エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #不思議なこと

2019-01-31 06:12:04 | 聖書の言葉から
 
#新しいパラダイム #化学 #化け物
 現世考 : 共謀罪と働き方「改革」 それから、国際条約批准    人間の暮らしに欠かせないものって、何かしらね?   子どもの心に応える大人  大人が不思議を感じ......
 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 

発達トラウマ障害を英語で・英訳 - 英和辞典・和英辞典 Weblio辞書

をご参照ください



マハトマ・まど・みちおさんの言葉から

生きているのに死んでいる皆様へ



クエッションマークが

 

…たまに


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#ニューロフィードバック #ADHD治療にもヨカ

2019-01-31 05:38:43 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#トラウマ と #扁桃体 #人様のための研究
 DSMの診断基準として認められることの力    牧師になったビルさんの困難   子どもの心に応える大人  大人が不思議を感じる心を持ち続けるためには、自覚的な心構......
 

 

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第19章。「応用神経科学:恐怖に急き立てられた心を脳にもう一回繋ぎ直す/コンピュータ関係工学」から。p.324の第4パラグラフから。その前もご一緒に。



脳波は,ゆっかりから速く,が基本

 

 脳波計が描く線は,脳のそれぞれの場所の活動を一覧表にします。様々なリズムがあり,ゆっくりから速いまで様々です。脳波計は,様々な高さ(振幅)と波長(周波数)を図ることからできています。周波数は,1秒間に何回,波が上下するかを示します。ヘルツ(Hz),あるいは,1秒間の周期(cps)で表します。脳波計の振幅は, トラウマを理解し,治療するのに役立ちますし,基本はかなり分かりやすいです。

 デルタ波は,一番の低周波(2-5ヘルツ)ですが,寝ている間に一番見られます。その脳は,アイドリング状態にありますし,心は内側を向いています。もしも,起きている時に低周波の活動が活発ですと,その人の思考はボンヤリとしてしまいますし,判断もくるってきますし,衝動をコントロールすることもできません。ADHDの80%の子どもとPTSDと診断された人は,前頭前野の低周波が多すぎます。

 夢は脳波を速めます。シータ周波数(5-8HZ)は,眠りに落ちる時に強く出ます。それは,漂った「催眠」状態が,15章で,EMDRについて述べた時にありましたが,催眠のトランス状態の性質でもあります。シータ波は,論理や日常的な生活の要請によって縛られない心の枠組みを作り出しますから,新しい繋がりや連想を作る可能性が出てきます。最も見込みのある脳波のニューロフィードバックを用いた,PRSDの治療法は,アルファ波とシータ波の訓練ですが,その訓練のおかげで,凍り付いた連想を溶かして,新しい学びができるようになります。欠点は,シータ波が出るのは,「ボーっとしている」時か,うつの時だ,という点です。

 アルファ波(8-12ヘルツ)は平和で落ち着いた気持ちがあると,あります。アルファ波は,マインドフルネスの瞑想を身に着けたものには,お馴染みです(「ニューロフィードバックは効果があります」といった患者さんが,「強烈な瞑想みたいです」)。私がアルファ波のトレーニングをするのは,生きている実感がない人か,リラックスしたい,ということです。私が治療で一番よくアルファ波訓練を活用する患者さんは,生きている実感が全くない人や,動揺が激しくリラックスできない人です。ウォルター・リード国立軍事医療センターは最近,アルファ波訓練を,PTSDの兵士の治療に使っていますが,この本を書いている時点では,結果は出ていません。

 ベータ波は,一番速い周波数(13-20ヘルツ)です。ベータ波がでる時は,脳は外側を向いています。ベータ波が出ると,私どもは集中して仕事をすることができます。しかし,高い周波数のベータ波は,動揺や心配事,身体の緊張に関係します。結果的に,周りに危険がないか,神経をいつも使うことになります。


脳が集中するのを助ける


 ニューロフィードバック訓練は,創造性,身体的なコントロール,内面的な気づきを促しますし,それは,その点でかなりいい線をすでに行っている人の場合でも,そうなんです。私どもがニューロフィードバックの研究を始めた時,分かったの,スポーツ医学だけが,このことに馴染んだ,ボストン大学の唯一の部門だった,ということでしたね。脳生理学の最初の先生の1人は,スポーツ心理学専門のレン・ツァイコフスキーでしたが,ツァイコフスキー教授は,まもなくボストンを離れて,バンクーバーのアイス・ホッケーチーム,カナックスで,ニューロフィードバックの訓練をしに行きました。

 ニューロフィードバックは,おそらく,心の病のためだけではなくて,様々なバフォーマナスを善くするために,研究されてきています。イタリヤでは,サッカーのAC ミランのトレーナーがニューロフィードバックを活用して,失敗をしたプレーのヴィデオを見ながら,選手たちがリラックスして,集中するのを助けています。AC ミランの選手たちが,心理的に生理的に自己コントロールできるようになった時,AC ミランの何人もの選手が参加したイタリヤチームが,2006年のワールドカップに優勝しましたし,その翌年には,AC ミランがヨーロッパ・カッフで優勝しましたでしょ。ニューロフィードバックは,カナダのオリンピック委員会の科学技術部門に取り入れられています。100億円以上のをかけた五か年計画で2010年のカナダのバンクーバーの冬季オリンピックで,カナダがダントツで活躍したことに役立ちました。カナダの人たちは,金メダルを一番たくさん獲得し,3度目の総合優勝をしたでしょ。

 音楽の演奏も善くなることが分かっています。英国王立音楽院の理事会が分かったのは,ロンドン大学のジョン・グルーゼラーからニューロフィードバックの訓練をしてもらうと,生徒たちは,ニューロフィードバックの訓練を受けていない生徒に比べて,10%演奏が善くなる,ということでした。これは,音楽演奏のように競争の厳しい分野です,際立った差になります。

 ニューロフィードバックの訓練をすれば,集中力,注意力,集中力が高まりますから,注意欠陥多動障害(ADHD)の専門家たちの注目を浴びました。少なくとも,26の研究が明らかにしたのは,ニューロフィードバックは,ADHDの治療に,一定の期間で効果が出る,ということでしたね。その治療効果は,従来ADHD治療に使っていた薬と同じくらいです。

 


 ニューロフィードバックは,自由になるのに役立ちます。自由になれば,ADHDもとても善くなります。「とても善かった」という聖書の言葉が実現したみたいでしょ。

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#見て分かる #お見通し = #証拠 #アーメン

2019-01-31 04:30:09 | エリクソンの発達臨床心理
 
#ボナペティ! #三つ子の魂百までイエイエ永遠です #心からの平和
 現世考 : 最高に価値のある仕事とは?    霊的な教育?   改訂版   自分の人生の主人公であるためには?  人生の主人公。さだまさしさんの優しい歌声で聴......
 

 

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 Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』 第三部。p.126の,7行目途中から。その前もご一緒に。





壁に掛かった様々な夢




 私は拙著を,子どもの積み木遊びから始めて,遊びの理論を振り返り,私の最初の本でお示ししたことを改めるつもりがない,というところまで来ましたね。つまり,最初の本でお示ししたこととは,おもちゃの舞台で「陽気に楽しむ」ことは,枠付けされた「小宇宙」に,諍い合う様々な人を投影しがちな人の心をハッキリと映し出す唯一のひな型だ,ということです。諍い合う様々な人を投影することは,人生の一瞬を物語にするものです。子どもの遊びの中に,あの聖書の神様が創造するというヴィジョンがあることは,見れば分かります。あの聖書の神様が創造するというヴィジョンは,枠付けされた(訳注:自由で賢慮が働く)聖域も1つ,後で使うことになります。そこは「対等な関係の場」(対等な関係が外側に広まるのは,ますます陽気で楽しく,ますます晴れ晴れと,互いに分かり合うために,2人が一心同体になる聖書の神様の場が,広まることです)ですし,1つの舞台,あるいは,自分自身になる目的に向かう道で,自分が主人公であることを取り戻すための青写真です。自分自身になるのは,聖書の神様が一巡する命が展開する関係の中で,上手に自分ならではを育てることによって,実現するものです。しかし,私がまたここでキッパリと指摘しなくてはならない,人を落ち込ませる類の,恐れ,思い煩い,ガタガタいう震えは,些細なものでも,バカでっかいものでも,生きている実感を押し殺す時,心から自由になる希望が死ぬのが,目に見える敵,目に見えざる敵によって課せられた,悲しき自分の定めだと人は誤解してしまいます。しかし,私が申し上げてきたことは,敵を作らない場合でも,人は,自分がなる予定の新しい人になる自由がほしくて,勝手気ままをする余地を作る壁を作り出すために,敵をでっちあげるものだ,ということですね。

 自分が生きている実感を創造し育てる視点は,毎日刻々と礼拝することで,完成します。それは,この本の第2部でお披露目したとおりです。刻々と続く毎日礼拝は,最もささやかな私的なやり取りから,文化的行事で一体になることまで,さまざまです。すべては,「これが,私どもの見方ですし,話し方ですし,立ち居振る舞いです。それは《人間らしい心から優しいやり方》です」,となりますから。ヴィジョンの基盤となるのは 聖書の神様の命が一巡する場ですし,その聖書の神様の命が一巡する場は,細かいところまで真実なのに,同時に,とても良い創造の全体像とも,聖書の神様の御心にもビッタリと一致していますから,バラバラになった人間を,互いに大切にする関わりを始める中で1つの人類にします。
 このような聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることをお示ししょう。まずは,私にとって1番身近な事,すなわち,芸術と精神分析から,始めることにしましょう。聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることが分かれば,ヴィジョンという見通しを色々試してみる事を一緒に始めることが出来ます。最近,ヘルムート・ウォールがサンフランシスコの「視点」に論文を載せましたね。この論文の中で,ウォルフは,ルネッサンスの絵画の本質的な視点と,ルネッサンスの絵画の視点が広めたキリストの信頼を結び付けましたし,見透しもキリストの信頼も,人が希望を持ちたいと願う最深欲求とも,結び付けました。 

      「五感を総動員した感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様の様々な御心は、『うまくできてるね』,という視点で,お祈りにする雛形になります。そのヴィジョンは,聖書の神様を信頼する根源的信頼を繰り返し肯定してくれます。おそらく,聖書の神様の御心は,『うまくできてるね』,と見ることは,視点が繰り返しプレゼント出来る,『人と人をくっ付けて,力を合わせるようになりたい』と求める最深欲求に繋がる判断の物差しです。結局,感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様が創造する全体像が,たった1つの聖書の神様のご計画であるし,たった1つの,意味や価値を判断する物差しになります。聖書の神様が創造する全体像は,『うまくできてるね』という物の見方のおかげで,『なるほど本当だね』という実感が湧いて来ますから。」
      デ・ヤング美術館で,16世紀初期のフランドルの画家の手になるヴァン・ボーグの「受胎告知」を見ました。この絵は、描いた画家の名も分からないし,ウソとゴマカシのない一体感がある中で,人間が陽気で楽しく生きるヴィジョンが持つ,たくさんある根源的な要素を,いまここで,1つに纏めているのが分かりました。陽気に楽しく生きるヴィジョンは,眼で見たことから生まれ,最も不動な生き方を根源的に支える聖書の神様の心からの優しさを片時も忘れずに思い出すこと,まで,至ります。その「永遠の見通し」とは,天使ガブリエルから誕生を告げられた子が,子どもの頃が約束する,あの聖書の神様がまします場を,人間にいつも必ず分け与えて救い出す,「御子キリスト」になる,と見通すことなんです。それから,聖母マリアは,選ばれし母,になります。天使が今ここにいて,見守ってくれていることに気付いて,聖母マリアは,開いていた聖書を下に置きますが,学んでいた聖書のページ(聖書のページは,枠付けされた視野になりますね)は,「輝いてい」のが分かりますでしょ。この受胎告知の絵が示しているのは,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間という,聖書のテーマでしょう。光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間とは,モーセでしょ。古い約束をの知らせた預言者であったモーセが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったのは,新しい約束を知らせる預言者になられた御子キリストが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったことと同じなんでしょうか? しかし,聖母マリアが陰になったのは,聖書の神様からの命令を携えたスピリットを眼の当たりにしているからですが,そのスピリットが伝えた言葉は,「お腹の子は,『聖書の神様の独り子キリスト』です。『新しい人』の守り手ですからね」ということです。それに,聖書の神様がまします場では,「聖なるスピリット(聖霊)」,すなわち,促し手は,キラキラと輝いている,その温もりが身に沁みてありがたい,一筋の光に乗って,下に置かれているように見えます。

 この受胎告知の舞台は,その前景の中では,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間といった聖書のテーマなどすべてが展開しますが,背景の中では,2つの場に開かれた2つのドアの枠がありますね。1つは,聖母マリアの背後にあって,マリヤのベッドが見えます。もう1つは,さらに2つの枠組みに私どもの目を誘います。聖書の神様がまします場に開かれた窓(魂の片目)と,もう1つは,下に置かれた三位一体の聖書の神様を示す祭壇画と,その聖書の神様の命が一巡することを物語る羊皮紙の聖書に開かれた窓(魂のもう一つの片目)です。その祭壇画があまりにも輝いているので,もう1つの窓(1つの「魂の目」)があるみたいです。この祭壇画も,また,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間を示していますから,思い出すのは,東に顔を向けることは,夜の闇も必ず夜明けには明ける世の中で,「昇る光に魅せられ仰ぎ見るようにされている」という意味だ,ということでしたね。

 子どもたちが遊んでいることを読み解くことは,その子どもの遊びに心から響くヴィジョンを読み解くことに加えて,人間の意識が,端っこに追いやられるのではなしに,人間が発達するのに一番大事なことであることこそが,唯一の人の務めであることを示しているのならば,聖母マリアの子宮こそ,宇宙のど真ん中にあるものだ,とハッキリと認めなくてはなりませんね。子どもを身ごもった女性と生まれたばかりの全ての子どもが,宇宙のど真ん中にいるみたいに。新しい眼が,成長する場に注がれ,新しい顔が大切にされ,新しい名が,新しく生まれた「私が生きている実感」と,「人間の条件」によって裏切られることは1つもない(のに,それを,ダァレも知りません),唯一の恵みが漲っている新しい人の目印になります

 このデ・ヤング美術館の受胎告知の絵が,聖書の神様が約束された唯一の創造の初めを示している,心響かせる人間に成長するという見方を共にするために,あるいは,「聖書の神様の創造にピッタリと」遊びを解き明かす時に,私どもが大切に考えるあらゆる判断基準をハッキリと認めるためには,壁や教会や美術館にかかった「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます,というメッセージが聖書に神様から来ること」の1枚の絵を囲っている同様の絵も,仲間に入れなくてはなりませんね。「人の子」となる子どもが,祝福を示す身振りの中で,もろ手を掲げている絵もありますね。キリストが最後の叫びを叫び,十字架に爪を立て,ゾッとするほど恐ろしいゴルゴタの夜を描いた絵もあります。「神の子」が天国で救われ選ばれしもの達を,心からの優しさで迎え入れている絵を示す人もいれば,同じ「神の子」が,地獄行きを言われた者達を,力強く見捨てる絵の方を示す者もいますからね。いばらの花冠を被った者たちのひとりを描いた者もいます。そのいばらの花冠を被された人は,歴史を通して大工の倅が十字架に縛り付けられた,と言われました。しかも,そこには,日常生活を礼拝にする輝きがありましたね。別の絵の中では,私どもの目の前に,1つの諍いの場が広がっているのが見えますでしょ。その諍いの場は,ラテン語で「この徴の中で」浄化されますが,そこには,傷つき,死んでいく苦悩の中で,倒れた異教徒たちが積み上げられているのですが。

