素盞雄神社(すさのおじんじゃ)
http://www.susanoo.or.jp/tennosai/index.html
荒川区南千住に鎮座する素盞雄大神と飛鳥大神祭神とする近隣61町の総鎮守、地元では天王様と呼ばれています。
延暦14年(795)に創建された神社で古くから厄病除けで知られ安政5年(1858)に江戸でコレラが流行した際は厄除守りを求めて参詣者が群がったと伝えられています。
祭神は降臨した瑞光石。
神社は日光街道に面しています
本殿 樹齢500年と言われる大銀杏の樹
境内に末社が3社ありました 神社正面
庚申塔
文政12年(1829)年に編纂された「江戸名所図会」にも小塚原天王社・飛鳥社として描かれています。
神社内には江戸時代の庚申塔三基現存しています、庚申とは一年に6回巡ってくる干支の「庚申(かのえさる)」のことで、この日には人の体内にいる<三尸の虫>が眠っている間にその人の罪を天帝に告げてしまうために、徹夜して夜を過ごす庚申待の習俗が行われ、人々は講を形成して寄り合い、三年間で計18回の庚申待を行うと諸願成就するといわれ、その記念に建立されたのが庚申塔です。
延宝6年(1678)に建てられた庚申塔には、人の罪を<見ざる・言わざる・聞かざる>として三匹の猿と、早く朝が来るようにと二羽の鶏が刻まれています。
江戸名所図に描かれた「小塚原天王宮・飛鳥社」
小塚原回向院
浄土宗の寺院、回向院のあたりは、江戸時代には小塚原と言われ、品川の鈴ヶ森とともに罪人の処刑場があった場所です。
寛文7年(1667)に本所の回向院の住職が牢死者や刑死者等を供養するために、この地に寺院(当初は常行堂と称し、後に小塚原回向院に改称)を開創しました。
隣接する延命寺境内には無縁となった人々を供養するために建てられた首切地蔵が建てられていました。
なお回向院には安政の大獄で獄死した吉田松陰や橋本左内墓所がありました、吉田松陰は小伝馬町牢で獄死後、この地に葬られましたが、文久3年(1863)に高杉晋作、伊藤博文ら攘夷派の志士達によって、毛利家別邸のあった世田谷区の松陰神社に改葬されています。
また、杉田玄白や前野良沢らがここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「解体新書」を翻訳したと言われています。これを記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。
「解体新書」を書いた杉田玄白、前野良沢達は、この地で解剖を行った
吉田松陰の墓所 橋本左内墓所 鼠小僧次郎吉の墓所もありました
回向院そばにある延命寺には寛保元年(1741)に建立された首切地蔵がありました