エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「共にいる」→「共に見る」→良心(意識)

2014-03-31 06:56:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
「共に見る」ことの不思議!

 前回は、「見ること」が実に奥深い意味を宿していたことを、エリクソンは教えてくれていましたね。幼児前期の翻訳に入る前に、エリクソンが前回教えてくれたことを、私なりにもう少し敷衍して...
 

 昨日、「赤ちゃんの目の前に、お母さんがいること、それが最も大事でしょうね。しかし、日本ではそれが困難な場合が少なくありませんね。それが日本の貧困の始まりです。フロムがここで述べているように、理屈ではないのですね。赤ちゃんの目の前にその子のお母さんがいること、それが最も大事なことなのです。」と申し上げました。なぜそのように言えるのでしょうか?ちょっと断定しすぎじゃないの?

 いえいえ、それはそうでもないんですよ。今の日本でなんでこんなに、ウソとゴマカシが多いのだと思われますでしょうか? それは、お母さんがその子どもと一緒にいることが、ここ数十年とても少ないからなのです。良心(意識)という言葉は、ヨーロッパ諸語(ギリシャ語、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、スウェーデン語、スペイン語、イタリア語…)では、「共に見る」であることは、このブログの読者の皆さんなら、すでにご存じでしょう。そして、「共に見る」は、テレビのリモコンではないのですから、遠くから操作できるわけがありませんでしょう。実際にお母さんが赤ちゃん(子ども)と「共にいる」ことがあって、はじめて可能なのです。

 ですから、日本でこれだけ(アルツハイマー症の治療研究の国家プロジェクト、有名デパート、有名レストラン、有名ホテル、有名鉄道会社、安倍晋三首相、東京電力…)ウソとゴマカシがあふれているのは、その(組織内の人の)お母さんが、寛容な心で「共にいる」ことをしてこなかったからなのですね。

 ですから、お母さんがその子どもと一緒にいないことが、日本の貧困のはじめ(元型)なのです。

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愛されないと、自己愛がゆがんでしまう 柏や「黒子のバスケ」の事件の人々

2014-03-30 07:00:41 | エリクソンの発達臨床心理
 
今日は、そら恐ろしい、赤ちゃんの時の子育ての「負」の側面です。自己愛の病理でもあります

 前回は、赤ちゃんを育てることが、赤ちゃん=人の自分自身を育てる上で、とてつもなく大事なことを、エリクソンは教えてくれていましたね。今日は、それがうまくできない時の、そら恐ろしい部...
 


 一年前のブログです。そのブログの課題は、今日もまた日本では、解消されるどころか、柏だの「黒子のバスケ」だの、佐倉河内だの、アルツハイマー研究の国家プロジェクトだのであった事件に、具体的な形で、ハッキリと、現れていますよね。

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最深欲求の答え

2014-03-30 04:59:03 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 高橋源一郎さんの論壇時評「ひとりで生きる」とフロムも、テーマがかぶっていることにお気づきでしょうか? エリクソンが幼児前期について述べていることは、もろにこのテーマといってもいいでしょう。また、イギリスの臨床心理学者・精神分析医のウィニコット(D.W.Winnicott)も同様のテーマを大事にした人でしたね。彼は「一人でいられる能力」(The Capacity to be Alone)という文書を1958年に書いているほどです。

 ついでに、申し上げれば、私が「相手にされない」と訳している言葉ですが、これはseparatenessです。「孤独」と訳されることが多いのですが、私は「相手にされないこと」と訳しています。

 

 

 

 

 

 その(どうやって、相手にされないことを克服し、どうやって連帯を達成し、どうやって自分の個人の生活を乗り越えて、一致を見出すのか、という問いの)答えは、ある程度、一人の人がどれだけ「自分は人と違っているのか」にされているか、によります。赤ちゃんの時は、「本音の自分」がハッキリとしていますが、でも、ほんのちょっとです。赤ちゃんは、まだ、お母さんと一心同体と感じていますから、お母さんが目の前にいれば、相手にされていないという感じを全く持ちません。相手にされないという感じは、お母さんが、おっぱいが、物理的に目の前にいれば、吹っ飛びます。ただ、その子が「相手をしてくれないな」「一人ぼっちだな」という感じをどれだけ募らせるかは、その子のお母さんが目の前にあんまりいてくれないことによりますが、その際は、相手にされないという感じを乗り越える必要性が、別の形で生じてきます。

 

 

 

 

 

 赤ちゃんの目の前に、お母さんがいること、それが最も大事でしょうね。しかし、日本ではそれが困難な場合が少なくありませんね。それが日本の貧困の始まりです。フロムがここで述べているように、理屈ではないのですね。赤ちゃんの目の前にその子のお母さんがいること、それが最も大事なことなのです。

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一人の孤独(alone)の、自由(solitude)と不安(loneliness)

2014-03-28 04:54:15 | エリクソンの発達臨床心理

 

 昨日の朝日新聞の「論壇時評」・高橋源一郎「ひとりで生きる 新しい幸福の形はあるか」は、いつもながら、注目に値する記事でしたね。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11051074.html

 高橋源一郎さんは、私はそんなに著作を読んでいるわけではありませんが、視点が私に近く、非常に共感することも多いし、読んでいて、善い学びになります。

 今回の「論壇時評」は「ひとりで生きる」ことがテーマです。貧乏な暮らしをしている高齢者が、イキイキと暮らして、≪ひとりの自由≫を謳歌している一方(都築響一『独居老人スタイル』)、『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人が、お門違いと知りながら、怒りを『黒子のバスケ』の著者にぶつけて、事件を起こしています。その背景を高橋源一郎さんは、この被告人が一人であることが、「不安に突き落と」されていること直結することに、見ています。そして、両者の差がなぜ生じるのかがわからない、とも述べています。

 もちろん、これは読者に問題提起していることに、間違いないのですが、私は臨床心理学徒として、一言述べておこうと思います。

 独居老人スタイルの人たちは、貧乏していても、子どものころに母親などから相手にされて、大事にされて、価値を認められてきたので、「一人でいられる」のです。これが一人の恵み・自由であるソリチュードsolitudeですね。

 他方、『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人は、子どものころから、相手にされることもなく、大事にされたこともなく、したがって、存在価値を認められたことなど一度たりともないのですね。ですから、一人でいることは、寂しく、不安で、自分に価値がないことの証明になっているのです。これが、ロンリネスlonelinessですね。

 

 このブログの読者には、2013-04-01 2013-04-06 を参照いただきたいのです。幼児前期の部分の翻訳になります。

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イオンは、パレーシアステスなのに、ものを自由にいうことができません。

2014-03-28 02:30:34 | フーコーのパレーシア

 

 イオンが、誰が母親かを知りたいわけの一つは、母親がアテネ人でないと、パレーシアの特権が与えられないからでしたね。今日はその続きです。ちょっとお久しぶりですが…。

 

 

 

 

 

 イオンが民主主義と君主制(専制君主制)に対してなした、この枝葉の批判的描写は、パレーシアの議論に典型として思われがちです。なぜならば、ほぼ同種の批判が、その後、ソクラテスの口から行われたことを、初期のプラトンの著作とクセノフォンの著作から、分かるからです。実際、同様な批判を、後ほどソクラテスがしています。同様に、イオンが民主主義的で君主的な暮らしに対して行った批判的描写は、紀元前5世紀末から4世紀初めにかけて、アテネでの政治的生活において、「パレーシアの権利」をもつ個人の、生まれつきの性格なのです。イオンはこのように、パレーシアステスそのものです。すなわち、イオンが、民主主義にとっても君主制にとってもとても価値があるのは、イオンが民衆に対してだろうと、君主に対してだろうと、自分たちの暮らしの欠点が実際に何なのかを、ハッキリ示す勇気があるからです。イオンはパレーシアのできる人ですし、ささやかな周辺的な政治的批判をする時にも、また、後になってから、「自分の母親が誰かを知る必要があるのは、自分には『パレーシアの権利』が必要だからなのです」、とイオンが言った時にも、パレーシアができることを示すのです。なぜならば、パレーシアステスであることがイオンの本来の性格であるのは事実ですが、母親がアテネ人でなければ、生まれながらの「パレーシアの権利」を、法的にも、習慣の上でも、行使することができないのです。パレーシアはこのように、すべてのアテネ人の与えられているものでは必ずしもありませんで、家族と生まれによって与えられる特権なのです。そして、イオンは、生まれつき、パレーシアステスの人であると思われますが、それでも、同時に、自由にものをいう権利を奪われているのです。

 

 

 

 

 

 イオンは根っからのパレーシアステスなのに、パレーシアの権利がありません。パレーシアは、特権だからです。イオンはどんなの苦しいか、想像できないほどでしょうね。

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