 このように,キリストのおられる様々な場の全体像だけが,あの聖書の神様が心からの優しさから創造された創造を,預言された未来と結びつけながら,「ずっと変わらない見通し」をギフトとしてプレゼントしてくれます。その「ずっと変わらない見通し」のおかげで,生死と人生の謎とに,漲る意味を与えられます生きている温もりに満ちた歓びが漲る意味を教えられて不動にされると,人が心響く新しい人に成長すると見る視点があれば,ずっと心が新鮮にされる毎日に2人がいつも共に至る一心同体になれるだけではなく,2人が一心同体になる様々な術,日々の様々な礼拝,様々な優先順位,様々な諍いの場ができて,≪生きている実感≫が,他の死すべき人の≪生きている実感≫とが,唯一の聖書の神様の独り子のキリストの光≪生きている実感≫がど真ん中を橋渡ししてくださいますから,一心同体になると信頼する見方のもとになります。唯一の神様が≪生きている≫ということが,「なるほどホントだね」と確かめられる唯一の存在なんですから。キリストのおかげで,2人が一心同体になれるからこそ,生まれてすぐにお母さんと一心同体になれずに来た悲しき運命生きているのに自分が死んでいることから,救われたと感じるのでしょうか? キリストのおかげで,2人が一心同体になれるからこそ, 選ばれし少数だけが救われて,ほかの大多数全ては選びから漏れて,自分が滅んでいる,「最後の審判」の判断に,正面から向き合えます。最後の審判で,われわれ人間というものは,自分の良さと永遠の命を,生活の中で,お零れ頂戴で得ようとするものです。また,見落としてならないのは,一番見事なヴィジョンは,不動にされた復活人生(聖書を学びながら生きる者の集会みたいに)に根差すだろうという事実です。不動にされた復活人生は,復活に必要な様々な欲求を生活の中で礼拝にして,人間は,独りぼっちで,必ず死ぬことを大切にして暮らすようになるものです。と言いますのも,自分の身体は必ず死ぬ,ということを心から受け入れるかどうかにかかわらず,私どもの魂は,いつも独りぼっちでいることと,いつも相手にされずにホッタラカシになることを,ことのほか恐れているんです(自分を亡くすことを恐れることに対して,一つの優れた標語を見つけましたよ。それは,この「受胎告知」の絵が描かれた時代に首をはなられた者の墓標の文字です。「私はもう若くない,しかし,私はまだ若い。私は世の中を見た。しかし,私は省みられることもなし」)。

 あの「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます」(受胎告知)があれば,心乱されることもなければ,諍いもありませんから。あの「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます」(受胎告知)の中には,光とスピリットのおかげで,その場と聖書の話し言葉が一体となり,お先真っ暗の中で,スピリットが死んでいることを繰り返しひどく恐れ,粗末に育てられ,生きている意味も分からずにいることを繰り返しひどく恐れていたことの中で,聖書の神様が信頼してくださっていることが気付かされます。でもね,忘れずにいたいことは,聖書の神様の力を確信するためには,あの「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます」(受胎告知)を描いた絵描きが,心魅せられるものを心から歓んで生きることを,生きる習慣にする生き方が,聖書の神様が命じる命令だと弁えていた,ということですね。あの絵描きは,聖書の神様の力を確信するためには,心見せられたものを心から喜んで生きることを,人生の習慣にする生き方こそが,聖書の神様が命じる命令だと弁えることができて初めて。その絵描きの作品が,観た者の最深欲求に心響くわけですし,不思議な力のある聖書の神様に忠実に従いながら,聖書の神様を信頼する信頼を確かにもできるんでしょ。

 心魅せられるものを心から歓んで生きることを,生きる習慣にする生き方が,聖書の神様が命じる命令だということを心に刻んで忘れないことが,今ここを生きる要です。他の「様々な枠組み」や空間にも触れましょう。まったく異質に思えるものもあるかもしれませんが。枠に入った一枚の絵が,夢のある,あるいは,空間の前舞台を伴って,様々な意味を分かち合っていると,言ってもいいでしょうね。しかし,シアター・劇場やセオリー・理論という言葉は,実験の上で同じ源がありますが,言葉の上でも,なおさら共通する語源があります。この2つの言葉は,共通して,「見通せる あるいは,お見通しにされる場が,心魅せられるものを信頼する信頼をもたらす」という意味です。同じ道で,私どもが毎日使う言葉も,見通す ということに語源がある言葉から来ています。つまり,事実が証拠になるのは,どなたでも心から歓んで生きている人は,見ればお見通しに分かるからです。お見通しになるのが,エビデンス・証拠になる,というわけです。

 


 見れば分かる。お見通し,ということです。

 それは,知的な理解,というよりも,もっと体感的,直感的,動物的な実感のある理解のことです。腑に落ちて分かる,「なるほど,本当だね」ということです。礼拝で「アーメン」というのは,腑に落ちて体感しました,というのが,本来の意味ですから。

 

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#倫理の伝承 #創造の秘密 #されたようにする #大事にされれば人も大事にする

2019-01-31 04:24:19 | エリクソンの発達臨床心理

 
#私が今ここに生きている #瞑想 #深い目覚めた意識
 聖書の言葉: 世に勝つ者 叡智はよく見ることから   価値の創造  偉人は、時代の見方を先取りします。 p178第2パラグラフ。     時には、偉大な組織は、価......
 

 

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 The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することができた』 p.90の,7行目途中からです。

 


でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることがあまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人,あるいは,2人以上の人が,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,本音で協力する時だけ,2人(以上の)の「生きている実感」が一心同体になり,「共に生きている実感」に融合します。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。

 「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私が皆さんへプレゼントするギフトですよ」と教えなさい,ということを示しています。「私が今ここに生きている」というギフトをくださり,復活の人生を実現する聖書の神様が下さるスピリットは,間違いなく,一神教のキリスト教が進歩する時,ど真ん中にあるものですし,父なる聖書の神様の光に従って,人々を1つの人類に結びつけることに広がります(エリクソン,1981 『エール・レヴュー』p.321-362 「ガリラヤのキリストの言い伝えと「私が生きている実感」が生きる心の習慣」)。

 ここでまた思い出すのが,生まれたばかりの赤ちゃんと,最初の(お母さんみたいな)人が,まず初めに,互いに大切にし合うことには,聖書の神様から尽きることのない力がある,ということですし,結局は,その生まれたばかりの赤ちゃんの最後の相手は,最終的には,「最後の審判の時に出会う予定の聖書の神様」になりますから,皆さんの顔の上に,聖書の神様が心からの優しさに輝く顔で臨み,皆さんに心からの平和な気持ちと関係をギフトとして恵まれます。聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下されば,私どもは発達の全ての舞台を全うできるでしょうし,様々な話し言葉を与えられる中で,父親らしさ,母親らしさ,姉妹らしさ,兄弟らしさを含めながら,「私ども人類皆兄弟」が唯一の一心同体となって,実感のあるものになる道を,一心不乱に生きることもできるのにね。しかし,聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下さる場合でも,実感のある現実という見方を1つも傷のない腑に落ちるものにすることは避けて通れませんね。実感のある現実は,初めに申し上げましたように,「外側の世の中」に合わせなくっちゃ(訳注:忖度遠慮+共依存),ということがあまりにも多いからです。


    3重になった生きている実感のある現実


 エゴは,概念としても言葉としても,もちろん,フロイトさんが見つけたものです。スコラ哲学においては,エゴは,身体と魂が「一心同体になること」ですし,哲学では,概して,経験を意識していることが,「ずっと続いている」という意味です。ウィリアム・ジェームズ(1920)は,いくつかの手紙の中で,「発達するエゴが時空を1つにする」ことに触れているだけではなくて,「そのエゴは自分から関わりを広げること」についても,触れてますでしょ。この「そのエゴは自分から関わりを広げること」は,光の下に跪く人間は全うだという生き方そのものです。ここで,ウィリアム・ジェームズ(ドイツ語がよく分かっていましたから)は,創造によって魂の中に予め打ち込まれた≪私が生きている≫ことは意識せずに働いていることを思っただけじゃなくて,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることは,キリストのスピリットという光に下に跪き忠実に従うことだ,ということに思い至っていましたね。しかし,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることも,≪私が生きている≫実感が,実際に生きているかを測る中で,最も確かなも唯一の秤だとする生き方の中で,自分が体験したことを腑に落ちるようにする,エゴの無意識の働きの1つであるのは明らかでしょ。≪私が生きている≫実感があればこそ,力なく苦しむ人にならずに,「聖書の神様の命が一巡する場」を全うする人のように,ことが「うまくできてる」と感じられるんです。「自分から関わりを始めて」,「聖書の神様が創造の初めにした時に戻って,聖書の神様の命が一巡して,とっても良かったとなる」ことになり,引きこもってしまうこともありません(好きな言葉は「苦労を引き受ける」ということです,というのね,いわば,苦労を引き受ける関係を自ら始めることになります)。「自分が大事にされる」と「皆を仲間と認める」ことになりますから,端っこに引きこもってる場合じゃぁありません。「自分が選んでいる」のであって,どうすればいいのか分からずにされているんじゃありません。「正気でいる」のであって,心が病んでいるんじゃありません。こういった縦軸に伸びて,復活する発達は,いつでもどこでも,「住めば都,くつろいで自由でいる」ことができますし,自分で選んでいる時でさえ,「聖書の神様から,いつでも見守られていて,自分が選んでもらって,『とてもよかったよ』と歓んでもらった感じ」がします

