ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

レイプによる妊娠は、あらゆる中絶を100%正当化するために使われる1%の例外的な中絶理由であり、私の存在理由である

2019年06月21日 | プロライフ
レイプによる妊娠は、あらゆる中絶を100%正当化するために使われる1%の例外的な中絶理由であり、私の存在理由である の転載

●アイオワ、ケンタッキー、ミシシッピ、オハイオ、ジョージア、アラバマ。
これら6つの州では、産まれる前の子どもの心臓から心音が確認される時点で中絶という残忍な行為が違法となった。これは「勇気」そして「慈しみ」だ。

●主要マスメディアは普段は性の多様性などと言いながら、これを男と女の政治闘争と決めつける。男性議員はアメリカのすべてを代表しないかのように。

●しかし、マスメディアはプロライフ女性たちの存在を無視している。

●さらに、マスメディアは白人男性議員らが過去行ったことを無視している。
ロー対ウェイドおよびドー対ボルトンという、アメリカで中絶を容認させた最高裁判所の裁判官7人は白人の男だった。
女性の参政権を認めたアメリカ合衆国憲法修正第19条を成立させたのは全員白人男性だった。
奴隷制という不正義の廃止に向かって票を投じたのは全員白人男性共和党員だった(彼らはアメリカのすべてを代表するはずだ)。

●「レイプによる妊娠」という中絶の理由の1%にすぎない例外的理由は、あらゆる中絶を正当化するための方便として使われている。

●しかし、私の母親はレイプされて妊娠したが、中絶という暴力に訴えることを拒んだ。私は中絶される代わりに、養子に出され、愛された。私の産みの母親が必要としたのは、彼女の人生の助けとなる癒しであって、堕胎へと煽り立てる宣伝文句ではなかった。

●私は養子として15人家族の中で望まれ愛されて育ち、幸せな結婚をして4人の子どもにめぐまれた養父となった。

●私と同じようにレイプという暴力によってこの世に生を受けたひとたちが多くいる。
弁護士であり「いのち」のために働くRebecca Kiessling
前ミス・ペンシルベニアのValerie Gatto、
Trayvon Clifton、
Monica Kelsey、
Jim Sable、
Pam Stenzelなどだ。

●レイプによって妊娠しながらも勇気をもって「いのち」を選び母となった女性たちがいる。
Jennifer Christie、
Liz Carl、
Rebekah Bergなどだ。

●レイプと中絶。暴力による傷をさらなる暴力によって癒すことができるのか?

●レイプによって存在した私は、いつでも邪魔者にされ不当に扱われる1%の人間である。

●しかし私は、それぞれの生がどのように始まったかに関係なく、一人ひとりがかけがえのない価値をもつという思想を共有しながら「勇気」と「慈しみ」をもって「いのち」のために声をあげる者たちから成る、(堕胎推進をする人々よりも)はるかに大きな共同体の一員だ。





レイプによる妊娠は、あらゆる中絶を100%正当化するために使われる1%の例外的な中絶理由であり、私の存在理由である translated by Masaaki Ikeda

Conceived in rape, I am the 1 percent used to justify 100 percent of abortions
(Ryan Bomberger ライアン・ボンバーガー)


アイオワ、ケンタッキー、ミシシッピ、オハイオ、ジョージア、アラバマ。この6つの州に共通するものは何だろうか?「勇気」そして「慈しみ」だ。「心臓の鼓動法案」を成立させたこれらの州では(まもなくミズーリとルイジアナも加わる見込み)、産まれる前の子どもの心臓から心音が確認される時点で中絶という残忍な行為が違法とされることになったのだ。

おかしなことに主要マスメディアは判で押したようにこれを男と女の政治闘争に仕立てようとする(またおかしなことに普段は性の多様性などと言いながら、ここでは男と女の2つ以外に性はないと認めてしまっている)。マスメディアは、この闘争におけるプロライフ女性たちの存在を、数多くのプロライフ団体を組織し各州で中絶という暴力を拒絶する法案づくりのためにたたかっている女性たちの存在を無視するのである。

ツイッターを開けてみれば、そこらじゅう中絶推進主義者たちによるツイートが拡散している。(すべて大文字で)子宮がない者は、何も言うな!!!(NO UTERUS, NO SAY!!!)マジっすか。 ロー対ウェイドおよびドー対ボルトンという暴力の発端をもたらした黒い法服の7人は白人の男だったんじゃないの? 想うに、あれこそ「圧政」の受容以外のなにものでもないだろう。

CBSニュースは「アラバマは中絶を犯罪としてしまった―それを支持した賛成票はすべて白人男性によるもの」と嘆く。なんてことだ!白人男性が政治家になることが犯罪だなんて知らなかったぞ。

ちょっと待って。女性の参政権を認めたアメリカ合衆国憲法修正第19条を成立させたのは全員白人男性(共和党白人男性の91%と民主党白人男性の60%)じゃなかったのかな?

USAトゥデイは「アラバマで25名の男性が中絶反対に票を投じた。彼らはアメリカのすべてを代表するだろうか?」と疑問を投げかける。記事の書き出しでは「アラバマで25人の白人男性共和党員が妊娠全期間における中絶に反対する票を投じた」とさらなる警鐘が鳴らされる。そのとおり。急進的な共和党員が再び前線に躍り出るのだ。人間はみな平等につくられているという信念とともに。

奴隷制という不正義の廃止に向かって票を投じたのは全員白人男性共和党員ではなかったか?

さて、ここでいよいよ、左翼の連中がひっきりなしに利用したがるレイプというおぞましき悲劇の出番である。プランド・ペアレントフッド(Planned Parenthood※巨大中絶クリニックチェーン)が未成年者のレイプ被害の報告を怠ったことなど都合よく忘れていいのである。中絶された少女がレイプによって妊娠したのかどうか、そんなことはどうでもいいのだ。そうではなく、「レイプによる妊娠」が彼らにとって意味をもつのは、その1%にすぎない例外的な中絶理由が、あらゆる中絶を100%正当化するための方便として使えるからなのだ。

その1%が私である。

私の生物学的な母親はレイプされて妊娠したが、中絶という暴力に訴えることを拒んだのだ。私は中絶される代わりに、養子に出され、愛された。Vivian Davis上院議員はレイプによって誕生した私のような人間のことを「レイプ犯の副産物」と言ってのけたが、それは間違いだ。自分がどんな状態で受精するか、それは自分ではどうすることもできないことだ。上院議員さん、あなただってそうだろう?

私の産みの母親が必要としたのは、彼女の人生の助けとなる癒しであって、世の中を煽り立てる宣伝文句ではなかったんだ。

様々な人種からなる15人家族の中で望まれ愛されて育った養子として、そして幸せな結婚をして4人の子どもにめぐまれた養父として、私には、この痛ましい問題には別の側面があると断言することができる。弁護士であり「いのち」のために働く熱い活動家である友人のRebecca Kiesslingをはじめ、私と同じようにレイプという暴力によってこの世に生を受けたひとたちがいる。前ミス・ペンシルベニアのValerie Gattoや、Trayvon Clifton、 Monica Kelsey、Jim Sable、Pam Stenzelといった人たちの証言は、主要マスメディアの近視眼的な中絶推進一辺倒の偏見とはまったく異なる別の見方を提供する。そして、レイプによって妊娠しながらも勇気をもって「いのち」を選び母となった女性たちがいる。Jennifer Christie、Liz Carl、Rebekah Bergがそうだ。

私が言いたいのはつまり、いったい本当の「過激論者」は誰なんだ?ということだ。人間には誰しも生きる権利があると考える者たちか? あるいは、アメリカ国内で毎年100万におよぶ無垢な人間の無惨な殺戮を支持する人たちか? Gloria Steinemのような「中絶したよ」Tシャツを着こなし自らの中絶体験を自慢する人たちか? 妊娠させるたびにその男のペニスの一部を切除すべしと仄めかす似非フェミニストの Jill Filipovicのような人たちか? (産まれる前の子どもは糞と大差ないものだから)中絶を拒むことを結腸内視鏡検査を拒むことにたとえたCecile Richards(※前プランド・ペアレントフッド会長)のような人たちか?

レイプと中絶という問題をちゃんと考えてほしい。どうやって暴力による傷をさらなる暴力によって癒すことができるんだ?

