ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

72、ディリープラザ(ケネディ大統領暗殺 その2)

2007年11月22日 | Weblog
大統領が乗っていた車は1961年型のリンカーン・コンチネンタでオープントップに改造されたリムジンでした。
同乗者は妻のジャクリーン・ケネディ、テキサス州知事ジョン・コナリーとその妻ネリー、シークレット・サービスのロイ・ケラーマン、シークレット・サービスでドライバーのビル・グリアーです。
大統領を含め6人を乗せたリムジンは午後12:30にヒューストン通りをテキサス教科書倉庫の正面に向ってゆっくり接近し、左に120度方向を変えエルム通りに入っていきました。
リムジンが教科書倉庫を通過した後、およそ6~9秒の間に大統領は狙撃されました。
リムジンの時速は9~13マイル(時速14~20キロ)で、エルム通りに入って30~40メートル行ったところです。

当初の予定ではメイン通りを直進し、ディリー広場の中央を通って陸橋の下を潜り、ステモンズ・フリーウエーに入る予定でした。
そこから昼食会会場であるダラストレードセンター(商品館)までは5分たらずで着くはずでした。
このコースの方が見通しも良く、警備上も安全で、多くの人の声援にこたえることができます。
そもそもこのパレードの目的は翌年に控えた大統領選の遊説のためです。
Main通りを挟んで左右に広がるディリープラザでは多くの人がパレードを見ていました。
この方が遊説という本来の目的を果たすには効果的です。
エルム通りの北側にはほとんど人はいませんでした。
それが直前になって変更されたのは、何等かの目的があったとしか考えられません。
事件前日のダラス・ディリー・モーニング紙には“パレードのコースはメイン通りを直進する”と書かれていました。
これは当日の朝まで新聞社もコースの変更を知らなかったことになります。
ディリー広場はパレードも終了間近で、ラジオやテレビは暗殺現場を中継していませんでした。
広場を過ぎればパレードは終わりです。
ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディ大統領の到着を待っていました。

しかし暗殺現場を映していた8mmフィルムがありました。
後にザプルーダー・フィルムとして知られることになったこのフィルムは、アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーによって撮影されたものです。
26.6秒間、486コマのこのフィルムはケネディー大統領が狙撃された瞬間を見事にとらえていました。
多くの研究家が必ず研究し参考にするフィルムです。
これは暗殺の瞬間を映す歴史的フィルムであり資料でもあります。
ケネディー大統領暗殺事件の研究には必要不可欠のこのフィルムは一度没収されましたが現在は一般に公開されています。
映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)やインターネットなどで容易に見ることができます。

大統領の頭部に致命傷を与えた一撃によって、頭部が「後方」に激しくのけぞっている瞬間がはっきり映っています。
これは大統領が「前方から」撃たれたことを示しています。
そこには大統領の右こめかみから鮮血が飛び散る様子も映っています。
直後に大統領夫人が「後方に」目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛に引き戻されている映像があります。
夫人はその行動を「後方に」吹き飛んだ大統領の脳の断片を拾うために這い出た、と言っています。
このフィルムはFBIに没収され、返却された時には「後方へ」のけぞった映像の部分のコマが入れ替えられ、前方へ倒れたように見えるよう手が入れられていました。
後にFBIはフィルムを改変したことを認めています。

ディリープラザで大統領暗殺の瞬間を目撃した人達の多くがグラシーノールを狙撃場所だと証言しています。
マリリン・ウイリス(暗殺の瞬間を目撃した老婦人)の証言
「銃弾は右の前方からきたように思います。弾は大統領の頭に命中し、頭は後ろに倒れて脳味噌が後頭部から飛び出しました。それは恐ろしい瞬間でした」

ベバリー・オリバーの証言
「実際の弾がいくつなのかは分からないけど、弾がどこから飛んできたのかは分かります。(右の丘を指さして)あの棒杭の近くの柵のあたり、階段の向こうの柵のあたりで、そこに人影と煙が見えました。
大統領を殺した犯人は、あの柵の辺りにいた人だと信じています。」

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