親父達の遠足
以前勤めていた会社で勤務地・勤務先・年齢がバラバラでリタイアした親父達が月一回集まって都内・近郊を歩いています。
9回目は10月25日に世田谷区豪徳寺から三軒茶屋までの世田谷線沿線を歩きました。
小田急線豪徳寺駅に午前8時30分に今回の参加者4名が集合して古刹「豪徳寺」を目指して商店街、住宅街を歩くこと20分程で到着
大谿山豪徳寺
文明12年(1480)南北朝時代、足利氏の同族の世田谷城主吉良政忠が叔母の菩提を弔う為に臨済宗弘徳院として建立したと言われます、徳川三代将軍家光の時代の寛永10年(1633)に幕府からこの地が彦根藩に与えられ、時の藩主井伊直孝により井伊家の江戸における菩提寺として寺号が豪徳寺と改号されました。
寺伝によると井伊直孝が雷雨にあった際に、猫によって門内に招き入れられて和尚の法話を聞くことが出来た事を喜び、以降、豪徳寺は「招福猫児」と称し、招猫観音を祀る「招猫殿」を置かれ、招猫殿横には願いがかなったお礼としていた招福猫児が奉納される様になったと言われます。
杉の大木が両側に並ぶ参道
山門 額には「碧雲関」とあります
仏殿
仏殿正面に「弐世佛」の額が掲げられていた 延宝7年(1679)に鋳造された梵鐘
平成8年に再建された三重塔
昭和42年に再建された本堂 庫裏
招福殿(まねき猫)
願い事を祈念した人が置いてく「招き猫」、特大・大・中・小・極小とありました
豪徳寺は井伊家の菩提寺です 彦根藩15代藩主井伊直弼の墓(幕末期の大老、桜田門外の変で暗殺された)
豪徳寺から徒歩5分で着いた吉良氏の居城跡、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原・北条氏攻め・陥落により廃城
世田谷代官屋敷
江戸期中期以降、徳川幕府直轄領が占める江戸において唯一の大名(彦根)領であった世田谷20ケ村(2,300石)の代官であった大庭家の屋敷跡。
天正6年(1578)、この地を支配していた小田原城主北条氏政が楽市を開いたのが始まりと言われる「世田谷ボロ市」、毎年12月15、16日と1月15、16日の4日開催されています。
例年多くの人を集める「ボロ市」、代官屋敷を中心に数百店の露店が並ぶ東京の風物詩、東急世田谷線上町駅下車
昭和42年に復元された大庭家の主屋
主屋の内部
代官屋敷には公事を扱う白洲もありました
屋敷内の井戸 屋敷内にあった大山往還の道標、往還は江戸時代に大山を目指す多くの人が通った道
代官屋敷内にあった世田谷区の資料館に置かれた「ボロ市」のジオラマ
都内では都電荒川線と共に路面電車として貴重な存在の東急世田谷線、三軒茶屋―下高井戸間をけなげに走る
松陰神社
江戸時代の末期、長州藩萩において私塾を開き、幕末に多くの志士を生み出した「松下村塾」を開いた吉田松陰を祀る。
幕末期の思想家で長州藩において高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文等門下生の精神的な支柱であったが、一方で倒幕論者でもあった、安政6年(1859)に幕府によって「安政の大獄」に連座したとして小伝馬町の牢で死刑となった、文久3年(1863)に小塚原・回向院にあった松陰の墓が高杉晋作らの門人によって長州藩の別邸があったこの地に改葬され、明治15年(1882)に墓所脇に松陰を祖とする神社が創建され現在に至る。
門下生の中から幕末―明治政府を主導した人材を多く輩出している。
松下村塾の門人が寄進した石灯篭32基が並んでいる
本殿
萩の松下村塾を模した建物が神社脇に造られている
吉田松陰像
今回の参加者4名
吉田松陰の墓所
江戸時代、大山往還(R246)が分岐するこの地にあった3軒の茶屋に由来するのが「三軒茶屋」と言う地名だそうです
キャロットタワー1階が世田谷線の始発駅
キャロットタワー
三軒茶屋のランドマーク、26階の展望スペースからは都心部や神奈川県方面が一望出来、空気が澄んだ日は富士山が見えるが、この日は見えず。
東名高速につながる首都高3号線
キャロットタワーから見た世田谷線電車
高層ビルを建築中の渋谷
港区方面
新宿御苑の奥に新宿副都心
中央の丸いビルは六本木ヒルズ
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