特待生と野球留学

「特待生」、「野球留学」、「アマチュアリズム」に焦点を絞って展開します。

プレイヤーズファースト

2007年04月30日 | アマチュアリズム

最初から指摘され続けていることですが、何が「アウト」で何が「セーフ」なのか、基準がはっきりしないのが特待生問題の混迷を深めています。

スポーツ特待制度 解釈めぐり混乱、疑問の声も
(産経新聞2007/04/30 00:30)
高校野球がこの制度を不可とする理由は(1)教育の一環としての活動を強調しており、未成年の野球部員に野球偏重の生活になるなどの弊害をもたらす恐れがある(2)高校関係者や第三者が中学生の勧誘に利用し、中学校の進路指導に悪影響をもたらす(3)野球を続けるために経済的援助を受けるのはアマチュアではなく、プロに相当する行為という認識がある-など。

(1)と(2)については、野球だけの問題ではないのですから、高体連とともに中学側と高校側でテーブルにつき、しかるべきルールをつくればいいわけです。今まで事実上黙認しておきながら、新年度が始まったばかりのこの時期に突然、掌を返したように「5月中に解約しろ」では収拾するはずがありません。

というより、そもそも高野連が高体連非加盟というのが、おかしな話です。同じ高校スポーツの団体ですが、「野球だけは特別」という発想があるわけです。「学生野球憲章」の前文を読めば、反吐が出るほどの思い上がりが見えてきます。

日本高等学校野球連盟>学生野球憲章
元来野球はスポーツとしてそれ自身意昧と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず非運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強健な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない。

「フェアな精神」も「明朗強靭な情意」も「強健な身体」も、学生野球だけの特権ではありません。プロだろうがアマだろうが、野球だろうが他の競技だろうが、そうなるときにはそうなるだけのことなのですが、彼らはこれを学生野球だけのものと信じていらっしゃるわけです。

この発想が(3)に連なります。結局、特待生問題とは“宗教”の問題なのです。彼らのなかには「野球で金をもらうのはプロ、プロは卑しいもの」という考え方が根底にあります。野球には統一組織がありません。プロはプロですし、アマはアマで多くの団体が分立しています。

昭和20年代はプロよりアマのほうが人気がありました。当時の新聞の縮刷版をめくってみると、東京六大学の結果を報じる紙面の片隅にプロ野球の記事があります。昭和30年代になって、この扱いが逆転するわけですが、アマがプロに飲み込まれないためには、何かプロとの違いを強調するしかなく、いわば組織防衛のために、その拠りどころを頑迷なアマチュアリズムに求めているだけのことです。

このアマチュアリズムという名の“宗教”は、ベルリンの壁が壊されたように他競技ではすでに有名無実化しているわけですが、(日本の)野球にはまだその残滓が根深く横たわっています。この特待生問題は、アマチュアリズムという名の“宗教”の「最後の抵抗」なのです。

さて、産経の記事には、05-06年のサッカー高校選手権(冬の国立)を制した山本佳司・野洲高校監督のコメントが掲載されています。「プレイヤーズファースト」は、川渕氏や田嶋氏もよく使っている言葉です。サッカーの指導者なら、知らない者はいないでしょう。野球ではまず聞きませんし、この発想はありません。

「プレイヤーズファースト」とは、読んで字の如し?であって、主催者や指導者や観客のためではなく、何よりも選手を第一義に考えるという意味です。野球にこの発想がないことは、たとえば試合前のメンバー表提出のとき選手名を書き間違って、その選手が試合に出場したら没収試合になるという、とんでもないルールの中によくあわられています(プロはこういうことが起こらないようなシステムになっています)。

プレイヤーズファーストという観点で考えるなら、年度中にいきなり「該当選手は出場停止」などはと言えません。「特待生にはあれやこれやの問題がある。今後われわれがきっちりしたルールを決めるから、そのルールを○年度から適用する」ということにしかなりません。

また、嶌信彦氏の「書面上で特待を解約させても、裏でお金を出すケースも起こり得る」という危惧は、誰もが抱いていることでしょう。拙速な処理は、闇特待を生むことになって、結果的には将来に禍根を残すだけです。