ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

私たちの主の公生活の概略 【公教要理】 第二十六講

2019年02月28日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第二十六講  私たちの主の公生活の概略



公生活への準備を済ませて、つまり洗礼と断食と誘惑を経た準備が終わって、私たちの主は、正式にご自分の公生活を始めます。使徒の選定が、公生活の開始となります。

使徒として12人を選びます。全員は、単純な人々で、労働層ばかりですが、キリストの公教会の柱になり、全宇宙へキリストの福音の布教者・伝道者になっていく使命が与えられました

使徒を選ぶ前に、先ず、私たちの主は、祈る為に一旦去ったと聖書に記されています。「そのころ、イエズスは祈ろうと山に登り、夜中天主に祈られた。」 祈った後に、続いて、福音書によると、「夜明けになると弟子たちを呼び、その中から十二人を選んで、使徒と名付けられた。」と聖ルカの福音書にあります。要するに、私たちの主は、自分に十二人の使徒を、即ち自分の補佐を選びます。福音を布教するために使徒を選び、その後、主は世界中に送ったのです。

第一の使徒は、シモンです。その後、ペトロと名付けられて、シモン・ペトロです。イエズスは、シモンと共にアンドレアを選びます。アンドレアはペトロの兄弟です。二人とも漁師です。

シモンとアンドレアと供の、もう二人の漁師を私たちの主が選びます。ちなみに、四人とも、同じ出身で、ガリラヤ地方のテベリア湖で漁を営んでいました。ヤコブです。大ヤコブと呼ばれます。そして、ゼベダイの子ヨハネです。

続いて、フィリッポ、それから福音者及び税吏なるマテオ、そして、バルトロメオ、おそらく、ナタナエルでもあります。聖伝によると、バルトロメオとナタナエルは同じ人です。

そして、ディディムと呼ばれているトマです。周知の「疑い深い」トマですね。「私が見るまで信じません」と言い出したトマですからね。

続いて、もう二人の使徒は私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟に当たります。小ヤコブユダ(或いはタデオ)です。ユダとタデオは同じ人を指します。つまり、小ヤコブの兄弟で、アルフェオ(父)とマリア・クレオファの子だと福音書に記されています。マリア・クレオファというと、いとも聖なる童貞マリア様の義理の姉妹に当たります。だから、エルサレムの第一の司教となっていく小ヤコブとその兄弟のユダ或いはタデオは、私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟に当たります。福音書では、この二人を指して、イエズス・キリストの「兄弟」と頻繁に書かれています。というのも、原文では、「兄弟」と「従兄弟」とは、同じ意味で使われて、同じく使用されているのです。だから、イエズス・キリストの「兄弟」という時に、私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟(いとこ)を指すわけです。

最後の二人の使徒は、カナンのシモンとカリオト出身の故にユダ・イスカリオトと呼ばれるユダです。このユダこそが、私たちの主、イエズス・キリストを最後に裏切ります。しかしながら、ユダも他の使徒らと同じ身分で、しかも彼も、最初は、熱意でやる気が満々でした。

裏切ってしまった後に、私たちの主、イエズス・キリストのご昇天の後に、かれの代わりに、使徒聖マティアが選ばれました。



以上は、私たちの主に選ばれて、ご自分のための12人の使徒です。12人の使徒を選んだ以降は、私たちの主は、聖地中を歩き回っていきます。つまり、福音を布教するために、ガリラヤとユダヤを歩き回ります。言い換えると、良き言葉を告げるためです。ギリシャ語では、「福音」は、まさに「福(よ)き音(おと)ずれ」で、良き言葉を意味します。良きお知らせですね。

また、御教えを宣べ伝えるために、道徳を思い起こすために、伝道するために、諸秘跡を設立するために、歩き回ります。御教えを説きながら、実践して導き模範をお示しになります。この観点から見れば、私たちの主は、諸聖徳のいとも高き模範となります。要するに、私たちの主は御教えと共に、この御教えの具体的な実践の模範をも私たちへ示すわけです。その上に、これらはあたかも十分ではないかのように、これらのすべてを確証する形で、奇跡を起こし、預言をも言われます。

私たちの主、イエズス・キリストの公生活において、言ってみれば、三つの要素があります。

宣教(伝道)の部と、彼の聖なる一生を通じての御教えの実践の部と、奇跡と預言を通じての宣教の確立の部との三つの中軸があります。完全なる全体となります。

私たちの主は、ご自分の福音が、だれの心までも届けられるようになさいました。というのも、一番疑い深い人でも、奇跡を見て、予言を聞いて、それを受けて、御教えの証になり、また一生の神性なる人生の証となるようになさったのです。そのために、奇跡と預言を役立たせられました。ちなみに、御教えに限って言えば、だれでも、皆その素晴らしいことを認めています。優れている御教えなのですから。私たちの主の宣教・伝道は、完璧と言われるほど、優れていたわけです。「イエズスが律法学士のようではなく、みずから権威をもつ人のように教えられたからである。」 聖マテオの記すところです。税吏であるのにこう証言しましたよ。聖ヨハネ曰く、「いまだかつてあの人のように話をする人を見たことがありません」 と。

私たちの主の神性についても、当時の誰でも皆、認めざるを得ませんでした。彼の言行を咎めようがなかったわけです。落ち度も過ちも、一つもしなかったからです。また後でご紹介しますが、ファリサイ派の人々と律法学士らは、イエズスに対して、何度も罠を仕掛けるわけです。にもかかわらず、はまったことは一度もありませんでした。最後に、奇跡の前に、また一番明白な奇跡なる復活の前にして、天主の御業である以外に、なにもいいようがないのではないでしょうか。

要するに、ご自分の御教えとその聖なる実践との神聖なる性質を出来るだけの一番完璧及び完全なる形で世に示したのです。

使徒の選定以降の私たちの主、イエズス・キリストの公生活における使命を以上のように纏めることができます。
御教え、言い換えると御教えの宣教・伝道です。聖徳の実行、言い換えると御教えの実践。奇跡と預言、言い換えると御教えの確立


「カトリック復興の集い」のお知らせ 2019年3月2日午後1時

2019年02月27日 | マーチフォーライフ

◆◆◆「ファチマの聖母の会」からのお知らせ◆◆◆


2019年3月2日(土)に、第二回「カトリック復興の集い」を開催します。

場所:東京都文京区本駒込1-12-5 曙町会館
時間:2019年3月2日(土)午後1時から4時まで

「マーチフォーライフとカトリック」(ゲスト・スピーカー:池田正明氏)、
「召命について」(サマース神父様)、
「フリーメーソンについて」(Billecocq神父様)
などが企画されています。皆様の参加をお待ちしています。



◆◆◆「ファチマの聖母の会」からのお知らせ◆◆◆


6月1日(土)に、第三回「カトリック復興の集い」を開催します。

「政治哲学・1789年の革命による政治変化」(Billecocq神父様)、
「父の使命」(Paul de Lacvivier氏)
「課題未定」(ゲスト・スピーカー:麗澤大学准教授Jason Morgan)、
などが企画されています。皆様の参加をお待ちしています。



Catholic Restauration Gathering
organized by Association of Our Lady of Fatima


Place: Akebonocho-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Map: http://g.co/maps/nxeh5

Date: March 2 (Tuesday) 2019
Time: 13:00 (1 PM) - 16:00 (4 PM)

Following conferences are scheduled:
*March for life in Japan (by Masaaki Ikeda, guest speaker, leader of March of Life in Japan) /in Japanese
* About vocations by Fr. Summers / in English with Japanese translation
* About Free-masonry by Fr. Billecoq (projection) / in French and Japanese (subtitle)


Catholic Restauration Gathering
organized by Association of Our Lady of Fatima


Date: June 1 (Tuesday) 2019
Time: 13:00 (1 PM) - 16:00 (4 PM)

Following conferences are scheduled:
* About Changes operated by 1789’s revolution by Fr. Billecoq (projection) / in French with Japanese subtitle
* Talk by Jason Morgan (topic to be announced)/
* About the mission of the father in family by Paul de Lacvivier / in Japanese


私たちの主の公生活への準備 【公教要理】 第二十五講

2019年02月26日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第二十五講  私たちの主の公生活への準備


30歳の時、私たちの主は私生活を終え、ナザレトを出て公生活を始めます
既にご紹介したように、第三条の「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、」から、すぐに「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け」まで飛びますね。
今回は、まだこの両条の間の時期をご紹介します。

今から、簡潔に、私たちの主の公生活をご紹介します。人々へ向けて教え始めました。ラテン語で「Convivere」(共に生活する)というように、人々の間で、人々と共に生活することになさいました。

30歳の時、ナザレトを出て、私たちの主はヨルダンの河岸(かわぎし)までいきます。ヨルダン川という河川は聖地の東方の境目となります。従兄にあたる聖ヨハネのところへいらっしゃいます。聖ヨハネは、「先駆者」とも呼ばれています。なぜ「先駆者」、「先に駆ける者」かというと、洗者聖ヨハネは、旧約聖書において、「主の道を準備する者」 として予言されていました。聖ヨハネの父、聖ザカリアは、自分の息子の誕生を疑ったせいで、言葉を話すことが出来なくなってしまいました。そこで、聖ザカリア自身が、言葉を回復した時、息子についてこう預言します。
「幼子よ、あなたはいと高きものの預言者と言われる。なぜなら、主に先立ってその道を準備する」 から。

~~

要するに、洗者聖ヨハネは、主の先駆者であり、主の道を準備する者です。従ってイエズス・キリストは洗者聖ヨハネのところに行きます。洗者聖ヨハネは、修行隠者の人生を送りながら、苦行生活を行っていました。福音書によれば、洗者聖ヨハネについてはこう描かれています。「ヨハネは駱駝(らくだ)の毛の衣をまとい、腰に革帯(かわおび)をしめ、いなごと野蜜を食べていた。」 こうして、私たちの主の道を準備するのです。

