ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

76、巨大クリスマスツリー

2007年11月28日 | Weblog
ホリデー・シーズンに入って最大のイベントはロックフェラー・センターの巨大クリスマスツリーの点灯式です。
今年(2007年)は11月28日に点灯され、75周年になります。
私がいた頃は12月初め(3日頃)だったと思いますが?
何度か見に行きましたが周辺は身動きが取れないほど混雑します。
49丁目と50丁目の間で「チャネル・ガーデンChannel Garden」という通路を5番街から西に40メートルほど入ったところにスケートリンクが有り、その奥にツリーが建てられます。
このチャネル・ガーデンにはhorn-blowing angels(笛吹き天使)が並んでいて、とても綺麗です。
夕方の5時頃からセレモニーや有名スターのショーなどが行われ、ニューヨーク市長によって9時に点灯されます。
点灯式の様子は、世界中のニュース番組で取り上げられるので日本でもおなじみです。
このクリスマスツリーが点灯するとニューヨークのクリスマス気分も最高に盛り上がります。

ツリーには3万個の電飾が飾られ、電球を繋ぐ配線の長さは5マイル(約8km)にもなり、頂上には25,000個ものクリスタルを使ったスワロフスキーの星が輝いています。
ツリーのライトは1月初めまで灯され、ニューヨークの夜をロマンチックに彩っています。
このツリーは、その大きなことでも有名で、高さは30m前後もあります。
ヘリコプターで上空から枝振りや形、大きさなどさまざまな基準をクリアした木が選ばれ、11月上旬に切り出されます。
毎年ニューヨークやその近隣の州から運ばれてきますが、過去にはカナダの木が選ばれたこともあります。

写真はチャネル・ガーデンからロックフェラー・センターのクリスマスツリーを見ています。
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75、グリーティング・カード

2007年11月26日 | Weblog
ホリデー・シーズンになると友人、知人、家族などにクリスマス・カードやシーズンズ・グリーティングカードを送ります。
日本の年賀状のようなもので毎年恒例になっています。
クリスマス・カードは文字通りクリスマスを祝うカードで、挨拶文はMerry Christmasです。
シーズンズ・グリーティングのカードはクリスマスと新年の挨拶を兼ねていて、挨拶文はMerry Christmas&Happy New Yearです。
(挨拶文にはいろんな言い方がありますが。)
この時期のカードとしてはどちらでも良く、私の家に来るカードも半々です。
今もアメリカの友人から両方のカードが送られてきます。

写真は昨年送られてきたカードを幾つかまとめてみました。
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74、ホリデー・シーズン到来

2007年11月23日 | Weblog
70、感謝祭(Thanksgiving Day)でも書きましたが、感謝祭が終わった次の日から一気にクリスマスムードになり、ホリデー・シーズンが始まります。
この日から12月25日まで町中クリスマス1色です。
商店やオフィス、駅、レストラン、劇場、公共機関などあらゆる場所でクリスマス・ツリーが飾られ、イルミネーションがキラキラ輝きます。
各家庭でも思い思いの飾り付けをして楽しみます。
町中にジングル・ベルを始めとしたクリスマスソングが流れ、1年中で最も華やいだ時期になり、心もウキウキ弾みます。
サックスフィフスアベニュー(デパート)のショーウインドーに飾られるディスプレイは、動く人形が人気でいつも見物人でいっぱいです。
5番街を始め、商店街ではでは、ホリデーシーズンセールが行われ、買い物客で賑わいます。
25日が過ぎてもホリデー・シーズンは続き31日のNew Yearイブを祝い新年を迎えます。
感謝祭の翌日から1月1日までが「ホリデー・シーズン」です。
この期間エンパイアステート・ビルも赤や青、緑、黄色などにライトアップされます。
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73、グラシーノール(ケネディ大統領暗殺 その3)

2007年11月22日 | Weblog
“グラシーノール”多くの人がケネディ大統領に致命傷を与えた銃弾が発射された場所だと考えています。
私も2度暗殺現場に行ってみましたが、グラシーノールこそケネディ大統領の頭を打ち抜いた銃弾が発射された場所だと思います。
その理由は、
①、テキサス教科書倉庫ビルから大統領の頭を打ち抜くのは物理的に不可能に近い。
②、ザプルーダ・フィルムに映っている大統領が撃たれた瞬間の頭の動きを見ると、明らかに「後ろにのけぞっている」。
これは前方から撃たれたことを示している。
③、グラシーノールの奥にある柵は身を隠すのに絶好の場所に見えます。
私も柵の後ろに廻ってみましたが、そこは鉄道の線路が何本もある操車場のような場所で、人影はありませんでした。
目撃者の多くがグラシーノールから銃が発射された、と証言しています。
メアリー・ムー・モーマンという女性が撮ったポラロイドには、柵の向こうでライフルから立ち上る白煙、警察官らしき人物、二人の人影の輪郭が写っています。
警察官の服装を分析するとダラス警察の制服に似ています。
尤も、この写真はそれほど鮮明ではないので確実な証拠にはなりませんが、狙撃犯がダラス警察の制服を着ていれば誰にも怪しまれず狙撃場所に行くことができます。
しかも、一般の人を遠ざけることもできます。
④、グラシーノールから暗殺地点は右斜め前方に見え、視界をさえぎるものは何もありません。
その距離30メートルくらいで、目の前に近づいて来る標的に照準を合わせるのは容易に見えました。
これなら私でも命中させることができそうな感じです。(アメリカで友人のライフルを借りて空カンを撃ったことがありますが。)
勿論、私では無理ですが銃のエキスパートなら可能でしょう。
教科書倉庫ビルの6階から、遠ざかる標的に照準を合わせるのに比べはるかに容易です。

銃撃音の証言は2つに分かれます。
1つはグラシーノールからライフルの音が聞こえた。
もう1つはテキサス教科書倉庫ビルの6階辺りから聞こえた、というものです。
私の想像では、実際の狙撃はグラシーノールから行われ、オズワルドを犯人に仕立てるため教科書倉庫ビルの6階からも発砲(又は空砲)されたのではないかと思います。

犯人は誰か?
オズワルド単独犯行説、軍産複合体の意を受けた政府犯行説、全米トラック運転組合(チームスター・ユニオン)犯行説、KGB犯行説、共産主義者犯行説、キューバ人共産主義者犯行説、亡命キューバ人犯行説、ベトナム犯行説、CIA犯行説、極右勢力犯行説、シークレットサービス犯行説、マフィア犯行説、CIA犯行説、FBI犯行説、等々。
さまざまな意見がありますがこれと言った決め手はありません。
一般的にはCIA、FBIを実行部隊にした政府内部の犯行であるとする説が多いようです。
私もそれなりの意見がありますが、ここでは書かずにおきます。
ただ1つ言えるのは「オズワルドの単独犯行ではない」ということです。

銃弾を受けたケネディ大統領は直ちにパークランド・メモリアル病院に搬送されました。
担当した医師は、病院に着いたとき既に「瀕死」の状態だったと語っています。
午後1:00に心拍が停止し、午後1:38に公式発表されました。

71、テキサス教科書倉庫ビル(ケネディ大統領暗殺 その1)
72、ディリープラザ(ケネディ大統領暗殺 その2)」を参照
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72、ディリープラザ(ケネディ大統領暗殺 その2)

2007年11月22日 | Weblog
大統領が乗っていた車は1961年型のリンカーン・コンチネンタでオープントップに改造されたリムジンでした。
同乗者は妻のジャクリーン・ケネディ、テキサス州知事ジョン・コナリーとその妻ネリー、シークレット・サービスのロイ・ケラーマン、シークレット・サービスでドライバーのビル・グリアーです。
大統領を含め6人を乗せたリムジンは午後12:30にヒューストン通りをテキサス教科書倉庫の正面に向ってゆっくり接近し、左に120度方向を変えエルム通りに入っていきました。
リムジンが教科書倉庫を通過した後、およそ6~9秒の間に大統領は狙撃されました。
リムジンの時速は9~13マイル(時速14~20キロ)で、エルム通りに入って30~40メートル行ったところです。

当初の予定ではメイン通りを直進し、ディリー広場の中央を通って陸橋の下を潜り、ステモンズ・フリーウエーに入る予定でした。
そこから昼食会会場であるダラストレードセンター(商品館)までは5分たらずで着くはずでした。
このコースの方が見通しも良く、警備上も安全で、多くの人の声援にこたえることができます。
そもそもこのパレードの目的は翌年に控えた大統領選の遊説のためです。
Main通りを挟んで左右に広がるディリープラザでは多くの人がパレードを見ていました。
この方が遊説という本来の目的を果たすには効果的です。
エルム通りの北側にはほとんど人はいませんでした。
それが直前になって変更されたのは、何等かの目的があったとしか考えられません。
事件前日のダラス・ディリー・モーニング紙には“パレードのコースはメイン通りを直進する”と書かれていました。
これは当日の朝まで新聞社もコースの変更を知らなかったことになります。
ディリー広場はパレードも終了間近で、ラジオやテレビは暗殺現場を中継していませんでした。
広場を過ぎればパレードは終わりです。
ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディ大統領の到着を待っていました。

しかし暗殺現場を映していた8mmフィルムがありました。
後にザプルーダー・フィルムとして知られることになったこのフィルムは、アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーによって撮影されたものです。
26.6秒間、486コマのこのフィルムはケネディー大統領が狙撃された瞬間を見事にとらえていました。
多くの研究家が必ず研究し参考にするフィルムです。
これは暗殺の瞬間を映す歴史的フィルムであり資料でもあります。
ケネディー大統領暗殺事件の研究には必要不可欠のこのフィルムは一度没収されましたが現在は一般に公開されています。
映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)やインターネットなどで容易に見ることができます。

大統領の頭部に致命傷を与えた一撃によって、頭部が「後方」に激しくのけぞっている瞬間がはっきり映っています。
これは大統領が「前方から」撃たれたことを示しています。
そこには大統領の右こめかみから鮮血が飛び散る様子も映っています。
直後に大統領夫人が「後方に」目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛に引き戻されている映像があります。
夫人はその行動を「後方に」吹き飛んだ大統領の脳の断片を拾うために這い出た、と言っています。
このフィルムはFBIに没収され、返却された時には「後方へ」のけぞった映像の部分のコマが入れ替えられ、前方へ倒れたように見えるよう手が入れられていました。
後にFBIはフィルムを改変したことを認めています。

ディリープラザで大統領暗殺の瞬間を目撃した人達の多くがグラシーノールを狙撃場所だと証言しています。
マリリン・ウイリス(暗殺の瞬間を目撃した老婦人)の証言
「銃弾は右の前方からきたように思います。弾は大統領の頭に命中し、頭は後ろに倒れて脳味噌が後頭部から飛び出しました。それは恐ろしい瞬間でした」

ベバリー・オリバーの証言
「実際の弾がいくつなのかは分からないけど、弾がどこから飛んできたのかは分かります。(右の丘を指さして)あの棒杭の近くの柵のあたり、階段の向こうの柵のあたりで、そこに人影と煙が見えました。
大統領を殺した犯人は、あの柵の辺りにいた人だと信じています。」
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71、テキサス教科書倉庫ビル(ケネディ大統領暗殺 その1)

2007年11月22日 | Weblog
1963年11月22日(金曜日)、世界中に衝撃が走りました。
この日、アメリカ合衆国36代大統領ジョ・F・ケネディが暗殺されました。
私が中学生の頃で、23日朝起きてテレビをつけた瞬間「ケネディ大統領暗殺」のニュースが目に飛び込んできました。

日本時間の23日から日米の衛星放送回線が稼動しました。
記念すべき最初のアメリカからのリアルタイムのニュースが、この衝撃的なケネディ暗殺のニュースでした。
子供心に「このような偉大な大統領は2度と現れないだろう。」とショックを受け、学校でもその話で持ちきりでした。
その後、アメリカに行って、その業績や生前の行動を見ると「ケネディ大統領も普通の人間だったんだな。」と思うようになりましたが。

39、エルビスプレスリー」でも書きましたが、アメリカに行ったら訪ねたいところの、1番目がダラスの暗殺現場でした。
いつもそのことが頭にありましたが、経済的、時間的余裕が無くなかなか実現しませんでした。
最初に訪れたのは1979年の夏で、渡米して5年半後です。
2度目は1985年でした。(確か秋だったと思います?)

①、犯人はリ-・ハーベイ・オズワルドによる単独犯行。
②、狙撃場所はテキサス教科書倉庫ビルの6階。
③、ケネディーを乗せたパレード車輌を右後方からイタリア製ライフルのカルカーノで狙撃。
④、銃弾3発を発射し2発が大統領に命中。
以上がケネディ暗殺の定説になっていますが、私が現場を見て感じたのは全く違い、オズワルドによる単独犯行は不可能に近いと思いました。
①、まず、オズワルドのライフルの腕前は一流とはいえず、狙撃場所といわれている教科書倉庫ビルの6階から大統領の頭に命中させるのは至難の業です。
政府側報告(ウォーレン委員会)では5秒程度で3発発射したとされていますが、オズワルドが使用したボルトアクション方式のカルカーノ銃は連射時には手動で弾を込め、照準を合わせ、引き金を引きます。
これを5秒程度の間に3発発射し2発を命中させるのは至難の業です。
また、1発目は弾を込め、照準を合わせて待っているので命中させる確率が一番高く、2発目、3発目と順を追うごとに照準に狂いが生じてきます。
しかし、致命傷を与えたのは最も難しい3発目とされています。
照準を合わせる充分な時間的余裕が無いのに、1発目より2発目、2発目より3発目と遠ざかっていく標的に命中させることはさらに難しくなっていきます。
後に射撃のエキスパートによる再現の試射が何度も行われましたが成功した試しは一度もありません。

オズワルドは「やったのは俺じゃない。はめられたんだ!」と言い続けていましたが、事件から2日後ダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際、ダラス市警察本部の地下通路でジャック・ルビーによって射殺されてしまいます。
オズワルドが本当に大統領を殺害しようとなら、どうして最も難しい地点を選んだのか不思議です。
それに、オズワルドからは銃を撃った後に検出されるはずの硝煙反応が検出されませんでした。

②、教科書ビルの6階は地上からの高さが18m、エルム通りは前方の鉄橋の下を潜るため、下り坂になっています。
鉄道の高架が4mとして、暗殺地点は教科書ビルと高架の中間地点で倉庫が建っている地面より2mくらい低くなっています。
6階までの高さと、この2mを加えると約20mになります。
教科書ビルと暗殺地点の距離が30~40m(私の推定)
以上からビルの6階から暗殺地点まではかなり鋭角になります。
実際に教科書ビルの6階の窓から見ると暗殺地点はすごく下に、しかも遠くに見えました。
しかも、エルム通りの北側にはかなり大きな立ち木が何本もあって視界が遮られています。
私が行ったのは暗殺から16年経っていたので木も大きくなっていたかもしれません。
季節も8月と10月なので葉が繁っていました。
11月22日は晩秋で木の葉がどれくらい付いていたか分かりませんが、ザプルーダフィルム(後で書きます)を見ると、当日はかなり葉が残っていたようです。
③、大統領の車は教科書ビルから遠ざかっていました。
遠ざかっていく標的に照準を合わせるのは、近づいてくる標的に照準を合わせるのに比べ遥かに難しいと言われています。
どうして、ヒューストン通りを正面に向かって近づいてくる大統領を狙わなかったのか、しかも、視界を遮るものは何も無かったのに、という疑問が残ります。
「図の赤○地点なら照準を合わせやすいのに」と思いました。

以上のことを(その他にも幾つかの疑問がある)考えるとオズワルドが大統領の頭を正確に打ち抜くことは非常に困難なことだと思います。
それができるのは“ゴルゴ13”並みの狙撃の腕が必要です。

*ウォーレン委員会:暗殺事件の公式調査委員会で、事件の一週間後1963年11月29日にリンドン・B・ジョンソン大統領によって招集されました。
最高裁長官アール・ウォーレンによって率いられ「ウォーレン委員会」の名称で知られています。
10か月の調査の後、1964年9月末にウォーレン委員会報告書が公表されました。
委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の陰謀を示す証拠は発見できなかったとしています。
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70、感謝祭(Thanksgiving Day)

2007年11月22日 | Weblog
11月の第4木曜日はサンクスギビング・デー(感謝祭)で、今年(2007年)は11月22日です。
日本には,「勤労感謝の日」があり、日頃の労働に対して「ご苦労様」という感じですが、アメリカの感謝祭は家族や食べ物など日々の平安に対して神に感謝する日です。
1620年、清教徒たちはメイフラワー号に乗り、イギリスから過酷な旅をして新大陸へ渡ってきました。
しかし、新しい土地で作物を育てるのは大変で、清教徒達は食糧不足や伝染病に加え悪天候も重なり102人いた彼らのうち半分以上が死んでしまいました。
それを見た先住民(インディアン)は食べ物を分け、トウモロコシやカボチャなどの育て方を教え、様々な知恵を授けて移民たちを助けました。
おかげで翌年には彼らもはじめての収穫を得、その実りを神に感謝しました。
この年はとりわけ豊作だったようです。
自分たちを助けてくれた先住民を招待して共にご馳走をいただき、犠牲となった仲間たちを偲びました。
これが感謝祭の始まりです。

この日と翌日の金曜日(After Thanksgiving Day)、そして土日を合わせた4連休は、学校、会社、公共機関などのほとんどが休みとなります。
水曜の夜は故郷に帰るための大移動が始まり、高速道路や交通機関が1年で最も混雑する日です。
そしてThanksgiving Day当日、一番のごちそうはこんがりと焼きあがった丸ごとの七面鳥です。
その他、パンプキンパイ、スタフィング、クランベリーゼリー、マッシュポテトなどのThanksgivingにちなんだ料理を食べます。
お母さんの愛情がこもった料理を楽しみながら、家族団らんの時間を過ごします。
それぞれの家庭の定番料理など、あふれるほどのごちそうを家族や親戚で囲み、食べ物を与えてくれた神に感謝します。
アメリカン・フットボールや、各地で行われるパレードのテレビ中継を見ながら楽しく語らう、というのが一般的な過ごし方です。
通常は日曜日と月曜日の夜だけ行われるNFLの試合もThanksgiving Dayの木曜日に何試合か行われます。

しかし、なんといってもこの日のメインは恒例になっている、メイシーズの感謝祭パレードです。
「Macy's Thanksgiving Day Parade」は1924年から毎年(第二次世界大戦のため1942年から1944年まで中断)行われる恒例行事となっています。

スーパーマン、スパイダーマン、スヌーピーなどの巨大バルーンがニューヨークの町を泳ぎます。
山車やマーチィング・バンド、チアリーディングなどがマンハッタンの街を行進し、有名な歌手や俳優などのパフォーマンスも行われ、250万人を超える見物客が通りを埋めつくします。
巨大バルーンはビルの10階ほど(約30m)の高さがあり、たくさんのロープが付いていてそれを多くの人が引っ張って移動させるので、引っ張り方によってバルーンの手や足が動き、皆で凧あげしているような感じです。
最近ではポケモンのピカチューのバルーンが子供達に人気があります。

セントラル・パーク (Central Park) ウエストの77th Stを出発しコロンバス・サークル、ブロードウェイを南下し、メイシーズ前のヘラルド・スクエア(34丁目のブロードウェイと6番街とが交差する地点)まで2.5マイル(約4.5キロ)を行進します。
私も何度か見に行きましたが、1989年は吹雪の中でのパレードでしたがみんな楽しんでいました。
アメリカ人は寒さも楽しんでしまいます。
例えば、フットボールの試合は雪が降ろうが零下20度だろうがへっちゃらです。
寒ければ寒いほど盛り上がります。

朝9時に出発したパレードは12時に主催デパート、メイシーズがあるヘラルド・スクエアに到着します。
パレードの最後に登場するのはサンタクロースです。
感謝祭が終わった次の日から一気にクリスマスムードになり、ホリデー・シーズンが始まります。
木曜日はほとんどの店は休みですが、金曜日から特別セールを行い、クリスマス商戦に突入します。
この日は朝早くから店の前に長蛇の列が出来てクリスマスプレゼントのショッピングを始めます。
感謝祭からクリスマスまでの1ヶ月は、小売店の年間の総売上の約3割を占めると言われています。
この間ジングルベルが流れ、クリスマス・ツリーが飾られ、イルミネーションが輝いて町中クリスマスムード一色です。
1年中で最も華やかで活気のある期間となります。

*メイシーズ:6番街と7番街、34丁目と35丁目の通りに囲まれた1(one)ブロック全てを占める店舗で、デパートの単独店舗としては世界最大の売場面積を誇っています。
確か1階から8階まで全て売り場で巨大なデパートです。
映画「モダン・タイムス」や『三十四丁目の奇蹟』の舞台となっています。
私は近くに住んでいたことがあるので毎日この前を通って仕事に通いました。
同店舗を含め、現在全米、グアム、プエルトリコに400店舗以上を展開しています。

写真は、セントラル・パーク (Central Park) ウエストの77th Stを出発したパレードが72nd Stまで南下したところです。
写真左に見える黒っぽいマンションはジョン・レノンとオノ・ヨウコが住んでいた“ダコタ・ハウス”です。
レノンはセントラル・パーク・ ウエストから72nd Stを西に入った玄関前で射殺されました。
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69、プラザ合意

2007年11月16日 | Weblog
今日(2007年11月16日)の円相場は110円台で円高になっています。
このところ125円前後で推移していたので久しぶりの円高水準です。

戦後、日本は1ドル=360円の固定相場制が長く続いていました。
このまま360円の固定相場制が続くものと思われていましたが、1971年にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換を電撃的に発表しました。
いわゆる、“ニクソン・ショック“と呼ばれるものです。
1つは、ドル・ショックと呼ばれ1971年8月15日に発表されたドルと金の交換を停止し、変動為替相場制へ移行しました。
2つ目は、ニクソン訪中宣言で1971年7月15日に発表され、翌1972年2月の北京訪問にいたる一連の外交です。

1971年12月に、ワシントンのスミソニアン博物館で各国の蔵相会議が開かれました。
ここでドルと金との固定交換レート引き上げ、ドルと各国通貨との交換レート改定が決定されました(スミソニアン協定)。
円は360円から308円へ、16.88パーセント切り上げられました。
この切り上げ幅は各国通貨の中でも最大で、日本の交渉団の予想を大幅に上回るものでした。

“プラザ合意”は1985年9月22日、ニューヨークの「プラザ・ホテル」で行われたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で発表された、為替レートに関する合意です。
当時のアメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意で、対日貿易赤字の是正を狙い、円高ドル安政策を採るものでした。
当時アメリカは、財政赤字と貿易赤字という、いわゆる双子の赤字を抱えており、これを是正するための効果的な手段としてドル安円高への誘導がなされたと言われています。
ドル安円高になれば対円の貿易赤字が実質目減りするという効果があるわけです。

発表の翌日1日(24時間)でドル円レートは、1ドル235円から約20円下落しました。
その後も下がり続け、一年後には1ドル=150円になり、その一年後には120円台で取引されるようになりました。
その後も円高は続き1995年4月19日には史上最高値の1ドル=79円75銭まで上昇しました。
その後125円前後に戻し、120~130円位で推移しています。

プラザ合意を受け日本では急速な円高が進行し、円高不況の発生が懸念されたために低金利政策がとられました。
この低金利政策が不動産や株式への投機を加速させバブル景気の過熱をもたらしました。
また、円高により日本経済の規模は相対的に急拡大し、米国資産の買い漁りや海外旅行のブーム、人件費の安い国への工場移転などが相次ぎました。
ロックフェラーセンターや映画会社の買収などジャパン・マネーが闊歩し、旅行者や会社の視察など、日本人が大挙して押し寄せてきました。
毎晩のように接待やパーティーが行われ、ブロードウエイやリンカーンセンターなどの劇場ではショーを見る日本人が多くいました。
日本の歌が歌えるカラオケ・バーが何十軒もできて賑わっていました。

私がアメリカに行った1973年は1ドル=300円位でした。
しばらく300円前後で推移し、それから240円前後になりました。
それがプラザ合意で一気に半分の120円前後になってしまいました。
その時はまだ日本に帰る予定は無かったのでそれ程気にしていませんでしたが、1992年に帰国することになりプラザ合意の影響をもろに受けることになりました。
アメリカで20年間働いて貯めた金を日本に送金する段になって半分になってしまったのです。
その後も円高が進み帰国する直前の1993年3月には111円台になってしまいました。
この時ばかりはプラザ合意を恨めしく思ったものです。
今もアメリカに送金したり、向こうから送金されてくるので円相場は気になります。

 写真はプラザ・ホテルをセントラルパーク南の東端から撮ったものです。
幾つかの国旗が見えますが、各国の要人(大臣クラス)が滞在しているときは国旗が掲揚されます。
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68、晩秋のセントラル・パーク

2007年11月15日 | Weblog
春は新緑、夏は太陽の光と緑に包まれ、秋は紅葉、冬は雪。
セントラル・パークはニューヨーカーの憩いの場です。
11月も中旬になるとセントラル・パークの紅葉が散り落ち葉のじゅうたんが地面を被いつくし、冬支度を始めます。
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67、イエロー・キャブ(Yellow Cab)

2007年11月07日 | Weblog
ニューヨークの公認タクシーは、黄色の車体をしているので通称“イエロー・キャブ”と呼ばれています。
黄色は目立つので車の種類が違っていても“タクシー”とすぐに分かります。
車体を黄色くするよう義務付けられたのは1967年からです。
料金はメーター制で、基本料金は車体の横に書かれていますが、例外もあります。
例えば、ケネディー空港からマンハッタンまでの料金は一律$45と決められています。
マンハッタンに行くには橋やトンネルを利用しなければなりません。
無料の橋もありますが空港からマンハッタンに行く道はほとんど有料の橋やトンネルを利用するのでその分も払います。
その他、チップ(10~15%)を加え55ドルくらいになります。(2007年現在)
45ドルと決められたのは、タクシーの運転手が遠回りしたり、メーターをごまかしたりすることを防ぐ為です。
消費税を請求されることがありますが、払う必要は無いので注意が必要です。
 *アメリカではレストランやタクシーを利用したときはチップを払うのが普通です。
  彼らの固定給は安く、チップの収入が生活に必要です。
  私は日本に帰って14年になりますが、レストランで食事したときはチップを払うことはありませんが、タクシーに乗ったときはチップを払わないと悪いような気がして今でも払っています。

日本人の旅行者は乗り降りするときタクシーのドアが開くのを待っている人がいますが、ニューヨークのタクシーは自分でドアを開け閉めします。
タクシーの運転手はインド、パキスタン、バングラデッシュ、ルーマニア人などの移民が多く、ニューヨークの地理に不案内な運転手もいます。
以前は、わざと遠回りして料金をごまかすドライバーもいましたが、現在は少なくなりました。
運転はかなり荒っぽく、追い越しや割り込み、急発進、急ブレーキは当たり前です。
つり革に捕まって足を踏ん張っていないと頭をぶつけることがあります。

屋根のランプが点灯しているのが空車で、日本と同じく手を上げて止めますが大きく手を振って目立つようにしないと止まってくれません。
アメリカ人の中には映画のように“TAXI!“と叫んで止める人もいます。(運転手には聞えませが)
テレビや映画にも黄色いタクシーが出てきますが、街の中にあふれていて目立ちます。

現在、約13,000台のイエロー・キャブがューヨークを走っていますが、タクシー運転手はタクシー&リムジン委員会(New York City Taxi and Limousine Commission)で許可証を取得します。
写真つきの運転許可証がダッシュボードの上部に貼られているので忘れ物をしたり、何か問題があったらタクシー&リムジン委員会に連絡してこの番号を言います。
でも、この番号を控えている人はいないと思うので、忘れ物をしないように気を付けてください。
レシートをもらっておくと忘れ物をした時何かと役に立ちます。(レシートにはタクシーのナンバーが記入されている)
しかし、忘れ物はまず、出てこないと思ったほうが良いでしょう。
また、車番号(Medallion number) はタクシーの屋根についているプラスティックに書か
ています。

ラッシュアワーや雨の日はなかなかつかまりません。
特に雨の日はタクシーが少ないと感じる時があります。
ブロードウエイやリンカーンセンターのショーが終わった後は、なかなかつかまりません。
待っていても来ないときはホテルや駅、有名レストランの前などに行くと客待ちのタクシーに乗ることができます。
2005年11月にハイブリッド・タクシーが導入されました。
2012年までには市内のすべてのタクシーがハイブリッド・タクシーになる予定です。

写真のタクシーの値段は1990年頃のもので、現在(2007年)の初乗りは$2.50です。
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