現実を見よう。仮にもしアラバマの人命保護法案(Human Life Protection Act)がレイプと近親相姦は例外条項にしていたとしても、支離滅裂な「侍女物語」(※人気テレビドラマ"The Handmaid's Tale")のコスプレイヤーたちは全力で臨戦態勢を敷いたことだろう。似非フェミニストたちは、出鱈目な平等主義を鼓舞するために悲劇を利用する必要がある。彼らの長広舌の中に、実際の犯罪者、つまりレイプ犯を罰しようという話が出てくる余地は絶対になさそうだ。

超党派による部分分娩中絶禁止法案にジョージ・W・ブッシュ大統領がサインしたときのことを憶えているだろう? 2004年のことだ。全米黒人地位向上協会(NAACP)を含む中絶を推進する団体がこぞって首都ワシントンに集結し、「女性の生命のための行進("March for Women's Lives.")」と称する大規模な抗議行動を起こしたことを。「粉砕した小さな頭蓋と胴体を切断し人体を母体から引き離して除去するために子どもを部分的に分娩する必要があるというのに、それを阻止しようなんて真似がよくまあできたものだ」というのが抗議の内容だったわけだ。

歴史に疎いプランド・ペアレントフッド現会長の若き Leana Wen博士は、ツイッター上で次のように述べてしまった。「信じられないことと言うしかないけれど―医療行為として嬰児殺しのようなことがあってはならないし、中絶可能時期を出産直前まで引き上げるということもあってはならない」と。大多数の共和党員と数名の民主党員が票を投じて部分分娩という残虐な嬰児殺しを阻止したことに中絶推進主義者たちが激高しプランド・ペアレントフッドに率いられて「女性の生命のための行進」という抗議行動を起こした15年前のことは、どうやら彼女への引き継ぎメモに書かれていなかったんだろう。

また、ニューヨーク・タイムズによれば、全米中絶事業者連合(National Coalition of Abortion Providers)事務局長Ron Fitzsimmonsは、残忍きわまる生きたままの拡張と排出の手法(またの名を部分分娩中絶)は「日常的に」おこなわれていたことを認めている。

そしてここで、ヴァージニア州知事Ralph Northamのお出ましだ。彼はどのように嬰児殺しがおこなわれていたかを穏やかな口調で説明してくれるのだが、それを聞いていて、まさかGosnellのことを思わないわけにはいかないだろう。赤ちゃんを生きたまま分娩し臍の緒を切って殺すという嬰児殺しをフィラデルフィアで長年にわたって繰り返しおこなっていた中絶医師のことを。ようやく殺人罪が確定し、いま彼は牢獄にいるが。

先ごろニューヨーク州で成立したリプロダクティブ・ヘルス法案が繰り返し強調していたのは、いかなる「健康上の」理由(身体的理由、経済的理由、心理的理由、家庭的理由、さらにはドー対ボルトン判決で明確にされた女性の年齢的理由)であれ、中絶執行者がその理由を認める限りは、出産までの妊娠全期間における中絶が合法になるということだ。どれだけ都合のいい法律なんだ!

バーモント州が成立させたばかりのH57法案は、中絶に対するあらゆる規制を撤廃し、出産までの妊娠全期間中絶を認めることになる。そればかりか、この法律によれば、自為中絶(またの名を「闇中絶」)でも罪に問われないことになってしまう。

似非フェミニズムこそ極限論者である。それは暴力行為のうちに慈悲を見出し、誰かが無理矢理消されようとするときに力を見出し、自分を捨てて身を任せるよう神が計画したところに(自己中心的な)自律性を見出すのだ。

私は、いつでも邪魔者にされ不当に扱われる1%の人間である。しかし私は、われわれはみな平等でそれぞれの生がどのように始まったかに関係なく一人ひとりがかけがえのない価値をもつという急進的な思想を共有しながら「勇気」と「慈しみ」をもって「いのち」のために声をあげる者たちから成る、それよりはるかに大きな共同体の一員なのである。

(2019年5月20日 Radiance Foundation)


国際シンポジウム「1789-2019、フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう」

2019年06月19日 | カトリック

ファチマの聖母の会が、王権学会と共同主催で
客観的な歴史の観点から、フランス革命を見つめ直す 「国際シンポジウム」が開かれます



■日時:2019年7月13日(午前9時半から午後6時半)、7月14日(午後2時から午後6時半)

■場所:麗澤大学 東京研究センター 新宿アイランドタワー4階(西新宿)
 ●東京メトロ・丸の内線「西新宿駅」に直結
 ●都営地下鉄大江戸線・都庁前駅からは徒歩5分。
 ●「新宿駅」西口から徒歩10分(新宿警察署そば)。

■テーマ:「1789-2019、フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう」

■発表者

 ●ジャン・フランソワ・トマス神父(イエズス会)【"Le goût des myrtilles" Ed. Via Romana, 2018などの著者】

 ●川上洋平准教授(専修大学)
    【『ジョゼフ・ド・メーストルの思想世界―革命・戦争・主権に対するメタポリティークの実践の軌跡』創文社(2013)などの著者】

 ●ジェイソン・モーガン准教授 (麗澤大学)【『リベラルに支配されたアメリカの末路 - 日本人愛国者への警告』ワニブックス(2018)などの著者】

 ●ポール・ド・ラクビビエ氏(國學院大學)

 ●マイケル・マット氏(レンムナント誌編集長)

 ●フィリップ・ピショ=ブラヴァール教授(ブレスト大学)【"La révolution française", Ed. Via Romana, 2014などの著者】

 ●アン・ベルネ(歴史家)
    【"Le cardinal Thuan, un évêque face sau communisme", Tallandier, 2018,
     "Histoire générale de la chouannerie", Perrin, 2016などの著者】

 ●ガブリエル・ビルコック神父(聖ピオ十世会)

 ●トマス小野田神父(聖ピオ十世会)

 ●平坂純一(作家)

■主催
 ●王権学会
 ●ファチマの聖母の会




LGBT vs プロライフ

2019年06月10日 | カトリック
March for life から「LGBT vs プロライフ」の記事転載

● カトリック東京教区の教区長が、教区の信者たちから「提言」を求めるという異例のリクエストがあった。ただちに「提言」に取り組もうとしたのは、"LGBT"のグループと"プロライフ"のグループ。LGBTとプロライフ。その2つは、カトリックの"いま"を写す鏡だ。

● LGBT vsプロライフ。信者であればどちらかを選ばなければならない。中立はない。両方を選ぶことは出来ない。無関心であることはもう許されない。LGBT vsプロライフとは《新しいカトリック》か《古くからのカトリック》かの選択だ。

● LGBTのグループは、たんに性的マイノリティの立場を教会でも認めてほしいと訴えているのではない。カトリックを新たに作り替えようとする壮大な野心によって彼らは駆動されている。《新しいカトリック》は、LGBTとともにある。そして《新しいカトリック》は、反カトリックである。

● 「女性同性愛」、「男性同性愛」、「両性愛」、「性同一性障害」、その4つの性的志向を表わす英語の頭文字をとった略称によってLGBTと言われるが、それは元来カトリックが絶対に認めることがない、不変の「ドグマ」に反する性的志向の総称だ。

●《新しいカトリック》はカトリックの名のもとに反カトリック(=LGBT)の活動をしているのであり、東京教区では反カトリック(=LGBT)のためのミサが定期的におこなわれているのだ。《新しいカトリック》は反カトリックを寛容に受け入れる。反カトリックを受け入れるからこそ《新しいカトリック》なのだ。《新しいカトリック》正しいも邪悪もない。多様性の坩堝こそが《新しいカトリック》の主張となる。

● LGBT運動がシンボルとする"多様性"を示すというレインボーカラーにカトリック教会を染めあげていくこと。それがLGBTCJたちの究極の目的だ。レインボーの御旗のもとで、カトリックから悪も地獄も罪も消え去り、同性愛を認め、堕胎さえ悪とされることがない"平和"な日が訪れることを夢見ている。

● 《古くからのカトリック》は、反カトリックを認めない。反カトリックに対抗する昔ながらの異端論駁の姿勢をとらざるをえない。プロライフ(Pro-Life)とは、カトリック的には堕胎という究極の悪を斥ける運動である。愛をもってNOと言う。No Pro-Life, No Catholic 〜 プロライフでなければ、カトリックではない。《古くからのカトリック》の合言葉だ。

