2010年2月21日(日曜日)
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そしてコメントをお寄せくださったみなさま
ありがとうございます。
こころより感謝しております。
コメントへの返信が滞っております事に関しては
大変心苦しく思っております。
もうしばらくのご猶予をお願いいたします。
さて、今日の中日新聞の記事は
杉原千畝さんの「命のビザ」にまつわる感動的なお話でした。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2010022102000127.html
「杉原ビザ」で助かったユダヤ難民の顔写真発見
元JTB職員の遺品から
大迫さんの遺品にあったユダヤ難民7人のポートレート
第2次世界大戦中、外交官の故杉原千畝(ちうね)氏が
発給した「命のビザ」を手にナチス・ドイツ支配下の
欧州を脱出したユダヤ難民7人の顔写真が、
元JTB職員の遺品から発見された。
元職員は当時、難民を旧ソ連から福井県敦賀市に運ぶ
連絡船に乗務。
裏書きなどから、逃避行を手助けしたことへの
感謝のしるしに贈ったらしい。
在日本イスラエル大使館は、写真の難民の
消息などについて調査を始めた。
写真は男性1人、女性6人。
千葉県市川市に住んでいた大迫辰雄さん
(2003年、86歳で死去)のアルバムにあった。
大迫さんは入社2年目の1940年、
旧ソ連・ウラジオストク-敦賀間の輸送船「天草丸」
(2,345トン)の乗組員に配属された。
当時、JTBは米国のユダヤ人協会の依頼で、
シベリア鉄道で逃れてきたユダヤ難民に、
敦賀への連絡船をあっせん。
40年9月~41年6月に約1万5000人を
輸送したといい、多くが杉原氏の
「命のビザ」を手にしていたとみられる。
手記などによると、大迫さんは、
天草丸で片道2泊3日の航路を二十数回、往復。
出航前・下船後の手続きや乗客の世話などを担った。
ユダヤ難民の様子を「何となく元気なく、
中にはうつろな目をした人もおり」と書いている。
大迫さんの死後、遺品にあった難民の写真に
関心を寄せたのが、元部下で国際観光振興機構の元職員、
北出明さん(65)=東京都中野区。
現在はフリーライターで、難民の消息をたどろうと
遺族の了解を得てイスラエル大使館に照会。
同大使館は、本国の「ヤド・バシェム」
(ホロコースト記念館)などを通じて、
7人の名前や家族の所在などを調査している。
7枚の写真にはポーランド語やブルガリア語などの裏書きがある。
同大使館によると、「すてきな日本人へ」
「私を覚えていて」など、大迫さんあてのメッセージだという。
ユダヤ難民女性の写真の裏書き。
「すてきな日本人へ、私の思い出」という意味の
ポーランド語とみられる
調査を担当しているミハル・タル1等書記官(38)は
「写真を見て感動した。
この人々がホロコーストから、
どのように日本へ逃れたか知りたい」と話す。
北出さんは「大迫さんは誠実な人柄だったので、
難民を親身に世話したのだろう。
70年も昔のことで難しいが、写真の人を捜し出せれば、
大迫さんを覚えているか尋ねたい。
杉原氏の偉業を陰で支えた大迫さんを紹介したい」と話している。
【杉原ビザ】
第2次世界大戦中の1939~40年に
在リトアニア日本領事代理を務めた元外交官、
杉原千畝氏(1900~86年、
岐阜県八百津町出身)が、ナチス・ドイツの迫害から
逃れようと領事館に押し寄せたユダヤ難民6000人以上に、
外務省の訓令を無視して大量発給した日本通過ビザ。
難民たちはこのビザを手にシベリア鉄道経由で来日、
北米などに逃れた。
戦後、杉原氏は外務省を事実上、解雇された。
イスラエル政府は85年、杉原氏に
「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を贈った。
そもそもユダヤ人救済は当時の日本政府の正式な方針でした。詳しくは自分で調べて下さい。