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フリーメイソンはルシファー教なのです【3】回心の経緯|元フリーメイソンでカトリックに回心したセルジュさんの証言

2021年06月21日 | カトリック
元フリーメイソン、カトリックに回心したSerge Abad Gallardo(セルジュ アバド・ガラルド)
「フリーメイソンはルシファー教なのです」

Reinformation.tv https://www.youtube.com/watch?v=kCZQnT_6sLE

記録映画
編集長 Armel Joubert des Ouches
音楽 Stephan Cayre
ミキシング Cali Schmidt


続き)
「フリーメイソンを辞めた理由」

セルジュ「これはね、いろいろ経緯がありました。
その時、車を運転していました。ある会議から帰る道でした。渋滞がありました。で、ラジオをつけてみたら自動検索モードでした。で、カトリックの地域ラジオ、RCF Pays d’Audeに当たります。で、全国のカトリックラジオと同じように、毎日、午後3時30分から、ルルドのロザリオが放送されていました。つまり、その時、私はロザリオの生中継に当たりました。たまたま。ロザリオと言う祈りを聞いたことは一度もありませんでした。ロザリオの存在ですら知りませんでした。

その時の記憶、その時に感じたことを表現するために、このたとえにしましょう。つまり、生まれながら耳が聞こえない人はいきなり奇跡的にも聴覚が復活して耳が聞こえるようになるうえに、モーツァルトのレクイエムを聞かせるような経験でした。本当にこの上なく綺麗なものでした。その綺麗さを表現しようとも言葉に絶するような素晴らしいことでした。



ロザリオを聞いて、私の心が刺されて絶えまなく感動していました。そのあと、子供時代の時、初聖体拝領の際にもらったロザリオを何とか見つけたほどに感動していました。家のどこかの引き出しで落としていたような感じでした。このロザリオは家にまだあったということもたまたまではありませんでした。というのも、昔から私は何度もこのロザリオを手放そうとしたのに、どうしても私の手に戻ってしまったわけです。主はやはりこのロザリオを手放さないようにお望みでした。私はこのロザリオをカトリックの友人に何回もあげたのに、毎回返されてしまったのです。

で、この経験のあと、ロザリオの祈りを習い、ロザリオを祈り始めました。そして、ついにルルドへ参りました。ルルドの洞窟に行って(注・1858年、聖母マリアが出現した場所。有名な巡礼地)、聖母マリアの御像の前にロザリオを祈っていました。
そして、祈りが終わったら、帰ろうと思って、手荷物を片づけました。で、出発しようとした瞬間、私はドンッと地面に倒れました。なんか、私の足は麻痺していたかのように倒れたのです。私の足は亡くなったかのような感じでした。周りの人々は私の転倒を見て近づいてきました。

その時の私の状態はまず仰天で、茫然自失していました。その上、やはり怖い気持ちもありました。「これはなんだ。どうしているのか」という恐れもありました。なんか、いきなり理由もなくこのように地面に倒れたら、心配に値しますね。そして、前にある聖母像を眺めました。その時、聖母マリアの出現はありませんでしたが、聖母像は妙に光っていました。その時、何が起きているかなんて私は何もわからなかったのです。途方にくれました。そして、周りの人々は私が起こすように助けてくれながら、「あらあら、膝の障害で奇跡を乞いに来たのか」といわんばかりの多くのコメント。その時、私は頭の中で、彼等を罵倒したかったのです。「ほら、毎週10キロを二回走っているし、いつも元気いっぱいで健康だったから、もう。。。」という思いで。。。やはり不思議でした。



しばらくしたら、どのぐらいの時間だったか、なんとも言えないのですが、ある程度長かったと思いますが、周りの人々はいよいよ私を持ち上げて起こしました。というのも、周りの人々は私を起こそうとしても、私の足は持てなくて立てなかったのですよ。一旦、持ち上げられても足は麻痺しているかのように、もう一度倒れたりしていました。
で、しばらくしたら、ようやく足は戻って、帰りました。私のヴェストが裂けていていたので、ホテルに帰ってヴェストなどを見た家内が心配していました。「どうしたの」といわれて、私は恥ずかしくて実際に何があったかを言えなかったのです。なんか「滑って倒れた」というような言葉で逃げました。

私はやはり心配していて、医者を訪問しました。いわゆる、検査してもらうために健診を受けました。私はいきなり理由なし倒れたことを医者に報告していました。もちろん、ルルドなどの話はしませんでした。というのも、私は狂気でもあるかと疑われることは怖かったし。で、私は深刻な癌でも、多発性硬化症でも何か重病にかかっているのではないかと医者に私の疑問を聞かせました。で、検査の結果、問題なし。。。

で、検査の結果が報告されたら、私は医者に転倒の事情をより詳しく報告しました。ルルドでいきなり倒れたと。医者は「いや、なんだろう?健康上の問題はないし」と答えて。で、私は怖かったその言葉を言いました。「もしかしたら、私は精神錯乱でも心理的な問題がある可能性が?」と私は医者に聞きました。で、医者は「セルジュ、10年前から私はあなたのかかりつけ医でしょう。もう、精神的にも心理的にもあなたは問題なく安定ですので、それはないと思います。精神病も神経症もあなたにないと見ています」と答えられました。

その結果、私は結論しました。もう、これは病気とか身体とかの問題ではなくて、やはり超自然の問題だったと認めざるを得ませんでした。ですから、そのあと、神父の助けを求めにいきました。
一番不思議なのは、以上の経験は身体上の経験にとどまらなかったのです。同時に、説明しづらいですが、ある種の「当たり前」の気持ちが私の心に溢れました。つまりキリストと聖母マリアの私への愛がいっぱいであるという事実を「当たり前だ」という気持ちが溢れて不思議にも強くその気持ちを抱いていました。

この愛は両側だったというか、つまり、私の方で聖母マリアとキリストを初めて愛しました。初恋のような気持ちで、15歳になって初めて恋するという激動の愛。そして、同時に聖母マリアとキリスト側の私への愛は幾倍も大きくて、私は凄く愛されていることを感じました。で、何よりも聖母マリアとキリストの愛は私のためにあったという不思議な気持ち。

その結果、どこかの修道院で黙想会に参加することにしました。Lagrasseの修道院で、一週間を過ごすことになりました。本当に私にとって不思議なことでした。修道院の門を潜って、私のために用意された小室に入ったら、壁に十字架上のキリストがありました。で、それを見て泣き出しました。私は泣かない人です。というのも、私の先祖がアンダルーサ出身で、アンダルーサの人々の誇りは非常に高いわけですよ。ですから、「男なら泣かないのだ」と子供の時から父から教え込まれていた者だから、私は泣かない者です。しかしながら、十字架上のキリストを見て、生まれてから初めて、涙のかれるまで泣きましたよ。

このように、信仰に戻った経緯をちょっと語りましたが、もちろん、経緯はその他にもいろいろありました。
要は、いろいろのことがあって、「わかった」ということです。フリーメイソンの神、フリーメイソン的な自然主義的な神は概念、観念に過ぎないことをいよいよわかったわけです。フリーメイソンの神は理念上の観念に過ぎないのです。一方、天主は実在します。本物の神、カトリックの神である天主はまさに実在するということを初めて知りました。で、実際に天主は我々を愛し給うのです。

で、認識しました。私の理性の力で理解したのではなくてね、天主の恩寵の働きと助けのおかげで分かったのです。
結局、単純で簡単なことです。フリーメイソンのいわゆる「光」はたとえてみると電球の光にすぎません。いわゆる、その上なく輝かしい太陽、核兵器の爆発を越えるキリストの愛に比べて、似非光である電球。

ですから、はいそうですね。私は直されたのです。癒されたのです。回復せられたのです。一旦、救われたでしょう。もちろん、この世では最期まで救いを決定的に獲得することはないのです。天主は単純にわれわれを呼び求めておられます。そして、その呼びかけに答えるかどうかは我々の自由意志です。いわゆる、街を歩いて出会う乞食のようなものでしょう。つまり、良き心の人が乞食に一札をあげるとしましょう。我々は乞食であるとして、手を握っているままで一札を貰わないことにしたら、この一札を得ることはできません。天主は私たちに対してこのようなやり方で接触しておられます。かつてまで、私は手を握っているままでしたが、もう今、手を開いて天主の賜物を頂こうとしています。

