エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

遊びが大人になると生まれる子ども:日常生活を礼拝に パリコレ

2013-05-31 03:36:46 | エリクソンの発達臨床心理

 現状肯定にも、2つの側面があること、伝統の場でも、楽しい感じのある想像力と直感によって、新たに精神的連帯の場に変換することに、現状肯定が役立つこともあれば、現状肯定に開き直って、現状で「勝つ」ことにこだわると、本物の喜びに触れるどころか、偽物の喜びも得られず、疲れ切ってしまうこと。エリクソンは、とても大事なことを教えてくれました。
 今日は、遊びの発達と日常生活を礼拝にすることについてです。






 こういった広範囲の現象において、最も重要であると思われるのは、楽しく想像力を巡らせることと現実そのもののリアリティが、お互いに自分の子どもとして認め合うことですし、したがって、現実そのものの確かさと遊びそのものの確かさも、お互いに自分の子どもであると認め合うことですこの奥義(理解しがたい英知)そのもの(そのことを理解するためには、様々な学問分野が一致協力して努力することが求められます)さえあれば、遊びが一人の人の中で発達することと、遊びの子ども、すなわち、生涯を通じて日常生活を礼拝にし続けることを、私が別の視点から見ることが正しかったと認めて頂けるように思います。





 この凝縮した記述は、もう少し詳しく申し上げる必要があるかもしれませんね。「楽しく想像力を巡らすことと現実そのもののリアリティがお互いに自分の子どもとして認め合うこと」とはどういうことなのでしょうか? それは、「楽しく想像力を働かせていると、現実そのものにリアリティが生じてくるし、逆に、現実そのものにリアリティがあると、楽しい想像力が働いてくる」ということです。また、「現実そのものの確かさと遊びそのものの確かさも、お互いに自分の子どもであると認め合うこと」はどういうことでしょうか? それは、「現実そのものに確かな手応え・実感があれば、その現実の中には、自ら遊びが生じてくるし、その遊びそのものにも確かな手応え・実感が生じてくる、逆に、現実(仕事や勉強)の中に実際遊びがあり(実際には、仕事や勉強には、遊びがないことの方が、はるかに多い)、その遊びそのものに確かな手応え・実感があれば、自ら、現実そのものにも確かな手応え・実感も生じてくる」ということでしょう。しかし、これは理解しがたい英知、奥義なので、それを理解するためには、単に心理学の知識があれば必要というわけではなく、様々な学問分野にわたる学際的な理解が必要であるともいうわけです。

 遊びが世界を動かす

 不思議です。しかし、先日、NHKの「仕事ハッケン伝」で平山あやさんがパリコレを取材しているときに、女優さんのティルダ・スウィントンさんが、同じことを言っていたのに、ビィビィッとしましたね。あっ、本当にクリエイティブなことをしている人って、おんなじこと感じてるんだなってね

 “楽しい”ということの深い知恵とはまさにこれです。以前、このブログで「『本当に楽しい』という恵み  松本幸四郎さん」というタイトルでお話しした「本当に楽しい」の英知のことです。

 今日はこのへんで失礼いたします。

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生きている実感、生きる手応え、その2種類

2013-05-30 00:45:53 | エリクソンの発達臨床心理
 若者の良心がマヒするのは、まさに権力(政治的権力だけではありません。親や教員などの大人が権力になることに、注意!)から嗤われる時だとするエリクソンの指摘はとても重要でした。なぜなら、その時からその人は、生きている手応えを感じることが少ないからです。それはもはや、機械の一部と変わらない、といっても過言ではないかもしれませんね。「いちご白書」や「『いちご白書』をもう一度」とちょうど重なるものでした。あるいは、モノと数に死にもの狂いになるかもしれません。
 今日は、既存の「現実」のなかで、生きている実感を見失い、生きる手応えに諦めているとき、それを求めて何をするか、ということが話題に上ります。





