、6,54)
このように御聖体を拝領することによって、イエズスの御血はまことに我々の体に流されて、イエズスの御体は我々の肉体とまざることになります。このように聖パウロは記しました。「私は生きているが、もう私はなく、キリストが私の内に生き給うのである。」(ガラツィア人への手紙、2,20)。

イエズス・キリストの生命によって活かされるというのは愛徳の内に生きているという意味なのです。つまり、天主のみ旨のままに、イエズス・キリストに倣って、天主が働くように、我々も愛徳を実践して、言動していくという意味です。
また、我々は我らの主の御受難とも密接に一体化しているという意味でもあります。このように日常の生活で、イエズスへ自分を捧げして、すべての苦しみにおいて、苦しみを受け入れて主へお捧げするということです。我々は天主を愛するゆえに、十字架を愛します。

聖体拝領はまた、恩寵の働きを我々の霊魂において増やす効果があります。イエズス・キリストとの一体化のお陰で、我々の霊魂は聖化していきまして、天主と一体化していきます。イエズスを拝領する時、天のことについて更なる関心が自然に生じると同時に、地上の事に対する軽蔑も改めて生じます。
御聖体拝領のお陰で、我々の信仰は再生されて、活かされて、強化されて、我々のすべての言動においての我々の意図はより清くなり、我々の愛徳は燃えていきます。



一般的な食べ物は身体の生命力を増やすと同じように、御聖体拝領は我々の霊魂の生命力ひいてより多くの恩寵をもたらしてくださいます。このように、我々は天主への愛と隣人への愛の内に霊的に成長させてくださいます。死ぬ時まで天主への愛はどんどん強くなり、純粋になっていきます。
我らの主を拝領すると、我々の霊魂をエゴイズムから救い出し給い、その代わりに愛徳を注ぎ給うのです。このように、御聖体拝領すると、永遠への旅を歩んでいきます。

また、御聖体拝領は悪への傾向を弱めてくださる効果もあります。我々の霊魂を強化して、天主のみ旨を果たすために助けてくださる上、聖体拝領は我々の激情をやわらげて、我々の悪習を弱めてくださいます。すべての罪の切っ掛けとなる現世欲という火を弱めてくださいます。
このように、聖ベルナルドは修道士たちに次のように話していました。
「愛する我が子よ、もしも善行をなすことがやりやすくて、悪行から遠ざかっているという時、イエズス・キリストに感謝せよ。彼こそは御聖体拝領によってその恩寵を与え給うたからだ。」

仕事と疲労などによって身体が失った体力などを回復することによって、物質的な食糧が身体を回復してくれるように、御聖体拝領も我々の不注意のせいに生じる霊的な疲労と弊害を治してくださいます。
トレント公会議が規定したように、「御聖体は我々を小罪から解放したまい、これらの小罪によって失っていた熱心を取り戻し給い、そして大罪から我々を守り給う」

われわれの血脈に流れてくるイエズス・キリストのいとも貴き御血と我々の身体と混ざっていく愛すべき御体は原罪に由来している我々にある悪への傾向を大きく弱め給い、時には破壊してくださいます。

ですから、われわれは聖体拝領をいとも貴重な宝だと評価しましょう。聖徳において進歩するための宝ではなく、過去に犯した罪を再び犯さないための宝でもあります。
病気の治療のための薬と病気を防ぐための薬は両方とも非常に貴重なのです。身体上の健康を取り戻し、あるいは保護してくれるからです。
食糧が身体上の生命を保護・維持してくれると同じように、聖体拝領という秘跡は霊魂の生命を保護してくださいます。

トレント公会議はまた、聖体拝領をさして、「解毒剤であり、これによって我々の日常の過失より解放され、大罪より守られている」と言います。

聖壇上の御聖体の秘跡はまた、誘惑からの薬でもあります。詩編22に次のことが書かれています。「あなたは敵の前に、私に食事を調え」とありますが、それは聖体拝領するための祭壇なのです。



このように、御聖体は最高の悪魔祓いだということになります。聖ヨアンネス・クリュソストモスは「イエズス・キリストの祭壇での拝領によって、我々は火を吐くライオンになったかのように悪魔が慄く存在となる。」と言いました。

イエズス・キリストは最後の晩餐の終わるときに、弟子たちへ「さあ立っていこう」(マテオ、26,46)と仰せになります。「もうあなたたちは聖体拝領したばかりなので、これから苦しみに行ってみよう」と言わんばかりです。

初期教会の数え切れないほどの殉教者は迫害者たちの激昂に抵抗して、勇敢にも自分の命をイエズスへの愛のために、信仰のためにお捧げしましたが、それは多くの場合、聖体拝領によってできたことです。

聖体拝領は永遠の命の担保なのです。聖トマス・アクイナスは言います。「イエズス・キリストの生贄は宇宙にもたらした効果が、この秘蹟をもって我々一人一人にもたらしてくださいます。」

我らの主は我々一人一人の個別の霊魂のために、拝領すると御受難の功徳をもたらして適用してくださいます。このように、御聖体拝領は天に行くための担保なのです。天国は我々のために用意してくださった前払金なのです。いずれか天国こそが我々の住いになるということを常に思い起こしさせ給うのです。

瀕死の人に御聖体を与える時、「臨終の聖体拝領」と称して、フランス語では「天国に行くための糧(かて)」という意味の「Viatique」と言います。
さらに我々の主、イエズス・キリストは我々の身体をも復活させたまうことになります。そして良い状態でイエズス・キリストを拝領してきた分に、復活された我々の身体は栄光に満ちることになります。

イエズスは仰せになります。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ、6、51)
または、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ、6,54)

人生の間に良い状態で頻繁に聖体拝領をしてきた人々はどれほど栄光に満ちていくか!
聖体拝領の際に言われている祈りを理解しているキリスト教徒はどれほど幸せか!「キリストの御体は永遠の命のためにあなたの霊魂を守り給わんことを」という言葉です。

親愛なる信徒の皆様、以上、簡単に聖体拝領の主な効果をご紹介しました。
また御聖体の祝日の晩課のマグニフィカットの交唱においてこれらの効果はよく要約されています。「O Sacrum convivium…」「聖なる宴かな!キリストを拝領し、御受難の記念を改め、霊魂は御地に満ちて、我々に与えられた来世の栄光の担保なる聖なる宴かな!」

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

オオカミは羊のように「メエー」と鳴かない

2022年08月07日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、オルザンヌ(G.Orsanne)神父様の説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



オルザンヌ(G.Orsanne)神父様の説教
オオカミは羊のように「メエー」と鳴かない 
2022年7月24日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
 
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、「私があなたたちを送るのは、羊をオオカミの中に入れるようなものだ」(マテオ、10,16)と我らの主、イエズス・キリストは使徒たちを布教活動に送る時、仰せになりました。「羊をオオカミの中に入れるようなものだ」と言われたら、あまり安心できないでしょうが、それでも弟子たちは布教しにいきました。

本日の福音では、主は我らに警告します。御自分の群には偽りの羊もいるだろうという警告です。いわゆる、見せかけの外見は羊なのに、そのうわべの下に、変装したオオカミもいるでしょうと。そして、これらのオオカミは羊を貪り食うような野生になります。「欲深いオオカミである」と書いてあります。「Lupes rapaces」。

これらの「オオカミ」は偽りの預言者を指していて、これらの預言者は頭がよくて、見せかけるには、騙すには、自分の正体を隠すに、たけています。このように、軽卒に信じてしまう霊魂を騙そうとしています。



また、別のところで、我らの主は良い羊飼いもいれば、傭人でしかないものもいるということを仰せになります。言いかえると、群の番をするはずの雇われた人は必ずしもその番をしっかりとしないわけです。なぜなら、雇われ人なので、仔羊に対する愛情がないわけです。おカネの関係だけでその仕事をやっているからです。良き牧者は逆に、羊を愛するがゆえに自分の身を投げすててまで羊を守ります。うらがえすと、警戒すべき偽りの牧者もいるということです。

聖パウロはエルサレムでの拘束の少し前に、ミレーにいた時ですが、信徒たちに向けて次のように激励していました。
「私は出発したのち(これは聖パウロの死を指すが)、容赦なく羊の群を荒らす恐ろしいオオカミが、あなたたちの中に入り込むであろうことを私は知っています。あなたたちの中からも、弟子たちを引き付けようとして、有害なことを教える人が立つでしょう。警戒しなさい。」(使徒行録、20,29‐31)