それ以来、説明できない、言葉に絶する愛を経験しているわけです。この「説明できない」という部分を取ったら、フリーメイソンの秘密との類似性があります。しかしながら、この類似性はあくまでも形式的な類似性にすぎません。中身は全然違います。というのも、フリーメイソン会員は自分の秘密を追求していることを信じています。ただし、フリーメイソンは精神療法ではないわけです。フリーメイソンは曖昧にして「真理」をいつまでも追及しています。「自分の真理」を追究しています。しかしながら、結局、追究した結果、自分自身のみがあります。自分自身にぶつかるのです。しかしながら、キリストなしの自分自身は非常に貧しい者で、愚かな者に過ぎないわけです。」

取材者 「今日になって、引き返せるとしても、絶対に引き返さないことにするでしょうか?」

セルジュ「絶対に引き返したくないのです。物質的に、回心する前の日常と今の日常を交替できたとしても絶対にしません。というのも、回心する前の生活標準は物質的に言うと、今よりはるかに豊かでした。もちろん、今、地味でも貧乏になったわけではないのですが。言いたいのは、回心したおかげで得られたキリストの内に信仰を失うことを意味したら、絶対に嫌です。決して手放したくないのです。キリストから距離を取って豊かになるよりも、イエズス・キリストの愛のうちに乞食になった方が絶対にいいと思って覚悟しています。

どちらかというと、私にとってこのような問いすら成り立たないのです。当然になによりもまずキリストです。他のすべては二次的です。世間と天主があります。マモン(お金)と天主があります。私は決定的に天主を選びました。この選択は絶対に変えられないように毎日、祈っています。私から見ると、この選択は不可逆だと思います。そして、キリストから見ると、天主は人間と違ってこの上なく誠実なので、私を見捨てることはいつまでもないことを確信しています。

天主はいつもおられます。いつも傍におられます。このように元気に見えるでしょうけど、回心してからかなり大変なことがあって、ひどい目にも合っているけど、イエズス・キリストのお陰で乗り越えられます。私が倒れてもイエズス・キリストは私を持ち上げ給うのです。そして、聖母マリアもおられます。表現しづらいことです。説明するのは難しいです。しかしながら、これは毎日生きている現実です。殆ど感知できる現実です。
まあ、この動画を見るフリーメイソン会員は私の話を聞いておそらく疑いを表すでしょう。

そのような方に二つのご提案があります。最近に出た書籍を読むことをお勧めします。私の本ではないですよ。自分の本の広告はしない者ですからね(笑)。Sarah枢機卿がお書きになった書籍で、「沈黙の力」と題されています。素晴らしい本です。そして、この本を読んだ上に、一回ぐらい、御聖体のみ前に礼拝するようにお勧めします。それでもフリーメイソンを捨てなくて回心しないのなら、もう、彼等は心を閉ざすことにしているということです。それなら、仕方がありません。乞食が手を握っているままと一緒です。」

取材者「御証言、真にありがとうございました」

セルジュ「こちらこそ、ありがとうございます。」 終

フリーメイソンはルシファー教なのです【2】影響力|元フリーメイソンでカトリックに回心したセルジュさんの証言

2021年06月19日 | カトリック
元フリーメイソン、カトリックに回心したSerge Abad Gallardo(セルジュ アバド・ガラルド)
「フリーメイソンはルシファー教なのです」

Reinformation.tv https://www.youtube.com/watch?v=kCZQnT_6sLE

記録映画
編集長 Armel Joubert des Ouches
音楽 Stephan Cayre
ミキシング Cali Schmidt


続き)
フリーメイソンの影響力について

セルジュ「フリーメイソンの影響力は紛れもない事実です。「人権ロッジ」においてよく経験したことですが、大東社ロッジの方にさらに多いと思いますが、毎年、いわゆる「社会問題」が提示されて我々は勉強することになっていました。全国のロッジにおいてこの問題が議論された結果、全国レベルで総合報告書が作成されます。そして、この総合報告書は大統領と政府に提出されます。要は、政治家たちは必ず正式にフリーメイソンの立場がどうなっているか報告されているわけです。しかしながら、それよりも大事なのは、いわゆる「国会の友愛クラブ」の影響力は決定的です。」

Le Point新聞(左派の大手雑誌)記録資料。「国会の友愛クラブ」の信徒たち(2007年1月18日の記事)
抜本「地方に長年の間、やってきたフリーメイソン会員が次のように説明しています。「この地方では、フリーメイソンとかかわらないで、政治をやるのは至難の業である。左派の政治家ならなおさらだ」」

セルジュ「考えてください。地方のどこかの田舎に40人がいて、これらはある程度の権力と人脈を持っています。で、一人ずつ、ある課題について、例えば社会問題について、重要な立場にある、人脈の20数人に働きかけたら、全体的にどれほどに強い人脈と影響圏になるか想像に難くないのです。そして、全国レベルでも同じです。同じ問題、同じ対策を全国のロッジに流されたら、なおさらのことです。このようなやり方はフリーメイソンがフリーメイソンの理想を拡散するための一つの手段です。」

セルジュ「「国会の友愛クラブ」は、当選されたフリーメイソン会員、あるいは国家の高等官僚のフリーメイソン会員からなっています。私が手元にある正式に公開されている数字によると、「国会の友愛クラブ」には400人ぐらい会員がいます。その内の250~300人ぐらいは当選された政治家です。残りは官僚の人々です。言いかえると、国会両院の内、300人ぐらいはフリーメイソン会員であることになります。つまり、議員全員の三分の一の議員たちはフリーメイソン会員になっています。もちろん、この割合は少なく見積もってなのです。

「国会の友愛クラブ」に属しないフリーメイソン会員もいることが想定されているからです。かつて、「国会の友愛クラブ」の会長は公けに宣言しました。これを証明する資料を保管しているので、本において紹介しています。会長はこういっています。「私は会長としての役割をちゃんと果たしたら、左派右派を問わず、フリーメイソン会員の両院の全員は社会問題に関する法案で同じ投票をするでしょう。」
「社会問題」とはいわゆる男女平等、同性愛、安楽死、堕胎などなど。ですから、数年前のいわゆる「同性愛結婚」が一体なぜ通ることが可能になったかというと、フリーメイソン議員の投票で理由が尽きます。

また、有名人でFred Zellerの例を挙げましょう。彼は大東社のグランド・マスターでした。また、当時、トロツキーの秘書官としても活躍しました。どういった人物だったかを理解するために面白い事実でしょう。で、Fred Zellerが明白に言ったことがあります。つまり、国会にいるフリーメイソン会員の仕事は何よりもまずフリーメイソンの理想を支えるために働くことだと、このフリーメイソンの大物が明白に言いました。私が言っているのではないのですよ。」

フランス国立視聴覚研究所の記録動画
取材者「フリーメイソン結社はいまだに政治への影響力はあるでしょうか?」
Fred Zeller「はい、もちろん。どちらかというと、第三共和国と第四共和国の時代よりも、フリーメイソンの影響力はいまのほうが強いかもしれません。(注・第三共和国の時、大東社だけで、議員の八割がフリーメイソン会員だったという時代もあった)今は、昔と比べて、フリーメイソンは別次元に移っただけです。」

取材者「どこの次元でしょうか?」
Fred Zeller「簡単でしょう。全国のどこの団体にも、労働組合にも、グループにも、フリーメイソン会員はその中枢の立場やトップにいるわけだから、(その影響力は)自明でしょう。」

2017年2月27日, RTLラジオ局(大手ラジオの一つ)の公式ホームページにて
「彼は(オランド大統領)、現役の大統領でありながら、フラン大東社のロッジの本部に正式に訪問したのは(歴代大統領の内で)初めてです。」

2017年2月、L’Express誌(大手の左派雑誌)より(2017年の大統領選挙のちょっと前)
「(ロッジへの)大統領の訪問の意味はどこにあるだろうか?選挙における効果はおそらくゼロに近いだろう。しかも、歴代大統領の内で初めて再選を諦めた大統領として、選挙上の効果が期待できない。しかしながら大統領は何の利益を求めないで訪問したことになるだろうか?ちょっと惑っている兄弟たちに慰めの言葉を伝えるだろうか?Benoit Hamon会員(注・当時、文部科学大臣でもあった)はライシテを厳格に捧げているのに、兄弟であるはずのManuel Valls(当時の内務大臣)がBenoit Hamonがそうでもないだろうと発言して、また(当時の右派の代表人物だった)Francois Fillonがカトリック主義を唱えることも話されるだろう。」