 抗議の時代から現状肯定の季節への時代が方向転換した後、近年は、多くの伝統の場が、その場の想像力や雰囲気などから楽しく作り出したものによって、変容してきました。そのように楽しく作り出したものは、長年考えもしなかった精神的連帯を新たにしているように思われます。考えてみていただきたいのですが、伝統的な「コンサート(合意の)」会場で、新種の恍惚とした「人々」が上流階級気取りで従順な聴衆として振る舞うどころでは全くなく、決まった拍子で手を叩き、音楽のリズムに乗ることで初めて、活気づくのです。あるいは、想像してほしいのは、東洋から輸入されたことですが、精神的・肉体的存在として無視してきた資質を、瞑想によって生かす方法論であり、あるいは、伝統的な儀式を、教会生活そのものの中にエキュメニカルなスピリットを再び生み出すために、その場の想像力などで改造することです。より高い妥当性のある、こういった教化法の中に、より質の高い楽しいやり取り、その態度と言葉遣いもあるのです。その楽しいやり取り、その態度と言葉がある時初めて、「人々が遊んでいる無意識裏のゲーム」が明らかになるのです。この「ゲーム」と「遊び」という2つの言葉を使うこと、それは、なじみ深い、上下のある人間関係における「取引」を、大なり小なりバカにして、はっきり示すものです。しかし、勝つためには手段を選ばないことを最も強く擁護する人(性的関心や宗教においても、セラピーや仕事においても)の中には、似て非なるものでも、なにがしかの喜びを得ることに熱心で、しかも、得難い娯楽をしても、疲れ切ってしまうことを隠そうとしない人もいます。薬の影響についてはいまさら言いません。薬は、主体的に生きている実感を得るために、あそび場として、求められることが多いのですが…。




 現状肯定の季節になっても、その伝統的な場が、楽しい感じのある想像力や直観によって、新しい精神的連帯を生み出す場に変換する場合もある。しかし、他方で、現状肯定に開き直って、勝つためには手段を選ばない人は、本物の喜びは知らないけれども、せめて似て非なる喜びでも得たいと熱心に思っても、遊びと思ってやっていることにつかれてしまうこともある。レクリエーションをしても、自分を再創造することはできない。現状肯定にも、そこに、次元を異にするハーモニーをもたらす面と、不協和音しか出ない面と、2種類がある。それを明確に示してくれるのが、エリクソンです。
 今日はここまでにいたします。
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いちご白書:演じる政治が、陽気な抗議に勝る時

2013-05-29 04:01:07 | エリクソンの発達臨床心理
 学童期の演劇的要素が幼児前期の課題である良心を、より人間的なものにするのに役立つ。普通「親替え」と呼ばれる、良心を受容的、寛容にする作業が、演劇的要素を通じて、実践することができる、ということは大きな福音でした。しかし、今日は逆の面です。






 実際、演技をする政治的役割と陽気な抗議は、最近の歴史において、かなり不自然なシナリオの中で、お互いに直面してきました。そのシナリオの中には、革命的な出来事の振りをするものもありました。私がここで考えるのは、学問の世界に身を置く者には忘れがたいことですが、ある種の歴史的陽気さが真正面から政治的事実に直面した時のことです。たとえば、コロンビア大学の革命的学生を取り上げてみましょう。その学生の顔写真が1968年新聞に掲載され、彼は「グレイソン・カークス学長の事務所の椅子を占拠した」とされましたが、実際は「カークス学長の『解放された』タバコを一本吸った」に過ぎなかったのです。その学生は、タイム誌のインタヴューを再度受けた時に、いまは「新しい詩、新しい映画、新しい表現を作ることに没頭しています」が、自分の顔写真が新聞に掲載されたことを「嗤いの劇場」と呼んでいます。
 彼にとっても、終わり良ければ総て良し、なのかもしれません。しかし、世代の記憶は「占拠」のような事件をそうそう簡単に継承するわけがありません。当時、その「占拠」事件は、冬宮殿をボルシェビキが襲撃した事件と歴史的に同等であるとでっち上げられました。もしも、そのような事件がその後すぐに、嗤いの劇場であると思われるようならば、たとえなにがしかの政治的衝撃があったにせよ、若者の行動を一定程度麻痺させてしまう結果にもなりました。それはまるで、配役だけで、オリジナル脚本なしに、満場の舞台が出来上がったものの、結局はちりぢりになってしまったようなものでした。この若い英雄は、本当に詩作の道を見つけたのかもしれません。ほかの人たちは、間違いなく、既存の「現実」にもっと近い配役の中に、自分の生きる場を見つけざるを得ず、意気消沈していました。その既存の「現実」の中で、彼らは生きていることの手応えを特に感じずにいたのです





