ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

「狭き門」という神秘

2022年03月21日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

プーガ(D.Puga)神父様のお説教 
「狭き門」という神秘について 
2022年2月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン  
愛する兄弟の皆さま、「なぜなら、呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マテオ、20,16・22,14)というみ言葉を聞くたびに我々はなぜか恐ろしく思います。それはそうでしょう。我々についての御言葉であり、天主の口から出されたみ言葉であるので、動揺するのです。

しかしながら、このみ言葉を見て、天主が呼ばれた者は少なくて、この少ない呼ばれた者だけが救われるだろうと理解してはいけません。逆です。天主は人間一人一人の、全員の救いを望まれておられます。救いとは霊魂の救いです。救霊です。言いかえると、死を迎えたら、我々は天主側に並べられることを意味する救霊です。そして、永遠に天主様を直視できる至福を味わえる救いです。このように天主は人類全員のために救霊をお望みになっておられます。それを果たすために、御子イエズス・キリストは十字架上に死に給いました。この贖罪によって、人間の一人一人は贖われて、イエズスは救霊の道を開き給いました。

ですから、この一句の意味は呼ばれた者自体が少ないということになりません。カルヴィンはこのような間違った解釈を採用しましたが、プロテスタント主義の一つの大きな誤謬です。いわゆる救霊予定説という間違った理解です。カルヴィンの考えによれば、天主は事前に、生まれながらある人々を天国へ行くことを運命づけられて、ある人々は地獄へ墜ちることが運命づけられているということを主張していました。言いかえると、天主に悪意を見出したということになります。天主に対する侮辱であり、冒涜です。

さて、「選ばれる者は少ない」のです。なぜでしょうか。人間全員の救いを天主が望まれないからではなく、救霊への道は険しいからです。この真理もルターの解釈が否定したところです。なぜなら、道が険しいという現実がルターを悩ませた結果、ルターはこのような困難による不安を払拭させるために、次のことを思いつきました。「天主はどうせ我々を救うだろう。何とかして。そして、我々の言動を見ないで救い給うのだ」と。つまり、あえて標語的に要約してみると、「信じて罪を犯せ」という誘いになります。なぜなら、何を行ってきたにもかかわらず、天主は罪を隠して、目をつぶってくださるので、罪がないかのように天主は見守ってくださるからだというロジックです。問題はみんな、罪人のままになっているということです。
なぜ、このような解釈になってしまったかというと、ルターは成聖の恩寵を信じず、告解等の秘蹟によって、我々の霊魂はすこしずつ聖化されて、天主は変え給うといった真理をルターは否定したからです。

さて、福音の別の部分を取り上げましょう。天主ご自身なる、天主の御子イエズスはまさにこれに関する問題について触れてくださいました。聖マテオの第七章、13-14句にあります。「狭い門から入れ、滅びに行く道は広く大きく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない。」

聖地、特にベトレヘムを訪ねた方がいたらわかると思いますが、ベトレヘムにあるご降誕のバジリカ聖堂にいくために、細く狭い門をくぐらなければなりません。身を屈めざるを得ないし、狭いです。持ち物を持ったままに通れないことになっていて、一旦、持ち物を外してしか通れないほどに狭い門です。通ってから、手を伸ばして持ち物を持ち上げるということになっています。
数世紀前からのかなり古い門です。





この象徴はもちろん、全能なる天主は幼くか弱い子になり給うたということを思い起こさせてくださいます。
福音の「狭い門」はこのバジリカの狭い門と似ています。つまり、身を屈めて、つまりへりくだり、持ち物、すなわちこの世を捨てることさえすれば、入りやすい門ということです。

天への道はこの門と似ています。このようなものです。謙遜の心を果たすことによって、天主のみ前にひれ伏して、天主が我々に与え給うた手段を使い、そしてこの世、変わり移るものごとを捨てる覚悟さえできたら、天への道は通りやすい道となります。救われるための心構えは謙遜と天主のみ旨のままにすべてをお任せするということにあります。

さて、救われる者はだれでしょうか。親愛なる兄弟の皆さま、救いを得るために確かに道は険しいです。しかしながら、無理であることはまったくありません。聖ヨハネの黙示録を思い出しましょう。天にいる救われた霊魂が見える時です。「おびただしい数え切れぬ大群衆が現れるのを見た」(黙示録、7,9)とあります。ですから、救われる者は「おびただしい数え切れぬ大群衆」ともなります。

そこで、親愛なる兄弟の皆様、どうすれば以上の二つのことを調停できるでしょうか。つまり、一方で救われることは難しいこと、そして同時に簡単なことという二つのことです。

救われるのがなぜ難しいかというと、(その答えは)我々側にあります。つまり自分自身を見捨てて、諦めることが必要不可欠だからです。イエズス・キリストが仰せになる「自分の十字架を担う」ことにあります。つまり。へりくだり謙遜になる必要があります。それは難しいことです。イエズスが「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ人への手紙、2,8)ということです。イエズスに倣い、我々も卑しくして従って、謙遜になる必要があります。

これは一番難しいところでしょう。しかしながら、キリストが天主の御子であるという真理を受け入れて、認めることによって謙遜でいられることさえできるようになったら、後は比較的簡単です。道は通りやすいです。洗礼に与ることにして、洗礼をうけるのです。そして、天主の掟に従いながら、自分に与えられた立場と仕事への義務を果たし、教会が信徒に要請するように、御聖体を糧にして、よく告解にゆき、毎日、必ず天主に祈ることです。このようなことは、これほど難しくなくて、簡単であるはずです。単純でいられたら、簡単なことです。



親愛なる兄弟の皆さま、天国に行けるのは大聖人だけではありません。いわゆる、非常に難しい苦行を果たすような聖人だけではありません。不思議な才能、カリスマ性、能力を持つ聖人、比較できないほどに愛徳の内に生きて愛徳に満ちあふれ出すような聖人だけではありません。
天国に行けるのは、善意のある者なら全員です。要するに天主の掟に常に従う者です。普段どおり、普通に、日常の毎日を通じて天主に従う者です。
我々が天国に辿りついたら、無名の人、素直な人々、人の評判から一生ずっと隠されていた人々がどれほど多くいるかを知って驚かれるでしょう。

親愛なる兄弟の皆さま、この話について避けるべき過剰な、極端な主張が二つあります。
一つは、凡人よりも遥かに優れている聖人でなければ、我々の模範となり導いてくれる光となる聖人でなければ、救われまいという極端な説を避けましょう。このような極端な考え方は、絶望につながり「私には無理だ」というふうになってもおかしくないのです。
もう一つ極端な主張があります。残念ながら、この誤謬は現代、かなり広まり、教会内でも嘆かわしく広まっている誤謬です。つまり「一人も残さず、みんな救われるだろう」という誤った説です。

教会内でもこの説が広まっている状況をよく示しているのは、死者のための新しい典礼でしょう。我々も、時々、親戚などの死によって、やむを得ず、葬式のために新しい典礼に参列せざるを得ないこともあるでしょう。それに参列した方はご存じだと思いますが、もう、皆、必ず天国にいるという印象を与える典礼になってしまいました。つまり、死者の救霊のために祈るべきだった死者の典礼は新しい典礼になると、もはや死者の霊魂のために祈らなくて、死者を記念して敬意を捧げるような感じになっています。これは大間違いです。公教会の教義に反することです。

要するに、天国に行くのは、同時に難しいことであり、簡単なことなのです。なぜ難しいかというと、僅かな努力である「天主の方に向いて、天主を認めて、自分の霊魂への天主の恩寵の働きを許す」という、本来ならば非常に小さな一歩であるはずのことが、この一歩を踏み出す人々が残念ながら少ないからです。しかしながら、同時に簡単な道なのです。この一歩さえ踏み出したら、イエズス・キリストと彼が制定なさった教会が与えてくださる手段は容易に使えるし、天主に祈ったら我々が必要としている恩寵も容易に得られるので、難しくない道でもあるのです。

回心という恩寵が得られるように、我々のために死に給い、我々に御力を分かち合い給うたキリストを頂くことができますように、という願いさえしつこく天主に捧げたら何とかなります。毎日、何度でもわずかな瞬間をぬって、天主の御助けを願うなり、天主を黙想するなり、このような祈祷することはそれほど難しいことでしょうか。簡単なことです。少しのことだけです。そして天主を愛すれば愛するほど、自分自身の霊魂に天主の御働きを仰ぎ、少しずつ自分自身が改善していくのです。変わります。回心です。少しずつ。

ですから、イエズス・キリストが仰せになった通り、霊魂の「滅び」もあるのです。つまり、滅びとなってしまう霊魂は現にいるわけです。そして悲しいことに滅びの霊魂は結構いることも知っています。多数派であるかどうか、教義上にだれも言えないのですが、少なくとも多くいることは確かなのです。ですから、我々は常におののき、畏怖しながら、同時に天主に信頼して、あたたかい希望をもっております。

なぜなら、良き天主は我々の力を越えた試練と誘惑にさらされることはないということをも啓示されているからです。ですから、皆一人一人に誘惑が来ても、それに抵抗する十分な能力があるということを知りましょう。自分のできる以上の誘惑が天主によって許可されることはないからです。これは大いに慰めになり、また天主の御慈悲と善への信頼を固めることができるものです。

親愛なる兄弟の皆さま、最期まで忍耐という恩寵をよく願いましょう。粘り強く最期まで、忍耐があるという恩寵を希いましょう。なぜなら、一回だけどれほど善い行いをやったとしても、これだけで決定的に救霊を得られることはありません。いや、そうはなっていません。善における粘り強さこそが救霊に繋がります。

言いかえると、臨終の時まで、聖寵の状態の内に居続けられるようにを希いましょう。そのための忍耐は天主からの賜物ですので、天主に希う必要があります。そして天主は我々がこのような願いを捧げることを望んでおられます。そして、良く死ぬ恩寵が与えられるようにという祈願が頻繁に捧げられたら、その恩寵は与えられます。

イエズス・キリストの内に生き続けて、イエズス・キリストへ愛の内に、我らの主イエズス・キリストへ忠実を尽くし続けられるように祈りましょう。そして、その祈りを聖母マリアの御取り次ぎによって祈りましょう。聖寵に満ちみてるマリア、すなわちアヴェ・マリアの祈祷をよく捧げましょう。「我々のために今も臨終の時にも祈り給え」という祈願があるように、臨終のときになったら、聖母マリアが我々の傍にいるように、そして天主のご栄光に入れるように助けてくださるように、よく祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

サタンの目的は、反キリスト的な世界秩序にある

2022年03月16日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ペトゥルッチ(PP. Petrucci)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ペトゥルッチ(PP. Petrucci)神父様のお説教 
サタンの目的は反キリスト的な世界秩序にある 
2022年2月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる兄弟の皆様、本日の福音は我らの主、イエズス・キリストが述べられた美しいたとえ話でした。この話は我々の救霊と聖化のための天主のご計画と愛を要約している話なのです(良い種と毒麦)。

天主は純粋な愛の御業を通じて、我々を創造し給い、そのために自由意志を持った人間として創造し給いました。このように我々は自由に愛の行為を成すことによって、天主のご計画に協力できて、天主の至福に参加できるようになさってくださいました。そして、人間の罪を償い給い、成聖の恩寵を用いて天主は我々を超自然(天主)の次元にまで高め給うために、天主は御子、我らの主、イエズス・キリストを送り給うたのです。イエズスは我らの罪を償い給い、御教えを示し給うことによって、聖化を成し遂げるために、救霊を得るために我らが歩むべき天国への道を案内し給いました。

ですから、たとえ話での畑に良い種を撒く人はイエズス・キリストです。この良い種はイエズス・キリストの教えなのです。そして、障害がない限り、霊魂においてよく実るようになさっておられます。イエズス・キリストの御言葉は我々に聖徳の実践を励ましてくださいます。また、我々の自分自身に対する戦い、自分自身の乱れた傾向に対する戦いを励みを与えてくださる御言葉です。そして、自己犠牲を通じて天主への愛のために隣人への愛を実践するように励ましてくださる御言葉です。この世での人生は死後の永遠の命を得るために必要となる手柄を成し遂げる戦いである事実を思い起こしてくださる御言葉です。

天主の御言葉は山上の垂訓で要約されていると言えましょう。そして、その中の八つの幸福はカトリック教徒のための基本法のようなものです。これらの教訓は我々の人生の歩みを照らしてくれて、我々の一つ一つの決定をよきものとするように助けてくれて、また、罪に対しては我々の盾ともなります。このような掟に従いさえすれば、人生における唯一の目的なる霊魂の聖化と救霊を得られるでしょう。

しかしながら、福音によると、我らの主の敵はよい種の畑に毒麦を撒いてしまいます。この敵はだれでしょうか。サタンです。悪魔です。堕天使のことです。天主のご計画に背いた悪魔であり、天主が創造された理性のある存在物である人間を攻撃しようとします。なぜなら、天国で堕天使の代わりに堕天使の元の席に座るように人々は召され呼ばれているからです。悪魔は天主と我々に対して憎しみに満ちていて、嫉妬で溢れかえっています。



このように、悪魔は不和を撒きます。毒麦は不和を象徴します。まさにサタンは誤謬と異端を撒きます。サタンは第一に我々の霊魂を攻撃しようとします。我々の想像力をかきたてて、見せかけの善を追求するように悪魔は我々を促しています。このように、想像力や感覚をかきたてさせることによって、ある種の陶酔、興奮を引き起こすこともあります。サタンは見せかけの善を我々に見せて我々をごまかそうとします。見事な豪華や豊富さ、立派な手柄、偉い出世などの見せかけの善です。これらは我々を満足させるだろうという風に見せかけてしまいます。これらは本物の幸福であるよという誘惑です。

しかしながら、これらを得ても幸せにはなりません。なぜなら、我々は動物ではないからです。天主の象りに造られた人間には霊的な霊魂があります。人間は天主のために造られました。天主は我々の目的であり、我々は霊的な現実や超自然、永遠な事実をどうしても必要としています。そのために存在しているからです。

楽園において、アダムとイヴを誘う時、サタンは傲慢に負けて罪を犯すようにそそのかしたのです。
この世で、サタンは乱れたすべての激情に負けるように我々をそそのかします。このように、この世の見せかけの善の奴隷にさせるためです。そして、このようにサタンは我々に天主を失わせようとします。

はい、サタンは霊魂に毒麦を撒きます。
そして、教会においてもサタンは毒麦をまきます。なぜなら我らの主、イエズス・キリストは本日の福音を通じて、我々の一人一人の霊魂の聖化を助けるためだけではなく、キリスト教的な文明を築かせるための教訓でもあるからです。キリスト教徒なら、自分の霊魂において天主の統治を仰ぐだけでは足りません。社会全体が天主の統治を仰いてキリスト教的になることを望むのです。

歴史上、迫害の時代の後に、最初、テオドシウスの御代の時に初めて実現したのです。それから、さらに、中世期において発展して実りました。教皇レオ13世は中世期について「福音の原則原理は国々の基本秩序に隅々まで染みていました」といいます。
天主の御言葉は本当の文明を産み、優れた実りを産むのです。

そして、サタンは当然ながら社会上の天主の御言葉の実りを破壊しようとします。カトリック的な秩序を破壊しようとします。イエズスによって制定された公教会をも破壊しようとします。なぜなら公教会の目的は一人一人の霊魂と家族による天主の王国の到来を助けるためにあるだけではなく、国家においても天主の秩序が築かれるように働くからです。

サタンはどのように教会を攻撃してきたでしょうか。歴史上、最初はユダヤ人による初期カトリック教徒に対する迫害を通じてでした。それから、ローマ皇帝によるカトリック教徒への迫害を通じてでした。古代だけでも迫害の波は10波ほどありました。この結果、少なくとも数十万人の殉教者が出ました。
しかしながら、カトリック教徒の種となる殉教者の血によって、逆に公教会は繁栄を迎えました。殉教者の功しのお陰で、異教徒だったローマ帝国の回心という恵みが得られました。



さらに、サタンは今度は、誤謬と異端を撒きます。誤謬と異端を通じて、キリスト教の不変の教義を害しようとします。しかしながら、また逆効果となり、公教会は現代に至るまでずっとずっと誤謬と異端と戦った結果、イエズスの御言葉は守られて、教義はより明らかになりました。

このように、あえて言えば、いよいよサタンは最終攻撃を企てたかのように見えます。要するに、福音の原則原理に基づいて社会を築くことを止めさせて、人間中心に社会を築くことを基本にしているのが近代世界です。このような新しい政治の原理原則はフリーメーソンのロッジで育まれた毒政治です。

そして、フランス革命を機に、これらの毒政治は凱旋しました。これらの毒政治は現代になって、キリスト教徒だった全欧州、それから全世界のほとんどすべての国々の基本をなしてしまうようになりました。
サタンとその手先たちの目的はなんでしょうか?反キリスト的な新しい世界秩序を築くことにあります。これがサタンが畑にまく毒麦の実りです。

そして、本日の福音は続きます。下男が眠っていた間に毒麦がまかれて、良い種だけが伸びているわけではないことに気づきます。主人は良い種だけを最初にまいていたのに、毒麦も混ざってしまいました。ですから、下男は主人のところに来て、毒麦を抜くかどうかを尋ねます。
そして、畑の主人の答えに驚かれた方もいるかもしれません。

つまり、「双方とも収穫の時まで育つに任せておけ。収穫の時、私は刈る人に、まず毒麦を抜き集めて焼き払うために束ね、麦を集めて倉に納めよ、と言おう」(マテオ、13、30-31)という指示を主人が出します。
言いかえると、畑に毒麦が育つことを天主が許しておられるということです。つまり、毒麦でも伸びることを天主が許しておられます。なぜでしょうか。たとえ話の主人の下男のように、すぐにでも抜きたくなることもあるでしょう。下男は天使の象徴でしょう。もっともな質問を天使たちは天主にされたことでしょう。「なぜ、地上での悪をお許しになるでしょうか。なぜこれほどまで自由にサタンに悪と罪へ導く誤謬等を広めることをお許しになるでしょうか」と。

そして、まさに、現代はこの意味で大変な時代です。毒麦は蔓延していて、最悪な実りを結んでいる途上にあるのです。これらの雑草はカトリック教会内にまで植えられてしまいました。ご存じのように、天啓された教義に反する教えを教会内で教えられることがあります。天啓された道徳に反する道徳を教会内で教えられることがあります。偽りの諸宗教は天主によって望まれていることであるというとんでもない異端も平気で教えられています。再婚した離婚者が聖体拝領できることを許可することによって、結婚の解消不可能という最も核心の掟をも攻撃されています。



天主はこれらの悪を一体なぜお許しになっておられるでしょうか?
本日の福音において、超自然の答えがあります。天主はなぜ悪をお許しになっておられるでしょうか?天主は悪を利用して、より偉大な善を得しめたもうからです。

サタンは天主の単なる道具にすぎません。そして、より偉大な善とは何ですか。まず、選ばれた者の聖化にあります。要するに、選ばれた霊魂は厳しい時代であればあるほど聖化を成し遂げられるということです。試練のお陰でより優れて聖化されるということです。

歴史上の教訓でもあります。歴史の中の多くの聖人は試練によって、聖徳と信徳、望徳、祈りにおいてより聖化されました。これらの聖徳はまさに現代で実践されなければなりません。厳しい時代であるがゆえに、聖徳をさらに実践するように努めましょう。
天主への信徳がカギになります。天主は歴史を導いて、すべてを用意し給い、決定してくださいます。また、祈りに頼りましょう。我々は自分自身を天主のために帰することによって、歴史の流れも変えられることを知っています。そして、毎日、すべての出来事、事情、試練などを益として、イエズスのこの上ない模範に倣い、多くの聖徳において成長していくようにしましょう。イエズス・キリストはわれわれの模範です。

本日の福音において、収穫の主人は使用人にこういいます。言いかえたら、天主は天使にそのように答えただろうということが言えます。「いや、毒麦を抜き集めようとして、良い麦もともに抜く恐れがある。双方とも収穫の時まで育つに任せておけ」(マテオ、13,29-30)と。

なぜなら、毒麦はもちろん、悪人などを象徴していますが、悪人らは回心することも最後まで可能ですし、我らの主、イエズス・キリストのもっとも忠実なる信徒になることでさえあります。たとえば、聖パウロはまさにそうでした。最初は彼がカトリック教徒を弾劾していました。カトリック教会を敵に回して、本日の福音の典型的な毒麦だったのです。しかしながら、聖パウロは回心を遂げて、偉大な使徒となりました。

ですから、最後の裁判を待つことです。世の終わりの裁判を待つことです。収穫の時に、その時に正義が全うされます。ですから、我々は悪人たちのために祈るべきです。

私の思うには、現代の恐ろしい危機は、恐ろしいわりに、すこぶる回心によって決着されるのではないかと思ったりします。
聖マキシミリアノ・コルベはクレメント12世をはじめとする歴代教皇に続いて、フリーメーソンなどの秘密結社に対する警戒を促すために相当書かれました。そして、彼自身も、そして聖母の騎士にも頼んで騎士たちも、毎日、フリーメーソン会員の回心のために祈っていました。

まさにそうです。悪人の回心のために我々は祈らなければなりません。なぜなら、歴史に照らしても多くの場合、異教徒、悪人、異端者の回心を用いて、天主はカトリック教会の復興とカトリック教徒文明の復興を引き起こし給うたことは少なくないのです。

イタリア文学になりますが、イタリア語での非常に有名な小説ですが、『いいなづけ (マンゾーニの小説)』という本ですが、最後にその小説の大悪人は回心して、カトリックになります。そして、この回心は逆転となります。すべてが一気に変わります。悪人が回心したおかげです。
そういった逆転もあるということを忘れてはいけません。

ですから、我々は毎日のすべての出来事を益として、自分の聖化のためになるようにしましょう。我々を超えている大問題を解決せよと天主は我々に求めておられないのです。

社会においても教会においても、かなり大がかりな問題を自分で解決することが不可能ですし、それは天主に任せましょう。この状況を受け入れるしかなくて、手も足もだせないようなところがあるにみえるかもしれません。しかしながら、天主は我々が死んだら会計を出せと命じられることになります。そして、その会計の評価基準は、どれほど愛徳が尽くされたか、聖徳が実践されたかなどです。天主からの賜物をどのように活かされたか、与えられた試練やこの厳しい世の中にどのように応じたかなどをみて裁かれます。

現代は歴史に残る時代になるでしょう。そのような時代を生きて、信徳を最期まで保って実践できたかどうか、我らの主、イエズス・キリストの凱旋のために全力を尽くし働いたかどうかなどが大事になってきます。

忘れないでおきましょう。今日のたとえ話から転じて、天主は天使たちに向けて、毒麦を残せという命令ですが、それはあくまでも天使に向けての命令であり、我々人間にむけては、毒麦を抜けと命じられます。自分の霊魂において、周りでも全力を尽くして戦えと命じられています。

このように、良い麦は我々の霊魂で実を結ぶことができるようになり、天主への忠実を果たし続けられるためです。
このように、聖母マリアに祈りましょう。本日の福音をよく黙想しましょう。そして、天主からの霊魂における良い種が成長するように、実りを結ぶように聖母マリアに祈りましょう。また、引き続き自分の霊魂にある雑草、すなわち乱れた習慣や傾向などを抜くことができるように聖母マリアに祈りましょう。このように天主の良い種が結ぶ実りは雑草の邪魔なく、どんどん立派に美しく成長していくように、永遠の命に辿りつけるように聖母マリアに祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

もし私たちがアダムの立場だったとして原罪を犯さなかったか?楽園での人間について【後編】|公教要理[上級編]第12回

2022年03月07日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

楽園での人間について。(自然法、夫婦の別、男女の別などについて)



アダムの知性と意志は我々の知性と意志とは変わらなかったのです。ただ、罪の影響だけはなかったのです。
つまり、楽園での人間は人間だったということです。我々現代の人々と同じ本質、同じ本性を持っていたという意味です。原罪によって人間の本性は変わらなかったという意味です。我々はアダムと同じ本性を持っています。

つまり、アダムは知性によっての知り方は我々と同じような知り方でした。言いかえると、感覚可能な現象を通じて知識を得て、結果や帰結などを見て原因へ遡るような知り方です。また同じように、感覚可能な現象から抽象して、観念を引き出すような知り方はアダムにも我々も変わらないのです。

このように、アダムは天主を直接に知れなかったのです。一対一に知ることはできませんでした。たしかに楽園では頻繁にアダムは天主との交流があって、話されたりしていたようですが、いわゆる祈りなどの間接な交流であり、一対一の交流ではなかったのです。なぜなら、天主と一対一になったら、人間は罪を犯せなくなるからです。しかしながら、アダムは原罪を犯したことから、このような一対一のことはなかったことを示します。

歴史上に天主との一対一を経験したことのある人はいると思われるのですが、神学上の議論であり、確かなことではありません。使徒聖パウロの場合、厳密に言う一対一ではなかったと思われます。天主によって「拉致」されて、天をちょっと見せられたのですが、本物の一対一ではないのです。

