Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

高岡薪能 ’18

2018-08-29 | 能楽
 
高岡薪能 ’17
 高岡薪能 ’16  👇は、私の「昨年の高岡薪能」のブログです。 高岡薪能 ’15  ↓は昨年の私のブログだが、「薪能」開始直前の雨で急きょ法堂に駆け込み、「羽衣」......
 

  👆は、昨年の私の「薪能」のブログです。  昨年は、8/27(日)が瑞龍寺薪能、ちょうど息子がお墓参りに帰省していて一緒にお能を観たことを思い出した。瑞龍寺境内の特別舞台の真上に月が輝き、能「竹生島」の天女と竜神の舞が際立って美しかった。
 今年は、8/26(日)が「高岡薪能」。第一部の高岡能楽会会員能楽大会に素謡「昭君」の地謡と連調連管「中の舞」に出ることになっていた。今までは法堂で行われたが、昨年はお寺の行事の関係で大庫裏、今年は大茶堂、と毎年場所が変わり、着替えの部屋も変わるのでてんてこ舞いする。
 
 👇 蒼山会の素謡「昭君」 

 👇 連調連管「中の舞」

 あまりにも暑い日で、着物を脱いだらぐったり。夜のお能に備え席だけとって一旦帰宅。ひと休みをしてから再度瑞龍寺へ出向く予定でいた。

 着物のバッグを車に入れ、駐車場から境内へ向う時ちょっとしたハプニングが…。駐車場の出口に一人の青年の姿があった。一緒のMEちゃんが「あ、金森先生の息子さん。」「まさかぁ。能楽会か市役所(なんで市役所?)の職員さんやろ」と私。が、近づいてみるとやはり金森先生の次男さん、隆晋さんだった。今、装束が着くのを待っているところだそうだ。この日はお能の後見を務められるが、装束を受け取るのも後見のお仕事なのだろう。「サラメシに出ておられた?」とMEちゃん。「いえ、アレは兄の方で…」と話はまだ続きそうだったが、残念、誰か何か尋ねる人がいてそちらの対応を…。そして境内に入ると、今度は金森先生とお兄さんの良充さんが揃って山門をくぐって来られた。「見る方たちも暑いですね」 「いえ、演じられる方こそ…」 屋外だから自然の風だけが頼りで、あの重い装束をつけるのはさぞ暑いことだろう。この日良充さんは「清経」のツレ、金森先生は仕舞「網の段」を舞われる。

 👇は、今年のポスター。能「清経(きよつね)」です。         

 まだ日が高かったが、第2部公演めがけて家を出た。
 👇 業者の方々がマイクの準備。提灯、燭台はすでに設えられ、ガスボンベ、消火器など設置されている。消防士の方も何人か待機。上田先生を始め、能楽会の方たちも忙しそうに動き回っておられた。座布団席には日傘をさしてもう座っている人も。 

  左に五色の揚幕。橋掛りに松。仮設とは言え本当の能舞台である。 

  第2部は、上田先生の開会宣言、高橋市長の挨拶、金井先生の演能曲目の解説に始まり、 

   

 👇 舞囃子「紅葉狩」、狂言「水掛婿」、仕舞「網ノ段」、「笠ノ段」、火入れの儀、能「清経」と進む。   

 👇 能「清経」

 👇は、北日本新聞1面の「薪能」の記事の写真。篝火と清経(大坪先生)、はかなげに勇ましく、美しく撮れている。 

 金井先生の説明もわかり易く、番組表の解説も丁寧で、初めて見た方もよくわかった、と後で近所の方から聞いた。

 「清経」は、能の代表的な演目。清経入水のエピソードを世阿弥が書いた傑作だ。私も大好きな曲で何度も観ている。
 平清経は、清盛の長男である重盛の三男。武道一辺倒ではなく、横笛をたしなみ貴族化した優美さをもつ公達だった。

 平家一門が都落ちした後、都でひっそり暮らしていた清経の妻のもとへ、九州から、家臣の淡津三郎(あわづのさぶろう)が訪ねて来ます。三郎は、清経が、豊前国柳が浦の沖合で入水したという悲報をもってやって来たのです。形見の品に、清経の遺髪を手渡された妻は、再会の約束を果たさなかった夫を恨み、悲嘆にくれます。そして、悲しみが増すからと、遺髪を宇佐八幡宮に返納してしまいます。
 しかし、夫への想いは募り、せめて夢で会えたらと願う妻の夢枕に、清経の霊が鎧姿で現れました。もはや今生では逢うことができないふたり。再会を喜ぶものの、妻は再会の約束を果たさなかった夫を責め、夫は遺髪を返納してしまった妻の薄情を恨み、互いを恨んでは涙します。やがて、清経の霊は、死に至るまでの様子を語りながら見せ、はかなく、苦しみの続く現世よりは極楽往生を願おうと入水したことを示し、さらに死後の修羅道の惨状を現します。そして最後に、念仏によって救われるのでした。(ネットより)

 青年期の多感な精神が昨日までの栄華と打って変わった危機的状況に直面し、極限状態の中で絶望から死へと辿って行くプロセスを世阿弥はみごとに描いている。行く末の絶望の中で精神的に追い詰められていく様子が、世の無常と戦乱の恐怖となって語られる。
 月澄む夜に海底へと沈んで行かねばならなかった清経の心理は、現代人にも共感できるものだ。(シテのクセ舞~この後死後の修羅道を舞います・解説より)

 能「清経」
 シテ(清経):大坪喜美雄  ツレ(妻):金森良充  ワキ(粟津三郎):平木豊男
 大皷:飯島六之佐  小鼓:住駒幸英  笛:瀬賀尚義
 地謡:佐野由於 他


8月最後のお茶教室

2018-08-25 | 茶道
 
夏休みのお茶教室~茶箱
 8月はお茶教室も夏休みなのだが、それぞれのお孫さんたちが成長され帰省されなくなったからもあって、今年は12、19日の2回はお稽古があった。 12日(土)は、茶箱のお点前。一番......
 

 8月最後のお茶教室、と言っても私には初めの最後。土曜組はお稽古日が2度あったが、18日は金沢へ「観能の夕べ」を観に行きお休みした。25日は「禅deさろん」8月号の編集打ち合わせもあり、姫さんと私は早めに茶々姫さん宅へ。
 この日は、タクちゃんを加え弟子は3人のみ。台風20号が夜中に富山県内を抜け、小矢部や福野で被害があった模様。一日中蒸し暑い日だった。

 👇お軸は、  「雲悠々 水潺々(くもゆうゆう みずせんせん)」。
  夏の空にぼっかりと雲が悠然と浮かび動くことがない一方、谷川の水はひとときも絶えることなく潺々(さらさら)と流れる様をいうそうです。自然界の「動と静」の得も言われぬ絶妙のあり様を言い、また、雲のように心無く自在に、水のように形無く自由にある姿を「あるべき生(い)き様(ざま)」として表す言葉でもあるそうです。

 👇 お花は、ヒオウギ水仙と白ユリ。

 👇 大水指に白木の蓋。中央に穴が3つ開いていて皮ひもで取っ手がついていたそうな。

 👇 ネットで見つけた蓋。ただし、これは天目茶碗用とか。画像1: 在庫限り【茶道具】 白木蓋 天目茶碗用  *藤井大与*  

 👇 お茶碗は、この夏最後の朝顔の花。

 主菓子は「青柿」でした。


金沢「観能の夕べ」 & 能楽堂周辺工事

2018-08-20 | 能楽
 
二日続けて金沢へ~能と尺八のコラボ
  石川県立能楽堂では、毎年7,8月の土曜日の夜に「観能の夕べ」が催される。仕舞、狂言、能が一番ずつで、わずか1000円なので以前はよく出かけたものだが、ここ数年は日がとれず観てい......
 

 👆は昨年の私のブログです。8月に2度も金沢の能楽堂へ行っていたとは! 元気だったな~。
 今年は、8/18(土)、あいの風とやま鉄道に乗って、なはさんと「観能の夕べ・特別公演」を観に行った。まず、金沢駅構内3Fの蕎麦屋「そじ坊」でちょっと珍しいお蕎麦を食べた後、能楽堂前へ行くバスに乗ろうと出口に向かったとたん、声をかけられた…。振り向くと私と同じ「蒼山会」のKAさんとTOさん。4人いるからタクシーに乗りましょう、となった。

 能楽堂付近は目下工事中。「歴史博物館」(今は「赤レンガミュージアム」とも」)側が入り口になっている。KAさんはよくご存じで、運転手さんにそこで止めてもらわれ、ビックリ。4月に来た時のように正門から入れなくなっているのだ。

  👇 ポスター。「藤」の写真である。富山県氷見市多枯の浦の藤が舞台なので、高岡では素謡や仕舞のお稽古でも大切な曲である。この日は、宝生流宗家和英師がシテ(藤の精)を務められる。頭に藤の花をつけた天冠を頂き、藤の花模様の長絹着る。まず、青い松の枝にかかる藤の花の作り物が運ばれて…。

 👇もポスターの「能楽体験」の仕舞の写真。例年、「観能の夕べ」とセットで行われる。お囃子や仕舞の他に、狂言の体験もあるらしい。狂言体験に一度参加してみたいものだ。
 タクシーの運転手さんが「最近はアメリカ、ヨーロッパの観光客が多い」と言っておられたが、👇の写真からも伺える。

 7月末の「富山薪能」で、家元のシテで能「高砂」を見た。「高砂」は神舞。この日の「藤」は序ノ舞である。囃子は小鼓の住駒先生と太鼓の麦谷先生は「高砂」と同じ。が、この日は、笛が吉野晴夫先生、大皷は亀井洋祐先生。序ノ舞は遅いテンポなので合わせるのがさらに難しいのだろう。が、小鼓と大皷のよく響く澄んだ音色がピタリッと合って心地よかった。
 また、「藤」全曲の詞章がプリントされ配られてわかり易かった。短い曲(序ノ舞があるが、詞章は短い)だからか、どの能でも配布されるようになったのか? 以前、国立能楽堂やMOA能楽堂では見たことがあったが、鑑賞者にわかり易く見てもらうためにいいことはどんどん取り入れるべきだと思った。

