(1971/ルキノ・ヴィスコンティ製作・監督・共同脚本/ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセン、シルヴァーナ・マンガーノ、ノラ・リッチ、マーク・バーンズ、マリサ・ベレンソン、ロモロ・ヴァリ/131分)
「ベニスに死す」を観る。初公開が1971年だから約45年ぶりだ。
実は2006年11月にNHK-BS放送を録画したDVDがあったのに今まで放置していた。11年も。
ヴィスコンティは好きになれない監督って以前にも書いたことがあるけど、今思えば最初はこの映画が原因じゃなかったかと思う。双葉先生他沢山の批評家が絶賛していたので映画館まで観に行ったのにサッパリ感動しなかったからだ。
大体、芸術家を主人公にした作品って監督本人の思い入れが強すぎて独りよがりの表現が多いと思うんだよな。フェリーニの「81/2」然り。
あと、小説でいえば一人称で叙述されたような作品を映画にするのも危険が多いと思う。ベルイマンの「野いちご」のように夢や幻想で内面を表現できる分はいいけれど、マルの「鬼火」のように客観的な映像だけで内面まで描こうとするのは無理がある。主観ショットがあっても映像はあくまでも客観的なものだからだ。夢や幻想が無いのならモノローグくらい流して欲しいと思っちゃうんだな。
「野いちご」や「鬼火」を持ち出したのは、今回「ベニスに死す」を観ながらそれらを思い出したからで、更に主人公が芸術家だから心情を理解するのは余計に難しい。勿論、僕の理解力不足もあるとは思うけれど、一般ファンへ大いにお勧めするとは言い難い映画であることは間違いない。
原作はトーマス・マンの同名小説。原作では小説家が主人公だが、映画では音楽家になっている。
ダーク・ボガード扮するドイツの作曲家グスタフ・アッシェンバッハが静養の為にベニスを訪れる所から映画はスタートする。港に着いた途端に何やら急に話しかけてくる化粧面の小男が居たり、言う事を聞かない小船の船頭が出てきたり、更に主人公の物腰も高慢そうなので不穏な雰囲気がする。
ウィキでは老作曲家と紹介されている主人公は一人旅。気難しそうな彼が何故一人でベニスに来たのか? それは時々挿入される過去の映像から分かってくる。
幼い娘の死、聴衆に受け入れられなくなった楽曲、友人との芸術論争。心身ともに疲弊していて、心臓も弱り、医者の勧めもあってベニスにやって来たのだ。ホテルの部屋に入った彼の荷物には、娘の写真立てと共に若い妻の写真立てもある。描かれてはいないが妻も亡くなっているのかもしれない。
最初の夜。夕食の前に入ったラウンジで、グスタフは精錬された佇まいの一家に目を止める。
これもウィキによるとポーランド貴族の一家なんだそうだが、幼い少女二人とミドルティーンくらいの姉、彼女らの家庭教師と思しき女性と気品溢れる母親、そしてグスタフが最も心を奪われたのがビョルン・アンドレセン扮する美しい少年タジオだった。
友人との芸術論争において、美は芸術家の努力の賜物以外にないという立場のグスタフに対して、友人アルフレッドは美は天然自然の中から生まれるものであると言う。要するに、タジオという存在を美しいと感じる事は、友人との芸術論争で語った自身の言葉を否定してしまう事なのだ。
映画の前半は、タジオの美しさを認める自分と、美を創造するのは芸術であるというこれまでの考え方を否定したくない自分とのジレンマに陥ってしまうグスタフが描かれている。
居たたまれなくなったグスタフは急用が出来たと嘘をついてホテルを後にするが、最寄りの駅で手違いで荷物が指定してない場所に送られてしまった事が分かる。結局、グスタフの手元に戻るまでホテルに留まるを得ないようになり再び船で戻っていく。ついさっきまでベニスを出ようとしていたのに、出れなくなった途端ににんまりと一人笑顔になるグスタフ。又、タジオに会えることが嬉しいのだ。
再度ホテルに戻った後、ビーチでタジオを見つけた後にグスタフがいそいそと書き物をするシーンがある。美少年にインスパイアされて曲が生まれようとしたんだろうけど、モノローグが無いのでどういう気持ちだったのか分からない。芸術的な美の創造について考え方が変わったのではないかと思うんだけど、この辺り物足りなかったなぁ。
ここまでで上映時間は大体半分。ここまでは結構面白かった。
後半はグスタフがストーカーのように街でタジオを尾行したり、物陰からジッと見つめたりするシーンが続いて些かうんざりする時間が多くなる。
ドラマ的にはベニスの街に広がっていく疫病への恐怖を軸として、不穏な街の様子を調べていく過程とか、それが疫病と知った後はタジオ一家にその事を知らせるべきだが、それはタジオとの別れを意味することとなるジレンマとか、面白いエピソードになりそうなのに、どうも中途半端な印象しかない。
疫病がアジアコレラと分かった後、タジオ一家にコレラの事を知らせて避難を促す救世主になる自分を想像するシーンはあるけれど、恐怖を募らせるよりもタジオへの想いが募るのが優先していて、つまりグスタフが思考停止的になっていて僕の関心も薄らいでいった。
「アデルの恋の物語」もそうだけど、恋に盲目的になって思考停止状態になった主人公をどんなに描かれても、興味が無くなっちゃうんだよな。
ということで、131分の上映時間中80分くらいまでは面白いけれど、後半の50分は僕的には冗長だ。
後半に、客として娼館に入っていくグスタフのシーンがある。タジオが広間で「エリーゼのために」をピアノで弾いているのを聴きながらグスタフが過去を思い出しているように描かれているんだが、可愛らしい娼婦が相手をしてくれたのにどうやら肉体的な繋がりはなかった様だ。
このエピソードは何を意味してるんだろう。
アルフレッドには芸術家は不道徳であるべきなんて言われてたが、それを実践しようとしたということなんだろうか?
結末は推して知るべし。
45年前に感慨が残らなかったのが納得できた再見だった。
アカデミー賞では衣装デザイン賞に、カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールにノミネート。
英国アカデミー賞では作品賞、主演男優賞、監督賞にノミネート、撮影賞(パスクァリーノ・デ・サンティス)、美術賞、衣装デザイン賞、音響賞を受賞したそうです。
「ベニスに死す」を観る。初公開が1971年だから約45年ぶりだ。
実は2006年11月にNHK-BS放送を録画したDVDがあったのに今まで放置していた。11年も。
ヴィスコンティは好きになれない監督って以前にも書いたことがあるけど、今思えば最初はこの映画が原因じゃなかったかと思う。双葉先生他沢山の批評家が絶賛していたので映画館まで観に行ったのにサッパリ感動しなかったからだ。
大体、芸術家を主人公にした作品って監督本人の思い入れが強すぎて独りよがりの表現が多いと思うんだよな。フェリーニの「81/2」然り。
あと、小説でいえば一人称で叙述されたような作品を映画にするのも危険が多いと思う。ベルイマンの「野いちご」のように夢や幻想で内面を表現できる分はいいけれど、マルの「鬼火」のように客観的な映像だけで内面まで描こうとするのは無理がある。主観ショットがあっても映像はあくまでも客観的なものだからだ。夢や幻想が無いのならモノローグくらい流して欲しいと思っちゃうんだな。
「野いちご」や「鬼火」を持ち出したのは、今回「ベニスに死す」を観ながらそれらを思い出したからで、更に主人公が芸術家だから心情を理解するのは余計に難しい。勿論、僕の理解力不足もあるとは思うけれど、一般ファンへ大いにお勧めするとは言い難い映画であることは間違いない。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/d5/8cb84c7a3e067287ac3e42a2c4f8ba08.jpg)
ダーク・ボガード扮するドイツの作曲家グスタフ・アッシェンバッハが静養の為にベニスを訪れる所から映画はスタートする。港に着いた途端に何やら急に話しかけてくる化粧面の小男が居たり、言う事を聞かない小船の船頭が出てきたり、更に主人公の物腰も高慢そうなので不穏な雰囲気がする。
ウィキでは老作曲家と紹介されている主人公は一人旅。気難しそうな彼が何故一人でベニスに来たのか? それは時々挿入される過去の映像から分かってくる。
幼い娘の死、聴衆に受け入れられなくなった楽曲、友人との芸術論争。心身ともに疲弊していて、心臓も弱り、医者の勧めもあってベニスにやって来たのだ。ホテルの部屋に入った彼の荷物には、娘の写真立てと共に若い妻の写真立てもある。描かれてはいないが妻も亡くなっているのかもしれない。
最初の夜。夕食の前に入ったラウンジで、グスタフは精錬された佇まいの一家に目を止める。
これもウィキによるとポーランド貴族の一家なんだそうだが、幼い少女二人とミドルティーンくらいの姉、彼女らの家庭教師と思しき女性と気品溢れる母親、そしてグスタフが最も心を奪われたのがビョルン・アンドレセン扮する美しい少年タジオだった。
友人との芸術論争において、美は芸術家の努力の賜物以外にないという立場のグスタフに対して、友人アルフレッドは美は天然自然の中から生まれるものであると言う。要するに、タジオという存在を美しいと感じる事は、友人との芸術論争で語った自身の言葉を否定してしまう事なのだ。
映画の前半は、タジオの美しさを認める自分と、美を創造するのは芸術であるというこれまでの考え方を否定したくない自分とのジレンマに陥ってしまうグスタフが描かれている。
居たたまれなくなったグスタフは急用が出来たと嘘をついてホテルを後にするが、最寄りの駅で手違いで荷物が指定してない場所に送られてしまった事が分かる。結局、グスタフの手元に戻るまでホテルに留まるを得ないようになり再び船で戻っていく。ついさっきまでベニスを出ようとしていたのに、出れなくなった途端ににんまりと一人笑顔になるグスタフ。又、タジオに会えることが嬉しいのだ。
再度ホテルに戻った後、ビーチでタジオを見つけた後にグスタフがいそいそと書き物をするシーンがある。美少年にインスパイアされて曲が生まれようとしたんだろうけど、モノローグが無いのでどういう気持ちだったのか分からない。芸術的な美の創造について考え方が変わったのではないかと思うんだけど、この辺り物足りなかったなぁ。
ここまでで上映時間は大体半分。ここまでは結構面白かった。
後半はグスタフがストーカーのように街でタジオを尾行したり、物陰からジッと見つめたりするシーンが続いて些かうんざりする時間が多くなる。
ドラマ的にはベニスの街に広がっていく疫病への恐怖を軸として、不穏な街の様子を調べていく過程とか、それが疫病と知った後はタジオ一家にその事を知らせるべきだが、それはタジオとの別れを意味することとなるジレンマとか、面白いエピソードになりそうなのに、どうも中途半端な印象しかない。
疫病がアジアコレラと分かった後、タジオ一家にコレラの事を知らせて避難を促す救世主になる自分を想像するシーンはあるけれど、恐怖を募らせるよりもタジオへの想いが募るのが優先していて、つまりグスタフが思考停止的になっていて僕の関心も薄らいでいった。
「アデルの恋の物語」もそうだけど、恋に盲目的になって思考停止状態になった主人公をどんなに描かれても、興味が無くなっちゃうんだよな。
ということで、131分の上映時間中80分くらいまでは面白いけれど、後半の50分は僕的には冗長だ。
後半に、客として娼館に入っていくグスタフのシーンがある。タジオが広間で「エリーゼのために」をピアノで弾いているのを聴きながらグスタフが過去を思い出しているように描かれているんだが、可愛らしい娼婦が相手をしてくれたのにどうやら肉体的な繋がりはなかった様だ。
このエピソードは何を意味してるんだろう。
アルフレッドには芸術家は不道徳であるべきなんて言われてたが、それを実践しようとしたということなんだろうか?
結末は推して知るべし。
45年前に感慨が残らなかったのが納得できた再見だった。
アカデミー賞では衣装デザイン賞に、カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールにノミネート。
英国アカデミー賞では作品賞、主演男優賞、監督賞にノミネート、撮影賞(パスクァリーノ・デ・サンティス)、美術賞、衣装デザイン賞、音響賞を受賞したそうです。
・お薦め度【★★★=一見の価値あり】 ![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
>一般ファンへ大いにお勧めするとは言い難い映画であることは間違いない。
ですよね(汗)
この作品はたぶん2回ほど観てますが、正直彼が何を考えていたのか、いまいちわかりません。おっさんが美少年をストーキングする映画という印象…。
あと、少年のわかってて誘惑するような様子に、末恐ろしさを感じました。
結末は覚えていたので、前半をじっくり観ていたら面白かったという・・・。
終盤を滅びの美学と受け入れる器量のある人は楽しめるでしょうけど、僕はダメですね。
>正直彼が何を考えていたのか、いまいちわかりません。
僕にも分かりません
ただ、本作は右脳派向けで、僕は左脳人間らしく論理的に解釈して面白く観ているだけで、淀川さんのように心底から堪能するレベルには到達していないと思います。
今日、本館にて画像をアップしました。
もしかしたらお忘れになっているかもしれないと思い、強引にこちらの記事へのコメントでリマインダーとしてしまいました。すみません。
すぐに、思いつきましたが、ちょいとお疲れ気味で午後の曳航、もとい午後の投稿となるでしょう。あしからず。
さて、「ベニス」の話。
多分僕も左脳が強い方だと思いますが、よって時に勝手にストーリーを解釈してるんじゃないかという不安にも襲われまする。つまり理解力不足ですね。
何年か先にまた観てどう感じるか、試してみたい気もしますネ。