聖書において、「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」(脱出の書、33、20)と明記されています。モーゼも聖パウロも天主を見たことがあることもわかっています。この二つの例外以外、ないのです。聖トマス・アクイナスは聖パウロとモーゼが天主との一対一があったかどうかを考察しています。同時に、天主ご自身は「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」ということなどで、一対一のようなことではなかったでしょう。使徒聖パウロの「拉致」は確かに例外的であって、珍しい恵みだったに違いないのですが、一対一ではなかったでしょう。

それはともかく、アダムは天主との一対一を経験したことがありません。アダムは天にいたわけではなく、楽園にいたからです。つまり、アダムには信徳があったということです。また、アダムは天使が見えなかったし、天使と話すこともできなかったのです。天使には身体がないから、このような交流は不可能です。アダムの知り方は私たちと一緒でしたので、感覚可能な現象を通じなければならなかったのです。つまり、普段、アダムは天使についての知識を得られなかったのです。私たちと同じように。

繰り返しになりますが、これらの問は人間の本性が何であるかを理解するために非常に役立つのです。つまり、人間たらしめるのは何であるか、人間らしさは何であるか、我々はどういった存在であるのかを理解するために非常に役立つ問です。
また原罪を理解するために役立つのです。原罪は人間の本性を破壊しないわけです。また原罪は人間の本性を変質して、悪くさせたわけでもありません。人間の本性は傷ついたが、そのままに良質なのです。

このように、アダムの知性、知り方は我々の知性、知り方と変わらなかったのです。
ただし、一つの問題は残ります。アダムは大人の状態で創造されたわけです。そして、アダムは最初の人間なので、先生などいませんでした。しかし、アダムは何らかの形で学習する必要があったのです。具体的にどうやって習ったかというと、非常な形でアダムは習いました。「天主が与えた知識」をもっていたのです。天主による天賦です。つまり創造した段階に、アダムの霊魂において必要としていた観念などの知識を与えられたということです。

はい、おっしゃる通りに天使にも天賦の知識がありました。ただし、天使と違って、アダムは直接に観念などを知らなかったのです。我々と同じように表象を通じて観念などを知っていたということです。
天主は天使の下に人間を創造されたのは確かですが、天使のように人間を創造したわけではないのです。「天主が与えた知識」とはアダムのみに与えられた知識です。

繰り返しになりますが、天賦の知識があるからといって、アダムは天使と違って直接に観念を通じて知識を得られることが出来なかったのです。言いかえると、前回、人間の知識の在り方を紹介しましたが、アダムの天賦の知識を含めて、表象などを通じなければならなかったのです。
復習になりますが、人間の知性の働き方では、必ず表象と観念がリンクされています。そして知性の働きによって、表象から観念を抽象します(要約すると、表象は9感を通じて得られると)。

教育は以上のような人間の本性を踏まえるはずです。そうしなければ、よく習えません。つまり、教育というのは、少しずつ表象を越えて、表象に留まらないで、抽象力を増やして、観念までたどり着く能力を養うのです。
しかし、アダムは大人の状態で創造されたので、必要としていた観念と表象は天主によって与えられたということです。このようにして、最初から多くのことを知ることができました。このような天賦の知識のお陰で、創世記に明記されているように、アダムは動物などに名を付けることができたということです。アダムはそれぞれの存在を名付けられたということは、これらの存在を知っていたということを裏返しに示します。
なぜなら、本来ならば知らないことを名付けられないのです。つまり、この一句は、天賦の知識が聖書において啓示されているということを示します。



(視聴者の質問)歴史上でのいくつかの聖人、あるいは旧約聖書の預言者などは天主によって与えられた知識もあると思いますが、おなじようなことでしょうか。

(ビルコック神父の回答)いいえ、ちょっと違います。聖霊による天啓、与えられる知識があるとしても、アダムに天主によって与えられた知識は異質です。アダムに与えられた知識は完全だったからです。自然次元において、超自然においても、アダムはよく生きていくために、天を得るために、必要としていたすべての知識が与えられたからです。

繰り返しになりますが、アダムは創造された時、アダムが与えられた目的を得るために必要としていたすべてのことを天主が与えられたのです。アダムの天賦の知識は部分的ではなく、かなり広かったと思われます。注意してください。天賦の知識は絶対的な知識ではないのですよ。すべてを知ったわけではありません。自分の目的を達成するために必要となっている知識だけです。

このようにアダムの知性は完璧であって、アダムは間違いを犯せなかったほどでした。なぜなら、アダムの知性を動揺させうる何もなかったからです。アダムは間違えることが出来なかったのです。もちろん、我々にとって不思議に見えるのは、それでもアダムが罪を犯したというところですね。このポイントは重要です。これも覚えておきましょう。アダムが犯した原罪は過ちでも間違いでもないということです。知らなかったからではなかったのです。原罪の一つの結果として、人間は過ちと間違いを犯せるようになったのですが、原罪の前の正義の状態の内に、アダムは間違いを犯せなかったのです。原罪を犯してからアダムも間違えるようになりましたが、原罪の前にそれはなかったのです。



そしてアダムは罪を犯した時、アダムの完璧な知性の働きではなく、罪は意志の働きの結果です。そして、罪であることを知りながら、悪へ行くことを決意したわけです。だからこそ、原罪は重いわけです。無知だったから、素直だったから罪を犯したわけではありません。

言いかえると、原罪は純粋な悪意をもって犯された罪です。罪の重さを減らせる事情、たとえば無知、脆弱、理性の欠陥などないということです。つまり曇った知性によって誤魔化された意思が本来ならば望まなかったことを決意するようなことはアダムにはなかったのです。

我々の状態は違いますね。よく知性が曇って間違って、過って意志を照らして、悪い方向へ向わせられています。つまり、我々は多くの言い訳ができるのです。「知らなかった」とか、「誤った」とか、「このようなことになるなんて察しなかった」とか我々は言えるのですね。アダムとイブならそうはいかなかったのです。アダムとイヴにはこのような言い訳はあり得ないのです。不可能です。アダムとイヴの状態はそのような欠陥、過ちの余地は存在しなかったのです。アダムとイヴの罪は純粋に意志による罪です。つまり完全に悪意をもっての罪です。知性に欠陥などなかったので。言いかえると、純粋に傲慢の罪でした。

アダムの意志に関して信条があります。アダムの意志は聖寵においてラテン語で言うと「設立」されたということです。つまりアダムの意志は超自然の次元にまで高められたということです。
言いかえると、信条なので、信じるべきことですが、アダムは超自然の次元まで引上げられたということです。超自然ということは、聖寵の次元にまで引き高められて、また対神徳や超自然の聖徳などまで引き高められたということです。これは信条です。

信条になっていないのは、創造された時、すでにその状態だったことです。ですから「引上げられた」という言い回しを使いました。トレント公会議の言い回しは「設立(Constituere)」となります。ただし、この状態において創造されたかどうか信条になっていなくて、神学の対象の論点の一つです。
つまり、直接に超自然の状態において創造されたか、あるいは純粋に自然状態において創造されてから時間が経って超自然の状態に引上げられたか(その後、超自然の玄義を天主から示されたか)、神学の一つの論点です。
聖トマス・アクイナスをはじめ、偉大な神学者の一般共通説は天主がアダムを超自然の状態に直接に創造されただろうと、中間段階はなかっただろうとなっています。しかし、これは信条ではありません。
信条は「アダムが超自然の状態に引上げられた」となります。いつ、引上げられたかについては信条の対象になっていません。ささやかな区別ですが、公教会は緻密に区別しています。
いつについてだれもわかりませんが、一番高い可能性は創造の時に合わせて超自然の状態に引上げられたということです。

それはともかく、いつという問題を別にして、アダムは聖寵の状態にいる時から、初めの正義の状態にあると呼ばれています。楽園でのアダムの状態は初めの正義の状態と言われます。正義の状態にあったということです。正義は「正しさ」を語るということで、アダムにおいてすべてはまっすぐとなっていて、正しかったということです。ラテン語で「Rectitudo(正しい)」という語源の意味はまっすぐという意味です。アダムは完全にまっすぐでした。つまり、言いかえると、アダムにおいてすべては正しくて、秩序正しく整えられていたということです。神学用語でいうと「保全の賜物」とも称せられています。

ただし、この正しさは何だったでしょうか。聖書においてこの最初の正しさが明記されています。コレへットの書にあります。「天主は人間を正しいものとして造られた」(7,29)
この正しさは何でしょうか?三重の従順です。

第一に、天主への知性の従順なのです。これは正しいものです。まっすぐです。
直線はなんであるでしょうか?二点をまっすぐに貫いて何の迂回をしないような一線です。同じように、アダムの第一の真っすぐさは天主と知性を結び付ける従順です。天主に従って知性が働くということで、秩序正しく知性が天主の内に調和的に働いているということです。これは上階層の正しさです。

その下の階層に真っすぐさがあります。下の階層のの能力は知性と意志に従っているという秩序が守れている真っすぐさです。つまり、我々の欲情は知性と意志に従っているということです。アダムは保全の賜物があったわけです。アダムにおいてこのように正しく欲情は意志と知性に従って、知性と意志は天主にしたがっていました。

ところが、我々はもう、それを持たなくなりました。秩序が乱れました。保全の賜物の代わりに、我々は現世欲に秩序を乱すようにさせられています。まっすぐと打って変わって、敗北となっている状態です。醜い状態に陥ってしましました。意志と知性は天主に対して反逆して、欲情は意志と知性に対して反逆して、めちゃくちゃになって、秩序が乱れています。
ですから、我々は常に戦って、辛うじて、本来の秩序を取り戻すために努力しています。真っすぐさを取り戻すため、正義を取り戻すためです。

天主の統治の部についてふれておきますが、上部の秩序は下部の秩序の原因となります。意志と知性が天主に従順であって、欲情が意志と知性への従順です。逆ではありません。
そして一番下の階層の秩序もありました。身体は霊魂に従っているという正しさ、秩序、従順がアダムにありました。上部の二つの秩序も保全であったので。

注意していただきたいのは、上の階層は下の階層の状態を決めます。上が乱れたら下も乱れます。逆に上が正しかったら下も正しくなっていきます。一番上の階層の正しさは、第二の階層の正しさの原因となり、さらに第二の階層のの正しさは一番の下の階層の正しさの原因となります。

我々は常に人生において経験しているでしょう。カトリックに改宗した人々は皆経験しているでしょう。つまり、天主のことについて知性でよく分かった時、意志も正しくなって、正しい方向へ導かれて、少しずつ、欲情も身体をも従わせえます。しかし、出発点は信仰、回心です。天主のために目的づけられます。

そしてアダムの罪は欲情においても身体においてもないわけです。意志と知性のレベルです。「私は従わないことにする」という天主に対する反逆です。意志の決意です。欲情でもなくて、過ちでもなくて、純粋に悪意です。本来の自分の目的から逸らして、悪を選ぶ意志による行いです。
この本来の乱れなる罪のせいで、下の階層の反乱を招きます。下の階層の秩序も乱れているようになります。ですから今は抑えがたい欲情もあったりして、またわれわれの身体も脆弱でどうにもならない所以です。原罪のせいです。上の階層の秩序が乱れたせいで、他のすべての下の階層の秩序が乱れます。

また、原罪についての授業の時に改めて見ることになりますが、このように「初めての正義の状態」は何であったのか理解していただけたと思います。
で、どうしても、我々は思ってしまうでしょう。「私はアダムの立場にいたなら、このふざけた原罪を犯さなかったに違いない」と。

しかしながら、我々は本当にアダムの代わりにいたとしても、我々はアダムより勝ることはなかったのです。アダムにはすべてがそろっていました。私たちよりも遥かに完成していました。同じように「ルシファーの代わりにいたなら、絶対に反逆しなかっただろう」と思うこととおなじようなことです。ルシファーは被創造物の内に一番優れた、完璧な存在だったですので、私たちよりも遥かに遥かにまさっていたのです。

どうせ、この仮説は意味がないのです。我々はアダムでもルシファーでもないので、もう手遅れで、歴史をやり直すことはできないのです。仮に、もしもあり得ないとしても、本当にわれわれが彼らの代わりにいたならば、どうせ、我々よりも遥かに完璧な人々であるのに、なぜ我々の方がより良い決意するかと言えるのは個人的に疑問が残ります。

歴史を後から見直す、検討することは簡単ですが、当事者だったなら、これほど簡単に別行動をしたとはいいがたいのです。

アダムにはもちろん欲情がありました。私たちも欲情がありますね。そして、普通なら、我々は自分の欲情に対してちょっと怖いですね。うまく機能しなくなっているので、欲情はいつ暴れ出すかよくわからないので、我々は欲情に対してちょっとこわいですね。
アダムにも欲情があったのですが、怖いことでもなかったのです。完全に従っていたからです。善への欲情ばっかりだったわけです。楽園では悪がなかったので、欲情は必ず善へ向かわせられていたのです。この地上とちがっていたのです。

たとえば、楽園では悲しみなどはありませんでした。なぜなら、悲しむというのは、悪に対してことです。しかしながら、楽園では悪はなかったので、悲しみも怒りもありませんでした。怒りも自分にかかってくる悪に対する抵抗の欲情なので、楽園では存在しませんでした。怒る能力はあったわけですが、怒る対象が存在しなかったので、アダムは実際に怒ったことがありませんでした。楽園では。アダムの妻ですらアダムを怒らせなかったほどの完璧な楽園でしたよ(笑)。

憎しみというような欲情もありませんでした。憎しみの対象は楽園では存在しなかったからです。恐れもなかったのです。
同じように、アダムの霊魂にはすべての徳が揃っていましたが、完全な徳だけを実施していました。例えば、愛徳、正義の徳などを行いました。しかしながら、不完全な徳と呼ばれる徳、つまり罪と関係する徳などを実施する機会がなかったのです。持っていましたが、行う必要はなかったのです。

たとえば、慈悲という徳をアダムが行わなかったのです。なぜなら、慈悲の対象は楽園で存在しなかったのです。惨めなことは存在しなかったからです。また、償うことも改悛することもありませんでした。罪がなかったからです。アダムは楽園で罪人ではなかったので。
おなじように、我らの主、イエズス・キリストは改悛の徳を行ったことがありませんでした、人々の罪のために自己犠牲として贖罪のために御自身を捧げたのですが、改悛などはありませんでした。イエズスは一つの罪をも犯したことがないからです。

このような不完全な徳を行わなかったことは不完全さを示すのではなく、逆に完全さを示すわけです。アダムは私たちより遥かに完全だったことから、アダムのすべての行為は私たちの行為よりも価値があったのです。
永遠の命を得るために愛徳が必要ですね。愛徳は高ければ高いほどに永遠の命を得ることに値します。そして、我々の仕事は愛徳の実施を妨げる障害を自分の霊魂から一つずつ取り除くということです。
アダムの場合、楽園で、愛徳に対す障害は一つもなかったので、無限に愛徳は実施されていました。アダムの愛徳は勝っていったので、アダムの行為はかなりの功徳に値していました。

言いかえると、アダムにとって私たちにとってよりも、良い行為を行うに当たって、よりやりやすくて努力を必要としなかったからといって、その功徳は少なかったことになりません。功徳の価値は愛徳の程度だけです。善い行為をやるかどうの努力と関係ありません。また愛徳について紹介する時、改めて説明します。

さて、最後の点になりますが、一番下の階層の秩序、正しさは人間に対する大自然の真っすぐさです。つまり、大自然、被造物世界は人間に従っていたという正しさです。
ただし、正しく理解しましょう。一般的に言われる大自然に対する人間の支配のイメージとかなり違います。つまり、アダムは「この星々よ、この軌道が気に行かないので、軌道を変えてください」といっても星々の軌道は変わらなかったのです。もちろん。天主のみ旨に従った大自然という大枠において、アダムは自分の目的を果たすために(つまり正当な目的のために)完全に障害なく、抵抗なく大自然を利用することはできたのです。
いいかえると被造物世界は楽園で、完全にアダムに奉仕していたのです。

これで終わりにしたいと思います。楽園についてまだちょっとだけ残りますが、新学期にゆずりましょう。1月11日となります。ご清聴ありがとうございました。

(終わりの祈り)

なぜイヴはアダムの脇から創られたのか?楽園での人間について【前編】|公教要理[上級編]第12回

2022年03月03日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

楽園での人間について。(自然法、夫婦の別、男女の別などについて)



(アヴェ・マリア 最初の祈り)
・・・今回の授業は、創造の部における被創造物の内に、人間についてです。聖トマス・アクイナスの神学大全の創造に関する最後の部分は人間についてです。あとは、天主の統治についての部分があります。これは次回見ることにします。

さて、人間についての部においての最後の部分は今日、説明することになります。12-13ぐらいの質問となりまして、比較的に理解しやすくて短い部分です。しかしながら、非常に興味深い質問です。なぜなら、聖トマス・アクイナスは楽園での人間について紹介しているからです。言いかえると、アダムとイヴは具体的にどのようだったかについて聖トマス・アクイナスは紹介しています。

楽園での人間について、まず天主はアダムとイヴをどのように創造されたかについてです。

前回、すでに見たように、アダムとイヴの霊魂は楽園であるかどうかを別にして、どうしても天主によって創造されるご計画があったことを述べました。また、言いかえると、人が宿るたびに、必ず天主は直接に働かれておられるということもすでに述べました。天主の御働きによって、天主が一人の霊魂を創造されるということです。

この点について、数人の教父たちは誤解していました。例えば、オリゲネスなどはそうでした。彼によると、宇宙の創造の最初からあらゆる人間の霊魂たちを創造され、最初からすべての霊魂はすでに存在して、これらの霊魂をどこかに「保管」してあるかのように、人間が生まれるたびに天主は霊魂を其の個別の身体へ送り込まれるだろうと想像していました。これは間違いです。

人の身体がある程度に構成されて、霊魂を受け入れられる状態になったら、その瞬間に天主が霊魂を創造して、すぐさまにその身体と一致させてくださいます。つまり、受胎があるたびに天主は直接に御自ら働かれて霊魂を創造されます。
原罪がなかった場合、楽園での受胎もこのようになる予定でした。残念ながら原罪のせいでこの世は堕落しましたが、同じく、受胎があるたびに、天主は霊魂をお造りになります。



さて、人間の身体についてみましょう。前回はそこまで見ておきました。神学大全の第一部の問91です。
創世記の解釈となりますが、人間の身体は「地のちりをとって人間を形づくり」(創世期、2、7)されたということです。
この一句の意味は何でしょうか?ちょっと難しいです。なぜなら、教皇ピオ十二世はこの一句に関する解釈を定めていないとして、科学的に解釈されても構わないと宣言したからです。

それはともかく、「地のちり」から確かに言えるのは、人間の身体は何か物質的なものから造られたに違いがないのです。
また「地のちり」というのは、人間の身体は天下被創造界の「要約」であるということをも意味します。これは聖トマス・アクイナスが説明しているところです。これ以上に聖トマス・アクイナスは「地のちり」がなんであるかについて説明しないのです。

灰の水曜日の時、「人よ、おぼえよ、汝はちりであって、また、ちりにかえるであろう」という一句が思い浮かびますね。これは身体についてです。地の塵から身体を創りになった天主です。そして、身体はいずれか、ちりにかえるということです。霊魂ではないのですね。身体についてです。カトリックの葬式でも、死者の亡骸を埋葬することも、身体が塵に帰る現実を思い起こし、また謙遜の心を表すためでもあります。

また、聖トマス・アクイナスによる「地のちり」とは人間の身体が物質的な被創造世界の要約であるということを意味します。加えて、聖トマス・アクイナスは天主ご自身が人間の身体をお造りになったと説明します。言いかえると、人間の霊魂を受け入れるために相応しく適切なる人間の身体を天主がお造りになったということです。



なぜなら、思い出しましょう。これは生き物なら適用できます。生き物には、霊魂が身体を活かすことになります。そして、このように霊魂が身体を活かすのですが、この活かし方とは霊魂と身体の一体を意味します。霊魂と身体を区別できても実際には一体となります。生き物は霊魂と身体からの構成物なのです。しかしながら、構成物だからといって、その生き物の一部が霊魂であり、別の一部が身体であることになりません。この構成物は一体となっていて、身体のすべての部分において霊魂が一体化していて、別々に出来ないのです。生き物は一体です。

あくまでも一体ですが、水の中にワインを入れたら、出来た液体はワインと水の混じった液体となって、完全に混ざっていて、もはや別々に出来なくなります。子供の場合、ミントのシロップでも水に入れたら、混ぜた結果、一つの液体となっているような感じです。結果として、その飲み物のすべては同時に水でありシロップでもあるような。譬えに過ぎないのですが、生き物、生物はそれと似ています。霊魂は体全体を活かします。身体のどの部分においても霊魂が宿っているということです。例えば、自分の指を見て、これが私の指ですが霊魂がないとは言えないのです。一体です。自分の体のどの一部においても自分の霊魂も宿っているということです。
先ほどの液体のたとえと違って、身体と霊魂の一体の際、霊魂と身体の融解、溶解などはありません。そうではなく、霊魂は身体全体、身体のどの一部までも活かしています。

このように、霊魂は身体を活かせるために、身体と霊魂は見合っているわけです。霊魂によってその身体を活かすために見合っているように造られています。

ですから、動物のように、感覚的な霊魂だけの場合、その感覚的な霊魂に見合った身体が用意されます。つまり、感覚的な生活を送れる身体が用意されています。このように動物には感覚がありますが、動物の霊魂による感覚的な知識は身体上の器官を通じて得られることになっています。また裏を返せば、身体上の器官などは動物自体の霊魂の感覚的知識能力に見合っています。このように多くの動物はいて、生物の秩序における位置次第にその身体も霊魂も違っていて、それぞれ身体と霊魂は見合っています。これから、動物の上下関係、位階制もあって、それぞれの生活上の在り方も違います。

天主は人間の霊魂を直接にお造りになります。そして、あえて言えば霊魂を造られる時、人間の身体に見合うように造られます。裏を返せば、人間の身体は動物にはない、天使の霊魂にある、知性と意志のある人間の霊魂に見合うようにも用意されています。
つまり、人間の霊魂において、前回に見たように、植物的な生活の上、動物的な生活もできます。この上に、他の動物などと違って、理性的な生活もできます。人間はこのようになっているからこそ、天主ご自身が人間の身体をお造りになったのです。

人間と動物の間に乗り越えられない境がそこにあります。なぜなら、動物などは単なる動物的な生活、感覚的な生活ができるように造られて、それに合わせてその体も用意されています。一番高等な動物に至ってですら、意志と知性を機能させるための身体を持たないということです。一番高等な動物ですら、意志と理性を受け入れられる身体を持たないのです。つまり、動物の身体は理性と意志のある人間の霊魂を受け入れられないことになります。十分ではないということです。(この意味でも輪廻転生があり得ない所以であります)
このように、天主は最初の人間を直接にお造りになりました。人間の身体は意志と知性のある霊魂に見合うように造られたのです。

さて天主は人間の身体を「地のちり」から造られました。地のちりはなんであるかというと、いまだに謎です。教皇ピオ12世も暗にこの可能性を捨てないのですが、天主はもしかしたら、ある動物をベースに人間の身体を造られたといった可能性は聖書によって否定されていないわけです。
もちろん、この話はいわゆる進化論で、猿から人間が生まれたという説と関係しますね。しかしながら、猿の身体から人間の身体が造られたとしても(これは神学上に可能な話となり)、猿の本質が一体壊滅されて、新しい存在である人間を天主がお造りになったことは変わらないのです。なぜなら、物事の本性は霊魂によって与えられていて、身体によってではないからです。ですから、猿の身体がベースにされたとしても、猿の身体が人間の霊魂を受け入れられないので、完全に天主が改造されて、ぜんぜん別の身体をお造りになったということになります。(この意味で進化論は間違いです)。
地のちりの正体は何であるにせよ、人間の霊魂に見合った身体を天主がお造りになったことは天啓で、確かです。ですから、猿から人間へ進化というようなことは不可能です。なかったのです。なぜなら、人間の霊魂と猿の身体は見合っていないからです。

要するに、人間の霊魂に見合った身体を用意するために、天主ご自身が人間の身体をお造りになったということです。なぜなら、天主ご自身は人間の霊魂をもお造りになるからです。すでに存在する物質的、感覚的な被創造世界において人間の霊魂の可能性が潜在的にあったのならば、天主ご自身の直接な働きは不要だったはずです。

要するに、天主ご自身が人間の身体をお造りになったということです。

次の聖トマス・アクイナスの問が面白いです。ちょっと読んでおきましょう。というのも、聖トマス・アクイナスは難しい時は難しいですが、この問いのように、理解しやすい部分もあります。聖トマス・アクイナスを理解できて、なんか頭がいいような感じがして嬉しいですね。単純でも聖トマス・アクイナスはいつもきれいな説明をなさいます。

聖トマス・アクイナスの文章です。
「身体の創造の際に、身体に与えられた体質について。人間の身体は人間の霊魂に相応しく見合わせれて造られただろうか。大自然のすべての現実は天主の創造なる御考えによって造られた。だから、被創造世界の現実は職人の前にある作り物のように天主の前にある。ただし、職人なら必ず、自分の作り物において最高の質を与えて作ろうとしている。この最高の質とは絶対的な意味ではなく、その作り物の目的に合わせた形での最高の質だということである。」

天主がお考えになった人間の目的を前提に、人間を最高に造られたということになります。

「また、職人は最高質の作り物を作っても、二次元的な欠陥があったとしても、職人はそれを問題にしない。例えば、職人がのこぎりを作るとしよう。その目的は「切る」ためにあるので、鉄からのこぎりを作るだろう。グラスの方が綺麗な素材なのに、この職人はグラスからのこぎりを作らないだろう。というのも、このようなより綺麗な要素はのこぎりの目的を果たすために障害になるので、職人はそうしないだろう。」

ご覧のように興味深いです。
聖トマス・アクイナスはそれぞれの存在を考える時、それぞれの存在実体だけを考えるのではなく、目的づけられている存在として捉えているのです。「何のために」造られたという重要な視点です。職人は綺麗なのこぎりを作ろうとしても、絶対にグラスから作らないことになります。なぜなら、そうすると、より綺麗だとしても、のこぎりの目的なる「切ること」を達成するのが無理になるからです。だから、職人はのこぎりを作る際、鉄からでも「切る」という目的に見合っている素材で作るということです。

聖トマス・アクイナスに戻りましょう。
「このように、大自然にある諸現実に天主が最高の質を与えられた。絶対的な意味での最高の質ではなく、それぞれの存在の目的に合わせて最高の状態で造られた。」

言いかえると、永遠の救いである人間の目的を得るために、天主は人間を最高の状態でお造りになったということです。救霊という目的あっての最高の状態です。この説明は奥深いです。
そして、聖トマス・アクイナスはアリストテレスの『自然学』の第二巻を引きます。

「人間の身体の近目的は理性の霊魂である」

目的においても秩序があり、順番があります。
つまり、身体は霊魂のために存在します。霊魂は霊魂の目的のためにあります。人間の場合、天主のためにあります。
同時に、身体は霊魂の奉仕のためにあります。身体は霊魂のために存在します。身体を通じて感覚できて知ることもできて、霊魂を養い、意志と知性を発揮できます。このように、普通の知識などを得られる以上に、天主を知るために身体をもちます。

「人間の身体の近目的は理性の霊魂とその働きである。物体は形相のためにあるからである(言いかえると、身体は霊魂のためにあるからである)。道具は行いのためにあるからである。要するにかかる形相(理性的な霊魂)、かかる行いのために必要としていた最高の身体を天主が創られたということである。」

続いて聖トマス・アクイナスは次のように付け加えます。

「さて、身体の状態にたいして不満があったり、欠陥があったりすると思われる場合、これらの欠陥は物質である故に物質の素質からなるためにあると思うべきである。」

物質は物質なので、物質の素質から不可避な欠陥だということです。
これ以上でも以下でもありません。このような欠陥などがあっても、人間の霊魂の目的を達するために障害にならないということです。言いかえると、「本質的に私に与えられた目的を反たせない」というできる人は存在しません。なぜなら、天主は人間が与えられた目的を果たすために必要なるすべてのことは与えられて、十分に最高の身体が与えられたからです。
大事なのは、人間に与えられた目的を果たすためだということです。別の目的ではないということです。ですから、我々の目的は「空に飛ぶ」ということではないので、我々は飛べないし、他にも動物に比べて多くの不自由があると思いますが、それはそれぞれの動物と違う目的で我々は造られたからです。

さて、聖トマス・アクイナスの次の問は「女について」です。「女の創造について」です。
最初の問は「天主は女を造る必要があったのか」ということです。
答えは「はい、必要だった」のです。人類の繁殖のために天主は女の創造を望まれたのです。
神学上の説明とともに、創世記の解釈の試みであるので面白いです。もちろん、創世記の解釈はデリケートで、難しいことです。

創世記を読んでみると、最初は男を創造されて、それで天主は満足したと書いてあります。つまり、女はまだいないけれども、それでもよかったという風に読めなくはないのです。そして、その後、男は助け手が欲しがるようになって、求めても見出せないのです。そして、天主はそれをみて、天主ご自身が介入されて、女を直接にお造りになります。女の創造者は天主ご自身です。アダムを眠りに入れてから天主は女の子を創造されます。

面白いことに、他の被創造世界の種類なら、このような創造の形態と順番はないわけです。動物なら、雄雌の創造において順番はなくて、最初が雄であとは雌のようなことはないのです。人間に限って、まず男を創造して、そのあと女が想像されたという区別が明記されています。
聖トマス・アクイナスはこれを説明します。男の創造と女の創造を区別して、前後にさせることを天主が望まれた理由を聖トマス・アクイナスが説明します。



男女の創造についてこの区別と前後がなぜあるかというと、人間の本来の目的は(動物と違って)繁殖ではないことを示すためだと聖トマス・アクイナスが説明します。人間の一番重要な目的は理性的な目的であるということです。
まあ、現代ならこのような目的の区別は理解しづらいですが、(セックスするために人間は存在しないということを意味します)。

人間の一番重要な働き、行いは理性上の働きであり、「黙想・観照」にあるということです。物事の本質を見極める働きこそが人間の主な働きである、繁殖という働きは二次元的です。

これを我々人間に教えるために、示すために、天主は時間において男女の創造を別々にさせたもうたのです。観照することこそが人間の重要な働きであること、この大事な現実を思い起こすためでした。

要するに、人間において繁殖の能力は人間における一番高貴なものではないということです。人間における一番高貴なのは理性であるとして、霊魂にかかわる働きです。理性の霊魂、すなわち知性と意志による働きこそが人間たらしめる働きであり、人間の高貴なる働きです。繁殖は二次元的です。感覚的な生活も植物的な生活も二次元、三次元的です。繁殖という能力は植物の特有の能力に過ぎないのです。

さて、後になって、女は創造されました。その時、聖トマス・アクイナスが次の問をかけます。「男から女を天主がお造りになったのは相応しいことだったのか」。

もちろん、はい、相応しかったです。天主は相応しいことのみを行われるので、ある意味で答え事態はだれでも予想できて知っているはずです。また、聖トマス・アクイナスがこのような問いをするのは、天主がものごとを良く悪く行われたかを疑問にするためではありません。答えは当然であるとしても、聖トマス・アクイナスがあえて問うて、天主ご計画をよりよく理解するためです。つまり、天主はこのように具体的に行われたことから引き出せる教え、天主のご計画と天啓はなんであるのかを知るためです。

聖トマス・アクイナスは「男から女を天主がお造りになったのは相応しいことだったのか」に対して、相応しかった理由を四つ述べます。

第一、アダムが人類の唯一なる起原であり、人類の頭であることを示すためでした。
アダムが人類の唯一なる起原であり、人類の頭であることを示すためでした。イヴはアダムから取り出されたということで、アダムは純類の唯一なる起原です。二元ではありません。また、今度、原罪を見ていきますが、イヴは原罪を犯したわけではないのです。アダムこそが原罪を犯しました。アダムは人類の頭だからです。イヴは最初に実を食べたのですが、まだその時、原罪は侵されていないのです。イヴとしてだけ罪が犯されたにとどまっていたのです。人類の頭なるアダムが身を食べた時、原罪が犯されました。

個人な罪に留まらないで、全人類の頭すなわち代表として食べて、全人類の責任を負って犯された深刻な原罪です。だから、全人類へおよぶ原罪であるということです。譬えに過ぎないのですが、妊婦が酒を飲んで病気になって赤ちゃんも不自由になるような感じです。赤ちゃんのせいではないかもしれないが母はみごもった赤ちゃんの責任を負うので、母が取る身体上の危険は赤ちゃんに及ぶことは当たり前です。もちろんたとえですが。霊的に言うと、アダムは人類の頭として造られて、全人類の責任を負っていることになっていたからこそ、原罪は大きかったのです。

要するにアダムは人類の唯一なる起原です。イヴはアダムから取り出されたのです。アダムは人類の頭なのです。
聖トマス・アクイナスは次のように説明します。
「このようにされて、最初の男はある程度の尊厳が与えられた。なぜなら、天主が存在する全宇宙の起原であるのように、天主に象られて、アダムも自分の種類の起原となる。」



第二の理由とは、「このようにされて、男はよりよく女を愛し、よりよく離れないで女と一緒にいられるためである。なぜなら自分自身から取り出されたことを知っていることによってである」
要するに、天主は男女の創造の前後を行われたもう一つの理由は、男に女をよりよく愛するようにするためだったということです。もちろん、アダムのあばら骨から取り出された女はイブのみであって、もはや男のあばら骨から女が取り出されていないのですが、最初の男、アダムには嫁に対して頗る愛を天主が与えられたということです。本当に夫婦間の愛はそこに起源をもつのです。深い愛です。つまり自愛するほどの愛です。アダムとイブは同じ身体なので。このように、本物の友情、本物の「愛」の絆のあるべき姿は創世記において以上のように示されています。

