chuo1976

心のたねを言の葉として

盲には木犀などを植うべしとのたまひし師は逝きたまひけり

2015-07-08 06:10:25 | 文学

多摩全生園  原田樫子さん



母の七年忌に
父母の死目に逢はぬそれのみがわれが親への孝なりとおもふ




ひとりゆくただ独りゆく父母のゐまさぬ国をわれひとりゆく




貧しさを友としやまひを友として忍ぶ生命のいつまでかつづく




盲には木犀などを植うべしとのたまひし師は逝きたまひけり




傷つけるけだもの穴の奥ふかく痛めるすがたわれおもひみぬ




愛友辻君の死を悼む
とりつづく早田文科の講義録なかばなりしに君は逝きたり




とかくしてひらひいだせし咽喉仏友皆に見せ壺にをさめぬ




化石氏を悼む
勲章の光も妻も子も捨ててあはれ逝きたり化石軍曹


原田樫子(嘉悦)さんの略歴
1900年生まれ。1919年19歳の時強制収容されたが逃走。1921年再び政府(委託)患者として目黒慰廃園に収容。慰廃園で宣教師オルトマンから受洗。慰廃園の閉鎖で全生病院に転園。少年舎の寮父となる。昭和初期の「山桜」に出詠。むしろ俳句で有名。秋津教会代表。1935年寮父をやめ原田フミと結婚。原田の部屋には北條民雄光岡良二東條耿一らが集り文学サロンの様相を呈した。1941年全生常会の発足に伴い役員となる。戦後の患者自治会の会長を六期つとめ、引退した六十年代にはJLM、日本赤十字社の協力のもと「世界ハンセン氏病友の会」を組織しハンセン病患者が海外のハンセン病患者を救援する画期的な活動をおこなった。病気は「入園中大風子油注射を一本打っただけ」という外国では自然治癒者として扱われるT型だった。「全生園のおとっつあん」と慕われた。1986年11月8日肺がんで没。86歳。『東雲のまぶた』(昭和5年)
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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf