昨年11/27~12/3の5泊6日の日程で、フィリピンへの「慰霊
友好親善訪問」の旅に参加した。これは戦争遺児を対象にした
もので平成3年から始まった事業だそうだ。
それまでも遺骨収集団や遺族の巡拝はいろいろな主催で行わ
れている。遺族も高齢化し、遺児すら高齢化して来ている。
戦争遺児は全国に約100万人、今まで1万人がこの慰霊訪問に
参加したそうだが、わずか1%だ。
私は三鷹に住む2歳下の弟と参加した。2,3年前から話し合って
いたが二人とも退職後、私はパートで、弟はフルタイムで勤務
していてなかなか日が合わなかった。ようやく実現した。
(マニラ港の夕日…マニラホテルより)
今年はフィリピンへ154名の過去最多の人数で、戦没地により
6班に分かれ、我々はC班、29名のメンバーでルソン島北部を
まわった。
マニラからサンタマリア、バギオ、ポンドック道、北サンフェル
ナンド、リンガエン湾、バンバン、クラーク、とそれぞれの父親
の戦没地で慰霊祭を行った。そこと思われる場所に祭壇を作り、
写真や郷土の食べ物を供え、一人一人が追悼文を読み、般若
心経を唱え、全員で焼香、献歌として「ふるさと」を歌う。日を
追うごとに、同じ体験を持つ者として気持がつながって行き、
父親が会わせてくれた29人の新しい友で今後も交流を深めよう
と言うことに。
(サンタマリア東北山地を見渡せる畑にて)
さて、帰国後県遺族会への報告もすませてから、電話があり
「参加者のつどい」で”ちょっと報告をしてほしい”と頼まれた。
どうせ我が子や親戚、友達に喋っていたのでその程度の感想
なら、供物料もいただいたし、責任は果たさないと、と引き受け
た。案内状を見ると30分もうけてある。スライドを使う人もある
とか。
お喋りでよければ、と再度、念押しをしたが、原稿くらい作ら
ないと、思いながら先延ばしをしていたら、ミュージカルや近所の
葬儀やと重なり、結局いつもの泥縄作戦。前日夜遅くまで走り
書きした。人前で話すことはもうほとんどないので緊張する。
当日、富山観光ホテルの会場は参加者が70名ほど。発表者は
井波の男性でトラック島へ慰霊に行かれた方と二人、私が話し
終わったら30分かかっていた。やはり、話したいことはいっぱい
あったからだろう。
懇親会ではたくさんの方が「ご苦労様」と労いのお酒を注ぎに
来られ、自分の場合は~へ、~年前はこうだった、2回目に訪問
する時は~するといい、など教えてくださり大もてだった。
一泊して朝食後、高岡で「マンマ・ミーア!」を見たことは
すでに書いたが、帰宅後県遺族会から電話が。ホテルの部屋に
「オレンジ色のTシャツの忘れ物があった」そうで、順番に電話
をかけている、と。
私:「それなら福野の○○さんだと思う。赤いような色物を
着ておられたから」
確信を持ってそう言って電話を切った直後、そう言えば私も
たまに人前で話すからと赤めのジャケットを着て、下にオレンジ
の長袖を、と気づき、バッグの中を探したがない。今年初の
失敗?月曜日、お菓子持参で取りに行ってきた。
私:「ご迷惑をかけすみません。自分が何を着ていたかも
忘れてしまい…」
職員のFさん:「たくさん持っておられるから…。」
とっさに返事ができなかった。こんな対応をしないといけない
のだ。