つまり、彼の使命は、諸民族へ、人々に向けて、メシア(救世主)の到来を良く準備させるために、心構えさせることにあります。つまり、霊魂たちが私たちの主イエズス・キリストを迎えることができるために、霊魂たちをその目的の方へ向かわせる準備をするのです。
手段は、「悔い改めよ」という教訓で彼が主の道を準備します。だから、彼が洗礼を授けます。だから、洗者聖ヨハネと呼ばれています。ただし、水で洗礼を授けるとはいえ、秘跡の洗礼のではなくて、悔い改め(悔悛)の洗礼となっています。

言い換えると、洗者聖ヨハネは、罪の償いのために苦行せよといった霊魂への励みですが、霊魂はイエズスの実りを頂ける状態になるための心構えです。聖寵の実りを得られるようになるためですね。洗者聖ヨハネの当時の評判は、未曾有でした。非常に人気で、何処に行っても有名人だったわけです。ヘロデ王でさえ、彼のことを知っていたどころか、彼を尊重していました。まあ、最後に、ヘロデ王は洗者聖ヨハネを斬首刑にさせますが。

一例を挙げると、ファリザイ派とサドカイ派に向けて、洗者聖ヨハネはこういっていました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。心の中、〈我々の父にアブラハムがいる〉といおうとするな。私は言うが、天主はこれらの石からもアブラハムの子らを創ることができる。」

洗者聖ヨハネは私たちの主を受け入れられるようにするために、その目的の方向へ霊魂を構え向かわせておくのです。そのために、悔い改めの洗礼を授けます。
ところで、私たちの主は、洗者聖ヨハネのところに来て、洗礼を授けてくれるようにお求めになります。考えてみると、我の主は、洗礼を受けなくても良いはずです。天主ですから。もう既に見たことですが、原罪を負ったことはありません。天主です。にもかかわらず、洗者聖ヨハネに、洗礼を受けることを求めていらっしゃいます。



まさに、洗者聖ヨハネは、それを知っているので、イエズスに向かって、「私こそあなたから洗礼を受けなければならぬ者ですのに、あなたのほうから私のもとに来られたのですか。 私たちの主は、こう言い返します。「今は、こうさせよ」 。洗者聖ヨハネの洗礼を頼みます。

当然ながら、ヨルダン川の水をもって、私たちの主は、清められたわけではありませんよ。その逆です。御自分自身をもって、ヨルダン川の水を清めたことになります。これをもって、全人類に向けて、どうすべきか、その手本を示しました。私たちの主は、洗礼を受けることによって、ヨルダン川の水を清め、全人類へ模範を示します
また、「洗礼を受けよ」とのイエズスの人類への命令です。

~~

洗礼を受けてから、公生活の開始を告げるために、一旦、砂漠へ去ります。40日間、砂漠で、断食と祈りに全力を尽くすのです。これは、キリスト教的生活の中軸にある二つの柱にほかなりません。私たちの主は、これにおいても、その手本と模範を示すことになさいました。

天主なので、罪を償うために苦行をする必要はないはずです。また同じく、天主なので、祈ることも不要なはずです。天主は祈るわけがありません。天主なのですから。

しかしながら、人間としての私たちの主が、模範を示すことになさいました。というのも、天主に対して報いるべきことは何だかということを示して給いました。従って、人間として、私たちの主が祈り、人間として、私たちの主が悔い改めを果たしたわけです。この二つは、キリスト教的生活の二柱に他なりません。祈祷と贖罪の苦行です。

つまり、まだ公生活が始まっていない内に、まだガリラヤとユダヤでの活動は始まっていない内に、何より以前に、基礎の基礎となる祈りと贖罪の苦行に立ち戻ります。今も、何も変わっていないわけです一世紀前、いとも聖なる童貞マリア様が、ファチマで子供たちの前に現れた際に、何とおっしゃったでしょうか。祈りと贖罪の苦行をせよと。まさに福音的なことです。いとも聖なる童貞のおっしゃるのは、私たちの主のおっしゃったこととなさったことと全く同じです。祈れ!犠牲せよ!と。

要するに、40日間、砂漠で私たちの主が過ごし、厳格な断食を行い、お祈りし、与えられた使命に向けて、心構えの準備をします

断食の最後に、私たちの主は、悪魔の誘惑を受けることにしました。「砂漠でのイエズス・キリストの誘惑」として知られている場面です。私たちの主、イエズス・キリストは、悪魔に誘われることになりました。

悪魔よりの誘惑は、三つありました。ちなみに、この三つの誘惑は、聖ヨハネの言い並べている三つの現世欲に相当します。つまり、肉の欲目の欲傲慢からなっています。言い換えると、人間ならだれでも、受けてしまう誘惑の三つの分野です。

私たちの主は、誘惑されたというのも、彼が悪い人だったからのではありません。天主ですから。いや、ここも同じく、我々人間にむけて、模範を示すために、誘惑を受けることになさいました。つまり、我々に誘惑が来た時に、どう向かえばよいか、という手本を示してくださいました。その上に、我々に向けた励みでもあり慰めでもあります。我々は、誘惑されても、別に、罪人だからなのではないし罪を犯さなくても誘惑に打ち勝てるという励みです。

こうして、私たちの主は、悪魔に誘(いざな)われます。悪魔が現れて、先ずこう言います。「あなたは、天主の子なら、これらの石がパンになるように命じよ」 と。もう40日間の断食ですから、当然に、かなりの誘惑で、負けそうですね。私たちの主の答えは、いつも通りに、極まりなく見事です。もちろん、天主なので当たり前かもしれませんが、なんと明晰で、あえていえば簡単な教訓でしょう。いつも、聖書に基づいて言い返しますが、悪魔に対して「〈人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる〉と書かれてある」と。これで、悪魔に対する一回目の勝利です。我々にとって、私たちに向けたなんて素晴らしい主の励みでしょうか。というのも、私たちがイエズスを本当の意味で見習おうとするのなら、悪魔を打ち勝てるのですと。

次は、第二回の悪魔からの誘惑です。悪魔は、山上に私たちの主を連れて行き、こう言います。「あなたは天主の子なら下に身を投げよ。〈天主はあなたのために天使たちに命じ、天使たちはあなたの足が押しに打ち当たらないように手で支える〉と書かれているのだから」と。で、この傲慢といった誘惑に対して、つまり実際の自力を違えて自分の力に自信を持ちすぎるという傲慢に対して、私たちの主がこう言い返します。「また、〈あなたの天主なる主を試みるな〉と記されている」と

最後に、悪魔は神殿の頂上に立たせて、一番高いところに立たせて、世界中のすべての王国を見せます。野心と強欲の誘惑ですね。「あなたがひれ伏して私を礼拝するなら、これをみなあなたに与えよう」と悪魔は言います。まさに、野心そのものですね。結局、野心というのは、必ず、悪魔への礼拝に帰します。まさに、強欲です。「あなたがひれ伏して私を礼拝するなら、これら栄華な国々をみなあなたに与えよう」と。で、私たちの主は、素直に言い返します。我々も、言い返せるはずのものですが、「サタン、退け、〈天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ使えねばならぬ〉と書かれてある」と。



続いて、福音によると、「悪魔は離れ去り、天使たちが近づいて来て仕えた」と。

以上は、私たちの主の公生活の最初で、最初の数ヵ月になりますが、与えられた使命に向けての準備と心構えに相当する時期になるわけです。要約すると、私たちの主は洗礼を受けました。ヨルダン川の水を清めるためである上に、我々に向けての模範と手本を示すためでした。続いて、私たちの主は、砂漠に去り、祈りと断食をするためでした。これをもって、私たちへ、キリスト教的な生活の模範と手本を示しました。それから、悪魔に誘われることを許しますが、これは、我々が誘惑に遭う時に、励みと慰めになるためであり、また、勝利への希望を我々に抱かせるためでした。

イエズス・キリストの私生活について(続き) 【公教要理】 第二十四講

2019年02月24日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第二十四講  イエズス・キリストの私生活について(続き)


前回はイエズス・キリストの私生活の前期を見てきました。要するに、ご降誕とご降誕に関するすべての事件・事情などです。つまり、ご降誕自体、それから、羊飼達と博士達へのご公現、それから、割礼、神殿への奉献、それから幼児殉教ですね。ちなみに、公教会で幼児殉教の祝日は12月28日です。

聖ヨゼフ、聖マリアと幼きイエズス、即ちその三人は、聖家族と呼ばれていますが、聖家族は、エジプトへ逃れています。家族の糧を得るために、聖地に帰っても良いと言われない限り、聖ヨゼフは、残念ながら新しい仕事を探さざるを得ません。ある日、いや、ある夜、聖ヨゼフの夢に天使がもう一度に現れます。「イスラエルの地に帰れ」と言われて、「子どもの命を奪おうとした者どもは死んだ」 と。ヘロデ王が死んだので、幼きイエズスの身はもう安全だということです。それを受けて、聖ヨゼフは、御摂理にそって従順に、起きて、母と幼きイエズスを連れて、聖地に帰ります。

御覧の通り、福音には、聖ヨゼフの発言した一言も記されていません。彼について、前回とこれらの事実だけは残っています。聖ヨゼフについては、前に見たように、まず、聖母が妊娠したことで悩む聖ヨゼフ。眠りから起こされて逃亡せざるを得なくなって、また向こうで職をさがすべく、労苦する聖ヨゼフ。もう一度、眠りから起こされて、聖地に帰らなければならない聖ヨゼフ。彼について知っているのは、これきりです。これで分かるように、聖ヨゼフはもう既に私たちの主イエズス・キリストの十字架を供にする姿がみえます。しかし、大いにおとなしく自分の運命に従うまでです。

こうやって聖地に帰られたのですが、私生活の後期とも呼び得る時期は、ナザレトこそがその舞台になります。ガリラヤ地方にあるナザレトといった小さい町が。この時期について、福音にはほぼ何も書かれていません。何も分からない時期と言えます。どちらかというと、ある意味で単調だったと見えている私生活の後期の間に、一つの事件だけが特記されています。これは、幼きイエズスの12歳の時のことです。

ユダヤ人なら、過ぎ越し祭りの際に、毎年、エルサレムに上がるべきでした。ユダヤ人は皆12歳より、エルサレムに上がる義務がありました。幼きイエズスは12歳を迎えて、過ぎ越し祭りも迫っていました。従って、いとも聖なる童貞と聖ヨゼフは、幼きイエズスを連れて、祭りを祝うために、エルサレムに上がることになります。
それぞれの行事が済んだら、祭り自体と祭りの後の8日間の行事も済んだら、家に帰ることになります。巡礼団は、エルサレムを出ます。

聖ヨゼフは、恐らく男性の巡礼団と共に、聖なる童貞は、別の女性の巡礼団体と共に、エルサレムを出ます。ところで、幼きイエズスは、エルサレムを出ないで、そこに残ります。巡礼旅行の一晩目の夜に、聖ヨゼフと聖母は野営で合流しますが、どちらにも幼きイエズスがいないことを知ります。お互いに驚いて、迷子になってしまったと心配します。

ロザリオの黙想する玄義に、イエズスが神殿で見いだされるというのがあります。聖母と聖ヨゼフはすごく心配します。「心配」は福音に使われる言葉です。慌てて、迷子になった幼きイエズスを捜すために、エルサレムに戻ります。三日間ほどに、エルサレムの大きな町を歩きまくった挙句に、子どもはまだ見つけられませんでした。母の心はどれほど心配したか、父の心がどれほど心配したか、想像に難くありません。聖ヨゼフは幼きイエズスの自然の父ではないものの、彼の養父なので、この子の責任を負っています。しかも、天主なる子で、天主の責任を負っているのです。なんという御心配でしょう。想像しやすいですね。

その挙句、結局、幼きイエズスを神殿で発見します。素晴らしいことです。神殿は天主の家ですから。確かに、幼きイエズスのおられる相応しき場所でした。神殿では、なにをやっていたのでしょうか。座りながら、学者の中におられます。というのも、座っている姿勢というのは、師匠の姿勢であって、教える者の姿勢なのです。私たちの主イエズス・キリストの神性を示す緻密な方法ではないでしょうか。



「あなたには、主は一人しかいない。それは私だ。」といわんばかりに。神殿で、私たちの主は、学者たちに教えるわけです。学者たちの質問に答えるわけです。ユダヤ民族の碩学(せきがく)者たちが、どのような質問を聞いても、イエズスはその答えを知っています。神殿で教えるのです。

聖母と聖ヨゼフは、その集まりに近づいてきますが、大勢の学者と学士の中心に、何とイエズスがいることに気付きます。学者たちは、イエズスの教えを拝聴しているところです。福音に聖ルカが言う通りに「聞いている人々は、その子の智慧と答えを不思議がっていた」と。それで、聖母はこれを見て驚き、「ごらん、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」とイエズスに言います。私たちの主は、全く単純で素直にこう答えます。「なぜ私を捜したのですか」と。続いて、「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」と。これで、もう一度、自分の神性を断言します。

神殿で教えていた時に、私たちの主は発見されました。それから、聖母と聖ヨゼフは、幼きイエズスを連れて帰ります。私たちの主の聖母への答えのすぐ後に、福音にわざわざこう記してあります。「二人に従って生活された」と。
私たちの主は、聖ヨゼフと聖母に従っていました。天主なる彼は、すべての物事の創造者の故にすべての物事の主でありました。その彼が、被創造物に従いました。この教訓こそ、私たちの主の私生活の後期のすべてをよく要約します。なぜかというと、30歳までの残りの私生活を過ごしますが、18年間、私たちには全く不明のままの間だからです。
この間、私たちの主は、「小さな徳」と呼ばれる「聖徳」の実践に励み続けました。「小さな徳」とはいっても、大事ではないという意味ではありません。総ての徳は大事ですから。立派に実践されている聖徳は、いずれも天主の目には偉大です。しかしながら、私たちの主は、目立たないこの「小さな徳」をも実践することにしました。謙遜の徳、従順の徳、忍耐の徳、勤勉の徳、両親の命令を果たす心の徳などなどです。要するに、私たちの主は、こういうふうに、聖徳を修行しますが、あらゆる修道者の模範となるわけです。

というのも、修道者たちは、私生活における私たちの主に倣うだけだといえるからです。聖徳に溢れた人生においての私生活です。また、私たちの主は、聖ヨゼフと共に労働し、大工という職を営んでいました
以上は、私たちの主の私生活についてでした。



イエズス・キリストの私生活について 【公教要理】 第二十三講

2019年02月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第二十三講  イエズス・キリストの私生活について


信教の第三条は次の通りです。「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」
続いて、第四条は、こうです。「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」と。

第三条から第四条まで、主のご降誕から、突然、十字架上の死まで飛んできます。信経において、私たちの主イエズス・キリストのご降誕から、「童貞マリアより生まれ」という時から、「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け」という受難までの間について、何も記されていないのです。
そこで、今からちょっと信経を一旦中断するというか、私たちの主イエズス・キリストの人生について、簡潔にご紹介したいと思います。
前にも見たとおりに、私たちの主イエズス・キリストは真の人間であるので、人々とともに生活し、使徒たちの証言を通じて、主の人生の主な出来事は残されています。少なくとも福音のお陰で、その人生は一応私たちにわかっています。福音の他に、代々に受け継がれた聖伝を通じても分かっています。

さて、最初は、簡潔に、イエズス・キリストの私生活について、ちょっと時間を割りましょう。
私たちの主は、33歳で死にました。この33年間の内、私たちの主は最初の30年間ほどを私生活で過ごしました。要するに、私生活というと、公な活動をやっていないという意味です。言い換えると、あえていえば、公衆に知られていないままにしておいたのです。それから、最後の三年は公生活でした。私たちの主がずっと教えを布教し続けた3年間です。

とりあえず、私生活についてご紹介しましょう。前にも言ったように、私たちの主はベトレヘムに生まれました。「ベトレヘム」とは「パンの家」という意味です。というのも、もう既に御聖体を思い起こす指示でありましょう。
私たちの主は、御母を童貞のままに、完全に奇跡的な形でベトレヘムに生まれます。これは既に説明した通りですね。その上に、人類に向けて、我が主ご自身も、奇跡的に御自分を示すのです。まだ一言も言い出せないのに、私たちの主は、不可思議な手段で人類へ御自分の存在を知らせます

最初は、羊飼達に知らせました。羊飼達には天使たちが訪れています。その際の天使たちの賛歌は良く知られています。
「Gloria in excelsis Deo!いと高き天においては天主に栄光あれ!」と。

この貧しい羊飼達は、ユダヤ人なので、ユダヤ民を代表し、貧しい人々をも代表しています。総て下層の人々を代表しています。救いが弱者の人々でもユダヤでも得られるものであるということを知らせるために、天主がこうやってご自分を示すのです。
羊飼達の前に、天使たちが現れると、羊飼達は洞窟の馬小屋へイエズスを拝みに来ました。

その上、私たちの主は、また別の人々にも、御自分を示します。いわゆる博士たち(あるいは賢者たち)です。ユダヤ人ではない上に、この世の偉い人々です。救いの普遍性が示されるためです。私たちの主は、ユダヤ人のためにも、異邦人のためにも、弱者のためにも、強者のために来たり給うたということです。人類の人々の皆のために来たり給うたのです

また、博士たちへの主の現れは有名な場面です。羊飼たちへは天使たちを通じて知らせました。ユダヤ人なら、天使の訪問などには慣れてはいたし、旧約聖書において、頻繁に天使は登場したりします。例えば、アブラハムは三柱の天使の訪問を受けたりしました。また、旧約聖書の間にずっと、選ばれた民族に歴史において、天使たちの役割は重大でした。従って、ユダヤ人に対しては、伝統に従って、いつものように、天使たちを通じて、御自分を示します。

しかしながら、もう一方、博士たちは選ばれた民族の人々ではありませんので、天使たちの出現には慣れてはいないわけです。そこで博士たちの理解できる手段で、天主は御自分を示します。これらの博士たちは、天文学を良く知っていたし、星座を良く知っているので、天主は一つの星をもってご自分を示します。博士たちは、この不可思議の星を確認します。初めて見る星で、しかも動く星なので、この星を追い出します。すると、私たちの主イエズス・キリストの元まで、彼を拝むために、彼らは辿り着くのです。
以上は、私たちの主イエズス・キリストのご降誕とご公現です。

~~

続いて、主は律法に従いました。男子の誕生後八日目に、律法にそって割礼を受けることでした。従って、主は、ご降誕後の八日目、割礼を受けるために、神殿に連れられました。

この割礼の際に、主は第一、初めてに自分の血の何滴を零したほかに、慣習に従って、名をつけられました。「イエズス」で「救い主」という意味です。御告げの際に、ガブリエル天使が前もって聖母マリアに伝えした名前です。割礼の祝日は、公教会の典礼暦に載っていて、一月一日となります。つまり、12月25日のご降誕祝日後の八日目です。

私たちの主イエズス・キリストのご降誕後の40日目に、ヨゼフとマリアは神殿にお参りされます。この時も、律法の二つの掟を全うするためです。どれほど、私たちの主が律法に従おうとされたのかが、これらでよく分かります。というのも、マリアは、出産の後、穢れを清めるために、犠牲を捧げるべきでした。潔(きよ)めの式と呼ばれる犠牲です。これが済んだら、同じ日に続いて、幼きイエズスを神殿に献げるべきでした。なぜかというと、長男は必ず天主のものだったからです。要するに、自分の長男を神殿に連れて、天主に献げるという儀礼です。

