ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

71、テキサス教科書倉庫ビル(ケネディ大統領暗殺 その1)

2007年11月22日 | Weblog
1963年11月22日(金曜日)、世界中に衝撃が走りました。
この日、アメリカ合衆国36代大統領ジョ・F・ケネディが暗殺されました。
私が中学生の頃で、23日朝起きてテレビをつけた瞬間「ケネディ大統領暗殺」のニュースが目に飛び込んできました。

日本時間の23日から日米の衛星放送回線が稼動しました。
記念すべき最初のアメリカからのリアルタイムのニュースが、この衝撃的なケネディ暗殺のニュースでした。
子供心に「このような偉大な大統領は2度と現れないだろう。」とショックを受け、学校でもその話で持ちきりでした。
その後、アメリカに行って、その業績や生前の行動を見ると「ケネディ大統領も普通の人間だったんだな。」と思うようになりましたが。

39、エルビスプレスリー」でも書きましたが、アメリカに行ったら訪ねたいところの、1番目がダラスの暗殺現場でした。
いつもそのことが頭にありましたが、経済的、時間的余裕が無くなかなか実現しませんでした。
最初に訪れたのは1979年の夏で、渡米して5年半後です。
2度目は1985年でした。(確か秋だったと思います?)

①、犯人はリ-・ハーベイ・オズワルドによる単独犯行。
②、狙撃場所はテキサス教科書倉庫ビルの6階。
③、ケネディーを乗せたパレード車輌を右後方からイタリア製ライフルのカルカーノで狙撃。
④、銃弾3発を発射し2発が大統領に命中。
以上がケネディ暗殺の定説になっていますが、私が現場を見て感じたのは全く違い、オズワルドによる単独犯行は不可能に近いと思いました。
①、まず、オズワルドのライフルの腕前は一流とはいえず、狙撃場所といわれている教科書倉庫ビルの6階から大統領の頭に命中させるのは至難の業です。
政府側報告(ウォーレン委員会)では5秒程度で3発発射したとされていますが、オズワルドが使用したボルトアクション方式のカルカーノ銃は連射時には手動で弾を込め、照準を合わせ、引き金を引きます。
これを5秒程度の間に3発発射し2発を命中させるのは至難の業です。
また、1発目は弾を込め、照準を合わせて待っているので命中させる確率が一番高く、2発目、3発目と順を追うごとに照準に狂いが生じてきます。
しかし、致命傷を与えたのは最も難しい3発目とされています。
照準を合わせる充分な時間的余裕が無いのに、1発目より2発目、2発目より3発目と遠ざかっていく標的に命中させることはさらに難しくなっていきます。
後に射撃のエキスパートによる再現の試射が何度も行われましたが成功した試しは一度もありません。

オズワルドは「やったのは俺じゃない。はめられたんだ!」と言い続けていましたが、事件から2日後ダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際、ダラス市警察本部の地下通路でジャック・ルビーによって射殺されてしまいます。
オズワルドが本当に大統領を殺害しようとなら、どうして最も難しい地点を選んだのか不思議です。
それに、オズワルドからは銃を撃った後に検出されるはずの硝煙反応が検出されませんでした。

②、教科書ビルの6階は地上からの高さが18m、エルム通りは前方の鉄橋の下を潜るため、下り坂になっています。
鉄道の高架が4mとして、暗殺地点は教科書ビルと高架の中間地点で倉庫が建っている地面より2mくらい低くなっています。
6階までの高さと、この2mを加えると約20mになります。
教科書ビルと暗殺地点の距離が30~40m(私の推定)
以上からビルの6階から暗殺地点まではかなり鋭角になります。
実際に教科書ビルの6階の窓から見ると暗殺地点はすごく下に、しかも遠くに見えました。
しかも、エルム通りの北側にはかなり大きな立ち木が何本もあって視界が遮られています。
私が行ったのは暗殺から16年経っていたので木も大きくなっていたかもしれません。
季節も8月と10月なので葉が繁っていました。
11月22日は晩秋で木の葉がどれくらい付いていたか分かりませんが、ザプルーダフィルム(後で書きます)を見ると、当日はかなり葉が残っていたようです。
③、大統領の車は教科書ビルから遠ざかっていました。
遠ざかっていく標的に照準を合わせるのは、近づいてくる標的に照準を合わせるのに比べ遥かに難しいと言われています。
どうして、ヒューストン通りを正面に向かって近づいてくる大統領を狙わなかったのか、しかも、視界を遮るものは何も無かったのに、という疑問が残ります。
「図の赤○地点なら照準を合わせやすいのに」と思いました。

以上のことを(その他にも幾つかの疑問がある)考えるとオズワルドが大統領の頭を正確に打ち抜くことは非常に困難なことだと思います。
それができるのは“ゴルゴ13”並みの狙撃の腕が必要です。

*ウォーレン委員会:暗殺事件の公式調査委員会で、事件の一週間後1963年11月29日にリンドン・B・ジョンソン大統領によって招集されました。
最高裁長官アール・ウォーレンによって率いられ「ウォーレン委員会」の名称で知られています。
10か月の調査の後、1964年9月末にウォーレン委員会報告書が公表されました。
委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の陰謀を示す証拠は発見できなかったとしています。

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