2010年132冊目 12月11冊目
『海の祭礼』 文藝春秋 ハードカバー 単行本
吉村 昭 (著)
昭和61年10月25日 第一刷
昭和62年 2月25日 第四刷
全381頁
定価1300円
内容(「BOOK」データベースより)
ペリー来航五年前、鎖国中の日本に憧れたアメリカ人青年ラナルド・マクドナルドはボートで単身利尻島に上陸する。長崎の座敷牢に収容された彼から本物の英語を学んだ長崎通詞・森山栄之助は、開国を迫る諸外国との交渉のほぼ全てに関わっていく。彼らの交流を通し、開国に至る日本を描きだす長編歴史小説。
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参考文献
江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』弦書房、2008年
松尾龍之介著『長崎蘭学の巨人』弦書房、2007年
手塚治虫『陽だまりの樹』 脇役ではあるが序盤で度々登場する
森山栄之助 wiki 江戸時代に活躍した通詞
ラナルド・マクドナルド wiki
(Ranald MacDonald, 1824年- 1894年)アメリカ人。日本初のネイティブスピーカーの英語教師。
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ペリーの黒船来航についても詳しく語られている。
当時奄美の人たちも目撃したかもしれない黒船について、関連のある部分を抜き出し、まとめてみた。
P274アメリカ東部のノーフォーク港で石炭を補給した「ミシシッピー号」は、1852年11月24日、単艦で出港した。
P276
ペリーは、日本に赴く前に二つの計画を成功させておきたい、と考えていた。それは、琉球と
小笠原諸島の確保であった。
カリフォルニアのサンフランシスコと上海間を寄港日を入れても三十日ほどで違することができるからであった。
ついで琉球は、太平洋航路の寄港地としての意味があると同時に、軍事的に重要な地である、と考えた。
ペリーは、捕鯨船を主としたアメリカ船が入ることのできる良港を日本側に要求するが、それ
を日本側が拒否した場合、一歩退いて琉球を占領すべきだ、と判断した。
琉球は、薩摩藩の圧制にあえいでいて、その圧力から解放させることを約束し住民を温かく遇せば、必ずアメリカの保護下に入るだろう、と信じた。琉球に強力な基地をもうけ、そこを根拠地にして日本との交渉をつつければ、日本側もまちがいなく屈服すると考えたのである。
上海を経て、「サスケハナ号」に乗り、「ミシシッピー号」「サプライ号」をひきいた艦隊は、5月24日(日本暦4月19日)に、琉球の那覇港に入る。
小笠原諸島調査のあと再び那覇にもどり、P279調査隊は、琉球がまったくの無防備であることを確認し、また、高官たちもアメリカ艦隊に悪感情をももっていないこともあきらかになった。
そして、いよいよ日本に向かう。行き先は長崎にあらず。
江戸湾であるとペリーは決めていた。
7月2日(日本暦5月26日)早朝、黒煙を吐きながら那覇港を出港した。
P280「サスケハナ号」と「ミシシッピー号」は、「サラトガ号」「プリマス号」をそれそれ曳航して進みはじめた。琉球の北端に出ると、強い東風が吹きつけてきた。艦隊は、東北に針路をさだめた。
翌日、左舷方向に島影がつらなっているのが望見された。ペリーは、シーボルトが日本から持ち出した海図と照合し、それがきわめて正確であるのを知った。奄美諸島の大島が近づき、やがて後方に没した。むし暑く、海はおだやかだった。
那覇港を出てから三日目は、アメリカの独立祭の日にあたっていた。
(1853年7月8日)嘉永6年6月3日八つ半(午前3時半)江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦をはじめて目撃したのは、下田の20キロ沖で夜の漁をしていた漁師だった。
黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国の海軍所属の東インド艦隊艦船が、日本の江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航した事件。wikipedia