テレビにて発言するフランソワ・オランド。
オランド大統領「私もそうなのですが、共和政を固く信じている者ならば、いずれかフリーメイソンを通じなければ何もできません。」

セルジュ「「フランス大ロッジ」の元グランド・マスター、Pierre Simonもいますね。彼は堕胎の合法化に大きく貢献した人物です。」

「生命を与えるというのは、障害のない子供を産むということだろう。。。ダウン症の者は以上の枠内にはないだだろう」Pierre Simon フランス大ロッジの元グランド・マスター『すべてのことにおける生命』からの抜粋

セルジュ「このように堕胎に関する諸法律は直接、フリーメイソン結社とかかわっているわけです。フランスでは、このような「社会問題」に関するすべての法律はやはりロッジにおいて考えられて成熟されています。「成熟」という言葉はPierre Simonが使っている言葉で、ロッジで国の法律は成熟されていると彼はいっています。

この意味で、最近、私が出した第二の書籍において、最近の事例を取り上げました。いわゆる「レオネッティ法(注・晩年に関する法律)」の改革法案がありましたね。いわゆる、安楽死を合法化するための法案でしたが、私はこの法案において、ロッジの文書でつかわれている同じ表現、まだ「女性フランス大ロッジ」が政府宛の手紙にある全く同じ表現が使われていることがわかりました。同じ言葉ですよ。それはたまたまではありません。具体的にいうと、「深刻鎮静化」と「最終鎮静化」といった表現ですが、安楽死を婉曲の形で表現するための表現です。

ときどき、フリーメイソン会員は私を非難して、「彼はフリーメイソン嫌いだけであるからばかだ」といっています。しかしながら、全く違います。私はフリーメイソン会員の不幸を願うようなことは全くありません。その逆です。フリーメイソン会員がキリストの光を見られるように毎日祈っています。残念ながら、フランスの法律はロッジにおいて作成されている単なる現実確認にすぎません。これで本当に民主主義の実践だといえるかはちょっと疑問ですが。」

取材者「いつの間にかルシファーに奉仕していたことに気づいた、とおっしゃったことがありますが」

セルジュ「その通りです。当然といえば当然ですが、紛れもなくフリーメイソンはルシファー教なのです。ただ、ルシファー教という意味はどうなっているかを説明しましょう。ルシファー教あるいは悪魔教の意味になりますが、フリーメイソンではいわゆる「黒いミサ(注・カトリックミサを真似て、冒涜して、カトリックの典礼を覆す悪魔教の儀礼)」や「子供を殺して生贄を捧げること」や「集団乱行」などはありません。いわゆる、性的行為を踏まえたサタン的な儀礼などはありません。」

取材者「セルジュ様の知る限りということですね」

セルジュ「はい、その通りです。指摘してくださってよかったです。私の個人的な経験に照らして、このような儀礼を見たことはありませんでしたが、確かに全くないとは限らないのです。私はあくまでも証人です。神学者でも宗教学者でもありません。私は長年、フリーメイソン会員だったということで、単なる証人ですが、そして聖霊の導きのお陰で信仰に戻った一人にすぎません。つまり、私はこの目で見たことについてのみ証言しています。

ですから訂正しましょう。私は黒いミサのような儀礼を見たことがありません。しかしながら、多くの著者は確かにこのような儀礼について証言したりします。特にスペイン人の学者ですが、Ricardo de la Ciervaという有名な学者があります。彼はこう説明しています。「すべてのフリーメイソン会員は悪魔礼拝者ではありません。しかしながら、すべての悪魔礼拝者はフリーメイソン会員なのです」と説明しています。このことは単なる現実の確認なのです。学界では彼の研究の成果は評価されているわけです。例えば、合衆国での悪魔教の創立者はAleister Crowleyですが、彼はフリーメイソン会員でした。」

Aleister Crowley(1875-1947)あだ名は「666の大猛獣」

セルジュ「また、他の研究によると、Albert Pikeも悪魔礼拝者の一人だったことが明らかです。で、Albert Pikeは平気に言っていました。「フリーメイソン教」。はい、「教」といっています。私が想像した表現ではないことが明らかでしょう。で、Albert Pikeは「フリーメイソン教はその上なく悪魔の宗教なのです」。それだけではなく、Albert Pikeはさらに言っています。「ルシファーもAdonai(注・キリスト)も神だ」といっています。そして、「残念なことにAdonaiも神です」と。」

Albert Pike(1809-1891)
Albert Pikeの言葉
「我々は神を崇拝しますが、実際に迷信のない神なのです。我々、秘伝に与った高等階級の(フリーメイソン)会員らはルシファーの清い教えの内に我々の宗教を生きてい行かなければなりません。ルシファーが唯一の本物の神ではなければ、一体なぜAdonai(注・キリスト)がルシファーを誹謗するでしょうか。Adonaiのすべての言動は隣人に対する過酷さ、(。。。)憎しみと科学の否定を語っているのではないでしょうか?はい、ルシファーは確かに神です。しかしながら、残念なことにAdonaiも神です」
(スコットランド典礼の32級の会員向けの発表からの抜本。1889年7月4日の言葉。)
Albert Pike曰く、「ルシファーの清い教え」

セルジュ「要するに、フリーメイソンは悪魔教の側面が強いといっているのは、私が想像していることではないのです。ただし、フリーメイソンの場合、この悪魔教的な要素が少しずつ現れてくるわけです。非常に段階的に示されている様子なのです。言い方を変えると、悪魔教であるしるしは多くあって、そして、昇級すればするほど明らかになっていきますが、それを見ないふりする会員が多いです。

一例を取り上げましょう。マスターの階級になると、特定の合言葉と「聖なる」言葉があります。この二つの言葉はTubalcainとMoabonなのです。Tubalcainはつまり「マスター」の言葉なのです。で、TubalcainはCainの子孫にあたる人物です。マスターになるための儀礼の時、本人は象徴的に死ぬかのようにして本人が倒れるのですが、いわゆる、フリーメイソン会員の模範となるHiramの殺人を演技するような儀礼がありますが、そのあと立ち上げられたら、「Tubalcain」という言葉は本人の耳に呟かれます。で、その通過儀礼の結果、本人は新しいHiramとなるということを意味する儀礼です。ここはキリスト教的な復活でもなんでもなくて、ある種の輪廻転生のようなことで、Hiramの霊を受けるような、本人において再生するような意味です。で、その時、「Tubalcain」という言葉も耳に呟かれます。

言いかえると、フリーメイソンのマスターになると、精神的にCainの末裔になったよということを意味する儀礼です。しかも、二つ目の言葉をみると、更に自明となります。Moabonはヘブライ語ですが、その語源を見ていきますとね。ちなみに、私はヘブライ語の専門家ではありませんが、ヘブライ語の専門家の研究によると、皆同意しています。またフリーメイソンは自ら同じことを断言しています。Moabonは「父の息子」という意味です。

要約すると、マスターになると、特定の言葉を二つ預かります。マスター同士の合言葉としても、マスターという資格を主張するためにも使われているTubalcainとMoabonという合言葉です。つまり、人類史上、初めて殺人したとされるCainの子孫にあたるTubalcainという父にして、マスターはその霊的な子孫になったことを意味する「マスターの合言葉」ですね。まあ、このようなわざとらしい象徴は好ましいとは言えないと思います。

まあ、「セルジュの個人的な意見だ」、「間違った意見だ」と思われる人々が出てくるかもしれません。しかしながら、Jean Baptiste Willermozという人物の証言を見ておきましょう。彼は有名な評判のあるフリーメイソン会員ですが、19世紀の時、「改革され、承認されしスコットランド典礼」を編纂した大人物です。この典礼はフリーメイソンでは大きな存在感を持っているので、フリーメイソン関連でいえば、知るべき典礼です。

で、Jean Baptiste Willermozはマスター階級の儀礼から、「Tubalcain」という言葉を削除しました。その理由は「悪魔的な言葉」だからだと説明しています。ですから、セルジュ アバド・ガラルドが主張していることではなくて、19世紀、「改革され、承認されしスコットランド典礼」を作成した大人物が言っていることです。高等階級にいるフリーメイソン会員なら、フリーメイソンの正体をよく知っているわけです。問題は、多数派のフリーメイソン会員はこのようなことを知らないままです。隠されているからです。私も経験したことですよ。長年いても、何をやっているかはよくわからないままでした。

つまり、通過儀礼の時、「Tubalcain」という言葉を耳にしたとき、もちろん、私は私なりにその時、疑問に思いました。だから、私をフリーメイソンへ推薦してくれた親友、当時、通っていたロッジの上の人間でしたが、直接に彼に聞いてみました。彼に信頼していたから。「Tubalcainはどういう意味なのか」と。彼は答えました。「心配はいりません。Tubalcainは単なる鍛冶屋という意味ですから」。つまり、Cainの子孫であるというような話は一切何も言われなかったのです。そここそ、フリーメイソンの危険性があります。というのも、フリーメイソンなら、書かれていないことこそが大事だからです。」

「真っすぐさ、垂直さ、良心の印であるこの定規の上に、そして、これから我が法になるこの憲章の本の上に、また、不可侵にしてフリーメイソンの秘密を固く守りつくすことと、許可なしにフリーメイソンに関する見聞を絶対に記さないことを誓います」

セルジュ「フリーメイソンの本質を把握するために、それぞれの儀礼と組織の行間を見なければならないから、ある程度、深入りして検討しないかぎり、見えていないことは多々あります。講演などで、私はフリーメイソン会員に向けてよく言っています。「気を付けてください。Tubalcainの意味を考えたことがありますか?象徴的な意味があるから、よく考えてみてください。検討すべき点でしょう」と警戒するように頑張っていますが、殆どの場合、フリーメイソン会員の多くは象徴的な事柄と理論上の事柄を混同しています。しかしながら、両方は異質であって、象徴と理論は全く違います。象徴を通じて具体的に人間の精神へ作用して、精神的な影響力は実際にあるので、理論と違います。だから、象徴を軽視してはいけません。」

フリーメイソンにおいて溢れるほどに数多くの象徴がありますが、一つには服装にかかわる象徴があります。
セルジュ アバド・ガラルドはフリーメイソン会員だった時代の幾つかの遺物を保管しているので見せていただきました。

セルジュ「例えば、これはフリーメイソンの手袋なのです。コンパスと定規が刺繍されていることからフリーメイソンの手袋だとされています。すべてのフリーメイソンはこのような手袋を持っていて、定期の儀礼の際、その着用は義務化されています。もちろん、象徴的な意味があって、いわゆる「意志の清さ」を象徴しています。というのも、入会の儀礼が終わってからすぐ、このような手袋が新会員に渡される時、その象徴的な意味があることも伝えられます。

次に、これは見習いの前掛けなのです。入会の通過礼を受けた時、腰に纏われる前掛けの布です。
これは、マスターの前掛けなのですが、二つの文字が刺繍されています。「Mと三点」「Bと三点」。フリーメイソン的な暗号ですが、Moabonの略号を意味して「父の子」という意味ですね。先ほど紹介したように、Tubalcainとの絆を表して、つまりフリーメイソンのマスター(親方)はCainの霊的な子孫にあたることを示すための象徴です。



そして、前掛けの布のあと、(つるぎ用の)負い革もあります。いわゆる、剣を掲げていることを想起するための服装です。そういえば、「承認されし古きスコットランド典礼」(注・一つの主流なフリーメイソンの典礼)において、神殿騎士団との霊的な絆が重視されています。この負い革には定規とコンパスがあります。そして、その中に「G」という文字があります。それぞれのロッジでは多少、違う意味がありますが、「グノーシス」あるいは「重力(Gravitation)」あるいは「ゴッド」などの意味があります。このようなことは恐ろしいです。というのも、隠されている事実なので、皆、黙っている事柄だからです。・・・続く

フリーメイソンはルシファー教なのです【1】入会|元フリーメイソンでカトリックに回心したセルジュさんの証言

2021年06月16日 | カトリック
フリーメイソンの多くはロベスピエールの時代、あるいは少なくとも革命時代を懐かしんでいます。フリーメイソンはやはりルシファー教なのです。この負い革には定規とコンパスがあります。そして、その中に「G」という文字があります。このようなことは恐ろしいです。というのも、隠されている事実なので、皆、黙っている事柄だからです。

その時、一番不思議なのは、単に身体にかかっただけではなく、聖母マリアとキリストによって愛されているというこのうえなくはっきりとした気持ちとなったことです。その時、十字架上のキリストを見ましたが、生まれてから初めて、涙のかれるまで泣きましたよ。

元フリーメイソン、カトリックに回心したSerge Abad Gallardo(セルジュ アバド・ガラルド)
「フリーメイソンはルシファー教なのです」

記録映画
編集長 Armel Joubert des Ouches
音楽 Stephan Cayre
ミキシング Cali Schmidt


Reinformation.tv https://www.youtube.com/watch?v=kCZQnT_6sLE

彼は元高等公務員なのです。都市の元局長の他、建築家でもあります。そして、法律家でもあります。セルジュ アバド・ガラルドはその上、元フリーメイソン会員です。コルシカ島のバスチアで入会しました。「大東社ロッジ(グランド・オリエント)」から発生した「人権ロッジ(ドロア・ヒューマン)」において大親方(グランド・マスター)の地位を務めていました。彼は24年間、ロッジに通っていました。第18階級まで昇級していました。

フリーメイソンへの入会はごく普通のパターンです。最初、人生の意義について悩んだ結果、ある日、フリーメイソンに入ってしまいました。
数日ほど、南部フランスの故郷で、セルジュ アバド・ガラルドと一緒に過ごしました。
映画に入る前に、一点だけことわっておく必要があります。セルジュは多くの元兄弟から攻められていることです。

当初、13分の記録動画を出して、短編にしていましたが、重要かつ深刻な課題であるので、今回、記録動画の長編を公開することになりました。
最初は現場まで行くことにしました。セルジュ アバド・ガラルドはかつて通っていた神殿の近くまで連れていってくれました。ナルボンヌの郊外にある小工業地帯にあります。

「ここに戻って、どういった気持ちになっているでしょうか?」
「正直に言うと、悲しいです。フリーメイソンの支配下にまだいるこれらの人々の状況を考えて悲しいです。支配とはいっても、殆どの場合、フリーメイソン会員は自由に同意して意図的に支配されているわけです。それでも私は悲しむのです。というのも、彼等は、さきほどご覧になったように、文字通りにも比喩的にも閉じこもっている人々だからです。」

ナルボンヌの郊外にて、セルジュ アバド・ガラルドが通っていたフリーメイソンのロッジ。


「つまり、セルジュはここを通っていたということですね」
「その通りです。ここを通っていたのです。建物の中、フリーメイソン神殿はありまして、いわゆる、フリーメイソン神殿が通常安置されています。「柱」と呼ばれる二列の椅子や「東方」や多くのフリーメイソン的な象徴で飾ってあります。その神殿において、定期的な開催礼、入会の儀式、それぞれの儀礼が執り行われています。」

「そこにある門は今になって、つまり午後の8時ごろですが、閉まっているはずです。というのも、先ほどご覧になったように、駐車場に多くの車が止まっていて、もう誰も来ていないのです。つまり、定期の開催礼はまもなく始まる時間です。ですから、この門は鍵で閉まっていてもう外から入れないのです。もしも今から入ろうと思ったら、ベルを鳴らさなければなりません。そして、そうするために、暗号はあるわけです。具体的に言うと、通常の合言葉と聖なる言葉はMoabon・Tubalcainの対があります。」

Tubalcain(チュバルカイン)の意味は

「世界の御主(おんあるじ)」、「世界支配」となります。
聖書において、チュバルカインはアベルを殺人したカインの子孫にあたる人物です。。。

定期の開催礼には約40人のフリーメイソン会員が出席します。あるロッジにおいて40人を超えた場合、「分封」が行われます。つまり、15人ぐらいがそのロッジを出て、別の場所で、別の名前で新しいロッジを創立していきます。そして、新しいロッジは40人に達したら、また「分封」していきます。なるべく「分封」していくように、ロッジは拡散していきます。

取材者「セルジュ アバド・ガラルド、こんにちは」
セルジュ「こんにちは」
取材者「お宅に迎えてくださってありがとうございます。最初に聞きたい質問は次の通りです。「フリーメイソン」といった時、どういう定義になるでしょうか?」



セルジュ「フリーメイソン結社を定義するために、フリーメイソンによる定義を提示しましょう。フリーメイソンによると、「思想勉強会」あるいは「友愛団体」だと自称していますが、実際に私に言わせると、私の経験に照らして、フリーメイソンは宗教なのです。これを簡単に証明できるかと思いますし、私の意見というよりも、多くの専門家はフリーメイソン結社を宗教として定義しています。私に関して、まず、証人としていままで経験してきたフリーメイソンは宗教だったことは明らかで間違いないと断言できます。それだけではなく、フリーメイソン会員あるいはフリーメイソンの多くの書物に基づいても、フリーメイソンが宗教であることを簡単に裏付けられて、私なりに証明しておきました。一番早いのは、フリーメイソンの基礎憲章である「アンデルソン憲章」を参照すると明らかです。それから、フリーメイソン会員の間、評判のある大教養人らの文章を参照しても明らかです。」

フリーメイソンの憲章、Worcestershireのフリーメイソン図書館と博物館にて。

「アンデルソン憲章」はフリーメイソンの諸規定を記した規定集なのです。1721年、プロテスタントのジェイムズ・アンデルソン牧師が作成した憲章です。憲章において、フリーメイソンは「神への帰依」に基づいていることが明記されています。しかしながら、問題はこの「神」とはどういった神になっているかということです。というのも、フリーメイソンの「神」、憲章にある「神」はカトリック教会の天主と全く相容れない存在で全く違う存在となっているからです。

セルジュ「フリーメイソンの定期の開催礼に基本的に一か月に二回あって、出席する義務がありますが、つまり定期の会ですが、それについて一つの経験を述べましょう。開催礼が終わったらすぐ、いつものようなことで、数人の会員は「共和政、万歳!」と叫ぶことはよくありました。まあ、そこまで、フランス人ならだれも驚かない事柄だと思いますし、ある程度、政治意見に留まる感もしなくもないので、まあいいでしょう。ただ、その次、「カトリック!くそったれ!」と叫んで結ぶこともよくありました。これは一番著しい現象ですが、ほかでも、ロッジで多くの反教権的な話は出ていたことは言うまでもありません。」

取材者「さて、セルジュがフリーメイソン結社に入った時に戻りましょう。どうやって入ったでしょうか?そして、入ってから間もなく、どういったことが分かったでしょうか?」


セルジュ「フリーメイソンに入る前に、本人に関する調査が行われます。これらの調査の内、明らかな調査がありまして、つまり、面接して、多々の質問がされました。本人の思想はどうなっているか、本人の仕事と環境はどうなっているか、本人の個人情報はどうなっているかなど調べられます。それ自体は問題がないわけです。どこかの団体に新しいメンバーを入れる前に、どういった人であるかある程度調べるのは正当だと言えましょう。多くの場合、以上のような調査の結果、入会できない人々も少なくないのです。それはともかく、以上のような明らかな調査だけにとどまりません。隠れた調査も行われています。つまり、本人が知らない内に行われる調査もあります。要は、本人の周りに数人のフリーメイソン会員が普段からいますが、その正体は本人に隠されています。で、これらの会員は日常の生活において、職場であろうが、どこかのクラブであろうが、本人の思想、好み、行動を調べています。そして、入会に当たってこれらの会員はロッジに報告することがあります。これらの調査に基づいて、ロッジが本人の入会願望に対して配慮するかどうか決めていきます。そして、この入会願望が配慮されたら、次に本人が「目隠し布」の取り調べがあります。要は、本人は目隠しされながら、取り調べられます。」

フランス国立視聴覚研究所の記録動画 『ヴェールを脱いだフリーメイソン結社』

「君の前にある門を叩きなさい」
(中から)「尊敬すべきマスターよ、不規則に門が叩かれました」
(マスター)「不規則に門が叩かれたのはだれか?」
「フリーメイソンとして入会するように依頼している門外漢の者です。」

(マスター)「大エキスパート兄弟よ、大司会者兄弟よ、この門外漢の者を入れなさい」
(マスター)「兄弟たちよ、剣を手にして立ち上がりなさい。」

(マスター)「あなた、ここまでたどり着いた毅然とした態度の実りをそろそろ得られよう。
大エキスパート兄弟よ、大司会者兄弟よ、入門志願者が誓約するため、彼を東方台の第三の階段まで連れなさい。
あなた、右手を伸ばしなさい。頭の中に、私がこれから荘厳に読み上げる誓いを繰り返しなさい。」

セルジュ「入会の儀礼はかなり印象に残っています。質問は多くありますが、中心となる目的は志願者の誠実さを確認するためにあります。ですから、罠の質問も多々あります。つまり、三か月前、本人が知らない内に本人の言葉あるいは行動が報告されて、それについての間接な質問とかも普通にあります。本人は気づかない内ですが、いわゆる本人が正直であることを確認するための取り調べです。まさに、「異端審問的な手続き」と似ています。「異端審問的な手続き」といっても私の口ではまったく批判的な意味はありません。何を思っているか、正直であるかを確認するためには効果的な手続きであることは確かですし、そして、フリーメイソンは侵入されないようにフリーメイソン結社がは非常に警戒している事実もあります。で、ときどき実際に侵入されることはあります。まれですが。
そして、以上の取り調べが終わったら、次にいくつかの試練というか、試みがあります。身体上の試練もあれば精神上の試練もあります。あえて「霊的な試練」とは言いません。というのも、フリーメイソンにおける「霊性」といったら、ちょっと違うと思うからです。」

セルジュ「入会の儀礼の言葉はロッジのマスターたちが唱えますが、非常に演劇的だというか、非常に荘厳にすべく執り行われる儀礼です。例えば、入会儀礼の最初あたりの儀式に、マスターはそこにいるフリーメイソン会員に次のことを言います。「兄弟よ、(あるいは姉妹よ、というのもいくつかのロッジは男女共同になりますが、男性専用のロッジは一番多くて、女性専用のロッジも稀にあるわけです)」。で、マスターが、「兄弟よ、門外漢の者を連れていって、第一の旅をさせなさい。命が残るように無事に戻るように頑張りなさい」と。

あなたが目隠しされながら、このようなことを聞くと、やはりちょっと心配してしまうのですね。例えば、大東社の儀礼だと、入会儀礼の一場面は次の通りになります。舞台には一人の人が地面に横になっている。そして白いシャツを着ているが、血を思わせる赤い色のしみにシャツは染まっているという設定です。つまり、地面にある人が深刻な傷を負っているかのように、あるいは死んでいるかのように見せかけられている設定です。また、身体に剣が刺されているような設定です。で、志願者の目隠し布がいきなりその現場の前に脱がれて、この死体もどき舞台を志願者がみますね。で、「尊敬すべきマスター」が次のことを言います。「裏切り者はこのような目に会うから」と。ですから、このような時、志願者が惑ってもおかしくないと思います。」

取材者「しかしながら、そのような威嚇的な儀礼があっても、あなたはそのまま、24年間、続けられたのはなぜでしょうか?」

セルジュ「確かにそうなのですね。入会の儀礼だけでいってもこれほど威嚇的なのに確かに続けられました。というのも、入会の儀礼の間、何度も何度も聞かれました。「それでも入会の決心を変えないのか」と何度も聞かれました。どちらかというと、入会儀礼もそうなのですが、これこそはフリーメイソン結社の邪悪さがあります。というのも、このような質問があるということは、志願者がやはり同意して、覚悟した上に入会するようにされているわけです。しかしながら、同意するとはいうものの、会員を操縦する側面は否定できないことでしょう。というのも、荘厳な儀礼、猛烈な場面、威嚇的な言葉、強い誓い。これらはどう見たって、心理的な操縦というか、少なくとも強い誘導ですね。これらは感動させて激しい印象を残すわけですから。しかしながら、同時に、本人が覚悟するように、完全に同意して入会するようにされています。ここにこそその邪悪さがあります。
でも、これは一体なぜあり得るでしょうか?志願者にはフリーメイソン会員の推薦者がいるわけです。大体前からの知り合いで、やはり、ロッジへ志願者を推薦した会員に志願者が信頼しているからです。入会の儀礼の間、推薦者は志願者を安心させようとするというか、いわゆる「あくまでも象徴的な儀礼だし」というようなことが言われていますね。あるいは、「これからの儀礼はもちろん非常に重要なので、ちゃんとやって。しかしながら、皆無事にその儀礼を通じたので、大変なことでもない」といったようなことが言われるので、儀礼の間、これを思い出して何とか安心しようとしていますね。」  ・・・続く

キリスト教と法華仏教(8)に寄せて:【国体文化】掲載記事への返答―本当のキリスト教を理解するために―

2021年06月10日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
キリスト教と法華仏教(8)に寄せて 
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

キリスト教と法華仏教(8)に寄せて

ご丁寧に山川説を紹介してくださり、ここに感謝の意を表したい。
本稿において、手短かに、三位一体に関するもう一つの「おさらい」を簡単にさせていただくとともに前もって質問もさせていただきたく思う。

聖書の和訳問題
福音書を直接引用していただけたことはとても良かったと思う。今後の考察のよすがにもなると思うからである。そのさい注意しなければならないと巷間よく言われるのは、どの和訳を使うかという問題である。相澤先生は共同訳を利用されたかと思うが(それは一番正式に見える和訳なので自然な選択ではあるが)、この共同訳には多くの問題があると指摘されている。

というのは、プロテスタント主義と妥協した形で、カトリックの本来の教義を曖昧にさせたり、時には否定したりすらする明らかな誤訳も多々あるからである。例えば、「地獄」ではなく「黄泉」としたり、「天主」ではなく「神」としたり、「イエズス(ラテン語により近い)」ではなく「イエス(日本語訳では歴史上にプロテスタント系)」としたりなどがあげられる。そのほか、敬語などの問題や論考に出てくる「悟らせる」という翻訳も疑問である。

本来ならば福音書を含む新約聖書はラテン語とギリシャ語で書かれている原文を参考にしながら、和訳を見るのがいいが、それには無理があるのは承知している。個人的には講談社のバルバロ訳をよく使っている。注も多くて、歴史背景や翻訳に当たる補足説明も付属しているので便利であるからである。また、典礼用の和訳よりも読みやすいうえに、プロテスタントのいう「無礼」にもならないからである。

ご質問
相澤先生の論を毎回読んで、山川説を継承していることがわかった。それで山川博の著作を紐解いたのだが、参考文献のリストが見えなかった。そこで、どういった文献にもとづき、聖書を説いているか、あるいはキリスト教について判断しているのかを知りたいと思った。ユニテリアンの問題なども出てくるが(無論、その極端説は否定されているかと思う)、しかしながら、こういった立場はかなりドイツ系あるいはアメリカ系のプロテスタント内部での議論と相まって書かれたのであろうか。山川先生はキリストの実在を肯定して(それを否定することは学問上に無理であるので最もなことだが)、また三位一体に特に注目されている。これは興味深いことである。というのは、どういった著書から三位一体を理解したのか?邪説も入っているので、カトリック系のものは少ないだろうと感じたが、実際のところはどうだろうか?

というのも、相澤先生の仏教に関する解説を読んで深く感じたのは「仏教」といっても、無数に宗派はあって統一性は歴史上一度もなかった。この点はプロテスタント諸派と似てはいる。ただし、大きな違いはカトリックという正当な存在に類する存在は仏教においては過去存在していないことも興味深かった。

加えて、本体一仏教?においてですら、汎仏教的な性格が濃厚で、「本尊」もバラバラであることにも驚いた。
つまり、ありていにいうと、明治維新になってから、西洋との接触によって起きた日本における諸宗派の危機を乗り越えるために、西洋にあったキリスト教を比定させることにより、日本の諸宗派を再編成する試みであったと思ってならないのである。つまり歴史も浅い上に、それぞれの「説」に依存しながら、それぞれが当時西洋において流行だった「定説」(しかしながらドイツ系は強くて、反カトリック的なところが濃厚であるという)を受け入れつつも、その実、キリスト教の全体像も、歴史過程もよく把握できていなかったように思われる。それは当時の学者たちに責任をすべてかぶせるのは適当ではなかろう。なぜなら、当時西洋の第一次史料をみることができなかったし、歴史上かなり革命的な近代的な思考を展開していたドイツ系の学派の強い影響があったからである。

三位一体の再度のおさらい
カトリック教会はイエズス・キリストの復活後に制定された。キリストはご自分の教えを弟子に託して、それを守り、布教していくように命じた。相澤先生も引用する有名な一句である。
「私には天と地のいっさいの権威が与えられている。行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ、28,18-20)

ここで二点について注意を頂きたい。正統なるカトリック教会は以上の一句にも見られるように、また他にも多々出るように、イエズスによって制定されて、正式に「イエズスの教えを預かった」ことである。聖ペトロが教皇になることも、司教たちが存在すること、つまりこの位階制が存在することも、ミサをはじめそれぞれの秘跡なども、また霊的な生活のための基本的な戒律なども、すべてイエズスご自身の御言に由来する。いわゆる「統一させる」ためにとか、「利益を得るために」ということではなかった。これを示すのは、使徒全員が殉教死を遂げたこと(福音作成者のヨハネも一応迫害を受けて、殉教死の寸前に奇跡的に救われた結果、自然死を遂げた)や、少なくとも4世紀まではキリスト教(ひいてカトリック)徒になるのは殉教死切符だったということからも明らかである。ローマをはじめ、それぞれの部族も含めて、貴族層から奴隷まで、かなり多くの違う人々は回心していったという事実がある。


それはさておいても、三位一体はやはり事後にできた「説」ではなくて、もともと聖書の中にあったからこそ、三位一体という教義は早い段階で明記されたのである。また、使徒たちはそれをよく知っていて、キリストの本質に関する異端説が出始めると、カトリック教会は最初から徹底的に戦った。そうしても何の利益がなかったのにもかかわらずである。いや、逆に権力者たちの多くはアリウス主義者あるいは他の三位一体を否定する異端説を提唱していたことから考えると、三位一体を守るのはむしろ「自殺行為」に近かったと言えるだろう。

また、このような人間の理性が理解できない三位一体という玄義になぜそれほど執着したのだろうか?これこそ信仰を抜きにして理解不能である。異端説も出たのはむしろ驚かないことであろう。三位一体はまったく人間の発想ではなく、まさに天主のみが啓示できるような理解不能な教義なので、天主の天啓を無視した人間の理性にとってよりわかりやすい何らかの説として思いついたのがそもそもの異端説の端緒にあったということは想像に難くないだろう。

ここでいいたいのは三位一体を信じよということではない。信じるためには、本人の意志の行為が必要であり、つまり自由意志を利用して、イエズス・キリストに信用しようと決意することにあるので、最終的に本人次第である。ここで強調したいのは、三位一体は単なる説ではなく、構造でもなく、全聖書に最初から織り込まれている根本的な教義でありながら、イエズス・キリストが到来して初めてこの教義があるということを知らされたということである。というのも、単なる人間の能力では理解できない、なつかない教義なので、イエズスや旧約聖書の長い準備がなければ、このような真理を言われてもだれも気付かなかったからである。

さて、では簡単に聖書における三位一体を語るところを見ていこう(主な文書に限って。)
まず、以上の一句に戻ると、「聖父と聖子と聖霊の名によって」という文章に三位一体は現れている。残念ながら、和訳ではそのニュアンスを正確に反映できない。というのも、単数形と複数形との区別が日本語にはないからだ。原文では、「聖父と聖子と聖霊」という三つの複数の名詞があるのに、「名」は単数形である。つまり文法上愚かな誤りであるが、それは誤りではなくてわざとそういう風に書いているのである。


福音書だけではない。創世記からもこのようなことが見てとれるのである。創世記の最初の一句に「神々は天と地をつくられた」という一句がある。普通の翻訳では「神々」ではなく「神」となる。しかしながら、Elohim(神々)という言葉はもともと複数形でありながら、造られたという動詞は単数形となり、文法上に誤っていることになる。しかし、これも誤りではなく、あえて三位一体を表しているのである。すなわち、唯一なる神でありながら、神の内に一つだけではないということである(他に、創世記、1,25-26。創世記、3,22)。あとはヨハネ、20,29(またヨハネ、14,16)などにもある。あるいは詩編109,1-3やイザヤ、6,3でも一般的に取り上げられている。

ちなみに、ヨハネの福音書は他の福音書と違うように見えるのは、起筆の時期と目的の違いからくる。つまり、一番若かった使徒であるヨハネは晩年になって、他の三つの福音はすでに書かれていたが、異端説が出始めて、それを未然に防ぐために、聖霊などの指示もあって、他の福音書においては書かれていないイエズス・キリストの御言や行為を記しておくようにしたのである。初代教皇であり、イエズス・キリストの使徒であり、聖マルコの福音書の基である聖ペトロの書簡もそれを明記する(ペトロの第一の手紙、1,2)。
そして、現代まで、カトリック教会はこの教義を絶えまなく、正式に、公会議、教皇の教書なりを通して、ずっと繰り返し断言していったのである。

