エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

エリクソンの焦点

2015-09-10 08:41:56 | アイデンティティの根源

 

 

 新しい話し言葉で語られる、新たなヴィジョン、何よりもそれが必要な時代です。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.225の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

 ルターが有名になった出来事を、いくつか論じてますが、歴史書や歴史映画が、繰り返し語ってきたことを、私どもはここで繰り返し、お話したいと思えません。あるいはまた、教義上の「ねばならないこと」や、原文を書き換えてることや、口伝えに伝えられているおバカな事件に対して、一貫した歴史的な意味を意味づけたいとも思いません。こういったことは、この若き修道士が、一時、叫び、活字にしたものです。ルターがずっと抱えていた葛藤と、公にしていた指導性の間の関係を十分に価値づけることもできません。私どもが素描できるのは、マルティンが自分を確かにできずにいる危機から、中年の危機に至る道を理解する程度です。

 

 

 

 

 エリクソンは、遠慮がちに筆を進めます。ルターの様々な歴史的な事件にいちいち反応はしません。目的がハッキリしている人ですね。エリクソンという人は。それは、自分を確かにさせる道、に意識が焦点付けされてる訳ですね。そのルターの流儀をハッキリさせたいから、そこに筆を集中させていると考えられますね。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実験は、短期か、一生ものか

2015-09-10 07:14:54 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 role repudiation ロール・レピュディエーション 「役目を果たさないこと」がずっと続くと、個人にとっても、社会にとっても、それはビューキです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p74の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 でもね、自分を確かにさせることが出来るのは、role repudiation ロール・レピュディエーション 「役目を果たさないこと」を何度も経験してはじめてできることでしょ。 特に、手の届きそうなところに、いろんな役割があっても、それが、若者たちが自分を確かにさせることができそうなまとまりにとって、危険な場合は、そうですね。role repudiation ロール・レピュディエーション 「役目を果たさないこと」は、じゃぁ、人が自分を確かにさせることに限界を設けることに役立ちますし、どういう価値に、loyalty ロイヤリティ 「損得を超えて、忠実であること」が良いのか、試したくなります。どういう価値に、loyalty ロイヤリティ 「損得を超えて、忠実であること」が良いのか、試す内に、時期に適った礼拝や儀式をすることによって、その実験が、自分が馴染む価値と仲間を「確かにする」ことになったり、自分が馴染む価値や仲間に変わったりすることがあります。

 

 

 

 

 

 一定の期間、role repudiation ロール・レピュディエーション 「役目を果たさないこと」は、いわゆる、モラトリアムになるんでしょう。いわば、実験期間ですね。それで、≪本当の自分≫にピッタリくる、価値と仲間を選ぶわけですね。

 しかし、内村鑑三がそうしていたように、一端手に知れた価値であっても、それを繰り返し、人生の中で実験してみることは、その価値によって、自分を確かにする度合いを、高めてくれますから、実験は一生もの、と言うのがより確かなのでしょうね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個として尊重される体験 「痛いの、痛いの、飛んでけ~」

2015-09-10 01:35:26 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 


≪私≫の在り処

2014-09-09 10:39:46 | アイデンティティの根源


 

  「個として尊重すること」を、今晩は考えます。

 今さっき、クローズアップ現代(http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3703.html)で、従来「内向き」と思われていた高校生たちが、なかなか本音を語り合えない現状と、話し合いの場さえ整えれてもらえば、本音で語り合える悦びを語る番組を見ました。キャスターの国谷裕子さんが、「個として受け入れられることが大切なんですね」と結びのコメントをしていたのが、大事なことを指摘してくれていると、強く印象に残りました。

 「個として尊重される」って、どういうことでしょうか?

 私は、それは、ノビノビできる、イキイキできる、ってことじゃないのって、至極単純に考えてんですね。問いはむずかしそうなのに、応えが単純すぎで、ゴメンナサイ。でも、単純なことを、丁寧に考えることは、実は非常に困難なのかもしれませんよ。

 「ノビノビできる」、「イキイキできる」って、どういうことでしょうか? 結構マジで考えたら、難しくありませんか?

 私は、1人でいる時と、人といる時と、二通りの「ノビノビ」、二通りの「イキイキ」が、外形的(外から見た時)には、あると考えています。今晩は、人といる時の「ノビノビ」「イキイキ」を考えます。

 小学生と日頃付き合っている心理臨床家(クリニカル・サイコロジスト)ですので、私の眼の前にいる小学生のことをお話して、「ノビノビ」と「イキイキ」を考えますね。でも、クライアントの小学生の個人に関わる所は、デフォルメしてあります。

 ある小学生の女の子。頭も良くて、お行儀も良い。でも、事故でお母さんをすでになくされています。お母さんが死んでいると思っているのか、どこか遠くに行ってしまったと感じているのか、周りの大人たちも分からないでいました。面接してても、はじめは頭の良い、お行儀の良い子を「演じて」いました。こっちも、本音を掴むのが、心が無言で語ることに耳を傾けるのが、仕事ですからね。そりゃぁ、分かりますよ。でもそのことには一切触れずにいますでしょ。すると、だんだん、椅子の上でピョンピョン跳ねたり、逆立ちしたり、寝転んでみたり、課題は後回しにしたりするようになってきます。あぁ、ようやく≪本当の自分≫が出て来たなぁ、って感じ。ですから、こんな時にも「お行儀よくね」「ちゃんとしてね」などと言わずに、むしろ、「逆立ちが上手だね、おじさんはできないけれどなぁ』などとニコニコしています。そんなことをしていると、先日、お母さんの墓参りをする遊びを、プレイセラピーの中で、自発的にしたんですね。そして、自分の母親が亡くなった日のことを詳しく話してくれました。すごいでしょ。自分でも、それが大きな課題であることを、誰から教えられずとも、知ってんですからね。小さな女の子ですが、尊敬に値すると感じますね。そういう語りをしてくれたのも、「どんなことでも、聴きますよ」ということを、ことあるごとに無言でメッセージしてきたからではないか、と私は考えます。そのメッセージがようやく受け入れられたと感じます。

 もう一人、やはり小さな女の子。この子はお母さんがいるけれども、子どもとやり取りするよりも、仕事をしてたいタイプのお母さん。そのお母さんも、そのまたお母さんから、やり取りをしてもらった経験がないので、この女の子を前にして、どうしていいのか分からないんでしょうね。その女の子も、遊びの中で、不意に頭をぶっつけて、大泣き。私は、「それじゃぁ、手当をしなくちゃね」と言って、ぶつけたところに手を当てて、「痛いの、痛いの、飛んでけ~」と大きな声で、おまじない。すると、散々泣いていたのに、いつの間にか、カラカラ笑いだす始末。おまじないが通じたようですね。

 無言のメッセージでも、話し言葉のメッセージでも、それは、実は、「あなたの話を、どんなことでも聴きますよ」ということです。金森俊朗さんが、教室でやってこられたことと、全く同じです。すると、そこは、日常生活の中にあったとしても、特別な空間、特別な時間に、いつの間にか、変わるんですね。人は、この時空を体験する時だけ、「個として尊重されている」という恵みを実感できるんですよ。それは言葉の真実な意味で、ホーリー Holy 「神聖な」時空です。特定の宗教とは、全く関係ありません。むしろ、このホーリーな時空に気付いた宗教家が、それぞれのやり方で、この時空を活用している、と言う方が真実に近いでしょう。

 このホーリーな時空は、「聴く」ことから生じる「対話」があって、初めて成り立つ時空です。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする