ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

天主の約束について 【公教要理】 第十七講

2019年01月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第十七講  天主の約束について



堕落。アダムとイブは堕落しました。楽園では、試練を受けました。善悪を知る木の実を食べてはならぬという掟でした。天主の掟を破ってしまって、傲慢の罪を犯しました。「天主のようになる」と言われた悪魔の誘いに負けて、天主と同等になる存在になろうとしましたから。それきり、無条件に天主から与えられた総ての賜物を失ってしまいました。聖寵や外自然の賜物などを失いました。また、人間の本性はそのままに保全され、善のままだったものの、自然上の諸能力においても、人間が傷つけられてしまいました。

しかしながら、それより悲惨なことがあります。この罪が、なぜ原罪と呼ばれるかというと、人類の起源、人類の最初に犯された罪だからだけではありません。原罪と呼ばれているのは、すべての人間に伝わってしまう罪だからでもあります。

「不正なこと!」と誰か言い出すかもしれません。しかしながら、忘れてはいけないことがあります。総ての人間に原罪が伝染されてはいますが、一方、アダムとエワが罪を犯さなければ、享受していたすべての外自然の賜物も同様に子孫へ伝わるはずでした。つまり、彼らの後を継いで、我々も不死になっていたはずでした。保全、平安、天賦の知識のままになっていたはずでした。

この罪は、なぜ原罪でしょうか。言い換えると、なぜ代々に伝わる罪になったのでしょうか。それは、アダムが、罪を犯したときに、単なる私的な個人として犯しただけではないからです。人類の頭(かしら)として行動したからです。ラテン語でアダムが人類の「caput カプット」として、つまり「頭」として振舞いました。従って、個人としてある義務を負わせたのは勿論、頭として、人類に対する義務をも負わせました。だからこそ、原罪を犯したのは、エワではなくて、アダムが一人で犯したわけです。人類の頭であるアダムこそが、最初に創造された人間であるアダムこそが、すべての人間の父としてのアダムこそが犯した罪ですから。父としてこの罪を相続させてしまうのです。

類似的に言うと、借金に似ています。家長が借金を負ってしまうと同じような状況です。家長が、借金を負ったら、自分だけではなく、義務を負わせて、家全般を拘束させてしまうわけです。要するに、家長が亡くなる時が来たら、借金は、残念ながら、子孫に継がれるのです。遺産も継がれるように。まあ、兎も角、継がれていたように。

要するに、善が継がれる時に、同時に、残念ながらも、同時に悪も継がれるわけです。家族の頭の犯した悪も、家族の全員に伝わるのです。

要約すると、アダムの犯した罪は、個人的な罪及び原罪です。不正だと思われるかもしれません。しかしながら、我らみんな、ある家族に属するわけです。現代のあまりにも個人主義的な世では、かかる悪の継承を理解するのは難しいかもしれません。とはいえ、皆、人類という大家族の一員であることに変わりがありません。

しかしながら、我々において、原罪は個人的な罪ではないことに注目してください。
言い換えると、アダムとエワは、世界にそれから広がっていくすべての罪の起源でしたが、その上に、二人においては個人的な罪でもありましたから、アダムとエワは、個人的な罪としても、厳しく罰せられました。

一方、われらにおいては、厳しく罰せられてはいないということです。確かに、罰として、聖寵と栄光と天国と天主の生命はハッキリと剥奪されました。まさに、これらは原罪そのものです。言い換えると、根源にあった正義の欠陥の結果にほかなりません。同時に、剥奪なのです。原罪は、天主に与えられた総ての賜物の剥奪なのです。特に、天主の聖寵と栄光の剥奪です。しかしながら、我らにおいて、個人的な罪ではありませんので、原罪だからと言って、アダムとエワの受けた罰とは、我々は違う罰を受けています。

残念ながら、原罪によって、天国の門は閉じられてしまいました。要するに、原罪は、成聖の恩寵の剥奪であり、続いて、残念な事実ですが、アダムの責任を我々も負っています。あえて言わせれば、人間という種による罪のようなものです。人類という全人種の罪です。また言い換えると、家族の罪に他なりません。その不名誉は、人類の一員一員の皆にまで及んでしまいます。総ての人の諸民まで。現代風に言うと、いわゆる全人類まで。
以上は原罪でした。また、なぜ子孫へ伝わるか説明しました。

しかしながら、感嘆するよいこともあります。堕落に続く聖書の創世記の物語の前に、感嘆せざるを得ませんから。天主は、如何に人間の救いのために寄りそい給うたことを見て感嘆しましょう。

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アダムとエワが原罪を犯した途端、楽園に天主が登場してきて、アダムとエワの近くまで寄っていらっしゃいます。というのも、原罪以前にも普段に行き来なさっていたように。そこで、アダムとエワが、ある種の恥を感じざるを得ません。赤面してしまうような恥です。過失を犯してしまう時に感じる恥です。子供が何かした時に、後ろめたい感じで、目を下ろさずにいられないような恥です。

そこで、アダムとエワは隠れます。それから、天主はアダムを呼び求めてみます。「アダムよ、アダムよ、どこにいるか」と。この場面だけでも、素晴らしい限りです。天主のほうが、人間に会いにいらっしゃるからです。天主が、人間を呼び求めます。「アダムよ、アダムよ、どこにいるか」と。

アダムがこう答えます。「園であなたの足音を聞きましたが、私は裸なので、こわくなって、隠れました。」
そこで、天主はこういい返します。「裸であることを、だれが、お前にいったのか。」と。つまり、お前の心に生じたこの欲望はどこから来たのかと。

そこで、想像に難く無いのですが、アダムが、女に責任を擦り付けます。しかも「女」だけではなくて、「天主より貰ったこんな女」と答えてしまいます。「あなたが私のそばにおいてくださった女が、あの木の実をくれたので、私も食べました」。

それから、同じく、女がヘビに責任を擦り付けます。
そこで、善き天主は彼らを罰します。楽園から追い出します。つまり、すべての賜物を失うことを示します。初めて、死、罪、苦痛、戦争などを経験するようになります。

御覧の通りに、これらの苦しみすべては、天主の御業でもなんでもありません。人間の業で、最初に犯した罪の結果にほかなりません。それにこれらは、人類によって積もる多くの罪の結果に他なりません。もう、人間は、内面上の欲望と反逆を経験するようになります。

しかしながら、これらの苦しみなどを経験するようになると同時に、善き天主が、人間に救い主の到来を約束し給います

アダムとエワは堕落しました。アダムとエワは天主と離れました。アダムとエワが、「我々は天主と同等だ」ということによって、天主と自分を切り離しました。「天主のようになる」ということで、天主を拒絶しました。
にもかかわらず、天主は人間の堕落を御覧になって、救い主の到来を約束なさいます。創世記そのものの物語です。罪が犯されてからすぐに、天主は、救い主の到来を約束なさいます。人類の贖罪のために来り給う救い主を。天主に対する侮辱を償うために来り給う救い主を。

創世記では、救い主の到来の約束は、明記されています。救い主の御約束ですが、ヘビに向かって、天主はこう仰せになります。「私は、お前と女の間に、お前の末と女の末との間に、敵意を置く」と。



あなたの子孫と女の子孫の間に。それに「女の末は、お前の末の頭を踏み砕き」とあります。「女」というのは、他ならない聖母マリアの預言です。我らの主イエズス・キリストを産む聖母マリアですが、又、贖い主とも呼ばれる救い主です。「贖い主」とはあえて言えば「買い戻し者」との意味です。つまり、罪を償いに来り給った者ということです。

それから、代々に、旧約聖書によれば預言者の口を通じて、天主が最初になさった贖い主の到来の御約束を改めて繰り返し、繰り返し、宣言してきます。この御約束こそ、旧約聖書を照らすかのように、族長たちや預言者や諸王などを照らし導くのです。この御約束こそは、旧約聖書の光であるかのようです。我らの主イエズス・キリストの到来以前に生きていた人々の期待と希望なる光としての御約束なのです。

因みに、この御約束は、預言者の口を通じて伝わるだけではなくて旧約聖書の人物のその身に起こったことによって告げられることもあります。身内によって殺された我らの主イエズス・キリストを象徴する弟に殺されたアベル。また、アブラハムの息子なるイザアクが自分の生贄(いけにえ)に使われる薪を持っているのは、木材なる十字架を負う我らの主イエズス・キリストを象徴します。また、ヨゼフが、兄弟の嫉妬のせいで、裏切られて売られているのは、身内によって、ユダによって裏切られて売られている我らの主を象徴します。また、モーセがエジプトから民を解放して、聖地までに導くのは、罪への隷属から解放しに来り給った我らの主を象徴します。また、ヨナが三日間、鯨(くじら)の胃にいるのは、三日間の間にお墓に葬られた我らの主を象徴します。などなど。

要するに、旧約聖書において、多くの前兆は、我らの主イエズス・キリストの到来を示すわけです
そこで、この民は、アダムとエワの子孫は、我らの主イエズス・キリストなる救い主を待ち望むのです。



堕落(原罪)について 【公教要理】 第十六講

2019年01月26日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第十六講  堕落について




楽園では、人間は幸福でした。人間の本性と調和して、無条件に寛大に天主から給った聖徳や聖寵といった超自然の賜物のおかげで、それから前回に見てきた外自然の四つの賜物(天賦の知識、保全、平安、不死)のおかげで、人間は幸福でした。当時の人生は、計り知れないほどに光彩陸離、光が乱れ輝き、まばゆいばかりに美しいものでした。

要するに、楽園にアダムとエワは住んでいて、楽園の世話をすることを一任されていました。
この楽園では、特別な樹木が二本ありました。一本目は、「生命の樹」と呼ばれています。この樹の果実は、アダムとエワは食べても良く、人間の不死性を維持させていた果実でした。あるいは、体の絶えざる若さの維持を可能にした果実だとも言えます。そのお陰で、アダムとエワが不死のままにいられました。しかも、アダムとエワがこの果実を食べない日があっても、死ぬことは決してなく、単に、静かに、無碍に、地上より天に昇って、天主の内に、見神の至福を享受できることになっていました。

しかしながら、もう一本の樹木がありました。試練の樹木です。「善悪を知る木」でした。そうなのです。この樹木の果実を指して「食べてはならぬ」という掟を天主は仰せになりました。要するに、楽園において、この木だけは果実の摂取禁止で、立ち寄ってはいけない樹木は唯一この「善悪を知る木」だけでした。考えてみると、どれほど小さな禁断、小さな掟でしょうか。アダムとエワにして、どれほど小さな試練だったでしょうか。

しかしながら、永続的な試練だったとも言えます。一時に限っての試練ではなく、つまり例えば「一週間の間にこの木の実を食べてならぬ」というような天主の掟ではありません。いや、その木があって、「一切、いつまでも、この木の実を食べてはならぬ」という掟でした。アダムとエワに限らないで、子孫も含めて「食べてはならぬ」という掟でした。しかも、「その木の実を食べたら、必ず死なねばならぬからだ」と天主が警告したわけです。

そこで、「善悪を知る木」と呼ばれている樹木は、所謂「知識」を得しめる木ではありません。天主が、アダムとエワに対して、ある知識を奪ったことでもありませんから。全く違います。この「善悪を知る」といった表現は、「実践的に、実際に悪を経験する」という意味に他なりません。残念ながら、知識でもなんでもありませんね。「悪を知る」というのは、「悪を経験し実践する」ということで、知識だとは言えません。堕落に他なりません。従って、「この木の実を食べてはならぬ」との掟を天主が仰せになります。

ところで、アダムとエワが誘われることになります。先ず、エワが悪魔に誘われました。聖書の創世記において、この誘惑の話があります。史実、実話です。ヘビの姿をとって、悪魔が登場してくる有名な場面です。で、ヘビがエワに声をかけて、話し合いが始まります。



~~

「『園のどんな木の実も食べてはいけない』と、天主に言われたそうだが、本当か」と悪魔が質問します。

女性がこう答えます。「園にある木の実は食べてもいいのです。ただ、園の奥にある木の実だけについては、『それを食べても、それに触れてもいけない、そうすると死ぬことになる』と、天主に言われました」。

そして、ヘビはこう言い返します。「いや、そんなことで死にはしない。」これは嘘ですね。「いや、そんなことで死にはしない。お前たちがその実を食べれば、そのとき目が開け、善と悪を知る天主 のようになると、天主は知っているのだ」。「天主のようになる」と。誘惑の仕方は流石ですね。

「天主のようになる」と悪魔が誘います。前にも見ましたが、その悪魔こそが、自分に「天主と同等」になろうとして、誘惑に負けたのです。この悪魔が、「自分自身において、自分のやり方で、幸せを見つけ」ようとしたのです。大天使聖ミカエルが、それに対して、「天主に等しい者などいるものか」と言い返したほどです。要するに、悪魔は、エワに向けて、自分と同じ誘惑を言い出すわけです。「天主のようになる」と。

因みに、この誘惑こそは、全人類史を眺めてみたら、いつも確認できる大誘惑なのではないのでしょうか。つまり、天主になろうとする欲望ですね。被創造界と全宇宙の主になろうとする誘惑ですね。天主を捨ててまで、天主のようになりたいと強い誘惑になっています。

余談はさておいて、元のお話に戻りましょう。
「善と悪を知る天人のようになる」。でも、エワは、既に、なんと素晴らしい賜物を享受していたことでしょうか!聖寵を通じて、ある意味で、もう既に天主のようになっていたなのではないでしょうか。

毎日、天主と話し合うことができていたのです。楽園において、天主がアダムとエワと話すために頻繁にいらっしゃっていたとあるからです。その時に、天主に直接にどうすれば良いか、聞いてみたらよかったのに。それほど親しい存在でしたので、簡単でした。しかも、それほど多い賜物の享受を享受していることも、エワが自覚して、ちゃんと知っていたことなのに。

「天主のようになる」。それから、「女には、その木の実がうまそうで、見ても美しく、成功をかち取るには望ましいもののように思えた。そこで女は、その木の実を取って食べ、一緒にいた男にも与え、男もそれを食べた」。堕落です。罪です。なぜ罪なのかというと、アダムとエワが、天主の掟を破ってしまったからです
この罪の特徴は、勿論、第一に天主に対する反逆であるものの、また「見ても美しく」等からわかるように、悪い欲望としての色欲の罪でもあります、しかしながら、それよりもその上に、ひと先ずに傲慢としての罪なのです。

天主と同等なるぞという傲慢に他なりません。つまり、被創造物が、被創造物にもかかわらず、創造主の場所に立とうとする傲慢です。創造主に何も恩義などない!と信じ込んでいる被創造物の傲慢です。また、自分自身において、自分のすべての生命と存在を見つけることができる!という傲慢です。傲慢は、最初の男と女の犯した、最初の罪です。この罪を指して、原罪と言います。大罪です。この罪を犯してしまったせいで、即座に天主の敵に回ってしまいました。天主に対する反逆に他ならないからです。

「天主のようになる」。「いや、そんなことで死にはしない。善と悪を知る天主のようになると、天主は知っているのだ」と。
要するに、以上の誘いを受けいれてしまったせいで、自分自身において、天主との関係なしに、自力で、自分のすべての幸せと存在を手に入れるために、天主と離れてしまったわけです。この傲慢なる罪のせいで、天主を捨てて、被造物を高揚してしまいました。大罪です。また、今度詳しく見ますが、大罪の定義は、まさに、天主と離れてしまうことです。まさに、アダムとエワがやったことです。

「天主のようになる」。言い換えると、「天主に頼らなくても何とかなる」と信じてしまったからです。そこで、禁断の実を食べてしまいました。
天主を捨ててしまったと同時に、天主との親睦をも失ったのです。もう極まりない悲惨、大惨事でした。未曾有の大惨事でした。この傲慢の罪としての原罪は、色欲の罪と好奇の罪と反逆の罪でしたが、アダムとエワにおいて、凄まじく恐ろしい状態を産みました。当然です。天主を捨ててしまいました。天主を追い出して、その代わりに、自分が天主の同等だぞと言い出してしまいましたからです。

天主を追い出したと同時に、天主より無条件に与えられたすべての賜物をも捨てたわけです。すぐさまに、無条件に与えられていた賜物も消えてしまいました。聖寵も、信仰と望徳と愛徳なる聖徳も、聖霊の賜物も。これらは、人間の霊魂に置かれた天主の生命そのものでしたので、天主を捨てたら、その生命をも捨ててしまいます。これらの無条件の賜物を失ったわけです。

しかも、同時に、余分に与えられていた外自然の賜物をも失ってしまいました。寛大に、無条件に豊富に天主より賜っていた賜物です。天主を追い出すことによって、同時に、天主から給っていた無条件性をも捨ててしまいました。

聖書に「二人の目が開け」とあります。天賦の知識も保全も失い(つまり、人間の情欲は意志に対して反逆するようになり)、平安も不死も失いました。
「二人の目が開け」に続いて、「自分たちが裸でいるのが分かった」と聖書に強調されています。勿論、以前にも、お互いに裸だったことが見えていたわけですが、しかしながら、まだ色欲などは一切なかったわけです。保全の賜物のお陰で、意志がすべてを調和的に律していたからです。まだ、何の欲望もありませんでした。下は上にちゃんと従っていたからです。つまり、体が霊魂に従い、それから、霊魂が天主に従っていたからです。

しかしながら、原罪のせいで、天主と切り離されたわけです。従って、霊魂は自分自身へ向いていましたが、霊魂が天主と切り離されたもう一つの結果として、下のレベルも、感覚上のレベルも、同様に霊魂から切り離されたのです。また、意志と知性が天主に反逆したと同様に、霊魂に対して肉体も反逆するようになりました。肉体も反逆してしまいました。それで、初めて色欲が、アダムとエワの霊魂に生まれました。「自分たちが裸でいるのが分かった」と。悲惨でした。凄まじい大参事でした。

とはいえ、我々が、アダムとエワの代わりにいたのなら、彼らより旨くできたはずとは信じてはいけません。彼らは、出来るだけの、最大の賜物を享受していたからです。にもかかわらずに、自由意思をも持っていました。残念ながら、堕落しました。原罪です。

第一に、無条件に与えられて賜物を失いました。それだけに留まらずに、自然的な能力においても、傷つきました。
「傷ついた」という時に、つまり、我々の諸自然能力などは、ある目的のために作用する諸能力ですが、まっすぐであったのに、もうそうではなくなりました。もう、かかる能力を作用することが、辛くなり、辛うじてできるようになってしまったのです。もう、知性を作用することも難しくなってきました。常に、善を求めることも難しなってきました。人間の意志にして、自分の感覚上の情熱を改めることは難しくなってきました。人間の情欲を調整することも難しくなってきました。

なにか、人間の心が乱れ、常に大騒ぎになっているかのように、あちこち遠心的に引き裂かれたかのようになってしまい、それを律するのが難しくなってきました本性が傷ついたとは、以上の意味です。

しかしながら、本性は、本質的に、悪となったわけではありません。人間の本性は、そのままに一貫して保全されています。人間というと、霊魂と体との両方を持っているままです。既にみたことですが、この本性は人間を特徴づける自然的な賜物です。本性は即自に善のままなのです。傷ついたのは、本性ではなく、その作用です。その実践なのです。

要するに、原罪のせいで、ある生々しい傷を霊魂に受けてそれが残ったままであるかのようです。しかしながら、傷があるからとはいっても、霊魂は霊魂として悪になったわけではないのです。
霊魂の作用の実践において、うまく行かなくなってしまったので、そのおかしな仕方は悪を生みます。しかしながら、霊魂を持っていることが悪いのでは決してありません。
原罪の結果は、以上に見たとおりです。



楽園ー人間のあまりに幸福な状態 【公教要理】 第十五講

2019年01月24日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第十五講  楽園について



「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」

前回、人間の本性について見てきました。限りなく素晴らしい本性です。というのも、人間はその知性 と意志をもって、天主の知性と意志に参与するからです。聖書によれば、人間は「天主に象って創られた」とある通りです。創られました。
そこで、人間の霊魂は、直接に天主がこれを創ったことを念に置くべきです。したがって、我々一人一人の霊魂は、物質からなるのではないのです。霊魂は霊的な存在です。不滅です。
つまり、天主は、存在を与え給うた一人一人の人間のために、一個の霊魂を創るわけです。それで、霊魂は、肉体に宿りに来るような感じです。天主は、人間の霊魂の創り主です。人間の霊魂は、肉体よりも両親よりも生まれるのではありません。人間の霊魂は、或いは人類として特徴づける霊魂は、動物系の系統より生じていません。

更にいうと、信仰をもって信じるべき信条もあります。教会の教義となっているこの信条を信じるべきです。
つまり、すべての人間は、ただ一つの夫婦より出でる信条です。単元説と呼ばれています。要するに、すべての人、つまり人類全般は、皆、アダムとエワ(英語で外自然のと言う)より出ると。天主に最初に創られた男性と最初に創られた女性より皆人間は出ています。これは信条です。つまり、この真義を拒絶するのなら、異端者になってしまいます。人は皆がアダムとエワより出ます。

天主は、創造の御業の最後に、人間を創り給うたのです。アダムです。その最初の人は、幸福のうちに創られたわけです。創造のすべての主(ぬし)として人が創られました。アダムこそが、それぞれの動物を名付けました。また、すべてがアダムに従っています
楽園に置かれて、至福、幸福、罪の無い状態で創られました。そこで、「人間は一人きりでいるのは良くない」と聖書にあるように、天主は男の伴侶として女を創りました。良く知られている場面ですが、天主はアダムを眠りに入らせて、アダムのあばら骨一本からエワを取り出します。最初の女性です。人類の母のエワです。

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つまりアダムとエワは、地球に住んだ最初の夫婦です。罪の無い状態で創られた二人ですが、至福と幸福の場所なる楽園に住んでいました。天主は、二人に対して特別な恵みを与え給いました。前に既に見たように、先ず、人間の本性を与え給いました。つまり、肉体と霊魂を与え、両方の間の完全な調和がありました。さらに、その上に、天主の寛大なことに、他にいくつかの賜物を人間に与え給いました。



先ず、超自然的な賜物があります。人間本性を遥かに超える賜物です。天主の御計(はか)らいは「人間を御自分の神性なる御生活に参与させる」という神意なのです。だから、「聖寵」と呼ばれる恵みを与え給いました。言い換えると、天主の命の何らかを聖寵として与え給いました。それで、天主と共に、天主の内に生きることができるように、また、天主の神聖なる生命との交りがあるように、聖寵を与え給いました。前に紹介した三位一体の生命を分かち合うためです。
要するに、天主は超自然な賜物を与え給うたのです。言い換えると、自然に属さない賜物で、我々人間を限りなく超える賜物のことです。「聖寵」と呼ばれます。
アダムとエワの霊魂において、かかる「聖寵」が宿っていました。つまり、「天主の生命」がアダムとエワの霊魂に絶えずに流れ溢れていたかのようです。そのお陰で、常に天主と共に生きることができていました
聖寵のおかげで、天主の生命はもちろん、その上に、聖寵に従って行動できる能力も備わっていました。これは超自然的な聖徳とも呼ばれています。天主は、アダムに超自然的な聖徳、つまり信徳、望徳、愛徳をも与え給いました。これらについてはまた、いずれ、触れたいと思います。
その上に、道徳上の聖徳も与え給いました。それらの聖徳のおかげで、アダムとエワは、人間の力だけで行動するよりも、遥かに優れた振る舞いをすることができました

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以上の聖徳の他に、聖霊の賜物も与えられました。これも、また、今度詳しく紹介しますが、上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏からなっています。

要するに、天主は御自分の生命の何らかをアダムとエワの霊魂に注ぎ給うたわけです。なんと素晴らしいことでしょう!なんという恩寵!なんという天主から人間への賜物でしょうか!ちなみに、これらの賜物自体は、人間という被造物への天主の特別の愛の証に他なりません。

しかも、さらに追加の賜物をさらに与えることになさいました。この賜物は超自然的ではありません。つまり、人間の本性を完全に超える別次元に属する賜物なのではないのですが、自然(natura)の外にある・横にある(praeter)、「外自然・過自然(praeter-naturalis)」と呼ばれる賜物を与え増しました。要するに、自然次元に属する賜物であるものの、大自然の法則を挑むかのような賜物という意味です。
四つの外自然の賜物がアダムとエワの霊魂に与えられていました。この賜物を見て、人間なら、かなり羨ましく思うことがあります。

第一の賜物は、天賦の知識です。アダムとエワは、大人の状態で創られ、成人に相応しい、必要とされる知識を既に注入されていたことは、ある意味で当然です。ちなみにいうと、これらの賜物は、勿論、(原罪を犯さずにアダムとエワに子供が生まれていたとしたら)子供たちにも与え続けられるはずでした。勿論、子供は習わざるを得ませんが、天賦の知識の賜物のお陰で、容易に速やかに習得しえたはずでした。残念ながら、我々なら、余りにもそうは行きませんね。容易に習得しただけではなく、喜びに溢れて習えたはずです。

第二の賜物は、保全という賜物です。分かりにくいかもしれません。要するに、意志が感覚的・感情的欲望を完全に支配できる能力、という賜物です。前回見た通りに、動物の次元に属する感情である、愛情、欲情、嫌悪感、憤怒感などを支配します。前回に並べた感情のことです。それらは、アダムとエワにとって、意志により良く抑制され、完全に調整されていたわけです。感情的になって過剰に反応したり、溢れ出したりことはなかったのです。完全に一定方向に導かれていました。「支配」とは、圧倒されるという意味ではなく、ある一定方向に導くという意味での支配です。完全に調和されているという意味です。これが保全の賜物です。
今の我々人間は、この賜物を経験したことはありません。感情が溢れ出して、どうしても意志がそれを支配しきれない時があります。だれでも、経験したことがあるところです。なにか、非常な恐怖を感じたり、満ち溢れた歓喜を経験したりしますね。または、どうしても重苦しい悲しみとか。非常な怒りとか。いずれにしても、誰でも経験したように、非常に強くて溢れ出してしまう感情です。その経験らを見ても、我々の意志が、感情を完全に導く能力を失ったことをよく示します。保全の賜物のお陰で、当初はできましたが。
御覧の通りに、これが超自然上の賜物ではありません。外自然で、自然の水準に属するのですが、何か余分のことを自然に足すという感じですね。
第三の賜物として、平安の賜物と呼ばれています。この賜物こそ、特に羨ましく思うかもしれません。というのも、平安の賜物のお陰で、アダムとエワは、苦しみも病いも知らなかったからです。幸いなる状態でした。

にもかかわらず、天主は、更に第四の賜物を与え給いました。苦しみからも病からも守ら得ていましたが、その上に、不死の賜物をも与え給いました。つまり、我々が経験しているように、死を悲痛のようなこととして、アダムとエワは当初のままなら経験しなかったはずでした。死というのは、張り裂けることでもなんでもなくて、単に死が存在しなかっただけです。アダムとエワは不死でした
天使と同じく、以上のような至福な状態のままに創られました。楽園で、人間的至福のままの状態で創られました。

しかしながら、天使のように、人間のためにも、試練は用意されていました。この試練次第で、天主への忠実が試されて、そして、彼らの今度の人生も決まってきました。次回に、この試練をご紹介したいと思います。



天主の創造の全てが要約されている存在ー人間 【公教要理】第十四講

2019年01月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第十四講  人間の本性について



「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」

なんと真理に溢れている信条でしょう。独特な被造物である天使を前回に観たので、これから、人間について時間をかけて紹介したいと思います。他の被造物については、割愛せざるを得ません。

人間を中心に説明する理由は、後述するように、単純にいうと、天主が人間となったからです。

人間は、創造の中心に位置付けられていると言えます。なぜかというと、人間は創造されたすべてのものの要約のような存在だからです。
肉体において、鉱物と類似し、栄養作用と生殖力という生命的営みにおいて、植物と類似し、外面の五感において、動物と類似します。
ところが、知性と意志において、天使と類似しています。それから、天主とも。天主に象って(かたどって)造られたのが人間ですから。
したがって、人間という存在は、天主の創造したすべての凝縮版、その要約だと言えます。

哲学上、人間の定義は、「理性的な動物」とされています。「動物」という時に、人間には肉体を持つ被造物のすべてが備わっているということを意味します「理性的」という時に、純粋に霊的な被造物に相応しい要素も備わっているということを意味します

人間は、ラテン語で言うと、「カルド」です。創造においての基軸(きじく)・蝶番(ちょうつがい)のような、枢要な存在です。

「人間は理性的な動物」、どのような意味でしょうか。
それは人間に肉体と霊魂が備わっている事を意味します。人間は、体だけを持つのではありません。
それなら、屍に過ぎないことになります。経験においても、確認できるところですけど、死後に何か残っているというと、肉体です。ところが、生命のない死体です。「生命のない」とはラテン語で「イン・アニマ」から見る通りに、霊魂はもうない、生命がないという意味です。

つまり、人間には肉体の上に、霊魂も備わっています。人間において、霊魂は、生命を流す息吹のようなことです。生命の根源に他なりません。
ところが、人間の霊魂は独特で、知性と意志が備わっている魂だということです。動物なら、違います。動物には、人間の持っている知性はありません。動物には、物事を知る能力も、得た知識で他のことを推論する能力も備わっていません。その上に、動物には、人間と違って、人間独特の意志と自由もありません。

要するには、私たちは肉体と霊魂という複合からなっています。ところが、私たちは、同時に、一体不可分のままです。体と霊魂は、複合にして、人間を成しているとはいっても、ある程度の一体性においてだけの複合になります。自分ことを指して、「私」と言います。しいていえば権威者が「われわれ」とも言うかもしれませんが、自分のことを指しています。生きている複数人ではありません。人格分離症ではない限りは。

要するに、一人称を使う理由は、人間なら皆、肉体と霊魂が一体していることを知っているからです。体で行動する時に、自分がやるということです。霊魂をもって行動するといっても、自分全体で行動するしかありません。それを証明付けるのは、長い頭脳労働をするときに、必ず体に疲労をかけてしまうという現象が挙げられます。肉体と霊魂の間に存在する一体性と関係性を良く表している現象です。

要するに、人間は肉体と霊魂という複合からなっていて、一体を成します。人間は「肉体と一体化している理性のある動物」です

さて、霊魂はどうでしょうか。他の動物と区別できる、私たちを特徴づける霊魂です。創造においての他の動物と同類とすることのできない要素、他の動物と違う霊魂を人間が持っているからこそです。
人間の霊魂は、あえて言えば、感覚的部分と理性的部分からなっています。言い換えると、人間の霊魂は、動物にもできる作用と共通している感覚的な作用をしながら、動物との区別できる理性的な作用もしています。