 今日は昨日の逆でしたね。政治を嗤うことが、市民の良心をより人間的なものにしうることが、昨日は示されました。その意味では、「ふたつよいこと、さてないものよ」が今日もエリクソンによって示されたことになりました。しかし、今日は、市民の抗議が笑いものになった時に、多くの市民は意気消沈し、生きていることの手応え、生きている実感のない場に生きざるを得ない、ということが起こりうることが重要でしょう。そこで麻痺するのは、若者の活動だけではありません。嗤われるとき、嗤われた若者(若者だけではない)の良心も挫け、麻痺してしまうことが何より問題です。それはまさしく「いちご白書」であり、「『いちご白書』をもう一度」なのです。
 今日はここで失礼します。
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政治の愉しみ:嗤い

2013-05-28 03:35:25 | エリクソンの発達臨床心理
 「共に見る」ことのないイメージと現実は、薄っぺら。そこでは、目には見えないこと、すなわち、やさしさ、ぬくもり、よろこび、そして、生命、基本的人権、人間らしい暮らしなどが、必ず疎かになってしまいます。恐ろしいことです。今日は、政治の愉しみが話題になります。





様々な政治的立ち場の対極、ベトナム戦争に反対する立ち場のアメリカ人たちを一瞥するとき、確かに純粋に楽しい要素が、行進やデモにはありましたし、不法なやりすぎと言う重荷を時には権力側に負わせ、多くのアメリカ人の政治的想像力を変革するのに役立ったのは、まさしく自発的な非暴力行動であった、と私どもが信じる十分な根拠がありました。しかしながら、今の文脈では、声高な声を発する少数派が、儀式行為の別の発達の「舞台」、つまり、法廷を、即興喜劇を発表するための劇場に変えてしまう、そのやり方を思い出します。もちろん、嘲りの伝統的なシナリオは、お城の中にも、劇場にも、サーカスにもあります。そこでは、ピエロたちが雇われて、ローブをまとった権力者と統治される無力な者の双方を装い、芸術的に(安全に)嗤うために働くのです。ジョン・レオナードは、「シカゴ・エイト」の裁判(一貫性のないホフマン判事が取り仕切った)を扱った『ホフマンの作り話』という本の書評で、悲劇的な結論を述べました。「シカゴ・エイト」とは、ある党大会で暴動を起こそうとひそかに(心の中で)共謀して、州境を超えたかどで起訴されたグルーブです。被告たちは、それは忘れられないでしょうけれども、その政治的な裁判を一遍の笑劇にしようと試みました。その笑劇を、レオナルドは、現存する劇場や前衛演劇の公演になぞらえています。みんながそのお芝居に巻き込まれます。レオナルドはじっくりと考えます。

しかし、実際、最も重要なのは、目には見えない心の中で、「おまえは、州境を超えることができるぞ」と言っているように感じる律法(良心)でした。みんながその裁判をゲリラ的バカ騒ぎに変えることが出来なければ、私どもはあの律法(良心)を試していたかもしれません。それはまだ六法全書の話かもしれませんが、私どもはその六法全書とジューク集を競わせます





