8 魔法の呪文
その日の夜、子どもたちが寝静まった時間、おかあさんはコタツでお茶を飲みながら、ずっと手元の本を眺めていた。
それは、うす汚れた、古い絵本だった。背表紙の部分はもうなくなっていて、ところどころ染みがあり、破れたところはテープで何重にも補強してある。手あかまみれの表紙には、背中にピンクのちょうちょの羽根をつけた、小さな女の子の絵が描いてあった。女の子は白いワンピースのすそをつまんで、おしゃまなポーズをとっていた。
タイトルは、『まほうのあっぷりけ』。その下に小さく、『絵と文、すなだ あち』とある。
「まさか、もっててくれた人が、いたなんて……」
おかあさんは、くすっと笑って、ページをめくった。
他愛のない話だった。マリィという名の小さな女の子が、魔女のおかあさんに空を飛びたいとねだって、ワンピースの背中にピンクのちょうちょのアップリケを縫いつけてもらう。おかあさんに教えてもらった呪文をとなえると、アップリケの羽根がひらひらと動き出して、マリィは空を飛ぶ。マリィは大喜びで、花いっぱいの野原や、緑の森の上を、ふわふわ飛び越えて、やがて鏡のようにきれいな泉を見つけて、水を飲もうと舞い降りる。だけど、泉には、大きなウワバミのおばけが隠れていて、マリィをつかまえて食べようとするのだ。
印刷の色あせた本の中で、マリィは笑ったり、泣いたり、忙しい。クライマックスは、マリィが間一髪で空飛ぶ魔法の呪文を思い出し、おばけの口から命からがら逃げるところだ。そしてマリィは、泣きながら、心配していたおかあさんの胸の中に、飛びこんでくる。
おかあさんは、最後のページで、絵本の中の魔女おかあさんが、眠っている娘をやさしく見守っている横顔を、目を細めて見つめた。魔女おかあさんの服のすそのあたりは、元の紙が破れて、かわりに白い画用紙がはられてあり、そこには色鉛筆の不器用な線で、服の模様がつぎたしてあった。
(あの子が、直したのかしら?)
おかあさんは、なんだかたまらなくなった。きっと、あの子は、何度も、何度も、この本を読んでくれたのに違いない。
どうしてだろう? 確かにこれは自分が描いた本だ。そのはずなのに、今はとてもそうとは思えない。若いころ、まだ未熟な心と技術をなんとか大きく見せようとして、りっぱなものを作り上げるんだという焦りに、いつもとりつかれていた。絵には、その時の自分のせまくるしい気持ちが、しみついているはずだった。でも年月をへて、再びめぐりあった本は、まるで別の生き物のように、不思議な変容をとげていた。
おかあさんは本に顔を近づけた。古い紙の匂いにまじって、長い長い時間を、あの子とともに過ごした本のつぶやきが、聞こえないかと思った。どんなことがあったの? どんなことを、あの子と話したの? 本は何もしゃべらない。でも、本の確かな重みが、手にじんわりと沈んでくる。おかあさんは、なんだか急に泣きたくなった。本が、そしてあの子が、いとおしくて、たまらなくなった。
「大事にしてもらったんだね。よかったね。よかったね……」
おかあさんは、ささやくように言った。
ページをめくり、奥付を見ると、情けない笑い方をした女の人の写真が、載っている。ずいぶん若くて、髪形も違うけど、おかあさんの写真だってことは、一目でわかる。
要が生まれる前、おかあさんは一度だけ、自作の絵本を出版したことがあった。もっとも全然売れなくて、とっくに絶版になってるはずだけれど。
湯河香名子が、帰りぎわにこの本を差し出して、おかあさんにサインを頼んで来た時は、キモがつぶれるかと思った。香名子は顔を真っ赤にしながら、これは、おとうさんが買ってくれた本で、大好きな宝物だと言った。おとうさんの思い出といっしょに、ずっと大事に持っていたら、一言一句、最後のページの作者の写真まで、みんな覚えこんでしまった。前に、駅前のデパートで環たちといっしょにいるおかあさんを見たとき、香名子は一目で、あの『あっぷりけ』の人だと、わかったのだそうだ。
あんまりなつかしくて、また、こんなに長いこと大事に持っていてくれたということが、本当にうれしくて、おかあさんはつい、この本をしばらく貸してくれと、香名子に頼んでしまった。
「たしか、これ、タマキがモデルだったよね……」
環がまだハイハイしていたころ、おばあちゃんが、ピンクのちょうちょのアップリケのついた、レースつきの白いカバーオールを買ってくれたことがあった。ばら色のほっぺをした環に、そのカバーオールは、とてもよく似合った。
「かわいかったね、タマキ。おかあさん、これ、タマキのために描いたんだよ」
小さな涙が、目のふちに灯った。おかあさんは、ため息を一つついて、表紙の絵の女の子をいとおしそうになぞった。
(わたしのきもちなんか、何もわかってないんだから!)
突然、環の声が聞こえたような気がして、お母さんの指が電流に触れたみたいに、びりりとなった。ゆがんだ写真のネガのような、苦しそうな今日の環の顔が、絵の中で笑っている女の子に、重なった。
すがりつきたいのか、はねのけたいのか、自分でもよくわかっていない、子どもの顔。もがいている心を、あらわにむきだして、周りにぶつけることしかできない、子どもの、苦しみの顔……。あんな顔をされてしまったら、大人は、どうすればいいのだろう? 自分も通ってきた道のはずなのに、わからない。自分の時は、どうして欲しかったかしら?
あれから環は、自分の部屋に閉じこもったまま、何度呼んでも出て来ようとしなかった。おかあさんがドアをはさんで訳を聞こうとしたら、環はカバンか何かを思い切りドアに投げ付けてきて、「出てけ! 来るな!」ととりつくシマもなかった。ご飯だけは、ドアの所にそっと置いておいたら、いつの間にか食べていたけれど……。
(むずかしい年頃か……)
おかあさんは本をコタツの上におくと、両手で額を抱えた。何があったのかは、よくわからない。要に聞いたら、サンタのことで少しケンカしたとは言っていたけれど、それだけが原因とも思えない。学校で、何かあったのだろうか?
(どうしよう……、お友だちに聞いてみようかしら? でも、そういえばあの子、こっちの学校に来てから、友だちを家に連れてきたことは一度もないわ。香名子ちゃんとは、あまり親しくないみたいだし……。先生に相談してみようかしら。いや、そんなことをしたら、かえってもっとあの子を傷つけてしまうかもしれない。むしろ、しばらくはそっと見守っていた方がいいのか……)
情けない、と、おかあさんは思った。考えれば考えるほど、どうすればいいのか、わからなくなる。もうたいていのことは平気だなんて、今の今まで、思ってたのに……。
でも、とにかく、これだけはわかっている。環の心は今、暗い混沌の中にいるのだ。
おかあさんはもう一度本をとると、表紙の女の子に、語りかけるように言った。
「大丈夫よ、タマキ。きっと、切り抜けられるわ」
おかあさんは本をぎゅっと抱きしめた。そして、照明をまぶしげに見上げながら、まるで秘密の呪文のように、静けさの中に、つぶやいた。
「……どんなつらいことがあったって、がまんできないってくらい、苦しんだって、逃げることさえ、しなければ……、いつか、必ず、すべてがわかる日が、やって来るんだ……」
翌日も、環と要は、ちゃんと手をつないで学校に行った。
要は、昨日のことはもうすっかり忘れているようで、陽気に環に話しかけてきたが、環は口をむすっと結んだまま、一切答えなかった。いつものように三年二組の教室の前まで要を送ると、要の友だちのマリコちゃんが環にあいさつをしにきたが、環はそれにも答えずに、さっと背を向けて、走り去った。
一旦、心の奥に押さえつづけていたものがあふれ出すと、もう何もかもが憎らしく、いやになってくる。
(何がサンタクロースよ。サンタクロースが何してくれるっていうの? わたしが学校の人間関係でずっと悩んでるっていうのに! おかあさんも要も、みんなきらいだ。だれのせいで、こんなつらい思いしてると思ってるのよ! 要さえ、要さえ、ふつうの学校に行きたいなんて言わなければ……こんな学校に転校しなくてよかったのに!)
最初のうちは、腹立ちまぎれに大またで歩いていた環だったが、自分の教室が近づくにつれて、次第に足取りは重くなった。昨日の広田くんの顔が思い浮かぶと、風船みたいに体がしぼんでいくような気がした。
(どうにか、しなきゃ)
沈んでいく気分に歯止めをかけるように、環は体をぶるぶるふるわせた。
(なんとかしなくちゃ……。やっぱり、ずっとこのまま、広田くんに嫌われてるなんて、いや。……でも、どうすればいいの? 話をしたくても、教室にはあの和希がいる。……)
ぐるぐると頭が空回りしているうちに、いつの間にか目の前に教室の扉があった。環は、肩をすぼめると、思い切って扉を開け、目を伏せてこそこそと教室を横切った。そして自分の机にカバンをおきながら、広田くんの席の方をちらりと見た。広田くんは二、三人の男子にかこまれて、プロ野球選手のものまねをしてふざけていた。くったくなく笑っている広田くんを見て、環の心はまた沈んだ。彼にとっては、昨日のできごとなんて、どうでもいいことなんだ……。
環はなんだか、自分がものすごくちっぽけになったような気がして、カバンに目を落とした。にぎわしい教室の中で、ひとり自分だけ、ぽつんとどこか違うところにいるような気がした。
その時だれかが環の肩をたたいた。史佳かと思って、振り返った環は、心臓が縮み上がるかと思った。高倉和希が大きな目を見開いて、息がかかるほどのそばから環をぎろりとにらんでいたのだ。
「おはよう、砂田さん」
和希は環と目が合うと、大きな口をオーバーに曲げて、笑った。環は、背中に冷たいクギを打ち込まれたかのように、ぞっとした。
「お、おはよう……」
言いながら、目のすみで史佳を探した。史佳は後ろの掲示板の所に立って、誰かほかの女子と話をしながら、こっちをちらちら見ていた。環が助けを求めるような信号を目で送ると、史佳はさっと窓の外に目を移した。
「ねえ、砂田さんて、広田くんと仲がいいんだってね」
和希が、周囲にも響くような大声で言った。ななめ後ろの方で、がやがや笑っていた広田くんたちのグループが、ふっと静まった。環の顔からさっと血の気がひいた。
「いえ、そ、そんなこと……」
和希は、天井をつきさすようなきんきん声で、環の消え入りそうな声を吹き飛ばした。
「あら、でも小西さんが、あなたと広田くんがいっしょに話してるとこ、見たって言ってたわよ。すっごく仲がよさそうだったって」
環のくちびるが、ひくひくとけいれんした。和希の大きな目の中に、親切さを装った黒々と醜いものが、とぐろをまいてえものをからめとろうとしているのが、見えた。
環はふるえ上がった。胃がきゅうっとしぼられて、吐き気がむくむくと喉をのぼってきた。何とかごまかさなければと思ったけど、頭の中が真っ白で、何も思い浮かばない。
窒息した金魚みたいに、口をパクパクさせている環に向かって、和希がもう一つ追い打ちをかけようと何かを言おうとした、ちょうどその時、チャイムが鳴った。
「ほら席につけ! 先生がくるぞ!」
広田くんの大声が聞こえて、教室のみんなはがたがた席についた。
(つづく)
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