 そこまでいけば,とても善いですね。しかし,お気づきのように,人生の様々な舞台を生きて,聖書の神様が人間にプレゼントしてくれたギフト「生きている実感」が外に次第に展開していくことに従えば,人間の問いは,人間にとって根源的に確かな心の習慣は,人が繰り返し「新しい人」になり,生涯にわたって,仲間の数を増やすことですから,仲間の数が増えてますか?,ということです。その仲間は,自分の身近にいて,1人の「他者」として,人生の大切な時期に,「あの人のことね」,と分かる人もいれば,そのほとんどが,心の繋がりをなんとなく感じる人たちです。その仲間は,壁を作って私たちに反対しようとする場合でさえ,生きている実感を分かち合うことによって,ひとりびとりの生きている実感を確かにしたいと願っている人たちです。人間関係を心理的に見る視点があるからこそ,私が他の人に同調することを話すだけでは,実に不十分なわけです。といいますのは,あらゆる人間がピッタリとくっつくことは,諍いになりますから,私がピッタリとくっつくことを教えられる前に,すでにピッタリとくっつく様々な実験に夢中になり,一心同体になる体験を強烈に心に刻み付けてきているんですから。実際,フロイトさんが「リアリティ,すなわち,生きている実感」に相当するドイツ語は,Wirklichkeit(「うまく働く」ことと関係します)には,受け身の関わりを自ら始める意味と,働き掛け合う意味がありますから,ふつうは,「アクチァリティー,自ら関わる現実」と翻訳すべきですし,「互いに,自ら関わりを始める」意味に理解すべきだと,私は考えますね。

 ですからね,生きている実感は,≪いつも共に居る≫ということが,一杯ある,ということが,欠かせない,と言われます。≪いつも共に居る≫ことができるのは全て,心が自由にされる,2人がピッタリとくっつく場では,(訳注:目的も方法も知らない)動物の本能とは対照的に心から歓んで関わりを始めて貰える関わりが,発達の間,私の思い通りに手に入る,という(訳注:目的も方法も自覚した)「魂を貫き通す,聖書の神様が下さる一方的な約束」のおかげですし,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりは,人が輝き共に育つ際に,大人の人たちが,謙虚に子どもの下に立ち,子どもに夢中になることに,とても役立ちます。このようにしてもらうと,その子どもは,「人を自分のように大切にする」ようになる,と言われます。それはちょうど,自分が,名前を呼ばれ,大事にされ,気持ちを分かってもらったのにビッタリ同じように,人も大事にするようになることですし,聖書の神様の命が一巡する時,互いに大切にし合う生き方が,心の中に育まれるんですね。



 発達とは,魂の中心にあるスピリット「生きている実感」が,外に展開することですから,生きている歓び生かされている歓びに満ち溢れます

 「自分が,聖書の神様と母親から大切にされたのように,人も大切にすることになっています」,という聖書の話し言葉が,出来事になるようになっています

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#聖書の言葉 #単独者の恵み #創造の聖書の神様

2019-01-30 07:39:37 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #一人豊か #瞑想
 貧しきものこそ、心豊か を地で生きる    日々の痛み   子どもと一緒 改訂版  真実は、不思議を感じる心から生まれてくるものらしい。 p55冒頭。      ......
 

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から

生きているのに死んでいる皆様へ



あの

 

やさしい


てん

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