テアトル十瑠

1920年代のサイレント映画から21世紀の最新映像まで、僕の映画備忘録。そして日々の雑感も。

幸福(しあわせ)

2008-10-02 | ドラマ
(1964/アニエス・ヴァルダ監督・脚本/ジャン・クロード・ドルオー、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ/80分)


 以前『期待はずれだったアレやコレ』と題して、批評家筋に好評だったので期待して観たのに個人的にはハズれてしまった作品について書きましたが、「幸福」もその中の一つでした。思うことがあり、先日数十年ぶりに再見。いくつかの作品と同じように、これも評価を変えなければいけない映画のようです。いやぁ、これだから映画は止められない。成人後に観たはずですが、それでも印象って変わるんですねぇ。

 以下、未見の方には“ネタバレ注意”です。

*

 叔父の経営する内装業の店で職人をしているフランソワには、優しい妻のテレーズと二人の幼い子供がいる。洋裁が上手なテレーズは仕立ての内職もしていて、ウェディング・ドレスの注文などもある。フランソワは仕事が終わればまっすぐに家に帰るし、料理も巧い妻と可愛い盛りの子供たちに囲まれて、休日には家族四人で森にピクニックに行くこともある。まさに絵に描いたような幸せな家庭を持っていた。
 出張で近くの町に行った時に、彼は郵便局で受付をしているエミリーと出逢い互いに惹かれるものを感じる。出張は数日にわたり、ある日フランソワはエミリーに声をかけて一緒にランチをする。彼女の話で、近々彼女がフランソワの住む町に引っ越して来ることが分かり、エミリーは引っ越し先の住所を教え、部屋に棚がほしいので付けてくれないかと言う。彼が妻子持ちであることにこだわりは無いようだった。
 数週間後、フランソワは越してきたエミリーの家を訪ねる。そこは元々はエミリーの兄のアパートで、兄の転勤の間、彼女が管理することになったのだ。二人はすぐにお互いの好意を認め、抱擁し口づけを交わす。
 家庭のある人でも構わないし、男性は初めてじゃないわというエミリー。フランソワはためらいもなく彼女に愛を求めるのだった・・・。

 と、前半までのストーリーを書くとこんなもんです。ヌーヴェル・ヴァーグ唯一の女性監督と言われたヴァルダの演出は、最近の“ゆるい”系に通じる日常の風景をスケッチ風に切り取ったようなタッチの映像で、ドラマチックな展開にはなっていません。いわゆるヌーヴェル・ヴァーグ派と言われた人々に技術的に系統立てたモノはなかったようですが、写実性を重視したスタイルはトリュフォーと共通しています。ソルボンヌ大学で写真を勉強していたというヴァルダ監督は、非常に美しい色彩と落ち着いた構図で穏やかなムードを漂わせながら、善良な顔をした男の不倫を描いていくのです。

 いつものように休日に出かけた家族揃ってのピクニックで妻が言う。
 『最近、うれしそうね。なにかあったの?』
 しばらく逡巡した夫は、何度かためらいながらも、妻に促されるまま遠回しに浮気を告白する。
 『僕たちは区切られたリンゴ畑の中にいるが、畑の外にもリンゴはあるんだ』
 妻は特に取り乱すことは無かったが、『その人は嫉妬しないの? でも、妻は私よ』と言った。夫は妻が許してくれたと小躍りして森の中で妻を抱き、妻も応える。『君とは別れないさ。でもその女(ひと)も愛してしまったんだ。君ももっと僕を愛してくれ』

 ヒャーッ。言いますなぁ、この男。
 エミリーのアパートのベッドでフランソワがこぼした言葉が物語るように、要は従順な妻に不満はないがセックスに関して妻よりも積極的な独身女に旦那は惹かれただけなんですがね。同時に違うタイプの女性を愛する。男ってそんなもんさと言ってみたい気もしますが・・。
 しかしこの後、けだるい昼寝から目覚めたフランソワは、傍らにいるはずのテレーズの姿がないのに気付き、子供を抱えて森の中を探し回り、変わり果てた姿の妻と再会するわけです。

*

 全体としてスケッチ風に流れるように描きながら、要所でみせる変化球が印象的です。
 最初にフランソワがエミリーのアパートを訪ねた時に、女の部屋の様子を見ているフランソワの主観ショットをフラッシュバックで挿入して、二人の緊張感を描くのに成功しています。
 テレーズの作ったウェディング・ドレスを着た花嫁とその家族が式場に向かう間に何度か記念写真を撮るシーンでは、シャッターを押した瞬間の写真を挿入し、楽しげな雰囲気が醸し出されました。
 終盤、水死体となったテレーズとフランソワが再会するシーンでは、フランソワが彼女を抱き上げるショットを繰り返し流し、また溺れているテレーズを遠景でとらえたショットをフラッシュバックで挿入したことによりショッキングな効果をあげていました。
 フランソワと二人の女性のベッドシーンを、顔や体のアップショットで繋いだ描写には写真家の感性が生かされているし、『誘惑』、『秘め事』、『信念』、『信頼』などという街の看板やポスターの挿入は、強引ですが洒落た皮肉なユーモアが感じられます。
 64年という製作年を考えると、いずれもかなり斬新なモノだったのではないでしょうか。



 さて、概ね好印象に変わった「幸福」ですが、ただ一点、奥さんの死亡後の展開に今ひとつ釈然としないものを感じています。
 初見時もそうでしたが、端から見ても羨ましいくらいの家族に起きた不幸なのに誰一人としてその原因を追及しないのが不自然に感じました。夫婦の周りの人間も、ただ旦那を可哀想にと見守るだけで誰も奥さんの自殺の原因を追及しない。何故なんでしょう?
 入水自殺する直前の奥さんには夫や子供たちに対する様々な感情が沸いていたはずですが、映画はそこを端折って描いているので、観ている方は夫と同じようにショックを受ける。この妻の心情を無視した描き方は、終盤の夫婦の周りの人々の妻への無関心を不自然に感じさせないための作者の策略ではないか。そんなことまで考えてしまいました。

 その辺りを色々と考えていたら、ふとこんな考えも浮かんできました。奥さんの死は自殺ではなく、事故だったのではないか。少なくとも、フランソワや夫婦の周りの人々は自殺ではなく事故として認識しているのではないかということ。殆どのレビューを見てもテレーズの死は自殺として認知されていますが、映画をよく見ると(字幕スーパーで観る限り)どこにも自殺という表現はありません。
 フランソワが遺体となったテレーズを抱き上げる時に、彼女が溺れている短いショットが入ってきます。あれはフランソワの想像の画だと思いますが、あの中で池に首まで沈んでいるテレーズは側にある木の枝に捕まろうとしています。覚悟の自殺であればむしろ整然と沈んでいくのではないでしょうか。勿論、土壇場で怖くなったということもありますが、映画の短い表現の中では、あれは自殺と言うよりは事故を描いた様に見えます。つまり、フランソワの中ではテレーズの死は事故死だったということ。そう考えると、フランソワの周りの人の反応が理解できるような気がするのです。



 テレーズが亡くなり、子供の養育のことなどを家族で話し合いながら、徐々にフランソワは立ち直っていく。夏が終わり、フランソワはエミリーのアパートを訪ね結婚しようと言う。『子供も愛してほしい』
 エミリーは『奥さんの代わりはいやよ』と言いながら、彼のアパートに入り、子供達の面倒も見るようになる。洋服にアイロンをかけ、花に水を遣る。幼稚園に行きだした子供達を迎えに行く。かつてテレーズがそうしたように。
 ラスト・シーンは、フランソワの家族が四人で森にピクニックに行き、深まった秋の紅葉の中を手を繋いで歩いている風景でした。心理的に緊迫したシーンでは無音となり、それ以外は幸福感が溢れるモーツァルトの曲が流れますが、ここでもそれまでと同じ曲なのに少し違った印象になりましたね。
 作者も主人公達に距離を置いているように感じたラスト・シーンでした。

 <女流監督のヴァルダが男性のエゴイズムに一矢報いた一篇。モーツアルトの曲、ルノワールのような映像の美しさが残酷さをきわだたせている。>
 これは、双葉先生の評です。先生もテレーズは自殺と断定されていますが、フランソワが本当に自殺と思っているのか、はたまた事故と思っているのかで、“一矢報いた”のかどうかも違ってきますね。さて、皆さんはどう思われますか?
 テレーズは自殺だったが、夫も世間も事故と思っていたら・・・虚しさしか残らないんだけど。

 1965年ベルリン国際映画祭、銀熊賞受賞作です。

 最近ではこの夫婦の逆のケースもあるようなので、男と女という対立軸で観るとテーマは古いかも知れません。「幸せ」の成り立ちとして見ると無常感も出てきますが、お好みから言えばお薦め度は低くなりますね。

 テレーズを演じたクレール・ドルオーも子供達も、ジャン・クロードの実際の妻であり子供達だそうです。演技は素人だったらしいですが、クレールさん大胆ですねぇ。

・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて】 テアトル十瑠

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12 コメント

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作者の策略 (viva jiji)
2008-10-03 11:58:04
です。^^

だから本作が忘れられない作品なのですわ。

いちいち説明しない、
バスッ、バスッと端折っちゃう、
おいおい!っと思っちゃう、
サクサク進むよ~大人の寓話だ、80分!!^^

でも十瑠さん、エライ!
殿方はまんずこういう系嫌うもの~

事故死でも自殺でも
知ってか知らずかあのおトーチャンの
心象風景もバッサリ削ってまって
あのモーツアルトのラストよ。
だから、怖いのよ。すごいのよ。
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コメント、ありがとさんです (十瑠)
2008-10-03 15:33:00
昨日の朝は、オカピーさんの掲示板でコメントを考えている間に姐さんに先を越されてしまい、一番乗りだーっと“投稿”ボタンを押したら二番でした^^

>作者の策略

ですか。

私のような人間にはかえって気になって、そこまで観客にゆだねられてもって、思ってしまいますね。

「allcinema 」のコメントにも、自殺か事故か曖昧にしていて、そこに男性にとって従属的な女性の立場に対する、疑問と意義やアイロニーが仄めかされる、とありましたが、私には終盤の曖昧さと、策略の強引さがマイナスとなったような気がします。

ヴァルダのその他の作品には興味が増してきましたね。「5時から7時・・」なんて観たいですなぁ。
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TB致しました。 (オカピー)
2008-10-05 04:08:35
ドラマツルギー的には自殺と解釈するのが妥当と思います。
アニエス・ヴァルダほどの才女が、まして男性を情けない存在と描いている感のある女権主義者的な彼女が、三流映画的な安易な解決方法と思われかねない事故死を用意する必要があるのか、という疑問が生じます。

>フランソワの中ではテレーズの死は事故死だったということ。

その通りと思われます。
彼は妻の死に際してまで自分に都合の良い事故死を考える楽観主義的エゴイストである、という意味を込めたのではないでしょうか。
妻の死を真に悲しむのは(彼女の両親は出ていない記憶あり)夫と子供だけですが、夫は誠実だが繊細さに欠ける楽観主義者、子どもたちはいかんせん自殺はおろか死を理解できる年齢に達していない。誰にも大きな事件と受け止められず忘れられていく・・・それが彼女即ちやや古いタイプの女性の不幸ということでは?

後年の佳作に「歌う女・歌わない女」というのがありますが、恐らくテレーズは自己主張しない「歌わない女」で、(allcinemaのコメントにあるように)ヴァルダはおそらく男性のみならず彼女の生き方に対しても疑問を呈しているように思います。
返信する
追記 (オカピー)
2008-10-05 04:20:56
私め、ちょっと調子に乗って主張が強すぎたような気がします。時々こういう失敗をやらかします。
しかも文章がひどく硬質・・・
その点viva jiji姐さんはうまいなあ。

どうか気を悪くされませんように。
<(_ _)>
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楽観主義的エゴイスト (十瑠)
2008-10-05 08:00:44
オカピーさん、解説ありがとうございました。
私も疑問に関するところは結構硬い表現をしていますので、“追記”は不要ですよ^^

結論としては、推測通りと言うことになりました。
テレーズは自殺したんだが、フランソワの中ではテレーズの死は事故死だったということ。多分、彼の回りの人々も事故死で処理しているのでしょう。

この辺は、曖昧にせずに(作者の中ではハッキリしているのかも知れませんが)、フランソワなり周囲の誰かに軽い一言でも良いから、事故と認識している旨を語らせたほうがショックだし、余韻も増すような気がしますね。少なくとも、私には。

結論はともかくとして、過程の描写が自己の感性を自在に表現しているヴァルダの手腕に感心しました。
「歌う女・歌わない女」も覚えておきます。
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“男性”は定冠詞、不定冠詞? (オカピー)
2008-10-14 15:03:08
前回大いに威勢を張ってしまった愚生ですが、今頃になって追加コメントをば。

双葉先生の「女流監督のヴァルダが男性のエゴイズムに一矢報いた一篇」というコメントにおける、“男性”は定冠詞即ちフランソワではなく不定冠詞即ち我々男性観客でしょう。何となれば、主語が女性監督ヴァルダですから。
従ってフランソワが事故死と思う底なしの能天気だとしても、男性観客は【他山の石】としなければならない、という主張をヴァルダが展開していると、師匠はみなしたのでしょう。

そう僕は解釈しました。
あくまで僕の分析であって、【解説】なんて程のものではありませんのです。^^;
先日観た「ゆれる」も事故か事件かをめぐる心理劇で、作者が客観ショットを省略しているので、実に多様な解釈ができる作品でした。僕の中でははっきりしていて、決して鑑賞者任せの作品ではないのですけどね。

とにかく、自殺か事故死かという十瑠さんの疑問提示は大変有意義なものだったと思います。
僕はそんな疑問すら湧きませんでした。^^;
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不定冠詞 (十瑠)
2008-10-14 16:35:40
>“男性”は定冠詞即ちフランソワではなく不定冠詞即ち我々男性観客でしょう。

本記事の、そこの下りは、男性=フランソワと私が認識しているような誤解を招く恐れ有りと思いながら放置していた部分で、先生の“男性”とは勿論我々の事なんですが、ヴァルダが今作品で男性の代表者として取り上げたフランソワが「底なしの能天気だとしても」、ある種の男性にとっては『アイツ上手いことやりやがったなぁ』と思わせかねない結末でもあったわけだし、そこで一概に、“一矢報いた”とも言えないなぁと感じた次第です。
女性の片方の代表たるテレーズについても、オカピーさんが書かれたようにヴァルタは批判精神を持って描いたのかも知れませんが、その精神も明確には描かれていなかったし、明確に描くと今度はエミリーが単純な悪者になっちゃうしと、とにかくこの映画はラストの捉え方が難しいと感じました。
ヴァルダの狙いは、単に『家族の幸せって何?』との問いかけではなかったか。そんなことまで考えてしまいます。彼女自身がその辺について語っているものがあればスッキリするんですが。
狙いと手段が合っていたかという検証は残りますがね。

「ゆれる」は録画保存したまんまです。
オカピーさんのレビューは途中まで読んで、ミステリー作品だと分かって慌てて止めました。
早く観たいッ!
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幸福とは (樹衣子*店主)
2014-02-11 09:10:38
こんにちは。

この映画は、とても印象に残っていますが、
十瑠さまのブログを読んで、こんなに美しい映像だったとは気がつきませんでしたね。寒色系の淡い水色がはかなくも美しいです。

時代を経て、独身率も高まり、女性のあり方が変化した現代では、この映画ももはや古典ですね。

>この映画はラストの捉え方が難しいと感じました

確かに、アメリカ映画のようにわかりやすい映画ではないですね。
人生に正解がないことと同じかもしれません。
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ごめんなさい! (樹衣子)
2014-02-11 09:14:36
コメントをした名前に、以前記憶させていた「*店主」がついたまま送信してしまいました。
貴ブログの主催者と間違えそう。。。
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樹衣子さん、いらっしゃいませ (十瑠)
2014-02-11 10:28:40
「幸福とは?」というテーマで作られる映画はこれからも永遠に作り続けられるでしょうから、この男女の幸福感の違いを描いた作品もずっと残り続けると思いますね。古典だけど、古典と感じない人々もずっと存在するのではと・・・。
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