人間は、感覚的に行動する限り、他の動物と異なるところはありません。しかし、感覚に基づきながらも、その上に、知性と意志をもって行動して初めて、動物と違ってくるのは勿論、さらに、動物より優位になります。というのも、人間の優位性を決定するのは、知性と意志に他ならないからです。

つまり、人間は動物と共通している感覚を持ち、感覚を通じてのみ知ることができます。良く知られている外面の五感を通じてです。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚です。
ちなみにいうと、その上に、内面的四感も備わっています。体の外面或いは表面に装置されているのではなくて、体内に備わっています。共通感覚 、想像力、評定力 、記憶力です。

要するに、これらの感覚上の把握力が人間には備わっています。その上に、動物と同じように、感覚上の欲望も備わっています。この欲望力で引き付ける物に向かおうとするのです。また、この欲望力で、嫌悪感を起こす物から、離れようとするのです。

それで、この欲望は、人間において、11つの感情を起こします。要するに、ある善、あるいは悪に対して、霊魂の11つの反発力、霊魂の11つの反応を起こします。みんな経験している感情です。愛情、欲情、快楽感、嫌悪感、回避感、悲哀感、希望感、絶望感、畏怖感、興奮感、最後に、憤怒感です。これらの要素において、動物と同類です

しかしながら、感覚能力或いは感覚作用の上に、人間は動物と別類にする理性的な作用もします。知性があります。
人間は、知性によって、目の前に表す物事をそのまま感知するのみならず、そのモノの本性を見極める能力が備わっています。言い換えると、私が、誰かに出逢ったら、その個別の一人を勿論見てはいますけれども、目の前にいる一太郎、二太郎、三太郎、四太郎でも、だれでも見ていますが、その個人を通じて、彼の「本性」も垣間見ます
共通の本性で、彼を「人間」だと言う所以です。これが言えるのは、知性の作用のおかげです。目の前にいる一人が内の心像に留まらないで、人間の本性についても、概念を得ることはできます。知性のおかげです。
それから、概念を基に、判断と理論を築いたりします。そのお陰で、諸真理を確立することができ、理論で真理から真理へと推論して、結論まで至ることができます。

人間は、知性と共に、意志も備わっています。意志のおかげで、個別の善を求めることに留まらない、つまり、あれこれが欲しいという欲望、具体的な何かへの欲望に留まらない、ということです。
それで、その上に、意志をもって、普遍的な善も志します。つまり多くの個別の善を越えたところの善をも求めています。例えば、正義がそうです。人間という存在は、普遍なる正義を求めることができます。また、平和も同様です。この点においてこそ、動物と一線を画します。

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前述したとおりに、人間の本性の要素である意志の上に、ある意味で意志に付け加えた形で、自由というものもあります。というのは、先ほどの「善を求めている意志」は究極的の善を求めるものですが、自由というのは手段としての善を求める能力で、自由選択能力つまり自由と呼ばれています。自由は、意志の一環で、ある善を求める能力です。いわゆるある目的に達するために、良い手段を選べる意志を、自由といいます。「自由」。人間には、自由意志が備わっています。

以上、人間を特徴づける諸要素を観てきました。ところで、意志と知性は、普遍的なことに向いているということです。つまり、知性は普遍的に真理を求めているわけです。しかも、真理に向かって、知性は成長し続けます。。無限に、真理に向かって成長していけます。同じく、意志も、普遍的に善を求めています

それで、普遍なることへ向かうという意志の特徴は、意志を不死にするのです。要するに、時空を越えて、意志は存続できることになります。したがって、人間の霊魂は、不滅です知性と意志があるからこそ不滅です。本質的に、人間の霊魂は不滅です

このように、人間の本性を観ました。本当に素晴らしき被造物で、被造物のすべての凝縮版で、天主によって創造されたすべてを要約する存在だと言えます。

天使に与えられた、一度きりの試練 【公教要理】第十三講

2019年01月18日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第十三講  守護の天使について




天使は、天主の被創造物です。天使の夥しき数で、天主の全能さを表明しています。黙示録の表現を借りると、天使は「数え切れないほど」います。天主の栄光のために、天使を創造されました。とはいっても天使を創造したときに、すぐに天国に置きませんでした。説明します。

天主は、天使の本性を付与し、純粋な霊で、智慧と意志という本性を持たせて創造しました。天主は、聖寵をも与えたおかげで、超自然世界にまで天使を高めました。言い換えると、天使本性を超えるまで高めたお陰で、天主の生命への参与を与えたのです。とはいえ、その時は、まだ天主との一対一の至福直感までは行っていませんでした。要するに、創造されたときに、成聖の恩寵は与えられましたが、天主の栄光の内には、まだいませんでした。言い換えると、まだ、天にいませんでした。

それで、良き天主は、天使が天に行く資格があるかどうか、ある試練を与えました。この試練をもって、ある種のテストで、天主は、天使の忠実心と感謝の心を試しました試練の具体的な内容について、不明です。つまり、天使の受けた試練は何だったか、わかりませんが、或る神学者たちの説によると、こういった中身です。托身なさった御言葉なる私たちの主、イエズス・キリストを礼拝せよと言った試練になるだろうと。
天使たちは、人間となった天主への礼拝を命令されたのではないか、ということです。しかし、天使にとって、人間という被創造物は、劣る存在です。遥かに、天使より劣る存在のように見えます。想像してください。人間は体を持ちますが天使には体がありません。つまり、天使にとって、人となった天主とはいえ、人間を礼拝するとは、なんということでしょうか。劣る者の前に頭を下げるに他なりません。こういった試練を受けたと思われます。つまり、天主なるこの人間のイエズスを礼拝する試練。

試練を前に、天使には、選択せざるを得ませんでした。礼拝するか。礼拝したら、試練を突破して、試験合格で天に卒業です。天に行けるというのも、天主の永劫かつ幸せな至福直感を得ます。また、試練を拒絶する選択もあります。あえていえば、天使の「人生」において、悲劇的な瞬間です。

それで、一柱(位)の天使が出てきます。一番偉大な天使として知られている「ルチフェル」(英語でルシファー)です。ラテン語では、「光をもたらす者」という意味です。間違いなく、天使の間に一番優位の天使です。彼は前に出て、礼拝を拒絶しました。「ノン・セルビアム」といいだしました。「私は仕えない!」と。「へりくだらないぞ」と。「私より、この人間の優位性を認めないぞ」と。言い換えると、「自分自身において、自分の幸せを見つけてみせるぞ」という意味になります。



このように、ルシファーは試練を拒絶したことによって、天主が向かわせていた栄光を拒絶したことになります。「ノン・セルビアム」「仕えないぞ」と言い出すのです。ちなみに「言い出す」と言っても、人間的な理解に過ぎません。当然ながら天使は人間のような感覚的な言語はありませんからね。
とはいえ、「絶対に使えないぞ」という意志は確かにありました。傲慢の罪です。「ノン・セルビアム」を発した上に、聖書と特に黙示録に基づく伝統によると、ルシファーは、すべての天使たちの三分の一を彼の後につけたとされています

ルシファーに対して、もう一柱(位)の天使が答えました。ミカエルです。ヘブライ語だと、ルシファーに対する答え自体が「ミカエル」です。「天主同等のような者などいるものか」と。「天主のように、自分自身においてこそ自分の幸せを得ると言えるものはいるものか」。「誰が天主と同等たるぞ」と。つまり、「自分自身においてこそすべての存在と完全性の起源があると自称する者はいるものか」とのことです。

創造の時に、見たとおりですが、すべては天主から来ているわけです。
それで、ルシファーを相手に、ミカエルが「誰か天主と同じなるぞ」と訴えます。ラテン語で、「クイス(誰が)・ウット(同様)・デウス(天主)」と言います。ヘブライ語で「ミ(誰が)・カ(同様)・エル(天主)」と言います。それから、聖書の記しているところ通りに、戦いが始まりました。ルシファーと伝統上三分の一の天使とは、一緒に、地獄に突き堕とされました。大天使ミカエルの後を付いた他の天使たちは、試練を合格して、天に行くことを得ました。
要するに、その試練から、試練を承って天に辿り着いた良き天使もいれば、試練を拒絶して、つまり天主への服従を拒絶して、ある意味で、自分の中に閉じこもるような感じで、地獄に墜ちた悪き天使もいるということです。

天使にとって、恐ろしい罰です。人間から見ると、ちょっと理解しづらい恐ろしさです。
ルシファーのように墜落した天使、つまり罪を犯した天使は、自分の智慧においてこそ自分を盲目にさせたのです。その上、天使は単一ですから、その行為も単一で、完全でもあります。つまり、決めた行為を取り消し、決定を変える、意志を変えることはもう一切出来ないのです。罪を犯した天使は、自分の智慧を曇らせた上に、悪において自分の意志を頑固させてしまいました。

人間なら、物体を持っているから、そして、理性で考えているから、物事において、段階的にやらざるを得ません。要するに、見ていることにも順番があって、つまりよく考えている時にも、段階でやっています。ちなみに、西洋語の「合理」の語源は、論理の段階・プロセスにあります。論理とは段階的に考える挙句に、結論に至るからです。しかし、引き返すことも出来るわけです。段階があるから、できます。

天使なら、段階抜きに、実施します。天使は直感なる存在と言われています。つまり、何か決定する時に、徹底的に全体的に決定するのです。同時に引き返せない決定になります
また、人間とのもう一つの違いは、天使は、決定のすべてを一挙に見ていることです。要するに、ルシファーは天主への奉仕を拒絶したときに、徹底的に全体的にその決定をしたわけで、頑固なほどに決めました。決定をした時に、勿論、引き返せない決定であることも知っていました。もしも、仮に引き返そうとしてもできないし、いや、それより可哀そうなことに、引き返そうとすることでさえできません。後ろに戻ることはもうできません。悔い改めることはできません。意志は、それきり、頑固になってしまいました。段階的に働いていない意志だから、単純な一気の行為ですから。全体で完全な行為だからです。

要するに、地獄にいる天使らは、智慧においては盲目になり悪において頑固になって、天国から排除されています。その上に、屈辱的な苦悩に苦しまされています。「火」と呼ばれる苦悩です。これは物質的な火です。ここも、天主の全能さの御業ですが、物質的な火が、純粋に霊的な存在へ作用します神秘ですが、悪の神秘だからこそです。天使がよく承知の上に悪を犯したという神秘です。わざと。そして、頑固に、悪を犯しました。

~~

それ以来、一方良き天使もいるとしたら、もう一方悪き天使もいることになります。天使らは、地上と人間とへ作用を及ぼします人間一人一人に、良き天使の守護天使が天主によって与えられました

ところが、同時に、悪き天使らは、人間を試みに地獄に堕とそうとして誘うことも、天主によって許されています。というのも、悪き天使らは、地獄から地上の人間を見るばかりか、人間のために天主が施す恩寵を見てばかりいるので、人間に嫉妬してならないからです劣るはずの人間が受けることのできる幸せに嫉妬してなりません。勿論、天使の不幸より、人間の幸福は遥かに上ですから。要するに、悪き天使らは嫉妬しています。というのも、自分らが拒絶した栄光の境地に人間が辿り着けるということに対して嫉妬しています。

それで、悪き天使らは人間を誘うのです。が、人間の意志を強制することはできません。天使らは、人間の霊魂の奥底に対して、何の力はありません。人間の意志に強制することはできません。だから、外面から、感覚を通じて、自分らと一緒に地獄に突き堕すために、人間を誘ってみます。これこそは、嫉妬の酷いところで、悪へ誘導してしまう嫉妬です。言い換えると、自分の墜落へ、他人を突き落とそうとする嫉妬です。悪き天使らのやっていることです。

一方、天主から私たちに与えられた良き天使らは、守護の天使と呼ばれています。私たち一人に一柱(位)の天使が守ってくれています。つまり、良き天使らは、私たちを守り助けるためにいます。守護の天使のもっている限界として、悪き天使らと同様に(善においてですが)、良き天使らも人間の意志に対して力はありません。私たちの内面的な良心に、入り込むことはできません。影響力を持てるだけで、実際に、私たち一人一人に影響を及ぼしています。これが守護の天使です。私たちはかれらを敬うべき、尊敬すべきです。愛すべきです。その上に、当然ながら、天国に辿り着ける助けとして、こういった守護を与え給った天主に感謝すべきです。以上は、良き守護天使の説明でした。

因みに、天において、天使らは、あえていえば、部類別に分類されています。階級天主を讃美する「聖歌隊」の階級とも)呼ばれています。パウロの書簡に、特に多くこの名称は引用されていますが、伝統に沿って、こう分類します。天使の9つの階級を分類します。

9つの階級は、天主の近くに侍って熾(も)えているセラフィム(熾天使)。天主に一番近い天使です。それから、ケルビム(智天使)トロニ(座天使)ドミナチオネス(主天使)力天使能天使権天使大天使天使です。これが天使らの位階・階級です。

位階といっても、私たちを遥かに超えています。というのも、前回にも話したように、一柱(位)の天使にして、種のすべてを持っていますから。従って、植物か動物の種において、階級を設けることと違います。天使の位階は、天使の職能・聖務で決まるわけです。つまり、天主が向かわせた目的次第で決まります。ところが、この位階は、聖書において啓示されています。

最後に、存在している天使らの中で、非常に多くの天使ら、無数に多い天使たち、人間一人一人に、違う守護天使が付いているほどに多い天使らの中で、天啓によって私たちが知る天使らの名前は3柱(位)しかありません。まず既に触れた聖ミカエルです。
第二は聖ガブリエルです。これは聖書において、預言者ダニエルの前に出現する天使で、私たちの主イエズス・キリストの御降誕を知らせる天使です。また、聖ザカリアの前にも出現して、洗礼者ヨハネの誕生を予言する天使です。さらには、勿論、聖母マリアの前に出現して、救い者の母になることを御告げする天使です。
第三の天使は、聖ラファエルです。ラファエルとは「天主の薬」という意味です。旧約聖書において、若いトビアの共にして、一緒に旅立っている天使です。長い旅行の危険を守る天使です。他の天使らの名前は、聖書において天啓されていません。

天使について 【公教要理】 第十二講

2019年01月16日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第十二講  天使について


「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」

これは、信教の第一条ですが、それを説明するには、時間がかかっていますね。今回も、「天地の創造主」という部分について、注目していきたいと思います。「天地」という表現には、存在しているすべてが織り込まれています。というのも、天主は本当にすべてを創造したということを示します。天主こそ至上存在であるので、存在しているすべては、少しでも存在を持っているモノは、この存在を天主から承っているのです。

被創造物の中のある一種は、人間の理性だけで知りえない存在があります。「天使」と呼ばれている被創造物です。天使とは、純粋に霊的な被創造物で、自然には人間には知られえない存在です
というのは、人間の知識はすべて感覚を通じざるを得ない知識だからです。知っているすべては、感知できる周辺の世界から引き出さないといけないからです。天使は、感知できる存在ではありません。天使は感覚界に属さないので、自然には人間には知れない存在となります。

しかしながら、信仰の天啓によると、天使が存在すると教えられています。ちなみに、聖書の何処も開いてみると、天使の登場は、頻繁にあります。創造の御業の当初からあります。アダムとエワが天主によって 天国から追い出された際に 、楽園の門の前に、アダムとエワが戻らないように、ある天使が置かれて見張っているとあります。

また、聖書に沿って読んでみると、天使の登場はどんどん頻繁になってきます。例えば、アブラハムが、三柱(位)の天使に遭うときをはじめに、多くあります。我々の主イエズス・キリストまで、続々と天使は登場します。聖母は、ガブリエル大天使から、御告げを承ります。また、我々の主イエズス・キリストは、御受難の直前に、橄欖山(ゲッセマネの園)で、天使からの慰めを受けます。また、我々の主イエズス・キリストがこの地上を去った後でも、使徒の前に現れてきます。使徒聖ペトロは、天使に助けられて、牢獄を脱出します。天使についての証言は、新約聖書において数えきれないほどにありますし、現代に至るまでに、天使出現の事件は多く確認されています。

信仰によって、天使が存在することを知っています。とはいっても、神学の大教師なる聖トマス・アクィナスによると、天使の存在を解明しています。勿論、便宜上の論拠で、厳密に言うと、証明になっていませんが、次のような説明をしています。

天使は、創造物の全体を調和的に美しく完全化する存在です。それで、天使の存在のおかげで、人間の知っている被創造物界には、すべての存在段階が備わってきます。地上にある単なる鉱物から出発して、生命の欠片を持つ植物へ上がり、それから、動物へ上がります。動物は、まだ感覚上の生活に留まりますが、植物より完成度 が高いですね。それから、人間があります。感覚上の生活もありますが、理性上の生活もできる存在です。それから、最後に、天使があります。天使は、感覚上の生活はなく、純粋に単に認知上の生活しか持たない存在です。そして勿論、最上階に、至上存在なる天主です。
以上は、便宜上の証明だけになりますが、天使の存在の説明です。
それは兎も角、天使たちの存在は、信仰上の教義で、信じるべきです。天使の存在を信じることを拒絶する者は、単純にいうと、異端者になります。

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要するに、天使は存在しています。純粋な霊です。純粋な霊というのは、天使には体がないということを意味しています。簡単に言うと、教科書臭いかもしれませんが、天使とは、人間にたとえると、体抜きの霊魂と言えるでしょう。言い換えると、天使は無形ながら、智慧と意志は備わっているのです。ただ、体に関する要素は全く持たないのです。天使には、感覚というものがありません。感覚とは、体にだけあるからです。

従って、感覚から由来する知識(感知)がありません。想像も感覚上の記憶もないのです。同時に、人間と違って、天使には感覚上の情念もありません。情欲、倦怠、嫌悪感などありません。要するに、天使は、体に関するものは一切持たないのです。
したがって、天使は不死な存在です。純粋な霊なので、単一な存在でもあります。ところで、構成物だけが死を迎えます。死というのは、分解ですから。単一なる存在は、分解することがそもそもありません。天使は単一なので、分解しません。死ぬことができません。要するに、天使は不死です。体がないからです。

天使には、不死の上に、生殖もありません。天使は、生むことはありません。生殖は、体に依存することだからです。動物や人間なら、生殖をもって、自分の種を繁殖しますね。天使なら、何時までも有るわけです。つまり、天使は、自分の種を繁殖する必要はありません。

もう一歩、説明してみましょう。天使は、純粋な霊として、自分自身において、自分の種のすべての完全性を含んでいます。そう言っても、不思議なことで、分かりづらいかもしれません。
人間は、皆一人一人が同じ種に属します。われわれは、皆「人間」です。人間の種に属すると言われます。人々を区別できるのは、それぞれの個体性ですね。私がこうだが、相手はこうではありませんね。それぞれは、違う個体性、しいて言えば、違う「性格」を持っているからです。とはいえ、人々は皆、同じ種に属することに変わりがありません。人々のそれぞれは一緒ではない理由というと、「体」に他なりません。われわれの物質的な側面においてこそ、皆が別です。それで、それぞれの個体性は皆違います。従って、地上においての繁殖こそが、種の完全化のために貢献することになります。
しかしながら、天使には体はありません。したがって、天使の一柱(位)にして、自分自身において、自分の種のすべてを代表しながら、また、品種のすべての完全性を具現化しています。
つまり、天使の種の数というと、天使の数と同じほどあると結論すべきです。これは、人間にとって、神秘です。ですが、この神秘を通じて、天主の偉大さと全能さを感じ得ます。

地上に限ってでも、人間をはじめ、存在している多くの動物や植物の種を観て、無数にあるほど見えていますね。その上に、それぞれの種は、種を代表するそれらの個人が多ければ多いほど、完全化されていきます。
天使なら、一柱(位)にして、自分のすべての種を代表します。天使の種の数は、天使の数と同じほどあります。何という神秘でしょう。何という被創造物の偉大さでしょう。天主の全能の偉大さの御前に、感嘆せずにいられません。

以上、天使とは何であるかを見てきました。純粋な霊で、体無しで、不死で、感覚無しに、つまり人間と違う生き方をしている存在ですが、そして、天使一柱(位)は、自分の種のすべてを代表する存在です。


三位一体について(下) 【公教要理】 第十一講

2019年01月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第十一講  三位一体について(下)


前の講座で、聖なる三位一体の玄義を紹介しました。天主は一つの本性でありながら、三つの位格だとご紹介しました。三つの位格は、同じ本性においてです。同質な三つの位格です。聖父と聖子と聖霊です。聖父は知性を通じて、聖子を生みます。聖霊は、愛を通じて、聖父と聖子と両方よりも発出します。

それで、以上の三つの位格は、三位一体において、それぞれは固有の名前を持っています。その名前は、それぞれの位格の作用を語ります。

聖父(ちち)を聖父というのは、聖子(こ)を発生するからです。それほど一般名ではないものの、「生まれざる者」ingenitusとも呼ばれています。何者よりも生じることはないからです。何の位格からも発することがないからです。また、「聖なるすべてなる原理と源泉」とも呼ばれています。他の二つの位格の原理点であるからです。

聖子が、聖子と呼ばれているのは、生まれたからです。前に見たように、「御言葉」とも呼ばれています。知性を通じて発生されるからです。人間の知性において生む物は、言葉(概念・ロゴス)に他ならないわけです。精神面の言葉であるか、概念を述べたら、言い出すので、口頭の言葉であるかどちらかですけど。聖子は「御言葉」と呼ばれるのは、知性を通じて発生するからです。天主がご自分についての知識(概念)は聖子そのものですから。この意味で、聖子は「聖父の写し」とも呼ばれています。確かにそうです。天主のすべてにおいて、且つ限りなく完全に、聖子は天主を写しているからです。

聖霊に関しては、聖霊と呼ばれるのは、前回に見たように、ラテン語の「スピリトゥス」から来ます。一番、直感しにくいものですね。一番霊的なもの、一番把握しがたいものです。聖霊は「愛」とも呼ばれています。また、「賜物」とも呼ばれています。というのは、与えること、捧げることは、愛することですから。そういえば、私の主は、昇天する際に、私たちに聖霊を賜わることを約束されました。

以上に見たのは、三位一体においてのそれぞれの位格の固有名詞でした。ところが、三つの位格を区別できるのは、三位一体においてだけです。つまり、奥底の生活においてだけ、区別できます。一方、外でのすべての働き・御業は、三つの位格は、常に共同の働きしています

創造なら、聖父だけが創造することではなくて、三位一体が創造します。というのも、聖父は聖子と区別できるのは、聖父が聖子を発生することにおいてだけです。一方で、聖父が宇宙を創造したといって、聖子は創造しなかっただろうなどと、区別できません。聖父と聖子と聖霊が、宇宙を創造したわけです。だから、聖なる三位一体の外面のすべての働きは、天主の本性を通じて、三つの位格が揃って行うと言われる所以です。

とはいえ、実際にある働きを個別の位格に振り付けることはあります。帰属に過ぎませんが、私たちにとって、三位一体の中の位格をより理解しやすくするためだと思います。
だから、聖父の役割をより理解するために、「万物の創造主なる私たちの父」と呼んでいます。というのも、創造するとは、すべてのモノに存在を与えることですから。
他の二つの位格は、聖父より発しますね。つまり、聖父は他の位格の源泉です。類推して、聖父を「創造主」と呼んでいます。しかしながら、実際において、聖父と聖子と聖霊はそろって、創造したわけです。ふさわしいという意味において、聖父を「創造主」と言います。
同じように、ふさわしいという意味において、聖子を「智慧」と呼びます。天主の知性を完璧に映している聖子ですから。天主の思いそのものである聖子ですから。つまり、天主の智慧ですから。しかしながら、繰り返しますが、外面のすべての御業において、聖父と聖子と聖霊は共同に必ず働くのです。

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最後に、三位一体の玄義に対して、残念ながらも、言及された諸誤謬を見る必要があります。幾つかあります。

第一は、紀元後三世紀において、サベリウスという人物が言い出した、サベリウス主義とも、様相主義とも呼ばれている誤謬です。要するに、位格は一つしかないとする誤謬です。聖父だけの位格です。つまり、天主の玄義が、三位一体の玄義でなく、一位一体の玄義となってしまいます。この誤謬によると、他の二つの位格は、聖父の属性にすぎないとされます。アレクサンドリアの聖ディオニュシオスによって特に反駁されました。

第二は、アリウスによる誤謬です。おそらく、後に何れかまた触れることになると思いますが、アリウス主義を生んだ誤謬です。また紀元後3-4世紀の誤謬です。アリウスはこう言います。イエズス・キリストは天主ではない、と。つまり、聖子が天主ではないということです。イエズス・キリストの神性は否定されています。イエズス・キリストは、他の被創造物に優位している被創造物にすぎない、それ以上ではないと。この誤謬は、325年のニケア公会議によって排斥されました。

第三の誤謬は、紀元後四世紀のマセドニウスによる誤謬です。マセドニウス主義を生んだ誤謬ですが、聖霊は天主ではないという内容です。聖霊は他の被創造物に優位している単なる被創造物にすぎないと。この誤謬は、381年のコンスタンティノポリス公会議によって、排斥されました。

最後に、第四の誤謬は、九世紀のフォティオスによります。残念ながら、教会において分離を生んでしまって、ギリシア分離教会と正教会を生んでしまいました。フォティオスの誤謬というと、聖霊は、聖父よりしか発しないという内容です。聖子より発しないと。この誤謬は、信経によって反駁されて、「フィリオ・クェ」とあります。「と聖子より」という意味です。「パトリ・フィリオ・クェ」といって、「聖父と聖子より」という意味です。

聖なる三位一体の玄義の紹介を結ぶために、参考になるので、聖アタナシオスの信経を朗読していきたいと思います。この長い信経において、三位一体の玄義が紹介されています。分かりやすく、心に良く伝わる上に、天主の奥底への理解をより深く把握しうる信経です。ちなみに、すべての司祭は、毎年、聖務日課書で、聖なる三位一体の祭日の際に、拝読します。この信経は次の通りです。

救われんと欲するものは、誰といえども、まづカトリック信仰を擁せねばならぬ。
この信仰を完璧に且つ欠くことなく守りし者でなくんば、誰といえど、疑うことなく永遠に滅びるべし。
カトリック信仰とは、そのペルソナを混同することなく、またその本体を分かつことなく、唯一の天主を三位において、また三位を一体において礼拝することこれなり。
何となれば、聖父のペルソナは、聖子のペルソナにあらず、聖霊のペルソナにあらず。
されど聖父と聖子と聖霊との天主性は一にして、その光栄は等しくその御稜威はともに無窮なればなり。
聖子は聖父の如く、聖霊もまた聖父の如く。
聖父も創られたる者にあらず、聖子も創られたる者にあらず、聖霊も創られたる者にあらずなり。
聖父も宏大にして、聖子も宏大にして、聖霊も宏大なり。
聖父も永遠にして、聖子も永遠にして、聖霊も永遠なり。
しかれども三つの永遠なるものあるにあらずして、永遠なる者は一つなり。
しかも三つの創られざる者および宏大なる者あるにあらずして、創られざる者は一なり、宏大なるもの一なるが如し。
同じく聖父も全能なり、聖子も全能なり、聖霊も全能なり。
されど全能なる三者あるにあらずして、一の全能者あるのみ。
かくの如く聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主なり。
されど三つの天主あるにあらずして、天主は一なり。
また、聖父は主、聖子は主、聖霊は主なり。
されど三つの主あるにあらずして、主は一なり。
何となれば、キリスト教の真理は、各々のペルソナを個々に天主および主なりと告白することを我らに強いるとともに、三つの天主および主ありと言うことも、カトリック教の禁ずるところなればなり。
聖父は何ものよりも成らず、創られず、且つ生まれず。
聖子は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、唯聖父より生まるるなり。
聖霊は、成りしにもあらず、創られしにもあらず、生まれしにもあらず、聖父と聖子とより発するなり。
故に、聖父は一にして、三つの聖父あるにあらず。聖子も一にして三つの聖子なく、聖霊も一にして三あるにあらず。
またこの三位において前後なく、大小なく、三つのペルソナは皆互いに同じく永遠に且つ等しきなり。
されば前に言える如く、一切を通じて、三位において一体を、また一体において三位を拝すべきなり。
救われんと欲する者は、三位についてかく信ずべし。
アメン







三位一体について(中) 【公教要理】 第十講

2019年01月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第十講  三位一体について(中)


前回の通り、三位一体とは、唯一の天主でありながら三つの位格があるという玄義です。

この玄義を深めるために、言葉の意味をより良く把握する必要があります。
天主において、本性が一つで位格が三つと言い、本性と位格という言葉を使います。

本性とは何でしょうか?本性とは、或る存在 を定義づける要素です。いわば本質です。一方、位格は異なります。位格とは、ある存在の本質ではなくて、ある本性ではたらく主体 です。
人間に応用すると、区別を理解しやすいと思います。
人間として、すべての人々は同じ本性を持っています。
でも人(ペルソナ )として、皆が異なります。一般的に言うと、皆一人一人は、違う人格をもっています。一太郎と二太郎と三太郎と四太郎は、同じ人間でも、違う人です。同じ本性において、違うペルソナです。

以上の例は、位格と本性の区別を理解するために役立ちます。位格は、作用する主体で、つまり「行為しているそれ」それをやったのは「誰?」と問う時の答え(例えば「一太郎」)で、これが位格です。
一方、本性とは「定義」で、或る存在の本質です。「何か」と問う時の答え(例えば「人間性」)が、本性です。

天主において一つの本性と三つの位格があると言います。人間の場合をみると、皆同じ本性を持っているのに、違う人なので、天主の場合も同じと思うかもしれません。でも違います。唯一の天主と言いますから。一方、一太郎と二太郎と三太郎と四太郎は、本性は一緒ですが、四人います。違う四人の人間たちがいます。「人間」で本性のことも語るからです。

一方、天主において、三つの位格、つまり聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)があるという時に、天主は三つとは言いません。それは異端です。天主は唯一ですから。三つの位格はあっても、同じ唯一の天主なのです。三つの位格は、同じ本性において自存しています。ある意味で、同じ本性においてこそ実在します。この三つの位格は、絶対に切り外せません。

離れたイメージに過ぎませんが、例えてみると、もし違う三人が、同じ肉体を共有することは可能だとしたら、似たような感じです。その三人は、同じ人間として現れるが、違う人格でいるようなことです。

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また、他の例を挙げてみます。勿論、天主の真実から遠く離れた例に過ぎませんが。大自然においても似たような現象があります。おそらく、一番ピンと来る例は、クローバーでしょう。クローバーには三つの葉がありますね。しかし、一つのクローバーだけです。また、手は指五つありますが、手は一つです。そして、手のやっているすべてのことは、指もやっています。ところが、五つの指は異なります。
類推してみると、天主においても、同じようです。三つの位格がありますが、同じ本性においてあります。

三つの位格は、同じ本性consubstantiellesです。  一方で、天主において、本性は一つで、その同じ本性において、三つの位格が自存している(subsistent)のです。一つの天主でありながら、三つの位格です。これが三位一体の玄義です。

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三つの位格とは、聖(ち)父(ち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)からなります。聖父は何の位格からも発することはありません
聖子は、聖父より発します。要するに、聖子は、聖父にその由来があります。ただし、時間においてではなく、永遠においてです。聖子は聖父から知性を通じて生まれたともいいます。類似として、私たちが心の中に言葉を生む時と似ています。概念(コンセプト)と言いますね。つまり、コンセプション(受胎・発生)に連想させますね。

聖父は、自分自身御自らを、有りのままに知っています。限りなく完全な知性の故に、自分を認識する概念が言葉として発生して、それは聖父と全く同じです。絶対的に同じです。
天主は自分自身御自らを知ることによって、言葉が発生し、これが三位一体の第二の位格です。
第二の位格は知性を通じて聖父より発生する位格です。聖子と呼ばれています。また御言葉とも呼ばれています。
聖ヨハネによると、「初めに御言葉があった」とあります。さらに「言葉は天主と共にあった。」つまり、天主と区別できると。つづいて「言葉は天主だった。」同時に天主であるとの意味です。

天主は自分自身御自らを知り、自分が何であるかの言葉を発生し、それはすべてにおいて自己と同一なる言葉です。天主と同じ完全性を持ちます。唯一の違いは、聖子は生まれ、聖父は生むことだけです。第一の発出と言います。聖子は聖父より発します。そこで二重の関係が生じます。聖父は聖子を生みます。「生み出す関係」 generatioです。聖子は聖父より生まれます。「子供という関係」 filiatioです。

その上に、聖父は、聖子を観(み)て、感嘆します。聖子は聖父を見て、御自らを認めます。これは限りない愛の交流となり、思いつけないほどの間柄になる暁に、聖父と聖子の相互の観照から、第三の位格が発します。これが聖霊です。愛とも呼ばれます聖霊は、三位一体においての愛です聖父と聖子との間の愛は聖霊です聖父と聖子との間柄は、限りなく強い故に、聖霊を息吹かせます。(神学用語でspiratio(霊発 )といいます。)要するに、聖霊は、聖父と聖子との間柄より発します。

従って、聖霊は、本当に聖父より発しながら、また同時に本当に聖子よりも発します。両方よりこそ発します。信経にある「フィリオ・クエ」(と聖子より)。聖霊は、霊発 spiratioを通じて発します。霊発(スピラチオ)は、ラテン語の「スピリトゥス」から由来します。スピラチオとは、息吹、炎、霊といった意味があります。愛の炎を表現します。聖霊は、息吹発生を通じて、聖父と聖子と両方から発出します。智慧。愛。聖なる三位一体の三つの位格の間に、完全なる流れがあって、天主は一つとなります。

というのも、愛そのものである聖霊は、限りなく完全です。限りなく完全なる聖父と聖子より発しますから。つまり、すべてにおいて、聖霊は、聖父なる天主と聖子なる天主と全く同じです。聖霊は限りなく天主です。聖子が天主であるように、聖父が天主であるように、聖霊も天主です。聖父と同じく完全であるから、聖子と同じく完全だからです。
唯一の違いは、愛を通じて、両方から発することだけです。

以上に、聖なる三位一体の玄義を紹介しました。私たちを遥かに超える玄義ですが、人間の霊魂に適用される例があります。というのも、人間は天主に象(かたど)って創造されました。従って、人間の霊魂には、知性と愛という能力が備わっています。三位一体は、人間の魂に、ある種の痕跡 を残したといったようなものです。しかしながら、単なる象(かたど)りで、真実から遠く離れています。というのも、私たちが何かを認識する時に、生まれてくる概念は、見ている真実ほどに完全ではないからです。概念の存在すら、見ている真実と違う存在になっていますし。

他方、天主において、天主が御自分に対して持っている概念は、位格を発生するほどで、実在する位格を発します。概念だけではありません。聖父と区別できるものの、すべてにおいて、聖父と同じです。愛と聖霊についても、同じです。

私たちを越えている玄義ですが、天主は善いお方で、御自分の内面を啓示し給いました。人間を御自分の奥底に参与させてくださいました。どれほど愛し給うしるしであるかは明瞭でしょう。御自分の内面を啓示するとは、極まりなく、私たちへの愛の証しです。天主はすべてであるからこそ、御自分だけで充実しているのに、啓示する必要はどこにもなかったのに啓示しました。ところが、御自分の奥底を語ってくださったと同時に、どれほど人間を愛してくださるか、伝わります。自分の奥底を明かすのは、本当に愛している人々にだけだからです
要するに、天主は、御自分を啓示した事実だけで、私たちへの愛は証明されているのです。

三位一体について(上) 【公教要理】 第九講

2019年01月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第九講  三位一体について(上)


「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」

今まで、天主が存在することを示し、証明しました。天主の属性、また完全性を示しました。さらに天主についての諸誤謬を示しました。今まで、天主について説明してきた課題は総て、人間の理性によって、部分的にしても、辿り着けるところでした。

しかしながら、人間の理性が一切達し得ない領域があります。それは、天主の奥深い深淵です。天主において流れている生命です。天主とは一体何か。

この問いに対して、神学だけが、つまりここでは公教要理のことですが、答えられます。天主は一体何か。
その答えは、極まりない玄義に入ることになるので、理性を遥かに超えます。三位一体という玄義です。理性を越えた玄義とはいっても、理性に反する玄義ではありません。13世紀の聖トマス・アクィナスが典型的な例ですが、多くの神学者はこれを説明してきました。つまり、天啓された真理なる玄義は、理性に反しない、と。さもなければ、玄義といっても、理不尽に過ぎないことになってしまって、信じるに足りないこととなるからです。人間の本性に反することになるからです。

ところが、天主に啓示された玄義は、理性に反しないものの、理性を越えます。理由は簡単で、人間の知性は被造の知性にすぎないからです。そこで天主は人間の知性を超越するので、人間の知性で知り得ない真理を啓示なさいます。

三位一体という玄義は、天主の奥深い生命を語る真理で、私たちを遥かに限りなく超えます。
例えてみましょう。人間にとっての最も深い親密なものとして霊魂の生活を成す要素などは、動物からみると、どう想像して考えようとも、遥かに超えているということと似ています。動物と人間の間に、溝があります。動物は、人間の最も深いところを知ることはできません。人間と動物の本性は、お互いに全く違って、遠いからです。
同じように、天主と人間の間に溝があります。それが、天主の最も深い奥底の生活は、人間にとって、自力で近寄れない所以です。
要するに、天主は人間へ御自らを啓示して、御自身の最も深いところを啓示します。これこそ、三位一体の玄義です。
唯一の天主でありながら、三つの位格(ペルソナ)があるという玄義です。これは公教要理の定義です。唯一の天主は、三つの位格があります。これから、これを示していきたいと思います。ただ、説明や理解は無理です。私たちを越えているからです。ところが、天主の啓示と理性の道具とを相まったものを幾つか紹介できます。



先ず、理性に反しないことをあげられます。そして、私たちを越えていながらも、この玄義がどうやって、私たちを豊かにするのかも紹介できます。天主が啓示したのは、まさに人間のためですから。
旧約聖書において、三位一体の玄義は暗々裏に啓示されているだけです。要するに、この玄義の影は見いだせますが、完全にはっきりした明白な啓示はないということです。
旧約において、例えば、人間の創造の後に、天主のこの次の言葉があります。「我々にかたどり、我々ににせて、人を創ろう」。ここに、注目すべきところは、複数形です。単なる敬語複数形ではありません。「我々にかたどり、我々ににせて、人を創ろう」。また、「人は我々のようなものになって」とも創世記の三章にあります。

旧約聖書では、以上よりも不思議な言葉もあります。のちに、私たちの主イエズス・キリストがこれを明白にしますが、例えば、詩編109があります。「主は私の主に言った。Dixit Dominus Domino meo.」ここでは、「主」が二つあります。
「主は私の主に言った。『私の右に座れ Dixit Dominus Domino meo : sede a dextris meis(…)私の懐からあなたを生んだ。ex utero … genui te. 』」
この文面が良く示すように、二つの位格(ペルソナ)は一致しながら、区別できます。しかも、主は二つです。「主は私の主に言った。『私の右に座れ(…)暁星の前から、私の懐からあなたを生んだ。ex utero ante luciferum genui te.』」

他に、イザヤの幻視において、三位一体の玄義の暗黙の表現を見いだします。というのも、イザヤの幻視の中に、天使らは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。万軍の天主なる主」と言っています。つまり、三重の聖なるかなです。
とはいっても、はっきりした明白なものはありません。
新約聖書になって初めて、つまり私たちの主イエズス・キリストの到来を機に、この玄義は、いよいよはっきりした(明白・明瞭・明確な)形で表現されます

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例えば、私たちの主イエズス・キリストは、自分の使徒たちを世界中に派遣して使命を果たさせようとします。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」とあります。
聖ヨハネも、その書簡で、先の表現ほど、明白にこう書いています。勿論、イエズス・キリストから直接に受けた教えです。こう書いています。
「実に天において証言するもの三つある。御父と御言葉と聖霊である。」加えて「この三つは一である。」
このように、三位一体の玄義が示されています。


要するに、三つの位格(ペルソナ)、聖父と聖子と聖霊の玄義ですが、唯一の本性における三つの位格、天主です。言い換えると、三つの神があるのではなく、唯一の神という意味です。しかしながら、一つの位格はなくて、三つの位格があるという意味です。

誰かが、「一が三だということはないだろう」と言い出すかもしれません。確かに、数学の先生が、1イコール3と書いてしまったら、生徒も分からなくなります。矛盾ですから。三つは一つではありません。三つは、一つを三倍にしたものですから。三位一体の玄義において、決して1イコール3ではありません。
天主において、本性は三つではありません。位格が三つです天主において、位格は一つだけではないが、本性は一つしかありません。

つまり、この三つの位格は、一つの本性においてありますが、本性と位格は別のものです。これこそ玄義です。
次回から、この玄義を深めていきたいと思います。
今日は、簡単に覚えておきましょう。三位一体の玄義は、唯一の天主でありながら、三つの位格があるということです。



天主についてのいろいろな誤謬(間違った考え) 【公教要理】 第八講

2019年01月08日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第八講  天主についての諸誤謬


今まで、天主の存在を見てきました。また天主の本性をもみて、アセイタスと呼ぶ、天主が自分御自らによってだけの存在だということを説明しました。さらに天主の属性あるいは完全性について触れ、天主にとって創造するとは、一体何なのか説明しました。また、創造において創造の働きを延長するという御摂理を説明しました。それから、摂理の働きにおいて、天主は悪を起こすことはないどころか、悪は人間の自由に由来していることをも見ました。
要するに、出来るかぎり、天主が何であるかを見てきてみました。
これから、簡潔に、天主についての幾つかの誤謬を見ておく必要があるでしょう。

第一の誤謬は、無神論と呼ばれています。フランス語の無神論(アテイスム)はギリシャ語の「ア(否定)・テオス(神)」から来る言葉です。「神はない」という意味です。「神は存在しない」。地上において、物事は存在しているけど、天主だけは存在しないという主張です。理不尽な錯誤に過ぎないことは、前にすでに説明した通りです。要約すると、目の前にある物事は何の原因も無しに創られたと信じ込こもうとすることになるので、理不尽です。また、宇宙が存在していて、宇宙の全体と完全性とにおいても存在しているのに、動因抜きに、創因ぬきに、同時に秩序付ける原因無しに存在しているという説です。「天主は存在しない」。無神論主義です。これは知識上の不条理です。その上、信仰に反します。つまり、天主が存在し、天主を信じるべきという信条に反するのは勿論、理性にも反するわけです。「天主は存在しない」と言い出すことは、理性に反します。というのも、理性が調査・検討した結果、天主は存在する、そうでなければありえないと結論せざるを得ないからです。

第一の誤謬は、無神論でした。
第二の誤謬は、次のようです。総ての存在は天主によって与えられていることから、すべての存在は天主からくる、あえていうと、すべての存在は天主そのものである、あらゆるものは天主そのものだとする誤謬です。言い換えると、あらゆる物は天主の流出だ、総ては天主である、という説です。汎神論と呼ばれています。ギリシャ語の「テオス」(神)に「パン」(総て)を結びつけた語源です。パン・テオス。汎神論。総ては天主です。
総ては天主だというのは、私でさえ天主だということです。要するに、この説で、すぐ理不尽になります。たとえば、何かに対して、あるいは誰かと戦ったら、天主は天主と戦う羽目になります。汎神論だと、天主は何かというと、結局、ごたまぜという感じの天主になります。この説による天主の見方は、余りにも物理的でありすぎます。汎神論だと、天主はある種の広がりになってしまって、その広がりの内の全てが天主だということになります。要するに、この説だと、天主は、無形の不明な何かでありながら、同時にすべての事でもあるから、そもそも、天主には、不変化も単一性も同一性も全くないということになります。つまり、完全性を一つも持たないことになってしまい、天主ではなくなります。要するに、汎神論といっても、結局のところ、天主を天主として否定しています。

第三の誤謬は、以上よりも、流行りました。特に、ローマ帝国とギリシャ帝国では盛んでした。
多神論です。ギリシャ語の「ポリ(多)・テオス(神)」から来ます。なぜ誤謬でしょうか。多神とは、神々の間に、上下関係があるか、上下関係ないか、です。神々の間に、上下関係はある場合に、明白で、優位の神もあることになります。頂点の神は天主であるはずですが、第二の神はもう天主ではありえません。頂点の神は、第二の神より、多くの完全性をもつからです。つまり、第二の神は、何か欠いている必要があります。さもなければ、第二でなくなりますから。しかし、欠陥があるのなら、天主でありえません。したがって、本来の多神教を冷静に見たら、無意味です。あえて言えば、天主は一つだけ、それから他は、多くの半神がいると言った方が意味を成します。しかし、結局、すべての完全性を持てる存在は一つでなければなりません。他の神々は、天主たる頂点の神の後に続くのなら、すべての完全性を持たないことになります。つまりは、天主ではありません。何か欠いているから、欠陥を持っているわけで、天主でありえません。

それなら、真面な多神教は、こういい返すでしょう。「多神を認めているけど、神々はすべて同等です」。しかし、これはもう一つの錯誤です。神々が皆同等だったら、複数あるのはなぜでしょうか。たとえば、二柱(二位)の神がいるとしましょう。二柱(二位)なので、両方を区別できるわけです。区別できるのなら、一方はあることを持ち、もう一方はそのことを持たないということを意味します。なぜかというと、もし、全く一緒だったら、同一になる他ないからです。いや、それ自身で二柱(二位)を区別しようがなくなるだけではなく、もう二柱(二位)は同一になります。

この課題を考えてみる時に、難しいところがあります。なぜかというと、すぐに、一卵性双子は思い浮かぶからです。双子を見て、私が、区別はつかないかもしれません。しかしながら、同一とはなりません。というのも、双子はそれぞれ違う場所にいます。一人は右に居て、もう一人は左にいます。その違いだけで、二人を区別し得ます。少なくとも、一人目は、二人目の違う場所にいるとは言えます。
天主は、体がありません。従って、天主において、場所の区別はありません。つまり、二神は全く同じということはあり得ないことで、意味をなさないことです。二神あるのなら、何か、違いがないと成り立ちません。

第四の誤謬は、「二元論」また「マニ教主義」と呼ばれています。というのは、神は二つあって、善の神と悪の神があるという説です。両神は絶えず地上において戦いあうとし、すべての物と人間の支配をお互いで分けています。こういった宇宙観から出発して、具体的に表現したものは多様にありました。たとば、悪の神は物質の神とするカタリ異端があります。物理的のゆえに、生殖と結婚は悪の神の業だとするカタリ派です。この場合、善の神は、まったく霊的の神だけになります。

前に見たとおりに、天主はすべてを創造しました。それに、物理的な物でさえ、すべて良いことです。「初めに、天主は天地を創った」それを「良しとされた」とある通りです。霊物両方においてこそ、創造全体は良い事です。物質は悪ではありません。前回に見たとおりに、悪は天主によるものではなくて、また、他の神によるものでもありません。そうするのなら、人間の責任を逸らすことになります。地上における悪は、自由の乱用に由来しています。つまり、悪の神なんてありません。
とはいえ、悪魔がいるというのは、確かです。しかも、複数います。悪魔は人間を墜落させようとする存在で、人間を悪へ誘うわけですけど、悪魔は悪の原因ではありません。悪魔は、悪の機会にすぎません。悪への誘いにすぎません。悪魔は悪を産むのではありません。人間は自分で、与えられた自由の乱用のせいで、悪を成します。

第五の誤謬は、理神論と呼ばれています。
特に18世紀において、いわゆる啓蒙世紀において、流行った誤謬です。この誤謬によると、天主の存在を辛うじて認めてはいます。啓蒙家らの頭がよかったので、天主がいると認めざるを得なかったわけですけど。しかし「天主」とは言っても、天主について人間は何も知らないと主張します。天啓はない。御自ら自分を示したことはないといいます。この誤謬を反駁するのは簡単です。聖書を開いてみたらそれまでです。聖書の中身である幅広い天啓を見たらそれまでです。
聖書の中身を検討し、実際に経験したり観たりしていることと照合してみると、天主は御自らを啓示したことが自明になります。天主御自らは奇跡を起こしました。天啓があったことの証明を天主御自らが残しました。何故なら聖書や、代々に変化なく受け継がれてきた真理として聖伝、聖徳の実践などといった証もあります。それから、世々を通じて、ずっと一貫性を持ち続けている教義という証しもあります。紀元当初の多くの殉教者が、死を惜しまずに、命を投じた英雄たちがいたという事実の証しです。以上のそれぞれは、人間のために、天啓があったことを証言するものです。
18世紀の理神論主義は、一言で言うと、天主を少しずつ、社会と人間から追い出す思想だったと言えます。理神論から出発して、自然に無神論に至ります。天主が存在する、御自らを人間に啓示した、というのは聖伝でした。そこで、少数の思想家が「まあ存在することは認めよう。しかし天啓なんてありない」と言い出したのです。そこから後に「天主は存在しない」になってしまうのです。理神論です。

第六の誤謬も、かなり一般的になっています。17~18世紀に生まれて、19世紀に盛んになった誤謬です。「理性主義」「合理主義」という原型から、「実証主義」へ展開してきた誤謬です。「理性主義あるいは合理主義」は、その呼称に見るとおり、理性だけで、宗教を含めるあらゆる物を説明するに足りるという説です。言い換えると、人間は物事を説明するのに天主の助けを必要としないということになります。つまり、神秘・玄義はありません。
しかしながら、また後で詳しく触れますが、天主は、諸玄義を啓示しました。その中で、幾つかの一番大事な玄義を、後に紹介します。たとえば、三位一体の玄義。あるいは托身の玄義。私たちの主は実際に人となりました。これは歴史的事実です。これを見た人は多く居たし、触った人もいるし、奇跡を通じて、イエズスは天主であることを証明しました。玄義です。

天主は十字架に付けられて死にました。私たちの主は、自らを十字架に付けられるがままにさせました。人類の贖罪のために、つまり人類の償いのために、自分の命を捧げました。玄義です。天主から12人の信徒へ教えられた諸真理は、現代まで20世紀前と全く同じく教え続けられています。このカトリック教義の絶えない継続も玄義です。この天主から来る使徒継承的教義の保存も確かに玄義でしょう。また、他にも、色々の玄義を今度、紹介していきます。

要するに、神秘・玄義が、この世にあります。理性で玄義を説明するには足りません。理性主義を極端化する場合、人間を中心とした宗教を創るということになります。もしも理性であらゆる物を説明できるのなら、いわゆる理性の女神となりますね。ちなみに、革命当時、パリ大聖堂の中で、理性の女神を礼拝させることまでして大変でした。理性の女神をもって、結局は、人間は天主の代わりに、自分を天主だとするようになったのです

現代のどこを見渡してみても、人間への礼拝ばかりではないでしょうか。近代の宗教礼拝は、完全に人間を中心にしているのではないでしょうか。あまりに訴えられている「表現の自由」をはじめ、絶対的な自由と平等と博愛といった宗教は、まさに人間の宗教なのではないでしょうか。この宗教は、理性主義の当然の結果です。理性主義こそ、玄義の上に、玄義の前に、理性を置こうとしたからです。いや、玄義を消したうえに、天主の代わりに、人間を置いた誤謬です。理性主義です。

嘆かわしいことですけれど、現代のすこぶる衰退を見るだけで、周辺の事実を見るだけで、理性主義は極まりなき錯誤であることは自明となります。それは何時でも確認できます。

実証主義は、理性主義の一種だといえます。理性主義と同じように、実証主義は、理性において総てを説明するとします。が、哲学をもってのではなくて、科学をもってすべてを説明するとします。科学だけで、すべての物事を説明するに足りる、と。科学こそ、最後に勝つ、と。要するに、ある種の科学主義であって、それで、天主を消します。
それによって、物理的な法則だけを見るようになります。天主を消すのは、天主が純粋な霊なので、目に見えないし、聞こえないし、触れることもできないし、科学の枠に入らないから、邪魔だからです。科学は、物理的なことに関してしか言及しないからです。
いや、より厳密に言うと、数学の原理に留まります。しかしながら、霊的なことに関して、一切触れません。霊魂は、科学の対象になりえません。あるいは、霊魂を物理的な物に還元してしまいます。所謂、精神分析を通じて、科学的対象にしていますが、霊的な次元がすべて消されています。
そして、科学が証明できないことなら、幻想に過ぎないということで、片付けられています。

しかしながら、良き天主は、人間の知らないうちに、人間のために働きます。19世紀をはじめ、それより20世紀と21世紀において、科学が飛躍的に進歩してきました。あえていえば、神秘的にまで進歩してきました。それで、天主は、実証主義者と科学主義者に対して、証言を残しました。「我は天主であり、科学の上にある」という証言です聖骸布に他なりません。科学主義者がいたら、彼が、誠実に聖骸布を検討したらよいでしょう。必ず、科学的に解けず、敗北してしまいますから。聖骸布の前に、科学主義者が屈せざるを得なくなるに違いありません。そして、人間の科学より、遥かに上にある科学の前に、屈します。聖なる科学という神学です。そして、神学の要約は、公教要理に纏まられています。

天主が存在するのなら、悪はなぜあるのでしょうか? 【公教要理】 第七講

2019年01月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第七講  悪について


悪。創造において、「悪」とはなんでしょうか。天主が存在するのなら、悪はなぜあるでしょうか
裏を返せば、悪が存在するのなら、天主は善良ではない、さらに天主が存在しない証明になるのではないでしょうか。これは、一般的な異議であって、昨今、よくいわれています。

もっともの疑問だと言えます。なぜかというと、天主、善なる天主と悪との間に、二律背反の関係があるからです。両方は一切相容れないほどに矛盾しているからです。もっともです。確かにその通りです。天主と悪は共存できません。天主の存在を支持するか、悪の存在を支持するかです。どうすればよいのでしょうか。神秘です。

悪とは一体何でしょうか。天主が存在すると断言するために、悪を否定する必要があるのでしょうか。また、悪を経験しているからといって、天主を否定すべきでしょうか。

さて、実は、両方の存在こそを認めなければなりません。そして、どうやって共存するかという説明をします。それより、大事なのは、悪が天主の働きによるものではないということを明白によく説明する必要があります
残念ながら悪は存在しますが、それは全く天主によるのではありません。天主はすべてを創造しました。天主は、被創造物の世話をし続けています。しかしながら、絶対に完全なる天主は、任せ、委ねることもできます。なぜかというと、本物の主(あるじ)の特徴は、自分の部下を信用して、任せることにありるからです。そういえば、主(あるじ)は偉ければえらいほど、常に、傍に居ながら、信用できる部下が多くいますね。ですから、天主は完全であるが故に、委任することができます

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さて、創造において、悪とは何でしょうか
「悪」は、二つの種類に区別されます。まず一つは「物理的な悪」です。
もう一つは「道徳的な悪」です。
「物理的な悪」とは、自然の悪のことです。例えば、災害とか、また死などがあります。他に苦痛もあります。つまり物理的な悪で、私たちが物体を持っているがゆえにある悪です。
別に「道徳的な悪」が区別されます。これが本来の悪です。「罪」とも呼ばれます
よくある悪で、戦争や殺人や犯行や窃盗などがあります。これらはすべて「悪事」です。しかも、災害・死・肉体的苦痛の自然の悪よりも、酷い悪です。

要するに、悪の種類は二つあります。一先ず理解すべきことは、物理的な悪は、自然に織り込まれているということです。言い換えると、常によく経験している私たちを囲っている大自然は、物理的な悪がなければ、大自然として成り立たず、存在できないという意味です。例えば、嵐は、自然の働きによる現象です。しかも、必ずしも「悪事」とは言えません。わたしたちから見て、「悪事」に見える時はあるかもしれませんが、個別の現象から離れて、高天から自然を眺めて、全体の宇宙を見ようとするときに、この現象は悪事でもなんでもなく、そのどころか、全体の秩序の均衡のために、必要となっている要素であることが見えてきます。
例えば、ガゼルにとって、ライオンに食われることは、当然に「悪」です。しかしながら、ライオンにとって、食えるガゼルがいて、「善」です。言い換えると、もしガゼルは食われることがないとしたら、どうやってライオンは生き残れるでしょうか。それなら、世界にどれほど夥しいガゼルの数が必要になるか想像しやすいですね。つまり、自然に均衡があります。その均衡の故に、物理的な悪が要ります。物理的な悪は罪でもなく、道徳的な悪でもありません。大自然に構成があって、必然的にその構成に属する物理的な悪です。いわゆる、物質は構成物だからこそ、必ず腐敗していく本性を持っています。

要するにすべての物理的の悪は、苦痛であれ、死であれ、災害であれ、自然に織り込まれています。人間は、それらを受け入れるほかにありません。受け入れないよと言い出したら、自分の本性を否定することになります。勿論、誰も肉身において苦痛したくありませんね。だれも、病気になりたくありませんね。しかしながら、私たちの本性には、苦痛と病気があります。しかたがないことで、人間の本性なので、物理的な悪を受け入れざるを得ません。これらの物理的な悪は、天主が創造した時点で、自然に織り込まれているからです。なければ、人間は人間でなくなります。ライオンに食われることのないガゼルがあり得たら、ガゼルではなくなります。

物理的次元の悪が存在しなければ、大自然と宇宙は、大自然と宇宙でなくなります。でも、大自然と宇宙は存在していますので、これは矛盾です。従って、物理的な悪は、残念ながら、大自然において、必然的に織り込まれていると言えます。例えば、地震とは、地球の本性による現象です。私たちの知っている地球は、実際にこうなっているからこそ、地震が起きます。悪と言っても、どうしようもありません。つまり、地震をなくそうと思ったら、地球の本性を変えるしかありません。でも、それは、天主にしかできないことです。そして、天主は、今実際にある地球をこれで創ったわけです。災害と地震付の地球を望まれました。
要するに、物理的な悪は、存在している現象にすぎません。大自然を望んでいることにおいて、天主はその物理的な悪を望んでいます。

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道徳的な悪は、以上の悪と全く違います。罪です。窃盗や誹謗や評判の破壊行為や無罪者の殺人や犯行などをはじめ、誰でも目撃して、知っているところです。戦争もそうです。確かに、これらこそ、本物の悪といえます。これこそ、まさに厳密な意味で、「堕落」といえます
「悪」といったら、まさに堕落を語る言葉です。災害・嵐・地震などの場合なら、「堕落」とは言えません。話すときに、堕落とはいいませんね。物理的な悪は、しかたがなく起きてしまって、これらに対して、何ともできません。大自然の一部なのです。

しかしながら、他の悪は、窃盗・殺人・犯行・戦争・誹謗などの悪事は、まさに「堕落」に当たります。天主によるものでしょうか。違います。その源泉は、一つしかありません。人間の持っている自由にあります。道
徳的な悪は、つまり毎日目撃できるその諸腐敗は、人間の自由にしか、由来しません。天主に由来していないどころか、天主は、それらの悪を望みません。天主は、腐敗と堕落を望みません。天主は、罪を望みません。天主は、こういう絶対的な悪を望みません。

人間は自由を乱用するからこそ、悪が生じます。つまり、地上にあるすべての悪と堕落の責任は、人間だけにあります。強姦や自殺、窃盗や犯行をはじめ、それらすべては、人間の自由の産物にすぎません。
確かに、人間が権利を多く訴えれば訴えるほどに、世間の堕落がますます進んでいくのは、明瞭に確認できる事実です。理論上、当然、そうでなければなりません。しかも、それは確認しやすいことです。人間の自由を解放させた時点で、自由を荒れ狂わせようとした時点で、つまり、天主向きの自由でなくなった時点で、拘束抜きになった時点で、同時に、地上のあらゆる悪事と悪行と腐敗を解放させてしまいました。

要するに、一番絶対的な堕落を意味している一番軽蔑語としての悪とは、天主に由来しないどころか、天主は望まず、荒れ狂って爆発する人間の自由にこそ由来しています。
地上にある悪の責任者は、ただ人間だけです。したがって、天主に責任を負わせるのは、むなしいことです。勿論、人間に自由を与えたのは天主に他なりませんが、自由を与えたと同時に、それに枠をも加えました。
まさに、自由をよく抑制するために、自由をよく輝かせるために、与えられた制限です
人間は、与えられた法と呼ばれている枠を壊そうとしました。特に、自然法を抜きにしようと思いました。これらの抑制を抜いてしまうことによって、地上のすべての悪を解放させました。さらに、すべての堕落を生んでしまいました。
要するに、ある人が、天主と堕落とを同時に望むことができるのなら、矛盾です。同時に、堕落に生かされて、天主に生かされることは無理です。絶対に相容れません。

そこで、天主は地上にある悪の責任を負いません。自由の乱用のせいで、人間だけが悪の責任を負います
例えてみると、ある母が自分の子に、刃物で切ることを教えるために、ナイフを与えたとします。たとえば、食事の時に、皿に置かれている肉を切るためにとか、です。幼い子なら、ナイフを与えませんね。なぜでしょうか。幼い子には、ナイフを善く使用する能力がないからです。従って、もっともの事ですが、子供の両親は、ナイフを与えません。幼い子が悪く使ってしまうことを両親が知っているからです。あるいは、最悪に使ってしまうかもしれないし、無意識にしても、ナイフをひっくり返して、自分を傷つけるかもしれません。この場合は、危険物且つ堕落させる道具を与えるよりも、当然、与えないわけです。子は成長した暁に、ナイフを与えられるようになります。最初は、両親が見守ってあげながら身につけさせますね。要するに、ナイフの使用の練習は、最初に両親が手伝って見守ります。それから、使えば使うほど、少しずつ、ナイフを善く使用することを身につけていきます。許されている正しい範囲内での使用を身につけていきます。つまり、善の範囲内でです。
まさに、許されているのは、善なることだからです。善のために、使用するわけですから。きっと、子は、練習の間に、下手に、小傷を自分の手にしてしまうでしょう。それで、危険物でもあることがわかってきます。したがって、更に注意を注ぎながら、両親の言われたことを常に思い起こすでしょう。それから、少しずつ、上手になればなるほどに、ある時点で、両親が見守らなくても良くなります。当然ですね。もう、ナイフを使用することは知っている上に、善のためにも使用しますから。もし、ある日、食事の時に、子がナイフを取り、お隣の人を斬り始めてしまったら、お隣の人の腕を傷つける為に使用してしまったら、すぐさまに、両親がナイフを取り上げるのは、常識です。取り上げる理由は、悪のために使用されてしまったからです。言い換えると、悪く使っているのです。全く同じ意味です。

どちらかというと、自由は、以上のナイフと似ています。天主は、人間に自由を与えましたが、同時に、自然法という法をも与えました自由を善く使うためにある法です。
自由を善く使うとは、善のために使うということと全く同じ意味です。ただ、ナイフを使うだけということはありません。良く使うか、悪く使うか、どちらかしかありません。使うことを知っているとは、良く使うことを知っているという意味です。使い方は知らないという場合は、悪く使うことです。同じように、自由の使い方も、身につけて見習うわけです。

自由を見習わない人は、自由において生きていくことを習わない人は、つまり、道徳の法と自然の法からなる法の掟に沿って、自由を使用することを習わない人は、自由を善く使えないので、悪く使います。悪く使うことによって、悪を成します。従って、こうやって地上にある、自分で産んだ悪の責任を負います。
「悪は存在するから、天主は存在しない」と言い出す人は、周りにある悪の源泉こそ、自分自身にあることを、まだわかっていないだけです。また、「悪は存在するから、天主は存在しない」と言い出す人、いや、更に「天主は存在するのなら、悪なんか存在するはずがない」と言い出す人は、実際に、暗に自分の自由の削除を天主に望んでいます。とんでもない矛盾でしよう。近代の人々は、天主は善であって、すべての悪を消してほしいと期待すると同時に、絶対的な自由を持つままでいたいと望むことになります。これこそ、矛盾極まりないことです。

天主にとって悪を無くすのは、簡単なことです。すべての自由を消したら済みます。一方に、人間が自由のままで生きたいと思うのなら、天主はそれを聞き入れて、悪を消すしかなく、また同じく矛盾になります。
天主は、自由を無くさない限りに、悪を無くさせません。地上に悪がある事実は、人間こそ自由を悪く使うからにすぎません。
要するに、堕落・殺人・犯行・戦争・自殺・強姦・窃盗・嘘などは、すべて、悪く使われた自由の産物です。「自由!自由!」と叫べば叫ぶほど、間違いなく、悪は地上において広まっていくしかありません。逆に言うと、人間が悪を避けたいと思えば思うほど、悪を無くしたいと思えば思うほどに、ある法を採用せざるを得なくなりません。つまり、人生を律する法でなければなりません。道徳法です。その上に、人間の本性にも依存すべき法ですから、つまり自然法です。ところで自然法は自然を創造した天主に依存しなければなりません
一方、自由を望むのなら、悪だけが出てきます。政府が自由を訴えるなら、実は悪を訴えているに他なりません。他方で罪という本物の悪を無くすことを望むのなら、社会自体の中心に天主を再樹立する必要があります。天主か悪かです。


御摂理とはなんでしょうか? 【公教要理】第六講

2019年01月03日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第六講  御摂理について



天主は創造者であり、すべての物事の司り主です。天主とは何か。天主は純粋な霊で、限りなく完全で、すべての物事の創造者と司り主です。
前回は、創造者ということを説明してきました。天主は、存在していなかったある物を、何の媒体もなく、無から存在させるのです。
しかしながら、天主の御業は、あるモノを存在させることに留まりません。

天主が「光あれ」と決定したら、光は出来ました。確かに、創世記を読んでみると、一日ごと天主は続けて創造しています。因みに、「一日」とはいっても、多少長い期間と解釈することは可能です。一日に当たる解釈の件については、教会は何とも決まっていません。それは兎も角、一日ごと天主は我々の知っているすべてのことを創造していきます。物質的な被造物や植物や動物や人間などです。

そして、創世記によると、7日目になったら、天主は休まれました。というのは、もう天主が創造した宇宙への関心が無くなったという意味でしょうか。世界から、人間から、遠くに距離を取って、もう面倒を見ていないことにしているという意味でしょうか。違います。
いや、実はその反対です。天主は、自分の創造した宇宙に関心を持ち続けている上に、そうすることを望んだというべきです。これは、御摂理といいます

摂理とは何かというと、簡潔に覚えやすい定義があります。「天主が被創造物のために常になさっている世話」、これが摂理です
それで、世話するというと、第一に出てくるのは、被造物を存在させ続けることこそがそうです

とはいっても、私たち人間なら、ちょっと理解しづらいところがありますね。それはそうでしょう。芸術家が作品を作ってしまったら、彼が死んでも、作品は残ります。
だからこそ、なぜ天主は被造物において常にましまして積極的に存在させる必要があるのか、理解しにくいですね。例えてみると、ここに花があります。花は、存在するために、木の樹液が流れなければなりません。樹液を止めてしまったら、花は死んでしまいます。同じように、すべての被造物も、極まりなく天主に依存しているので、常に、絶えず、すこし物理的な表現を借りるとすると、存在するために、天主と結び付いている、と言えます。これこそが、摂理と呼ばれるものです。
但し、私が天主に結び付けるのではなくて、いや、天主が絶えず私へと存在を流し続けています。言い換えると創造という働きは、被造物が創造された時に終わったわけではなくて、今でも目の前にあるすべてにおいて、周囲にあるすべての現実において、創造の働きが常に続いています。そして、常に続いている創造の働きは、摂理と呼ばれています
つまり、摂理ということは、初めに与えられた存在の延長です。自分が存在しる。つまり、創造されました。しかも、今も存在し続けています。天主は、私に、御摂理であらしめています。私を存在させ続けてくださっています
これこそ、被創造物に対する、天主によるお世話、御摂理です

私たちの主は、摂理を語る為に、そして、私たちにおいて、私自身よりも天主は遥かに親密に奥深くましますという事実を語る為に、私たちの主イエズス・キリストはこう言います。「あなたたちは頭の毛までもすべて数えられている。」
つまり、私たちにおいて存在しているすべては、天主が存在させ続けてくださっているからこそ、存在できているという意味です

天主は被造物の世話をなさいます。御摂理です。語源は「プロヴィデーレ」で、「その先を見る」という意味です。ある意味で、あるモノの存在を展開し繰り広げるかのように、存在においてそのモノを維持させることです。
天主にとって創造するというのは、初めの存在のインパルスを与えて更に、常に存在を流しつづけることでもあります。また、補給し続けるともいえます。たとえば、電球をコンセントにつなぐときに、つなぐことという最初の働きがあります。それで、電力が、電球まで流れてきますね。そのお陰で、電球の光が突然存在できます、光り始めます。しかしながら、コンセントは繋がっているままでないならば、電力の補給は続かなければ、電球は光り続けられません。


同じように、天主は、最初のインパルスを与えて、私たちに存在を与えました。しかしその上に、存在を与え続けています。天主の摂理といいます。
旧約書によれば、ヨブによる素晴らしい言葉があります。「天主は私にすべて与え給い、すべて奪い給うた。天主の御名は祝されよ」。つまり、すべてのことは、天主の管理下にあります。天下では、最悪に見える出来事にしても、必ず天主の管理下にあります。天主は被造物を見捨てたことはありません。天主は、すべての被造物において、そのものよりも、遥かに親密に奥深くにまします。実際に、天主は常に今ここにまします。

しかしながら、それだけなら、ある問題が出てきます。被造物によって生じた悪とは、一体なんでしょうか

創造について 【公教要理】第五講

2019年01月02日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第五講  創造について



天主は純粋な霊であります。
限りなく完全です。
総ての物事の創造者であり、司り主・総宰者です。

私たち人間にとって、「創造者」といわれても、分かりにくいかもしれません。ちなみに、「創造」という言葉は、芸術において頻繁に使われています。芸術家による作品の創造といいますね。「創造」を地上の事でも使うたびに、天主のなさったことについて、確かに、何かが語られています。天主は大自然の創造者であるといったら、芸術家は芸術作品の創造者という時と、かなり似ています。でも、ちょっと違います。というのは、先ず、どの芸術家のどの名作に比べても、天主はより完全に創造したからです。しかも、どの大芸術家が多くの名作を創造したところに、比べようがないほどに、量・質としても、天主の創造した作品は、多くまた偉大です。天主は創造の仕方においても、どの芸術家の名作の仕方よりも、優れています。なぜでしょうか。どうやってなさったでしょうか。

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天主にとって、創造するとは、無から何かを創るということです。私たち人間にとって、これは神秘です。地上にいる誰一人もできないことだからです。芸術家なら、「創造する」というのは、なんでしょうか。ある材料を準備します。例えば、彫刻家だったら大理石の塊、建具屋なら木材、何でもいいわけです。画家なら、カンバスと筆と色ですね。つまり、いわゆる原料を使って、粗雑な材料を使って、芸術家が名作を作るわけです。しかしながら、既存にある原料がそもそもなければ、どの芸術家であっても、何も作れないことは自明でしょう。家具を作ろうと思う職人がいるとしたら、木材を使わなければなりません。空っぽなアトリエに職人がいきなり入って、「さて、家具をつくるぞ」といったところに、何もできません。先ず、木材が届いてもらわなければなりませんね。さもなければ、理不尽だけです。彫刻家が、いきなり「石がなくても、何も材料がなくても、今日、像を作ってみるよ。さて鑿(のみ)を取ってやってみようか」と言ったとしましょう。彼が、彫る何かの材料がない限り、何も作れません。名作どころか、何もできません。

天主は、完全なる天主ならどうでしょうか。善そのものである天主は、無からすべてを創造しました。以前にも説明したことですけど、私たちは自分の存在理由は自分自身にはありません。ある日は、存在していなかったわけです。しかしながら、天主なら、これは何の妨げになりません。無から私たちを有らしめて存在させることができます。これが「創造」と呼ばれることです。

整理してみると、変化の概念の前提には、出発点と到着点がなければなりません。ある物が、こうだったが、例えば、ある大理石の塊は粗かったが、またより簡単にいうと、水が冷たかったが、変化によって他のモノに変わります。例えば、水が熱くなって湯となります。大理石の塊は像となります。ミケランジェロ・ブオナローティのモーゼ像になるかもしれません。

要するに、前に、何か既存の物があったわけです。生殖の場合でさえそうです。生命のある材料というか媒体というか、かかる生物がなければ、生殖できません。生命を産むには、少なくとも、一つの細胞が要りますね。この細胞がなければ、無から生命を産むことは無理です。あり得ないことです。

天主なら、創造に当たって、必要なもの何もありません。天主が創造する際に、何でも如何にも天主の意志の働きだけで創造します。いや、前回に説明したように、より正確に言うと、愛の働きによってだけ創造します。天主において、意志と愛は同じだからです。要するに、天主が創造することを決定して、つまり意志を作用して、つまり愛した途端に、そのモノが創造されます。素晴らしいでしょう。



創世記に明白に語られるように「天主が「光あれ」と仰せられた。」言い換えると、「天主は光りが存在することを意志した」という意味です。「すると光ができた」。何もなかったのに、いきなり何かできました。創造です。既存の物質も一切なかったのに、ある物質ができました。あるモノが一切存在しなかったのに、突然、存在しはじめました。したがって、天主はすべての物事の創造者であると言います。少なくとも、すべての物事の源泉において、創造者です。このように天主は天地を創造しました。こういうふうに海と陸を創造しました。こうやって月と太陽と惑星と天体を創造しました。無から創造しました。「モノがあれ」と仰せられただけで、モノができました。

原点にあった爆発とされるビッグバンの科学説が、正しいとしても、その爆発には、最初の閃きが要ります。天主は爆発あれと仰せられ、無からそれができました。原点に遡ったら、どうしてもある存在が必要です。この存在は天主に他なりません。天主だけは、全能のゆえに、無から何かを生める存在であるからです。これが創造ということです。

もう一度、繰り返すと、天主において、創造とは天主の意志の働きであって、つまり、愛の働きです。ラテン語で「善は自らを拡散する」といった表現があります。「Bonum diffusivum sui. ボヌム・ディフジヴム・スイ」。善は自ずからを拡散します。それで、天主こそが至上の善であります。至上の意志である故に、至上の愛である故に、至上の善でなければなりません。要するに、天主はこの至上の善を広めようとします。これが創造ということなのです。天主は創造します。

創世記において、天主は創造する場面が出てくるたびに、例えば、二日目、天主は天と地を創造したと言った時に、必ずその最後に、それを「良しと思われた」とあります。良しと思われる以外にあり得ません。この上もなく善である天主は、愛の働きと呼ばれている意志の働きでしか創造できない天主は、善である働きであるに決まっています。したがって、当然ながら、天主の創造したものは、すべて良いものです。良いということは必然です。さもなければ、無理です。無から天主は創造します。創造されたものは、良いものです。天主の創造したすべてのものは善いです。天主の愛の働きによるものですから。しかも、創造によってこそ、創造されたものに、天主の愛を分かちました。天主はすべての物事の創造者です。要するに、無から、すべてを創りました。

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もう一つ言っておくべきことがあります。信条であるので大事なことです。創造には始まりがあるという信条です。言い換えると、時間において始まりました。中世期において、神学討論になった課題ですが、地球が絶えずいつも存在していたという説もあり得ることです。この説を出張しても、創造に関して何の差し支えはありません。というのも、地球は常に絶えずに存在していたとしても、被造物として、存在していることにおいて、存在を与え続けている天主に依存しているからです。それで、天主は永遠ですから、永遠に創造したはずだと出張しだした神学者がいました。創造としては問題になりません。この説によったとしたら、ただ、永遠に地球が存在しているだけで、それで、常に存在しているということにおいて、天主に依存しているからです。

しかしながら、信仰は違うことを教えます。信じるべき信条であります。信じないなら、異端者になってしまいます。というのは、信仰によれば、創造は時間において始まったという教えです。言い換えると、創造は永遠ではありません。実際において、たとえ違う状態があり得たとしてもです。「初めに、天主は天地を創った」と創世記が記しています。聖書の最初の言葉です。「初めに、天主は天地を創った」。言い換えると、天主は天地を創った際に、時間をも創ったことになります。それで、時間は、ある日に始まりました。いつ、何年前に、始まったかということは、きっといつまでもこの地上では知りえないことでしょうけども。

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【全文】その3

2019年01月01日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様に全文をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)



ビルコック(Billecocq)神父様に哲学の講話を聴きましょう

(続き)
以上は、プロテスタント主義の政治上の結果を簡潔にご紹介しました。観想生活の廃止。仕事を絶対な自己実現にすること。

あとでも触れますが、新しいミサの典礼には「労働の実りであるこのパンを捧げる」という祈りがあります。新しいミサとプロテスタント主義の関係は周知の通りです。それに加えて、資本主義とも関係があるのでは?質問だけですけれど。要するに、以上は、プロテスタント主義の理論の政治上の幾つかの結果をご紹介しました。

これから、ちょっと時間を割いて、世俗社会でもない非聖職社会でもないもう一つの社会なるカトリック教会へのプロテスタント主義の理論の影響を見ていきたいと思います。

残念なことに、現代では、間違いなく言えることで悲しい事です。聖職者がいま教えている教義は、かなりプロテスタント風になっています。例えば、教皇ヨハネ・パウロ二世でも、マックス・シェーラーやシェリングやフィヒテなどといった思想家の許に基本養成を受けた事実を思うとそうなります。それらの思想家は皆少なくともプロテスタント主義の理論への憧れを持っていました。従って、当然ながら、それぞれの影響は出てきています。特に、第二ヴァチカン公会議の際にかなり登場します。

周知の通り、第二ヴァチカン公会議に関わった諸教皇は皆、プロテスタントの諸宗派の公会議への参加を積極的に促進しました。まず、勿論、プロテスタントの代表者らは招待されて参加しました。どちらかというと、プロテスタントの代表者たちが公にした発言などは、一番面白いところでもありません。プロテスタントの代表者たちは、観客席が与えられて、公会議の議会に臨んだわけですけど、それよりも面白いことがあります。一般的にも言えることですけど、一番興味深いというのは、公の人前での発言の場面ではなくて、その後です。つまり、映像もマイクもない時、気が緩める時、手に一杯を飲むときの方が興味深いです。一言で言うと、居酒屋でのことか、お手洗いで交わす会話といった感じのときです。驚くべきではないことですけど、公会議も全く一緒でした。司教たちと枢機卿たちでさえ、人間ですから。

そこで、公会議上の正式な議会以外の会話は、とても興味深いものでした。その裏舞台では、プロテスタントの代表者たちは、大きく働いたのです。招待されたから、現地にいたわけで、どうしてもカトリックの聖職者たちと一緒にいたのです。なんか「プロテスタント代表者よ、招待したけど、勘弁してくれ。我々の神学上の問題に意見を述べるわけがないので、介入しないでくれ」といったようなことはありませんでした。むしろ逆なのです。委員会なり、勉強会なりに、プロテスタントの代表者たちに参加させて、発言させて、意見を述べさせたりしました。裏舞台でプロテスタント代表者が喝采されたりしました。秘密でもなく、ただ、正式な議会以外での舞台でした。どんどんプロテスタントの代表者の意見が聞かされて、それらの種が撒かれてしまったわけです。また周知の通りですけど、例の有名な写真もあるように、プロテスタントの代表者が、どれほどに新ミサの制作に関わったか知られているところです。「我々がこのミサに参加してもよいね」と彼らが言ったほどですよ。信じられないことですが、事実であって、悲惨です。

さて、現代のカトリック教会において、プロテスタント主義の理論の何処を特に見いだせるでしょうか。一先ずに、権威のある種の廃止が見られます。一番悲惨な現象です。ややこしい誤謬ですが、団体主義(collégialité)の誤謬から来ます。つまり、団体主義という誤謬は、真っ向からカトリック教会の君主制たる体質と矛盾して相容れません。

「君主制(モノ・アルコス)」は「一つの長」「一つの権威」という意味です。カトリック教会は君主制なのに、あえてそれをもう表に出さずに、カトリック教会が開かれた議会団体であるかのように紹介されています。結局、しいて言えば、民主主義的です。少なくとも、民主主義っぽい味がすると言えます。もう、長(おさ)が指導するのではなく、団体が指導するとされています。そこから、枢機卿会や司教会や司教総会や司教団などといった発想が生じます。勿論以前にも、司教団とか存在していたが、公会議の後に余計にそれらを重んじるようになりました。また、当然、会も多くなって、そして非聖職者でさえどんどん参加していって意見を述べたりします。団体主義ですね。ある種の民主主義です。「平等」です。そこから、大変なことに、カトリック教会の定義でさえ侵されてしまってきています。カトリック教会は単なる「神の民」となります。「旅する民」とか。数日前にフランシスコ教皇さまが「歩こう」といいましたね。「歩こう!歩こう!」

私たちの主は「私は道である」と仰せになりました。そして、「命に至る道は狭い」とおっしゃいます。それに対して、「歩こう」とね。まあ。そこで皆と一緒に歩きますが、もう真理を認めさせることは無くなります。聖職者たちは、真理をもう認めさせようともしなくなりました。開いた教会ということで、話し合い大歓迎ということになってしまいました。直接にプロテスタント主義の理論の結果ではないものの、先の例でみたように、真理に、もう優位を与えないことになっています。真理というと、客観的な対象です。つまり、ある種の主観主義がカトリック教会に入ってしまいました。皆それぞれ、自分自身の好きな信仰を決めるということです。ちなみに、教皇聖ピオ十世による「Pascendi」回勅で破門されている「近代主義」という誤謬は、この主観主義に他なりませんでした。言い換えると、内面的な感情としての信仰、経験としての信仰という間違った見方を破門します。この誤謬によると、信仰は個人的な考え方に過ぎなくなります。ある種の「自由」になります。皆それぞれ、自分自身勝手に信じても良いという自由を持っているということです。言い換えると、天主はもう天主でなくなって、天主がなんであるか自分で決めるということです。もう天主が個人の発想になってしまいます。つまり、啓示を通じて人間に御自分をお示しになった天主、それで、ご自分を有りのままに人間に認めさせる天主でなくなって、皆それぞれもっている、個人が神を何であるかと考える意見が、神そのものになってしまいます。それで、皆が自分の「神」を創ってしまいます。まあ、皆といったら、私たちはそうではありませんけれど。

しかしながら、残念なことに、めちゃくちゃになっています。政治上では「政治の自由」ですが、宗教上では「宗教の自由」になります。皆、自分の告白する宗教を自由に自分で決めるという発想です。つまり、真理の優位性は無くされたので、カトリックの国家もなくなりました。

その先にあるのは、かなり頻繁に言われているものですが、「良心の尊厳」です。「人格の尊厳」に相当します。プロテスタント主義に基づく個人主義は、現代では、宗教上の「良心の道徳」という形で普及しました。「良心の道徳」というのは、客観的に従うべき道徳でなく、主観的に個人の良心で決まる道徳になってしまいます。罪というのは自覚する罪に過ぎなくなります。私が「罪だ」と思ったら罪になり、「罪ではない」と思ったら罪でないことになります。道徳の客観性がなくなります。それぞれが自分の道徳を作ってしまいます。その理屈でいくと、一番大事なのは善意があればそれで済む、です。その通りではないですか。でも、凄い混乱になりますね。皆それぞれが自分の道徳を持っているのなら、権威の役割はどこにあることになるでしょうか。完全にどこにもなくなります。まあ、懸け橋を建設して、壁を壊す役割ぐらいかな。

残念ながら、悲しいことに、カトリック聖職者の教えの中にプロテスタント主義の理論がどうやって少しずつ染みてしまったかは明白です。



それで、時間となりましたので、結論を出したいと思います。
どのような社会、どのような政治的生活においても、その客観的な共通善が秩序(和)であるというのに、プロテスタント主義はその共通善を破壊するものとなっているということになります。不和と混乱の種を持っているプロテスタント主義ですから。

秩序を無くしたところでは、乱れということを定義することもできなくなります。秩序というのは、何かに向けて方向付ける、方針づける、秩序立てる、順序立てるという意味です。秩序を回復するのは、他の何かに順序たてて整理するという意味です。物事をその適所に戻すというのは、第一の物を第一のところにおいて、第二の物を第二のところにおいて、第三の物を第三のところにおいてという意味です。これが秩序なのです。「物事は収まっている」とスイス人が言うんですけど、それぞれがそれぞれの分を弁えて、すべてのものが相応しいところにあるという意味です。つまり、この世ではすべてが相対な関係にあって、相対的な関係においてその相応しい関係にあるというのが 秩序なのです。そこに、混乱、不和と無秩序をもたらすことによって、こういった「適切な収まり」が破壊されてしまいます。また、人間における相応しい従属を破壊することになります。

まず、国家においての世俗的な善での相応しい従属を壊したうえに、霊的次元でも天主への相応しい従属をも壊しています。ルターがまさにその混乱をもたらしました。まず自然上の「共通善」がなくなります。つまり「(平)和」、「(道)徳」などといった自然なる幸せがもうありません。それに対して、「個人の善」なる財産の蓄積が幸せとされています。

そして、外的な従属もなくなります。つまり、天主への従属・順序がなくなります。皆それぞれに、自分勝手に自分の宗教を創ってしまいます。まさに、秩序を弊害する乱れそのものです。なぜでしょうか。権威も共通善も無くされているからです。個人こそが絶対になってしまうので、社会自体が破裂してしまうからです。人間中心主義の宗教に他なりません。まさに、プロテスタント主義がこの「人間中心主義の宗教」という種を含んでいるのです。

例えば、教皇パウロ六世がこういった要素を含んでいる発言を国連でやりました。それから、ルソーによる有名な言葉も典型的ですね。「良心よ、良心よ、神聖なる直観よ」とあります。まさにこの感じです。「良心よ、良心よ、神聖なる直観よ」。その続きは今、思い出せませんが。でも、御覧の通りに、人間の良心こそは、人間においての「神」となってしまいます。「私の良心が神です」と。つまり、結局、「神は私です」となります。

要するに、プロテスタント主義というものが根本的に「乱れ」そのものなのです。カトリック教会において、トレント公会議のお陰で、その乱れは早く止められました。トレント公会議は、教義において秩序を回復して、素晴らしく整理することができました。トレント公会議による諸文書を読むことをお勧めします。感嘆すべき文書ばかりです。簡潔で、明確簡明で、そして、神学上の偉大さと意味深さで、感嘆すべき文書ばかりです。そういえば、周知のように、トレント公会議から生まれたのは、公教要理です。勿論、トレント公会議の公教要理はそれほどに素晴らしいんですけど、それ以降のすべての公教要理もすべて、トレント公会議と直接に繋がっています。特に、真理の優位性の再確認。で、真理なる天主の優位性の再確認が重要です。

そこで、当時、トレント公会議のお陰で、カトリック教会において止められたプロテスタント主義はカトリック教会内部には普及できなかったのですが、世俗社会へは少しずつ浸み込んできてしまいました。まず、啓蒙思想家に続いて、フランス革命に至ったのです。割愛せざるを得ませんが、啓蒙思想家は特に権威を完全にぶっ壊したのです。

それはともかく、19世紀に自由主義や民主主義などが相次いで生じてしまいます。が、教皇ピオ九世による「シラブスSyllabus」によって、厳しくカトリック教会において止められました。また同教皇の「クァンタ・クーラQuanta Cura」と第一ヴァチカン公会議によっても止められました。そういえば、第一ヴァチカン公会議の成果は何でしょうか。その上もなくカトリック教会の至上の権威を再確認します。つまり、絶対なる自由に対して、人間の独立に対して、権威と秩序を再断言します。これは二つ目の城壁ですね。

ここで、注目していただきたいのは、カトリック教会こそがどれほどすべての誤謬から盾になって、城壁になっているかということです。そこで結局、カトリック教会はカトリックの保護者であるばかりではなく、平和に生きたいと思っているすべての人々の保護者でもあるのです。

残念なことに、誤ったそれらの理論が少しずつ普及してきて、カトリック教会の中まで染みてしまいます。例えば自由主義派や民主主義派といった聖職者の派閥によって、カトリック教会に入ろうとしました。人間中心主義を入り込ませてしまっています。それから、すべてを絶対化するために、すべてを相対化してしまいます。そういった人々の逆説なのですけど、「我々にとってすべては相対だ」といっているけど、結局、すべてが相対になってしまったら、「絶対な物」が無くなってしまったとしたら、すべてが絶対になります。単なる論理上の帰結ですね。

そういった中で、第二ヴァチカン公会議は真理を再確認するために設けられた公会議でした。そういえば、公会議のために準備資料と公会議草案の資料によると、そこにはその真理の再確認という旨が明白だったのです。ところが、公会議が始まってから早い段階に、その膨大な準備の資料や方針などは、ゴミ箱に捨てられてしまいました。要するに、第一ヴァチカン公会議の結論を再確認し、発展するべきだったはずの第二ヴァチカン公会議が、なんというべきか、プロテスタント主義が教会内に突入する道を正式に開く羽目になりました。

要するに、プロテスタント主義がまず社会で発展してしまい、そして、カトリック教会にも入ってしまいました

細かく調べてみると、結論が出せます。近代の哲学者たち、つまり近代の思想は、根本的にプロテスタント主義なのです。今日は、ホッブスとかロックとかルソーとか紹介しましたが、他にドイツの大人物の思想家も皆そうです。カントをはじめ、ヴォルフかな、そしてシェリング、フィヒテ、へーゲルなどはプロテスタント信徒です。近代的な哲学者の元祖とされているデカルトに至ってまで、彼はカトリックでしょうけど、一体なぜプロテスタント主義だらけのオランダに行ったでしょうか。何を求めに行ったでしょうか。単に自分の「自由」を求めたわけです。だから、カトリックだったかもしれないが、実践上はプロテスタントでした。

また、知識上にも、近代的な神学者でさえ、近代的な哲学の発想をする憧れに落ちてしまいました。つまり、プロテスタント主義の種を含んでいる近代的な哲学への憧れです。それから、近代的の政治体系のすべても、ルターが撒いた種に憧れているわけです。つまり、近代の哲学者であれ、近代の神学者であれ、近代の政治学者であれ、プロテスタント主義と無関係ではありません。それより、プロテスタント主義の内に、個人主義・権威否定主義、そして、既に見たようにそこから専制主義などの種を撒いてしまいました。

以上、プロテスタント主義が、当初単なる神学上の誤謬のはずのものが、というか、ルターによる単なる異端だったはずのものが、社会の全般にいたってまで、思想全般に至って、どうやって大革命を起こしたか見ました。従って、御覧の通り、今年の宗教改革500周年を祝う理由は一つもないということが明白だと思います。ご清聴ありがとうございました。
(完)