愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

憲法否定の読売の道徳教育推進社説に大喝!憲法教育こそ道徳教育の原点だろう!

2014-08-28 | 教育勅語

憲法を語らない道徳教育論の腹の中は何か!浮き彫りに!

今日の読売の社説の酷さに呆れました。怒りが噴出しました。この新聞は産経と同様に日本のガンですね。敢えてハッキリ言っておきます。それほど酷い!しかし、そんな感情をぶつけていても仕方ありません。そこで冷静に検証してみることにしました。愛国者の邪論の「道徳」観、「道徳教育」論については、この間たくさん記事を書いてきましたので、その記事の復習ということになりますが、今回は、この読売の記事を読んだことを踏まえてのものですので、少しずつ発展させていることになりますので、ご理解の程、よろしくお願い申し上げます。

道徳教育の最大のポイントは日本国憲法こそが「道徳」を体現しているということです。このことをまず最初に強調しておきます。以下ご覧ください。
安倍政権の「教育勅語道徳教育」に大喝!日本国憲法に基づく新「道徳教育」論の徹底化こそがいじめを解決! 2013-03-18 09:25:17 | 日記
http://blog.goo.ne.jp/aikokusyanozyaron/d/20130318

道徳教育教科化に教育勅語復活を企図煽動の産経!侵略戦争正当化・真実隠蔽・教唆煽動罪でレッドカード!  2014-04-12 10:09:36 | 教育勅語
http://blog.goo.ne.jp/aikokusyanozyaron/e/42cfa38e321f6c26d3d3ed68e1d0d008

日本における道徳教育観を克服するために何を原点とするか!

それと、「道徳」というと、戦前の「修身」を連想させ、感情的に忌避する世論・ムードがあります。また一方では、明確に戦前の「教育勅語」の復活を目指す「教育再生会議」派の意図があります。この思想の根源には儒教思想があります。同時に皇国史観です。この思想については、たくさんのスリカエがありますが、このことについては、すでにたくさん記事にしてきました。太陽信仰を捻じ曲げた「日の丸」信仰と長寿を祝う「君が代」信仰のスリカエ、教育勅語の徳目に観るスリカエなど、権力者のネライを明らかにしてきましたが、そうしたゴマカシの上に「道徳」が語られていることを、まずもって強調しておかなければなりません。

またそれらとは一致していないにもかかわらず多くの「接点」をもっている「古風な」「道徳」観をこころのどこかに残している国民には、自民党などの「道徳」観に賛同する「風潮」もあり、自民党や安倍首相は、こうした「風潮」「世論」に依拠して勝手なことを言っているのです。

以上、大まかな「世論」「風潮」を概観しながら、本来の「道徳」観、近代民主主義革命も成功に導いた人権思想を「道徳」として位置付けて、検証してみたいと思います。

1.「将来を担う子供たちが、社会のルールを学び、思いやりの心を培う意義は大きい」論について
この言葉は、安倍首相にこそ、言わなければならないものです。詳しくは、ずっと言ってきたことですから。これにとどめておきます。

2.「学校でのいじめが深刻さを増していること」論について
何故学校でいじめが深刻になっているか、いじめは学校だけかなどを踏まえる必要があるのではないかということです。国家による国民いじめはないのか、その点を曖昧にしているというべきです。具体的には、労働者いじめ、高齢者いじめ、子どもの貧困、虐待など、学校だけの問題でないことは、この間のニュースで明らかです。

3.「問題は授業の質をいかに向上させるかだ。教師が教科書を読み上げるだけの授業では、子供たちの心には響くまい」論について
学校現場の授業が「教科書を読み上げるだけの授業」かどうかということです。あまりに乱暴な手口です。読売は読者に何を煽動しようとしているのでしょうか。「授業の質」の向上についても失礼な話です。質が悪いということを前提にしているのです。百歩譲って、質が悪いとしてみると、何故質が悪いのは、採用試験を経て合格した教師の質が悪いということは、何を意味しているか、です。
そうではなく、すでに明らかにされたように国際社会において、日本の教師の多忙化の原因解明とその対策にこそ力を入れなければならないのではないでしょう。