あえて言えば、私たちの主イエズス・キリストの全人生における奉献の部に相当します。そこでヨゼフとマリアは、山鳩を二羽、神殿に捧げます。潔めの式と長男の贖い(買い戻し)のためにです。この場面に、年老いた義人のシメオンと預言者アンナが登場します。天主の霊に導かれて、神殿まで二人が足を運んでいました。

聖母に向けて「あなたの心も、剣(つるぎ)で貫かれる」という予言をシメオンが言います。以上の神殿への奉献の祝日、及び御潔めの祝日という二重の祝日は、カトリック教会では、2月2日に祝います。

フランス語で「Chandeleur蝋燭(ろうそく)祭」とも呼ばれています。その理由は、この祝日に蝋燭の聖別が行われていますが、蝋燭の意味は、主はシメオンが言ったようにイエズス・キリストが「異邦人を照らす光」であるということを意味します。「Lumen ad revelationem gentium」「異邦人を照らす光」。2月2日は、12月25日の40日後です。

高い可能性で、以上の御潔めの式及びイエズスの御奉献の後、間もなく、恐らく博士たちは幼きイエズスを拝みにきたと思われます。この博士たちの礼拝の祝日は、御公現と呼ばれています。公教会では、1月6日に祝うものの、福音にはその時期などについて何も明記されていないので、正確にいつ彼らが来たかを言いきれません。何日だったかは重大ではありません。


日にちは兎も角、もっと重大なのは、明記されて確かに知っていることですが、博士たちが礼拝してから、三つの贈り物を献上したという事実です。この三つの贈り物があったことからして、三人だと常に言われていますが、実際に来た人々は恐らく三人より多くいたでしょう。それはさておいて、贈り物は確かに三つを献上しました。主を王たることを示す黄金(おうごん)。黄金はこの世の王の象徴的な物質だからです。次に、天主たるを示す乳香(にゅうこう)です。というのも、お香は祈祷を意味しますが、お祈りするのは天主に対するのみです。最後に、人たるを示す没薬(もつやく)です。没薬は、ある種の芳香性樹脂であって、屍につけていた物です。これでイエズス・キリストは本物の身体をもって死ぬことを示します

博士たちの旅の経緯は有名です。遠くから、長旅で来て、エルサレムに辿り着きますが、案内の星はいきなり消えてしまいます。エルサレムにいたヘロデ王のところに行って、「星に予言されたユダヤ人の王はどこにいるか、生まれたばかりの救い主はどこにいるか」とヘロデ王へ聞きに来るわけです。ヘロデ王は、これを聞いて、悩んでしまいます。「なんだ。王が俺の地位を奪いに来るのか」とね。
この話の詳細を律法学士に確認してもらうと、博士たちは「聖書によると、ベトレヘムにいる」と答えます。旧約聖書に救い主が預言されたところを参照すると、ベトレヘムに居るという答えでした。「礼拝に行け」とヘロデが言います。続いて「こまかに子どものことを尋ね、見つけたら私に知らせよ。私も行ってその子を拝もう」と言います。ヘロデの嘘でした。どちらかというと、嫉妬の情にとらわれて、正当な競争相手ができた懸念を感じており、幼きイエズスを殺したかったわけです。

続いて、博士たちがエルサレムを出ると、案内の星を見出し、ベトレヘムに辿り着きます。幼きイエズスを拝み、贈り物を献上します。博士たちの夢の中に、天使が現れて、エルサレムに帰ってはならぬ、ヘロデのところに戻ってはならぬと告げられます。ヘロデは悪い心をもっている、と。従って、博士たちは別の道をとって、故国に去ってきました。

それから、数日後、いや高い可能性で数か月後、ヘロデは、博士たちに騙されたことに気付きます。ヘロデは「幼児殉教」と呼ばれている幼児皆殺しを決定し実行します。要するに、すべての二歳以下の男を皆殺しにする決定です。



幸いに、御摂理はいつも見守っています。形はまちまちにせよ、具体的にはいろいろにせよ、天主の保護の下にある者を、必ず天主はちゃんと守るのです。ヨゼフの夢の中に天使が現れ「起きて、子どもとその母親を連れてエジプトに逃げよ」と言います。エジプトへの逃亡です。「幼児殉教」の直前に、聖家族はエジプトに逃げます。
続いて、ヘロデ王は、幼児を皆殺しにして、つまり、ベトレヘムとその周辺の二歳以下の男全員を虐殺します。幼きイエズスは虐殺より逃れます。

聖母マリアの特権について 【公教要理】 第二十二講

2019年02月19日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第二十二講  いとも聖なる童貞、聖母マリアの特権について


前回には、いとも聖なる童貞マリアをご紹介しました。簡潔に、被昇天までの聖母の人生を描いてみました。今回は、いとも聖なる童貞マリアの「特権」と呼び得ることについて、ちょっとだけ、時間をかけましょう。言い換えると、歴史上の童貞なる母だけをみるのではなくて、あえて言うと、霊的な童貞聖母を見ていきたいと思います。あるいは、超自然上の童貞マリアについてですね。要するに、天主により、この霊魂に注いだ恩恵・栄光を対象にして、これらのお陰で、聖母に値する敬称あるいは品位の紹介にほかなりません。

いとも聖なる童貞マリアは、古(いにしえ)より永遠に、天主により御計(はか)らいにおいて、天主の御母になるために選ばれた者です。この事実こそは、いとも聖なる童貞マリアのすべての特権の根拠です。

要するに、聖母マリアの霊魂を理解しようと思うのなら、マリアのすべての恩恵を究めようと思うのなら、一先ず、何より先に、念に置くべきものがあります。それはすべての根拠は、聖母マリアが天主の御母である、ということです。マリアは、私たちの主イエズス・キリストの御母また天主の御母となるように、天主に呼ばれたからこそ、つまり、天主から託された使命があるからこそ、天主によって聖母が得た賜物は極めて多いのです。
いとも聖なる童貞聖母マリアが天主から取得された諸特権、諸品位、諸恩恵のすべては、天主の御母であることに由来しているのです。要するに、いとも聖なる童貞聖母マリアは、何より一先ず、私たちの主イエズス・キリストの御母、天主の御母なのです。信経曰く「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」とあります。信経の通りです。

天主の御母であるという至上の特権により、多くの他の特権や恩恵が生じるのです。
年代順の第一の特権というと、「聖母の無原罪の御孕(やど)り」と呼ばれる玄義です。この信条は、1854年に福者ピオ九世によって定義された教義です。聖母の無原罪の御孕りという真理は、いとも聖なる童貞マリアは、原罪の汚れ無しに創造されたという内容です。

数週間前に見たことですが、アダムとエワの堕落のせいで、アダムの子孫として、また、人類の頭としてアダムの犯したことを始原とする罪のせいで、全人類がこれによる汚れを負ってしまい、未だにこの汚れを負い続けています。原罪と呼ばれる汚れを負って、借金のように、代々に継承してしまうのです。
一方、いとも聖なる童貞なる聖母は、原罪を免れました。原罪より守られました。聖母は、原罪の汚れを負うことはありませんでした。

アダムとエワの子孫であるものの、天主は、聖母を原罪から守りました。要するに、前もってという形で、聖母マリアは贖罪を受けました。前もってです。というのも、聖母マリアが人類史上ただ唯一お持ちの使命に備えて、あらかじめ与えられた特権です。つまり「天主の御母になるという使命」ですね。

従って、罪の影ですら、ちっぽけな陰りでさえも聖母マリアに近づいたことはありません一度も聖母マリアは罪を経験したことはありません。汚れを負ったことはありません。聖母は、御子を懐妊したときも無原罪ですが、自分のおん孕りにおいても無原罪なのです。無原罪の語源はラテン語の「イン・マクラータ」から来ていて、「マクラ」とは汚れ・穢れで、つまり、「汚れなき者(女性)」という意味です。聖母が一度も罪を経験したことはないということです。
また、より正確に言うと、罪を犯したことはなく、聖母の霊魂が、潔白のままに汚れないままに保全されましたし、今でも天国で汚れのないままです
要するに、第一の聖母の特権というと、無原罪の御孕りです。

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第二の特権ですが、ある意味で聖母の無原罪の御孕りの特権から来ると言えるのですが、聖母の極まりない聖徳の溢れの振る舞いです。常に、絶えず、聖母は聖徳の内に聖徳をどんどん成長させていきました。聖母は、まさに文字通りに、いとも聖なる母で、至上に聖なる御方なのです。いとも聖なる童貞母です。ちなみに、これを確認できる事実もあります。それは、ガブリエル天使が、聖母の前に現れる時「めでたし、聖寵充ち満てるマリア」という祝詞から始まる御告げです。
天使祝詞を唱える時に、こう祈ります。「めでたし、聖寵充ち満てるマリア」。

つまり、いとも聖なる童貞の霊魂に注がれた聖寵の完全性を示していますが、これは、無原罪の御孕りからきているわけです。
聖母マリが創造された瞬間に、宿った瞬間に、原罪の汚れを負わなかっただけではなく、その上に、聖寵に満たされて、また、完全なる無限の聖寵に満たされていました。完全なる聖寵の享受は、聖母の第二の特権でした。

第三の特権は、前回に簡単に触れましたが、永続なる童貞性です。聖母は天主なる御子の出産以前にも、出産の途中も、出産以降も童貞のままです
イザヤの予言通りです。「見よ、処女(おとめ)は身ごもり、一人の子を生む」 と。
また、信経の通りに、「童貞マリアより生まれ」とありますね。「生まれ」とは、実際に生まれるという意味です。単なるなんかの象徴ではありません。また、注意すべき点は、出産以降も、いとも聖なる童貞が童貞のままだったという点です。つまり、イエズス以外に、子供を生まなかったのです。

いとも聖なる童貞は、子供として、私たちの主イエズス・キリストしか生まなかったのです。時にイエズスが最初に生まれた子(初子)と呼ばれますが、それは、次にまた子が生まれたという意味では決してありません。いえ、それが意味するのは、その前にこういった誕生はなかったということを意味します。

つづいて、前回にもちょっと触れた特権ですが、聖母のいと高き聖徳と聖寵のおかげで、また、原罪の汚れを負わなかったお陰で、身体と霊魂を共にして、天に昇ることが出来たという特権を与えられました。被昇天ですね。
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善き天主は、聖母マリアの身体が、死による腐敗と破壊の目に合わせなかったのです。聖母の常に生きていた聖徳のお陰でした。いとも聖なる童貞は、天に昇りました。天では、聖母は元后として、女王として君臨しておられます
というのも、天主の御母という至上の特権から同じく来るものの、聖母の霊魂を飾っている以上述べた諸特権の他に、さらなる特権があります。同じく、天主の御母であるところからくる特権ですが、しかしながら、私たち人間にも関係する諸特権です。また、私たちにまで、その利益が回ってくる特権です。

こうして、如何にご托身の玄義が、私たちの救済のためにあるかが感じられ、また、ご托身において生じるすべてのことは天主が我々の救済のために向けてくださっていることが分かってきますね。

つまり、天主は、童貞聖母を選んで、自分の御母にすると共に、同時に、それによる恩恵を私たちにも分配し給うわけです。つまり、>聖母マリアは、私たちの御母でもある、ということです。私たち人間はマリアの子供です。十字架上のイエズスは、死ぬ寸前に、聖母にヨハネを託しつつ「婦人よ、これがあなたの子なり」と聖母に仰せになりました。また、聖ヨハネに向けては「これがあなたの母だ」 と仰せになり、全人類を聖母に託しました。要するに、その時から、人間は聖母の子供たちとなるのです。そして、私たちに対して、聖母は母性愛をお持ちです。本当の意味での母性を

また、私たちの代願者となってくださっています。祈祷や祈願ではよく代願者と呼んでいますが、例えば、「サルヴェ・レジナ(元后あわれみ御母)」の美しい短い祈りでは「アドヴォカタ・ノストラ」と唱えます。「ああ我らの代願者よ」と。また、天使祝詞を唱える時に、「罪人なる我々らのために、今も臨終の時にも祈り給え」と言いますね。この「臨終の時」という時に、暗に願うのは、我々が死ぬときに審判されるが、その際に、聖母マリアは私たちの代願者、弁護士になり給うように、というお願いですね。永遠なる裁判官の前に現れる時に一番有力なる代願者なのです。したがって、聖母は我々の代願者で、弁護士で、我々が死んだら、我々の弁護をしてくださるのです。

その他に、もう一つの品位は聖母にはあります。これは信条として明徴されてはいませんが、御取り次ぎとしての聖母です。御取り次ぎとは、両方の間にいるという意味で、仲介(メディアション)するという意味です。例えば、似た言葉に「霊媒(メディアム)」とかあります。勿論、聖母が仲介するとは、この霊媒という意味ではありません。ラテン語の「メディアム」は、中間という意味です。

聖ベルナルドの言う通り、キリストが頭(かしら)であることに対応して、聖母は首であるかのようです。言い換えると、私たちの主イエズス・キリストは総ての聖寵の源泉なる頭(かしら)であって、これらの聖寵は身体に染み渡ります。聖パウロの書簡にあるように、私たち洗礼を受けた者はこの身体の肢体・一部です。それで聖母はそのキリストの神秘体の首に他なりません。つまり、主から私たちの霊魂に注がれるすべての聖寵は、必ず聖母を通して私たちに届くということです。この意味で、聖母はすべての聖寵の仲介者だと言います。逆に言うと、同じように私たちのすべての祈りもいとも聖なる童貞を通じて天主に届きます

最後に、普通もう一つの敬称で喜んで聖母を呼びますが、これもドグマとはなっていません。共贖者と呼ばれています。

難解な言葉なので十分に注意しましょう。聖母は贖罪の玄義を果たしたわけではありません。天主のみ、イエズス・キリストのみが、本物の贖罪者なのです。ところが、聖母は共贖者とは、自分の内面的な悲しみを捧げて、私たちのために、十字架上の御子の贖罪に合わせて、苦しみを共にしたという意味です。「スタバト・マーテル」、聖母マリアは十字架の下に立っておられた、と。もう既に、私たちのためにとりなしてくださり、代願者としておられました。

以上に聖母のいくつかの特権を見てきました。もちろん、他にも多くありますが、割愛せざるを得ません。聖母に与えられている主な特権だけを取り上げてみました。


童貞聖母マリアについて 【公教要理】 第二十一講

2019年02月17日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-二十一講  童貞聖母マリアについて


「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」。信教の第二条を見たときに、ご托身の玄義を解明してみました。位格的結合という玄義で、天主の本性と人間の本性との二つの本性の結合ですが、三位一体の第二の位格の一つの位格なる聖子、イエズス・キリストにおいての位格的結合という玄義です。

第二条に続いて、信教の第三条は次の通りです。
すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ

私たちの主は、天主のままでおられながらも、人間の本性を負われたのですが、この人間の本性は童貞聖母マリアより受け継いでいるわけです。
ところで、ご托身の玄義について語るときに、童貞聖母についても語ることは欠かせません。そこでこれから、童貞聖母についてご紹介したいと思います。

童貞聖母マリアは、旧約聖書の諸予言によって示された御方です。堕落の早い時からでさえ、天主がアダムとエワの前に現れる時に、既にヘビに向けて、「私は、お前と女の間に、お前の末と女の末との間に、敵対を置く。お前の末は、女の末のかかとを狙うであろう」 と仰せになりました。要するに、「女」は最初の預言において既に登場します。旧約聖書における原福音とも呼ばれる預言です。

これ以降、諸世紀の時が経ち、勿論イエズス・キリスト到来の前ですが、これより明白になる予言がありました。
イザヤ預言者にいわく、「見よ、処女(おとめ)が身ごもり、一人の子を生み、それをエンマヌエルと呼ぶだろう。」 エンマヌエルの意味は「我らの間におられる天主」となります。
以上は、童貞聖母マリを予告していた予言を簡潔に見てきましたが、童貞聖母マリアといったら、一体、どんなお方でしょうか。

ザカリアとアンナの娘であり、ナザレトに生まれます。ちなみに、9月8日をもって、童貞聖母の御誕生を祝います。誕生後24日間が経て、律法に従って、神殿に奉献されます。三歳になると聖母マリアは、もう一度、神殿に奉献されます。祝別されるためでした。また、ナザレトで両親の家でお住まいだったことと、聖ヨゼフと婚約したのも、知られている事実です。

またナザレトでは、大天使ガブリエルがマリアを訪れます。御告げと呼ばれる場面ですが、カトリック教会では、3月25日にて御告げを祝います。御告げの時に、マリアはきっと14-15歳ぐらいで、天主の使者として送られた天使ガブリエルが童貞聖母マリアの前に現れ、天主の母、メシア(救い主)の母になるようにと頼まれます。



童貞聖母マリアは、一つの異議がありました。自分の童貞性を天主に奉献し祝別したので、もう、子供を生むことはできないはずだ、と。「私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」 と聖母はおっしゃいます。それから、天使が、聖母マリアにご托身については具体的にどう実現するか啓示します。「聖霊はあなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」と天使が告げます。
つまり、聖霊によって生まれると天使は聖母マリアに説明するのです。まさに、信経の第三条の「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」に当たるところです。私たちの主イエズス・キリストの懐胎は、完全に奇跡に他なりません。天主は、男の協力をあえて除きつつ、聖霊のはたらきにより、いと清き聖母マリアの胎内において、私たちの主が肉(ひと)となり給うたのです。

天使が以上のように啓示した途端に、すぐさま、童貞聖母マリアは御摂理に従い「Fiatフィアット!」という周知の返事をされます。「あなたの御言葉の通りになりますように」と。「私は主の端女(はしため)です」とも聖母マリアはおっしゃいます。
要するに「天主の奴隷なので、天主のみ旨のままに、私を使いください」という意味です。「Fiat mihi secundum verbum tuumフィアット・ミキ・セクンドゥム・ヴェルブム・トゥウム」と。

それで3月25日、聖母マリアは懐胎されます。その上、ある意味で懐胎の奇跡を確認するかのように、天使ガブリエルは、童貞聖母に、続いてこう告げます。聖母マリアの従妹(いとこ)にあたる老齢および不妊症なるエリザベトが受胎した、と。

その途端に、童貞聖母は、従妹のところへ旅立ちますが、何日間ぐらいの旅です。従妹を手伝うために、妊娠後期の世話をするためにも、ご訪問します。カトリック教会では、この玄義を「聖母のエリザベトへのご訪問」と呼んで祝います。童貞聖母マリアは旅立って、従妹のエリザベトに訪問に行くという場面です。

従妹のエリザベトのところに着くや、童貞聖母は従妹の近くまで走り寄ります。エリザベトは自分の従妹が来た途端に、聖霊に動かされて、聖母マリにこう言いだします。「主の御母が私を訪問してくださったのですか。」この言葉で、童貞聖母マリアの内に起きた奇跡を示されます。
「私(エリザベト)の子は胎内で喜び踊りました」と続けます。この瞬間に、洗者聖ヨハネが浄められます。続いて聖母は、自分の存在や持っているお恵みを誇りに自慢自負などは決してせずに、極まりない謙遜な振る舞いで応じますつまり、童貞聖母マリアは、天主を賛美し、すべてをもって天主を褒め称え、感謝を捧げるのです。有名なる「Magnificatマグニフィカット」という賛歌です。
「私の魂(たましい)は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主により喜び踊ります」と。続いて、童貞聖母は、頂いた恩寵のすべてを言い並べます。

天主が人類に注ぎ給う恩寵です。「低い人々を高め、」「傲る思いの人々を散らし」などなどです。
また、「代々の人々は私を幸いな女と呼ぶでしょう」とも聖母マリアはおっしゃいます。自分に約束される偉大さを御自分で予言するところです。

~~
要するに、文字通りに、童貞聖母マリアは、天主の御母なのです。なぜかというと、聖母はイエズスという人の母ですが、その人こそは、一つの位格しか持っておらず、すなわち聖子の位格に他なりません。言い換えると、イエズスは、天主の一つの位格(ペルソナ)なのです

童貞聖母が、幼きイエズスを生むときに、天主である位格、天主のペルソナを生むのです。だから、完全な意味で、聖母マリアは天主の御母なのです。ギリシャ人が言う通りに「テオ・トコス」、「天主の母」という意味ですが、「天主である人」の母なので、天主の御母となります。しかしながら、天主の「本性」の母であるとかなどという意味では決してありません。天主であるこの人、人間の本性をも持っているこの位格(ペルソナ)の御母なのです。

さて、童貞聖母は、従妹のエリザベトを訪問しますが、エリザベトは息子を生みます。すなわち私たちの主の従兄なる洗者聖ヨハネを生みます。カトリック教会は6月24日をもって、洗者聖ヨハネの御誕生を祝います。

その後、童貞聖母は、実家にお帰りになります。その時に、聖ヨゼフは、結婚相手の童貞聖母が、聖ヨゼフ自身が何もしていないのに、妊娠していることに気付きます。聖ヨゼフは、嫁の貞操を良く知っているので、非常に悩んで自問します。考えます。「童貞聖母は聖なる女性なのに、美徳溢れる女性なのに、妊娠しているのは、何のことだ?!」といった感じです。童貞聖母は「それほど、聖なる女性なので、自分を裏切ったことは到底考えられない。しかし、私が何も関与していないのに何故妊娠しているのか?!」といった思いです。
そこで、聖ヨゼフには、選択は二つしかありません。嫁を捨てるか、告発するかどちらかです。しかしながら、聖ヨゼフは、童貞聖母の評判を傷つけたくないので、人目に付かないままに、離縁する覚悟を決めます。そのことを決めた途端に、天使が彼の前に現れます。
天使は托身の玄義を聖ヨゼフに啓示してくださいます。いわ「ダビドの子ヨゼフよ、躊躇(ためら)わずにマリアを妻として迎えよ。マリアは聖霊によって身ごもっている。」
そのお陰で、聖ヨゼフはほっとします。一方、童貞聖母マリアが犯されていないこと、また、聖母マリアの忠実性ということを知り安心します。聖ヨゼフは、聖母のそばにずっと居ることになります。

ところで、突然、ローマ皇帝(カエサル)からの詔勅が発せられて、人口調査が命令されます。12月なのですが、聖ヨゼフと聖母マリアは、故郷の町まで人口調査のために、登録しに行かざるを得ません。人口調査はベトレヘムという町で行われます。旅立ち、名前を登録するために、ベトレヘムまで行きますが、分娩の日が来ているにもかかわらず、どの家にお願いしても、妊娠の嫁なんか負担だと言われて、何処からも追い出されています。

しょうがなく、聖ヨゼフは辛うじてある洞窟を見つけます。周知の場面ですね。そこで、私たちの主は御降誕します。中東には多くある洞窟の小屋で。その洞窟は、羊飼いや家畜のための避難所といったところでした。私たちの主イエズス・キリストは、12月25日に御降誕します。クリスマス、または、キリストの御降誕の祝日です。ご降誕には、もう一つの奇跡を起こしながら生まれます。つまり、童貞聖母を童貞のままにしながら、イエズス・キリストが生まれるからです。

というのも、信仰にも、典礼上にも、頻繁に繰り返される点ですが、「聖母は、出産以前にも童貞のまま、出産の途中にも童貞のまま、出産以降にも童貞のままで留まり給えり」と。童貞なる聖母のために天主のなさった奇跡ですが、また、「天主に近づく者の霊魂はいとも潔白になる」という意味も織り込まれています。

童貞聖母は、幼きイエズスを生みます。それから、ずっとイエズスのそばに聖母は居られて、受難の十字架の下にも、聖母はおられます。その後は、聖母の行方は少し不明ですが、確かなことは、聖ヨハネがその世話を引き受けたことです。というのも、十字架に付けられている私たちの主が、聖ヨハネに向けて、自分の御母を託したこと、また同時に、聖ヨハネをも御母に託したという場面から分かります。それ以降、恐らく数年間、エルサレムにお過ごしになりました。もしかしたら、エフェソにもお住まいになった可能性があります。

最後に、聖母は被昇天しました。

教義だけを見たら、死んだかどうか明白されてはいません。教皇ピオ十二世は、死んだかどうかについて、何も断言してはいません。というのは、身体と霊魂が離れたかどうかについて、明記されてはいませんから。この点には、決着はまだつけられていません。それは兎も角、聖母マリアが身体と魂と共に被昇天したのは、確かなところです。聖母が、天国で、永遠の幸福を享受しておられるというのもカトリックの教義です。


イエズス・キリストについてのいろいろな誤謬 【公教要理】 第二十講

2019年02月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第二十講  イエズス・キリストについての諸誤謬


「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」を信じます。
理解しづらい玄義ですが、なんと素晴らしい玄義でしょうか。天主は、被創造物である人類を贖うために、人となったのです。
理解しづらい玄義であることは確かです。それに私たちの知性にとって不可解なる玄義であるのは確かなことです。

残念ながらも、この玄義についても、諸誤謬が出てきました。この玄義に対して、立ち上がって、この玄義を否定した人々がいます。そうして信仰をも拒絶してしまったのです。というのも、信条は、「またその御独り子(おんひとりご)」つまり、一つの位格で「われらの主イエズス・キリスト」、つまり天主と人間との二つの本性で、とあるからです。

天主についての誤謬の時に既に紹介しましたが、これらの諸誤謬の中にアリウス主義があります。アリウスという者に由来します。内容は、三位一体の第二の位格が天主であることを否定する誤謬です。
アリウスによると、御言葉は天主でない、と。しかし「御言葉は肉となりたまえり」とあります。従って、アリウスは、肉となった御言葉は天主ではないという誤謬を主張しました。要するに、アリウス主義という誤謬は、御言葉は天主ではない、故に私たちの主イエズス・キリストは真の天主ではないという誤謬です。真の人間であることは認めてはいるが、決して真の天主ではないというのが、アリウスの主張です。

しかしながら、真の天主ではないのなら、キリストのやったことすべては、全く価値のないことに帰してしまうのです。永遠においても、贖罪においても、全く価値がないということですね。真の天主ではない限り、人類も罪も贖うことができなくなります。そこで、325年のニケア公会議をもって、破門された誤謬です。繰り返すと、アリウス主義の主張は、私たちの主イエズス・キリストが真の天主ではなく、真の人間だけだという誤謬です。この誤謬の上に重ねたかのように、他の幾つかの誤謬もありますが割愛します。

ニケア公会議


他に、アリウス主義のちょっと後、いやほぼ同時に、アポリナリス主義が出ました。アポリナリスという者によって主張された誤謬です。この内容は、イエズス・キリストは、感覚上の知識しか備わっていない、即ち人間としての知性も意志も備わっていないという主張です。
380年のコンスタンティノポリス公会議の際に、破門された誤謬です。

また同じく、単意論(モノテリスム)という誤謬もあります。ギリシャ語の「モノ(単一)・テロス(意志)」から由来しています。簡単に要約すると、私たちの主イエズス・キリストには本物の意志はなかったという主張です。つまり、イエズス・キリストには、単に一つの意志しかなくて、天主の意志だけしかなかった、人間的な意志は備わっていない、というのが単意論です。
アポリナリス主義と同じく破門された誤謬で、同じく380年のコンスタンティノポリス公会議の際に、破門された誤謬です。

また、私たちの主には、本当の体はないという誤謬を主張した者もいます。単なるうわべ・見かけにすぎなかったという誤謬です。
また、幾つかの似たような誤謬を一つの名前で指すことがあります。グノーシス主義といいます。多様的な形をとっているけれど、基本的にイエズスの体についての誤謬で、不思議な奇跡的な形成で創られた体だからと主張して、真の体を持っていないという結論になりますが、結構一般的な誤謬で、いろいろと違う個別の誤謬が入っています。曖昧な大枠ですが、いずれも、贖罪の効果をまったく無にするような誤謬です。なぜかというと、もし私たちの主には、本物の体はないのなら、実際に本当に苦しんでいなかったという羽目に陥ってしまうわけです。

つまり、その誤謬に沿うと、イエズスが幻想で騙したということになります。嘘をついたことになります。嘘をついたならば、彼が天主であることはありえないということになります。天主が嘘をつくことは不可能なので、そうするのは、自分を否定することになるからです。だから、グノーシスという誤謬も破門されました

私たちの主イエズス・キリストには、本物の体が備わっています。また後で触れますが、いと純粋なる、いと潔白なる聖母マリアの胎内において肉体を取ってくださいました。

もう一つの致命的な誤謬に、ネストリウス主義と呼ばれる主張があります。ネストリウスが言いだした誤謬です。彼によると、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性と天主の本性は、単なる道義的な結合に過ぎなかったとされる誤謬です。位格的結合ではないと。
この出張から出発すると、天主としてのイエズス・キリストもいたら、人間としてのイエズス・キリストもいるということで、ペルソナが二つあるという結論に至ります。道義的な結合とは、ただ一つの位格においての結合という位格的結合ではなく、二つの真実が二重しているようなことになってしまいます。つまり一つの天主と一つの人間が重なり、両方は別の存在になっています。天主なる一つの位格(ペルソナ)と人間なる一つの位格(ペルソナ)は二つあって、ただ重なるだけだ、と。431年のエフェゾ公会議の際に、破門された誤謬です。

一つの位格においてこそ、二つの本性があるというのは信条です。イエズス・キリストは、天主の御独り子にして、真の天主であり、真の人間であります。

最後に、エウテュケスという者が言いだした誤謬があります。エウテュケス主義と呼ばれます。内容は、イエズス・キリストには、一つの本性しかないという立場で、天主の本性しかないという誤謬です。それで、人間の本性のすべては、天主の本性に吸収されているかのように完全に無くなっているという主張です。この誤謬に沿うと、贖罪の玄義はまた同じく不可能となります
この誤謬によると、私たちの主は、真の人間ではなくして、真の天主だけなので、贖罪は不可能となります。451年のカルケドン公会議の際に、破門された誤謬です。

要するに、イエズス・キリストについての諸誤謬を纏めて要約してみると、大きく分けて、三つあると言えます。つまり、一つの位格において、二つの本性があるというご托身の玄義についての三つの誤謬の体系はこうなります。

一つ目、位格は一つ、本性も一つといった誤謬。例えば、イエズス・キリストについての諸誤謬は真の天主だが、真の人間ではない、とか。エウテュケス主義ですね。

また、同じく、位格は一つで、本性も一つだが、しかし今度は、イエズス・キリストは真の人間だが真の天主ではない、という誤謬。アリウス主義ですね。

また、二つの本性があると認めるが、位格も二つあるといった誤謬ネストリウス主義ですね。

ご托身についてのこの以上の三つの誤謬は、325年のニケア公会議と431年のエフェゾ公会議と451年のカルケドン公会議をもって、破門されました。

要するに、イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人間であり、三位一体の第二の位格においてこそ結合するというのが正しい信条です。
これがご托身の玄義と呼ばれています。

真の天主、真の人間 【公教要理】 第十九講

2019年02月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第十九講  真の天主、真の人間



イエズス・キリストは、真(まこと)の天主で、真(まこと)の人間です。一つのペルソナ(位格)において、二つの本性をお持ちなのです。天主の御独り子で、三位一体の第二の位格で、人間でありながら同時に天主です。ご托身の玄義です。
私たちの主は、御自ら托身の玄義を示しました。自ら御自分の人間性と天主性をハッキリに示し断言しました。

先ず、ご自分の天主性を断言しました。勿論、他人の目に見えないことなので、一番に強調すべき点でした。どうやって、御自分の天主性を示したかというと、天主の権威・権能・栄光を御自分に与えることによって示しました。「父よ、いま私に栄光を現してください」。
また、使徒たちの前で、御自分が天主であることを言うことによって、御自分の天主性を示しました。また、民の前でも、ポンシオ・ピラトの前でも断言しました。それだけではなく、その上に、御自分の天主性を証明しました。
要するに、私たちの主イエズス・キリストは、御自分の天主性を単に断言したり言い出したりしたことに留まらずに、使徒たちや当時の人々に向けて、信仰を引き起こすために、御自分が天主であることを証明しました。つまり奇跡をなして、また実現する予言を言って、証明しました。また、奇跡を起こすだけではなく、奇跡を容易に行うという点においても、御自分の天主性を証明しました。

たとえば、旧誓約書において、少ないものの、死者の甦りという奇跡が出てきます。ところが、いつも、必ず、辛うじて、やっとという感じで、起きるわけです。それに比べたら、私たちの主は、苦労もせず、辛苦もせず、奇跡を起こします。なぜかというと、単に天主であるからに他なりません。
ラザロを甦らせたときに、ラザロが、たった一言で単純に墓から出てくるほど簡単でした。また、若い男性 を甦らせた時に、ちょっと触るだけで復活させます。「若者よ、私が言う。起きよ。」他のすべての奇跡も容易に起こされ、同じことが言えます。
たとえば、血症を患っている女でさえ、後から近づいてきて、私たちの主イエズス・キリストの服の房を触るだけで治ります 。原因は「イエズスから力が出てすべての人を治すので」 と聖書に書いてあります。まさに、イエズスの天主性に他なりません。イエズスは振り返らなくても、何も言いださなくても、それきり奇跡を起こすことできます。天主だったからこそそうです。要するに、多くの奇跡を通じて、御自分の天主性を証明しました

そういえば、勿論、一番すごい奇跡というと、御自分による御自分の復活に他なりません。自分が天主ではない限り、自分を復活することはそもそも不可能ですから。ところで、私たちの主は、ご自分でご自分を復活させました

また、御自分の聖なる一生、聖徳に溢れた一生を通じても、御自分の天主性を証明しました。彼のそばに生きていたすべての弟子に常に示していたこの聖徳溢れた聖なる振る舞い。特に、使徒たちに示して、彼らが、この神聖なる一生について、証言を多く残しました。

また、御自分の教えの神性のお陰でも、その潔白性においてでも、御自分が天主であることを示しました。というのも、福音を読んでみたら、教えが潔白・純粋であることに感嘆せずにいられません。というよりも、どれほど単純に教えるかも驚くことです。その単純さこそは、天主ならではの要素なのです。天主は単一であることは、既に紹介したことですね。それで、箴言(しんげん)の様式をもって、御自分の教えを伝える時、それは、あえて言えば呆れるほど単純で、素直になります。

また、御自分と天主性を証明し給うた、もう一つの事実は、この世においての公教会の設立とその現在までの維持という奇跡的な事実においてです。


つまりイエズス・キリストは、真の天主なのです。ところが、同時に、真の人でもあります。

教義は、私たちの主イエズス・キリストは、真の天主であると同時に、真の人間であることを信じるべきといっています。真の人間というと、どの人とも同じように、真の身体をもっていたし、真の霊魂をも持っていたということです。要するに、私たちの主は、体の外観を持っていただけではなく、肉体からなる本物の体・身体を持っていたということです。「而して御言葉は肉となり給えり」と聖書に記されています。「我々の主はエルサレムに上る。彼らは人の子に死を宣告し」た ともあります。

また、復活してからでも、イエズスは使徒たちと会うときに、こういいます。「触れて確かめよ。あなたたちの見ている私のこんな肉と骨に霊にはない」 と。要するに、私たちの主は、はっきりと御自分が本物の体を持っていることを示しました。もし、本物の体を持たなかったのなら、苦しむことも出来なかったことになります。もし苦しみがないなら、我々を贖罪することは無理になってしまいます。体がなかったら、すべて、嘘と幻想にすぎなくなってしまいます。「私たち目で見たこと、眺めて手で触れたこと」 と聖ヨハネが書き残しました。

勿論、キリストが体を持ったと私が言うときに、今でも持っているという意味ですね。過去形を使うときに、単なる、地上に現れた時代を指すためだけです。しかしながら、その後でも、今でも私たちの主は、身体を持っているわけです。肉体を持った瞬間から、自分に肉体を負わせた瞬間から、絶えず肉身を負い続けるのです。つまり、ご托身の玄義は、いまでも、実際に続いています。私たちの主は、今現在、真の天主であり、今現在、真の人間であります。

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そして、私たちの主は、真の霊魂をも持っています 。我々と同じ、人間の霊魂です。身体を息吹かせている霊魂。我々のように、感情を覚え得る霊魂。「私の魂は死なんばかりに悲しむ」 とイエズスは言いました。悲しみを感じるのは、霊魂です。「私にはそれ(私の霊魂・命 )を与える権利があり」 とイエズスは仰せになります。また、それよりも、明白な「父よ、私の霊を御手にゆだねます」とイエズスの言葉もあります。霊というと、「私の霊魂」という意味です。


要するに、私たちの主は、苦しみを受けた真の身体をもち、また、真の霊魂をも持ちました。霊魂が御自分の身体に息吹かせて、霊魂のおかげで、悲しみをも愛をも感じえました。愛もです。聖ヨハネは福音で自分を指すときに、「愛された弟子」との呼称があるように、私たちの主は、本物の感情をも感じることができます。勿論良い感情ということで、乱れていない感情です。霊魂において、それぞれの感情を感じます。

しかしながら、イエズスの霊魂は罪を経験したことはありません「恩寵と真理に満ちておられた」 と聖ヨハネが書いています。「Plenum gratiae et veritatisプレーヌム・グラチエ・エト・ヴェリタティス」と。「恩寵と真理に満ちておられた」と。私たちの主は、その霊魂に恩寵が溢れて、恩寵のお陰で、すべての聖徳にも溢れて、それに聖霊の賜物にもあふれていますね。

ところで、イザイアが私たちの主イエズス・キリストを予言した「その上に主の霊が宿る、智慧と分別の霊、賢慮と強さの霊、知識と主への恐れの霊が」 とある通りです。要するに、キリストは聖霊の賜物を持っています。恩寵も諸聖徳も持っています。ただし、信仰(信徳)はもっていません。私たちの主イエズス・キリストは、信仰を持ちませんでした。でも、これは当然でしょう。常に、天主の御顔を一対一で観ておられるからです。見ているのであれば、信じる必要はありません。天主を直接に見ない限り、天主の玄義を直接に観照しない限り、信じる必要があります。私たちの主イエズスは天主ですから、信仰は不要です。「我は天主なり」。「我は命であり、真理であります」。つまり、私たちの主には、信仰というのは不要でした。信仰よりも、その上にある天主を直観する至福を享受しているのですから。彼は天主を観ています。彼は天主です。彼の(人間としての)霊魂も天主を観ています。神秘ですが、至福直観を享受しています。

また、イエズスは望徳をも持ちませんでした。まぜかというと、望徳の特徴というと、まだ享受していない、持っていない者だけが抱き得る徳だからです。ところで、私たちの主が至福直観を享受したお陰で、また、それだけでなく天主であるという事実だけで、ご自分において、既に永遠の命をもっているのです。従って、望徳は持ちませんでした。

しかしながら、愛徳なら勿論もっています。しかも、失うことも不可能です。「天主は愛である」というのが、天主の定義であるからです。それに、キリストは、この愛徳においてこそ地上で生きている間、彼が愛する人々のために、御自分の身を捧げるのです。つまり我々のために。木からなる十字架の上に、不名誉の死を遂げるまで我々を愛しました。

まとめると、私たちの主は、信徳も望徳も持ちませんが、愛徳は持っています。

それに、私たちの主の霊魂において、人間上の知性が備わっています。人間から見ると、ちょっと神秘に見えるかもしれません。つまり、天主として、神聖なる智慧をもちながらも、天主が御自分を知るように、イエズスは天主を、御自分を知りながらも、つまり、永遠なる智慧を持っておられます。同時に、人間としての知性をも持っています。この人間的な知性によって、我々の霊魂が天国に行くのなら至福直観において人間の知性で見ることのできる全て、天主を知りうるすべてを、イエズス・キリストも知っていたことを意味します

また、イエズス・キリストは、人間的な知性において天賦の考えを抱き、そして、この人間知性においてでも知ろうとしました。神秘的なことでしょう。私たちの主は、天主の智慧によって既にすべて完璧に知っていたことを、あえて人間的に知ろうとするのです。
また同じく、私たちの主は、人間としての意志をも持っています。天主ですから、天主の意志をも持っていますが、人間でもあるから、人間の意志をも持っています。総ての人は、人間として意志を持っているからです。

そういえば、実際に、イエズス・キリストは、この人間的な意志を実感することもありました。受難の際に、これから受けいれるすべての苦しみを垣間見る時、「父よ、み旨ならば、この杯(さかずき)を私から遠ざけてください。」 とイエズスは仰せになりました。しかしすぐに続いて、イエズスはこう言い加えます。「しかし、私の意のままにではなく」つまり、人間としての意志です。「あなたのみ旨のままに」。つまり、イエズスの天主の意志です。これで、イエズスは、彼の持っていた人間の意志を、同じく彼の持っていた天主の意志に従わせるという意味です。
まさに、緻密な一致の内に、神秘的な一致の内でもありますが、人間の意志を天主の意志に一致させます。

私たちの主イエズス・キリストの御霊魂がこれほど豊かだったということです。一つのペルソナ(位格)でありますが、本性は二つあります。これはそれぞれの本性のすべての要素が当然に備わるという意味です。天主の本性をもつから、天主の意志と智慧を持つ、また、人間の本性もありますので、身体と霊魂、知性と意志、そして自由を持つのです

結果として、私たちの主は、天主だったからこそ、奇跡を施すことができました。同時に、身体と霊魂において、苦しむことができたのは、人間だったからです。霊魂において、至福直観を享受していましたが、身体と霊魂において、苦しみを被っていました。

以上は二つの本性が結合しているという玄義を紹介しました。位格的結合と呼ばれています。ギリシャ語の「ヒュポスタシス(位格)」から由来します。

私たちの主イエズス・キリストが天主と人間であるということは、二つの本性を持っていますが、その二つの本性は、混ざって無くなってしまうことも、混合をすることもなく、聖なる三位一体の第二の位格という唯一なる位格(ペルソナ)においてこそ、混合せずにしっかりと結合しているという意味です。位格的結合と呼ばれています。天主の本性と人間の本性という二つの本性の結合で、ただ一つの位格においてだけの結合という意味です。この位格は、天主で、三位一体の第二の位格に他なりません。


ご托身について 【公教要理】 第十八講

2019年02月01日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第十八講  ご托身について




「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」

信経の第一条は終わりました。今回から、次の要点に移りたいと思います。

「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、」

以上は、私たちの信教の続きです。
「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」を信じます。

前回に見たのは、ある意味で救い主の予告でした。いえ、厳密に言うと、天主が救い主の御約束を私たちに仰せになったことです。イエズス・キリストと呼ばれている、私たちの主、私たちの救い主です。
私たちの主、私たちの救い主というのは、私たち人間を贖い給うたので、私たちに対して、全権を持っておられるからです。
私たちを贖った時点で、私たちの主人となったので、従って、私たちの主と言います。我らの主イエズス・キリスト。

では、私たちの主イエズス・キリストとは、一体だれでしょうか。
信経の信条には、こうあります。私たちの救い主である「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」を信じます、と。
要するに、人類を贖罪した私たちの主が、私たちの主人が、天主の御独り子であるということです。この真実を指して「托身の玄義」といいます。天主の聖子(おんこ)の玄義です。

三位一体を紹介したときに、三位一体の第二の位格について話しました。聖子(おんこ)、また御言葉(みことば)、また智慧と呼ばれる第二の位格です。天主より永遠に永劫に生まれて輝く御言葉(みことば)です。つまり御独り子が発します。天主なるこの御独り子こそが、私たちの主なのです。イエズス・キリストです。

ところが、イエズス・キリストは、使徒の証言を通じて私たちによく知られている人間です天主であり同時に人間でもあります。私たちの主イエズス・キリストは、人間であり、ある特定の時に生まれ、旧約聖書に予言された救い主でありながら、同時に、天主でもあります。これを托身(たくしん)の玄義と言います。また、同時に天主であり且つ人間なる御方の玄義でもあります。私たちの主イエズス・キリストです。

托身の玄義の定義は、簡潔には、次のようになります。
「托身とは、人間となった天主の御独り子の玄義である。」

また言い方を変えると、「二つの本性を持ちながら、一つの位格(ペルソナ)である」という玄義です。

要するに、聖子(おんこ)の位格の内における、天主の本性と人間の本性との一致に他なりません。つまり、三位一体の第二の位格である聖子(おんこ)が、人間となることです

「而して御言葉は肉(ひと)となり給えり」
と聖ヨハネ福音書にあります。「而して御言葉は肉となり給えり」。どういう意味でしょうか。

三位一体の第二の位格なる御言葉が、そのまま三位一体の第二の位格であり続けながら、人間にもなっています。永遠なる聖子は、人間となりました。



要するに、人間の本性を吸収するようにして、子の本性をご自分のものにすることです。しかしながら、聖子として、天主であることに変わりがありません。もし、聖子でなくなったのなら、天主でなくなりますが、聖子であり続けるので、肉(ひと)となり給いながらも、御言葉のままでありつづけます。聖ヨハネ曰く、「而して御言葉は肉となり給えり」と。それから「我らのうちに住み給えり」とあります。天主のままですが、人間となります。永遠のままですが、時間に置かれ新しい人間的な存在様式が備わることになります。天主は人間となります。これが托身の玄義です。

要約すると、三位一体の第二の位格なる聖子は、人間本性を負うようにして、その人間の本性においてこそ、私たちと同様な存在になりながらも、天主の本性においてこそ、天主のままであるという玄義です。なんと私たちを越える得も言われぬ玄義でしょう。

因みに、人間を越えないのなら、勿論、玄義でなくなります。しかしながら、天主は、私たちを極まりなく超えています。同じく、天主の御業(みわざ)も、私たちを遥かに超えています。托身が、玄義であることは、納得しやすいところでしょう。
要するに、御独りの御方(位格・ペルソナ)においてこそ、二つの本性を負っているという玄義です。天主の本性と人間との本性を。

全く同時に、これは天主であり人である私たちの主イエズス・キリストという玄義です。
彼は「イエズス」という名前を持っています。童貞なる聖母へ天使が告げて知らせた通りに、天主によって頂いた名前です。何故「イエズス」かというと、これは「救い者」という意味だからです。まさに、人間の救い者なのです。堕落してしまった人間が、天主から離れてしまった人間が、天主によって救われ、ある意味で、天主は落ちかけている人間に手を出して捕まってくださるのです。人類の救い者なのです。

それから、「イエズス・キリスト」のキリストとは「塗油された(キリスト)」からです。誰によって塗油されたかというと、天主によって塗油されています。天主であるからこそ、塗油されています。ある意味で、天主の本性は、下り給って、人間の本性を塗油するかのようにというイメージです。

因みに、その塗油の前表(ぜんぴょう)が、旧約聖書において、多くあります。塗油の象徴でもあり、現実の事実でもあります。旧約聖書において、塗油という儀式は、王と司祭と預言者とになるために、使われていました。

ところが、私たちの主イエズス・キリストの場合は、彼の人間の本性が天主の本性によって塗油されたので、生まれた瞬間から、完全かつ完璧に、王であり、司祭であり、預言者でありました。預言者に関しては、聖ルカによると、「行いにおいても言葉においても力ある預言者であった」とイエズスについて書いてあります。

イエズスは司祭でもあります。「Tu es sacerdos in aeternumトゥ・エス・サチェルドス・イン・エテルヌム」。この人について、「あなたは、メルキセデクの位(くらい)に等しい永遠の司祭である」とあります。ちなみに、また後にご紹介したいと思いますが、十字架の上で御自分を犠牲にしたことにおいてこそ、特に、司祭としてあられます。犠牲を捧げるというのは、まさに司祭の職務なのですから。

そして、王でもあります。ピラトに「あなたは王か」と問われたら、「あなたが言う通りに、私は王である。」とイエズスが答えます。
正当なる予言者であり、正当なる司祭であり、正当なる王であります。天主であるからこそ、天主の本性が人間の本性に注がれる聖油ですから。
正当なる預言者・司祭・王であることは勿論、しかも、至上なる予言者・司祭・王でもあります。天主であるからこそ、天主の本性が、言ってみれば、人間の本性を塗油するわけですから。

要するに、この上もなく、王たる王です。総ての司祭の司祭たる司祭です。この上なく司祭です。また、この上なく預言者です。天主であるわけですから。しかし、同時に人間でもあるからです。これが托身の玄義です。分かりづらい玄義ですが、崇高なまで、極まりなく、なんと仁慈で、なんと慈悲深い玄義でしょうか。天主でありながら、人間となる屈辱をうけるまでなさる仁慈と慈悲です。

勿論、御自分は天主であることを、すべてにおいて、天主として、何も失っていません。しかしながら、人間の本性のすべてを負い給います。勿論、聖パウロの言うように、「罪以外に」負い給います。天主は罪を犯すことは不可能なのですから。とはいえ、人間の他の弱みをすべて負い給いました。

これが托身の玄義です。要するに、二つの本性がありながら、一つの位格(ペルソナ)だけとなる玄義です。天主の本性と人間の本性。そして、一つの位格は天主の聖子の位格です。

「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」を信じます。