 5時開演で、仕舞、狂言、能が一番ずつ、7時過ぎには終了となる。夏の夕涼みを兼ねての行事である。出羽町一帯の工事について、帰りのタクシーの運転手さんにまたまた質問した。
  👇は、能楽堂の正面だが、左手前に「旧第九師団司令部」と「旧偕行社」の古い建物が残っている。それを「歴史博物館」横へ移して……

 👇は完成予想図。そこへ「東京国立近代美術館工芸館」(千代田区)を移転させる計画だそうだ。

 👇は、出羽町一帯の完成イメージ。右横の”黄色の文字”は「県立美術館」。左横の”黄色の文字”は「県立能楽堂」。能楽堂の手前(写真では見えないが)一帯が近辺へ来た車の駐車場になるらしい。

 👇 能楽堂前の大駐車場。

 後でネットを探すと、次の記事が見つかった。 いつの間にか、このようなことが決まっていたとはオドロキ!

 「石川県立能楽堂」  ご利用にあたって
 ・
東京国立美術館工芸館移転に係る工事のため、正面入口から入場できません。

             歴史博物館側の通路からお入りください。(PDF:209KB) 

 ・能楽鑑賞等で石川県立能楽堂へ車(普通車)でお越しの皆様へ

      東京国立美術館工芸館移転に係る工事のため駐車場が使用できません。近くの石引駐車場(能楽堂から徒歩約3分)をご利用ください。石引駐車場の駐車券を事務室窓口に提示いただきますとサービス券(2時間無料券)をお渡ししています。大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。  石引駐車場をご利用される場合は、時間に余裕を持っていただきますようお願いいたします。
   東京国立近代美術館工芸館 移転整備工事は、文化庁、(独)国立美術館、石川県、金沢市において、「政府関係機関移転基本方針」(平成28年3月22日まち・ひと・しごと創生本部決定)に基づき、決定しました。
 建物は、金沢市出羽町にある、「旧第九師団司令部庁舎」と「旧金沢偕行社」を移転し外観を活用、完全復原される予定です。
 2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催期間中に開館することを目指しています。


小野文恵さんのルソン島への旅

2018-08-19 | 映画・テレビ・演劇・芸能

  「ためしてガッテン」や「鶴瓶の家族に乾杯」で名司会をされる小野文恵さん。彼女がルソン島を訪ねる番組の予告を聞き、すぐに録画した。

  昭和20年の終戦時、フィリピンルソン島では8カ月の間に20万人以上と言う最大の死者が出た。最近、アメリカでルソン島での日本兵死者の数を記録した極秘資料が見つかった。👇右の地図でオレンジ色の部分が死者の数を「点」で表したものである。

 

  👇は、小野文恵さんの祖父、景一郎さんの写真。34歳で亡くなられた。2種類の知らせの死亡日がが異なっていたそうだ。娘である、文恵さんのお母さんはいろんな所へ問い合わせたがわからなかった。「犬や猫じゃあるまいしね~。でもそんなご時世だった…」と寂しそうに笑っておられた。

 👇 お母さんは私より2歳下、昨年戦跡巡拝の旅に参加しておられる。私は一昨年、両陛下が訪ねられた年に2度目の巡拝の旅に加わったが、自分の父の参拝日の後3日目くらいから熱を出し、やっとの思いで日本に帰った。

  👇 戦地からお母さんへのカタカナのお便り。私も、私宛のカタカナの父の手紙を大事に持っている。

  マニラ市街戦の後、日本軍は北へ逃げバギオ(ここは今は避暑地で賑わっている)の南東辺りで戦いを続けていた。私の父は、そこまで行く途中のサンタマリアと言う場所で戦死との公報だったが、小野景一郎さんはバギオから東へ折れたツマウイニと言う場所だったようだ。

 

 👇 文恵さんとお母さんが遠くを指さしながら戦死の場所を確認しておられるのだろう。

  👇 慰霊祭のできる場所を見つけ、祭壇を作り、日本のお水やお酒を供えて、ロウソクとお線香を立て…。私たちもこんな風にしてお参りした。 

  👇 マニラに戻り、文恵さんは”イントラムロス”(サンチャゴ要塞)を訪ねたそうだ。16世紀スペイン統治時代城壁が巡らされていた所。スペインからの独立戦争のリーダー、ホセ・リサールが処刑されるまで幽閉された、と伝えられる。日本の植民地だった頃は、日本憲兵隊本部が置かれた。マニラ市街戦では、旧日本軍が反日的な住民をここに集め虐殺している。私は、2度目の巡拝の時最終日のマニラ観光でここを訪れた。まだ身体がふらついていたが、もう2度と来れないと思い、皆の跡をついて回り見学した。

  👇は、その時(2年前の2月)の旅行記です。 

 https://blog.goo.ne.jp/67kiyoh/d/20160220

 👇は、私の実家の墓石。側面に「故陸軍兵長 〇〇〇〇 昭和20年7月27日 フィリッピン呂宋島 サンタマリア ニテ戦死」と刻まれている。母の思いが込められている、と思っている。

 最後に、文恵さんは言っておられる。「祖父のこと、戦争のことが、ほんのちょっとわかってきた。もっと知り続ける、何か知っている方がおられれば行って話を聞く、ささやかなことだけど、そうし続けたいと思った。」


二上霊園と城端のお墓へ

2018-08-16 | 日記・つぶやき
 
お盆の前後
 お盆の二上霊園 8/14(日)、今日も猛暑日でしたね。息子がお盆に帰省しないとわかり(5月に娘夫婦とお墓参りはして行ったのだが)、二上山へは14日、城端へは15日......
 

 息子が8/5(日)、6日(月)に用事で来たので、お盆にお墓参りにもう一度、とも言えなくて、城端へは12日(日)早めに、二上霊園へは14日(火)に義妹とお参りに出かけた。
 目下、我が家の親戚では相談すること、話すことが山積みなのでランチを一緒にすることにして、10時過ぎに待ち合わせる。先月義弟のお骨を納めに行ったばかりなので、掃除もゴミ拾いと掃き掃除だけにした。義妹は墓石の汚れを擦ろうと束子を持って来てくれていた。

 お墓の前で、3番めの義弟の奥さんの実家家族にバッタリ。近くにいながらこんな所でしか会えない。姪御さん夫婦と子どもさんもおられ懐かしかった。二人目がお腹の中に、と羨ましい限りです…。私は初めて、義母が生前唱えていた法華宗のお経を経典を見ながら唱えた。知らない人ばかりなので気楽に…。月忌参りの時いつもお寺さんの後ろに座り聞いているのだが、自分で唱えるとなると…。練習してもう少し上手くなりたい。 

 15日は家で休養。
 16日に城端の分家回りに行った。折しも台風到来でものすごい雨。11時過ぎから雨はどんどん激しくなり、恐くて運転も慎重になる。
 友人二人とランチの約束をしていたが、ずいぶん遅れて着いた。ラーメンを食べてから「じょうはな織館(おりやかた)」に入り、たっぷりのコーヒーをいただきながらお喋り。ギャラリでは、西垣聡さんのガラスの器が並んでいた。京都亀岡市の生まれ、富山ガラス造形研究所を卒業された方である。金沢卯辰山工芸工房を終了後、南砺市で ”studio SHICHI” を設立、とある。

 👇 水指のような…。 お茶道具かな?

 👇 蓋置? 

 👇 手前はお棗? では、向こうの筒のようなのは? などと好き勝手な会話。

 👇 そうめん鉢とつゆ入れ?

 👇 吹きガラス、吹いたままの形?

 👇 シンプルな。実用的な白磁のよう…。

 小雨がまだ残っていたが、帰りにもう一度お墓に寄り、帰途についた。花や線香などの片づけは分家にお願いした。来年も8月早めに行って草刈りをしよう。隣の敷地の太くなった木は、根元から鋸で切ってしまえばいいかも…。


「旬楽さわ田」 旬楽膳 ”ほたる火”

2018-08-15 | 食物

  パソコンの調子が悪く、せっかく姫さんから借りたSDカードから「石崎奉灯祭」の写真がずっと取り込めずにいた。1週間余り借りっぱなしで諦めかけていたら、突然12時間の更新作業の末、不思議なことに直ったのです。

 お茶はずっとお休みだし、いつ返そうかと相談したら「ランチを一緒に」の案が成立した。8/13日、久しぶりの大門「さわ田」である。我が家は、例年どおり午前中はお寺の盆参り。その後のランチなんてちょうどいい按配だった。なはさんが予約してくださった。お盆のこととて予約でいっぱいだったらしい。

 その時は、食材や味付け、盛りつけで話が盛り上がったのだが、メモしなかったので今となれば何も覚えていない。お寿司の横は出し巻玉子。手前右は帆立だったかな?

  👇 ガラスの器の中は何だっただろう?ともかく涼し気、薄味であっという間にお腹の中へ。

 👇 いつものサラダです。ドレッシングが美味しい。

 👇 ズッキーニとこんにゃく?

 👇 茄子と大根の漬物。他に赤出汁とごはんです。

 7月は何かと重なり抜かしたので、この日は格別に味わっていただきました。外は相変わらずの猛暑。涼しさがご馳走でした。


ごみ袋大 3袋

2018-08-14 | 日記・つぶやき
 
らっきょう漬け & お墓掃除
 いつもこの季節になるとお手製の”らっきょう漬け”をくださる城端の同級生、Kunちゃん、私がなかなか城端まで取りに行かないものだから、同じ同級生のToyoちゃんの家に預けたと言われ......
 

 👆は、私の昨年のブログ。今年もラッキョウ漬けとお墓掃除の季節になった。ラッキョウ漬けは昨年のをまだ大事に残しているが…。お墓掃除は、今年は止める、とは行かない。

 千葉の友人のasaちゃんは、ほとんど東京で長女さんと一緒に暮らし、たまに船橋の次女さん宅のお手伝い。千葉の自宅へは月に何回戻るのか?…先日台風が千葉を直撃したとのニュースを聞き、心配で一昨日千葉へ戻ったそうだ。留守宅は雨風には耐えていたが庭の雑草がすごく、伸びに伸びた雑草と格闘し、大のごみ袋が3つもできた!と電話があった。「わが家は住人がいるけど伸び放題だよ!」と答えていた私だったが…。

 今年は早めに実家(城端)のお墓の草むしりに行った。今までは分家にまかせっきりで、お墓参りだけに行っていたのだ。が、お互いに年をとって来るとそうはいかない。鎌、草刈り鋏、箒、塵取り、大きなごみ袋を数枚、帽子に長袖シャツで出かけた。途中、切り花を買いに佐野の”あぐりっち”に寄ると花売り場は行列。明日、13日以降はテクノドームに移るそうだ。間に合ってよかった。

 城端のお墓は町の共同墓地にあり、いつもじょうはな座の横に車を止める。まず実家の墓へ。ここは周りが舗装してあるから草は生えない。が、隣の太い草木の枝が高く覆いかぶさり邪魔なので枝を払った。正面の蓮の花を彫った墓石が黒ずんでいるので束子で擦る。だいぶきれいになった。曇り日の涼しい日なので助かる。スッキリしたところで花を活けてお参り。

 さあ、これからが本番。
 毎年書いているかもしれないが、私の実家では後継者のいない墓を一つ守っている(田舎ではザラかもしれない)。私の祖母の兄で、満州で大金持ちだった大叔父さんが、戦後一文無しで引き揚げて来て私の母の世話になっておられた。奥さんと別れ、子どもいなかったので後継者がいないことに…。その大叔父さん(手の器用な方で学芸会の「金太郎の鯉」を作ったり、回り灯篭を玄関に下げたりして子どもたちを喜ばせてくださった)が亡くなった後、私も母と一緒に必ずお墓参りをしていた。古いがしっかりした墓である。ただその横に崩れた墓があり、周りは草木が茫々だ。木の枝が垂れ、蔓が絡まり、下には笹が生い茂っている。太い枝を鋏で切り、草を刈り、箒で履く。軽いが、大のごみ袋3個分になった。汗だく、ヘトヘト…。
 しかも、この辺りは墓地の奥なので通路も整備されておらず、他所の墓の敷地を上ったり下ったりしないと戻れない。掃除道具やバケツもあるし、2回に分けて入り口まで運ぶ。ごみ袋はそこへ並べて車をとりに戻る。急ぐことはないので、どうすれば、少しでも楽に仕事ができるか?考え、ゆっくりゆっくりとマイペースで…。

 ともかく予定していた仕事は済んだ。暑くもなく、雨も落ちず、ラッキーだったな~。途中砺波で一服した。帰宅後asaちゃんにメールをした。

 :あなたの一昨日の気持ち、よ~くわかりました! ちょっと達成感ですよ!!……
 asaちゃん:やったね  ノビノビとした雑草、ウチトッタリ~💦  今夜はぐっすり眠れるかも ご苦労さま


体験型ワークショップ「お能に親しむ」

2018-08-12 | 能楽
 
夏のわくわくワークショップ「能楽体験講座」
  まず👇のブログを開いてみてください。8年前に「高岡市青年の家」が主催した能楽体験講座の様子がわかります。当時この講座を体験したTOさん、MEちゃんが、今は謡や仕舞、太鼓のお稽古......
 

  👆は私の昨年のブログです。昨年初めて開かれた講座で、今年も7月27日(土)に行われた。私はちょうど相馬に旅行中。後でケーブルテレビの「地域ニュース」で1週間放送された映像を見たので、少し紹介します。
 👇は、江尻「市青年の家」3階の能舞台。

 👇 高岡市内の先生方による舞囃子「船弁慶」を鑑賞します。

 👇 小鼓の指導を受ける女の子たち。持ち方が堂に入っています。

 👇 太鼓の部屋。撥の動かし方を教わっているようです。

 👇 大皷の部屋。皮に当てた手が可愛らしい。

 👇 能舞台に上がり、仕舞のお稽古。扇子の持ち方を習っているようです。

 👇 いよいよ能面をつけて…。美しい面ですね。

 山崎先生の「高岡の能楽」についてのお話、子どもたちが笑顔でインタビューに応え、感想を話していました。私も参加しているような楽しい気分で見た番組でした。


七尾 石崎(いっさき)奉燈(キリコ)祭り

2018-08-11 | イベント

 「立秋」の一日前くらいから少し涼しくなった。高岡では、25日ぶりの降雨だった。まったく暑い夏だったなぁ。いや、まだまだ続くのかも。
 ここしばらくパソコンの調子がよくなかった。マウスでカーソルが動かないのだ。外して指でやれば動くがスクロールができない。もう新品を買わないとな~と思っていたら、突然画面が変わり、「更新中だから電源を切らないで」の表示が出た。しかし一向に進まない。結局翌朝までかかり、更新が済んだらしく以前通りうまく動くようになった。何を更新していたのだろう? まったくパソコンはわからない事だらけ…。
 と言うわけで、ようこ姫さんに借りていたSDカードから新しい写真が取り込められて嬉しくなる。

 昨年の今頃姫ちゃんのブログにアップされた「キリコ祭り」の記事がとても印象に残っていた。お茶のお稽古日に話題に上り、聞けば8月第1土曜日だそうだ。たくちゃんの運転で行くとのこと、即座に連れて行ってもらうようにお願いした。が、日が近づくにつれ、私の健康のことで息子が出張先から高岡に寄る話が持ち上がり、その日がなかなか決まらず「行く」「行かん」と変更を繰り返したが、結局4日夕方伏木出発と決定。 七尾で美味しいお寿司(まぐろ寿司)を食べる。

 さて、「石崎(いっさき)奉燈(キリコ)祭」とは、七尾湾に面する漁師町である石崎町(和倉の近く)で、毎年8月第1土曜に行われる、活気のある迫力満点のキリコ祭りのことである。高さ約15m、幅約3m、重さ約2tもあるキリコ。最大級のキリコを約100人の男衆が担ぎあげ、威勢のよい掛け声とともに町内を練り歩く。広場に集結した6基のキリコがお囃子にあわせて乱舞するクライマックスも必見!とのこと。昨年初めて見たたくちゃんと姫ちゃんの興奮した説明にも私はまだピンと来ない。

 👇 夜空に輝くキリコ。上ばかり見上げていたら、足元が大事なんだって? 

 かなり離れた道端に車を止め歩いた。街に近づくにつれ道の両側にボンボリガ並び、どの家も全て開放され宴会の様子が丸見え。どの家にも親戚知人が大勢集まると言う。昨年は二人とも金時さんと言うお宅に招かれたのだそう…。通りを歩いて、広場に着く。

 👇 左の青い幕の中にお神輿が置かれ、神主さんがおられる。右奥にはキリコが見え、人々の目は皆そこに集中している。私たちは手前のタクシー会社の建物の2階から見物させてもらった。

 

 👇 キリコの下に木枠があり、中に太鼓、鉦、笛などの囃子方が入る。笛方には子供たちもいるようだ。

  👇 そして一番下の男衆。肩に担いで、お囃子とかけ声に合わせ、足並み揃え歩いてキリコを運ぶ。車輪でに橇でもなく人足で。

 👇は、黄色組。お神輿の周りを息を合わせ勢いよく、何周も回った。広場とは言え狭いスペース、どこから角度を変え曲がるか、勢いがつきすぎると群集の中に突き進んでしまう。リズムが乱れるとそこから崩れ、キリコは傾きストップ。

 👇 角を曲がるところ。よく見ると一番外枠に若い屈強な経験者たち、中にも4重ほどに男たちの姿が見える。かけ声の途中で、♪さ~い♪ と持ち上げる時に人が交代するのだ。見事な技だ。

 町内によっては回らずに通過するキリコも…。
 夜中になってもまだ続く。遅くなるので途中で切り上げた。帰りの道すがら、休憩している高校生の担ぎ手に姫ちゃんがいろいろとインタビュー。それによると、キリコの動きは太鼓、笛、鉦によって統制され、太鼓が打たれるとそれに合わせ「サー、イヤサカサ」と担ぎ手の若衆からの掛け声と共に担ぎあげ、続いて囃しに合わせ「サッカサイ、サカサッサイ、イヤサカサー」の威勢の良い掛け声をあげながら進む。 文字で見てもわからないですね。

  最後に、ウイッキによると: 

 災難を乗り越え、今に受け継ぐ
 七尾市石崎町は七尾湾に面した活気あふれる漁師町。昔気質が今も残るこの町で、海の男達が一年に一度熱い血潮をたぎらせる祭りが石崎奉燈祭です。
 かつては石崎八幡神社の納涼祭りで、京都祇園祭りの流れを汲むといわれる山車が繰り出されていました。しかし、度重なる大火で山車を焼失し、中断を余儀なくされました。町が活気を取り戻した明治の中頃、奥能登の宇出津地区よりキリコを譲り受けたことを契機に、大漁や五穀豊穣の祈願とともに火を鎮める神事としたことから、「奉燈」を担ぐ灯籠神事として復活を遂げ、今の形がつくられたと言われています。

 威勢のよい掛け声が響き渡る
 奉燈(キリコ)は高さ15m、幅3m、重さは2tもあり、担ぐキリコとしては最大級。ねじり鉢巻き、さらしに地下足袋姿の約100人の男衆に担ぎ上げられ、「サッカサイ、サカサッサイ、イヤサカサー」と威勢のよい掛け声とともに町内を練り歩きます。
 奉燈の上からは、花編み笠に色鮮やかな浴衣姿の「小若衆」によるお囃子がにぎやかに鳴り響き、その笛や太鼓、鉦の音に合わせて男衆が大きな奉燈を狭い路地の軒をぎりぎりにかすめるように勢いよく担ぎ回します。統制のとれた小気味よい動きが見どころです。

 誇りと意地がかかった乱舞競演
 夕刻になると神輿のお涼み場所である「堂前広場」に6基の奉燈が勢ぞろい。神事を終え、あたりが夕闇に包まれるといよいよクライマックスです。奉燈の胴体部に記された「大書」と豪快な武者絵が闇の中に幻想的に浮かび上がります。
 太鼓がドーンと打たれると、掛け声とともに奉燈が担ぎ上げられ、続いて囃子に合わせて、乱舞競演が始まります。その勇ましさは、能登の荒海で鍛えられた男の迫力そのもの。漁師町の意地をかけ力強く乱舞する奉燈に、夜空の花火が彩りを添えると、さらに大きな歓声があがります。担ぎ手も観客も興奮の渦に呑み込まれていきます。

 写真はすべてようこ姫さんからお借りしました。ありがとう。


富山薪能’18&富山大空襲

2018-08-10 | 能楽
 
富山薪能 ’17
  富山薪能 ’16 富山薪能’15 「熊坂」  70年前の今日、8/2日未明に富山市が空襲を受けた。昨日、1日には「富山大空襲を語り継ぐ会」などが主催の集いが......
 

  👆は、昨年の私のブログです。
 今年は珍しい友人と一緒に行きました。合唱団MiTUで一緒だったKAさんです。彼女は今も合唱を続けておられ、お能を観たのは今年の瑞龍寺燭光能「阿漕」が初めてとか。その時「富山薪能」が富山大空襲の犠牲者を追悼する催しと聞き、ぜひ観たいと言われました。

 と言うのは、KAさんは当時(昭和20年8月2日未明)3歳、お父さんが不二越に勤務しておられ富山に住んでいた。空襲の直前に祖父母のいる福岡町に逃げて、命が助かったのだそうです。当時私は5歳、防空頭巾をかぶって水筒を持ち城端の家の背戸から真っ赤な空を眺めた記憶があるだけですから…。8月2日の「北日本新聞」、「富山新聞」などの地方紙記事からいくつか拾ってみました。

 「約3000人が犠牲になった1945年8月2日未明の富山大空襲から73年を迎えた1日、恒久平和を願う「富山市民感謝と誓いのつどい」が、富山市大手町の市民プラザで開催され、市民約260人が参列した。」

 「富山市などが1984年から毎年開催し、今年35回目。全員で黙とうをささげた。1945年8月2日未明の「富山大空襲」。富山市の市街地が焼き尽くされ、3千人近くが命を失った日から73年がたった1日。 」

 「あんどん千基、慰霊の灯 富山大空襲73年 2018/08/02 01:50: 富山大空襲から73年を迎えた1日、富山市内各地で慰霊行事が催され、参加者が犠牲者の冥福や平和を祈った。
 富山市の県護国神社では、万灯みたままつりが行われ、境内にあんどん約1千基が掲げられ、参列者は富山大空襲などで亡くなった2万8682柱の冥福を祈った。 

 さて、今年の「富山薪能」は:

 👆は、「火入れの儀」の後の狂言と能の番組だが、知り合いの方の仕舞を見たかったので、かなり早めに出かけた。
 お能は、有名な「高砂」。おめでたい時によく謡う「高砂や~」の小謡の個所と、舞囃子でよく見る神舞の個所しか知らないので、お能を観るのは初めて。まして、家元宝生和英師のシテと言うので楽しみにしていた。

 能「高砂」は世阿弥の神物。住吉(すみのえ)の松と高砂の松が夫婦であると言う伝説を素材とし、天下泰平、夫婦円満と長寿、和歌の徳を祝う曲になっています。
 👇は、それぞれネットから。前場。九州肥後の国の神主が、都に上る途中播州(兵庫県)高砂の浦を訪ねると、清楚な老人夫婦が現れ木陰を掃き清めている。

 後場。住吉明神の神体が神舞を舞う。

 地謡に出ておられた私の謡の師匠、山崎先生が「あんな素晴らしい『高砂』は初めて観た」と感激しておられたが、私のような素人にもシテの舞、囃子、地謡の呼吸のあった早いリズムと動きに身体が震えました。息を飲み、体を固くして見入り聴き入りました。太鼓は麦谷暁夫師です。

 👇は、観世流宗家、観世清和師の舞囃子「高砂」の動画です。待謡”高砂や~”から最後までです。太鼓は故観世元伯師です。ぜひ開いてみてください。

 https://www.youtube.com/watch?v=hi7RGDswPzU

 しばらくパソコンの調子が悪く、いよいよ買い換えようかが思っていました。昨夜突然更新が始まり、一晩中勝手に更新していたようです。今朝恐る恐る開くと、直っていました。また少しは使えそうです。


相馬(そうま)野馬追(のまおい)

2018-08-05 | 旅行

  まだ早い時期に誘われ決めた旅行。こんなに忙しい時期になり、体調も崩し、そしてこんなに暑い夏になるとは思いもよらなかった。が、「相馬野馬追」を見てみたいと言う強い気持ちで、マイペースで休み休みでも、との軽い気持ちで出かけた旅行です。
 7/28(土)出発の読売旅行ツアー、北陸新幹線で上越妙高駅下車、直江津観光のバスで最初の観光地が会津若松。猪苗代から蔵王に入り”アクティブリゾーツ宮城蔵王”ホテルで一泊。ロイヤルホテル系の立派なお部屋。温泉でひと休み。お風呂には各種ヘアシャンプー、コンディショナーがずらりと並び、好きなものを選びカップに入れて持ち運び、使う。よく宣伝しているデアボーテヒマワリを使ってみた。

 ようこ姫さんがこの旅行に誘ってくださったのだが、そのきっかけを聞き驚いた。数年前、高岡市北島に「ふく富」と言う食事処がオープンし、新聞や「市民と市政」にも紹介されたが、ご主人の三瓶さんは福島・双葉町の出身。東日本大震災で被災され高岡市へ移住して来られたと言う。
 一度ランチでも思いながら私はまだ行ったことがない。たまたまようこ姫さんが食事に行き、カウンターに置いてある「相馬野馬追」のパンフレットに気づいた。さっそくご主人に会い話を聞いたら、「自分も震災前は野馬に乗っていた、今年は震災前同様、全市、全町が参加する復旧後初めての行事だ、ぜひ見に行ってほしい」と語られたそうだ。

 👇 どこのSAだったか、東北震災・津波の展示コーナーがあった。津波の歴史も示してある。 

  

 「甲冑競馬」が行われる「南相馬市原町区祭場地」へ向う甲冑姿の騎手と馬。「お行列」の後か?

 👇 手前は観覧席。時間が早いので、まだ到着しない団体があり空いている。

 👇 「甲冑競馬」。観覧席から遠いのでハッキリしないが、若武者たちは兜を脱ぎ白鉢巻を締め、1000mのコースを一周する…。先祖伝来の旗指物をなびかせながら疾走する。10頭立てで10回行われる。

  👇 駆け抜け、一周し、勝負がついて戻って来るところ。 

   👇は、ネットから。甲冑競馬の様子。砂埃が舞う中を走り抜ける迫力あるシーン。

    

 👇 ネットから、動画です。

 https://www.youtube.com/watch?v=L11Q5g7WPPQ

 👇は、パンフレットから。
 ” 千有余年の歴史を経て、今なお息づく伝統の祭り~血湧き、肉躍る戦国のドラマ
 「相馬野馬追」は、今から千年以上も昔、相馬氏の遠祖とされる平将門が下総国(しもふさのくに)小金ヶ原(千葉県西部)に放した野馬を敵兵に見立てて軍事演習に応用したことに始まったと伝えられる。捕らえた馬を神馬として、氏神である妙見に奉納した。
 その後、相馬重胤が奥州(現・南相馬市)に移ってからも代々領主がこの行事を伝承した。

 今年は、7/28,29,30日の3日間にわたり、お行列、甲冑競馬、神旗争奪戦、野間懸が行われる。写真はないが、神旗争奪戦も面白かった。花火で打ち上げる色とりどりの神旗を馬を操りながら騎手が捕らえる競技である。

 見終わって帰途についた途中、二本松辺りでバスが故障し、直江津観光のバス二台を乗り継ぎ辛うじて最終の新幹線に間に合うと言うハプニングもあったが、台風の中とは言え晴れ間もあり、酷暑と雨に交代に見舞われながらの野馬追見物だった。


会津若松 鶴ヶ城・麟閣・毘沙門沼へ

2018-08-01 | 旅行

 まだ早い時期に誘われ決めた旅行。こんなに忙しい時期(義弟の葬儀など)になり、体調も崩し、そしてこんなに暑い夏になるとは思いもよらなかった。が、「相馬野馬追」を見てみたいと言う強い気持ちで、マイペースで休み休みでも、との軽い気持ちで出かけた。
 出発が遅い(8時台の)新幹線だったのも出やすかった。最近は駅までマイカーで行き、駐車場に止める。一泊600円で済みタクシー代よりも安い。ホントに便利な所に住んでいると今更ながらありがたい。

 読売旅行のツアー、北陸3県で30名の参加だそうだ。上越妙高駅で下車、直江津観光のバスに乗る。
 最初の観光地が会津若松。まず、鶴ヶ城公園へ。何度か行っているし(城内の展示は覚えていないが)、上るのはつらいので最初からお茶室だけ見たいと思っていた。

 👇 鶴ヶ城。

  難攻不落の名城とうたわれている。戊辰戦争で新政府軍の猛攻の前に籠城一ヵ月、城は落ちなかったそうだ。石垣だけを残して取り壊されたのが明治7年。 1384年、葦名直盛がはじめて館を築き、改修を経て天下の名城となったと言われる。
 大勢の人々の寄付により鶴ヶ城がよみがえったのは昭和40年9月のこと。平成23年春には幕末時代の瓦(赤瓦)をまとった日本で唯一の天守閣となった。平成27年4月、天守閣再建50周年を記念して、展示室が全面リニューアルされた。私が最後に入ったのはもう15年も前だから、新しい展示室が見られたのに、ちょっと残念。

 👇は、藤棚。春はさぞ見事だろう。何と言っても真夏の太陽のもと、空も緑の木々も美しい。 

 茶室「麟閣」の説明によると:
 天正19年、茶道の祖・千利休は、秀吉の怒りにふれ死を命じられました。その時の会津藩主・蒲生氏郷が、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子、少庵を会津にかくまい、家康と共に千家復興を秀吉に願い出ました。その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、宗左、宗室、宗守の3人の孫によって、表・裏・武者小路三千家が起こされ、今日の茶道の基礎が築かれました。「麟閣」は、少庵が会津にかくまわれている間、氏郷のために作ったと伝えられています。

 👇 待合。逆光でよく見えない。 

 👇 にじり口。

 👇 茶室全景(ネットから) 

 👇 抹茶一席 600円。氷が浮いている冷茶である。お菓子はじょうよう饅頭。

 裏磐梯 五色沼へ向かう。中でも最大の沼、毘沙門沼でひと休み。👇は船着き場。

 この日の宿泊は、遠刈田(とおがった)温泉、「アクティブリゾーツ宮城蔵王」。