エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「ルターはダメ人間」という見方

2013-11-30 04:47:52 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ダニフル先生のルターに対する見方は、ずいぶん厳しいですね。今日もダニフル先生の見方が続きます。

 

 

 

 

 

 ダニフル先生はルター伝をカトリックで研究する学派の、非常に極端な唯一の代表です。この学派を代表する者たちは、自分たちとダニフル先生の方法とを区別しようと一生懸命です。ただし、ルターの人格には、巨大な倫理的欠陥が1つある、という根っこの前提は皆に共通でした。イエズス会のグリザールは、研究法において、ずっと理性的ですし、詳細に調べています。しかし、彼も、ルターには「自己中心の自己欺瞞」がある、と見ますし、「ルターが自己中心なのは、ルターの病歴と関係がある」とそれとなく仄めかします。このようにしてグリザールは、あの聖職者ダニフル先生とあの精神科医スミス教授との中間に自分を位置付けます。

 

 

 

 

 

 もう1人、グリザールの見方が紹介されました。でも、ルターが自己中心なのは、昔「心の病気」だったからだ、と見る点で、ダニフル先生と同じです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダニフル先生の見方

2013-11-29 03:31:21 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターの父親の厳格さに対する見方にも、別々の見方がありました。しかし、それだけではありません。歴史そのものに対する見方そのものにも、普遍主義と歴史哲学では違いがあるようですね。今日はまた別の視点が紹介されます。

 

 

 

 

 

 ドミニコ修道会の聖職者、ダニフル先生も、著名な学者であると同時に、中世後期の教育施設に関する権威です(彼が亡くなったのは、ケンブリッジ大学から名誉学位を叙せられる数日前のことでした)し、非常に強力なルター研究者で、神学的教義に対してかなり自由な引用や再解釈をすることが多いのですが、ルターに対するもう一つ別のイメージを創り出さずにはおれない気持ちでいます。ダニフル先生にとってルターは、umsturzmensch、すなわち、自分自身には計画が全くないままに、この世をひっくり返したいと願っている種類の人物です。ダニフル先生にとってルターのプロテスタントの態度によって、世界にあっては危険な、革命を成し遂げようとする精神をもたらしたのでした。ルターの類まれな才能も、この聖職者は否定するわけではありませんが、デマゴークであると同時に、偽預言でもありました。この「偽」とは、単に神学が怪しいというだけではなく、根っからわざと間違う、ということです。こういったことすべてが当然の結果となったのは、この聖職者にはごく当たり前の提言があったればこそ、でした。それは、天与の戦争が、この大学教授は、こういったことはルターの仕業だと決めてかかっていましたが、ウソがないものになるのは、戦争が、神の封印やサイン、すなわち、目印と奇跡を示す時だけです。ルターが、奇跡を起こさないでほしいと神に祈った時、それは、ルターは自慢することもなければ、サタンによってみ言葉から外れることもないためですが、彼が捨てた唯一ものは、天国そのものと同じくらいの高みにあるブドウだけでした。なぜなら、このような印を受け止めた者が教会から閉め出されたままでいる可能性なんぞ、イエスのことを、この世に遣わされたたった一人の使者として認めることになれば、永遠に、露ほどもなくなるからです。

 

 

 

 

 

 宗教改革を始めた人でも、大ウソつき(デマゴーグ)とか、偽物と呼ばれたこともあったのです。他人の評価で一喜一憂しないことが、どれだけ大事かが分かります。

^_^

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう1つの厳しさ 普遍主義vs歴史哲学

2013-11-28 03:22:25 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターが破局的な決断をすることになるというのは、歴史の教科書にも出てくる95の意見を述べた「95カ条の論題(提題)」なのでしょうか。ルターはこれによって、ローマカトリックと決定的に対立するという、当時としては空恐ろしい戦いに突入することになります。並大抵の覚悟と勇気ではおぼつかなかっただろう、と想像しますよね。

 

 

 

 

 

 ペーマーは、私が同じ学派だと申し上げたいのですが、事情は承知しているのに、あの大学教授に比べて、より穏やかですし、いっそう洞察力に満ちています。ところが、彼にとっても、ルターの父親は、厳しい人ですが、断然いい意味で、不屈で、健全な質です。ただし、ルターが修道院に入るとなった時には、突然、何の警句もなしに、「狂人のように」振る舞います。このように子どもっぽい爆発は、ドイツ人の父親の特権でしたし、心理学の検証を超えているものであるかのように、ペーマーは振る舞います。