● LGBTは性的マイノリティのための運動とされているが、いまや世の中的にはメインストリームとなってしまった。LGBTは世界経済を動かすメジャーなアジェンダとなっているのである。莫大な宣伝資金が投入された大キャンペーンが全世界規模で拡大中である。LGBT運動に乗れなければ、LGBTに「いいね!」しなければトレンドから取り残される。

● 世の中の勢いがそのまま教会に押し寄せる。そこでLGBTとプロライフの攻守をとおして、《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》がせめぎ合う。LGBTの祭典であるPRIDEとプロライフの祭典とも言いうるMarch for Lifeを見比べてみるといい。中高年層が目につくのは前者で、後者は10代、20代の若者の多さに圧倒される。新しいカトリックのほうが必ずしも若者に支持されるわけではない。若者はなんでも新しいもの好きという見方自体が時代遅れだ。プロライフに出会うことで若者が教会に戻ってくる傾向は世界的には顕著である。

●《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。自分にとってどちらが都合がよいか?という話ではない。問題は真理である。真理はどちらにあるか。真の平和はどちらにあるか。神の愛はどちらにあるか。それが問題だ。


LGBT vs プロライフ by Masaaki Ikeda

東京教区宣教司牧方針策定への協力のお願い

カトリック東京教区の教区長である菊地功大司教が、教区の信者たちから「提言」を求めておられる。「東京教区宣教司牧方針策定への協力のお願い」である。元旦の東京教区ニュースの一面で大司教様が直々に呼びかけられた。会社でいえば、今後の経営方針の参考になる提案を社長が全社員に向けて願い出るようなものである。グループで話し合って文書にして聖霊降臨(6月9日)を目処に提出してほしいと、締め切りまで明記されていたところから、大司教様のひとかたならぬ強いご要望であることがうかがえた。

この教区長の異例のリクエストにこたえ、ただちに「提言」に取り組もうとしたグループが2つある。

ひとつは、”LGBT”のグループである。LGBTCJと称するグループ(※CJとはカトリックジャパンのことか)の主宰者が自身のウェブサイト上で菊地大司教への提言をおこなおうとグループのメンバーに協力の呼びかけをしていたことが確認されている。すでにそのウェブサイト上では提言の具体内容まで公にされているのかもしれないが、それは与り知るところではない。ただ、教区の中の“一つのグループ”として、このたびの教区長の呼びかけをチャンスと好意的に受けとめ、意欲的に提言づくりに向かおうとしていたことは確かである。

そして、このチャンスに大司教様に提言を出そうと意気込んだもうひとつのグループが、”プロライフ”のグループである。毎月第二木曜日に松戸教会でおこなわれている「プロライフのためのミサと祈り」に集まる有志たちである。こちらのグループによる提言は早々に作成され、聖霊降臨のずっと前、神のお告げの3月25日にすでに菊地大司教に文書が提出されている。

ところで、LGBTも、プロライフも、いまだ日本の教会ではあまり馴染みのないことばだろう。上の2つの当該グループとは関わりのない、だいたいの日本の信者さんにとっては馬耳東風ではないか。ミサ後のお茶会などでLGBTあるいはプロライフのことを話題にしようとしても「はあ?」と返されることがほとんどである。しかしカトリック教会が世界宗教であるなら、LGBTにもプロライフにもあまり馴染みがないというのは実は異常なことである。


LGBTとプロライフがせめぎ合うカトリックの"いま"

良くも悪くも世界から孤立する日本の教会は、カトリックの激動の”いま”を生きていない。LGBTとプロライフ。その2つは、カトリックの”いま”を写す鏡である。それがレンズであるならば、極端に焦点の異なる2つの鏡である。LGBTに傾くカトリックか、プロライフに根ざすカトリックか。乱反射するその両極のせめぎ合いのうちに、カトリックの”いま”がある。

まったく相異なる立場でありながら、上の2つのグループが同じように意気揚々と取り組んだ大司教様への提言は、いみじくも、もっと日本の教会もカトリックの”いま”を生きなさい!と寝た子を起こす喇叭であったかもしれない。この先、どちらの喇叭の音が馬耳東風の日本の信者さんの耳に届くことになるのだろう。己の信仰の琴線に触れることになるのはどちらの音色なのか。そして目を覚まされたとき、己の目の前にある真理のレンズは、果たしてどちらに焦点があたっているだろうか。

LGBT vsプロライフ。大衆誌風の煽り見出しで申し訳ないが、決して大袈裟ではない。それが、異端論駁を繰り返してきた二千年の歴史の上にあるカトリックの”いま”なのである。信者であればどちらかに軍配を上げなければならない。どちらかに軸足を置かなければならない。あるいはどちらかを踏み絵にしなくてはならない。どちらにたいしても馬耳東風であることはもう許されない。世界のカトリック教会から蚊帳の外だった日本においても、その両極のせめぎ合いが始まるのだ。このたびの大司教様への提言を契機に、たたかいの火蓋が切って落とされた!と言っても過言ではないだろうと思う。

《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。LGBTおよびプロライフという運動のかたちで表出される両極のせめぎ合いを、そのように言い換えることができるだろう。おそらくLGBTのグループは、たんに性的マイノリティの立場を教会でも認めてほしいと訴えているのではない。カトリックを新たに作り替えようとする壮大な野心によって彼らは駆動されているのではないだろうか。《新しいカトリック》は、LGBTとともにある。そして《新しいカトリック》は、あろうことか、反カトリックなのである。


反カトリックを受け入れる新しいカトリック

「女性同性愛」、「男性同性愛」、「両性愛」、「性同一性障害」、その4つの性的志向を表わす英語の頭文字をとった略称によってLGBTと言われるのだが(昨今さらに「性愛無関心」を意味するQが加わってLGBTQとするのが適切らしい)、それは元来カトリックが絶対に認めることがない、不変の「ドグマ」に反する性的志向の総称にほかならない。確かに日本人には馴染みにくいそんな英字を使わなくとも、LGBTの代わりにそうした性的志向を端的に「反カトリック」と言ってしまえばいい。カトリックの名のもとに反カトリック(=LGBT)の活動をしているのであり、東京教区では反カトリック(=LGBT)のためのミサが定期的におこなわれているのである。

それは何も語義矛盾ではない。むしろそこにこそ、カトリック教会におけるこの《新しいカトリック》の運動の可能性があると言うべきだ。運動に関わる当事者たちにもその自負があるはずだ。《新しいカトリック》は反カトリックを寛容に受け入れる。反カトリックを受け入れるからこそ《新しいカトリック》なのだ。《新しいカトリック》には正も反もない。これからは、何もかも受け入れる”多様性”の坩堝がカトリックなのだ、というのが《新しいカトリック》の主張となるであろう。

LGBT運動がシンボルとする”多様性”を示すというレインボーカラーにカトリック教会を染めあげていくこと。それがLGBTCJさんたちの究極の目的ではないか。そこには争いもなければ「悪」もない、と彼らは考えるだろう。レインボーの御旗のもとで、カトリックから悪も地獄も罪も消え去ることを夢見ているだろう。同性愛を認める《新しいカトリック》の色が見えてくるならば、堕胎さえ悪とされることがない”平和”な日が訪れるのもそう遠い先のことではないかもしれない。


反カトリックを斥ける《古くからのカトリック》

LGBTのグループにとっては希望であることが、《古くからのカトリック》を継承するプロライフのグループにとっては危機となる。《古くからのカトリック》は、もちろん反カトリックを認めない。「現代化〜アジョルナメント」がおこなわれた今日でも、反カトリックに対抗する昔ながらの異端論駁の姿勢をとらざるをえない。それゆえプロライフは”好戦的”と揶揄されもする。プロライフの教書というべき聖ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」は、明らかに宣戦布告の書である。プロライフ(Pro-Life)とは、世の中的には産まれる前のいのちを守る活動であるが、カトリック的には堕胎という究極の悪を斥ける運動である。

《古くからのカトリック》の信仰を守るために堕胎を意図した妊娠中絶にはNOと言わねばならない。松戸教会の有志を含む世界のプロライフはそう考える。もちろん敵愾心からではなく、愛をもってNOと言うのである。

世界から孤立する日本では、ようやく松戸教会で動きが出てきた程度でプロライフの認知などほとんど無いに等しいが、世界に11億人いるカトリック人口の半分以上は、「いのちの福音」を読んだことはなくても、まさしくプロライフが現代における福音であると信じているだろう。

No Pro-Life, No Catholic〜プロライフでなければ、カトリックではない。《古くからのカトリック》の側にいる人々の言い分であり、合言葉である。


世界経済を動かすLGBT vs 若者が支持するプロライフ

LGBTは性的マイノリティのための運動とされているが、いまや世の中的にはメインストリームとなってしまった。LGBTのイベントのスポンサーに錚々たるグローバル企業が名を連ねているように、LGBTは世界経済を動かすメジャーなアジェンダとなっているのである。莫大な宣伝資金が投入された大キャンペーンが全世界規模で拡大中である。LGBT運動に乗れなければ、LGBTに「いいね!」しなければトレンドから取り残される。まだそれに関与していない企業担当者もそんな不安に駆られるだろう。各国で同性婚が法制化される流れは強まる一方である。LGBTを推奨するプログラムが公教育の現場にも導入されるようになっている。

そして、世の中の勢いがそのまま教会に押し寄せる。そこでLGBTとプロライフの攻守をとおして、《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》がせめぎ合う。《新しいカトリック》の色に浸食されて、《古くからのカトリック》は後退を余儀なくされるのだろうか。現在はまだ全カトリックの半数以上と思われるプロライフ人口は縮小していくことになるのだろうか。

むしろプロライフが持ちこたえることで、《古くからのカトリック》が盛り返す機運も見出せるのではないか。LGBTの祭典であるPRIDEとプロライフの祭典とも言いうるMarch for Lifeを見比べてみるといい。中高年層が目につくのは前者で、後者は10代、20代の若者の多さに圧倒される。新しいカトリックのほうが必ずしも若者に支持されるわけではないようだ。若者はなんでも新しいもの好きという見方自体が時代遅れなのかもしれない。プロライフに出会うことで若者が教会に戻ってくる傾向は世界的には顕著である。


《新しいカトリック》の土壌が育まれている日本

しかし世界のカトリックの動向が日本にあてはまるかどうかはわからない。世界から孤立している日本ではあるが、この半世紀、”新しくなければカトリックではない”とする風潮が止むことなく、カトリックの信仰の遺産は神経症的に排除され続けてきた感は否めない。日本は着々と《新しいカトリック》を受け入れる土壌を育んできたのかもしれない。その意味で、LGBTのグループが攻め入るチャンスは大いにあるだろう。一方、形勢不利にみえる状況で、プロライフのグループがどこまで巻き返す底力を発揮できるだろうか。

LGBTのグループ、プロライフのグループ、それぞれが菊地大司教に提出した提言のその後の展開を見守りたい。少なくとも来年の今ごろは、LGBTにたいしてもプロライフにたいしても、信者はもはや誰も馬耳東風ではいられない状況がうまれていることを期待したい。

《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。自分にとってどちらが都合がよいか?という話ではない。問題は真理である。真理はどちらにあるか。真の平和はどちらにあるか。神の愛はどちらにあるか。その判断材料を個々の信者に示すことが「宣教司牧指針」なのかもしれない。

また、それ以上に、世の中のひとたちは、どちらの《カトリック》に期待するだろうか。そこは極めて重要なポイントである。日本はカトリック人口が0.35%という、紛れも無い世界最大の「未布教国」である。99%のキリスト者ではない日本人に、カトリックはどうアプローチできるのだろうか。


宣教司牧指針策定にマーケティング発想を

現代の未布教国にたいする「宣教司牧指針策定」にはマーケティングの発想が不可欠だろう。《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。それはマーケティング的にも使えそうな切り口(コンセプト)ではないか。キリストを知らない多くの日本人に福音として響くのはどちらなのか。リサーチしてみれば、きっと有意義で興味深い答えが出てくるだろう。

カトリック教会が公式に日本社会に向かうとき、いつも反対の声ばかりがあがっていたように思える。死刑制度反対、憲法改正反対、原発反対、新天皇即位式への公費拠出反対などなど。しかしマーケティングという観点に立つならば、カトリック的な価値を体現しているとみなせる世の中の個々の事象にたいし、カトリックとして称賛の声をあげることが必要ではないかと思う。それが単純に世の中にたいするカトリックのアピールになるだろうし、さらには、未布教国の社会の中に秘められたキリスト教の真理を捜し当てる「inculturation〜インカルチュレーション」の実践とはそういうことなのかもしれない。

