京都・伏見にある寺田屋は慶長2年創業の船宿で現在も旅館として営業されています。
薩摩藩の定宿で坂本龍馬も京都での定宿にしていました。
文久2年(1862)、島津久光の命により薩摩藩の尊攘派9名が殺害された寺田屋事件は良く知れています。
しかし、私にとって「寺田屋」といえば幕末の英雄・坂本龍馬が襲撃された船宿です。
慶応2年(1866)、寺田屋に滞在中の龍馬が幕吏に襲われ、暗殺されかけました。
龍馬が応戦した部屋にはピストルの弾痕や刀傷が残り、飾ってある掛軸には血痕が飛び散っています。
入浴中だったお龍さんが裸のまま階段を駆け上がって2階の龍馬に知らせたエピソードは有名です。
寺田屋事件直後に二人は結婚し、龍馬の傷の療養に薩摩を旅しますが、これが日本初の新婚旅行と言われています。
このとき龍馬夫妻の世話をしたのが篤姫の幼馴染みの小松帯刀です。
(大河ドラマでは薩摩時代の篤姫と小松帯刀は頻繁に会っていたように描かれていますが、当時の身分制度では疑問です。)
私は学生時代、”龍馬命”という感じで、龍馬にあこがれ、龍馬に夢中でした。
司馬遼太郎の「竜馬が行く」は5~6回読み、龍馬に関する本を読み漁りました。
本を読んだらその舞台になっている場所に行きたくなります。
龍馬の銅像が建つ桂浜にも行きました。
ペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」で“月の浜辺で焚き火を囲み”と歌われている所です。
寺田屋にも行き、龍馬が襲われた部屋に泊まりました。
(この部屋は他の部屋よりも値段が高い)
上述のように、弾痕、刀傷、血痕が残っていますが、龍馬ファンにとってはたまりません。
その寺田屋が鳥羽伏見の戦で焼失し、現存する寺田屋は明治後期に建てられたものだというのです。
建物東側の庭には寺田屋が過去にこの位置にあったことを示す「寺田屋遺址」と書かれた碑があり、専門家たちは「多くの資料から現在の建物は明治後期に建てられた」と指摘しています。
また、地元の人は祖父の話として「東側の庭に昔の寺田屋は建っていた」と語っています。
当時の建物だと信じきっていた龍馬ファンにとってはショックです。
京都市も事実関係の調査に乗り出しました。
私が寺田屋に泊まったのが1969年頃で龍馬が襲われてから100年以上経っていて、建てられてからは150年くらい経っていたと推測されます。
当時の旅館、池田屋(新撰組が勤皇の志士を襲撃)、近江屋(龍馬が暗殺された)などが、とっくの昔に取り壊されているのに寺田屋はきれいでした。
もちろん、メインテナンスはしっかりしていたと思いますが、150年経っているわりには新しい感じがしていました。
1973年12月、アメリカに行く前に京都の霊山護国神社にある龍馬の墓に「これから行ってきます」と挨拶に行きました。
(隣には一緒に襲われた中岡慎太郎の墓があります。)
帰国して15年経ちますが、行こう行こうと思いながらまだ帰国の挨拶に行っていないので、いつも気になっています。
写真は桂浜に建つ龍馬像(1969年頃行った時に撮ったもの)
薩摩藩の定宿で坂本龍馬も京都での定宿にしていました。
文久2年(1862)、島津久光の命により薩摩藩の尊攘派9名が殺害された寺田屋事件は良く知れています。
しかし、私にとって「寺田屋」といえば幕末の英雄・坂本龍馬が襲撃された船宿です。
慶応2年(1866)、寺田屋に滞在中の龍馬が幕吏に襲われ、暗殺されかけました。
龍馬が応戦した部屋にはピストルの弾痕や刀傷が残り、飾ってある掛軸には血痕が飛び散っています。
入浴中だったお龍さんが裸のまま階段を駆け上がって2階の龍馬に知らせたエピソードは有名です。
寺田屋事件直後に二人は結婚し、龍馬の傷の療養に薩摩を旅しますが、これが日本初の新婚旅行と言われています。
このとき龍馬夫妻の世話をしたのが篤姫の幼馴染みの小松帯刀です。
(大河ドラマでは薩摩時代の篤姫と小松帯刀は頻繁に会っていたように描かれていますが、当時の身分制度では疑問です。)
私は学生時代、”龍馬命”という感じで、龍馬にあこがれ、龍馬に夢中でした。
司馬遼太郎の「竜馬が行く」は5~6回読み、龍馬に関する本を読み漁りました。
本を読んだらその舞台になっている場所に行きたくなります。
龍馬の銅像が建つ桂浜にも行きました。
ペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」で“月の浜辺で焚き火を囲み”と歌われている所です。
寺田屋にも行き、龍馬が襲われた部屋に泊まりました。
(この部屋は他の部屋よりも値段が高い)
上述のように、弾痕、刀傷、血痕が残っていますが、龍馬ファンにとってはたまりません。
その寺田屋が鳥羽伏見の戦で焼失し、現存する寺田屋は明治後期に建てられたものだというのです。
建物東側の庭には寺田屋が過去にこの位置にあったことを示す「寺田屋遺址」と書かれた碑があり、専門家たちは「多くの資料から現在の建物は明治後期に建てられた」と指摘しています。
また、地元の人は祖父の話として「東側の庭に昔の寺田屋は建っていた」と語っています。
当時の建物だと信じきっていた龍馬ファンにとってはショックです。
京都市も事実関係の調査に乗り出しました。
私が寺田屋に泊まったのが1969年頃で龍馬が襲われてから100年以上経っていて、建てられてからは150年くらい経っていたと推測されます。
当時の旅館、池田屋(新撰組が勤皇の志士を襲撃)、近江屋(龍馬が暗殺された)などが、とっくの昔に取り壊されているのに寺田屋はきれいでした。
もちろん、メインテナンスはしっかりしていたと思いますが、150年経っているわりには新しい感じがしていました。
1973年12月、アメリカに行く前に京都の霊山護国神社にある龍馬の墓に「これから行ってきます」と挨拶に行きました。
(隣には一緒に襲われた中岡慎太郎の墓があります。)
帰国して15年経ちますが、行こう行こうと思いながらまだ帰国の挨拶に行っていないので、いつも気になっています。
写真は桂浜に建つ龍馬像(1969年頃行った時に撮ったもの)