4.「いじめやトラブルの場面を設定し、子供たちに役割を割り振って、とるべき行動を考えさせる。一つの課題を徹底的に討論させる」論について
こうした手法を現場の教育に求めてきたでしょうか。そうではないでしょう。文部科学省は権力的に教師の人権をないがしろにして、権利を奪ってきたのではないのか、そのことを検証すべきです。「そうした工夫の必要性を報告案が指摘したのはうなずける」というのであれば、読む入りは現場の教師の意見をもっと調査すべきです。そして教師の意向を尊重した教育行政の実現に向かった社説を書くべきです。

5.「大学の教員養成課程では道徳に関する講義の時間が少なく、指導方法に自信を持てない教師が多いからだ。道徳の授業は、児童・生徒と身近に接する学級担任が担当する。担任任せにして、独り善がりの授業が行われるような事態を招いてはならない。各校の校長には、責任ある対応が求められる」論について
そもそも大学の道徳教育論に容喙することなど、おこがましいと言わなければなりません。そもそもこれは、大学の自治と学問の自由に属する問題です。大学における教師養成がどのようなものであるのか、それは大学に任せるべき問題ですが、この間の政府・文部科学省行政は、大学の法人化や大学の運営に容喙する法律を強制し大学の自治と学問の自由をカネで奪うなど、たくさんの干渉を行ってきました。産経や読売なども、同様の好意を行ってきました。勿論大学が外部の意見を排除して運営して良いなどと言っているのではありません。大学の自治とか公文研究は、常に公開の望都で、自主的民主的に行われるべきものであることは言うまでもありません。しかし、この間の容喙はあまりにも酷いものであり、その容喙の結果、どのような事態が生じているか、それを観れば、これまでの容喙が自らの容喙好意と行政の破たんを示していることは明白です。したがって、まずもってそのことを確認すべきです。

しかも、子どもの人格を育てるための本来の憲法学習と旧教育基本法にもとづく教育が徹底されていたのであれば、「道徳教育」など。本来は不必要なのです。しかし、こうした教育と授業は徹底して排除されてきたことは、相も変わらずの「担任任せ」論と「各校の校長には、責任ある対応が求められる」論を対立させていることに象徴的に示されているのです。すなわち教育委員会と校長権限を強化し、一人一人の教師の自由な発想と研究を妨害し、職場の総意を確認する職員会議を単なる伝達機関として形骸化し職場の民主主義を抑圧してきたことを踏まえれば、その破綻ぶりが浮き彫りになるのです。そうではなく、一人ひとりの教師が、職場の中で孤立するのではなく、他の教師との交流と連帯,そして校長を含めた学校ぐるみ、さらに言えば地域との連携を励ますものでなければならないのではないでしょうか。

6.「教科書検定基準と、子供の評価方法の検討だ。読み応えのある内容にするため、民間の教科書会社の創意工夫を生かすのは大事だが、政治的中立性など記述のバランスに目配りした基準作りは欠かせない」論について
憲法を基準にしていない教科書を奨励しておいて「政治的中立性」を云々するのは極めて「政治的だ」ということです。読売や産経などが主張する「政治的中立」とは、「憲法を使え」という意見を排除するための思想と論理と言葉であることは、この間の事例をみれば明白です。自分たちこそが「政治的中立」の代表者であるかのように振る舞っているのは、全くケシカラン話です。

では、それは何故か。それは、この国の最高法規である日本国憲法こそが最大の「政治的中立」を示した「ものさし」だからです。ところが、今や全国各地で「憲法擁護」を掲げただけで「政治的中立が損なわれる」かのような思想と論理が語られ、会場使用などができなくなるなどの「憲法破壊の暴挙」がまかりとおるようになってきたのです。こうした「風潮」は、読売や産経が振りまいていると言われても仕方のないことです。こうしたことを踏まえると、読売の「政治的中立性など記述のバランスに目配りした基準作り」が何を言おうとしているか明瞭です。

7.「将来を担う子供たちが、社会のルールを学び、思いやりの心を培う」ためには「特定の価値観の押しつけにつながる」思想、すなわち戦前の教育勅語に示された「道徳」観ではなく、憲法9条と憲法前文に示された人間、民族、そして国家を対等平等に捉えた思想に基づく新しい「道徳」観を再確認し、そのことを踏まえて、さらに国民的議論に付しながら、子どもの心に「一つの課題を徹底的に討論させる」「風潮」を作り上げていくことが大切です。教育の目的は、旧教育基本法に明記されているように子どもの人格を完成させることで、それは子どもの自主的な営みなのです。それを社会が応援すること、このことこそが最大の道徳と言えるのです。そのためにマスコミも行政も政党も学校も教師も一致団結することです。「ものさし」は憲法です。

旧教育基本法http://www.houko.com/00/01/S22/025.HTM

それでは、以下読売とNHKの記事をご覧ください。

読売新聞  道徳の教科化/思いやりの心を培う授業に  2014/8/28 2:00
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140827-OYT1T50144.html
教科化を契機に、道徳教育を充実させることが大切である。
中央教育審議会の専門部会が、小中学校の「道徳の時間」を「特別の教科」とするよう求める報告案を大筋で了承した。検定教科書を導入する一方で、点数による評価はしない新たな教科である。文部科学省は、学習指導要領の改定や検定基準の作成を行った上で、早ければ2018年度からの実施を目指す。現在、道徳は正規の教科でないため、学校によっては、国語や算数・数学の授業に振り替えるなど、軽視するケースも見られる。教科化はこうした状況を改善するのが狙いである。
将来を担う子供たちが、社会のルールを学び、思いやりの心を培う意義は大きい。道徳の教科化には、「特定の価値観の押しつけにつながる」といった批判もあるが、的外れと言うほかない。
報告案は、学校でのいじめが深刻さを増していることを踏まえ、「人間の弱さ」や「困難に立ち向かう強さ」を、取り上げるテーマとして例示した。ネットを利用する際の情報モラルなど、今日的な課題も扱うよう提案している。問題は授業の質をいかに向上させるかだ。教師が教科書を読み上げるだけの授業では、子供たちの心には響くまい。いじめやトラブルの場面を設定し、子供たちに役割を割り振って、とるべき行動を考えさせる。一つの課題を徹底的に討論させる。そうした工夫の必要性を報告案が指摘したのはうなずける。
教師の力量が問われるが、現状は心もとない。大学の教員養成課程では道徳に関する講義の時間が少なく、指導方法に自信を持てない教師が多いからだ道徳の授業は、児童・生徒と身近に接する学級担任が担当する。担任任せにして、独り善がりの授業が行われるような事態を招いてはならない。各校の校長には、責任ある対応が求められる。
今後の焦点は、教科書検定基準と、子供の評価方法の検討だ。読み応えのある内容にするため、民間の教科書会社の創意工夫を生かすのは大事だが、政治的中立性など記述のバランスに目配りした基準作りは欠かせない。内面的資質を育てる道徳には、一般の教科のような点数評価はそぐわない。報告案が示したように、授業に取り組む姿勢や成果を文章で記述する方式が適切だろう。文科省は現場の参考になる具体的な指針を示してもらいたい。2014年08月28日01時30分 Copyright©TheYomiuriShimbun(引用ここまで

NHK 道徳 “検定教科書導入し記述式で評価を”  8月25日 14時57分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140825/k10014058041000.html
 小中学校で行われている道徳を「特別の教科」とすることについて、中教審=中央教育審議会は、検定教科書を導入し、数値ではなく記述式で評価するという意見をまとめました。
道徳の授業は現在、小中学校で週に1回程度、教科とは別の枠組みで行われていますが、いじめが相次いだことなどをきっかけに道徳教育の充実が検討されるようになり、中教審が道徳を「特別の教科」とすることについて議論してきました。
25日開かれた専門部会では、充実した教材が必要だとして、検定教科書を導入することや、数値による評価はなじまないとして、それぞれの児童生徒の成長ぶりを記述式で評価することなど、意見をまとめました出席した委員からは「教員が恣意的(しいてき)に評価しないよう、評価の基準を作っていくべきだ」といった指摘が出ていました。
中教審の専門部会は今後、広く一般からも意見を募ったうえで、最終的な報告をまとめることにしていて、文部科学省は早ければ平成30年度から道徳を「特別の教科」にすることを目指しています。(引用ここまで


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