ひきこもりとストリートチルドレンの孤独
大学時代にフィリピンに滞在したことによって、当初の目的でもあった、グローバル社会の両端の弊害を目の当たりにできたことは、印象深かった。つまり、アジアのスラムという物質社会の一方の端である、貧困のさなかにかつて身を置いて、そこの問題を体感した。
そしてその反対側の、物や人のつながりのたどり着いた豊かさの先にある、グローバル社会のもう一方の端では〝心の貧困〟と〝孤独という地獄〟に生きる人たちと出会えた。〝ひきこもり〟の人たちとの出会いである。
アジアやアフリカのスラムで、日本のひきこもりの話をしたことがある。「自分の部屋や自分の家から外へ出られないで、ひとりぼっちで何年も暮らしている人たちがいる」と説明をして、感想を聞いた。すると、たいていは「じゃあ、自分もひきこもりになりたい! だって、食べ物は自動的に出てくるんでしょ?」となる。
スラムでも、少数民族の村でも、あるいは難民キャンプでも、そこでは生存に関わる深刻な問題が日々存在している。最大の問題は安全と食料の確保だ。そういった地域で暮らす人たちからすれば、日本の〝ひきこもり〟は十分〝天国〟といえる。
ただ、アジアの片隅の貧しさのさなかで暮らす人たちは、本当の孤独やその恐怖を知らない。いや、幼いうちに親に捨てられ、天涯孤独のまま、手段を選ばずに生きざるを得ない。〝ストリートチルドレン〟の孤独感は、日本の〝ひきこもり〟のそれに匹敵するかもしれない。
つまり、これだけ豊かな日本社会で、地球上で最も酷い生き方を強いられる〝ストリートチルドレン〟の孤独感に勝るとも劣らないほどの、ひどい苦痛にあえぐ人たち――ひきこもり――が、いつのまにかたくさん発生しているということなのだろうか……。
なんて、怖ろしい時代なんだ……。
生きる困難さという意味では、むしろ日本の〝ひきこもり〟のほうがずっと厳しい。アジアの貧しい地域の人たちは、好むと好まざるとにかかわらず、お互い助け合って生きていく術を知っている。しかし、日本の〝ひきこもり〟は、社会保障の網の目にもかからずに放置されれば、孤独地獄のなかで生涯喘ぎ続ける。
「このまま何もしなければ、ひきこもりの最後は〝餓死〟か〝自殺〟か〝事件〟か。このいずれかになります」
これは全国ひきこもりの親の会(KHJ)を結成した故・奥山雅久さんから僕が聞いた言葉だ。この言葉はいまだに胸の奥にひっかかっている。
考えてみたら、僕がひきこもりの訪問支援にまで足を踏み入れた動機は、深刻なひきこもりの状況をきちんと知りたいことと、別にもうひとつあった。せめて餓死や自殺、事件という結末に結びつけたくない、ということだった。
そうはいっても、まだ必ずしもうまくは支援できないでいる。
(『ドキュメント・長期ひきこもりの現場から』 石川清 2017年洋泉社)