第三の理由は現代で受けがたいかもしれません。聖トマス・アクイナスによると、第三の理由は、女は男の権威を尊敬するためです。
「アリストテレスも『ニコマコス倫理学』の第八巻において説明するように、男女は他の動物のように繁殖のために一緒になるだけではなく、さらにいう(人間的な営みなる)家庭生活を営むために一緒になるのが相応しいことである。この意味で男女の別があって、その役割も別々である。このように男は女の頭である。だから、男が女の起原であるかのように男から女が取り出されて創造されたのは相応しかったことである。」

言いかえると、男は女の頭です。このために、イヴはアダムの後に創造されたし、またアダムのあばら骨から創造されたのも、この男女の別を示すための現実です。つまり、アダムへの依存のままにイヴは創造されました。

以上のような真実は現代で理解しづらいのはわかっています。受け入れがたいのも知っています。なぜなら、健全な「依存」とはなんであるか見失ってしまったからです。理解不可能となりました。「依存」と「隷属」は現代で、かならず負のイメージになっているので、余計に理解しづらくなりました。
創世記の意味は女は男の奴隷のような存在であるということではありません。女性には特別な役割があるという意味なのです。さらにいうと、高貴な役割になります。家においても被創造世界において特別な高貴な綺麗な役割があるということです。
ただし、この役割を果たすために、男への依存、上下関係が前提となっています。政治的な上下関係です。独裁的な隷属性ではないのです。つまり奴隷に対する主のような関係ではなく、臣下に対する君主のような関係となります。覇権ではなく、王権のような関係となります。

第四の理由は最後の理由となりますが、かなり美しいです。いわゆる類型学に属する理由です。霊的な兆しとしてです。
「このようにされて、公教会はイエズス・キリストを起原にしていることは示されている」
このように女は男に従うべきと同じように、公教会はイエズスに従うべきだということです。同じようなやり方です。公教会はあくまでもイエズス・キリストの教会です。ですから、結婚する時、女性は夫の姓を貰う理由でもあります。

エフェゾ人への手紙の第五章において、聖パウロは女の創造と男女の婚姻について次のように書きます。
「この奥義は偉大なものである。私がそう言うのは、キリストと教会についてである」(5,32)

このように、結婚において夫婦はキリストと教会の象りでならなければならないのです。つまり、夫婦の関係をみて、キリストと教会の関係が語られるということです。夫婦の在り方は教会とキリストの一体の生きている模範であるのです。どれほど素晴らしいことであるのかはわかるでしょう。ですから、敬虔な信仰深いカトリックの家族はキリストと教会との関係の奥義を実際、具体的に具現化しています。

次は、イブはアダムのあばら骨から取り出されるのです。これはなぜでしょうか。
聖トマス・アクイナスは二つの理由を提示します。

第一の理由は男と女の間に本物の政治的な絆で結ばれるようにさせるためです。
つまり独裁的な関係とか覇権のような関係はありません。女の子を貶めるためでもありません。逆に纏めのある社会になるように男女は造られたということです。共同体の絆は本来ならば非常に強いはずです。社会とは、家(家族)とは集合体でもなんでもありませんよ。石の山積みなんて石の社会にならないのです。同じようなものを並列しているからといって社会とならないのです。

本来ならば、社会とは、すなわち国、家族、村、共同体には共有の生命を分けていて、同じ生命によって活かされているはずです。より厳密に言うと、同じ目的に向けた共同の働きがあって初めて社会として成り立つのです。つまりまさに「共同体」ですね。共同体の語源は共同な働きによって一体になっている人々というような意味です。そして、基礎的な社会・共同体なる家族を助けるために、天主はアダムのあばら骨からイブを取り出されたのです。このようにして、何よりもまず霊的な共同体なる家族を助けられます。霊的な共同体とはそれぞれの霊魂の一致、それぞれの意志の一体を意味します。そしてこのような霊的な一体は、身体上の一体をもって示されるように、天主はアダムのあばら骨からイブを本当に取り出されたのです。

聖トマス・アクイナスは続いて次のように説明されます。創世記の解釈でもあります。

「このように女は男を支配してはいけなかったことから、アダムの頭からイヴは取り出されなかった。他方、女は男によって軽蔑されてはいけないことから、アダムの足からイブは取り出されなかった。」

我々は現代人は以上のバランスをとれなくなりつつありますね。現代人は白黒で考えがちですね。二元主義というか、ある極端からすぐもう一方の極端に陥いてしまいます。両極端の間に、調和のとれた中間があるのを理解できなくなっている現代です。

「他方、女は男によって軽蔑されてはいけないことから、アダムの足からイブは取り出されなかった。」

さてなぜあばら骨からイヴは取り出されたかというと、あばら骨は心臓に当たる部分だからです。転じて愛を象徴する部分でもあります。

第二の理由は、また表象を表すためです。
「アダムは眠りに入ったように、イエズスも十字架上に眠りに入って(死という眠りですねその後、復活を齎した御死ですね)、脇から教会が制定された水と血の玄義はながされた。」

この意味で、教会はイブのように槍によって貫かれたキリストのあばら骨から生まれたということです。水と血は秘蹟を象徴しています。水は特に天主の生命を与える、天主の生命に産ませる洗礼を象徴していて、血は天主の生命を我々の霊魂において常に増やすミサ聖祭を象徴しています。またイエズスの御血を受けて自分の霊魂が清められるという告解の象徴でもあります。

そして、特に現代で特筆すべき点でしょうが、女性のいとも高貴な立場を示すのは、天主ご自身が御自らに直接に女性をお造りになったということです。女性は天主によって直接に造られたのです。言いかえると、女性はこれほど高貴な存在ではなかった場合、天主はわざと直接に介入しなくてもよかったはずです。アダムに任せて、自分なりに都合の良い助け手を造れと天主がなさることがあり得たわけです。しかしながら、そうはならなくて、天主は直接に女性をお造りになって、被創造界をさらに完全化させたのです。というのも、女性は被創造界にとって本当に完全化を意味します。特別の立場、位置づけにあるのです。

要するに、仲介なしに天主は直接に女性をお造りになりました。
つづいて聖トマス・アクイナスは「人間は天主に似せられて、天主に象ってつくられた」という一句についての解釈です。これはつまり、人間には知性と意志があるということを意味します。動物なら、この意味で天主に象って造られていないわけです。動物において霊的な要素はめったにないからです。動物において、天主の本質に似ているような要素はめったにないのです。天主の御象りというようなものは無いということです。

しかしながら、不完全な象りであるものの、不正確な似せであるものの、人間において天主の象りがあります。しかしながら、霊的な働きであるとして、つまり、知性の働きと意志の働き、また真理・善へ向かわせている働きなどは天主の象りではあります。なぜなら、天主こそは知性と意志であり、完全な真理であり、完全な善であります。

しかし、動物には生命はないのではと言われるかもしれません。そして、天主は命でもあるので、動物においてもある種の天主の象りがあると言われるかもしれません。
これは確かにあります。しかしながら、生命だけでは大雑把すぎて、「象り」だとは言えないのです。あえていえば、存在するすべての物事は天主を連想させます。なぜなら、天主こそは存在そのものなのだからです。またすべての物事は天主によって存在させられて、存続させています。確かに、この意味で、全宇宙には天主の印があります。しかしながら、これは「象り」とは言わなくて、天主の痕跡、しるし、名残であると言います。
サイン、印鑑のような感じですね。で、絵画にサインがあったとしても、この絵画は画家の象りになるとは意味しないのですね。
一方、不完全であるものの、人間において天主に似ている何かがあるということです。しかしながら、人間は本当に天主に似ているということです。

創世記において、「似ている」と「象って」という二つの言葉は並列します。同じ意味で捉えても差し支えないし、大体の場合はおなじ意味で捉えられているのです。
しかしながら、この二つの言葉を区別して解釈することもあります。象りと似せを別に捉える解釈もあるということです。象りというのは人間の意志と知性であるとする解釈があります。似せは天主の生命の内に活かす「聖寵」だという解釈もあります。聖トマス・アクイナスはこの解釈を肯定して、二つの言葉を区別して捉えても差し支えはないと説明します。
象りはある種の下書きであるかのように、我々は意志と知性があって、理性のある存在だということです。似ているところは、聖寵によって天主の生命を人間の霊魂に宿ることは可能であるということです。


以上は創造についてでした。
次は楽園でのアダムとイブはどうなっていたかについてです。
【後編】につづく