 シェールの本は、ルター派の歴史書の2つの傾向を第一次大戦後に受け継ぐ本です。この2つの傾向は、2人の人によってはじめられ、他によって凌がれたためしのないものです。すなわち、1つは、偉大なフォン・ランケの普遍主義的歴史傾向です。彼は、聖職者のような歴史家で、歴史的に折り合いがつかずにいる力の中に、「神の聖なる文字」を見付け出すのが、彼の仕事でした。他方の、歴史哲学の傾向(哲学と宗教を、時にはまぜこぜにし、時には鋭く分ける)は、年上のハルナックによりはじめられました。私どもがこの究極的な視点に戻ってくることになるのは、私どもがルター神学にたどり着く時です。

 

 

 

 

 

 厳しさも、優しさに通じるものもあるので、良い意味もあるのでしょう。普遍主義と歴史哲学の闘いも、カソリックとプロテスタントの闘いに加えて、始まりそうですね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガラクタからできたルター

2013-11-27 03:09:28 | エリクソンの発達臨床心理

 

 闘うルターのイメージは、強烈ですね。今日はその続きです。

 

 

 

 

 

Kriegsdienst (ドイツ語で「兵役」の意味)は、兵役に対する金属的なドイツ語ですし、この大学教授は、(旧約)聖書で神を呼ぶ時にはたいていEl Zabaoth(「万軍の主」の意)、すなわち、天使の軍隊の司令官と呼んでいます。彼は、神を、皇帝の肩書きであるKriegsherr(ドイツ語で「最高司令官」の意味)とさえ呼んでいます。それで、あらゆる異常なことがルターに起こると、それは、befohlen、つまり、天から命令されましたが、それ以上の注解や説明がある訳でもなく、ルターの側に意図や動機があるといったことも全くありませんでした。結局は、動機に関する、あらゆる心理学的な憶測は、全くverboten、禁じられたも同然です。全く不思議ではないことは、ルターの「人格」が、まともな人間に等なるはずのない伝統的なイメージのかけらを寄せ集めているように見えたことです。ルターの両親もルター自身も共にに亡くなっています。彼らの素材は、普通の小さな町にいるドイツ人の性質です。簡素で、手仕事に勤しみ、真面目で、率直で、義理堅い(bieder, tuechtig、gehorsam, wacker )人たちです。もちろん、創造神話は、このような人々を神がお選びになり、何の前触れもない「破局的な」決断に陥らせるのです。

 

 

 

 

 

 ルターの人格の元になるものは、田舎町の人々にはありがちなものでした。つまり、ルターの人格は、いわば、ガラクタからできていた、とこの大学教授は言うのですね。しかし、その人物を神が選んで、考えてもみなかった「破局的」決断へと導くことになります。しかし、その「破局」は「再生」「新生」のための出発点にもなる「破局」になるはずです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闘うルター

2013-11-26 03:17:30 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 様々な意見がある、ルターの聖歌隊での出来事について、エリクソンは精神分析の、どのような切り口で、一致した見立てをしてくれるのか? それが実に愉しみですね。

 

 

 

 

 

 (まずは、)大学教授を取り上げましょう。彼が資料を刻々と変え、しかも、横柄にも自分自身版の資料にしてしまう時、不思議な好戦性(フロイトの経験から判断すれば、今世紀最初のドイツでの科学研究の場では、まさに典型的です)によって、この大学教授は他の専門家たちに対して挑戦状をたたきつけています。それはまるで、決闘の挑戦状です。彼は常々専門化のせいにしたのは、高校生の無知についてだけではなく、若者たちの動機についてです。これによっては、私どもは煩わしいとは感じません。このような決闘ならば、インクをばらまくのが落ちで、また、脚注が膨らむだけです。しかし、ルターの新しいイメージは、このように直立し、守られているものでしたが、決定的瞬間には、方法論的には、幾分軍隊式を感じます。他方、そのイメージは、心理学的一貫性が全くないままです。この大学教授の第一巻の結論では、勇ましいイメージだけが、修道院の門がたった今絶たれた、悲哀の青年マーティンのための希望を表明するのに十分なのです。彼は次のように書いています。「新人ルターを用いて、戦士がこしらえられました。敵は、力でも、悪知恵をもってしても、そのイメージのルターに触れることはできませんし、そのイメージのルターの魂は、その闘い参加した後で、大天使ミカエルによって、最後の審判の座に引き連れられるでしょう」。

 

 

 

 

 大学教授は、「闘うルター」のイメージを創り出しました。この戦いでは、ルターは無敵という感じですね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする