エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

絆を超える絆

2014-04-30 05:47:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
儀式化の要素の一覧表 一つのヴィジョン

 前回は儀式の果たす役割について、エリクソンは少なくとも2つを挙げていました。それによって、死をも意義深く位置づけるので、もう怖がらなくてもいいものになります。 さて、今回はTo...
 

  東日本大震災以降「絆」が叫ばれています。あれだけの地震と津波による被害にあい、さらに、福島原発が崩壊して、今なお放射能による人災が続いているので、それだけ人が不安に感じているからでしょう。震災が来る前も「失われた20年」などと言われ、もともと、長い不況と社会的な生活基盤の破壊が進んでいて、人々が閉塞感にさいなまれていた時に、この震災にあったのですから、その不安と言ったら、底なしのレベルだったはずです。人と人の結びつき「絆」を求めて、少しでもその不安を和らげたいと願うのが人情というものかもしれませんね。

 かたや、「消費税は社会福祉に回します」と、我が安倍晋三首相は繰り返しますが、それでも、保育所に入りたいのに入れない人や高齢者施設に入りたいのには入れない人は、なかなかゼロにはなりません。小学校に入りたいのに入れない人はいないのに(最近の不登校の多さや6人に一人の子どもが貧困であることを考えると、そろそろ学校も怪しくなっているのかもしれませんが)、なぜなんでしょう?

 これは、「消費税は社会福祉に回します」という言葉がウソだからでしょう。難しい議論は不要だと思います。教育にできることがなぜ社会福祉にできないのか?それは、初めからそうするつもりがないから、社会福祉を徹底して進めるつもりがないからです。それは一部の人だけが得するシステムを維持したい、維持しようという本音が、安倍晋三首相などの≪排他的集団≫にあるからです。

 今日のエリクソンは、儀式化の一覧表のところです。この表をご覧になって何か気づくことはありませんでしょうか? 私が最も注目する点は「乳児期」、だいたいおしゃべりをして、歩けるようになる一才半までくらいのことですが、その時期の儀式化が≪お互いに価値を認め合うこと≫であるだけでなく、大人になってからの儀式化の要素の要がまた、「世代間で価値を認め合うこと」である点です。儀式化では、お互いに肯定しあうことが徹底しています。最初は主に母子間で認め合い、大人の要素としても親の世代と子どもの世代で価値を認め合うことが繰り返されるのです。一覧には出てきませんが、老人と子どもの結びつきを先日触れましたね。そこでも祖父・祖母の世代と子どもの世代がお互いの価値を認め合うのです。≪認め合い≫に徹底していますね。

 じゃ、日本で社会的生活基盤が破壊され、「社会福祉に税を回します」は掛け声ばかりなのは、この≪認め合い≫の点では落第点なのは火を見るよりも明らかでしょう。でも、なぜ、日本はこうなんでしょう。エリクソンも私も、その答えを繰り返し申し上げていますから、今日はあえて申しません。皆さんで考えていただけたらと思います。

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メメント・モリ

2014-04-29 04:19:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
儀式が果たす役割って、結局何? 死はもう怖くない

 前回は老人の知恵の役割、すなわち「統合」がテーマでした。人生の苦難をも「価値あるものと認める」力が、老人の知恵の役割、「統合」でした。 今回は、Toys and Reasons...
 

 儀式化が、エリクソンの言うように、こんなにも死と関係するのか?

 デス・エデュケーション、死の教え、が弱い日本では、儀式化がこれだけ死と関係するなんて、意外ですよね。そんな日本でも、毎日100人近くの人が自死を死に(したがって、毎日1000人近くの人が自死を試みています)、30人近くの人が、いわゆる孤独死を死んでいるのです。病院で死ぬのが当たり前になった今日、死に行く人とじっくりと時間と場を共有するチャンスもあまりありません。死は「見たくない」忌避すべきものになってしまいました。

 私が死のことを考えるときに、いつも思い出すことがあります。それは、今ではあまり知る人がいないかもしれませんが、野村實医師の告別式のことです。野村先生は結核医として長年診療するとともに、結核から回復した人の社会的リハビリテーションのために生涯をささげた人です。東京コロニーを創設され、全国コロニーでも要職を務められました。また、そのお仕事の傍ら、『シュヴァイツァー研究』という雑誌を発刊しておられました。岩波新書から『人間シュヴァイツェル』を著わしていますし、岩波文庫の『森と原生林のはざまで』の翻訳もされています。旧約聖書研究の関根正雄とともに、野村先生は、内村鑑三の最後の弟子のおひとりです。わたくしこどで恐縮ですが、野村先生の最晩年に、何度かお話を伺ったことがあります。当時すでに90歳くらいでした。

 その野村先生の告別式が青山葬儀所であったとき、弔辞を述べたおひとり、中川晶輝医師の弔事は、初めから、野村先生は死して天国におられることが羨ましい、ということから始まりました。その確信に満ちた言葉が、昨日のことのように思い出されます。野村先生の、日頃穏やかなのに、真実なことはキッパリとおっしゃるその姿とともに、この中川医師の弔辞を私は決して忘れられません。

 今日のエリクソンは、儀式化は死を忘れさせてくれるものであると同時に、死を受容するためのかなめでもあることが教えられます。儀式化を一つ一つ丁寧に生きるとき、死はもはや怖いものではなくなるのです。その不思議と確信に満ちた儀式化。確信に満ちている点で共通する、野村實先生のキッパリと真実をお話しくださる姿は、老人のウァーチューのサンプルでもあると私は考えます。
 

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アンパンマンと非暴力 子どもがピィピィッと気付くもの

2014-04-28 07:03:45 | エリクソンの発達臨床心理

                             今年2度目の桜

 

 
老人の知恵を甦らせる陽気な無邪気さ

 前回は「うわべだけの権威」についてエリクソンが簡単に述べている箇所の翻訳でした。 今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday...
 

  昔、加藤周一さんが、東大教養学部の100番教室で講演したことがあります。それは、青年(大学生)と老人は連帯できる、ということでした。なぜなら、青年は、組織の縛りが弱い、特に日本の大学は出るのが楽ですから、拘束されることがあまりありません。老人も、宮仕えから解放されて、再び自由人になることができます。その間の勤め人の間は、会社や役所や、とにかく勤め先の組織や上司や同僚の意向から自由な人は日本には、あんまりおりません。自分の組織を批判できないのは、「個人がないから」とは、加藤周一さんの弁です。自由に組織や政府のことを批判できる点で、青年と老人は連帯できます。

 今日のエリクソンは、子どもと老人の繋がりについて述べます。老人のヴァーチュー、にじみ出る人格の力、とでも訳すべき言葉は、「統合」です。すなわち、まとまり、一貫性、「筋が通っている感じ」、「背筋がピィーンとした感じ」のことです。そういう老人(老人だけではありませんが)を目にすると、子どもはすぐにわかります。人格からにじみ出ているものに一番敏感なのが、子どもです。それから、知恵おくれの人です。非常に人格に敏感です。それがとっても不思議です。

 これで思い出すことふたっつ。

 一つはエリクソン自身が書いていること。子どもの頃エリクソンが積み木遊びを付き合った人で、今では、「不良」少年の自立のために仕事をしている人に久しぶりの会いに出かけて、その感想、観察を残しています。それは、不思議に「不良」少年たちが、その、エリクソンが昔かかわって、いま自立のための仕事をしている人には反抗しない、というお話。エリクソンは「非暴力を体現した最も優れた人」という趣旨のことを述べています。なぜか?それは、その人自身が、自分の猛烈な「暴力」をコントロールしているので、それは語らずとも、「不良」少年たちに伝わるのです。

 もう一つは、アンパンマン。やなせたかしさんが、アンパンマンを書き始めたころ、「こんなグロテスクなものは子どもには受けない」と酷評されていたようです。しかし、幼稚園や保育園に行くと、ひときわ汚れている本があることに気づいて、それが何かといえば、アンパンマンの本だというのです。3歳くらいまでの子どもです。その子どもたちがアンパンマンが大好きなのです。その道の大人たちが酷評していたものを、その子どもたちは、圧倒的に支持したのです。それは、アンパンマンの「パン格?」からにじみ出る香りに、圧倒的な魅力があったからでしょう。それは、いろいろ説明されなくたって、子供はチャァーンと分かるのです。

 老人と子ども、それは人格の香りによって繋がっており、お互いの命と人生を肯定しあう存在です。

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易しいことを小難しく

2014-04-27 05:49:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
うわべだけの権威 「難しい○○」

 前回は、大人の儀式化は「次の世代を生み出す」要素を儀式化に付け加えることが示されましたね。エリクソンが言う大人は、したがって、次世代の人々を価値あるものと元気づける存在だと言えま...
 

 権威主義が大人の儀式主義だとエリクソンは言います。なるほどな、と思います。わたくしなりに、権威主義の特色を手短にまとめますと、小難しい話と堅苦しい雰囲気、エバッタ態度でしょうか。権威主義は、自分を少しでも「上」に見せたいので、小難しい話を好み、堅苦しい雰囲気で偽装し、エバッタ態度で人の「上」に立とうとするのです。

 ですから、権力のある人、政治家や社長や校長や、様々な対人サービスの人に、この権威主義の人を良く見かけます。ですが、自分を「上」に見せることにアクセントがありますから、その周りの大人に対しても、子どもに対しても、肯定することができません。大人は子どもを肯定することが仕事なのに、それが難しいのです。

 いまさらっと、対人サービスの人に権威主義の人がよくいる、と申し上げましたが、お気づきでしたでしょうか?「あれっ、変だな」と思われるかもしれません。しかし、残念なことにそれが真実なのです。なぜか?

 それは、対人サービスには、必ず「弱者」が近くにいるからです。根源的信頼感の弱い人、逆に申し上げれば、根源的不信感の強い人は、「自分は足りないところがあっても、ありのままで良い(許されている)」という感じがなかなか持てません。そうすると、他者と比べて、「自分の勝ち」を感じなければ、「自分の価値」を感じられないのです(掛詞にしてみました、へへっ)。

 でも、そのように「自分の勝ち」にこだわると、隣の子ども(大人)のことを理解できませんよね。学校(幼稚園から大学院まで)の先生や保育園や施設の保育士さんや支援員さん、病院のお医者さんや看護師さんたち、それに心理臨床家やカウンセラーなどが、対人サービスの担い手ですね。これらの人が生徒や利用者や患者さんやクライアントのことが理解できないとしたら、まともなサービスなどできませんよね。ではなぜ理解できないのか?

 それは、理解するとは、英語で考えると、よくわかる感じがするのですが、under下に、stand立つときにだけ、人って、弱い立場の生徒や利用者や患者さんやクライアントのことを理解できるからです。言葉を替えて申し上げれば、「上」にたったり、「対等」ですと、本当には、弱い立場の相手のことは理解できない!のです。

 イエスキリストや御釈迦さんのように、苦しい立場からあえて逃げ出さずに、その苦しい立場に「踏みとどまる」(ヒュポメノー υπομενω、ペイシェント patienthood)ことが、相手を理解するうえで必要不可欠のようですね。

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今学校に必要なこと

2014-04-26 06:41:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
大人の肯定する力と「父なる神」

 前回は、青年期の儀式化と儀式主義がテーマでしたね。青年期の儀式主義は、全体主義でした。そこでは、熱狂と村八分とギラギラした感じ(見せびらかし)があります。河合隼雄がどこかで、「ギ...
 

 

 学校に参りますと、「~しましょう」などとたくさんの目標・校則が教室や廊下に貼ってあります。集団生活ですから、当然、目標、ルールが必要です。朝の連続テレビ「花子とアン」ではないですけれども、「廊下を走らない」「大声禁止」「時間を守る」「早寝、早起き、朝ご飯」「自ら求め、考え、表現し、実践できる生徒」「自分の考えや思いをいきいき表現しよう」…。

 私はある時、教室に貼ってある、この規則・目標に類するものがいくつあるのかな? とその数を数えたことがあります。その数は34ありました。担任の先生に「どれくらいの目標が教室に貼ってありますか?」と伺ったことがあります。先生は「十個くらい?」と語尾を上げて答えてくださいました。いくつあるのか分かってらっしゃらない?!(語尾を上げる[笑])

 こんなに目標・ルールがたくさんだと、私の感覚では、「あっ、これは、目標・ルールは、守ってるフリをすればいいんだな」、あるいは、「こういう目標・ルールは『建前』で、別に本気で守る必要はないんなんだ」という感じを持ちます。実際さっきの目標・ルールを掲げる学校では、先生ご自身が校長や教頭の目を気にしておいでで、「自分の考えや思いをいきいき表現しよう」という目標ができていませんでした。

 今日のエリクソンは、大人の条件として、「ヌミノースの見本に喜んでなる」とあって、生き生きと生きていることをまず挙げます。あの学校の先生たちのように、自分の考えや意見を自由に口できないのに、イキイキ生きることなどできません。またあれでは、「理想の価値を伝えるものとして、喜んで振る舞うこと」にもなりませんね。また、あれじゃあ、「『私は自分のしていることに自覚的です』という確信」などあろうはずがありません。

 ですから、学校というのは、やりがいがあることですが、目標・ルールをたくさん掲げることが、子どもを肯定することに反することに繋がります。しかも、その目標・ルールを盾に、裁判官のように子どもたちを裁くことだけには、長けている先生が、残念ながら、日本の学校では、多数派です。

 この点参考になるのが、昔の北海道大学、すなわち、札幌農学校です。時の教頭(実質的には校長)のクラークが掲げたのが、一言「Be Gentle[man]」紳士たれ、です。そして、クラークも生徒も本気でこれを守ろうとしたのです。

 こういう本気が今の学校にぜひとも必要です。

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