エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

勢いづいた時こそ、目的意識が大事

2015-09-29 05:35:42 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 ルターも、人間、振り子が触れすぎるきらいがあります。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.230は第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターは、このような華々しい行いが、生涯を通して語ったことの中で、一番嬉しかったことだと、シュタウピッツに語っています。ルター自らが以前に語った言葉を聴いても、ルターは己の確信を強めましたし、自分が付けた火なのに、ルターが反抗する火に油をそぐ有様でした。この時以降、苦闘が始まるのが、ルターが語る御言葉とルターが実際にやってることの間でしたし、ルターが説得する方法と、現実に焚き付けるやり方の間でした。ルターが一言言えば、周りの者たちは、行動に移してしまいましたし、ことが起これば、ルターはますます確信を深めても居ました。

 

 

 

 

 ルターも調子に乗ってしまった嫌いがありましたね。一端ことが起きれば、勢いも大事ですが、原理が生かされているのか? 目的は果たされているのか? という問いを、勢いがある時にこそ、意識して問うべきだ、と、このルターの「失敗」を見るにつけ、私どもは考えなくてはならないでしょう。

 

 

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わがままは、自由と創造性の源

2015-09-29 03:56:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 「お役所仕事」は、年少さんくらいの時に「自分の意志」を育てそこなったビョーキです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p78の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 年齢の高いところから下りながら見てきた場合においてさえ、増々明らかなのは、いくつかの舞台を踏んで育っているはずのものが、現実には、エピジェネシスの合奏曲だということです。この合奏曲では、どの舞台であろうと、どの人間力であっても、その最初の基本も、その「当然ある」危機も、後の舞台にある、新たに改革する可能性も、見失ってしまう訳にはいきません。このようにして、赤ちゃんの時の希望は、わがままの要素をすでに携えています。このわがままの要素は、しかしながら、幼子の頃に意志が危機に陥る時のようなやり方で逆境に陥れば、耐えられません。

 

 

 

 

 

 わがままと聞けば、「ダメ」の代名詞のように思う人が、特に真面目な人には多い。残念ですね。しかし、わがままは、自由と創造性が育つとき、特にその始めにおいては、不可欠なものなんですね。言葉を換えれば、自由と創造性は、最初は「わがまま」に見える形の中にあるんです。ですから、周りの大人は「わがまま」を認めるような度量の広い気持ちと鷹揚な態度が必要です。ですから、わがままと見える子どもの意志を繰り返し認めていくこと、そのためには、そのわがままが許される境をハッキリとさせて、子どもの意志が危機に陥らないようにする工夫が、周りの大人に必要です。

 

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「どっちが上か」を争う諍い、および、弱さと絆

2015-09-29 01:26:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
≪信頼≫を打つ壊しにするもの
  大人の成熟って、いいですね。でも「物事を見抜く洞察力」が最初に来るのが更にいい。まるで、丸山眞男教授のような「物事を見抜く洞察力」を、身に着けたいもの...
 

  

 『青年ルター』の翻訳で、「キリストの十字架を、ひとりびとりの心の葛藤の中に再発見するものでした」との件が出てきましたね。エリクソンもそのことについて、ここでは深く立ち入ることもしていません。よく考えると、ここは、分かったようで分からない箇所じゃぁないかしらね。キリストの十字架と、私どもが抱えている葛藤が、何故=で結びつくんでしょうか?

 実は、私自身この回答を持っている訳じゃぁ、必ずしもありません。ただ私なりに考えが、というよりも、感触がありますから、その感触を今晩皆様にご披露して、皆さんと一緒に考えていけたらと考えました。まず初めに申し上げるのですが、今晩も「信頼」の話です。

 ふつう、世の中の「常識」で言ったら、力があると言えば、物理的な暴力、お金の力、政治的な権力、大きな組織の力と言ったものが「強い」とされませんか? ですから、世の中の競争と言ったら、物理的な力が「どっちが上か」を争う、ケンカから戦争まで競争、一円でも高い年収が保障される仕事に就くための競争、組織の中で昇進するための競争や、政治闘争などですね。いずれにしても、少しでも、人よりも、強力な暴力、たくさんなお金の力、高い地位の力を手に入れるための、「どっちが上か」勝ちを争う諍い、競争ですね。

 でも、「キリストの十字架」って言ったら、どうでしょう? 「十字架」って、カトリック教会のお御堂の正面や、プロテスタント教会の屋根の上にあるのは見たことがあるでしょうけれども、実際に死刑の道具の十字架を見た人って、ほとんどいないでしょ? かく言う私も、刑具としての十字架を見たことはありません。十字架刑は、釘で手首や足首を十字架に打ち付けるものですから、出血死だと思ってませんか? あるいは、なぜ死ぬのかも考えたことない人が一番多いのじゃないかしらね。実際は、縦に吊るされているので、呼吸するたびに身体を持ちあげなければならない、けれども、それが次第に難しくなって、終いには、窒息するそうですよ。でも絞首刑のように、一気に首を絞めるのではなく、じりじりと呼吸ができなくなるわけですから、それだけ残忍な刑罰だと言えそうですね。このように考えると、「キリストの十字架」とは、最も弱いことだと考えられます。

 私どもが心に抱え込んでいる葛藤も、十字架ほどではないにしても、「弱ったこと」であることに間違いありませんね。もしかしたら、その葛藤は、その人にとっては、最大の弱点と言えるかもしれませんよね。しかも、「弱ったことでは勝負にならない」でしょ。ですから、「弱ったこと」は「負け」でもある訳ですね。勝ちと強さが生きがいの人ですと、隠すでしょうね。「弱みにつけ込まれたくない」からですね。

 でも、心理臨床をしてますとね、弱さに徹していることが、子どものとやり取りに繋がることが多いんですね。前にも書きましたが、子どもは、こちらが弱さを隠さず自由にしていると、それがすぐに分かります。そして、安心して近づいてきます。大人は「勝つこと」=「上に立つ」ことに囚われている場合が多いし、そういう大人に限って、子どもを非難したり、おこったりして、コントロールしますでしょ。子どもは、その手の大人にサンザンな思いをしているんですね。ですから、「弱さ」を示す大人には、そんな心配をせずに安心して関われるわけです。赤ちゃんでも、そういう大人には関心を示し、歩み寄ろうとしますからね。実際には歩けませんから、気持ちを向けて、関わろうとするんですけどね。そんな調子ですから、「弱さ」はやり取りや絆に結びつくわけです。「絆」って、東日本大震災後ににわかに注目されてますけれども、何もせずに出来るもんじゃないんですね。「絆」を結びつけるのは、「弱さに開かれた心」です。

 このように、具体的に考えますとね、心の中の「弱ったなぁ」と思う葛藤を、隠し立てせずに受け止めていくときに、やり取りが生まれ、「絆」が生まれ、愛着も生まれるくる、と言えそうですね。「強さ」は、人が人と争い合い、諍いが生じることに結びついているのに対して、「弱さ」は、人が人と結びつき、やり取りと「絆」を生み出すことと結びついていますよね。「キリストの十字架」が、全ての人を全ての人と結びつけるように、「弱さ」が人と人を結びつけるので、「キリストの十字架」=「人の弱さ」というよりも、「キリストの十字架」>「人の弱さ」ということでしょうね。

 人が自分の「弱さ」に開かれていき時に必要なのが、まさに「信頼」ですね。それは、この世で最も残忍で、最もみじめで弱い「キリストの十字架」に開かれるのに必要なのが、「信頼」であるのと、似ています。

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