たとえば《新しいカトリック》の立場から、性同一性障害の悩みを克服し女性同士でありながら真面目な”夫婦”として生活するカップルを祝福し称賛の声をあげる。あるいは《古くからのカトリック》の立場から、妊娠中に子どもに重い障害があることがわかっていながら産み育てている家庭を祝福し称賛の声をあげる。そのどちらを採ることがマーケティング的な「差別化」となるだろう。どちらも同じように祝福すればいいというのは無理な相談だ。それでは世の中的に「カトリックってなんなの?」ということになってしまう。

周囲の偏見に屈せず同性愛を貫いたカップルを称賛するのと、困難な妊娠にもかかわらず産む決意をした女性を称賛するのと、どちらの《カトリック》がより多く「いいね!」を獲得できるだろう。ひとつ、そういう視点から「宣教司牧指針策定」がおこなわれることを望みたい。

新しいカトリックか、古くからのカトリックか。
宣教司牧の「指針」は、どちらに向かうだろう。

トマス・アクイナス前田枢機卿からのマーチフォーライフのためのメッセージ

2019年06月08日 | マーチフォーライフ
トマス・アクイナス前田枢機卿からのマーチフォーライフのためのメッセージ

「すべての命を大切に」教皇様の来日のテーマです。
教皇様来日の準備のために、生命尊重の大きなうねりを波にして下さい。
「命の海にあみを下ろす」
他人の命も自分の命も神様からいただいた大切なもの。
命のマーチにご参加ください。




Message from Thomas Aquino Manyo Cardinal Maeda:

The key message that our Holy Father will bring when he visits Japan this year will be: 'Respect Every Life'.

In preparation for his visit to this country, let us create a big wave and surge of the respect for life.

'Let down your nets in the sea of life.' Respect life. The lives of our neighbors and ourselves are a gift from God.

Please join the March for Life.



Mensagem do Cardeal Thomas Aquino Manyo Maeda, arcebispo de Osaka, Japão.

«A mensagem principal que o nosso Santo Padre trará quando visitar o Japão neste ano será: "Respeite cada vida".

Em preparação para a sua visita a este país, vamos criar uma grande onda de esperança e aumento do respeito à vida.

'Lançai as vossas redes no mar da vida.' Respeite a vida. A vida do nosso próximo e de nós mesmos são um presente de Deus.

Por favor, junte-se à Marcha pela Vida!»



El mensaje del Cardenal Tomás de Aquino Manyo Maeda

El mensaje principal que nuestro Santo Padre traerá al Japón, durante su visita este año será: "¡La Vida de cada uno debe ser Respetada! ".

Para preparar su visita a este país, debemos crear la ola de respeto por la vida y hacerla crecer hasta que se convierta en una gigantesca ola.

'Echad vuestras redes, en el mar de la vida.' Respetemos la vida. La vida de nuestro prójimo y de nosotros mismos es un regalo de Dios.

¡únete a la Marcha por la Vida!, por favor.

2019年7月15日(月)海の日に,東京で第6回目のマーチフォーライフが行われます

2019年06月03日 | マーチフォーライフ
2019年7月15日(月)海の日に東京で第6回目のマーチフォーライフが行われます

あなたに、できることがあります。
生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、
ファチマの聖母といっしょに歩いてください!


2014年7月13日、日曜日の午後、国会をめざして日本で初めてのマーチがスタートを切りました。 わずか30名の有志による小さな小さな一歩ですが、とても勇気のある愛にあふれる一歩でした。

それから毎年、7月の第二日曜日は、日本のマーチフォーライフ〜いのちのためのデモ行進の日になりました。

2017年からは、マーチフォーライフの日が「海の日」(産みの日)に変更されました。

日本では2019年で6回目となります。

女性も男性も、大人も子どももいます。“中絶やめよう” プラカード代わりのうちわを掲げますが、声はあげません。産まれる前の赤ちゃんが声をあげられないように、マーチ参加者も静かに、でも、満面の笑顔で歩きます。お腹の赤ちゃんが、声はあげられなくても生きていることそれ自体を喜んでいるように。声なき行進は、祈りの行進でもあります。

さあ、あなたもファチマの聖母と一緒に、歩いてください!



マーチフォーライフ2018の様子