エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

コミュニケーションの相手にしなくても、花咲き、実を結ぶ不思議

2015-09-25 06:43:14 | エリクソンの発達臨床心理

 ルターの発達ぶりには、驚かされます。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.229の10行目途中から。

 

 

 

 

 

1520年7月10日、ルターがシュパラティンに手紙を書いていることを言うだけで十分でしょう。「私はすでに一石を投じたわけです。もはや妥協の余地はありません。」と。数日後、ローマ教皇は、ルターをコミュニケーションの相手にしないこと、すなわち、破門するぞと脅す勅書を出しました。この最後通牒をもはや避けられないと知って、ルターは、ウィクリフやフスも以前に攻め立てた、いろんな根本原理を攻撃しました。その根本原理とは、罪の告白をするサクラメントと洗礼のサクラメントと、とどのつまり、パンとブドウ酒を共に口にするサクラメントそのものです。こういった神学に関するルターの見立ては、ルター初期の聖書講義を応用して展開したものでしたが、1520年頃になると、ルターは全く新しい役割を果たすに至りました。すなわち、ドイツの預言者、新しい価値を示す指導者が、ルターの新しい役割になりました。

 

 

 

 

 

 ヨーロッパにも村八分ってあったんですね。今の?言葉で言えば、シカトでしょうか? なるべく話をしないで置くこと、話をするのが嫌だから、遠巻きにして避けること。

 そんなことをしてても、新しい価値を押しとどめること等できない訳ですね。言葉にならない、多くの人の願いを、ハッキリと示す価値が、その新しい価値だからです。

 中世ヨーロッパでも、今の日本でも、新しい価値は、最初シカトされても、ムクムクと芽を出し、双葉になり、やがて、花を咲かせて、立派な実をつけることになります。愉しみですね。

 

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自分の感じに基づいて行動ができない場合

2015-09-25 05:33:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 自分を笑うユーモアセンスは、真の自由の始めです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p77の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 でもね、こういったことすべてが、遊びの時期のinhibition インヒビション、「やり取りの中で、自分の気持ちを出しちゃダメな感じ」がinitiative イニシアティブ、「やり取りの中で、自分の感じに基づいて、行動を始めてもいい感じ」の対になる、逆の感じです。このinhibition インヒビション、「やり取りの中で、自分の気持ちを出しちゃダメな感じ」は、とても≪陽気で楽しい≫し、想像力豊かな、私どもの人間にとって、必要な対なんですね。しかしながら、このinhibition インヒビション、「やり取りの中で、自分の気持ちを出しちゃダメな感じ」は、のちのちの心理神経学的にいろいろある障害の、中核的なビョーキの症状になることも確かなんですね。そのいろんな障害は、ヒステリーその他もろもろ、エディプス期の、折り合いがつかずにいる舞台に根っこがあんですね。

 

 

 

 

 愛着障害の子どもでも、悪さをさんざんするタイプと、静かに「いい子」を演じているタイプがあります。悪さをする方が、inhibition インヒビションじゃないタイプ、静かに「いい子」を演じるタイプが、ここでエリクソンが言うinhibition インヒビションのタイプですね。

 以前に、アメリカの「愛着・トラウマセンター」(The Attachment and Trauma Center of Nebraska)所長のデボラさんが、「愛着障害の子どもを、子どもの頃に治療しないと、大人になってから深刻な問題に直面することになりますよ」と教えてくれたことを、このブログでもご紹介したことがありましたね(子どもの日常生活に、「平和」を!!)。エリクソンは、子どもと誠実に向き合う中から、そのことを半世紀も前からハッキリと捉えていたことになります。

 

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「信者にならない方が良い」という司祭

2015-09-25 03:38:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
熱心ささえあれば、人を大事にする技術は、簡単に身に付きまっせ!
 チャップリンの映画ではないけれども、現代人は人間までも機械の歯車みたいになっちっゃて、「速い方が良い」と言う目で見られがち。クワバラクワバラ! p101の下から4行目から...
 

 今晩は、信頼について考えます。私が一番好きな話題です。遊びと同じくらいに信頼が好きです。

 信頼は、人間のあらゆる発達の根っこにあるものですから、信頼のない人は、何歳になっても、魂は赤ちゃんです、と繰り返しこのブログでも申し上げているところです。アンチエージングする必要がありませんから、「羨ましい」と思う人があるいは、おられるかもしれません。ただし、お肌の話でも、お腹の脂肪の話でもなく、心の話、心の中にある態度のお話である点に注意が必要です。

 浄土真宗やら、臨済宗やら、カトリックやら、ルター派やら、あるいは、私ども無教会の信徒、という場合がありますね。布教、宣教、伝道など、信徒拡大の呼び名がいろいろありますよね。それぞれの立場の人が、その信徒獲得の務めをしているはずですね。今晩のタイトル「信者にならない方が良い」というのは、その信徒拡大の働きとは、一見逆のことを言っているとは思いませんか?

 私はこの言葉に触れて、笑ってしまいましたが、それは、冷笑でも、嘲笑でもなく、とっても愉快な笑いです。正確には「信者みたいなもん、ならん方が良いよ」という言葉です。本田哲郎さんの言葉です。

 何故だと思いますか?

 それは、「信者」になると、仲間を見下げるようになるからだと言います。そうだろうと思います。文字通り、その日暮らしをしている釜ヶ崎の人でさえ、「信者」になると、一緒にいる同じ立場の人を「見下げるようになる」訳ですね。それでは、信頼とは真逆の態度になってしまう。「人間を上下2つに分けるウソ」が、いかに猛烈に、人間の無意識に巣食っているかが分かるエピソードだと、私は考えます。ですから、本田哲郎さんは、仲間を見下すようになる「信者」にはならん方が良い、という訳ですね。

 じゃぁ、釜ヶ崎以外ではどうなんでしょう。「信者になっても大丈夫」と言えんでしょうか? 事情は同じです。下手に「信者」にならない方が良い。私もいろんな方と関わる中で、他の宗教のことはよく分かりませんが、「クリスチャン」と言われる一部に、釜ヶ崎の「信者」と同じ匂いのする人がいるんですね。その人だって、「良いことしてます」とは言わないかもしれませんけれども、「偽善の臭い」ですね。心理臨床家なので、言葉にならない言葉を捉えるのが、習慣になってるせいなのかもしれません。1つ特色を挙げると、素直じゃないってこと。

 本田哲郎さんが教えて下さるように、ヘビのように感性鋭く、ハトのように単刀直入にハッキリ言葉にしながら、生きたいものですね。

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