結論からいうと、キリスト教において「敷衍(ふえん)」することはなかった。最初からすでにカトリック教会は成り立っていて、そのあとの作業はいわゆる二次的なものに過ぎず、攻撃されたら教義をさらに明確にしたり、典礼を強化したりするものだったが、根本的な部分は全く変わっていない。聖人たちの人生を見ても、場所と時間こそどれほど違っていても、皆、同じ宗教であることがよくわかる。

結びに代えて
山川先生は三位一体こそがキリスト教の重要な教義であることに気づいておられ、慧眼といえる。また、このようなところにカトリックの普遍性があることに気づいておられ、それを日蓮仏教へ移植しようとしたという風に見えている。問題は形式的に構造だけを移植したところでは全然成り立たず、イエズス・キリストの生命を引き継がない限りは同じ実を結ぶことはできないのである。だからこそ、イエズス・キリストその人を受け入れない限り、「世界宗教」などにはならないという。
この意味でも、イエズスを通じなければ、救いはないと確信する。

日本らしさはグローバリズムによって完全に食い込まれないようにすべきで、日本の固有性を守りながら、本物の普遍性を持つカトリックへ帰依するしかないのではないのか?
また、明治維新より、アジア主義にもみられるような普遍主義(普遍性)と特有性(日本主義でも)の間にあって多くの先人たちが悩んだと見ている。これは西洋にある「普遍性」をどうにかして移植しようとすることから来た悩みだったかもしれないが、問題は本物の、破壊的ではない普遍性は唯一にカトリックにおいて、イエズスにおいてあるのみだということに理解が至っていなかったことにあるものと思われる。
そうではない俗にいう普遍性では固有の伝統文化を否定し、果ては誤った普遍性による全体主義にも陥ることになるのではないだろうか?

宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!

2021年06月06日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!

立正文化の河本理事長の原稿を拝読し、本論を執筆することにした。
河本理事長は元気にお過ごしになられているようで、何より幸いなことである。また最近、お会いできなくて申し訳なく思っている。
本論の目的は相澤氏の記事への返答と同じように、いくつかの考察を共有することにある。キリスト教に関する不正確な題目はさておいても、「宗教の非宗教化」あるいは「絶対な平和」にある種の「フリーメイソン的なグローバリズム」が潜んでいるのではないかと否応なく看取したことから、河本師からの学恩に報いるためにも、私には誠実に考察の結果をお知らせする義務があると信じ、本論を執筆するものである。微力ではあるが、極力手短に要点だけに絞って論じていきたいと思う。いくつかの諸課題に関しては割愛せざるを得ないので、ぜひとも他の返答記事も参考していただけたら、今度のための論争の資すると思う。

I.冥合思想はなぜ無理なのか?
1.現実的な理由
仮にキリスト教と法華仏教の冥合思想のようなものがあり得る話だったとしても、それは非現実的であると言わざるを得ない。日蓮宗、あるいは法華宗は纏まった宗教でもないし、その信徒数からも、地域分配からも非常に小さい。世界中の諸宗教の間にあっては存在感がないどころか完全に無視されている。それが日本固有の仏教なら、なおさらのことであろう。

要するにだれもこのような夢想に耳を傾けてくれないに相違ない。私は恩返しということでこのような原稿を敢えて書く義務があると思っているのだが、実は何度もこれを諦め、皆様を見捨てて無関心になろうという誘惑を何度も受けたのである。ところが、やはり恩人なので、いずれ天国で会いたいと思ったとき、私のできる範囲でやれることをやらなければならないと決意したのである。正直に言おう。どうせ、このままだと長くとも数十年後には神道も仏教も亡くなるに違いない。ほら、立正教団あたりでも状況は芳しくないだろう。若者もいないし、なかには本当に信念がある人もいるかもしれないが、それでも世界中な規模に達するにはもはや無理がある。

カトリック教会は二千年近く続いてずっと纏まった形で、また、世界規模であり、また自分自身の自由意志をなくしてまでもイエズス・キリストに倣おうとするのがカトリックの中核であると言えよう。私も本論を書くに際しては、極力私心をなくして、イエズス・キリストのみ旨のままに書けるよう祈りながら書いている次第なのである。

元の話に戻ろう。現実的に日本のために尽くすためにどうすればよいか?里見氏などが築き上げたことを引き継ぐためにどうすればよいか?破綻寸前にみえてならない中、戦前の状況などは変わっていないかのようにつづけて、キリスト教などへの誤解を見てみないふりにし続けると、いずれかその報いは訪れるだろう。すでにこれらの帰結は現に起きつつあるのではないだろうか?

2.本質的な理由
他の私の返答記事に参照していただけたらすぐお分かりだと思うが、本質的にいっても冥合思想が間違っていると断言する。というのも、比較基準自体が間違っており、キリスト教とは何であるかということも著しく誤解されている。戦前なら、近代流の間違った見解ばかりが日本で紹介されており、また反カトリックが強いドイツ流とイギリス流の学問も強かったので、仕方がない部分があるとは思う。このなかで、私が国体学会と出会ったのも御摂理の導きであると信じているのだが、それはこのような誤解を解消させるためであったかもしれないと思うのである。

カトリックなら間違いなく、また。多くのプロテスタント宗派もそうであるように、絶対にイエズス・キリストを相対化することは許されていない。問題はそうしたくないからではなく、イエズス・キリストご自身がそのように言い切られたことであるからだ。我々、カトリック信徒、カトリック教会は単にイエズス・キリストの肢体、あえて誤解を恐れずいうと奴隷に過ぎないので、それに従って行くことにしている。だから、そうしたものとしてカトリックがある限り、このような冥合思想には無理がある。冥合思想は信徒にとってはイエズス・キリストを否定することになり、ひいては、救済の御業を否定することになり、さらにひいては秘蹟の営みを否定することになるのであり、それはとりもなおさず地獄と悪魔を招くことになるからである。

ユダヤ教とカトリックとの位置づけや、神人の本質を持つイエズス・キリストや、キリスト教において覚りという過程はないことや、思想ではなく実践こそがカトリックであるとの教義の上に、カトリックにしかない無比無窮の秘蹟があることや、三位一体などは「学説」ではなく、天啓によって示された「真理」そのものなので、信徒として信じなければならない真理であるようなこと(天主が啓示したものであるがゆえに、それがかりに理解できなくても信じなければならない、人間の弱い理性でそれを疑ってはならない、また、つまり、「思想、学問」の問題ではなく、現実はどうなっているかという問題でもある)

3. 融合、冥合は真理に反対する、相対主義をもたらし、真理は破壊される。
融合などを聞くと現代の「Inclusion」あるいは「Diversity」といった流行語は思い浮かび、まさに近代的な「寛容論」あるいは「平等主義」あるいは「相対主義」に見える。

というのも、真理はその定義にそったのなら、必ず排他的であるからだ。同時に矛盾しあう命題はあり得ないという原理に因らなければ、何の学問も理性の作用も無理となるはずである。いわゆる二律背反という「公理」を肯定しなければ何でもかんでもめちゃくちゃになっていく。このように、二律背反を否定している近代こそ、むやみに相容れないものを融合させようとして、戦争、軋轢、対立を生んできた。歴史に照らしても明らかである。

だから真理は排他的であるがゆえに、教義の討論などが存在する。というのも、人間の理性を越える真理であるのなら、その真理を教えてくれた人に信頼するしかない(信仰)。イエズス・キリストに信頼するか、日蓮に信頼するか?福音書に信頼するか、法華経に信頼するか?そう決めるために客観的な基準もある。いわゆる、教義上、信条の全体図の一貫性を検討する以前にも、教義上の高度さ?を検討するよりも、教える人への信頼度を評価できるはずである。

たとえば、福音書は直接目撃した人々によって書かれて、数年間、イエズスの傍にいた人々によって書かれて、その復活後からすべて、早い時期に完成された。史学でいうと、第一史料と言われて、もっとも信憑性が高い。そして、イエズス・キリストの人物の言動を見ても他のすべての賢者に比べたら桁が違う、遥かに勝る。(これらも別途の原稿で少し触れたので割愛する)。

また、真理があるからと言って、人々を否定するのではない。逆である。人々は偽りの真理ではなく、本物の真理を受け入れなければ、問題が起こる。だから、伝道があり、布教があり、だからイエズス・キリストが布教するように使徒たちを送り、信仰を告白することは信徒の一つの義務である。だから、真理を受け入れない人々が出ても、真理を断言し続けるだけであり、誤謬において頑固となる人々によって迫害されて多くの殉教者が出た。真理のためなら命を惜しまないのがカトリック信徒である。また、真理を宣言しつづけても、実践においても愛徳と慈善の行いに尽くそうとしている。かなり惨めでも、無力でも、罪をも多く犯し続けるとも(原罪を負った人間としてかわらないので、仕方がない)。
なぜこのように告白できるだろうか?その真理は自分の口からでるのではなく、単にイエズス・キリストの教えをオウムのように繰り返すから、できるものだ。

II.聖俗の一致は平和を産まないどころか、混沌をもたらす―バベル塔、グローバリズムの呪
1.歴史を追っていく

世俗一致などの話は非常に大である。というのも、人類学も歴史学も証明しているように、世俗一致になっていくと野蛮な「文明」が生まれ、極まりのない暴力的な体制が出来上がって、全体主義的な国家となっていく。そして多くの意味で近代期以降、いわゆる「世俗化」という流れとなっていき、カトリック教会は国家によって飲まれようとされている。この意味で昔から欧州の学問では「異教化」という名前で呼ばれることもあって、千年以上に欧州大陸から消えた奴隷制、肉刑、強調圧力、「正史」、人間の生贄(現代版は堕胎、あるいは安楽死)などが再び姿を現す。神格化される国家もかつての異教国においてすら経験したことのない「全体主義」が勃興してきた。革命期の恐怖政治、ナチス、ソ連、ジェノサイド、大規模の世界戦争などなど。


なぜ近代化した世界が異教化でありながら、異教時代よりもひどくなっていくのか?自然法ですら否定されることになるからだ。
しかしながら、日本に置かれては、誤解は生みやすい。明治時代の時、受容された「西洋」、つまり日本に置ける「近代化」の大きな部分は結局、「カトリックの善い遺産」を受容したことが大きかった。江戸時代や戦国時代の世界に比べたら、桁が違うほどにキリスト教を基礎にしている法制度、司法制度、奴隷制廃止などが行われた。当時はそれでよかったし、この意味で日本に置ける「近代化」は進歩だったかもしれない(欧州では同じ近代化は非カトリック化を意味したので非常に堕落を意味した、このような乖離があるから、日本に置ける近代化に対する評価においてかなりの歪曲があると思われる)。現代はもはやカトリックの遺産はなくなっている。

また歴史を見ていこう。世俗一致、世界政府、バベル塔、つまりある種の「絶対平和」は図られた時にとんでもない災いをもたらした。聖書におけるバベル塔、ソドムとゴモラ、漢族による侵略、近代期以降の近代化の流れと大きな帝国などなど、数が数えきれないほどある。

2.宗教の非宗教化はまさに悪い意味での欧州における「近代化」であり、グローバリズム、世界政府を築こうとするフリーメイソン的な発想である
宗教の非宗教化を望むのなら、もはや安心したらよいと思われる。というのも、近代期以降、宗教の非宗教化が進んで、現代になってその絶頂期に達する。世界政府もグローバリズムもまさに宗教の非宗教化を遂げつつあって、融合された「人間中心主義」的な博愛的な「非宗教化された宗教」ができあがりつつある。世界政府において世俗が一致するように歴史が進んでいる。

昔と比べて規模が違うだけであるが、つまり、バラバラの小宇宙だった国家においての世俗一致ではなく今回は世界規模になる。(小規模で同じような帰結を伴っていたが、技術も野望も現代に比べて桁が違うので、その弊害も違う。また近代的な「世界宗教」において自然法なども否定されて、より深く危険ではあるが)。

また、第二ヴァチカン公会議以降、近代主義という誤謬、まさに宗教の非宗教化を図る誤謬が教会内に入ってから、グローバリズムという完全に非宗教化されたフリーメイソン的な宗教に対する堤防は崩れた。いや、最近のフランシスコ教皇などにより、宗教の非宗教化は速まって、世界規模で世俗一致が進んでいる。

だから、宗教の非宗教化はいま、勝とうとしている。この結果、どういった「平和」が訪れるかはコロナ騒動でわずかにも味わえていると思われる。また共産党の中国を見ても、西洋を見ても自明である。あえて言えば、21世紀の技術で、江戸幕府的な専制政治を過激化した感じに見えなくはない。自治体も基本的な自由もなくされて、確かに外見的には「平和」になろう。

また、グローバリズム教によってそれぞれの文化の固有性と文化は消えつつある。私は国体学会に行ってその教義などをかなり誤解していたようであり、恥ずかしいが、それはともかく、国体学会のずっと好きなところが具体的に和風の「伝統」を引き継いでいたことである。畳、孝行、剣術、仲間精神、伝統的な勉学方法などなど。これは文化を一つにしていない「西洋」における伝統に通じるはずである。真理は排他的なので、「カトリック」において皆、纏まっていたが、それ以外の固有性(つまり文化)はむしろどんどん固有化していった。
私は日本の伝統が好きなのは「曖昧な思想」ではなく、以上のような具体的な和風であり、その言語であり、その礼儀作法である。
絶対平和のために、以上のような和風を蔑ろにしてもよいだろうか?

3. 二元対立は問題であるどころか、戦争の原因でもない。

世俗の対立、あるいは二元対立は混乱の原因ではない。混乱の原因は罪であり、誤謬である。そして、真理は誤謬に毒されたら(融合によって、世俗の一致によって、宗教の非宗教化によって、相対主義的な寛容論によって)状況はさらにひどくなっていく。近世近代の欧州の歴史を見たら、以上の流れは自明である。解決するためには融合ではなく、罪を犯さないで、誤謬を除いて真理を固く守るしかない。

4.いずれにせよ厳しい時代が訪れて、一人一人の回心にこそ解決がある
理想的な解決がこの世に存在しないというのはイエズス・キリストの教えである。だからといって、無為になることはない。本来にあるべき秩序を自分のレベルで取り戻すということだ。天主のみ旨に従い、イエズス・キリストに倣い、天国を得るためにこの世における使命を果たし続ける。
また罪を償い、多くの犠牲を捧げていく。また、十字架を愛して、苦しみを喜んで受け入れて、人々の回心を願うしかない。

政治上にもやるべきことが多いに違いない。しかしながら、これは宗教の非宗教化でもないと思われる。国体を宗教化することでもないと思われる。単に、天主様によって皇位にまします天皇に忠実を続けて、東西の歴史にある叡智と経験を活かして近代的な特別な脅迫であるグローバリズム、革命思想、近代主義を打開するために考えていきたいと思う。正直にいって、聖伝カトリックへの回心なしに、日本は生き残れるかは疑問である。

結びに代えて・将来への展望
現代に置かれている我々には共通の敵はあるのではないのか?グローバリズムというイデオロギーを中心に、ジェンダー論、家族と社会への破壊力を持った革命思想(ひいて啓蒙思想)を汲む思想である。また、「環境問題」や衛生(コロナ騒動)などもその一環であることは表舞台に現れつつある。

これらの勢力は伝統的な日本、固有性のある和風の破壊を毎日のように進んでいる。こういった革命の勢力の厄介なところは共産党や帝国主義などと違って、敵陣を特定できるのではなく、だれでもどこでも悪しき思想は浸透していて、社会を侵害していて、いつの間にか破壊は進んでいる。
それと戦うため、いくつかの見える敵はあるものの(ワクチン、国際組織、ビルゲイツなどなど)、我々の主な仕事はこれらの悪しき原理原則を暴いて、伝統的な原理原則に立ち戻ることにあるのではないのか?

その中、近代全体、革命全体は世界中にその歴史に照らしてカトリック教会を第一の敵にしていることを知るべきである。だから、カトリックへ回心しないとしても、カトリックなしに、カトリックの復興なしに、勝ちつつあるグローバリズムを食い止めようがない。
だから、御武運を祈りながら、日本、皇室の将来のためにどこで戦うべきか、何のために戦うべきか、見直す時期は迫っているのではないだろうか?