 政治の嗤いの話です。今回のところは、アメリカの当時の時事的なことが話題の中心ですから、分かりにくいところです。「シカゴ・エイト」については、インターネットなどで調べればある程度分かりますので、それを参照していただければと思います。
 「シカゴ・エイト」(シカゴの民主党大会で暴動を共謀したかどで起訴された8人)が、政府によって強権的に画策された政治的裁判を、喜劇にしたことが話題になります。この時事的話題を、幼児前期の良心の形成期、および、学童期の演じる儀式化の時期と結びつけて考えているところが、エリクソンの真骨頂でしょう。エリクソンは、レオナードの書評を引用しつつ、そのことに触れています。権力を嗤いにすることで、学童期の演劇的要素が幼児前期の課題である良心を、より人間的なものにするのに役立つ、そうエリクソンも考えていたとみて、間違いないと思います。しかし、エリクソンはそれだけではありません。非暴力の力を非常に高く評価し、良心の最も良質の(寛容な)形として考えています。今日はそのことには深入りしていませんが、そのうち話題になることでしょう。
 今日はここで失礼します。
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「共に見る」ことのない遠くの現実のイメージ:残るは単純な論理

2013-05-27 05:38:20 | エリクソンの発達臨床心理
 目には見えないことが信じられないと、モノと数で世の中は回っている、と死に物狂いで信じてしまうその死に物狂いの姿は、別にペンタゴン・ペーパーの専売特許ではありません。また、精神科の病棟にある、というのでもありません。むしろ、株や円の示す「モノ」の「数」、その乱高下に一喜一憂する人々、加藤周一が言う「超越」を知らない人々(多くの日本人)にこそ、根源的信頼感を信じることに失敗した、死に物狂いの姿を私は診ます。今日はどんなことをエリクソンは私どもに教えてくれるでしょうか。楽しみです。





 私がこれらのニュース解説者の言葉をここに引用するのは、第一に、彼らが隠喩を用いたからです。その隠喩は、明らかにニュース解説者らの雰囲気と大衆の雰囲気とに意義深いものでした。さらには、その隠喩は、私どもの理論的な目的にも役立ちます。私が引用した批評で明かされた不満は、その後で、北京で一週間、歴史を変えた方法では、解消されずにいます。その不満は、マクルーハンのような最高の流儀に従えば、見事な効果を狙ったテレビ番組から始まります。そのテレビ番組は、世界中の何百万の人々が、自宅のテレビ画面で目撃したけれども、その現場を実際に訪れた、そばにいる人と「共に見た」訳ではありません。地球上で最も人口密度の高い国々の間にある「竹のカーテン」は、感情もあらわに取り払われました。それは、本学の、ジョン・K・フェアバンクが次のように結論するほどです。

遠い現実に対する私どものイメージは、その変化が、現実がどうしても現実そのものを変えていく変化よりも、はるかに速いことから、私どもに残されるのは、単純な(愚かな)論理のオプションです。つまりそれは、私どもは中国に関して今現在バカなのか、それとも、冷戦の間、長年私どもは中国に関してバカだったか、のどちらかです。私どもの同盟国、イギリスとフランスは私どもほどバカではなかったですが。

このテレビ番組は、歴史という名の劇場のことを話すことが、単なる隠喩では決してないこと、それを明らかにする一連の出来事の中で、最も明瞭な、唯一の実例でした。




 ここでは大事なことがサラッと触れているように思います。テレビ番組で知らされるベトナム戦争は、その見ている現場を経験する身近な人と「共に見る」物ではなかったということ、この点が大事です。また、その遠い現実に対するイメージは、現場を近くで「見て知る」人と「共に見る」ことのないイメージであることから、それを目にした者には、単純な論理しか残らない、という点も同様に大事です。私どもは、事実に対するイメージを、「共に見る」ことのないままに持つ時、その「現実」は単純で薄っぺらなものにしか見えなくなるのでしょう。 今日はここまでにします。
   
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