このように、聖なる教会は羊たちがやすらかな芝生で平和のうちに何の不安もなく草を食べられるような場所ではありません。その逆です。
カトリック教会の別名は「戦闘的教会」と呼ばれる通りです。常に戦います。聖職者たちは、牧場の者たちに真理を示し、教える義務がありますので、誤謬や間違いをはっきりと正面から否定する義務も当然あります。信徒たちも常に判断力を活かして、本物の預言者と良き牧者に従うために、偽りの預言者から逃げるために、分別する必要があります。

つまり、盲目的に「預言者だ」と自称している人々に従うわけにはいけません。現代を含めて、教会の歴史を見ると、多くの危機や難局がありました。誤謬、異端など、つまり多くの欲深いオオカミに会いました。これらのオオカミの正体を暴いて追い出さなければなりませんでした。そうしなければ殺されたことでしょう。

さて、具体的にオオカミであるかどうかを分別するためにどうすればよいでしょうか。真理か誤謬か分別するためにどうすればよいでしょうか。
聖パウロの教えを聞きましょう。はっきりとした真理の基準をしめしてくれました。

聖パウロは愛するティモテオへ次のように書いていました。第一の手紙の最初の部分です。「異なる教えを述べさせぬようにせよ」(1,3)
「むなしい議論を引き起こすばかりの果てのない系図と作り話に耳を傾けさせぬようにせよ」(1、4)
「むなし事を語り、自ら律法の教師と称しているが、自分で言っていることも主張していることも知ってはいない」(1,7)

これは本日の福音に通じています。偽預言者は偽の教義を教えます。聖パウロはティモテオに二つの手紙を書きましたが、両方とも素晴らしくて読みやすいのでぜひともよむことをお勧めします。
そして、ティモテオへ第二の手紙には具体的に名前を挙げます。「ヒメナヨとフィレットがいる。彼らの言葉は脱疽のように広まる。彼らは復活はもう行われたといって真理に迷い、ある人々の信仰を覆している。」(2,18)

要するに、聖パウロ自身は判断力を活かし分別していました。そして偽りの本当の預言者を区別するためにどうすればよいかティモテオへ教えていました。その場合も、オオカミは「異なる教え」を説いていました。



このように「異なる教え」を説いたことによってその正体は暴かれます。なぜなら、オオカミは羊の皮を覆い、芝生の垣を越えて入り込むことができるかもしれないからです。その時、羊の前に櫃のように見せかけることができるでしょう。オオカミは黙っているかぎり、羊であると思われるわけです。しかしながらオオカミは羊のように「メエー」とは鳴かないで、オオカミは吠えます。ですから、外見で人々を騙せるが、教える中身でバレます。

教父たちによると、オオカミが見せかけている「羊の皮」とはキリスト教の外見を偽っていることを象徴するということです。つまり、キリスト教の表面的な生活ですね。いくつかの信心、外から見たら、道徳的な生活を営んでいて、時には一般人のキリスト教徒よりも、高度な道徳生活を営むこともあります。時には道徳上の幾つかの点について厳格であることもあって模範を示します。

例えば、アリウスという異端者はそうでした。外見だけをみたら、良き神父であるように見えていました。しかしながら、これだけでは本物の羊であるかどうかは判断できません。それだけでは必要不可欠な様子はまだまだありません。
対神徳である信徳と信仰の告白です。ここで言う信仰は全体としての信仰を言い、信仰のすべてであるということです。一部の削った信仰などは存在しません。縮減された信仰もあり得ません。

オオカミは羊のように「メエー」とは鳴かないので、オオカミの話を注意ぶかく素直に聞けば、オオカミであることはすぐわかってきます。その正体はバレます。

また、聖パウロは同じく、ティモテオへ第二の手紙において、我々に次の警戒をします。
非常に立派な文章です。現代を語っているかのようです。

「また、最後の日に困難な時のあることを知らねばならない。人々は自分だけを愛し、金を好み、名誉を求め、高ぶり、冒涜し、親に従わず、感謝を知らず、天主を恐れず、情けを知らず、和合せず、そしり、不節制に走り、残酷になり、善を愛さず、裏切り、横柄になり、おごり、天主よりも快楽を愛し、敬虔のうわべを借りてその力を捨てた者となるだろう。これらの人々も避けよ。」(3,1-3)

なかなか素晴らしい文章ですね。指されている中身は酷いですが。つづいて、
「これらの人々も避けよ。(…)あなたは学んで確信したところにとどまれ。あなたはだれからそれを学んだか知っている。あなたは子どものころから聖書を知っていた。聖書はキリスト・イエズスによる信仰によって、あなたに救いの知恵を授ける者である」(3,14-16)

このように啓示された真理は不動であって、変わらないわけです。ですから、それに基づいて、真理であるかどうか判別できて、真理の基準になり得ます。逆に、誤謬であることを示すのは、新しい事柄、斬新さ、新奇性といったことです。信仰において前代未聞のようなことはありません。

要するに、教会では、新しい教えがある時、つまり聖伝にない新しい教え、説がある時、誤謬となります。そしてこの誤謬を語る者はオオカミです。

もちろん、教会は人のように歴史の中で成長してきました。成熟してきました。教義をより細かく説いて説明していきました。時には必要に応じて、典礼も成長しました。しかしながら、このような成長、発展は同じ方向性、同じ目的地に向けて行われてきました。基盤はイエズス・キリストであり、目的はイエズス・キリストであり、イエズス・キリストの啓示こそ教義となり、すべてはそれに帰します。聖ヴィンセントVincent de Lérinsは次の有名な格言、名言を残しました。
「In eodem sensu et in eodem sententiar」(同じ意義、同じ方向性において)

ですから、現にある戦場、本物の羊と偽りの羊が混在している、また良き牧者と雇われた人が混在している我々が生きている戦場となる芝生を恐れてはいけません。なぜなら、正体を暴くためには我々には基準があります。聖伝という基準です。

聖伝とは何でしょうか。
イエズス・キリストから、教会内でいつもかわらず教え続けられた教えです。言いかえると教会の通常の教えです。同意しあう時、歴代教皇が示した教えです。また公教要理の中身です。また教父たちです。これを聖伝というのです。また真理はそこにあります。それらは真理の基準となります。

お察しだと思いますが、聖伝は私たちに固まった、正確な、決まった言葉、言い回しを教えてくれます。これは大事です。我らの永遠の救いと人生がかかっているからです。永遠の救いを不明な、曖昧な、変わりやすい言葉と表現にかけるわけにはいけません。

ですから、いつも教会ははっきりとした正確なきっぱりとした定義と教義を示し続けました。ここではラテン語は標準語です。このように、決定的に言葉と表現を決めて信仰が表現されています。

信仰を表現する不動の文言のおかげで、信仰も不動であることを改めて確信できます。このように、それに照らして羊を見せかけるオオカミをより簡単にあぶりだすことができます。

例を挙げましょう。ルフェーブル大司教はある時、教皇パウロ六世について裁いているというような非難をうけました。1976年の有名なリールでの説教において、このような非難に答えました。

「私たちは「あなたは教皇を裁いている」と言われます。しかし、真理の基準はどこにあるのでしょうか。モンシニョール・ベネリは、私に向かって「真理を作るのはあなたではない」という言葉を投げつけました。もちろん、真理を作るのは私ではありません。教皇でもありません。真理、それは私たちの主イエズス・キリストです。

したがって、真理がどこにあるかを知るためには、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださったこと、教会の教父たちや全教会が教えたことを参照にしなければなりません。教皇を裁くのは私ではありません。聖伝です。

公教要理をならった五歳の子供は、司教にきちんと答えることができます。もしこの司教がこの子に「私たちの主イエズス・キリストは聖体の中に存在しないんだよ。私は真理の証人だよ。主が聖体の中に存在していないことを私ははっきり言う」と言ったとしたら、この子は、五歳であるにもかかわらず公教要理を知っていますので、「でも、私の公教要理には反対のことが書いてある」と答えるでしょう。どっちが正しいのでしょうか?司教でしょうか?公教要理でしょうか?もちろん公教要理です。公教要理は明らかに永遠の信仰を表明しています。単純なはなしです。」(https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/4d248cc02721dde60e805dc1275b9d20


皆様、残念ながら、毎日痛感しながら経験されていると思いますが、人々は教会の伝統のすべてをますます否定して覆そうとしています。教会自体の定義、教皇の役割、道徳、婚姻における道徳、キリスト教の道徳、秘蹟、真理など、すべて問題にされています。

ですから、真理がどこにあるかを知るための基準は何でしょうか。答えは単純です。聖伝にあります。ずっと変わらない教えは聖伝です。
従って、われわれは聖伝の公教要理を勉強し続けましょう。歴代教皇の回勅を勉強しましょう。聖伝ミサを守り抜きましょう。

信仰の保護者である聖母が今の難局に置かれている我々を守られますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン