(1998/ペドロ・アルモドバル監督・脚本/セシリア・ロス、マリサ・パレデス、ペネロペ・クルス、アントニア・サン・フアン、ロサ・マリア・サルダ/101分)
私には珍しいスペイン映画。日本公開は2000年だったそうですが、1999年の米国アカデミー賞他、NY批評家協会賞、LA批評家協会賞、ゴールデン・グローブ等の外国語映画賞を受賞し、カンヌ国際映画祭でも監督賞を獲った作品だそうです。
49年生まれのスペイン人監督ペドロ・アルモドバルは、今や巨匠とも呼ばれることもあるらしく、2002年の「トーク・トゥ・ハー」ではアカデミー脚本賞を獲得したとのこと。個人的には今回が初お目見えです。
マドリードで臓器移植のコーディネーターをしているマヌエラ(ロス)は、一人息子エステバンの18歳の誕生日に一緒に芝居を見に行く。マヌエラもかつてはアマチェア劇団で芝居の経験があり、得意の演目はテネシー・ウィリアムスの「欲望という名の電車」。エステバンと見に行った芝居もソレだった。
上演が終わり、息子は主演女優ウマ(パレデス)のサインをもらうと言う。雨の中、劇場の外でマヌエラも一緒に待つが、出てきたウマは共演の女優と共にそそくさとタクシーに乗ってしまう。サインをもらおうとウマ達の車を走って追いかけたエステバンは通りかかった車に轢かれ、ウマ達は気が付かなかったが、その後エステバンは運ばれた病院で帰らぬ人になる。
実はここまではプロローグ。この後、傷心のマヌエラは仕事も辞めて、青春時代を過ごしたバルセロナに旅立つ。18年前に別れた夫に息子のことを報告に行くのが目的だが、そこで売春婦達の世話をしているシスター・サラ(クルス)や、オカマの古い友人、そしてウマとも再会する。
マヌエラは何故シングルマザーにならなければいけなかったのか。事故が無ければ息子エステバンに語ったであろうマヌエラの過去が徐々に明らかになっていく・・・。
【原題:ALL ABOUT MY MOTHER】
オカマに両刀使い、売春婦に聖職者。しかも死と隣り合わせの人生だったり、痴呆症や薬物中毒の人も出てくる。淡々とした描写ながら、登場する人物はどれも一癖ありそうな者ばかり。性倒錯者はアルモドバル監督お得意のジャンルらしいですが、キワモノ映画(注1)にはなっておりません。それぞれ自分に正直に生きた結果がそうだからです。観客は、あれよあれよという間にとんでもない人生に立ち会う事になります。多様な人生が交差しますが、全体としては一つの輪の中に入ってしまう印象が残る。大団円は望めそうもなかったのに、幾度かは途中でホロリとさせられたし、ラストは将来への希望を残した余韻あるものでした。イイ映画です。
公開時コピーは「世界の映画賞を独占、世界の女たちが涙した、母から生まれた総ての人たちに贈る感動作」。“母から生まれた総ての人たち”って、そりゃ“総ての人たち”で済む話だろがと言いたいところですが、生きるとは何か、母親とは何か、考えさせられる話ではあります。
性倒錯者などが出てくるのにすんなりと受け入れられるのは、主演のセシリア・ロスがノーマルな金髪美人だからでしょう。1999年のヨーロッパ映画賞では、作品賞と共に彼女が女優賞を獲得したとのことです。
劇中劇も出てきますが、アルモドバルの語りには奇をてらったところはなく、シスター・サラの父親の紹介シーンなどは上手さが印象に残ります。
プロローグで親子がTVで観ていた映画が「イブの総て(All About Eve)」。作家志望の息子は母のことをノートに書いていて、父親のことを教えてくれない母親が、若い頃の写真も父親が写っている半分は切り取っている事などを綴っています。映画のタイトルもそこからきているのでしょう。
マヌエラがバルセロナに着いて最初に向かった先が、“原っぱ”と呼ばれる売春婦がたむろする場所というのも驚きました。バルセロナオリンピックは1992年でした。あれから数年後のバルセロナにも、世界の大都市と同じように、かなり荒廃した世界が一面としてあった事を認識した映画でもありました。
(注1) 際物映画ではありません。所謂、際どいモノを扱った映画を意味する、際物の誤用をそのまま使いました。
私には珍しいスペイン映画。日本公開は2000年だったそうですが、1999年の米国アカデミー賞他、NY批評家協会賞、LA批評家協会賞、ゴールデン・グローブ等の外国語映画賞を受賞し、カンヌ国際映画祭でも監督賞を獲った作品だそうです。
49年生まれのスペイン人監督ペドロ・アルモドバルは、今や巨匠とも呼ばれることもあるらしく、2002年の「トーク・トゥ・ハー」ではアカデミー脚本賞を獲得したとのこと。個人的には今回が初お目見えです。
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マドリードで臓器移植のコーディネーターをしているマヌエラ(ロス)は、一人息子エステバンの18歳の誕生日に一緒に芝居を見に行く。マヌエラもかつてはアマチェア劇団で芝居の経験があり、得意の演目はテネシー・ウィリアムスの「欲望という名の電車」。エステバンと見に行った芝居もソレだった。
上演が終わり、息子は主演女優ウマ(パレデス)のサインをもらうと言う。雨の中、劇場の外でマヌエラも一緒に待つが、出てきたウマは共演の女優と共にそそくさとタクシーに乗ってしまう。サインをもらおうとウマ達の車を走って追いかけたエステバンは通りかかった車に轢かれ、ウマ達は気が付かなかったが、その後エステバンは運ばれた病院で帰らぬ人になる。
実はここまではプロローグ。この後、傷心のマヌエラは仕事も辞めて、青春時代を過ごしたバルセロナに旅立つ。18年前に別れた夫に息子のことを報告に行くのが目的だが、そこで売春婦達の世話をしているシスター・サラ(クルス)や、オカマの古い友人、そしてウマとも再会する。
マヌエラは何故シングルマザーにならなければいけなかったのか。事故が無ければ息子エステバンに語ったであろうマヌエラの過去が徐々に明らかになっていく・・・。
【原題:ALL ABOUT MY MOTHER】
オカマに両刀使い、売春婦に聖職者。しかも死と隣り合わせの人生だったり、痴呆症や薬物中毒の人も出てくる。淡々とした描写ながら、登場する人物はどれも一癖ありそうな者ばかり。性倒錯者はアルモドバル監督お得意のジャンルらしいですが、キワモノ映画(注1)にはなっておりません。それぞれ自分に正直に生きた結果がそうだからです。観客は、あれよあれよという間にとんでもない人生に立ち会う事になります。多様な人生が交差しますが、全体としては一つの輪の中に入ってしまう印象が残る。大団円は望めそうもなかったのに、幾度かは途中でホロリとさせられたし、ラストは将来への希望を残した余韻あるものでした。イイ映画です。
公開時コピーは「世界の映画賞を独占、世界の女たちが涙した、母から生まれた総ての人たちに贈る感動作」。“母から生まれた総ての人たち”って、そりゃ“総ての人たち”で済む話だろがと言いたいところですが、生きるとは何か、母親とは何か、考えさせられる話ではあります。
性倒錯者などが出てくるのにすんなりと受け入れられるのは、主演のセシリア・ロスがノーマルな金髪美人だからでしょう。1999年のヨーロッパ映画賞では、作品賞と共に彼女が女優賞を獲得したとのことです。
劇中劇も出てきますが、アルモドバルの語りには奇をてらったところはなく、シスター・サラの父親の紹介シーンなどは上手さが印象に残ります。
プロローグで親子がTVで観ていた映画が「イブの総て(All About Eve)」。作家志望の息子は母のことをノートに書いていて、父親のことを教えてくれない母親が、若い頃の写真も父親が写っている半分は切り取っている事などを綴っています。映画のタイトルもそこからきているのでしょう。
マヌエラがバルセロナに着いて最初に向かった先が、“原っぱ”と呼ばれる売春婦がたむろする場所というのも驚きました。バルセロナオリンピックは1992年でした。あれから数年後のバルセロナにも、世界の大都市と同じように、かなり荒廃した世界が一面としてあった事を認識した映画でもありました。
(注1) 際物映画ではありません。所謂、際どいモノを扱った映画を意味する、際物の誤用をそのまま使いました。
・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて】
内容もさることながら素晴らしい映像世界、「赤」の鮮やかさが目に染み入るアルモドバル独特のセンス。
初々しくも存在感たっぷりのペネロペの登場にも新鮮さが。
賛否高鳴る「トーク・トゥ・ハー」は、ご覧に?
あの映画、男性の十瑠さんの感想聞きたいな~。
「セントラルステーション」と似た感じの色合いだと思いましたが、あのラテン系の色は性と生を表現するのに合っているんでしょう。
ペネロペちゃんは可愛かったけど、シスター・サラがどういった経由でああなったか、納得しかねてます。
「トーク・トゥ・ハー」。観ておりませんので、予定リストに入りました。重そうな話のようですが、正面から描いているんでしょうな。しっかり受け止められるときに観たいと思ってます。
どうしてこのタイトルなのかが、分かったようでいて分からなかったのですが、「イヴの総て」の原題のもじりと考えればわかりやすいですね。なるほど納得。
鑑賞直後はいい手応えを感じたのですが、一年ほど経って仔細を覚えていなくて、なぜかあの前夫の存在だけがやたらと目につきます。悪い意味で。
それでも、“自分に正直に生きた結果”なのだからという監督の描き方だったように思います。そこまで含めようとしている所が、深イイというか、何というか・・・。