平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

龍馬伝 第19回「攘夷決行」

2010年05月10日 | 大河ドラマ・時代劇
 武市(大森南朋)の悲惨。
 武市は現実を見ていなかったんでしょうね。
 頭の中、攘夷というイデオロギーの中に生きていた。
・攘夷の対象である異国がとてつもなく強いこと。
・いまだに幕府の力は健在であること。
・山内容堂(近藤正臣)という人物。
 これらを見誤っていた。
 現実を真っ直ぐに見ずに自分の都合のいいように解釈していた。
 異国は武士の刀にはかなわないという思い込み、幕府は朝廷の威光には逆らえないという思い込み、容堂は味方であるという思い込み。
 これはある意味、傲慢であるとも言える。
 だから異国や幕府、容堂を頂点とする土佐の上士を甘く見ていた。
 以蔵(佐藤健)を駒として扱った。
 収二郎(宮迫博之)や仲間の気持ちを理解できなかった。
 収二郎たち、土佐勤王党は自分と志を同じくする仲間。だから自分とすべて同じだと思っていた。
 だが人間には欲望がある。弱さがある。
 収二郎の出世欲、以蔵のつらい罪の意識。
 志のためにはそれらを捨てて強くあらねばならないとする武市にはそれが見えなかった。あるいは見えていても見ようとしなかった。
 武市を見ていると石田三成を思い出す。
 豊臣家を中心とする世の中というイデオロギーを信じ、まっすぐで傲慢で、結局は家康のしたたかさの前に敗れ去ってしまった。

 武市と龍馬(福山雅治)の違いは異質なものを理解しようとしなかったことである。
 異国のこと、幕府のこと、容堂のこと、仲間のこと、みんな自分の枠に当てはめ、わかった気になっていた。
 一方、龍馬は素直に見つめる。素直に見つめて受け入れようとする。
 しかし、受け入れるだけではフラフラしたどっちつかずなものになってしまう。
 だからブレない自分の軸が必要。
 自分の軸の中で受け入れたものを取捨選択していく。
 龍馬の軸とは<平和な手段による日本の独立>だ。

 武市の悲惨。
 攘夷は実行されず、拠り所にしていた容堂にも裏切られた。
 じぶんのすべてを否定された武市。
 こうなっては武市にとって生きる意味はないだろう。
 絶望と虚無。
 彼に残されたのは幼なじみの仲間のこと。
 以蔵に謝り、収二郎を助けようとする。
 そのことだけが武市の生きる支えになっている。
 武市は<攘夷>という憑き物が落ちて、龍馬たちと楽しく笑い合っていた昔の自分に戻ったのだ。
 「ほんまに日本の独立を守れるんじゃったら、わしはおまんの海軍に加わってもええ」
 このせりふを最後に言わせたことは、なかなか深い。
 武市という人物を見事に掘り下げている。



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2 コメント

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武市論 (TEPO)
2010-05-10 19:40:28
コウジさんの力の入った武市論は的確で、私もほぼ全面的に共感します。

武市に「白」「黒」の「二重人格」を見る他ブログもありました。実際、「黒武市」の分身まで映像化した回もありましたし。
今回武市と龍馬は二回会っていますが、一回目は独善的で傲慢な「黒武市」、二回目は
><攘夷>という憑き物が落ちて、龍馬たちと楽しく笑い合っていた昔の自分に戻った
「白武市」と明瞭に描き分けられていました。
しかし、これまでの展開の中で黒武市の奥底にも何らか白武市の顔が残っている、といった
描写が欲しかったと思います。白武市と黒武市が二重人格のように分裂しているというのではやはり私には共感できにくいところです。
今後「白」に戻ったであろう武市が「黒」の自分をどう見るのか、先週のコウジさんのコメントと同じような思いで見守りたいと思います。

ところで、容堂や一橋慶喜の品のない高笑いはいただけません。あれではまるで他局の一時間もの時代劇の悪役です。黒武市のような無謀な過激分子から藩や日本を救った現実主義的政治家という見方もあるはずです。まあ、慶喜については将来勝と反目する伏線なのかもしれませんが。
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黒と白 (コウジ)
2010-05-11 18:24:23
TEPOさん

いつもありがとうございます。
「龍馬伝」の脚本が優れている所は、黒を黒、白を白で描いていないことですよね。
人を自分の駒として扱う武市は明らかに<黒>ですが、捕らわれた収ニ郎を助けようとして死地に飛び込む<白>の面も持っている。
この武市のように人間というのは<白><黒>両方を持っているもの。
自分の犯した間違いに後悔したり涙したりして簡単に<黒><白>で分けられるものではないものですよね。
水戸黄門なら許されるでしょうが、大河ドラマではそれでは人間が描けたことにならない。

TEPOさんが抱かれた高笑いへの違和感は、それが完全に記号化された<黒>のイメージだからなんでしょうね。作家として安易すぎる。

さて武市の最期はどのように描かれるのでしょうか?



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